▽前回のあらすじ
大阪を離れ、東京へ向かう車内という密室で竜哉の凄惨な暴力を受ける花梨。白河家の権力争いと伯母の行方を巡る汚泥のような執着に晒され、心身ともに限界を迎える。薄れゆく意識の中で花梨が思い出したのは、かつて快斗がマジックで見せてくれた「青い鳥」と、あの温かな手のひらの記憶だった。
第187話
東京組のターンです。コナンは松田刑事とともに、消えた彼女の足跡を追います。
◇
翌朝――東京。
昨夜の黒羽快斗からの電話以来、コナン(新一)の脳は、かつてないほど高速で回転していた。
睡眠不足で重い頭を、冷たい水で無理やり叩き起こす。
阿笠博士には『花梨の様子が変なんだ。少し調べてくる』とだけ告げ、スケボーで、東京の高層ビル群にそびえる“東雲セキュリティ”の本社へ向かった。
エントランスを抜けると、そこには洗練されているはずなのに、どこか威圧感のある空間が広がっている。
花梨が話していた“権堂さん”のような優しい雰囲気は微塵もなく、行き交う社員たちは皆、一様に鋭い眼光を放っていた。
(……チッ、想像以上にガードが固そうだな)
コナンは受付に向かうと、わざとらしく幼い声を出し、首を傾げて受付嬢を見上げた。
「ねえ、お姉さん! 葵花梨お姉ちゃんに、忘れ物を届けに来たんだけど……。権堂さんっていう人、いますか?」
しかし、受付の女性は笑顔一つ見せず、事務的な視線でコナンを見下ろす。
「恐れ入りますが、権堂は現在出張中のため、不在となっております。また、葵花梨様というお名前は、弊社の顧客リスト及び、従業員名簿にはございません」
「えっ……? でも、花梨姉ちゃん、いつもここから迎えが来るって……」
その時、奥の自動ドアが静かに開き、ガタイのいい二人の男が現れた。
「お坊ちゃん、おうちの人はどうしたのかな? 悪戯なら困りますよ」
仕立ての良いスーツを着てはいるが、隠しきれない筋肉の隆起と、獲物を狙うような冷酷な視線。
奥から現れた男の一人が、受付嬢に低く尋ねる。
「……何かあったのか」
「いえ、この子が葵様とおっしゃる方の忘れ物を、と……」
男の一人が、コナンの前に影を落とす。
その威圧感は、ただのガードマンのそれではない。
(ただの警備員じゃねぇ。――プロの“壁”だ)
目の前の“壁”は、ちょっとやそっとじゃ崩せそうにない。
「葵? そんな名前は知らんな。ボウズ、ここは子供が遊びに来る場所じゃない。……さっさと帰りな」
「…………っ」
コナンは奥歯を噛み締めた。
……嘘だ。
「葵」という名前に反応した一瞬の、微かな瞳の揺らぎ。
この男たちは、確実に花梨のことを知っている。そして、組織ぐるみで彼女の存在を抹消しようとしている。
(……やっぱり、ただの留学じゃねえ。東雲セキュリティ自体が、何かを隠蔽してやがる……!)
これ以上食い下がれば、逆に警戒される。
コナンは子どもらしく「ごめんなさーい!」と駆け出し、ビルの外へと逃れた。
春も終わりの陽光の下、冷や汗が背中を伝う。
(権堂さんは不在、受付は門前払い、蝶ネクタイ型変声機で代表番号に電話しても、花梨については教えてくれないだろう……外側からじゃ、これ以上は無理か)
花梨の親しい警察の知り合いも、今はまだ松田しかいない。だが、連絡先すら知らない相手に頼る術はない。
「……こうなったら、直接『あそこ』を洗うしかねーな……」
コナンはスケボーに飛び乗る。
東雲セキュリティの本社ビルに背を向け、花梨のマンションへ。
(……意図的に隠している? 受付のあの反応、ただ事じゃねえ。権堂さんも出張? タイミングが良すぎる……!)
次々と通り過ぎていく景色を横目に、焦燥感が胸を焼く。
花梨を救うための糸口が、次から次へと指の間からこぼれ落ちていく感覚。
警察の力を借りたいが、今のコナンに動かせるコネクションは限られている。
(松田刑事……。あの人なら、何か知ってるかもしれねえけど……)
連絡先も知らない相手を、この広い東京で探し出すのは至難の業だ。
(クソ……時間がねぇ)
コナンは一縷の望みをかけ、花梨が暮らしていたマンションへとやって来た。
……高級住宅街の静寂の中に佇む、見慣れたエントランス。
その前に、一台の黒いスポーツカーが停まっているのが見えた。
「……あれ?」
見覚えのあるシルエット。
黒いジャケットに白のシャツ、少し緩めのネクタイ。いつものように不機嫌そうな顔で、けれど手には不釣り合いな高級菓子店の紙袋を下げた男が、インターホンの前で立ち尽くしていた。
「松田刑事!」
コナンの叫び声に、男が肩を揺らして振り返る。
「おっ! コナンじゃん。元気かーって……お前、一人か? なんでここにいんだよ」
「それはボクのセリフだよ! 松田刑事こそ、何しに来たの?」
二人は互いに一歩詰め寄ると、まるで示し合わせたかのように、同時に声を張り上げた。
「「いいところに!!」」
ハモった声が、静かな昼下がりのエントランスに反響する。
松田はサングラスの奥の目を丸くし、コナンは驚きで口を半開きにした。
「……なんだよ、お前もか?」
「松田刑事も、花梨姉ちゃんに用事があるの?」
松田は手にした菓子折りの袋をぎゅっと握りしめた。その指先がわずかに震えているのを、コナンは見逃さない。
「……ああ。何度鳴らしても出てこねえんだ。居留守にしちゃあ、気配がなさすぎる」
「花梨姉ちゃん、昨日から戻ってないんだ……。ボク、合鍵持ってるよ。……中、入ってみる?」
コナンの提案に、松田は一瞬だけ躊躇いを見せた。この前は在宅中だと思って勝手に入ったが、不在を確認しているのに、刑事として、令状もなく私宅に入るリスク……。
だが、今の彼を突き動かしているのは、職務以上の“胸騒ぎ”だった。
二人は互いに頷き、オートロックを抜ける。
マンション内は至って普通だ。
松田を見て、いつもの人だとコンシェルジュが会釈する。
「どーも」と軽く手を挙げた松田はコナンとともに、足早にエレベーターに乗り込み、七階へ――。
「……コナンは俺の後ろな? 絶対に離れるんじゃねえぞ」
花梨の部屋の前に着き、鋭い眼差しで周囲を警戒しながら、松田が先行する。
コナンが解錠ボタンを押し、ゆっくりと扉を開けた。
……ガチャ。
部屋の中に漂っていたのは、生活の匂いではなく、凍りついたような静寂だった。
窓から差し込む光に踊る埃さえもが、ここにはもう誰もいないことを告げているようだ。
カーテンの隙間から差し込む午後の光が、誰もいないリビングを白く浮き上がらせている。
リビングテーブルには、飲みかけのペットボトル。ソファには、脱ぎ捨てられたままのパーカー。
荒らされた形跡はない。
それが逆に日常が突如として断ち切られた不気味さを強調していた。
「……っ」
松田は、鋭い視線で部屋の隅々をスキャンするように見渡す。
彼がリビングの棚を調べている隙に、コナンはキッチンへ足を踏み入れた。
……そこにあったのは、あまりにも“潔い”空間だった。
(……なんだ、これ)
シンクには水滴ひとつなく、ゴミ箱は
ふと気になって冷蔵庫の扉を引くと、庫内も不自然なほど空っぽだった。
一人暮らしの女の子なら、飲みかけのペットボトルや、使いかけの調味料のひとつくらいあってもいいはずなのに。
冷凍庫を開けても、霜ひとつない。
ここには、“生活の途中”が一切残っていない。
まるで、この部屋に住んでいた人間を、痕跡ごと消し去るために整理されたみたいだった。
(あいつ……アイスだけは常備してたくせに……今日これから引っ越す予定だったのか? いや、それにしたって……まるで、自分の存在した痕跡を最初から消そうとしているみたいだ……)
コナンは顎に手を当て、思案しながらリビングに戻る。
「……事件性のある荒らされ方はしてねーな。だが……妙に静かすぎる」
松田が低く呟き、リビングの真ん中で立ち止まる。
コナンは、その背中に向かって、ずっと気になっていたことをぶつけた。
「ねえ、松田刑事」
「んー?」
「……さっきから、なんでそんなに怖い顔してるの?」
松田の肩がピクリと跳ねた。
彼はゆっくりと振り返り、コナンを見下ろす。
「ん? あー……バレた? って、お前、妙に鋭いよな~!」
松田は少しだけ眉を下げ、苦笑いを作ると、コナンの頭を大きな手で乱暴にかき回した。
「まあね~♡ ボク、名探偵だから!」
コナンはわざとらしくドヤ顔を作って見せる。
今は、いつもの子どものフリをしてでも、松田の本音を引き出さなければならない。
「こいつ! あざとい顔しやがって。さすがは花梨のマブダチだな!」
松田はふっと笑ったが、その瞳の奥にある影は消えていなかった。
「へっへーん! ……で? なんで怖い顔してたの? この間の写真、やっぱり何かおかしかったの?」
コナンの言葉に、松田の手が止まる。
彼はしばし沈黙し、ポケットから一枚の写真を取り出した。
杯戸駅で花梨から奪った、彼女が笑っているスナップ写真だ。
「……これな。……気になって、鑑識に回してみたんだよ」
「鑑識……?」
松田は写真を、窓からの光に透かすように掲げた。
「ああ。……結果はほぼクロだ。これ、ただの記念写真じゃねえ。『盗撮』だよ」
「っ!? 盗撮……!?」
コナンの瞳が見開かれる。
脳裏に、あの日、駅ロッカー前での光景が蘇った。
『わ~、頼んでおいた写真、できたんだ~! 可愛い~♡♡』
あの時、花梨はそう言って笑った。
コナンが不自然だと見抜こうとしたのを、あざといウインクひとつで煙に巻き、無理やり幕を引いたのだ。
(……あいつ、あの時から気づいてたんだ。これが普通の写真じゃねえってことに。……なのに、オレたちの前で、必死に演技してやがったのか……!)
胸が締め付けられるような後悔。
探偵としての目が、彼女の完璧な“人形の笑顔”に曇らされていた。
「……画角、ピント、対象との距離感。こりゃあ、張り込み用のレンズを使ってる。一般人が気軽に撮れる距離じゃねぇよ」
松田の声が、怒りで低く震える。
彼はあの日、花梨の微かに震える指先を見逃さなかった。だからこそ、写真を預かり、鑑識に回したのだ。