応接室には、紙の擦れる音がかすかに響いていた。
クレアは椅子に深く腰掛け、腕を組んでいる。
ラナーは向かい側で、机の上に積まれた報告書を一枚ずつ並べていた。
「……趣味悪いわね」
「何のことでしょう?」
「分かっててやってるでしょ」
ラナーは答えず、一枚の羊皮紙を取り上げた。
「モモンさん。漆黒の鎧。剣士としての技量は稚拙だが膂力は戦士長以上の可能性も。クレアが正面からの戦闘を避けるべきと判断する程度。
ナーベさん。魔法詠唱者。少なくとも第五位階以上を容易に扱う。両名とも出自不明」
次の紙。
「ズーラーノーン所属、カジット。旧知の人物、死霊系魔法を扱う魔法詠唱者。推定第六位階相当まで扱う。
非常に強力ですね。うまく駒にできたら良かったのですが」
「忠誠心があるようには見えなかったから状況次第だったかな。まあ、今回は厳しかったね」
「同じく、ヴィエラ。吸血姫で近接戦闘のスペシャリスト。加虐性が非常に強い異常者。モモンに圧殺されたと。
腐肉の巨人グロムの方はナーベに消し炭にされる。この二人とはズーラーノーンでの接触はなかった。
幹部としての噂程度には情報を持っていたということですね」
「まあね。どっちも実働してる幹部ではあったから。ズーラーノーンには生きてるのか定かじゃないやつも多い」
「これらの報告は至極真っ当ですね」
「仕事だからね」
また一枚。
「アインザックさん。冒険者組合長としての能力、性格、交渉上の癖。
リィジーさん。薬師としての技能、孫への執着、金銭への反応。事細かに調べましたね?」
そして、一枚の紙を机の中央へ置く。
ンフィーレア・バレアレについての報告書。
『若年ながら優秀な薬師。祖母リィジーの後継候補。施療所運営に不可欠』
『性格は温厚。危険性なし』
『薬学知識は極めて高い。継続的な協力関係を推奨』
それだけだった。
「十分じゃない?」
「いいえ」
「何が足りないのよ」
「評価です」
「書いてあるでしょ。優秀な薬師。危険性なし」
「それは表面上の役割と印象です」
ラナーが紙を指先で整える。
「あなたは、役に立たない人についても、役に立たない理由を書きます」
「……褒めてる?」
「ええ、とても」
クレアは眉間に皺を寄せた。
「戦えないなら、どの程度戦えないのか。嘘をつくなら、どんな時に嘘をつくのか。
あなたは善悪より先に、そういうものを見るでしょう?」
「仕事だからね」
「ですから、ここだけ妙なのです」
どれも間違ってはいない。
だが、クレアが人間を見る時の癖があまり感じられない。
「この方についてだけ、あなたは途中で評価を止めているように見えます」
「考えすぎよ」
「そうでしょうか」
「薬師よ。戦う人間じゃない。書くことがなかっただけ」
「では、リィジーさんは?」
「婆さんは怖いから」
「ンフィーレアさんも怖いかもしれませんよ?」
「どこがよ」
「分かりません」
ラナーは微笑んだ。
「あなたが書いていないので」
クレアは舌打ちした。
完全に遊ばれている。
ラナーはまだ答えを知らない。
少なくとも、タレントの内容までは。
だが。
何かがある。
そこまでは確信している。
「……ずっとこれ調べてたわけ?」
「様々な可能性を考え、気をつけて見てはいました」
「あんたのそーゆーとこほんと嫌い」
「知っています」
ラナーは楽しそうに紅茶を口へ運んだ。
*
プレアデス商会との騒動が収まった夜。
ラナーの頭に残った違和感は、ひどく小さなものだった。
なぜ、彼女たちはンフィーレア・バレアレ本人を求めたのか。
優秀な薬師。
それだけなら理解できる。
だが、プレアデス商会の技術は、彼の薬学など必要としていない。
あの商会は、人間の常識では考えられない精度で、ゴミを価値ある品へ変えてみせた。
そんな者たちが、若い薬師一人へ執着する理由。
さらに。
その要求を口にした瞬間。
クレアは、ほんの僅かに反応した。
目線。
呼吸。
指先。
普通なら見逃す程度の変化。
だが、ラナーは見逃さなかった。
情報のない場所を。
クレアの報告は文章こそ雑だが、必要な情報を嗅ぎ分ける能力は高い。
危険。利用価値。敵意。執着。人間関係。
彼については……
*
「何を隠しました?」
ラナーは、とうとう迂回をやめた。
クレアは鼻から息を吐く。
「何も」
「そうですか」
「そうよ」
「では、そのように扱いましょう」
「……は?」
予想していた言葉と違い、クレアは眉を上げた。
ラナーは報告書をひらりと持ち上げる。
「危険性なし。特筆すべき能力なし。薬師としてのみ有用。そういう人物として扱います」
「……」
「今後、必要が生じた場合には、私の方で改めて調べますね」
クレアの指が止まった。
「何を?」
「何でも」
あっさりした返事。
「出自。魔法適性。そしてタレント。人間関係。他国との取引や関係。プレアデス商会がなぜ関心を持ったのか」
「待ちなさいよ」
「何でしょう?」
「勝手に調べる気?」
「何もないのでしょう?」
ラナーが首を傾げる。
「でしたら、問題はありませんよね」
クレアは睨みつけた。
数秒。
ラナーは急かさない。
この女は、こういうところが一番嫌いだ。
逃げ道がないと知っているから待てる。
「……性格悪い」
「それも知っています」
クレアは窓の外へ目を向けた。
既に夕日は沈みかけている。
石造りの街並みが、赤から藍へ変わっていく。
昼間。
硬い黒パンを二人で齧った。
『一人で食べるの寂しいじゃないですか』
馬鹿みたいな言葉。
あんな男が。
自分の持っているものが何なのかも知らず。
「……才能よ」
「はい?」
「タレント」
ラナーの表情から、笑みが消えた。
ほんの僅かに。
それだけで十分だった。
「ンフィーレアには、ものすごいタレントがある」
「内容は?」
「どんな魔道具でも使える」
「……どんな?」
「職業も、信仰も、使用条件も無視して。少なくとも本人はそう言ってた。実際、神官じゃなきゃ動かせない杖を使った」
ラナーが動かなくなった。
数秒。長い沈黙。
その頭の中で何が繋がったのか。
考えるまでもない。
叡者の額冠。
巫女姫。
法国。
そして。
ぷれいやー。
「いつ知りました?」
「エ・ランテルに来て少ししてから」
「なぜ報告しなかったのです?」
「……」
答えは簡単だった。
政治的な理屈などない。
未来予測でもない。
戦略でもない。
「嫌だったから」
「何が?」
「あんたに教えるのが」
ラナーの瞳が僅かに細くなる。
クレアは睨み返す。
「あんたは利用するでしょ」
「ええ」
迷いすらなかった。
「叡者の額冠を試します」
「……でしょうね」
「もし本当にあらゆる魔道具を使用できるのであれば、法国が秘匿している遺物でも使えるはず」
「だから黙ってたのよ」
「合理的ではありません」
「知ってる」
「世界の外から来る存在へ備えるという目的から見れば、極めて重要なことです。行為の情報魔法も使えるでしょう?」
「知ってるって言ってるでしょ」
クレアの声が少し強くなった。
ラナーは黙る。
「分かってるわよ。それくらい。あんたに言えば調べられる。
法国のことも、ぷれいやーのことも、今よりずっと早く分かったかもしれない」
「では?」
「でも嫌だった」
吐き捨てる。
「あいつは薬師であたしは治癒師、それで十分だと思ったのよ」
昼間の光景。硬いパン。どうでもいい会話。
「自分から言ったのよ。もっと人を助けたいって。
私の負担を減らしたいって。そのために自分のタレントを使いたいって」
「……」
「馬鹿でしょ。あんなもの見せたらどうなるかも知らないで」
クレアは笑おうとした。
「便利な道具よ。あいつは」
「……」
「法国なら絶対に放っておかない。あんただってそう。プレアデス商会だって、実際に欲しがった」
「だから、書かなかった?」
「巫女姫はもう見たくない」
クレアは一瞬だけ目を閉じた。
冠を被せられた少女。
最後には何の役にも立たない子供へ戻って死んだ少女の顔が、一瞬だけ浮かんだ。
「使えるからって、使い潰していい理由にはならないでしょ」
静かな声だった。
ラナーは何も言わない。
「だから報告書にも書かなかった。書けば、あんたは気付くと思ったから」
「なるほど」
ラナーは机の上へ目を落とした。
「私を欺いた」
「そう」
「私があなたへ与えた信頼を利用した」
「そうね」
「私の計画を妨げた」
「……そうよ」
一つずつ。
逃げられないように置いていく。
クレアは目を逸らさなかった。
「後悔していますか?」
「してない」
「そうですか」
ラナーは紅茶を一口飲んだ。
「では、一つだけ確認します」
「何よ」
「ンフィーレアさんは、このことをご存じですか?」
「……何を」
「あなたが彼について何を隠したのかを」
「知る必要ないでしょ」
「なぜです?」
「危ないからよ」
「誰にとって?」
「……」
クレアの眉が動く。
「本人が知ったら、余計なことするかもしれない。あいつ、研究馬鹿で好奇心の塊だし」
「もし、危険を知ったうえで、それでも試したいと言ったら?」
「止める」
「誰が?」
「私がよ」
「そうですか」
ラナーは、それだけ言った。
責めるでもなく。
呆れるでもなく。
ただ一度、頷いた。
「何よ」
「いえ」
「言いたいことあるなら言いなさいよ」
「クレアが決めるのですね」
「……」
クレアは返事をしなかった。
「法国も、そう言うのでしょうね」
「一緒にするな」
低い声。
ラナーは否定しなかった。
肯定もしない。
「私は、あいつを守った」
「ええ」
「法国とは違う」
「そうかもしれません」
「何、その言い方」
「私には決められませんので」
ラナーは報告書を指先で撫でる。
「私は、報告されていれば使ったでしょう」
「……」
「あなたは、それが嫌で隠した」
「そうよ」
「でしたら、私に任せたくなかったのでしょう?」
「当たり前でしょ」
「では、クレアにも任せない方が公平ですね」
一瞬。
クレアは意味が分からないという顔をした。
「は?」
「本人に決めてもらいましょう」
「……あんた、本気?」
「ええ」
「ンフィーレアに全部言うの?」
「クレアが」
即答。
「何で私なのよ」
「私が言う理由もないので」
「処罰?」
「そう呼びたければ」
ラナーは可愛らしく微笑む。
「もっと他にあるでしょ。報告役から外すとか」
「その方が楽でしょう?」
「……」
「ですから駄目です」
やっぱり性格が悪い。
クレアは頭を抱えた。
「何をどこまで言えばいいのよ」
「全部です」
「全部?」
「タレントがどう利用され得るのか。法国が知れば何をする可能性があるのか。
私へ報告していたなら、私が何をしたのか」
ラナーはそこで一度区切った。
「そこは、きちんと伝えてくださいね。
私が言えば、私に都合よく誘導するかもしれませんよ?」
クレアは口を開き。そして、閉じた。
「それから」
「まだあるの?」
「なぜ、クレアが隠したのかも」
「……それ要る?」
「本人が決めるためには、必要では?」
「……」
クレアは目を逸らした。
厄介だった。
法国の話も。
ラナーの話も。
ナザリックの話も。
全部、まだいい。
一番言いたくないのは。
自分が勝手に心配して。
勝手に怒って。
勝手に黙ったことだった。
「明日で構いません」
ラナーは報告書を束ねた。
「話してください」
「……あんたも来る?」
「いいえ」
「何でよ」
「あなたが選んだことですもの」
クレアは立ち上がった。
扉へ向かい、途中で振り返る。
「姫様」
「はい?」
「怒ってないの?」
「怒っていますよ」
「そうは見えない」
「怒鳴ればよろしいですか?」
「それはそれで嫌」
「難しいですね」
困ったように笑う。
クレアは舌打ちして、部屋を出た。
*
翌朝。
バレアレ薬店の前。
クレアは立っていた。
朝日が眩しい。
通りには既に人がいる。
パン屋の窯から煙が上がり、荷馬車が石畳を軋ませて通り過ぎていく。
いつもなら何の躊躇もなく開ける扉。
そこへ手を伸ばして。
止まる。
昨日までなら。
黙っていればよかった。
知らなければ、ンフィーレアは薬師のままでいられる。
そう思っていた。
だが。
それを決めたのは、誰だ。
クレアは顔をしかめた。
「……くそ」
剣を抜く方が、よほど簡単だ。
化け物へ突っ込む方が。
人を殺す方が。
ずっと。
一度だけ大きく息を吸う。
そして。
扉を叩いた。