スフィア王国において王室である行政府と宗教である拝月教は両輪である、と証言するものがいる。実際にそれは事実である。
行政府だけでは満足に民の心の支えになれないだろう、宗教だけでは生活の営みを生み出すことが出来ないだろう。
人が右足と左足を使って歩けるように、車が両輪揃って初めて走るように―――アーシュライト王家と拝月教は互いが互いを支え合っていくことで、初めて人類が月という過酷な環境下でも生きていけるような関係性を保っている。
どちらも欠けてはならないし、どちらともバランスを乱してはならない。
国家と宗教のバランスを崩せばどうなるかなど自明の理であるのだが、逆に言えばどちらかが乱れさえすれば国家崩壊にすらつながるということでもある。
「外務局長…僭越ながらお願いがあります」
エステルが外務局長をしっかりと見据えて言葉を投げ掛ける。
その意図するところを察した外務局長は目の前にいる少女――――『だった』存在からの言葉をしっかりと受け止める。
「…奇遇だね、私も君にお願いがあるんだ」
「それならば話し早いですね。そのお願いの内容なのですが―――――ロームフェラ財団への査察の件、私に任せてほしいのです」
「私からもお願いするよ。ロームフェラ財団への伝手があるのだ、君以上の適任もいまい」
「ありがとうございます」
「――――――少々待っていただきたい」
とんとん拍子に進んでいく話の展開に置いていかれそうになったモーリッツだったが、待ったをかける。
「外務局長、いくら伝手があるからと言ってエステルをいきなり連邦政府との共同査察に参加させるなど厳しいのではないですか?」
「本人がその意志を示しているし、我々拝月教の教団において、現状において彼女以上の適任もいまい。実力も見させてもらった……そうなれば任せるのが筋というものではないか」
「しかし…」
モーリッツは外務局長の意見に反対できないが、納得するには形容しがたい焦燥感に駆られていた。
幼いころから見守ってきた我が子同然の存在を危険な道へと歩ませたくなかったからだ、まだ責任を背負わせるには酷ではないかという思いもあった。
そんなモーリッツの姿を見て、確信したエステルはモーリッツに語り掛ける。
「モーリッツ様、いえ………おじいさま」
モーリッツの身体が一瞬にして硬直した。
「――――何を、何をいっているんだ…エステル?」
「…もう私たちの関係のことも知っております。私の母が貴方の娘であった事、私の父親が母と子の地球で出会った事、おじいさまがなさったこと、それらすべて財団の伝手を頼って調べ上げさせていただきました」
モーリッツは黙して聞くしかできなかった。
それほどまでにエステルには―――血のつながった自分の孫には、幸せに生きてもらう上で知られては不味い情報だらけだったからだ。
「それでも、私はおじいさまのことが好きです――――私の家族なのですから」
「―――――エ、エステル」
「だからこそ、私を信じてもらいたいんです。貴方が立派な人物であるように、カレン様のように道を見据えて…私も私自身の手で大切な人たちを守りたいから」
エステルの意志表明を聞き、モーリッツは悲しみと喜びの渦に巻き込まれていた。
自分が行った罪深い行為を知られてしまったことへの悲しみ、それは決して許されないことであると……娘の死から理解して、絶望して、痛くて辛くなって胸が張り裂けそうな思いに駆られ続けて、そして我が孫から実の両親を奪ってしまったという更なる絶望へと誘う。
そしてそんな冷たい現実すらも受け入れてなお、自分の事を家族と言ってくれるエステルへの感謝という喜びと申し訳なさで…モーリッツは気が狂いそうになりつつも、心のどこかで重荷から解放された感覚を冷静に捉えていた。
そうして生まれた静寂の時間が流れていると―――――外務局長の携帯端末から電子音が鳴り響く。
「――――私です、クラヴィウス秘書官。ええ、その件なら我々も把握したばかりでして…しかしながら我々から強く推挙したい人物が居ます…名前はエステル=フリージア――――はい、貴方も知っている人物で間違いありません」
『…話は聞いています。それでは今から大使館から迎えを行かせますので』
「今からですか…いえ、判りました。今からエステル=フリージアを大使館に行くように通達を出します」
『はい―――――それでは失礼します』
ピッ、と電子音が鳴り通話が途絶えた。
「…聞いていた通りだ、エステル君。構わないね?」
「はい、それでは準備をさせていただきますので…失礼します」
そしてエステルは退室するために踵を返した瞬間にモーリッツと眼があったが、お互いに言葉が出せなかった。
モーリッツは言葉にならない感情をなんとか声にしようとして、ただ心の底からの願いをかろうじて声に出す。
「エステル――――無事に帰ってきてくれ」
「…はい、おじいさま。行ってきます」
エステルは振り向くことなく前へと歩み始めた。
部屋を出たエステルに幼くも凛とした声が投げかけられる。
「…本当に良いのか、エステル=フリージア」
エステルが振り返るとそこにいたのはフィアッカ=マルグリット――――教団における伝説上の人物であり、本来ならばエステルとは無縁の人物だった。
「ええ、これが私の道なのですから」
そう返答するエステルに迷いはなかった。
ならば渡しても大丈夫であろう、フィアッカはそう判断した。
「そうか、ならこれを持っていくと良い」
そういってフィアッカはあるものをエステルに差し出した。
静かに見つめるエステルであったが、なぜ今これが渡されようとしているのかが理解できなかったため、つい疑問を呈する。
「フィアッカ様、これは一体…?」
「……先代女王からの依頼でな、もしものことがあれば信頼できる人物に手渡してほしいと。今のお前ならば問題ないだろう」
月の先代女王―――セフィリア=ファム=アーシュライトからの依頼…?と不思議に思ったエステルだったが、教団におけるフィアッカと名君と亡き今も尚名高い先代女王を尊敬している。
そんな二人から差し出されたものを受け取ることは名誉なことなのだと思い直し、しっかりと受け取った。
そのもの自体は軽いものであったが、その受け取ることへの意義に想いを託されていることをエステルはフィアッカの眼を見て理解した。
「確かに、受け取りました、お二人の期待に応えてみせます。それとリースリットに伝えておいてください」
「…何を伝えればいい?」
「――――私がいないからといって、羽目を外し過ぎたら…判ってるわよね?と」
そういうエステルの眼はやけに鋭いものだった、とリースリットへの手紙にしかと書きとめるフィアッカであった。
じっくり書くのが良いのか、サクッと纏めて書いた方が良いのか悩み中。