### 第1部
森カリオペは成田空港の到着ロービーを抜けた瞬間、冷たい十一月の風に頬を打たれた。マスクとフードで顔を隠していても、背の高さと死神を思わせるピンクの髪の毛先が覗いているせいで、何人かに二度見された。それでも構わなかった。今の彼女には、世界のことなど、どうでもよかった。
(また新しい曲を出した。でも……また同じだ。魂が震えるような、何かが足りない。コーチに言われた言葉が頭から離れない。「テクニックじゃない。もっと深いところで、何かを見つけてこい」って)
タクシーに乗り込み、運転手に告げた住所は星街すいせいの自宅マンションだった。同じ事務所の先輩。いや、もう“先輩”という言葉では足りない。日本の音楽シーンを席巻し続けている、燦然と輝くトップスター。カリオペにとって、追いかける背中は、もう彼女しかいない。
マンションのエントランス前で、彼女は四時間以上も待ち続けた。足が冷たくなる。スマホのバッテリーが切れそうになる。それでも動けなかった。もうここまで来てしまった。引き返すという選択肢は、最初から存在しなかった。
ようやく現れたのは、夜の十時を回った頃だった。
すいせいは大きなサングラスを外しながら、驚いたように目を丸くした。
「え……カリオペ?」
低い、どこか掠れた声。テレビで見るよりずっと近くて、生々しい。
カリオペは深く頭を下げた。英語が混じりそうになるのを必死に抑えて、日本語でまっすぐに告げた。
「すいせい先輩。突然すみません。森カリオペです。今、話したいことがあって……どうしても、あなたにしか聞けないことがあって」
すいせいは一瞬、ぽかんとした顔をした。それから、くすくすと笑い始めた。最初は小さく、だんだん大きな声になって、しまいには腹を抱えて笑い出した。
「あははははっ! いや待って、ちょっと待って! 待ち伏せ!? 本気で待ち伏せしてきたの!?」
カリオペの顔が熱くなる。(恥ずかしい……でも、これしかない)
すいせいは笑いながら涙を拭い、急に表情を引き締めた。遊び心が消え、鋭い視線がカリオペを射抜く。同じhololive所属でも、アーティストは潜在的なライバルだ。それを承知の上での直談判。すいせいは少し間を置いて、静かに頷いた。
「……ふうん。そこまで本気なんだ。わかったわよ。上がってきなさい。自室で話しましょう」
それだけ言って、すいせいはエレベーターのボタンを押した。
部屋に入ると、意外なほどシンプルで、音楽関連の機材だけが整然と並んでいた。ストイックさが漂っている。
すいせいは冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、カリオペに差し出した。
「で? 何を教えてほしいの?」
カリオペは両手でペットボトルを受け取りながら、震える声で言った。
「私……最近、自分の曲が全部焼き直しみたいに感じてしまって。いくらテクニックを磨いても、見えない天井があるみたいで。コーチにも言われたんです。『もっと深いところで何かを見つけてこい』って……。私、もうすいせいさんの背中しか見えないんです。どうしたら、あなたみたいに……魂が震える歌が歌えるのか、教えてください」
すいせいはソファに腰を下ろし、足を組んだ。少しの間、黙ってカリオペを見つめていた。
やがて、すいせいは静かに口を開いた。
「技術は、目で盗め」
カリオペは息を呑んだ。
「え……?」
「私が教えてあげられることなんて、何もないよ。だって、私が今持ってるものだって、全部自分で掴んできたものだから。誰かに教えてもらった瞬間、それはもう“借り物”になる。カリオペの歌じゃなくなる」
すいせいの声は、優しいのにどこか冷たく、鋭かった。
「ライブを見て、音源を聴いて、インタビューを読んで、全部盗んで。それでも足りなかったら、何度も何度も真似して、壊して、自分の血肉に変えていくしかない。それがアーティストだよ」
カリオペは唇を噛んだ。(やっぱり……ここに来て正解だった。がむしゃらに進んだ先に、見えるものもあるのだろうか…)
胸の奥に、熱いものがこみ上げてくる。それは尊敬だった。憧れだった。そして、どこかで自分を叱咤するような、厳しさへの感謝だった。
「すいせい先輩……」
声が震えた。涙が滲みそうになるのを必死に堪えて、カリオペは再び深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
すいせいは小さく笑った。今度は、優しい笑みだった。
すいせいは立ち上がり、窓辺に寄った。夜の東京を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「今日は泊まっていきなさい。急に来たんだし、明日から一緒に練習しましょう。目で盗むチャンスよ」
カリオペの心が、温かく満たされた。(ありがとう、すいせい先輩。あなたのおかげで、前に進んでいけそうです)
彼女は微笑んで、頷いた。この夜が、彼女の転機になることを、直感していた。
### 第2部
すいせいはミネラルウォーターのペットボトルを最後のひと口で空けると、ぽんとテーブルに置いた。
その瞬間、さっきまでの鋭く冷たいプロの顔が、まるでスイッチを切ったように溶けてなくなった。
「ふう……。さて、カリオペ」
彼女は悪戯っぽく目を細めて、唇の端を吊り上げる。
「一緒にお風呂に入ろう」
カリオペは一瞬、言葉を失った。
(え……? 今、何て……?)
頭の中で警報が鳴り響く。
アメリカにいた頃から、彼女は早熟だった。小学校五年生のときにはもう、家族とも一緒に湯船に浸かることをやめていた。シャワーを浴びるときだって、ドアに鍵をかけて、誰にも背中を見せない。身体が人より早く大人びてしまったせいで、クラスメイトの視線が痛かったから。
だから――
だから、こんな急な提案に、身体が完全に硬直してしまった。
すいせいはそんなカリオペを見て、くすりと笑った。
そして、わざとらしくジト目で自分の胸元に視線を落とす。
「普通、胸の小さい私が竦むパターンじゃない?」
その一言に、カリオペの顔がカッと熱くなった。
(違う、そうじゃなくて……!)
でもすいせいは、もう次の瞬間には表情を戻していた。
少しだけ、姉のような、優しい灯りを瞳に宿して。
「おいで」
それだけ言って、彼女はくるりと背を向け、バスルームへと歩いていく。
スリッパの音が、ぱたぱたと遠ざかっていく。
カリオペは立ち尽くしたまま、頭が真っ白になった。
(……ダメだ、思考停止してる)
(でも、ここで逃げたら……私がここに来た意味が全部消える)
カリオペは震える足で立ち上がり、バスルームへと急いだ。
脱衣所に入ると、すいせいはもうブラウスを脱ぎ、背中を向けたままブラのホックを外していた。
白い肌が、蛍光灯の下で艶やかに光る。
肩甲骨の動きが、まるで舞うように優雅で、カリオペは思わず息を呑んだ。
「早くしないと冷めるよ?」
すいせいの声は平然としている。まるで日常の延長のように。
カリオペは慌ててフード付きのパーカーを脱ぎ、Tシャツを頭から抜いた。
手が震える。
ブラジャーに指をかけるのももどかしくて、背中のホックを外すのに三回も失敗した。
(見られる……見られてる……)
胸が大きいことは、ずっとコンプレックスだった。
配信では衣装でごまかしているけれど、生の姿は誰にも見せたことがない。
それが今、憧れの先輩の前で、全部曝け出さなければいけない。
鏡に映った自分の姿に、顔から火が出そうになった。
すいせいは、もう完全に裸だった。
背中も、腰のくびれも、ヒップの丸みも、すべてが完璧な曲線を描いている。
小柄なのに、どこにも無駄がない。
まるでギリシャ彫刻のようで、カリオペは自分が恥ずかしいほど大きくて不格好に思えた。
「……どうしたの?」
すいせいが振り返る。
その瞬間、カリオペは反射的に両腕で胸を隠した。
すいせいは、ちょっと困ったように微笑んだ。
「隠さないでよ。同じ女の子同士なんだから」
その声は、優しかった。
まるで、昔から知っている姉が、妹をからかうような。
カリオペはゆっくりと、腕を下ろした。
熱い。
耳から首まで、真っ赤に染まっていくのが自分でもわかった。
すいせいは先に浴槽に浸かり、肩までお湯に沈めた。
湯気が立ち上る。
彼女は目を閉じて、ふうっと息を吐く。
カリオペも、恐る恐る浴槽の縁に腰かけた。
お湯が、ぽちゃんと音を立てて肌に触れる。
熱い。でも、それが心地よかった。
向かい合って座る。
膝が、ほんの少し触れそうになる。
最初はぎこちなかった。カリオペは湯面を見つめ、すいせいは天井を見上げていた。でも、時間が経つにつれ、会話がぽつぽつと始まる。
「ねえ、カリオペの新曲、聴いたわよ。ラップのフロウ、すごく良かった」
「え……本当ですか? でも、私、なんか同じことの繰り返しに――」
「違うわ。あなたらしい叫びが、ちゃんと乗ってる。」
女子会のような、ゆるやかな空気が流れる。カリオペの肩の力が抜けていく。お湯が心地よい。すいせいの横顔が、湯気に柔らかく滲む。(こんな距離で、すいせいさんを見てる……夢みたい)
ふと、会話が途切れた。静寂が訪れる。水面だけが、ゆらゆらと揺れる。二人は向かい合ったまま、じっと見つめ合う。湯気が立ち上り、視界がぼんやりとする。
すいせいが、ぽつりと呟いた。
「この先は……何も無いかもしれない」
カリオペは顔を上げた。
すいせいは、カリオペも、何も見ていなかった。
言葉を水面に溶かすように、音が響いていく。
「この先は、本当に……何もないのかも知れない」
すいせいは、もう一度、ゆっくりと繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
湯気が、二人の間を白く隔てる。
すいせいの瞳が、まっすぐにカリオペを捉えた。
そこには、もう悪戯でも、プロの冷たさでもない。
ただ、深い、深い色があった。
「来る?」
短い問いかけ。
でも、その一言に、すべてが込められている気がした。
頂点の向こう側。
誰も知らない場所。
光も、音も、称賛も、すべてが消えてしまうかもしれない、闇の向こう。
カリオペは、息を吸った。
胸の奥が、熱くて、痛くて、でも、確かに震えた。
(怖い……でも)
彼女は、静かに、しかし確かに、頷いた。
「はい」
その瞬間、湯船の水面が、ふわりと大きく揺れた。
### 第3部
湯船から上がると、すいせいは大きなバスタオルをカリオペに放ってよこした。
自分はもう一枚を腰に軽く巻いただけ。濡れた髪から水滴がぽたり、ぽたりと床に落ちる。
カリオペは慌てて身体を拭き始めた。
背中を丸め、胸を隠すように腕を交差させながら。
タオルが肌を滑るたび、ぞくぞくと鳥肌が立つ。
熱い湯に浸かっていたせいで、部屋の空気がひどく冷たく感じられた。
拭き終える寸前、突然、右手首を掴まれた。
「え……?」
すいせいは無言だった。
ただ、静かに、でも確実にカリオペの手を引いて歩き出す。
タオル一枚のまま、廊下を通り、寝室へ。
カリオペの心臓が、耳の奥で鳴り始めた。
(何……? 何が始まるの……?)
寝室のベッドに腰かけさせられる。
ふかふかのシーツが、冷えた太ももに触れた。
すいせいはカリオペの正面に立ち、腰に巻いていたタオルをゆっくりと解いた。
ぱたり、と床に落ちる音。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、彼女の裸身を青白く照らす。
完璧なプロポーション。
鎖骨のくぼみ、胸の控えめな膨らみ、くびれた腰、そして――
カリオペは完全に思考が止まった。
まるで神託を待つ巫女のように、ただ、すいせいの瞳だけを見つめていた。
すいせいの声が無音の部屋に響く。
「寝る前に、ちょっとエッチしよう」
カリオペの頭が、真っ白に弾けた。
「え、え、えええっ!? ちょ、ちょっと待ってください! え、えっちって……その、えっちって……!?」
声が裏返る。
顔が熱い。
耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
両手で胸を隠い、腰をくねらせて後ずさろうとするが、ベッドの端でそれ以上逃げられなかった。
すいせいは、最初こそくすりと笑っていたが、やがて腹の底から笑い始めた。
「ぷっ……あははははは! カワイイ……! ほんとに可愛すぎるって!」
笑いながら涙を拭い、ようやく息を整える。
「はははっ! ごめんごめん、びっくりした? でもね、今日はカリオペちゃんが私を頼ってくれたサービスだから。特別に、教えてあげる」
笑いが収まり、すいせいの声が低くなる。プロの顔ではなく、姉のように、師のように、静かに告げる。
「汝、汝を愛せよ。時は金なり。深淵を恐れるな」
カリオペは言葉を失った。古代の格言のような響きに、胸が震える。
知らずの内に、カリオペの肩から、力が抜けた。
震える手が、ゆっくりと胸から離れる。
すいせいは微笑み、自分もベッドに深く腰を下ろした。
向かい合う形で、正座するように膝を立てる。
月明かりが、二人の裸身を優しく包む。
「見てて。私が、どうやって自分を愛するか」
カリオペは息を呑み、すいせいの動きを見つめた。最初はゆっくり。指先が胸のふくらみをなぞる。乳首の周りを円を描くように。すいせいの吐息が、少しずつ熱を帯びていく。
「カリオペも……自分のこと、触って」
促されるまま、カリオペは震える手で自分の胸に触れた。指先が震える。乳首が硬くなる。恥ずかしさが全身を駆け巡るが、すいせいの視線に捕らわれて、動けない。
(あ……熱い……)
指先が乳首に触れるだけで、背筋がびくんと跳ねた。
恥ずかしい。
でも、すいせいが同じように自分を慰めている姿を見ていると、なぜか安心する。
すいせいの吐息が、少しずつ荒くなっていく。
「ん……っ……」
その声が、カリオペの鼓膜を甘く震わせた。
カリオペも、恐る恐る指を動かし始めた。
胸の頂を円を描くように撫で、時折つまんでみる。
下腹部が、じんわりと熱を帯びてくる。
すいせいは目を閉じ、首をわずかに反らせた。
指の動きが、少しずつ速くなる。
クリトリスを優しく、でも確実に刺激しながら、時折腰を浮かせる。
「はぁ……っ……カリオペ……見てて……」
その声に、カリオペの指も自然と速くなった。
自分の胸を強く揉み、乳首を摘まむ。
もう片方の手が、無意識に下へ伸びていく。
まだ触れたことのない場所。
濡れている。
熱い。
自分の指が触れるだけで、頭が真っ白になる。
「あ……っ……すいせい、先輩……」
二人の吐息が重なり、部屋に満ちていく。
月明かりの中、互いの姿がぼんやりと浮かぶ。
すいせいの腰が小刻みに震え、時折小さく「んっ」と声が漏れる。
カリオペはそれを見て、自分も限界が近づいているのを感じた。
「もう……いく……っ……」
すいせいの声が切なげに震えた瞬間――
カリオペも、背筋を仰け反らせて達した。
「あぁっ……!」
全身がびくびくと痙攣する。
初めての、誰かに見られながらの絶頂。
恥ずかしいのに、こんなに気持ちいいなんて。
息を整える間もなく、すいせいがそっと近づいてきた。
震えるカリオペの頬に、優しく手を添える。
そして、初めて――唇を重ねた。
柔らかくて、温かくて、少しだけ塩味がした。
お風呂上がりの、すいせいの味。
キスを終え、すいせいは額をカリオペの額にくっつけたまま、囁いた。
「がんばろう」
頑張って、じゃなくて。
がんばろう。
一緒に、ってことば。
カリオペの胸が、熱くて、切なくて、震えた。
(私……一人じゃなかった)
涙がこぼれそうになるのを堪え、カリオペは無言ですいせいにキスを返した。
今度は自分から、そっと唇を重ねる。
二人はそのまま、シーツに横たわった。
すいせいが後ろからカリオペを抱きしめるように腕を回し、
カリオペはその腕に身を任せた。
月明かりが静かに二人を照らす。
やがて、深い眠りが訪れた。
### 第4部
朝、目が覚めたとき、カリオペは一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。
隣に温かい体温を感じて、はっと息を呑む。
すいせいが、背中からそっと腕を回したまま、静かに寝息を立てていた。
昨夜の記憶が一気に蘇って、頬が熱くなる。
(……本当に、あったんだ)
カリオペはそっと腕を抜き、ベッドから抜け出した。
バスルームで顔を洗い、鏡に映る自分を見て、思わず目を逸らした。
首筋に、かすかなキスマーク。
胸がどきどきして、落ち着かない。
リビングに戻ると、すいせいはもう起きていて、キッチンで何かを取り出していた。
白い大きめのTシャツ一枚で、髪を無造作に束ねている。
朝の光が差し込むと、まるで別人のように柔らかく見えた。
「おはよ。朝ごはん、カロリーメイトでいい?」
冷蔵庫からチョコ味とチーズ味を二つずつ取り出し、水のペットボトルをテーブルに置く。
カリオペは苦笑いしながら頷いた。
「アメリカにいた頃は、ツアー中こればっかりだったから慣れてます」
二人で並んでソファに座り、無言でかじる。
静かな朝。テレビもつけていない。ただ、時折目が合って、照れくさそうに笑うだけ。
食べ終えると、すいせいがぱっと立ち上がった。
「さ、行こう。今日はカラオケ」
「え、カラオケ? トレーニングなら事務所の方が――」
「すいちゃんの個人レッスンだから」
すいせいはにこりと笑って、はぐらかした。カリオペは首を傾げながらも、すいせいの後を追ってマンションを出た。朝の東京はまだ涼しく、人通りもまばらだ。二人はタクシーに乗り、繁華街のカラオケボックスへと向かった。
個室に通されると、すいせいは慣れた手つきでリモコンを操作し、曲を入れ始めた。カリオペはソファに座り、マイクを握りしめる。持ち歌かと思いきや、スピーカーから流れてきたのはビートルズの『Hey Jude』だった。
「昔、めっちゃ好きだったんだよね。カリオペも好きなの入れなよ」
カリオペは少し驚きながらも、ビートルズの『Let It Be』を入力した。すいせいが先に歌い始める。声は透き通っていて、ビートルズのメロディーを優しく包み込む。カリオペはマイクを握り、自分の番で歌い始めた。ロックな声質が、ピアノの旋律に乗る。
お互いに曲を入れ、歌う。ビートルズ、クイーン、ボブ・ディラン。カリオペがふと気づいた。すいせいの選ぶ曲が、自分の好きな曲ばかりだ。『Blackbird』、『Imagine』、『Like a Rolling Stone』。まるで、自分のプレイリストを覗かれたかのように。
(……これって、偶然? でも、すいせい先輩、私の配信で言ってた曲……全部覚えててくれた?)
相手の求めるものを引き出し、与える。それが、すいせいの教えだった。技術は目で盗め。心は自分で磨け。そして、相手を理解し、寄り添うことで、自分の歌を深くする。
カリオペがそのことに気づいた瞬間、すいせいが次の曲をリクエストした。
「カリオペの、子供時代の大切な曲。教えて」
カリオペは一瞬、目を伏せた。小学校の頃、母親がよくかけてくれた曲。家族でドライブに行ったとき、窓から見える夕焼けと一緒に流れた曲。
『All You Need Is Love』
マイクを握り、イントロが流れる。すいせいは歌い始めた。自由に、伸びやかに。でも、少し寂しく。ビートルズのシンプルなメッセージが、胸に染みる。
「Love, love, love……」
カリオペもマイクを握り、ユニゾンで歌い始めた。二人の声が重なる。すいせいの透明な声と、カリオペのロックな声が、部屋を満たす。愛こそ全て。相手を愛おしいと思う気持ち。それが、歌の魂。
「There's nothing you can do that can't be done (君はできる事を、すべてやってきたんだ)……」
カリオペの目から涙がこぼれた。すいせいの声に導かれ、自分の心が開いていく。昨夜の触れ合い、朝の朝食、カラオケでの歌。すべてが繋がる。
「All you need is love……」
二人の声が完全に重なり、部屋が音で満ちていく。世界が、愛で満ちていく。カリオペは涙を拭いながら、すいせいを見た。すいせいも微笑みながら、涙を浮かべていた。
(これが……すいせい先輩の教え。相手を愛し、自分を愛し、歌に込める)
曲が終わり、静寂が訪れる。二人はマイクを置き、向かい合った。すいせいがぽつりと呟いた。
「愛こそ全て、だね」
カリオペは頷き、微笑んだ。心が、軽くなった。見えない天井から、少しずつ、光がさしてくる。
### 第5部
カラオケボックスの扉を閉めた瞬間、東京の午後の風が二人の頰を撫でた。まだ耳に残るビートルズの残響が、歩くリズムに重なる。すいせいはサングラスをかけ直し、軽い足取りで先を歩き始めた。カリオペは少し遅れて後を追う。肩がぶつかりそうな距離で、でも触れない。昨夜の熱が、まだ肌の奥に残っている。
「次はね、ちょっと寄り道」
すいせいの声は軽い。まるで何でもないことのように。カリオペは首を傾げながらも、頷いた。
行き先は、駅前の複合ビルに入っている大型のタワーレコードだった。
近年はストリーミングが主流とはいえ、日本ではまだまだフィジカルCDの売上が根強い。
特にhololive関連のリリースは、毎回のようにオリコンデイリー上位を独占する。
エスカレーターで三階に上がると、ポップなBGMと、色とりどりのジャケットが視界に飛び込んできた。
店員さんが忙しそうに商品を並べている。
ヒットチャートのコーナーには、大きなランキングボードと、鮮やかな手書き風ポップが貼られていた。
すいせいは、無言でその前に立ち止まった。
カリオペも、つられて足を止める。
そして、視線を上げた瞬間――息を呑んだ。
視線が、ランキングのトップへ吸い寄せられる。
1位。
森カリオペ。
新作シングル『DEAD BEATS』。
真新しいポップに、赤い「1」のマーク。
その横に――
2位。
星街すいせい。
『Stellar Stellar II』
僅差の2位。
息が止まった。
(まずい……まずい……まずい……!)
カリオペの頭の中で、警報が鳴り響く。自分が教えを受けている身なのに。憧れの先輩の前で、自分のCDが1位。しかも、すいせいのCDを押しのけて。これは、手ひどい裏切り行為だ。まるで、師の前で勝ち誇る愚か者。カリオペはさりげなく足を動かし、別の棚へ移動しようとした。視界の端で、すいせいの横顔を盗み見る。表情は読めない。サングラスの奥の瞳は、どこを見ているのか――
伸ばされた手が、カリオペの手首を掴んだ。
静かに、しかし確かに。
逃がさない。
棚の前に、釘付けにされる。
「す、すいせい先輩……もう、行きましょう……?」
カリオペの声は震えていた。すいせいを急かすように言ったが、すいせいは微動だにしない。ランキングを、じっと見つめている。ポップの光沢が、彼女の瞳に反射する。時間にして、ほんの数秒。だが、カリオペには永遠に感じられた。
ふと、すいせいの横顔を見た。
――子供に教える、母の顔だった。
優しく、どこか切なく、でも決して揺るがない。1位と2位の数字を前にしても、表情は穏やかだ。まるで、「これでいい」とでも言っているように。
「帰ろう」
ぽつり。
踵を返す。
カリオペは慌てて後を追った。
外に出ると、風が強くなっていた。すいせいは無言で歩き、カリオペはその背中を追いかける。頭の中が、ぐるぐると渦を巻く。
(何を……示してくれたんだろう)
カリオペは必死に考えた。
(「次の曲は負けないからね」……?
違う。
すいせい先輩は、そんな安っぽいライバル心で動く人じゃない)
昨夜のことを思い出す。
湯船の中で言われた言葉。
ベッドの上で囁かれた言葉。
「この先は、本当に、何もないのかも知れない」
「深淵を恐れるな」
頂点に立ったとき、
その向こうには本当に何もなくて、
ただ虚空が広がっているだけかもしれない。
それでも、
それでも進まなきゃいけない。
(先輩は……今、それを私に見せてくれたんだ)
1位の自分を、静かに認めて。
2位の自分を、静かに受け止めて。
そして、それでもなお「帰ろう」と言って歩き出す。
その背中は、
どこまでも強く、
どこまでも優しく、
どこまでも孤独だった。
カリオペは、無言ですいせいの後を歩いた。
言葉が出てこない。
謝ることも、感謝することも、今はまだできない。
ただ、胸の奥に、熱い塊がまた一つ増えた。
(私……まだまだ、甘い)
風が、二人の髪を揺らしていく。
雲の切れ間から、薄い陽射しが差す。
この先、どこへ行くのか。
何が待っているのか。
――まだ、誰も知らない。
### 第6部
マンションのエレベーターが静かに上昇する音だけが、閉ざされた箱の中で響いていた。カリオペは壁に背中を預け、すいせいの横顔を盗み見る。サングラスを外したその瞳は、街灯の光を浴びて、どこか遠くを見ているようだった。ドアが開き、廊下を歩く足音が重なる。鍵が回る音。部屋の灯りが点く。
すいせいは冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出し、一本を無言で差し出した。カリオペは受け取りながら、ソファを勧められるままに腰を下ろす。向かい合うソファに、すいせいがゆっくりと座った。膝を揃え、背筋を伸ばし、まるで面接のよう。いや、それよりも静かで、重い。
「お腹、減ってるかもだけど……先に済ませましょう。こんなんじゃ、食事も喉を通らないでしょ」
声は低く、穏やかだった。だが、カリオペの胸に鋭く突き刺さる。
(これが……最後の試練なんだ)
直感だった。
これまで学んだすべて――風呂での触れ合い、カラオケでのユニゾン、ランキングの前での沈黙――が、ここで試される。
何を学んだのか。
何を掴んだのか。
それを、言葉にしなければならない。
すいせいは静かにカリオペを見つめていた。
怒りはない。笑顔もない。
アイドルではない。歌手ではない。
ただ、星街すいせいが、そこにいた。
長い沈黙が流れる。
時計の秒針が、規則正しく刻む音だけが、部屋を満たす。
カリオペは水を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、胃に落ちる。
(言わなきゃ……でも、どこから……)
ようやく、口を開いた。
「泊めていただいた日のこと……カラオケのこと……ありがとうございました」
すいせいは微かに微笑み、黙って頷いた。
それだけで、十分だった。
二人の間に、余計な言葉は不要だった。
カリオペは息を吸い、続けた。
「それで……ラン……キングのことは……数字に一喜一憂せず、自分の歌を届けろ、ということでしょうか」
言葉が、震えた。
正解かどうか、わからない。
でも、これが、今の自分に言える精一杯だった。
すいせいはしばらく無言だった。
瞳が、静かにカリオペを捉える。
やがて、ふっと息を吐き、表情が少しだけ柔らかくなった。
「まあ……及第点、か」
声に、わずかな笑みが混じる。
でも、すぐに真顔に戻る。
すいせいは身を乗り出し、両手を膝の上で組んだ。
「カリオペに、選ばせてあげる。今ここで帰っても、きっと前よりうまくいく。私が保証する。でも……」
一瞬、言葉を切り、瞳を伏せた。
「この先は、聞かないほうが、あなたには良いかもしれない。もしかしたら、理解できないかもしれない」
カリオペの脳裏に、昨夜の言葉が蘇る。
「深淵を恐れるな」
心臓が、激しく鳴った。
(帰る? それとも――)
迷いは、なかった。
最初から、決まっていた。
すいせいの背中を追いかける覚悟は、自宅を飛び出した瞬間から、あった。
カリオペは、ゆっくりと立ち上がった。
すいせいの前まで歩み寄り、真正面から見つめた。
瞳に、決意を宿して。
「あなたの世界を、私は見たいです」
### 第7部
部屋の空気が、急に重くなった。
カリオペは息を呑み、すいせいの瞳をまっすぐに見つめた。
その瞳は、まるで夜空の底を覗き込むような深さだった。
「まず、一般論として。満点。」
すいせいの声は静かで、しかし確かだった。
「次、個人事業主として。数字から目を背けるな。」
カリオペの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
褒められたことより、むしろ自分がまだ捨てきれていなかった甘さに、恥ずかしさが込み上げる。
(私は……まだ、「ランキングなんて関係ない」って、逃げてたんだ。
数字は現実。
数字は、誰かが聴いてくれた証。
目を背けたら、それすら失う。)
すいせいはその様子を、静かに見つめていた。
穏やかで、満足げな顔。
まるで、幼い子がようやく一歩を踏み出したのを見守る母のように。
「これから話すことは、誰にも言ってない。」
声が、少しだけ低くなった。
カリオペは背筋を伸ばし、息を止めた。
「私は深淵を見せるけど、あなたはそれをどうしてもいい。
捨ててもいい。
持ち帰ってもいい。
ただ、これだけは言っておくね。」
すいせいは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「私を見てくれて、ありがとう。
そして、がんばって。」
――「がんばって」。
あの夜、「がんばろう」と言われた言葉が、今は「がんばって」に変わっていた。
一人で、歩いていくための言葉。
師が、弟子に贈る、最後の餞。
カリオペは、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
この人を、師と仰いだことの、果てしない幸せを噛みしめていた。
そのとき、窓の外を横切る雲が月を覆った。
部屋が、ぽっかりと暗くなる。
カーテンの隙間から差し込む光が、すいせいの横顔をぼんやりと浮かび上がらせる。
「私たちは、いつか終わる。」
カリオペは、はっと顔を上げた。
それは、誰もが目を背けていたことだった。
自分も、見ないようにしていた。
すいせいはいつも輝いていて、憧れで、目標だった。
北極星のように、永遠にそこにあるものだと思っていた。
「それは、命でもあり、アイドルでもある。
終わりは突然かもしれない。
じめじめと長く、惨めなものかもしれない。
明日かもしれない。
100年後かもしれない。」
神託のように、すいせいの声が響く。
静かに、しかし確実に、部屋の隅々まで染み渡る。
「精一杯生きなさい。
皆の記憶に、残るように。
だから私は、すいせいという名前を付けたの。」
――星の名を。
流星のように、たとえ一瞬でも、強く輝いて、記憶に刻まれるように。
カリオペの胸が、震えた。
(終わりがあるから、今がある。
終わりがあるから、歌がある。
終わりがあるから、愛がある。)
涙が、頰を伝った。
でも、それは悲しみではなかった。
覚悟だった。
感謝だった。
そして、愛だった。
すいせいは静かに立ち上がり、カリオペの前まで歩み寄った。
手を差し伸べる。
カリオペはその手を取り、立ち上がった。
二人は、月明かりのない部屋で、ただ見つめ合った。
言葉はいらなかった。
すべてが、伝わっていた。
### 第8部
月影が消えた部屋で、二人は崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
シーツが波打ち、互いの体温が溶け合う。
すいせいがカリオペの頰に唇を這わせ、囁く。
「カリオペ……」
「すいせい……」
名前を呼び合うたび、声が震えた。
まるで、その響きを自分の奥底に閉じ込め、永遠に失わないように。
指が絡まり、爪が背中に食い込み、汗が滴る。
歌を通じて知り合った。
歌を通じて分かり合った。
そして今、歌を超えて、愛し合った。
カリオペの胸が、喜びで満たされる。
自分の身体から、これほど悦びが溢れ、
相手の身体に、これほど深い悦びを与えられること。
今日、初めて知った。
カリオペがすいせいに伝えると、すいせいはくすりと笑い、
カリオペの首筋に歯を立てた。
カリオペはまた鳴いた。
夜は深く、
二人は何度も何度も、
互いの名前を呼び、
互いの体温を確かめ、
互いの鼓動を刻み込んだ。
### 第9部
朝が来た。
カリオペはゆっくりと目を開けた。
隣に、すいせいの姿はなかった。
シーツの皺だけが、昨夜の激しさを物語る。
サイドテーブルに、一枚の航空券。
NY行き。
出発は今日の午後。
カリオペは微笑んだ。
(先輩らしい……)
言葉はいらない。
別れの挨拶も、約束も。
ただ、背中を押すように、
新しい空へ送り出すように。
カリオペは立ち上がり、窓を開けた。
東京の朝の風が、頰を撫でる。
外の世界が、少しずつ色を変え始めている。
街並みが、音楽が、人々の声が、
すべてが、新しく輝いて見えた。
さあ、行こう。
全てを塗り替えていく。
そんな、確信めいた予感があった。
カリオペはレザージャケットを羽織り、
ピンクの髪を風になびかせ、
ドアを開けた。
完。
※小説の執筆にあたり、AI(Grok)を使用しています。