朝の光が差し込む中、目を覚ました。いつものように伸びをして、まずは縄張りの見回りだ。
足を踏み出した瞬間、違和感があった。匂いが違う。土の匂い、木の匂い、そして...機械の匂い?
マーキングしていた樫の木のところまで来て、愕然とした。ない。あの太い幹も、僕が爪痕を刻んだ樺の木も、すべて消えている。代わりにあるのは、切り株と、轍のついた裸の地面だけだ。
「ねえ、母さん...僕の森、どこ行っちゃったの...?」
誰もいない空間に、小さく呟いた。母さんはもういない。去年の冬、眠ったまま目を覚まさなかった。
耳を澄ませても、いつもの鳥のさえずりが聞こえない。リスの駆け回る音もない。森が...死んでいる。
どんぐりを探して歩き回ったが、収穫はゼロだった。母さんが教えてくれた、「ここは秘密の場所よ」と耳打ちしてくれた実りの良い場所も、今は何もない荒地になっていた。
「...仕方ないや。新しい縄張りを探すしかないか」
でも簡単じゃない。北のあいつは「チャンピオン」と若い連中が呼ぶほどの強者だ。東の老練な雄は「師範」なんて渾名がついている。まだ三歳の僕が挑んだところで、ボロボロにされるだけだ。
________________________________________
水を求めて
喉が渇いた。足が重い。お腹も鳴ってる。
「もうちょっと...あと少しで水場だから...」
自分に言い聞かせながら、足を引きずる。
だが、辿り着いた水場で、また絶望した。
水面が...見えない。何か灰色の硬いもので、完全に覆われている。必死に爪を立てて引っ掻いたが、ピクリとも動かない。
「なんで...なんでこんなことするの...?」
試しに上に乗ってみると、硬くて冷たいが、歩ける。でも意味がない。
「水が...飲めないよ...」
腹が鳴った。昨日から何も食べていない。このままじゃ冬眠前に十分な脂肪を蓄えられない。春になっても目が覚めないかもしれない。母さんみたいに。
選択肢は一つしかなかった。
「...山を、下りてみよう」
________________________________________
人間の世界
斜面を降りていくと、景色が一変した。木がほとんどない。平らな土地に、たまに細い木が規則正しく並んでいるだけ。それと、四角い建物がいくつも。
「すごい...これが人間の場所なんだ...」
母さんが言っていた。「絶対に近づいちゃダメよ」って。でも、もう選択肢がないんだ。
近づくと、二本足で歩く生き物が見えた。小さい。僕の半分もない。
じっと見ていると、向こうが気づいた。
「ぎゃああああああ!熊だ!熊が出たぞおおお!」
「え...?僕、何もしてないのに...」
こっちが驚いた。この体格差で、逃げる?いや、待て。他の人間たちも叫んで、こっちに向かって石を投げてくる。
「痛っ...やめてよ...!」
本能的に逃げた。
________________________________________
柿の木と銃声
腹が減りすぎて、目眩がする。建物が密集した場所に入り込んでしまった。
そこで見つけた。柿の木だ!オレンジ色の実が、たわわに実っている。
「やった...!これなら...!」
木登りなら得意だ。母さんに褒められた。「上手ね」って。いつもなら楽勝―――
バキィッ!
「―――っ!?」
鋭い痛みが背中を貫いた。骨まで響く衝撃。同時に、耳をつんざく音。
体が木から落ちた。地面に叩きつけられる。
「な、何...? 何が...起きたの...?」
________________________________________
人間たちの嘲笑
「やった!当たったぞ!」
「熊め!死ね死ね死ね!」
パァン!パァン!
腹に、足に、また衝撃。
「ぐ...ああ...」
「撃ち足りないねぇなぁ!もう一発いくか!」
パァン!
今度は頭のすぐ横を掠めた。耳が聞こえない。
「いいじゃねぇか、今年は熊の年なんだ。猟友会の射撃訓練なんかよりこういうのが全然気持ちいいぜ!本物はやっぱ逃げようとするからな、スリルが違う!」
男が近づいてきて、僕の腹を思い切り蹴った。
「がはっ...!」
口から血が出た。
「ヒャハハハ!見ろよこいつ、まだ生きてやがる!生命力すげぇな!」
また蹴る。今度は顔を。
歯が折れた。視界が赤く染まる。
「お、来た来た。テレビだってよ」
________________________________________
撮影と商売
「〇〇テレビです!いやあ、すごいですね!銃の音も迫力があって、臨場感がありますね!視聴者の皆さんも興奮されると思います!」
カメラを持った人間が、僕を上から撮っている。
「...た、すけ...」
「おっと、まだ鳴いてるぞこいつ。しぶといねぇ」
ガッ!また蹴られた。肋骨が何本か折れた音がした。
「この熊はどうするんですか?いやー、こんな大物、なかなか見られないですよ!」
「決まってんだろ、鍋ですよ鍋。こんな若くて大きい個体なら、肉質も最高だ。一キロ5000円で売れる。ジビエブームだからな。熊鍋セット、冷凍で全国発送しますよ」
「おお、それはいいビジネスですね!」
「それによ、リンゴ畑も荒らされてたんだ。30万円分はやられたな。このクソ熊のせいで」
そう言いながら、男は僕の頭を踏みつけた。
「がっ...」
「でもまあ、これで帳消しだ。それどころか、『害獣駆除で町おこし』ってキャッチフレーズでイベントできるぞ。熊肉フェスティバルとかな。観光客も呼べる」
「素晴らしいアイデアですね!あ、もう一発撃ってもらえますか?視聴者サービスで!」
「おう、いいぜ」
パァン!
右前足に穴が開いた。
「ああああ...!」
「ギャハハハ!悲鳴上げてやがる!最高だなこれ!」
「いい映像撮れました!これは視聴率取れますよ!」
________________________________________
最期の想い
もう、痛みは感じない。
苦しい。息ができない。
血の味がする。
空が...青い。きれい。
「母さん...」
母さんが言っていた。
「森が私たちを育ててくれるの。だから森に感謝して、森を大切にするのよ」
「うん...僕、ちゃんと守ったよ...」
でも、森は消えた。
「僕...何か、悪いことしたのかな...?」
生きようとしただけなのに。
お腹が...減って...
ただ...柿が...食べたかっただけなのに...
「母さん...会いたいな...」
人間たちの笑い声が遠くなる。
カメラのシャッター音。
「SNSにアップしようぜ!『害獣駆除成功!』ってタグつけて」
「いいね稼げるな!」
________________________________________
(空が暗くなる)
(音が消える)
「母さん...そっちは...寒く、ない...?」
(もう、何も...)
________________________________________
翌日のニュース
『本日、○○町で大型の熊が駆除されました。地元猟友会の活躍により、住民の安全が守られました。駆除された熊は食肉として加工され、地域活性化に役立てられる予定です』
画面には、誇らしげに銃を構える男たちと、地面に横たわる小さな熊の姿。
コメンテーター「いやあ、猟友会の皆さん、お疲れ様でした!これで安心ですね!」