【TS】神様のミスで死にましたが、補償内容が羞恥プレイなんですけど 作:もろきゅー
ティナ視点
暗闇の奥から、何かがものすごい勢いでこちらへ近づいてきている。
壁に埋め込まれた魔道灯が遠くで一つ灯ったかと思えば、そのすぐ手前でも次の灯りが点き、さらにその次、そのまた次と、光の列が恐ろしい速さでこちらへ迫ってきていた。
それに合わせるように、先ほどから聞こえていた地面を擦るような奇妙な音も急速に大きくなり、静かな地下道の中へ不気味に響き渡っている。
人が走っている音ではない。何か大きなものを地面の上で引きずっているようにも聞こえるが、それにしては音が一定すぎるし、何より近づいてくる速度が異常だった。
正体が分からないというだけで、身体が勝手に強張っていく。魔物ならまだいい。
どんな力を持っているのか分からなくても、少なくとも魔物だと分かっていれば剣や魔法を向ける覚悟はできる。けれど今は、暗闇の向こうから何が迫ってきているのかさえ分からない。
私は杖を胸元へ引き寄せるように強く握り直しながら、無意識のうちに半歩ほどカイトの近くへ寄っていた。
「一体何だ……?」
ラルフ様も異常を感じているらしく、背負っていたリリア様をゆっくり床へ降ろすと、自分の背後へ庇うように立たせた。そのまま腰に差していた剣へ手を掛け、カイトもすぐ隣で剣を抜いて構える。
灯りの点く間隔を見る限り、あと十数秒もしないうちに何かがここまで来る。私もいつでも魔法を使えるよう杖を構えた、その時だった。
「ま、まってくださぁぁぁぁぁい!」
暗闇の奥から響いてきたのは、妙に間延びした聞き覚えのある声だった。
一瞬だけ、張り詰めていた身体から力が抜けそうになる。あの声を聞き間違えるはずがない。
「あの声は……」
思わず口にすると、隣にいたカイトも目を見開いた。
「さっきの人?」
「多分……」
答えた直後、次々と灯る魔道灯の光の中へ一つの人影が飛び込んできた。
長い黒髪を後ろへ大きく靡かせながら、リゼットがこちらへ向かってくる。ただ、その動きは人が走っているようには見えなかった。
「何だ、あれは……?」
ラルフ様が怪訝そうに呟いたが、私もまったく同じことを思っていた。
リゼットは両足を揃えるようにしながら、石造りの床の上を滑っている。それも、とても人間が自分の足で走って出せるような速度ではない。
よく目を凝らしてみると、リゼットが通過する少し前から石床の表面へ白い霜が広がり、一瞬のうちに薄い氷が張っていることに気づいた。どうやら自分の進行方向を次々と凍らせ、その氷の上を滑ることで速度を出しているらしい。
そんな魔法の使い方なんて考えたこともなかったし、何十分もかけて必死に走ってきた道のりを、あの女はあっという間に縮めてきたのだと思うと背筋が冷たくなった。私たちが息を切らしながら稼いだ距離など、ほとんど意味をなしていなかったのだ。
「ちょ、ちょっと! 止めてくださいぃぃぃ!」
「こっちに言われてもどうしようもないわよ!」
思わず叫び返してしまう。
こちらまであと僅かだというのに、リゼットは少しも速度を落とさない。それどころか、本人まで困ったように目を見開いており、どうやらあれだけ速く移動できる代わりに、急には止まれないらしい。
「ラルフ様、避けて!」
「ああ! リリア、こっちへ寄れ!」
私たちは慌てて通路の壁際へ退いた。そうしている間にも距離は一気に縮まり、リゼットの顔まではっきり見えるようになる。
「あ、ちょ……止まらな──」
そこで足元が大きく滑った。
「ふぎゃっ!」
リゼットの身体が勢いよく前へ傾き、そのまま派手な音を立てて床へ倒れ込む。けれど、それまで出していた速度が簡単に消えるはずもなく、何度も転がりながら私たちの方へ突っ込んできた。
「わ、わわわわわっ──!」
ゴロゴロと石床を転がってきたリゼットは、私たちのすぐ近くまで来たところで、
「ふぎゃんっ!」
という何とも言えない声と一緒に、頭から通路の壁へぶつかった。
しばらく、誰も何も言えなかった。
ついさっきまで暗闇の中から正体不明の何かが恐ろしい勢いで追ってくることに怯えていたのに、蓋を開けてみれば、その正体は目の前で盛大に転んだ挙げ句、頭から壁へ突っ込んでいる。
これが普通の相手だったなら、思わず笑ってしまっていたかもしれない。けれど、私はとてもそんな気にはなれなかった。避難室で護衛の騎士二人をほとんど苦もなく倒した女であり、ゲオルグさんを一人残したあと、こうして私たちを追ってきた相手なのだ。
「いたたた……」
壁際へ座り込んでいたリゼットは、頭を押さえながらゆっくり身体を起こした。
「ふぅ……びっくりしましたぁ……」
びっくりしたのはこっちだと言い返したくなったものの、立ち上がった彼女の姿を見た瞬間、そんな考えは消えてしまった。
避難室で見た時に羽織っていた地味な色のローブがなくなっている。その下から現れたのは黒を基調とした奇妙な鎧で、普通の騎士が身につけるものとはまるで違い、胸や腰など最低限の場所だけを覆うような造りになっていた。
何となく見覚えがあるような気がして、すぐにアウラの姿を思い出す。
形は違う。それでも、アウラの着ている髑髏の鎧とどこか似た雰囲気がある。
それだけではなかった。リゼットの頬には避難室で見た時にはなかった細い傷が斜めに走っており、そこから流れた血もまだ完全には乾いていない。
「はぁ……疲れました……」
本人は私たちの警戒など気にも留めていない様子で、服や髪についた埃を払いながら大きく息を吐いた。よく見れば肩も少し上下していて、氷の上を滑ってきた移動も、決して何の消耗もないわけではないらしい。
「どうして誰も彼も、ちゃんとお話を聞いてくれないんでしょう……。そのせいで怪我までしてしまいましたし、ここまで追いかけてくるのにも魔力を結構使っちゃいましたし……」
そう言いながら頬の傷へ指先でそっと触れた、その瞬間だった。
ラルフ様の表情が変わった。
「……貴様」
「お兄様……?」
「リリア、後ろにいろ」
低い声でそう告げると、ラルフ様はリリア様を庇うように一歩前へ出て剣を抜いた。私も胸の奥に嫌なものが広がるのを感じながら杖を構え直し、カイトもラルフ様の少し斜め後ろへ立つ。
「一つ聞く」
「はい、なんでしょう?」
「ゲオルグはどうした」
「げおるぐ……?」
リゼットは何を聞かれているのか本当に分からないらしく、きょとんとした表情で首を傾げた。しばらく考えたあと、ようやく何かを思い出したように小さく手を叩く。
「ああ、さっきのおじいさんですか?」
「そうだ」
「うーん……もう死んじゃったんじゃないでしょうか……」
「……何?」
ラルフ様の声がさらに低くなった。
「お腹に大きな穴を開けちゃいましたし……あれだけ血も出てましたから……」
まるで転んで擦り傷を作った話でもしているような口調だった。自分が何を言っているのか確かめるように少し考えたあと、リゼットは納得した様子で小さく頷く。
「うん。多分、もう死んでると思います」
その言葉が耳へ入った瞬間、頭の中が真っ白になった。
──ゲオルグさんが死んだ?
意味は分かるのに、それが事実として頭へ入ってくるまでには少し時間がかかった。
「……嘘、ですわよね?」
震える声が聞こえ、私はリリア様へ視線を向けた。
「ゲオルグは……後から来ますのよね? お兄様、そう言いましたわよね?」
ラルフ様は答えなかった。
剣を握っている右手が僅かに震えている。怒っているのか、悲しんでいるのか、私には分からなかった。きっと、その両方なのだと思う。
やがてラルフ様はゆっくり顔を上げ、リゼットを睨みつけた。
「……貴様が、ゲオルグを殺したのか」
「え? ああ……まあ、そうなるんでしょうか」
リゼットは少し困ったように頬を掻いた。
その態度を見た瞬間、私の胸の中にも熱いものが込み上げてきた。怖いという気持ちは消えていない。それでも、それ以上に腹が立った。
人を一人殺したのに、どうしてこんなに何でもないことのような顔ができるのだろう。
「ああ、そうだ──」
リゼットは何事もなかったかのように話を続けた。
「そんなことより、リリア様にお聞きしたいことがあるんです」
その一言で、ラルフ様の雰囲気がはっきり変わった。
「……そんなこと?」
「はい。以前、リリア様と一緒にいらっしゃった──」
「そんなこと、だと……?」
リゼットの言葉を遮る。
私から見えるのはラルフ様の横顔だけだったけれど、それでも今まで見たことがないほど怒っているのは分かった。
「ふざけるな……ゲオルグを殺しておいて……何が、そんなことだ……!」
「お、お兄様……!」
「貴様ァ!」
ラルフ様が床を蹴った。
「カイト! 合わせろ!」
「はいッ!」
呼びかけに応じ、カイトもすぐに走り出す。
正面から向かうラルフ様に対し、カイトは少し右へ角度をつけて距離を詰めていた。一人を止めようとすれば、もう一人が攻撃できるように位置をずらしている。
村を出たばかりの頃なら、きっとこんな動きはできなかった。カイトも以前よりずっと周りを見るようになったし、誰かと合わせて戦うこともできるようになっている。
だったら私も、後ろで見ているだけではいけない。
「あぁ……もう……なんて野蛮なんでしょう。私は平和的にお話をしたいだけなのに……」
リゼットは心底困ったというように眉を下げながら左手を上げた。
その瞬間、周囲の空気が急激に冷たくなり、白い靄のような冷気の中から鋭く尖った氷の棘が次々と生まれる。
「来るぞ!」
ラルフ様が叫ぶと同時に、氷の棘が二人へ飛んだ。
ラルフ様は身体を低くして一本をかわし、続けて飛んできたもう一本を剣で弾く。カイトも横へ身体を投げ出すようにして氷を避けたが、そのせいで二人の動きがほんの僅かにずれた。
その隙を、リゼットは見逃さなかった。
右手に握られた鞭が生き物のように宙を走り、ラルフ様の腕へ巻きつく。
「ぐっ!」
強く引かれ、ラルフ様の体勢が崩れた。
「ラルフ様!」
私はすぐに杖をリゼットへ向ける。
「ウィンドカッター!」
杖の先へ集めた風が鋭い刃へ変わり、真っ直ぐリゼットを目掛けて飛んでいく。以前よりずっと速く魔法を撃てるようになったし、狙いだって外していない。
けれど、リゼットは焦る様子もなく小さくため息をついただけだった。
「もう……」
軽く手首を返すと、ラルフ様へ絡みついていた鞭が一度だけ外れ、そのまま空中を弾けるように走る。
バチンッ、と鋭い音が響いた。
「なっ!?」
鞭が触れた瞬間、ウィンドカッターが跡形もなく消えた。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。避けられたわけでも、何か別の魔法で防がれたわけでもない。私の魔法そのものが、鞭で叩かれた瞬間に消えてしまったのだ。
「何……今の……」
ウィンドカッターなら、これまで何度も魔物を切り裂いてきた。分厚い肉だって切れるし、当たり方次第では骨まで断つことができる。
それだけの魔法が、あんな簡単に消された。
この人には私の魔法が通じないのではないか。
そんな考えが浮かび、身体が僅かに竦んだ。
「危ないじゃないですかぁ。当たったら怪我しちゃいますよ?」
「ど、どの口が言ってるのよ……!」
思わず怒鳴り返した、その時だった。
「うおおおおおおっ!」
ラルフ様の叫び声とともに、その身体を薄い魔力が覆った。
身体強化だ。カイトが訓練をしているところを見たことはあるけれど、今のラルフ様の動きはそれとは明らかに違った。全身へ一気に魔力を巡らせたのか、踏み込んだ足が石床を強く鳴らし、身体そのものが弾かれたような勢いでリゼットへ飛び込んでいく。
「ラルフ様……!」
さっきまでとは比べものにならないほど速く、私には振るわれる剣の軌道を追うだけでも精一杯だった。
さすがのリゼットも少し驚いたらしく、横薙ぎに振られた剣を身体を反らしてかわす。続く一撃は鞭で逸らしたものの、ラルフ様は止まらず、さらに踏み込んで次の攻撃を繰り出した。
もしかしたら、このままなら。
そんな期待が胸に浮かんだ直後、それが甘い考えだったと思い知らされる。
「もう……しつこいですよぉ」
リゼットは剣が振り下ろされた瞬間、その懐へ潜り込むように身体をずらした。
鞭が蛇のように宙を走る。
「がっ!?」
次の瞬間には、ラルフ様の首へ巻きついていた。
「ラルフ様!」
鞭が勢いよく引き上げられ、ラルフ様の足が床から離れる。
「ぐっ……が……!」
「お、お兄様!」
首を締められたまま宙吊りになったラルフ様を見て、リリア様が悲鳴を上げる。
「離せ!」
カイトが助けようと駆け出したものの、途中で一度だけ足を止め、深く息を吸った。
その身体を薄い魔力が覆う。
床を蹴った瞬間、私は思わず目を見開いた。
いつものカイトとは明らかに速度が違う。
マルルゥが何度も教えていた身体強化だ。
訓練を始めた頃は全身へ均等に魔力を巡らせることさえできず、ようやく成功したと思えば、自分が出した速度に身体がついていかず派手に転んでいた。それでも諦めずに繰り返していた成果が、今こうして実戦で形になっている。
ラルフ様ほど滑らかではないし、身体が速度に振り回されているような危うさもある。それでも以前のカイトより遥かに速い。
「ラルフ様を離せぇっ!」
「あら……?」
リゼットも驚いたように目を丸くした。
カイトが一気に距離を詰める。
このままなら届く。
そう思った時、リゼットが空いている左手をカイトへ向けた。
冷気が集まり、鋭い氷の棘が次々と形を作っていく。
「カイト!」
氷の棘が一斉に放たれた。
身体強化で速くなった分、今のカイトには急に止まったり進路を変えたりする余裕がない。
避けきれない。
そう気づいた瞬間、もう身体が動いていた。
「風よ──!」
杖を前へ突き出しながら、マルルゥに言われたことを思い出す。
魔法使いの仕事は後ろから攻撃するだけではない。戦況を見て、必要なら仲間を守ることも大切なのだと、そのために教えてもらった魔法だった。
皆に隠れて何度も練習してきた。
今だけは絶対に失敗できない。
「ウィンドウォール!」
杖の前で風が激しく渦巻き、ほとんど目には見えない空気の壁となってカイトの進行方向へ広がった。
飛んできた氷の棘が次々とぶつかり、杖を握る両腕へ強い衝撃が伝わる。
一つ目が風に押されて壁へ逸れ、二つ目も弾いた。三本目は完全には止められなかったものの、僅かに軌道を逸らしたことでカイトの肩を掠めるだけで通り過ぎていく。
「……できたッ!」
思わず声が漏れた。
何度も失敗した魔法で、今度はちゃんとカイトを守れた。
「ありがとう、ティナ!」
カイトは止まらず、身体強化の勢いをそのままにリゼットへ突っ込んでいく。
残る距離はほんの数歩しかない。
しかもリゼットの鞭は、今もラルフ様の首へ巻きついたままだ。さっき私の魔法を消した時のように、自由に動かすことはできない。
今度こそ、いけるかもしれない。
「あっ」
ところがリゼットは何かを思いついたように小さく声を上げると、鞭を持っている腕を大きく振った。
「ぐっ!?」
宙吊りにされていたラルフ様の身体が、そのまま横方向へ勢いよく振られる。
「カイト!」
「えっ──」
身体強化で全力のまま突っ込んでいたカイトには、急に進路を変える余裕などなかった。
真正面からラルフ様の身体が飛んでくる。
「うわああっ!」
「ぐっ!」
二人は激しくぶつかり、そのまま絡み合うようにして床へ転がった。カイトは勢いのまま壁際まで転がり、後頭部を石壁へ打ちつける。
「うっ……」
短い呻き声を漏らしたあと、身体から力が抜けた。
「カイト!?」
すぐに駆け寄りたかった。
けれど、リゼットから目を離すことはできない。
それにラルフ様をカイトへぶつけたことで、リゼットの身体がほんの一瞬だけ止まっていた。
鞭はまだラルフ様へ巻きついている。さっきのように、私の魔法を叩き消すことはできない。
私は杖を構え直した。リゼットとの間を遮るものもない。
「ウィンドカッター!」
風の刃が一直線にリゼットへ向かう。
「おっと……」
リゼットが鞭を引いた。
最初は何をしたのか分からなかった。
床に倒れていたラルフ様の身体が勢いよく引き上げられ、そのまま私とリゼットの間へ滑り込んでくるのが見えた瞬間、全身から血の気が引いた。
「ラルフ様!?」
このままでは当たる。
「消えてっ!」
反射的に、放った魔法へ流し続けていた魔力を断ち切った。
マルルゥには、魔法を撃った瞬間に終わったつもりになるなと何度も言われていた。術式が完全に崩れるまで意識を残していれば、途中で威力を弱めたり、場合によっては魔法そのものを消すこともできる。
何度も練習した。
飛んでいた風の刃が大きく揺らぎ、その形を崩していく。
間に合って。
「ぐっ!」
赤いものが宙へ飛んだ。
「──っ!」
ウィンドカッターはほとんど形を失っていた。それでも完全に消えるには、ほんの僅かに遅かった。
崩れかけた風の刃がラルフ様の右頬を斜めに走り、皮膚を深く切り裂いた。
「ラ、ラルフ様……!」
頬から血が流れ落ちる。
解除できなければ、もっと酷いことになっていた。それでも、ラルフ様の顔についた傷を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
あれは私の魔法でつけた傷だ。
「そ、そんな……わ、私のせいで……」
リゼットは「あーあ」とでも言いたげにラルフ様を見た。
「危ないですよぉ。味方がいるのに、そんな魔法を撃ったら。でも、途中でちゃんと消したんですね。消さなかったら、もっと大変なことになってたと思いますよ?」
「……っ」
何も言い返せなかった。
「ティナ!」
強い声に顔を上げると、頬から血を流したラルフ様がこちらを睨んでいた。
「ぼさっとしてる場合か!」
「で、でも……私が……」
「そんなことは後だ!」
ラルフ様は自分の傷など気にもしていないようだった。
「リリアを連れて逃げろ! カイトを起こして、お前とカイトでリリアを連れてここから出ろ!」
「でも、ラルフ様が……!」
「いいから行け!」
首にはまだリゼットの鞭が巻きつき、頬からも血を流している。それなのに、自分がどうなるかではなく妹を逃がすことしか考えていない。
ゲオルグさんも、そうだった。
私たちを逃がすため、一人で残った。
その結果が、さっき聞かされた言葉なのだとしたら。
「早くしろ! リリアを──」
「うーん……」
リゼットが困ったように首を傾げた。
「いいんですか?」
「……何?」
鞭が僅かに締まる。
「ぐっ……!」
「お兄様!」
ラルフ様の顔が苦痛に歪む。
「逃げても構いませんけど……この方、大丈夫でしょうか?」
リゼットは、まるで親切に教えているような口調で私を見ながら、さらに僅かに鞭を締めた。
「がっ……ぁ……!」
「やめて!」
「私ももう疲れてるんです……。これ以上暴れられると、ちゃんと殺さないように手加減するのも大変なんですよぉ」
ラルフ様は逃げろと言っている。
けれど、このまま逃げればラルフ様がどうなるか分からない。カイトは壁際で倒れたまま動かず、私一人ではリゼットに勝てるとも思えない。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
そんな考えが一度に頭の中へ押し寄せ、足が動かなかった。
「もうやめてください!」
地下道へ、リリア様の声が響いた。
「リ、リア……?」
ラルフ様が苦しそうに顔を向ける。
リリア様は泣いていた。
頬を伝う涙を拭おうともせず、リゼットへ向かって一歩前へ出る。
「私に……私にお話を聞きたいのでしょう!?」
「あ……はい」
「でしたら、何でもお答えします! だから……だから、お兄様たちを離してくださいませ!」
リリア様は深く頭を下げた。
「お願いします……もう、お兄様たちを傷つけないでください……!」
「リリア……駄目、だ……」
ラルフ様が何とか声を絞り出す。
「逃げ……ろ……」
「嫌ですわ!」
リリア様が泣きながら強く首を振った。
「ゲオルグも……お兄様まで……これ以上、私のために誰かが傷つくのなんて嫌です!」
その言葉にラルフ様は何も返せなかった。
リリア様だって怖いはずだ。
目の前にいるのは、ゲオルグさんを殺したかもしれない相手で、これから自分が何をされるのかも分からない。それでも、自分のせいでこれ以上誰かが傷つくことに耐えられず、自分から前へ出た。
守られているだけの小さな女の子なのだと思っていたけれど、違う。
リリア様も、自分にできる方法で戦っている。
「わぁ……!」
そんな私たちとは対照的に、リゼットの表情はぱっと明るくなった。
「やっとお話ができますね。最初からリリア様みたいに、ちゃんとお話を聞いてくださる方ばかりだったら、こんなに苦労しなかったんですけどねぇ……」
本当に嬉しそうだった。
自分がゲオルグさんを殺し、ラルフ様やカイトを傷つけた原因が、自分ではなく話を聞こうとしなかったこちら側にあると、本気で思っているのかもしれない。
「ふざ……け……」
ラルフ様が苦しそうに身体をよじる。
「あ、まだ暴れるんですか?」
リゼットが軽く腕を振ると、鞭に捕まっていたラルフ様の身体が再び持ち上げられた。
「お兄様!」
「少し寝ていてくださいね」
次の瞬間、ラルフ様の身体が横へ大きく振られ、ドンッという鈍い音とともに石壁へ叩きつけられた。
身体から力が抜け、鞭が外れると、そのまま床へ崩れ落ちる。
「ラルフ様!」
私はすぐに駆け寄った。
顔を近づけて呼吸を確かめると、胸はちゃんと上下している。少なくとも、息はしている。
頬からはかなり血が流れている。
その傷をつけたのが自分だという事実が胸へ重くのしかかってくるものの、今はそれを考えている場合ではない。
すぐ近くに倒れているカイトの首元へも指を当てる。
こちらにも脈があった。
二人とも生きている。
そのことに、ほんの少しだけ胸を撫で下ろす。
「さて、と」
背後から聞こえたリゼットの声に振り返ると、彼女は先ほどまで激しく戦っていたことなど最初からなかったかのような顔で、リリア様と向き合っていた。
「では、改めまして……以前、リリア様と一緒にいらっしゃったアウラさんという方なんですが、今どちらにいらっしゃるか知りませんか?」
「アウラ……?」
「はい。聖女様です」
「アウラは聖女ではありませんわ」
「あはは。皆さんそう言うんですよねぇ……。それで、今どちらに?」
「……分かりませんの」
「え?」
「アウラが今どこにいるのか、私は知りませんわ」
リゼットはしばらく固まっていた。
「えぇー……それじゃあ困りますぅ……」
露骨に肩を落とし、本当に困ったように腕を組む。
「せっかくここまで来たのに……でも、アウラさんはブルム家に泊まっていたんですよね?」
「……そうですわ」
「リリア様とも仲が良さそうでしたよね?」
「え、ええ……」
そこで、リゼットの表情が変わった。
「そうだ。だったら、リリア様を連れていっちゃいましょう」
「……え?」
「どういうことよ!」
思わず立ち上がると、リゼットはこちらがどうして驚いているのか分からないような顔をした。
「だって、リリア様を私たちがお預かりしていれば、聖女様も助けに来てくださいますよね? お二人、仲良さそうでしたし」
「そんなの……!」
「うーん……でも、勝手にこんなことをして怒られたりしないでしょうか……」
頬へ指を当て、誰に聞かせるでもなく独り言を続ける。
「ドルガさんに余計なことするなって言われそうな気もしますし……でも、このまま何の成果もなく帰ったら、それはそれで怒られそうですし……」
少し考えたあと、自分自身を納得させるように小さく頷いた。
「……うん。聖女様を連れてくるためなんですから、きっと大丈夫ですよね」
「勝手に決めないでよ!」
「そうでした。あなたにもお願いがあるんです」
「……何よ」
「伝言をお願いします」
リゼットはにこりと笑いながら、リリア様の肩へそっと手を置いた。
「アウラさん──聖女様が戻ってきたら伝えてください。リリア様は、しばらく私たちがお預かりしますって。リリア様を返してほしければ、私たちのところへ来てください、と」
「そんなの、人質じゃない!」
「ひとじち……?」
一瞬きょとんとしたあと、リゼットはようやく言葉の意味に気づいたらしく、小さく頷いた。
「言われてみれば、そうなるんでしょうか」
その反応に、改めて背筋が冷たくなる。
この人は、自分がやっていることを悪いことだと思っていないのかもしれない。人を殺すことも、誰かを傷つけることも、リリア様を人質として連れていくことさえ、自分が話をするために必要なことだと、本気で考えているように見えた。
「あ、でも場所……」
リゼットは再び考え込んだ。
「うーん……勝手に決めたら今度こそドルガさんに怒られそうですし、そこはドルガさんに聞いてからの方がよさそうですね」
やがて何かを決めたように、ぱん、と小さく手を叩く。
「では、またお知らせします。ですから、アウラさんが戻ってきたら、ちゃんと伝えておいてくださいね。どうやってお知らせするのかは……ドルガさんに相談してから、かなぁ……」
「ま、待ちなさいよ!」
私は反射的に一歩踏み出した。
リゼットが困ったように首を傾げる。
「……まだやりますか?」
その視線が、私の後ろへ向いた。
床にはラルフ様とカイトが倒れている。
二人とも意識がない。
今ここで魔法を撃ったところで、今度はリリア様まで盾にされるかもしれない。
握っていた杖へ力を込めたまま、それ以上前へ進めなかった。
「ティナ」
「……リリア様?」
リリア様がこちらを見ていた。
頬にはまだ泣いた跡が残っている。それでも私を安心させようとしているのか、ほんの少しだけ笑おうとしていた。
「大丈夫ですわ」
「大丈夫なわけ……!」
思わず声が大きくなる。
けれど、リリア様は静かに首を振った。
「ティナまで傷ついてしまったら、私はもっと嫌ですの」
「……っ」
「アウラに伝えてくださいませ。私は大丈夫だって。それと……」
リリア様は一度、床へ倒れているラルフ様とカイトへ視線を向けた。
「ラルフお兄様と、カイトをお願いします」
何も言えなかった。
「では、行きましょうか」
リゼットが前方の大きな金属扉へ近づくと、ほどなくしてカチリと錠の外れる音がした。
そのまま重い扉を押すと、その向こうにはラルフ様から聞いていた小さな前室があり、さらに奥には城壁の外へ続く最後の扉が見えた。
「では、行きましょう。リリア様」
「……はいですの」
「待って……」
思わず声が漏れた。
「リリア様!」
前室へ入る直前、リリア様がもう一度こちらを振り返る。
「ティナ」
「……はい」
「アウラに、よろしくお願いしますわ」
「……必ず伝えます。だから、絶対に無事でいてください」
「はいですの」
リリア様は小さく頷いた。
それを最後に、リゼットと一緒に前室へ入り、その姿が扉の向こうへ消えていく。
やがて、さらに奥から重い金属が動く音が聞こえた。
ガシャン──という大きな音が聞こえると、城壁の外へ続く扉が閉じたのだと分かった。
ついさっきまで剣や氷や魔法の音が響いていた地下道が、急に嘘のような静けさに包まれた。
私は閉じた扉を見つめたまま、その場から動けなかった。
追わなければならない。
今ならまだ遠くへは行っていないし、扉を開けて走れば追いつけるかもしれない。
けれど、追いついたところでどうするのか。
ラルフ様とカイト、それに私。三人で戦っても勝てなかった相手なのだ。今度は私一人しかいない。追いつけたとしてもリリア様を取り返せるとは思えないし、もし私まで倒されたら、ここにいるラルフ様とカイトを助ける人間がいなくなってしまう。
それに、私は戻らなければならない。
ゲオルグさんが殺されたということ、リゼットという女のこと、氷を自在に操る魔法や、こちらの魔法を消してしまう鞭のこと。そしてリリア様が連れ去られたことと、アウラへの伝言。
ここで何があったのかを誰かに伝えなければならない。
今それができるのは、私しかいなかった。
何をしなければならないのかくらい分かっている。
分かっているのに、頭の中ではリリア様を追いかけなければという思いと、ここに残らなければという考えがぶつかり合い、自分の魔法でラルフ様を傷つけてしまったことまで何度も浮かんできて、何も考えられなくなりそうだった。
気づいた時には、視界が滲んでいた。
「……っ」
何度か瞬きをすると、頬を温かいものが伝っていく。
泣こうとしたわけではなかった。ただ、自分が情けなくて、悔しくて、止めようとしても勝手に涙が溢れてくる。
マルルゥに頭を下げて、何度も訓練してもらった。からかわれるたびに腹が立ったし、何度も笑われた。それでも、もっと強くなりたかった。
今日だって、できたことはあった。
ウィンドウォールでカイトを守ることができたし、ウィンドカッターだって途中で消すことができた。
以前の私なら、どちらもできなかった。
それでもリリア様は連れていかれ、ラルフ様の顔には自分の魔法で傷をつけた。カイトも気を失い、ゲオルグさんはもう戻ってこない。
頑張ってきたことが、全部無意味だったような気さえした。
「……何やってるのよ、私……」
小さく呟いた言葉が、薄暗い通路の闇の中へ消えていく。
その時、滲んだ視界の端に赤いものが映った。
ラルフ様の頬から流れている血だった。
私は袖で目元を乱暴に拭うと、すぐにラルフ様のそばへ膝をついた。
今の私では、リリア様を追うことはできない。
だったら、まずはここにいる二人を助ける。
ラルフ様とカイトは、まだ生きている。
私に今できることなんて多くない。
それでも血を止めることくらいならできるし、二人の様子を確かめることもできる。
それから戻って、ここで起きたことを全部伝える。
今は自分にできることをやるしかない。
まだ止まりきらない涙をもう一度袖で拭い、私は荷物の中から使えそうな布を探して、ラルフ様の頬へ手を伸ばした。
今週降った雨の影響がやばすぎてしんどい