王都には、貴族より先に噂を知る人間がいる。
御者や料理人、洗濯女に宿の下働き。誰がどこへ出入りしたかを知っていても、それが何を意味するのかまでは気にしない者たちだ。
ルミィは、そういう人間と話すのが得意だった。
「それ、本当にイビルアイさん?」
「間違いないよ。あの仮面、見間違える方が難しいだろ」
王都の裏通りにある小さなパン屋で、ルミィは焼きたての丸パンを二つ買った。
答えた女は近くの宿で働く古い知り合いで、仕事帰りに店先で鉢合わせただけに見える。
王宮勤めをしていると、頼まれ物や買い出しで街へ出ることは多い。
ルミィはそういう時、厨房の娘や御者、商家の使用人と少しずつ顔を繋いできた。
大仰な情報網ではない。
誰が酔って吐いたとか、どこの貴族が愛人を連れてきたとか、普段流れてくるのはその程度の話ばかりだった。
たまに、その程度では済まないものが混じる。
「蒼の薔薇のみんなじゃなくて?」
「一人だけ。昼過ぎに来て、二階の奥を取ったんだってさ。掃除も給仕も呼ぶまで入るなって」
「へえ」
ルミィは丸パンを一つ女へ渡した。
「で?」
「で、って?」
「その顔、まだあるでしょ」
女は笑ってパンを割った。
「王都に最近不思議な婆さんが来た」
「お婆さん?」
「歳はよく分からないね。背筋はしゃんとしてたし、歩き方も年寄りっぽくなかった。イビルアイさんが自分で迎えたって」
それは少し珍しい。
蒼の薔薇が王都にいること自体は珍しくない。ラナーとも何度も顔を合わせているし、ルミィ自身も彼女たちとは面識がある。
だからこそ、イビルアイが仲間を伴わず、わざわざ宿の一室を取ったという話が引っかかった。
「何話してたか聞いた?」
「そこに聞き耳を立ててちゃ仕事は長く続けられないでしょうよ」
「ただ、話し声のような音がいきなりひとつも聞こえなくなったって話だ。それで不思議に思ったらしいよ。」
ルミィはパンを一口齧り、それ以上は聞かなかった。
誰が泊まった。誰が来た。いつ帰った。
そういう話なら宿の者はよく覚えている。
しかし、その先までしつこく掘れば、今度はこちらが何を気にしているのかを相手へ教えることになる。
「ありがと。また面白い客が来たら教えて」
「王女様付きの侍女って暇なのかい?」
「すっごく忙しいよ」
「じゃあ仕事しな」
「今してるの」
女は冗談だと思って笑った。
ルミィも同じように笑い、その場を離れた。
ただし、聞いただけで姫へ持ち帰るには少し弱い。
ルミィは宿の正面が見える向かいの露店で薄い茶を一杯頼み、夕刻まで粘った。イビルアイとは面識がある。
だから通りを挟み、人混みの向こうから入口だけを見る。
日が傾く頃、見慣れた仮面と外套が宿から出てきた。
蒼の薔薇の他の四人はいない。
イビルアイは周囲を一度見回すと、そのまま大通りへ消えた。
それからしばらくして、今度は灰色の髪をした老女が一人で出てきた。腰は曲がっておらず、杖もついていない。歩調だけ見れば、王宮の若い侍女よりよほどしっかりしている。
ルミィは追わなかった。
二人が同じ場所で会い、別々に帰った。それだけ確認できれば十分だった。
*
「内容は聞けなかったのですね」
「はい。だから大した情報ではないかなとも思ったんですけど」
王宮の一室。
ラナーはルミィの報告を最後まで聞くと、手にしていた羽根ペンを置いた。
「いいえ。十分です。むしろ、聞けなかったことの方が大切かもしれません」
「そうです?」
ルミィが首を傾げる。
クレアは窓際の椅子に座り、出された菓子を勝手につまんでいた。
「仲間にも言わずに婆さんと会って、わざわざ盗み聞きまで防いだってことでしょ。そりゃ怪しいんじゃない?」
「怪しい、だけではまだ何も分かりませんけれど」
ラナーは紙へ短く書きつけた。
イビルアイ。その横に、年配の女性。
「恋人とか?」
「何でそうなるのよ」
「可能性を狭めないためです」
「絶対楽しんでるでしょ」
ラナーは笑った。
もちろん、密談そのものに不自然さはない。
長く生きているイビルアイなら、蒼の薔薇にも話せない知己が一人や二人いてもおかしくない。
単に個人的な相談かもしれない。
気になるのは時期だった。
エ・ランテルでは説明しにくい強者が現れ、出自の分からない商会が急速に伸びている。
そしてクレアが法国から持ち帰った古い言葉が、まだ答えの出ないままラナーの机の上に残っていた。
そんな時に、古代の知識に詳しいイビルアイが仲間にも伏せて誰かと密談し、その内容まで隠した。
関係があるとは言えない。だからこそ、確かめる価値はある。
「次に蒼の薔薇と会えるのは?」
ルミィが答える。
「明日の午後なら全員王都にいるそうです。ラキュース様は神殿の用事が午前で終わるって」
「では、お茶にしましょう」
クレアが菓子を持ったまま顔を上げた。
「聞き出すの?」
「いえいえ、普通のお茶会ですよ」
*
翌日の午後。
蒼の薔薇の五人は、いつものように王宮の一室へ通された。
ラキュースは少し疲れた様子だったが、ガガーランは出された菓子を遠慮なく取り、ティアとティナは窓辺に並んで外を眺めている。
イビルアイは普段と変わらないように見えた。
給仕を終えたルミィがラナーの後ろへ下がる。
「しかし、モモンとかいう奴もアダマンタイトか」
ガガーランが焼き菓子を噛みながら言った。
「随分早かったな」
「エ・ランテルを救った功績に加えて、実力確認も済んでいるそうです」
ラキュースが答える。
「クレアが相手したんだっけ?」
ティナが尋ねると、クレアは嫌そうな顔をした。
「ちょっとだけね。剣は下手だったけど」
「またそれ言ってる」
「実際下手だったのよ」
「下手なくせにクレアの攻撃全部止めたのか?俺でも無理だぜ。なにせ速さが違う」
「そこが気持ち悪いの」
ガガーランが笑う。
ラナーは紅茶へ砂糖を落とした。
「昔にも、そういう方はいらしたのでしょうか」
「そういう?」
ラキュースが聞き返す。
「ある日突然、とても強い方が現れることです。十三英雄も、最初から皆さん有名だったわけではないのでしょう?」
最近アダマンタイトが一組増えたのだから、過去の英雄へ話が移っても不自然ではない。
「そりゃまあ、英雄なんて最初は誰だって無名だろ」
ガガーランが肩をすくめる。
「十三英雄についてなら、イビルアイが一番詳しいんじゃない?」
ティアが仮面の少女へ顔を向けた。
「古い話だ」
イビルアイは短く答えた。
「でも知ってるんでしょ?」
「多少はな」
ラナーはそこで深入りせず、八欲王や六大神、魔神と、古い時代に現れた者たちの話を順番に振っていった。
イビルアイは知っていることには答え、答えたくないことには「知らん」と返す。
その境目に、特別な乱れは見えない。
昔話に詳しいというだけなら、昨日の密談とは何の関係もない。
ラナーは一度だけクレアを見た。
クレアは気づいているのかいないのか、二つ目の菓子を選んでいる。
ラナーは思い出したように言った。
「クレアから、変わった言葉を聞いたことがあります」
「私?」
突然振られて、クレアが顔を上げる。
「法国にいた頃、耳にしたのでしょう。とても強い方が時折現れる話です」
クレアの手が止まり、何をする気なのかは分かったらしい。
ラナーは紅茶へ視線を落としたまま続ける。
「確か――ぷれいやー、と」
音は小さかった。
それでも、イビルアイの仮面がはっきりとラナーへ向いた。
「誰から聞いた」
誰より早かった。
ラキュースが瞬きをし、ガガーランが菓子を持ったままイビルアイを見る。
「知ってんのか?」
数拍遅れて、イビルアイは自分が先に反応したことへ気づいたようだった。
「……いや」
「でも今、誰から聞いたって」
「言葉の出所を聞いただけだ」
ティアとティナが揃って首を傾げる。
ラナーは笑みを変えなかった。
「クレアです。法国でそう呼ばれる何かがあるのかと思いまして」
「そんなものは知らん」
否定は速かったが、先ほどまでとは違う。
八欲王について聞いた時にも、六大神について聞いた時にも、イビルアイはこんな声を出さなかった。
ラナーはそれ以上追わず、別の話へ移った。
最近の王都の薬価。冒険者組合の新しい仕事。ラキュースが神殿で聞いた愚痴。
いつもの会話が戻ってくる。
ただ、イビルアイだけは先ほどから一度も自分から話題を出さなくなった。
*
茶会が終わり、蒼の薔薇が席を立った。
ラキュースたちが先に廊下へ出ていく中、イビルアイだけが扉の前で足を止めた。
「ラナー」
ラナーが振り返る。仮面の奥は見えない。
「さっきの言葉だが」
廊下から、早く来いとガガーランの声がする。
イビルアイはそちらを一度見てから、声を落とした。
「軽々しく口にしない方がいい」
ラナーは少しだけ目を細めた。
「危険な言葉なのですか?」
答えはない。
「その方々は、今も現れることがあるのでしょうか」
今度もイビルアイは答えず、否定もしなかった。
「……この話はこれ以上できん」
「分かりました」
ラナーは素直に頷く。
その態度が意外だったのか、イビルアイは一瞬だけ動きを止めた。
「……随分あっさり引くんだな」
「イビルアイ様が、私に知らない方が良いと忠告してくださったのでしょう?」
「そういう言い方をするな。調子が狂う」
「では、ありがとうございます」
「お前は……」
イビルアイは何か言いかけたが、結局やめた。
「少なくとも、遊び半分で首を突っ込む話じゃない。それだけ覚えておけ」
「はい」
今度こそ、イビルアイは廊下へ出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかってからクレアが息を吐いた。
「……知ってたわね」
「ええ」
ルミィも目を丸くしている。
「私が見つけた密談と関係あるんでしょうか」
「まだ分かりません。ただ、昨日の情報がなければ、私はイビルアイ様だけをあれほど注意して見なかったでしょう」
ルミィが少しだけ胸を張った。
「じゃあ役に立ちました?」
「とても」
「お褒め預かり光栄でございます!」
ルミィが貴族の令嬢のような美しいカーテシーを行う。
この世界で誰より敬愛する姫の役に立てることが、何よりも嬉しいらしい。
ラナーはそれに微笑みかけ、机へ戻り、昨日の紙を取り出した。
ぷれいやー。その言葉とイビルアイの反応を書き留める。
「クレアが法国で聞いただけの呼び名ではなくなりました」
二百年以上を生き、古い時代について知るイビルアイが、その言葉を聞いた瞬間に反応した。
仲間へ説明しようとはせず、今も現れる可能性についても否定しなかった。
「じゃあ、本当にいるの?」
クレアが尋ねる。
「いる、と考える方が自然になりました」
「今も?」
ラナーの筆が止まった。
存在したことと、今いることは同じではない。百年という周期らしきものがあっても、次も同じように現れる保証はない。
けれど、机の端にはエ・ランテルから届いた報告書が積まれている。
出自の分からない二人組。世界の技術史から浮いた道具を扱う商会。異常なほど高い知性を持つ悪魔。そして、商会内部の話をなぜか知っていた漆黒の冒険者。
ラナーは一番上の紙を引き寄せた。
『モモン』
その名を見ながら、すぐ隣へ何かを書くことはしなかった。
「ルミィ」
「はい」
「改めて、よく見つけましたね。中の話まで聞こうとしなかったのも正解です。あなたが知る必要のない危険まで拾ってくるところでした」
幸せそうな笑顔を浮かべるルミィを横に報告書を閉じる。
イビルアイ。正体不明の老女。プレアデス商会。モモン。
名前を並べていく。これの点たちがどのような線の上にあるのかはわからない。
それでも、複雑な曲線を描きだすための点が少しずつ増えてきたことだけは確かだった。