吾輩はベトベトンである。名前はベトちゃん。
実に嘆かわしい呼び名である。吾輩ももう二十年近くこの世に存在しているのだからもう少し威厳のある呼称を拝命したいものだが、我が主人は頑として「ベトちゃん」の一点張りである。しかも語尾に「ちゃん」が付くのみならず、「ベトちゃん可愛いでちゅねー」などという赤子言葉で話しかけてくるのだから、吾輩の品格も地に落ちたものである。
主人は中年の女性で、名をタナカ=エリコという。職業は不明である。というのも、彼女は一日の大半を吾輩の世話と、吾輩を「スターにする」という謎の活動に費やしているからである。
いつからこのような妄執に取り憑かれたのかは定かではない。しかし吾輩の記憶によれば、数週間ほど前にテレビ番組で「ブサカワポケモン特集」なるものを視聴したあたりから様子がおかしくなった気がする。
「……そうよ、ウチのベトちゃんには個性があるわ! この子は絶対にスターになれる!」
主人はそう叫ぶと、翌日から吾輩の「プロモーション活動」なるものを開始したのである。
……正直に申し上げよう。吾輩はスターになどなりたくない。ベトベトンとして生まれた以上、吾輩の本分は汚染された水域でひっそりと暮らすことである。決して人前に出て注目を浴びることではない。
吾輩の体からは常に悪臭が漂い、歩けばヘドロがボタボタと地面に落ち、触れたものは皆一様に汚染される。これは吾輩の責任ではない。ベトベトンとはそういう生き物なのだ。
しかし主人はそれを理解しようとしない。いや、理解はしているのかもしれないが、それを「個性」として受け入れ、むしろ「チャームポイント」だと主張するのである。
「ベトちゃんの香りは個性的なのよ! 最近は個性の時代だから、きっと受け入れられるわ!」
香り、である。悪臭を香りと呼ぶとは、主人の鼻は一体どうなっているのだろうか。
事件は先週の土曜日、タマムシシティで開催されたポケモン映画祭で起きた。
主人は早朝から張り切っていた。吾輩を浴槽で洗い(ベトベトンを洗っても意味がない。洗えば洗うほど吾輩の体から新たなヘドロが生成されるだけである)、なぜか首にピンク色のリボンを巻き、「今日はベトちゃんのデビューの日よ!」などと意気込んでいた。
映画祭の会場は、タマムシシティの中心部にある大型ショッピングモールの特設スペースである。入り口には「第15回タマムシポケモン映画祭」と書かれた華やかな横断幕が掲げられ、様々なポケモンを連れた家族連れで賑わっていた。
吾輩と主人が会場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
まず最初に反応したのは、入り口付近にいた若い母親とその娘である。娘は可愛らしいピカチュウを抱いていたのだが、吾輩の姿を見るなり「ママ、なにあれ……」と小声で呟いた。母親は露骨に顔をしかめ、娘の手を引いて吾輩から距離を取った。
次に、会場の受付にいた女性スタッフが、明らかに困惑した表情で主人に近づいてきた。
「あの、お客様……」
「はい、何でしょうか?」
主人は満面の笑みである。吾輩の存在が周囲に与えている影響にまったく気づいていない様子だった。
「その、ベトベトンさんなんですが……」
「ああ、ベトちゃんですね! 可愛いでしょう?」
スタッフの女性は言葉に詰まった。吾輩は内心で彼女に同情した。
どう見ても可愛くない。体高は150センチメートル以上あり、全身が紫色のヘドロで覆われ、小さな目と大きな口だけが顔らしきものを形成している。おまけに吾輩が立っているだけで、床には紫色のヘドロが広がり始めていた。
「実は、他のお客様から苦情が……その、匂いとヘドロのことで……」
「匂い? ああ、ベトちゃん特有の香りのことですね! 気になりますか?」
気になるに決まっている。吾輩の周囲10メートル以内の人間は皆、鼻を押さえているではないか。
「大変申し訳ないのですが、できれば外でお待ちいただけないでしょうか……」
ここで主人の表情が変わった。笑顔が消え、代わりにどこか悲しげな、それでいて強い意志を感じさせる表情になった。
「あの、実はですね」
主人は声のトーンを少し落とし、周囲に聞こえるような大きさで言った。
「私、某映画会社と共同で、ベトベトンを主役にした映画を企画しておりまして」
吾輩は内心で驚愕した。吾輩、そんな話は初耳である。
「このベトちゃんは、その映画の主役になる予定なんです。今日はその訓練の一環として、人に慣れさせるために連れてきたんですよ。撮影は来月から始まる予定で、すでにスポンサーも決まっていて……」
主人は堂々と嘘を並べ立てた。スタッフの女性は明らかに困惑している。映画の企画が本当かどうか確認する術もなく、かといってこのままベトベトンを会場に置いておくわけにもいかない。
「それは……そうなんですか。でも、やはり他のお客様のご迷惑になっておりますので……」
「映画のプロモーションにもなると思うんですけど。タマムシ映画祭で訓練した、なんて宣伝にもなりますよ? もちろん、映画の宣伝材料として、この映画祭の名前も使わせていただきますし」
主人の交渉術には一定の説得力があった。スタッフは上司に相談すると言って、一旦その場を離れた。
その間、吾輩の周囲はどんどん人が減っていった。半径15メートルほどが完全な空白地帯となり、まるで吾輩を中心に結界が張られたかのようだった。子供たちは遠くから吾輩を指差し、「くさい」「きもちわるい」などと容赦ない言葉を投げかけてくる。
吾輩はベトベトンである。人間の言葉の意味はわかる。しかし、それに傷つくことはない。なぜなら、彼らの言っていることは事実だからだ。吾輩は臭い。吾輩は気持ち悪い。それがベトベトンというポケモンなのである。
しかし主人は違った。
「なんてことを言うの! ベトちゃんはとっても可愛いのよ! あなたたち、ベトちゃんの良さがわからないなんて、まだまだね!」
主人は子供たちに向かって叫んだ。子供たちの親が慌てて近づいてきて(といっても吾輩から一定の距離は保ちながら)、謝罪しつつ子供たちを連れて行った。
やがてスタッフが戻ってきた。今度は上司らしき男性を伴っている。
「お客様、大変申し訳ございませんが……」
男性は丁寧な口調ではあったが、その目は断固とした拒絶の意志を示していた。
「映画の企画につきましては、後日、正式な企画書を提出していただければ、こちらでも検討させていただきます。しかし本日は、他のお客様への配慮として、ご退場いただけないでしょうか」
「でも、ベトちゃんは……」
「申し訳ございません。これ以上お断りさせていただくようでしたら、警備員を呼ばざるを得ません」
結局、吾輩と主人は会場から追い出されることとなった。入場してから、わずか15分後のことである。
会場の外に出ると、主人は悔しそうに唇を噛んでいた。
「ベトちゃん、気にしないでね。あの人たちは何もわかってないのよ。ベトちゃんの魅力を理解できないなんて、可哀想な人たちね」
主人は吾輩の体を撫でた。紫色のヘドロが主人の手に付着し、服にも染みを作った。しかし主人はそれを気にする様子もなく、笑顔で吾輩を見つめていた。
「次はもっと良い場所を見つけてあげるからね。ベトちゃんは絶対にスターになれるわ」
吾輩はため息をついた。もちろん、ベトベトンの吾輩にはため息をつく器官はないのだが、もしあったなら確実にため息をついていたであろう。
タマムシ映画祭からの追放劇の後、主人は一週間ほど意気消沈していた。吾輩としては、これで主人の妄想が終わり、平穏な日々が戻るかと期待していた。
だが、甘かった。
一週間後の金曜日の夜、主人は突然「わかったわ!」と叫んだ。
吾輩は主人の部屋の隅に置かれた特製の大型タライ(吾輩専用のベッドである)で休んでいたのだが、その叫び声に驚いて体を揺らした。揺らした瞬間、ヘドロが数滴タライの外に飛び散り、床を汚した。後で掃除しなければならない。主人がするのだが。
「ベトちゃん、私、わかったの!」
主人は興奮した様子で吾輩に近づいてきた。
「あのね、問題はベトちゃんの見た目だったのよ。大きくて迫力があるから、みんなびっくりしちゃったんだわ」
正確には、見た目と匂いとヘドロが問題だったのだが、主人の脳内では違う結論に達したらしい。
「だからね、ベトちゃんをもっと可愛く見せればいいのよ! それで思いついたの、ベビーカー!」
ベビーカー。吾輩は一瞬、自分の聴覚器官(もしあればの話だが)を疑った。ベビーカーである。人間の赤子を運ぶための、あの小さな車のことである。
「大型のベビーカーを買って、そこにベトちゃんを乗せるの! そうすれば、みんな『あら、ベビーカーに乗ってる、可愛い』って思うわ!」
思わない。絶対に思わない。150センチメートル以上あるベトベトンがベビーカーに乗っている光景を見て、可愛いと思う人間がいるとすれば、それは主人だけである。
しかし主人の決意は固かった。翌日、主人はインターネットで「超大型ポケモン用カート」なるものを注文した。本来はウィンディやバンギラスなどの大型ポケモンを運ぶためのものらしいが、主人はそれを改造し、吾輩が収まるサイズにすると言い張った。
数日後、そのカートが届いた。黒い布で覆われた、確かに大型のカートである。主人はそれをさらに改造し、サイドにはピンク色のリボンを付け、前面には「ベトちゃん号」という恥ずかしい名前を記したプレートを取り付けた。
「さあ、ベトちゃん、乗ってみて!」
主人に促され、吾輩は渋々カートに収まった。確かに吾輩の体はすっぽりと収まったが、問題がある。吾輩の体重である。ベトベトンの平均体重は30キログラムだが、吾輩は壮年のベトベトンであり、しかも主人の過剰な給餌により、優に50キログラムを超えている。
主人がカートを押そうとした瞬間、キャスターが悲鳴を上げた。
「あら、ちょっと重いわね。でも大丈夫!」
大丈夫ではない。明らかに大丈夫ではない。しかし主人は力を込めてカートを押し、なんとか動かし始めた。
「よし、明日はこれでライムシティのポケモンフェスティバルに行くわよ!」
吾輩は、新たな惨劇を予感した。
ライムシティのポケモンフェスティバルは、タマムシの映画祭よりも規模が大きく、より多くの来場者が見込まれるイベントだった。
ライムシティは国際的な大都市で、人間とポケモンが共生する先進的な街として知られている。会場は街の中央にある巨大なイベントホールで、屋内外の両方でイベントが開催される予定だった。
主人は朝から意気揚々としていた。吾輩をカートに乗せ、その上から薄いピンク色の布をかけた。
「これで完璧ね! ベトちゃんは赤ちゃんよ!」
赤ちゃん。吾輩は二十歳近いベトベトンである。どう見ても赤ちゃんではない。しかし布で覆われているため、外からは吾輩の姿は見えない。
……まあ、これはこれで良いかもしれない、と吾輩は思った。このまま会場内で静かにしていれば、騒ぎにならずに済むかもしれない。
その期待は、会場に到着して30秒で打ち砕かれた。
問題は匂いである。吾輩の悪臭は、布程度では防げない。それどころか、カートという密閉空間に閉じ込められたことで、より濃縮された悪臭が布の隙間から漏れ出していた。
「うわ、何この臭い……」
「どこから来てるの?」
「ちょっと、あのベビーカー……」
会場内を進むにつれ、周囲の人々がざわつき始めた。主人は構わず、「ベトちゃん号」を押して会場の中心部へと向かった。
会場には様々なブースが設けられており、ポケモングッズの販売やミニゲーム、ポケモンバトルの実演などが行われていた。主人が目指したのは、「ポケモン写真撮影会」のブースだった。プロのカメラマンが、来場者とそのポケモンの写真を無料で撮影してくれるという企画である。
「ここでベトちゃんの素敵な写真を撮ってもらいましょう!」
主人は列に並び始めた。しかし、吾輩たちの前後にいた家族連れが、次々と列から離れていった。理由は明白である。匂いだ。
やがて撮影の順番が来た。カメラマンは若い男性で、最初は笑顔で主人を迎えた。
「それでは、お子さんと一緒に……」
主人が布を取り除いた瞬間、カメラマンの笑顔が固まった。
「ベトちゃん、カメラ見てね!」
主人は吾輩をカートから降ろし、抱き上げようとした。吾輩の体からは大量のヘドロが滴り落ち、主人の服、カート、そして撮影用の背景ボードを汚染した。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
カメラマンが慌てて止めに入った。しかし時すでに遅し。撮影用の白い背景ボードには、紫色のヘドロの染みがくっきりと残っていた。
「申し訳ありません、ベトベトンの撮影は……」
「なぜですか? ベトちゃんだって写真を撮る権利があります!」
主人は憤慨した様子で抗議した。周囲に人だかりができ始めていた。
「いえ、そういうわけではないんですが、その、機材が……」
「機材の問題ですか? でしたら、清掃費用はお支払いします。ベトちゃんは某映画会社と共同で企画している映画の主役なんです。今日はその宣伝材料として、プロの方に撮影していただきたくて……」
またその嘘である。しかし今回は、周囲の人々も半信半疑の様子だった。
「映画? ベトベトンが主役の?」
「そうなんです。今、ポケモン映画の世界ではポリティカルコレクトネスの一環として、これまで主役になれなかったポケモンにスポットを当てる動きがあるんですよ。ベトちゃんは、その先駆けとなる存在なんです!」
主人の嘘は大胆になっていた。吾輩は内心、この嘘がいつかバレて大変なことになるのではないかと心配していた。
そこへ、イベントスタッフが数名駆けつけてきた。
「お客様、申し訳ございませんが、他のお客様から苦情が入っておりまして……」
「苦情? どのような?」
「その、匂いと、床が汚れていることについて……」
確かに、吾輩たちが通ってきた道には、紫色のヘドロの跡が点々と残っていた。清掃担当のスタッフが懸命にモップで拭いているが、ヘドロは通常の清掃では完全には除去できない。
「それは申し訳ありません。しかし、ベトちゃんは映画の主役として訓練中なんです。人混みに慣れさせる必要があって……」
「映画の件につきましては、こちらに事前にご連絡いただく必要があります。本日は突然のご来場でしたので、対応いたしかねます」
スタッフの対応は、タマムシ映画祭よりも厳しかった。そして、決定的な一言が放たれた。
「タナカ=エリコ様、ですね?」
「え? はい、そうですが……」
「実は、先日タマムシシティの映画祭の方から連絡がありまして。同様のトラブルがあったと。当イベントにも事前に情報が共有されておりました」
吾輩は驚いた。イベント間で情報を共有していたとは。主人も明らかに動揺していた。
「し、失礼な! トラブルだなんて! ベトちゃんは……」
「大変申し訳ございませんが、ご退場いただけますでしょうか。また、今後のライムシティ主催のイベントにつきましても、ベトベトンを伴ってのご来場はお断りさせていただきます」
出禁である。明確な、名指しでの出禁宣告である。
主人は言葉を失った。吾輩を抱えたまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「……わかりました」
最終的に、主人は小さな声でそう言い、吾輩をカートに戻した。会場を出る際、周囲の人々の視線が刺さった。好奇の目、非難の目、嫌悪の目。様々な視線が吾輩たちに向けられていた。主人は終始無言だった。カートを押す手が、わずかに震えていた。
吾輩は、これで主人も諦めるだろうと思った。しかし、この時の吾輩は、まだ主人の執念を甘く見ていたのである。
ライムシティでの出禁宣告から三日間、主人は部屋に引きこもっていた。食事もろくに摂らず、ただパソコンの画面を見つめている。吾輩は心配になり、主人の傍に寄り添った。主人の服がヘドロで汚れるが、主人は気にする様子もなかった。
「ベトちゃん……私、間違ってたのかな」
主人は初めて弱音を吐いた。
「みんながベトちゃんを嫌うのは、やっぱりベトちゃんが悪いんじゃなくて、私の見せ方が悪かったんだと思うの。でも、どうすればいいのかわからない……」
吾輩は、主人の手に自分の体の一部を這わせた。通常、ベトベトンに触れられることを嫌がる人間がほとんどだが、主人は違った。主人は吾輩の体を優しく撫で、微笑んだ。
「ありがとう、ベトちゃん。ベトちゃんはいつも優しいわね」
その夜、主人は突然立ち上がった。
「そうよ、ネットよ!」
吾輩は不吉な予感がした。
「リアルのイベントがダメなら、インターネットで発信すればいいのよ! 今はSNSの時代でしょう? ベトちゃんの動画をアップロードして、バズらせるの! そうすれば、映画会社の人の目にも留まるかもしれない!」
主人の目に再び光が戻っていた。吾輩は、これは止めるべきだと直感した。
しかし、ベトベトンに人間の言葉を発する能力はない。吾輩は人間のことは好きだし、主人のことは特に慕っている。だからこそ、主人が傷つくのを見たくはなかった。
しかし吾輩にできることは、ただ静かに主人を見守ることだけだった。翌日から、主人は吾輩の動画撮影を始めた。
「ベトちゃん、カメラ見て! そう、その調子!」
主人はスマートフォンのカメラを吾輩に向け、様々な角度から撮影した。吾輩は特に何もしていない。ただそこに存在しているだけである。しかし主人は「可愛い!」「最高!」と連呼しながら、興奮気味にシャッターを切り続けた。
撮影が終わると、主人は編集作業に取り掛かった。動画には「#ベトベトンの魅力」「#ポケモン」「#うちの子可愛い」などのハッシュタグが付けられ、「うちのベトちゃん、本当に可愛いんです! みんなにも知ってほしい!」というコメントとともに、複数のSNSにアップロードされた。
結果は、惨憺たるものだった。
動画の再生回数は伸びた。しかしそれは、主人が期待していた「可愛い!」という反応によるものではなかった。コメント欄には、以下のような書き込みが並んだ。
「うわ、きも」
「なんでベトベトン部屋に入れてんの? 臭そう」
「虐待じゃね? ポケモンは外で飼えよ」
「これ見てたら吐き気してきた」
「投稿者病気だろ」
中には応援してくれる人もいた。
「ベトベトンも愛されてて良かった」
「飼い主の愛情は伝わる」
しかし圧倒的に多かったのは、否定的なコメントだった。
主人は画面を見つめたまま、動かなくなった。その目には、涙が浮かんでいた。
「なんで……なんでみんな、わかってくれないの?」
主人は泣き崩れた。吾輩は、初めて主人のこんな姿を見た。
「ベトちゃんは世界一可愛いのに……私、間違ってないはずなのに……」
吾輩は主人の傍に寄った。そして、できる限り優しく、主人の頬に自分の体を擦り付けた。もちろん、主人の顔はヘドロで汚れた。しかし主人は、それを拭おうともせず、吾輩を抱きしめた。
「ベトちゃん……ごめんね。私のせいで、嫌な思いさせちゃって……」
違う、と吾輩は思った。吾輩は別に嫌な思いなどしていない。ベトベトンである吾輩が人間に嫌われるのは、当然のことだ。それは吾輩が生まれた時から決まっていたことで、誰のせいでもない。
しかし、主人が傷つくのを見るのは辛かった。
SNSでの失敗から一週間後、事態はさらに悪化した。
主人のもとに、一通の内容証明が届いたのである。送り主は、タマムシシティの映画会社だった。
件名はこうだ。
本文は、簡潔だった。要約すると、以下の通りである。
主人は真っ青になった。
「ど、どうしよう……嘘がバレちゃった……」
当然である。嘘はいつかバレる。吾輩は最初からそう思っていた。
しかし主人は、自分の行為の重大性をまだ理解していないようだった。
「でも、私は本当にベトちゃんを映画に出したかっただけなのに……なんで……」
主人は泣きながら、吾輩を見た。
「ベトちゃん、私……どうすればいいの?」
吾輩にはわからない。わからないが、一つだけ確かなことがある。
吾輩は、主人に愛されている。
そして吾輩も、主人のことが好きである。
ベトベトンというポケモンはこう見えて、人間を好む性格をしている。人間の街に住み、人間の出す汚染物質を好む習性からそのような淘汰が起こったのであろう、というのが巷の説であるが定かではない。
それはともかく、ベトベトンである吾輩もまた主人と長年暮らしてきた中で深い絆を築いてきた。主人は吾輩を決して見捨てなかった。吾輩の匂いにも、ヘドロにも、その醜い外見にも、一度も文句を言わなかった。
それどころか、「ベトちゃんは世界一可愛い」と本気で信じていた。
主人は、ただ吾輩のことを誇りに思っていた。世界中の人に、吾輩の良さを知ってほしかった。
それが間違った方向に進んでしまっただけなのだ。
数日後、主人は弁護士事務所を訪れた。吾輩も同行した。
事務所は古いビルの三階にあり、重厚な木製のドアには「タムラ法律事務所」という真鍮のプレートが掲げられていた。主人がドアを開けると、革張りの椅子と本棚に囲まれた、いかにも弁護士らしい空間が広がっていた。
「どうぞお入りください。ベトベトンも……そのまま、大丈夫です」
タムラと名乗る弁護士は初老の男性で、主人を見て、それから吾輩を一瞥した。その視線には嫌悪も拒絶もなく、ただ淡々とした観察があった。おそらくこの男性は職業柄、殺人犯から詐欺師まで様々な人間を見てきたのであろう。その経験からすれば、ベトベトンなど取るに足らない存在に違いない。
主人の説明が始まった。弁護士は黙って聞いていたが、その表情は次第に困惑の色を深めていった。無理もない。要するに主人は、映画の企画など存在しないと知りながら、それを口実に会場での滞在を試みたのである。法律に疎い吾輩でも、これが虚偽陳述という犯罪に該当する可能性があることくらいは理解できる。人間というものは、愛するもののためなら平気で嘘をつく生き物らしい。
「……つまり、タナカさんは映画の企画など実際には存在しないことを承知の上で、各イベント会場でそのように主張されたわけですね?」
「はい……でも、私は本当にベトちゃんを有名にしたくて……」
弁護士は深いため息をついた。その溜息には『なぜこんな馬鹿げたことを』という呆れと、しかし同時に、どこか同情めいたものも含まれているように聞こえた。
「お気持ちはわかりますが、これは明確な虚偽陳述です。映画会社の名誉を傷つけた可能性もあります。幸い、先方はまだ訴訟を起こしてはいませんが……正直に申し上げて、かなり厳しい状況です」
主人は俯いた。吾輩は主人の足元でじっと動かないようにしていた。これ以上ヘドロで事務所を汚すわけにはいかない。
「タナカさん、失礼ですが……なぜそこまでしてベトベトン、いや、ベトちゃんを有名にしたかったんですか?」
弁護士の問いに、主人はしばらく黙っていた。吾輩は、主人の答えを既に知っていた。何度も何度も聞いてきた言葉だ。
「……ベトちゃんは、誰からも愛されないポケモンなんです。臭いし、汚いし、見た目も……でも、私にはベトちゃんが世界で一番可愛く見えるんです」
主人は吾輩を見下ろした。その目には涙が浮かんでいた。
「だから、他の人にもベトちゃんの良さをわかってもらいたかった。ベトベトンのベトちゃんだって、ピカチュウやイーブイと同じように愛される資格があるって……証明したかったんです」
吾輩は、愛される資格などというものがこの世に存在するのか甚だ疑問である。ピカチュウやイーブイが愛されるのは可愛いからであり、ベトベトンである吾輩が嫌われるのは汚くて臭いからである。それだけの話だ。主人の言う「資格」とは一体何を指すのか。しかし人間というものは、こうした観念的な言葉を弄ぶのが好きな生き物であった。
弁護士は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「……私にも娘がいましてね。若い頃、娘が学校で『お父さんの仕事は悪い人の味方』って言われて泣いて帰ってきたことがあるんです」
唐突な話に、主人は顔を上げた。
「その時、私は娘に何も言えなかった。確かに私は、時には加害者の弁護もする。でもそれが仕事だから……そう自分に言い聞かせていました」
唐突な告白である。吾輩は、この弁護士がなぜこのような私事を語り始めたのか興味を持った。
弁護士は眼鏡をかけ直した。
「タナカさん、あなたのやったことは軽率でした。しかし、その動機は……少なくとも、私には理解できます」
主人の目に、希望の光が灯った。
「何か、方法があるんですか?」
「わかりません。しかし……」
弁護士は立ち上がり、書棚から何冊かのファイルを取り出した。
「ここ数日、気になっていたニュースがあるんです。環境省が何か発表するらしいという話を耳にしまして」
弁護士はパソコンを操作し、環境省のウェブサイトを開いた。
「ほら、これです。『都市型ポケモンの生息状況に関する緊急報告』。明日の午後に記者会見があるようです」
「都市型ポケモン……?」
「ベトベターやドガース、ヤブクロンなど都市に住むポケモンのことです」
吾輩の同族の話である。吾輩はこれまで、自分以外のベトベトンのことをあまり考えたことがなかった。主人と暮らす日々に満足し、外の世界の同族がどうなっているかなど、気にも留めていなかった。今にして思えば、吾輩はまことに利己的なベトベトンであった。
「実は先週、別の案件で環境行政の担当者と話す機会があったんですが、その時に『都市型ポケモンの個体数激減が深刻化している』という話を聞いたんです」
個体数激減。吾輩の同族が減っているということらしい。
弁護士は主人を見た。
「タナカさん、ベトちゃんの健康状態は良好なんですか?」
「ええ」
主人は吾輩を見下ろした。
「ウチの周りには、まだ古い下水管とか、不法投棄とかがあって……ベトちゃんの餌には困ってないんです」
確かに吾輩は恵まれていた。主人の家の周辺には、まだ吾輩が食べられる汚染物質が豊富にあった。古い工場、放置された廃油、不法投棄されたゴミ。人間が嫌がるものが、吾輩の糧である。皮肉なものだ。
弁護士は何かメモを取り始めた。
「もし明日の発表が私の予想通りなら……いや、まだわかりません。ただ、可能性はあります」
「可能性……?」
「タナカさん、正直に申し上げます。現状では、謝罪と和解金の支払いで済めば御の字です。しかし、もし状況が変われば……あなたの行為を『軽率だが、善意に基づくものだった』という文脈で語れるかもしれません」
弁護士は慎重に言葉を選んだ。
「ただし、それは環境省の発表次第です。明日の記者会見を見てから、改めて戦略を練りましょう。今夜は、このベトベトンの飼育記録を全て整理しておいてください。餌の内容、健康状態、全て記録してください」
「はい……でも、それが何の役に……」
「タナカさん、弁護士の仕事というのは、依頼人に有利な『物語』を構築することなんです。事実は変えられませんが、その意味は変えられる。あなたが二十年間ベトベトンを飼育してきたという『事実』は変わりません。しかし、それが『ただのペット愛好家の行為』なのか、『希少種の保護に貢献した行為』なのか……状況次第で、意味は変わるんです」
物語、である。吾輩の存在が、『物語』として語り直されようとしているらしい。二十年間、ただ主人と暮らしてきただけの吾輩が、何か別の意味を持つ存在として再定義される。人間というものは、実に器用に物事の意味を作り変える生き物である。
弁護士は、初めて小さく笑った。
「私も弁護士人生三十年ですが、ベトベトンを弁護することになるとは思いませんでした。娘に話したら、笑うでしょうね」
事務所を出る時、吾輩は振り返った。床には、吾輩が落とした一滴のヘドロの染みが残っていた。弁護士は、その染みを見て、何か考え込むような表情をしていた。人間の表情というものは、実に複雑である。
翌日の午後、主人と弁護士は事務所のテレビで環境省の記者会見を見守っていた。
吾輩も同席していた。今日は朝から何も食べていない。主人が緊張しているのが見て取れたからだ。吾輩が餌を食べれば、その分ヘドロが生成される。些細な配慮ではあるが、吾輩にできることはこれくらいしかない。
環境省の担当官が壇上に立ち、資料を配布した。
〈本日は、都市型ポケモン、特にベトベトンおよびドガースの生息状況について、緊急の報告をさせていただきます〉
画面には、グラフが映し出された。急激に減少する個体数の推移。吾輩は、画面に釘付けになった。グラフの線は、まるで崖から転落するように、右下に向かって落ちていた。
〈近年の環境保全活動の成果により、都市部の汚染が大幅に改善されました。これは喜ばしいことです。しかし……〉
次のスライドには、やせ細ったベトベターの写真が映された。
吾輩は、その写真を見て驚愕した。写真の中のベトベターは、吾輩が知っているベトベターとは似ても似つかなかった。本来、ベトベターは丸々とした体型で、ヘドロが豊富に体表を覆っているはずだ。しかし写真の個体はやせ細り、体表のヘドロも乾燥してひび割れていた。目は虚ろで、生気が感じられない。同族が飢えている。この事実は、吾輩にとって衝撃であった。
〈汚染物質を主食とするこれらのポケモンは、深刻な飢餓状態に陥っています。本日、政府はベトベターとベトベトンを準絶滅危惧種として保護対象に指定することを決定いたしました〉
準絶滅危惧種。吾輩のような、誰からも嫌われる存在である我々が、「保護」されるべき対象だという。世の中、実に不可解なことが起こるものである。
〈アローラ地方での研究により、ベトベトンは単なる『汚いポケモン』ではないことがわかりました。彼らは都市の環境浄化において、重要な役割を担ってきました。しかし我々は、その価値に気づくのが遅すぎたのです〉
画面には、健康なベトベトンと、やせ細ったベトベトンの比較写真が並んだ。健康な個体の方は、吾輩と同じくらいの体格で、紫色のヘドロが豊富に体を覆っている。対照的に、やせ細った個体は、まるで干からびた植物のように、生命力を失っていた。吾輩は、運が良かったのである。
テレビの会見が終わったあと、弁護士は立ち上がった。
「タナカさん、戦略が見えてきました。今から映画会社に連絡を取ります。和解交渉の場を設定してください」
「でも、何を……」
「あなたは二十年間、誰もが見捨てるベトベトンを飼育し続けました。それは今や、『希少な健康個体を維持してきた保護活動』として評価され得るんです」
弁護士は主人の肩に手を置いた。
「もちろん、あなたの行為は軽率でした。それは謝罪すべきです。しかし、その背景には深い愛情があった。そして結果的に、あなたは種の保存に貢献していた。この『物語』なら、相手も受け入れやすい。少なくとも、法廷闘争よりは」
主人は吾輩を見た。吾輩は、相変わらずヘドロを垂らしながら、そこにいた。
「ベトちゃん……」
「タナカさん」
弁護士は真剣な表情で続けた。
「ただし、これは諸刃の剣です。この戦略を使えば、おそらく法的な問題は解決できるでしょう。しかし、そうなれば、あなたとこのベトベトンは再び注目を浴びることになります。メディアが来るかもしれない。環境省や研究機関から協力要請が来るかもしれない」
「それは……」
「あなたが本当に望んでいたことなのか、よく考えてください。今なら、まだ謝罪と和解金だけで済ませる選択肢もあります」
主人は長い間、黙っていた。
一週間後、主人は映画会社との和解交渉の場にいた。
会議室は無機質で、大きなテーブルの向こう側には映画会社の法務担当者と上司らしき人物が座っていた。彼らの表情は硬く、吾輩たちを見る目には明らかな警戒の色があった。当然である。虚偽の情報で会社の名前を使われたのだから。
吾輩は、会議室の隅に身を置いた。今回は主人が事前に敷いてくれた防水シートの上に座っている。それでも、吾輩の悪臭は部屋中に充満し、映画会社の人々は露骨に鼻を押さえていた。申し訳ないと思う気持ちはある。しかし、これが吾輩なのだから致し方ない。
弁護士が口を開いた。
「本日は、お忙しい中お時間をいただき、ありがとうございます。まず、タナカ=エリコの行為について、深くお詫び申し上げます」
主人が深々と頭を下げた。
「私の軽率な行動により、貴社に多大なるご迷惑をおかけしました。映画の企画が存在しないにもかかわらず、貴社の名前を無断で使用したことは、弁解の余地のない過ちでした」
主人の声は震えていた。人間が謝罪する時の声というものは、このように震えるものらしい。
映画会社の法務担当者は、主人の謝罪を黙って聞いていた。その表情は、少しだけ和らいだように見えた。
「しかしながら」
弁護士が続けた。
「タナカ氏の行為の動機と、その結果的な意義について、ご説明させていただきたいと存じます」
弁護士は、用意していた資料を配布した。
「タナカ氏は過去二十年間、誰もが忌避するベトベトンを献身的に飼育し、その健康を維持してきました。近年、多くのベトベトンが餓死する中、タナカ氏のベトベトンは希少な健康個体として、環境省からも注目されています」
映画会社の法務担当者は、資料に目を通していた。
資料には、環境省の記者会見の内容、ベトベトンの個体数減少のグラフ、そして吾輩の健康診断書が含まれていた。主人が慌ててポケモンセンターに依頼したものである。
「確かに……環境省の資料によれば、民間で飼育されている健康なベトベトンは、全国でも数十匹しかいないと」
「その通りです。タナカ氏の行為は、確かに軽率でした。しかし、その動機は純粋にベトベトンへの愛情からくるものでした。そして今、その愛情こそが、種の保存において重要な意味を持つことになったのです」
吾輩は、「種の保存」という言葉に違和感を覚えた。吾輩は、そのような大層な目的のために飼育されてきたわけではない。主人は、ただ吾輩のことが好きだから、一緒にいたのだ。しかし今、その単純な事実が、「種の保存」という立派な物語に書き換えられようとしている。
弁護士は続けた。
「むしろ、貴社にとっても、これは好機ではないでしょうか。『環境の守護者、ベトベトン』というテーマは、まさに今、社会が求めているメッセージです」
吾輩はデジャヴを感じた。主人が「ベトちゃんを映画にする」と言っていた時と同じ空気である。ただし今回は、弁護士という専門家が、より巧妙に、より説得力を持って、同じことを語っている。人間の言葉の技術というものは、実に興味深い。
映画会社の法務担当者は、上司らしき人物と目配せをした。
「……検討させていただきます」
それから二週間、主人のもとには連日、様々な人々が訪れた。
環境省の職員。若い女性で、丁寧な言葉遣いだったが、その目は吾輩ではなく、主人を見ていた。
「タナカ様のベトベトンは、保護繁殖プログラムの基礎個体として最適です。ぜひご協力を」
『基礎個体』とは、実に味気ない呼び名である。吾輩は道具ではない。
セキチクシティのサファリゾーンの飼育員。中年の男性で、ポケモンへの愛情が感じられる人物だったが。
「展示プログラムで、来園者に環境とポケモンの共生について学んでもらいたいのです」
展示、である。吾輩は見世物になるらしい。かつて主人が望んでいたことが、皮肉な形で実現しようとしている。
メディア。カメラを抱えた若い記者が、興奮気味に語った。
「『嫌われ者』から『絶滅危惧種』へ。ベトベトンの数奇な運命を取材させてください」
数奇な運命。吾輩に、そのようなものはない。ただ、主人と暮らしてきただけだ。人間は何でも物語にしたがる。
研究者。白衣を着た初老の男性が、専門用語を並べ立てた。
「ベトベトンの消化機能を解明できれば、新たな汚染物質処理技術につながる可能性があります」
吾輩の体は、研究対象になるらしい。科学の進歩のためなら、吾輩の尊厳などどうでもよいということか。
そして、映画会社。スーツを着た若い男性が、企画書を広げた。
「企画、通りました。『都市型ポケモンたちの記録』。タナカ様のベトベトンを主役に、ドキュメンタリー形式で」
念願の映画の企画である。かつての主人なら飛び上がって喜んだことだろう。
しかし主人は、その企画書を見つめたまま、長い間黙っていた。
「……少し、考えさせてください」
主人は、全ての訪問者に同じ答えを返した。人間というものは、時として実に慎重な生き物である。
訪問者たちが帰った後、主人はリビングのソファに座り、吾輩を抱き上げた。吾輩の体から滴るヘドロが、ソファを汚す。しかし主人は気にしなかった。
「ベトちゃん……ごめんね」
主人は小さな声で言った。
「私、間違ってたわ」
主人の目から、涙が一筋流れた。
「私は、ベトちゃんを有名にすることが、ベトちゃんのためだと思っていた。でも、本当は違ったのね」
人間というものは、時として自分の過ちに気づくことができる生き物らしい。それは一つの美徳であろう。
「ベトちゃんは、ただ静かに暮らしたかっただけなのに、私が勝手に振り回していた」
吾輩は、主人が何かを悟ったことを感じた。
「でもね、私、やっぱりベトちゃんのことが大好きなの。世界一可愛いと思ってる。それだけは、変わらない」
主人は吾輩を抱きしめた。紫色のヘドロが主人の服を汚したが、主人は気にしなかった。
「これからは二人だけで静かに暮らしましょう。他の人にベトちゃんの良さがわからなくても、私がわかっていればいいんだもの」
吾輩は、主人がようやく正気を取り戻したことを喜んだ。遅いが、遅すぎることはない。人間の学習能力には時間がかかるものだ。
その夜、主人は全ての訪問者に丁重な断りのメールを送った。環境省にも、サファリゾーンにも、メディアにも、研究機関にも。そして、映画会社にも。
吾輩は、主人がパソコンに向かう後ろ姿を見ていた。主人は、夢を諦めた。吾輩を映画の主役にするという夢を。しかし同時に、主人は何か大切なものを見つけたのであろう。人生とは、何かを得るために何かを失うものらしい。
翌日、主人は映画会社との最終的な和解を成立させた。謝罪と、少額の和解金の支払い。それだけで、問題は解決した。
弁護士は、主人の決断を聞いて、小さく笑った。
「タナカさん、正しい選択だと思いますよ」
「でも、先生が用意してくださった戦略を使わなくて……」
「いいんです。弁護士の仕事は、依頼人の望む結果を得ることです。あなたが望んだのは、ベトベトンとの静かな生活だった。それが守られるなら、それが最良の結果なんです」
弁護士は吾輩を見た。
「ベトちゃん、よかったですね。良い飼い主をお持ちだ」
吾輩はこの弁護士を見直した。なかなか分別のある人間である。
それから数カ月、吾輩と主人は穏やかな日々を過ごした。
「ねえ見て、ベトちゃん、池を作ったのよ! ほら、あなたの好きなヘドロの池!」
主人は家の裏庭に、吾輩専用の小さな池を作ってくれた。水は吾輩のヘドロで汚濁に染まっているが、それでよい。吾輩はベトベトンなのだから。
吾輩は池に入り、久しぶりに体を伸ばした。ベトベトンは本来、こうして汚染された水の中で過ごすのが最も心地よいのだ。実に快適である。
主人は毎日池のほとりに椅子を置いて座り、本を読んだり、ぼんやりと空を眺めたりしている。時々、吾輩に話しかける。
「ね、ベトちゃん。今日はいい天気ね」
「昨日、スーパーで安い野菜を見つけたのよ」
「来週は、ちょっと遠出してみようかな。もちろん、ベトちゃんも一緒よ」
他愛もない話だ。しかし、これが吾輩と主人の、新しい日常となった。
ある日、主人が言った。
「ベトちゃん、私ね、ブログを始めたの」
吾輩は少し緊張した。また何か始めるのかと思ったのである。
「でも、今度は違うの。ベトちゃんを有名にしようとかじゃなくて、ただ、ベトベトンと暮らす日常を書いているだけ。読んでくれる人は少ないけど、たまにコメントが来るのよ」
主人はスマートフォンの画面を吾輩に見せた。
画面には、主人のブログのコメント欄が表示されていた。
「ベトベトンと暮らすって大変そうだけど、愛情が伝わってきます」
「私もマイナーなポケモンを飼っています。共感できる部分が多いです」
「次の更新も楽しみにしています」
主人は嬉しそうに笑った。
「ね、ね、わかってくれる人もいるのよ。少ないけど、確かに存在するの。それで十分なのよね」
主人は変わったのである。
かつて主人は、「みんな」という得体のしれないわけのわからないものに認めてもらいたがっていた。しかし今は、「誰か」に届けばいいと思うようになった。それは小さいが、重要な変化である。人間の成長というものは、時として実に緩慢であるが、確実に進むものらしい。
映画の企画は、吾輩たちとは無関係のまま進んだらしい。
数か月後、ドキュメンタリー映画『都市型ポケモンたちの記録』は、吾輩と主人がまったく関わらないまま公開となった。
主人は、映画館でその映画を見に行った。吾輩は留守番だった。映画館に連れて行かれても、他の観客の迷惑になるだけである。
「ベトちゃん……良い映画だったわ」
主人は吾輩を抱きしめた。
「ベトベトンのこと、ちゃんと描いてくれてた。嫌われ者だって、バカにされるって、でもそれでも生きているって……」
主人の語るところによれば、公開された映画にはベトベターやベトベトン、ドガースやマタドガス、ヤブクロンにダストダス、吾輩と同じ嫌われ者のポケモンたちの日常が丁寧に記録されていたらしい。
朝、近所の古い工場から出る廃液や排ガスを食べる場面。ゴミを求めて街をさまよう様子(人通りの少ない早朝、人々がポケモンたちを避ける様子も含めて)。
また映画は批判的なシーンもカットしなかった。通行人が鼻を押さえる場面。子供が「くさい」と言う場面。
そして、環境省の資料映像。やせ細った野生のベトベトンたちが映される。
直接はまだ見ていないが、ナレーションはこう締めくくったという。
「ベトベトンは、人間の作り出した汚染の申し子である。そして、その汚染を無言で浄化し続けてきた。人間が彼らを『汚い』と罵る間も、彼らは黙々と、都市の毒を体内に取り込み、分解してきた」
「しかし今、環境が改善された。それは喜ぶべきことだ。だが、その代償として、ベトベトンたちは飢えている」
「私たちは問わなければならない。『清潔』とは何か。『美しさ』とは何か。そして『価値』とは、誰が決めるのか……?」
映画『都市型ポケモンたちの記録』は、小規模な上映から始まった。
最初は、環境問題に関心のある層だけが見に来た。
しかし、口コミで評判が広がった。
「泣いた」
「考えさせられる」
「自分の価値観を見直した」
映画は賞を取った。環境映画祭で最優秀作品賞。ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞。
結局、吾輩たちとは何ら関わりのないところで進んだ話ではあるが、映画のおかげだろうか、一つだけ変化があった。散歩中に時々、人々が声をかけてくるようになったのだ。
「あの、映画見ました」
「ベトベトン、初めて近くで見ました。思ったより……」
「臭いですけど、でも、なんか、健気ですね」
主人は微笑んで答えた。
「ええ、ベトちゃんは頑張ってるんです」
吾輩は、別に頑張っているつもりはない。ただ、生きているだけだ。しかし人間の目には、それが「頑張っている」ように見えるのであろう。人間は、意味を見出すのが好きな生き物であるらしい。
ある日、主人のブログを読んだというトレーナーが、実際に吾輩たちに会いに来た。そのトレーナーは、クサイハナを連れていた。クサイハナも悪臭を放つため嫌われがちなポケモンである。
「ベトちゃん、大きいですね!」
若いトレーナーは、吾輩を見て驚いた様子だったが、嫌悪感はなかった。
「うちのクサイハナも、よく臭いって言われるんです。でも、可愛いですよね」
主人は嬉しそうに頷いた。
「わかります! ベトちゃんも、本当に可愛いんですよ!」
二人は意気投合し、しばらくポケモン談義に花を咲かせていた。
吾輩は、その光景を見ながら、クサイハナと目を合わせた。クサイハナも、吾輩を見ていた。同じ嫌われ者同士、通じるものがあるのかもしれない。世界には、吾輩たちのような存在が、きっと他にもいるのだろう。そして、それぞれに、愛してくれる誰かがいるのだろう。
あれから一年が経った。
吾輩は相変わらずベトベトンである。悪臭を放ち、ヘドロを垂らし、見た目も決して美しくはない。これは変えようのない事実である。
しかし、吾輩には主人がいる。主人は、吾輩のことを「ベトちゃん」と呼び、我が子のように愛してくれる。その愛情は時として度が過ぎることもあったが、今は適度な距離感を保つようになった。人間の学習能力というものは、やはり興味深い。
先日、主人のブログに、こんなコメントが寄せられた。
「ベトベトンを飼うことを検討しています。タナカさんのブログを読んで、勇気をもらいました」
主人は、そのコメントを何度も読み返していた。そして、丁寧な返信を書いた。
「ベトベトンとの生活は、正直、大変です。臭いし、汚れるし、周りの目も厳しいです。でも、それ以上に、愛おしいんです。もしあなたが本気で、その大変さも含めて受け入れられるなら、きっと素晴らしいパートナーになってくれると思います」
実に適切な助言である。主人は、ようやく現実を直視できるようになったのだ。
吾輩は、池の中から主人を見上げた。主人は椅子に座り、本を読んでいる。時々、ページをめくる音が聞こえる。穏やかな午後の光が、主人の顔を照らしている。
……吾輩は映画スターにはならなかった。イベントにも出禁になった。SNSでバズることもなかった。
しかし、それでいいのだ。
吾輩には、愛すべき主人がいる。そして、静かに暮らせる家がある。小さな池がある。時々訪れる、理解者たちがいる。
夕暮れ時、主人が池のほとりにやってきた。
「ベトちゃん、ご飯の時間よ~」
主人は、バケツに入った汚染水を池に注いだ。吾輩の大好物である。
「今日はね、ちょっと遠くまで行って、いい汚染水を見つけてきたの。ベトちゃん、きっと気に入ると思うわ」
吾輩は、その水に体を浸した。確かに、良質な汚染だ。適度に重金属が溶け込み、有機物も豊富に含まれている。主人の目利きは確かである。
「美味しい? よかった」
主人は満足そうに笑った。
空が橙色に染まり始めた。一日が終わろうとしている。
明日も、同じような一日が来るだろう。特別なことは何も起こらない。ただ、主人と吾輩が、静かに暮らす一日。しかし、それこそが、吾輩の望んでいた暮らしなのである。
吾輩はベトベトンである。名前はベトちゃん。相変わらず恥ずかしい名前だが、もう慣れた。
そして吾輩は、まあ、幸福と言えば幸福である。