プレアデス商会から正式な使者が訪れたのは、それから三日後だった。
場所は施療所ではなく、エ・ランテル市庁舎の小会議室。
出席者はラナー、クレア、ンフィーレア、リィジー。
商会側からはユリ・アルファとソリュシャン・イプシロン。
机の中央には、厚い契約書が三部置かれていた。
薬草の流通を巡って敵対した相手から出されたものとは思えないほど、内容は穏当だった。
むしろ、良すぎた。
「研究協力……ですか」
ンフィーレアが契約書の一枚目を読み返す。
研究施設はプレアデス商会側が用意。
使用する素材についても、通常市場では入手困難な品まで可能な限り提供。
報酬は施療所で薬師として働き続けても問題のない額で、それとは別に研究成果に応じた追加報酬まで存在する。
事故が起きた場合には、プレアデス商会が持つ最高水準の治療を無償で受けられる。
さらに本人だけでなく、祖母であるリィジーの安全まで保証されていた。
研究成果の一部はンフィーレア本人の名義で公表してよい。
「……こんな条件、本当にいいんですか?」
ンフィーレアが顔を上げる。
ユリは当然のように頷いた。
「相応の価値があると判断しておりますので」
「まだ僕、何もしてませんけど」
クレアは契約書を横から覗き込みながら眉を寄せていたが、文面そのものに露骨な罠は見つけられなかった。
以前のプレアデス商会なら、もっと強引なやり方も可能だったはずだ。
金を払い、設備を用意し、安全まで保証している。
奪う必要がなければ、買えばいい。
「希少素材の提供って、どこまでです?」
ンフィーレアの声が少し弾んでいた。
契約そのものより、そちらの方が気になるらしい。
ユリが差し出した目録にンフィーレアの目が走る。
「これ……本当に全部?」
「研究内容に必要であると認められた場合に限ります」
「これ、僕は本でしか見たことないんですが、実物があるんですか……?」
「用意する準備があります」
「なるほど……」
次々と質問が出てくる。
クレアは横で呆れた。
「……あんた、さっきまで警戒してなかった?」
「してますよ。でもこれは別です」
「全然別に見えないんだけど」
「素材に罪はないですから」
何の慰めにもならない。
リィジーは孫とは逆に、最初から契約内容を一行ずつ追っていた。
金額にも素材にもほとんど反応せず、研究項目の欄で何度か指を止める。
問題は、その下に続いている。
「……特殊な魔道具に対する適合性検査」
リィジーが読み上げる。
部屋の空気が少し変わった。
「ユリさん」
ンフィーレア自身が口を開いた。
「後半は、薬の研究じゃないですよね」
「はい」
ユリは否定しなかった。
「バレアレ様の能力そのものについても、当商会は高い研究価値を認めております」
「つまり、僕のタレントを調べたい?」
「その通りです」
誤魔化さずに答える。
だから余計にクレアは嫌な感じがした。
「研究って、どこまで?」
「現段階では未知数です。使用可能な魔法道具の種類、発動条件、使用回数、肉体的・精神的負荷。確認すべき項目は多数ございます」
「危険なものも使わせる気?」
「危険性が認められる場合は事前に説明いたします。その上で同意を得た試験のみ実施します」
クレアは契約書へ視線を戻した。
確かに書いてある。
拒否権。
中断権。
事故時の補償。
どれも整っている。
「随分と立派な話じゃないか」
それまで黙っていたリィジーが鼻を鳴らした。
ユリがそちらを見る。
「孫に薬を作らせる研究なら、あたしゃ何も言わないよ。設備も材料も大したもんだ。こいつだって喜んで飛びつくだろうさ」
「おばあちゃん」
「でもね」
リィジーは契約書の後半を指で叩いた。
「薬師に薬を作らせるんじゃない。薬師そのものを薬にする気かい」
ンフィーレアの表情が僅かに固まった。
ユリは特に不快そうな顔をしなかった。
「研究対象となること自体に問題がございますか?」
「問題があるかどうかを言ってるんじゃないよ」
「では?」
「こいつが薬師だから欲しいのか、珍しい力があるから欲しいのか。それを混ぜるなって話さ」
ユリは少し考えた。
そして。
「両方です」
リィジーが眉を上げる。
「薬師としての知識も有用です。しかし、タレントも有用です。当商会として、価値あるものを価値のないものとして扱う理由はございません」
「……正直だねえ」
「ンフィーレアさんは、どう思われます?」
ラナーが初めて口を挟んだ。
それまで彼女は契約書そのものより、各人の反応を見ていた。
ンフィーレアはすぐには答えなかった。
少しして、契約書を閉じた。
「薬の研究はしたいです。ここに書いてある素材も、正直すごく使ってみたい」
クレアが呆れたように横を見る。
「でも、タレントの方はまだ分かりません。何をやるかも分からないまま、この契約には入りたくないです」
「では、タレントに関する項目を除外いたしますか?」
ユリが尋ねる。
ンフィーレアは少し迷ってから首を振った。
「危険じゃないって分かって、僕もやってみたいと思ったものなら、試してみたいです」
ユリはその答えを聞き、手元の紙へ何かを書き込んだ。
「承知しました。では契約締結前に見学を提案いたします」
「見学?」
「プレアデス商会が有する研究施設へとご案内いたします。その際に、バレアレ様の能力が、当商会の想定する価値を実際に有しているかも確認させていただければと」
クレアとリィジーは警戒感を露わにしているが、当の本人はかなり惹かれているのがありありとわかる。
伺うような表情で周りを見まわし、少し迷った様子ながらも同意をするのだった。
*
その研究施設の扉に通された瞬間、クレアは顔をしかめた。
「げ」
「ひどい第一声ッスねえ、聖女サマ」
研究設備の並ぶ部屋で、ルプスレギナ・ベータが大きく手を振っていた。
ついこの前倉庫で殴り合った相手である。
その隣ではソリュシャンが細長い硝子瓶を棚へ並べていた。毒々しい紫色の液体が揺れている。
「今日はお客様ですので、喧嘩はお控えくださいね。ルプスレギナ」
「分かってるッスよ。いくら相手がエセ聖女でもユリ姉やソーちゃんの邪魔はしないッスよ~」
あからさまに馬鹿にしたような様子に、クレアのこめかみには青筋が浮かんでいる。
ルプスレギナは気にした様子もなく、机の上に置かれた包みを持ち上げた。
濡れたような黒紫色の葉が覗く。
ンフィーレアの顔色が変わった。
「それ、素手で持たない方がいいです! 樹液に触れると手が痺れますよ」
「そうなんスか?」
ルプスレギナは葉を摘まんだ自分の指を見る。
何ともない。
「私は平気みたいッスね」
「基準を自分にするなっての」
クレアが包みを奪おうとし、ルプスレギナがひょいと高く掲げる。
「ちょ、遊ぶな!」
「遊んでないッスよ。これも研究材料ッス」
「ンフィーレアの横で振り回す必要ないでしょ!」
「ルプスレギナ」
ユリの一言で、黒紫の葉は素直に机へ置かれた。
「人体に有害な素材は容器から出さないように」
「はーい」
ンフィーレアはその葉を遠巻きに眺め、何か言いたそうにしていたが、今は我慢した。
部屋には他にも見慣れない器具が並んでいる。
火を使わず一定の温度を保つ箱。
内部の空気だけを抜く硝子器。
液体を一滴ずつ正確に落とす金属製の器具。
薬師であるンフィーレアの視線は忙しかった。
その中で、彼が最も長く見つめたのは机の中央に据えられた奇妙なものだった。
銀色の平らな大きな皿の中央にくぼみがあり、そこからいくつもの細い溝が伸び、それぞれが小さな受け皿へ繋がっている。
皿の集合体のような奇妙な器具だった。
くぼみには葉を重ねたような紋様。
火口も刃もない。
「これは?」
ンフィーレアが尋ねると、ソリュシャンは微笑んだ。
「植物素材を加工するための魔道具ですわ」
「どう加工するんです?」
「一つの素材をいくつかの素材へ分けることができます」
「分ける?」
ンフィーレアが鉢を覗き込む。
「すり潰すんじゃなくて?」
「いいえ。素材を置き、起動させるだけです」
「何を基準に分けるんですか?」
ソリュシャンの笑みが、ほんの僅かに止まった。
「基準、ですか?」
「例えば煎じれば、水に出やすいものと油に残るものがあります。香りだけ先に飛ぶものもある。これは何と何を分けるんでしょう」
ユリとソリュシャンが視線を交わした。
「置いた素材に応じた別の調合素材が得られると聞いています」
ユリが答える。
「ですから、その“応じた”っていうのが――」
そこでンフィーレアは口を閉じた。
説明する側にも、それ以上の説明がないらしい。
ラナーの目が僅かに細くなる。
ンフィーレアは気を取り直し、中央の紋様へ顔を近づけた。
「この道具には使用資格が設定されています。エルフ系の種族であり、かつドルイド系統の職能を修めている者でなければ扱えません」
ユリ・アルファが説明を行う。
クレアがンフィーレアを見る。
「それなのに研究設備として見せるの?」
クレアが問う。
「将来的に商会側で使用者を配置することもできますわ」
ソリュシャンはそう答えたが、口元の笑みには別の意図も混じっているように見えた。
ンフィーレアは鉢の縁へ指を掛けた。
中央の紋様が淡い緑色に光った。
全員の視線が集まる。
ンフィーレアが手を離すと、光は消えた。
「……動きました?」
「ええ」
ユリは平坦に答えた。
ルプスレギナは楽しそうにニヤニヤしながら話しかけてくる。
「へえ。ホントに関係ないんスね、条件」
クレアが嫌そうに舌打ちした。
だが、ンフィーレアはそれより器の方を見ていた。
目を輝かせる。そして、クレアに視線を向ける。
「ちょっと待って。何その顔」
「一回だけ。駄目ですか?」
「私に聞かないでよ」
ンフィーレアはユリを見る。
ユリはソリュシャンと短く視線を交わした。
「少量であり、危険性のない植物であれば許可します」
ンフィーレアは自分の鞄を探り、乾燥させた薬草の赤い根を一本取り出した。
市販薬にも使われる、珍しくもない素材だ。
「これなら?」
ユリが頷く。
ンフィーレアは赤根を小さく折り、銀の鉢へ置いた。
手を触れる。
緑の光。
赤根がゆっくりと崩れた。
粉になったのではない。
溶けたように輪郭を失い、その色が鉢の底へ吸い込まれる。
次の瞬間。
四本ある溝のうち、三本へ異なるものが流れ始めた。
一つは、赤褐色の濃い液体。
一つは、ごく薄い黄色の油。
最後の一つには、白っぽい濁りを含んだ水のようなもの。
鉢の中央には、色の抜けた繊維だけが残っている。
誰も声を出さなかった。
ンフィーレアだけがすぐに動いた。
受け皿へ顔を少し近づけ、手で扇ぎ匂いを嗅ぐ。
黄色い油。
「……香りだけがこっちに集まってる。ならこっちは……」
赤褐色の液体の匂いを確かめた後、指先へ一滴だけ取り、舌先に触れる。
「苦っ」
「おい!」
クレアが手を叩き落としかける。
「元は赤根ですよ! 毒じゃないです!」
「そういう問題じゃない!」
だがンフィーレアは既に別の皿へ移っていた。
白い液を小さな硝子棒で掬い、光へ透かす。
そして、中央に残った繊維をつまむ。
断面を嗅ぐ。
少し噛む。
もう一度、三つの受け皿を見る。
「別の材料になったんじゃないですね。赤根の中に最初から一緒にあったものが、分かれてます」
ユリの眉が僅かに動く。
ンフィーレアは赤褐色の皿を指した。
「普段、赤根を煎じると出る苦味が、ほとんどここにある。こっちは匂い。残った繊維には、もう赤根らしい味がほとんどない」
「それが、分けるということなのでは?」
ソリュシャンが尋ねる。
「それが凄いことなんです!」
ンフィーレアは即答した。
「通常、薬草から何かの成分を取り出すときに、ここまで純粋に取り出すことはできません!潰したり、絞ったり、煮出したり……なんとかして取り出すのです」
興奮した声。
「その道具は有り得ない純度で元の構造を壊さずに材料を分けられるんです」
リィジーが初めて器の前まで歩み寄った。
赤褐色の液を睨み、鼻を近づける。
「……なるほどね」
「おばあちゃん」
「こいつは厄介だ」
口ではそう言いながら、老婆の目も笑っていた。
「こんなに綺麗に分けられたら、今まで煮出して一緒くたにしてたもんを、一から調べ直せるじゃないか」
品質審査室で効き目の弱い咳止めを前に、規格から外すか、弱い薬として使うかを話していた。
薬草の中にあるものを、一度別々に取り出せるのなら。
どの部分が効き。
どの部分が邪魔をし。
どれだけ戻せばよいのか。
試し方そのものが変わる。
少なくともンフィーレアには、これを用いれば、経験的にしかわからなかったことを理論として組み直し、多種多様な薬を作れる可能性が見えていた。
「じゃあ次、こっち入れてみるッスか?」
ルプスレギナが楽しげに黒紫色の葉を持ち上げた。
クレアの手が即座にその手首を掴む。
「やめなさい」
「面白そうじゃないッスか」
「人体に有害って言ってたでしょ!」
「だから面白いんスよ」
「ルプスレギナ」
ユリの声。
ルプスレギナは肩を竦め、葉を戻した。
「本日はここまでにしておきましょう」
「えっ」
声を上げたのはンフィーレアだった。
クレアが横を見る。
「いや……もう一種類くらい」
リィジーが呵々と笑う。
ソリュシャンは笑顔を崩さないまま、三つの受け皿を丁寧に封じ始めた。
「これらの分離物について、後ほど所見を文書にしていただけますか?別途、報酬はお支払いさせていただくので」
ユリが問うとンフィーレアは一瞬だけ目を丸くして、すぐに頷いた。
「はい。ちゃんと調べてからなら」
クレアはそのやり取りを見て、この薬師の価値がまた一段上がったことを感じ、嘆息した。
*
片付けが始まっても、ラナーは銀の器から目を離さなかった。
ンフィーレアが最初に尋ねたことが残っている。
何を基準に分けているのか。
プレアデス商会は答えられなかった。
道具の効果は知っている。
使い方も知っている。
それなのに、仕組みを説明する言葉を持っていない。
「ユリさん」
「はい」
「この器が壊れた場合、誰が修理するのですか?」
「当商会で対応いたします」
「作った方は?」
僅かな間。
「回答いたしかねます」
ラナーは続けた。
「古い型はございますか?」
「……」
「これより単純なもの。失敗したもの。別の方式で同じことをしようとしたもの」
今度はソリュシャンが口を開いた。
「王女殿下は、随分と由来にご興味がおありなのですね」
「ええ。完成品より、完成させる過程の方が多くのことを教えてくれますから」
優れたものには、そこへ至るまでの痕跡がある。
粗いもの。
失敗したもの。
古いもの。
模倣したもの。
だが。
彼女たちが持ち込むものには、それが見えない。
ラナーは帳面へ短く『種のない果実』と記した。
ンフィーレアはリィジーと並び、三つの分離物について早くも何かを話し込んでいた。
あの姿を見ながら。
ラナーは別の可能性を思い浮かべる。
もし、クレアがタレントを報告していたなら。
自分は叡者の額冠を試していたならば、この場は実現しなかっただろう。
「クレア」
「何よ」
「あの時、あなたが私へ報告していたなら、私はンフィーレアさんを王都へ移していたでしょう」
ラナーはンフィーレアを見る。
「今日と同じことは、起きなかったかもしれません」
クレアは少し考え、肩を竦めた。
このためにンフィーレアを隠したわけではない。
しかし、ラナーはこの幸運に安堵しながらも、自身の思い描いた最善手と現実での結果の差に、輪郭のはっきりしないぼんやりとした感情が膨らむのを感じるのだった。