扉を叩いてから、クレアは少し後悔した。
返事が来なければいい。
留守なら、もっといい。
そんな考えが頭をよぎった直後。
「はーい」
聞き慣れた声がして、扉が開く。
「クレアさん? おはようございます」
ンフィーレアが顔を出した。
少し跳ねた髪に薬草の匂い。
昨日と変わらない顔。
「……おはよ」
「どうしたんですか?」
「話がある」
「話?」
ンフィーレアがクレアの顔を見る。
少しだけ表情を引き締めた。
「分かりました。どうぞ」
「婆さんは?」
「裏で薬草を干してますけど」
「できれば聞かれたくない」
「……分かりました。二階に行きましょう」
*
二階の小部屋。
壁際には薬学書が積まれ、窓辺には刻みかけの薬草が置かれている。
ンフィーレアが椅子を引いた。
「座ります?」
「立ってる」
「じゃあ僕も」
「座ってなさいよ。落ち着かない」
「クレアさんの方が落ち着いてないように見えますけど」
「うるさい」
ンフィーレアは素直に座った。
クレアは窓際へ寄り、腕を組む。
それからほどく。
また組む。
「……あの」
「ちょっと待って」
「はい」
待たせたところで、言いやすくなるわけでもなかった。
クレアは舌打ちをして、話をはじめた。
「ラナーにバレてた」
「何がです?」
「あんたのタレント」
ンフィーレアの肩が強張った。
「王女殿下に?」
「そう」
「……クレアさんが話したんですか?」
「違う。あいつが気付いた」
「どうやって」
「私の報告書」
ンフィーレアは少し首を傾げる。
「あんたのこと、わざと詳しく書かなかったのよ」
「……え?」
「特殊能力なし。一般人。王都へ移す必要もない。大体そう書いた」
「でも、僕は」
「知ってる。嘘よ」
クレアは吐き捨てるように言った。
ンフィーレアの目が一瞬、伏せられる。
「……そうだったんですか」
「そう」
ンフィーレアは、自分ならどんな魔道具でも使えると告白した。
疲れ果てたクレアを助けたいと。
もっと多くの人間を救いたいと。
「クレアさんはあの時、言ってましたよね」
「何を」
「僕の力が知られたら、自由を奪われるかもしれないって」
ンフィーレアは自分の手を見る。
「カジットにも、『鍵』って呼ばれていました」
クレアの顔が少し歪んだ。
「……そうね」
「あれも、僕のタレントが理由なんですよね」
「たぶんね。あいつらがどこまで掴んでたかは知らないけど」
「じゃあ、王女殿下でも同じようなことを?」
「する」
「……」
即答した。
ンフィーレアから見たら、あの王女はそんな冷徹な面を持ち合わせていることはわからないだろう。
「本人に聞いた。報告してたらどうしたか」
ンフィーレアは黙る。
「あー、アンタになら言っても良いか。正確には、叡者の額冠を試したでしょうって」
「叡者の……額冠?」
「滅多に適合者が居ない、法国の秘法よ。アタシが法国を裏切る時に奪ってきた」
クレアは壁へ背を預けた。
「法国には巫女姫って言う、それを使うための役職がある。
額冠を被せられて、高位の魔法を使う。この額冠には副作用があって、本人の自我はなくなる」
ンフィーレアの表情から血の気が引く。
「そんなものを……」
「あんたのタレントなら使えるかもしれない。いや、使えるでしょう」
空気が張り詰めるのを感じる。
わかりやすい形で自身の危険性を認識したのだろう。
「……それで、鍵」
「そういうこと」
「カジットたちは、僕に額冠を使わせたかったんでしょうか」
「そこまでは分からない。法国へ売る気だったのか、奴らも額冠を手に入れているのか、それとも別の魔道具を使わせる気だったのか」
クレアは鼻を鳴らした。
「でも、あんたが便利なのは同じよ」
「……」
「法国にとっても。ズーラーノーンにとっても。ラナーにとっても」
「だから、報告しなかったんですか」
「そう」
「僕を守るために?」
「……そう言うと、なんか綺麗すぎるのよね」
「じゃあ、どうして」
「嫌だったから」
答えは変わらない。
「巫女姫みたいになるのが嫌だった。あんたが便利だからって、どっかに連れてかれて、全体のために使われ続けるのが嫌だった」
「……」
「あんたは薬師で、私は治癒師。それで十分だと思ったのよ」
人類の幸福のために犠牲になる人々を法国では数多く見てきた。
個より全のために生きる人々。
彼らはクレマンティーヌの目から見ても、決して不幸には見えなかった。
しかし、どうにも理不尽に見えてしまうのだ。
「そのために王女殿下を、騙したんですか」
「そうよ」
「クレアさんが」
「何よ」
「いえ……」
ンフィーレアは少し困った顔をした。
「あんなに殿下と親しげなのに、そこまでしてくれたんだなって」
「感心するところじゃないわよ。バレたんだから」
「でも」
少しだけ笑う。
「ありがとうございます」
クレアは顔をしかめた。
「やめて」
「どうしてです?」
「今から、その話をひっくり返しに来たんだから」
ンフィーレアが瞬きをした。
「昨日、ラナーに言われたのよ」
クレアは嫌そうに続ける。
「私に決めさせたくなかったから隠したんでしょう、って」
「はい」
「なら、アタシが決めるのも違う」
「……」
「本人に決めさせてみましょうってね」
ンフィーレアはしばらく黙っていた。
クレアは机に片手をつく。
「法国に狙われるかもしれない。ズーラーノーンみたいな連中も来るかもしれない。ラナーだって、必要なら使い潰す。分かった?」
「……はい」
「アンタが思ってたより、ずっと危ない力よ」
「それは……前にも聞きました」
「そうだけど、今度は理由まで分かったでしょ」
「はい」
ンフィーレアの返事は静かだった。
「じゃあ、もう変なこと考えないで。人前で使わない。危ない道具にも触らない。何かあったら私に」
「クレアさん」
「何よ」
「それ、結局クレアさんが決めてません?」
「……」
ンフィーレアはそう指摘し、クレアは動きを止める。
言ってから少し気まずそうな顔になった。
「いや、その……ごめんなさい」
「何で謝るのよ」
「怒られるかと」
「怒りたいわよ」
クレアは睨む。
ンフィーレアは肩を縮めた。
だが、目は逸らさなかった。
「でも、そうですよね」
「何が」
「僕、あの時、すごく怖かったんです」
クレアの眉が動く。
「クレアさんに怒鳴られて。僕のせいでクレアさんを怒らせたと思って。だから、もう使っちゃいけないんだって」
「……」
「その後、本当にカジットたちにも狙われて」
拳を握る。
「クレアさんの言ってたことは本当だったんだって思いました」
「だから、黙っててくれたことは嬉しいです」
「……」
「王女殿下に僕のことを売らなかったことも。危ない目に遭わないようにしてくれたことも」
「だったら」
「でも」
クレアが口を閉じた。
「僕のためだったことと、僕が知らなくてよかったことは、同じじゃないと思います」
静かな声だった。
「……何よ、それ」
「うまく言えないですけど」
ンフィーレアは少し考える。
「僕が何も知らないまま色々なことが決まってたのが、嫌なんだと思います」
「死ぬかもしれない」
「はい」
「飼い殺しにされるかもしれない」
「それも、分かりました」
「なら」
「それでも」
ンフィーレアは言葉を探した。
「怖いからこのタレントを使わないって僕が決めるのと、クレアさんが危ないから使わせないって決めるのは、たぶん違います」
クレアは何も言わなかった。
単純な話だった。
彼女もまた強いていたのだ。
「じゃあどうするの?」
「……それは分かりません」
「何よそれ、散々偉そうなこと言っといて?」
「偉そうでした?」
「かなり」
「すみません」
ンフィーレアは謝罪の言葉を口にして、少し考えてから続けた。
「額冠は怖いです。使ったらどうなるかも分からないし」
「当然よ」
「でも」
ンフィーレアの視線が、僅かに揺れる。
「本当に僕なら使えるのか、知りたいとも思います」
クレアの目が鋭くなった。
「ンフィーレア」
「分かってます! 今すぐ触りたいって意味じゃないです!でも……魔道具として、どうなってるんだろうって」
慌てて両手を振り否定するンフィーレアの知的好奇心にクレアは呆れる。
「ただ、一つ確実なのは……薬師は続けたいです」
そこには迷いがなかった。
「タレントがあるから薬師になったわけじゃないですから」
「……」
「おばあちゃんに教えてもらって。薬を作って。失敗して怒られて。効いたら嬉しくて」
小さく笑う。
「僕は、こっちが好きなんです」
クレアはその顔を見た。
「じゃあタレントなんて捨てれば?」
「それも嫌です」
「面倒くさいわね!」
「クレアさんに言われたくないです」
「言うようになったじゃない」
「今日は怒ってますから」
「まだ怒ってたの?」
「はい」
ンフィーレアは真顔だった。
「守ってくれたことには感謝してます」
「うん」
「黙ってたことには怒ってます」
「……うん」
「どっちも本当です」
ンフィーレアは言った。
「僕じゃどうにもならない相手がいるのも知ってます。実際、クレアさんやモモンさんがいなかったら、僕はあの時連れていかれてた」
一度言葉を切る。
「だから」
クレアを見る。
「守るなら、僕を知らないままにしないでください」
*
話が終わると。
ンフィーレアは立ち上がった。
窓辺の小皿を手に取る。
「何してんの?」
「昨日の続きです」
「今?」
「今日中に試したい配合があるので」
「……あんた、結構図太いわね」
「そうですか?」
「法国に狙われるかもしれないとか、王女に使われるかもしれないとか聞いた直後よ?」
「でも、気になりますから」
その横顔は程よく力の抜けたものだった。
「これ、手伝ってもらえます?」
「私が?」
「はい」
「薬師じゃないんだけど」
「刻むだけです」
「そのくらい一人でやりなさいよ」
「怒ってるので、手伝ってください」
「意味分かんない」
そう言いながら。
クレアは差し出された薬草を受け取った。
「どれくらい?」
「細く」
「細くってどれくらいよ」
「同じくらいの幅で」
「だから、その同じって」
「それくらいです」
「分かるか!」
階下から。
「朝っぱらから何ガヤガヤ騒いでんだい!」
リィジーの怒鳴り声が飛んでくる。
「何でもない!」
「クレアさん、声大きいですよ」
「あんたのせいでしょ!」
ンフィーレアが笑った。
クレアは薬草へ刃を入れる。
一枚。
二枚。
三枚。
「クレアさん」
「何よ」
「話してくれて、ありがとうございました」
「……うん」
ナイフを持つ手は止めなかった。
何一つ答えは出ていない。
それでも、二人は薬草を刻んでいた。