王宮の夜は静かだった。
昼間の会談で使った契約書は、まだラナーの机の上に置かれている。モモンが指摘した箇所には細い線が引かれ、その横へ書記をしていたルミィの文字で修正案が添えられていた。
クレアは長椅子へ身体を沈め、三度目になる紅茶を飲んでいる。
「で、結局どうなの?」
「何がです?」
「アイツとしゃべってる間ずっと楽しそうだったじゃない」
ラナーは返事の代わりに、机の端へ積んでいた紙を何枚か取り出した。
最初の一枚には、クレアが法国で聞いた言葉。
『ぷれいやー』
その下には、イビルアイの反応についての短い記録がある。
次の紙には、プレアデス商会が持ち込んだ魔道具について。作り方も、古い型も、失敗作も見つからないまま、完成した機能だけが存在している。
さらに、部屋に現れた悪魔、そしてモモンとナーベ。
「クレア。前にあなたが言っていたことを、もう一度確認します」
「どれ?」
「法国では、時折この世界の外から現れる者がいると考えられている。その呼び名の一つが、ぷれいやー」
「そう聞いたわ。六大神とか八欲王までそうだったって話もあるけど、法国でも全部が確定してるわけじゃないし、漆黒聖典でも全て伝えられる訳じゃない」
「ええ」
ラナーは頷いた。
イビルアイは、その言葉を知っていた。
しかも知識を仲間に共有することを避け、現在にも関係し得る問いを否定しなかった。
それだけで、法国固有の伝承という可能性は大きく下がる。
「それで、モモンがそれだって?」
「まだ分かりません」
クレアが少し意外そうに眉を上げる。
「違うの?」
「モモン様ご本人である必要がありません」
ラナーは紙を並べ替えた。
モモンはプレアデス商会の非公開に近い情報を知っていた。
ナーベはモモンに対して、仲間というより主従に近い態度を見せる。
プレアデス商会には、世界の技術の流れから切り離された道具がある。
その商会に深く関わるデミウルゴスは、ラナーが今まで会った中でも突出した知性を持っていた。
そして今日のモモンはクレアの報告と比べれば微妙に違う。
王国の制度を知らない一方で、自分を縛る可能性のある条項だけは一つも見落とさなかった。
「全部を一人へ繋ぐ必要はないのです」
「じゃあ?」
「同じところに繋がっている、と考えればよいのでしょう」
クレアが黙った。
ラナーは一本の線を引く代わりに、紙を円を描くように並べた。
「モモン様がぷれいやー。プレアデス商会がその配下。あの悪魔が参謀。そうである可能性もあります。でも、そう決めつける必要がありません」
「……珍しいわね。姫様が答えを決めないなんて」
「今すぐにそうと決める必要はありませんし、勘違いしたまま進むことの危険性の方が大きいです」
少なくとも、モモン、ナーベ、プレアデス商会、あの悪魔。
彼らが互いに無関係である可能性は、以前よりずっと低い。
そして、その中心か極めて近い場所に、ぷれいやーが存在する可能性は高いだろう。
今はぼやっとした認識でも十分だと考える。柔軟性を失わないためにもその方が良い。
「じゃあ、どうするの」
クレアが聞いた。
ラナーはしばらく紙を眺め、それから一枚ずつ伏せていった。
「知らないふりをします」
「は?」
「少なくとも、こちらから正体を暴く必要はありません。モモン様はモモン様。プレアデス商会はプレアデス商会です」
「でも、危ないんでしょ?」
「とても」
「なら余計に調べるんじゃないの?」
「調べますよ。ただし、みすみすこちらが相手のことを知っているという情報を与える必要はないです」
ラナーは笑った。
今日のモモンは、自分の出自を語らなかった。それでも王国との契約そのものは拒絶していない。
プレアデス商会も同じだ。王国を滅ぼして商品を奪うのではなく、店を開き、売り、利益を得ている。
圧倒的な力を持っているはずなのに、わざわざ既存の仕組みの中へ入ってきている。
「彼らは、何でも知っているわけではありません」
その言葉に、クレアの表情が変わった。
モモンは出自を隠して冒険者になった。
商会は正体不明のまま商人として振る舞う。
あの悪魔ですら、初めてラナーへ接触した時にはこちらを観察していた。
何を警戒しているのかは分からない。
同じぷれいやーかもしれない。現地の強者かもしれない。この世界そのものの法則かもしれない。
あるいは、彼らの内部にこちらからは見えない事情があるのかもしれない。
だが理由が何であれ、未知に応じて行動を変える。
それならば。
「神様ではありませんね」
「……十分化け物だけど」
「ええ。でも、少なくとも材料を集めて判断をするような相手です」
そこに違いがある。
絶対に勝てない相手でも、何かを欲し、何かを避け、情報によって選択を変えるなら、その選択へ影響を与える余地は残る。
クレアはしばらく考えた。
「戦う気はないってこと?」
「ありません」
「降参する?」
「それも嫌です」
「欲張りね」
「王女ですから」
ラナーは伏せた紙の上へ指を置いた。
「拾えないなら、拾わなければいいのです」
今日、モモンを王国へ所属させることはできなかった。
しかし契約まで拒絶されたわけではない。王国で冒険者として活動し、依頼を受け、名誉を得ることに利益を感じてもらえるなら、それでいい。
所有しなくても関係は作れる。
その事実は、別の問題にも使える。
*
翌日。
エ・ランテルの市庁舎に用意された会議室には、見慣れた顔が揃っていた。
ンフィーレアとリィジー。
クレア。
プレアデス商会からはユリ・アルファ。
そしてラナー。
机の上には、何度も書き直された共同研究契約が置かれている。
「まず確認します」
ラナーが言った。
「ンフィーレアさんは、今後も薬師として働きます」
「はい」
ンフィーレアが頷く。
「その上で、ご本人が同意した研究へ参加する。特別な魔法道具を使う場合は、その都度内容を説明し、参加するかを確認する」
ユリが静かに答える。
「異論ありません」
「タレントそのものについて調べる場合も同様です。本人が拒否した場合、その件について不利益な扱いはしない」
「承知しました」
「個人に対する責任だけでは心許ないので、もう一つ契約を致しましょう」
眉をひそめるユリにラナーが笑いかける。
「エ・ランテルは王家直轄領ですから、私には王族としてこの都市を監督する責任があります。そして、ンフィーレアさんのタレントは非常に危険であるわけです。ズーラーノーンの件もありますし、そこは認識されていますよね?」
「ええ、そう認識せざるを得ないでしょう」
「あなたがたは、ンフィーレアさんのタレントを組織として継続的に研究する立場となる。つまり、その危険について王家は監督せねばならない。具体的には、そのタレントやそれを用いて得られた成果はすべて報告して頂きたいのです」
「……」
「それに加えて、研究に伴う移動など、遠方へ出る際には事前に行程を共有していただきたいと考えております。いずれも、後ろ暗いことが無ければ難しい要求ではないことです」
ユリはすぐには答えなかった。
「確認させてください。王女殿下は、当商会が虚偽の報告を行う可能性を懸念されているのでしょうか」
「当然、それもあります」
ラナーはあっさりと認めた。
「ただ、報告書だけを信用するつもりもありません。必要と判断した時には、王家がンフィーレアさん本人へ直接確認する機会もいただきます」
「すべてというのは言いすぎだと思われます。研究内容についても、すべてでしょうか」
「なるほど。であれば、安全性に関係しないことは伺わないというのでも良いでしょう。王家にも、情報源や詳細を伏せたまま扱う情報はありますから」
ユリの視線が僅かに細くなった。
ラナーは変わらず微笑んでいる。
「確認したいのは、本人が同意して参加したか。危険について事前に説明されたか。中止を望んだ時にそれが認められたか。身体や精神に異常が起きていないか。その程度です」
「本人が虚偽を述べた場合は?」
「それも考えています」
ンフィーレアが顔を上げたが、ラナーは彼ではなくユリを見たまま続けた。
「本人が自分の意思で嘘をつく場合だけではありません。脅迫、魅了、薬物。あるいは、記憶の改竄とか」
ほんの僅かに間があった。
ユリは表情を変えない。
「ですから、一度の証言だけを真実とは扱いません。研究を行った日時と大まかな目的は双方で記録する。危険性の高い試験を行った場合には、ンフィーレアさん自身にも短い記録を残していただく。それとは別に、時期を決めず王家から確認することもある。食い違いがなければ、それで結構です」
「食い違いがあれば?」
「理由を確認します。食い違ったというだけで、あなた方が何かしたと決めつけるつもりはありません」
リィジーが鼻を鳴らした。
「ずいぶん面倒なことをするねえ」
「危ないものを扱うなら、面倒なくらいでちょうどいいでしょう」
「そりゃそうだ」
ンフィーレアは契約書とラナーを交互に見た。
「僕が残す記録も、研究内容を全部書くんですか?」
「いいえ。王家が必要とするのは安全を確認できる範囲です。道具の名前や仕組み、薬の細かな配合まで書く必要はありません。ただ、タレントを使ったか、事前に聞いていない危険があったかは残してください。私たちは立場上安全確認が責務なので」
「それなら」
ンフィーレアは少し考えて頷いた。
ユリは卓上の契約書へ視線を落とす。
「王女殿下の要求は理解しました。しかし、その全てを私の権限で認めることはできません」
「もちろんです」
返事は早かった。
「持ち帰ってご相談ください」
「よろしいのですか?」
「ええ。時間は有限です。後で反故にされるくらいなら、その方がありがたいですから」
ユリが顔を上げる。
ラナーはそこで初めて、ほんの少しだけ笑みを深くした。
数秒だけ視線が重なった。
「……承知しました」
ユリは契約書の写しを丁寧に揃え退出した。
*
クレアは扉が閉じるのを待ってから口を開いた。
「姫様」
「はい」
「さっきの、記憶の改竄ってやつ。本当にあるの?」
「何も知りませんよ」
あまりに早い返事に、クレアが眉を寄せた。
「……知らないの?」
「人を魅了する魔法や薬など精神に作用するものは知られている。それなら、記憶だけが絶対に触れられないと考える理由はないでしょう?」
「無かったら?」
「喜ばしいことです」
「本当にあったら?」
「困りますね」
「対策できてないじゃない」
「できませんよ」
クレアが呆れた顔をする。
「じゃあ、何のためにあんなこと言ったのよ」
「使えば必ず隠し通せる、とは思ってほしくないからです」
ラナーは机の上へ何枚かの紙を戻した。
法国。
イビルアイ。
ルミィが拾った密談。
モモン。
プレアデス商会。
「一人の頭の中だけを直せば全部済む形にはしません。いつ何を確認するのかも、どこから別の情報が入るのかも、全部は教えない」
「……ハッタリ?」
「半分は」
「半分?」
「本当に警戒していますから」
クレアは腕を組んだ。
「でも、あいつらが本気で調べたら、姫様が大したもの持ってないって分かるんじゃない?」
「大したものなら、持っていますよ」
ラナーはクレアを指した。
「何よ」
「クレア」
次に、王都の方角を指す。
「ルミィ」
さらに、紙に書かれたイビルアイの名を指先で叩いた。
「イビルアイ様。法国から来た断片的な情報。あとは私が考えただけです」
「……それだけ?」
「それだけです」
ラナーは楽しそうだった。
「だから、こちらの方が少し有利なのです」
「何でよ」
「向こうは、私の後ろに何がいるのか探すでしょう。私も、向こうの後ろに何がいるのか探します」
「同じじゃない?」
「違います」
ラナーはモモン、ナーベ、プレアデス商会、悪魔と書かれた紙を片側へ置いた。
反対側にはクレア、ルミィ、イビルアイ、法国。
その中心には何も置かなかった。
「こちらには、向こうが探しているような中心がほとんどありません」
クレアは紙の真ん中を見る。
「向こうには?」
「おそらく」
その答えだけは少し慎重だった。
「モモン様なのか、さらに別の誰かなのかは分かりません。でも、誰かが方針を決めている。少なくとも、そう考えた方が今までの動きは説明しやすい」
「それを先に見つければ勝ち?」
「いいえ」
ラナーは首を振った。
「私たちが向こうの答えへ先に辿り着かなければ負け、という勝負ではありません」
「中心なんて無いから?」
「ええ。ただし、それを確信されるのは困ります」
クレアがようやく表情を変えた。
「……ああ。だから曖昧にしてんのね」
「こちらに何がいるか分からない。どこまで知っているか分からない。なら、すぐに盤をひっくり返すより、もう少し見たくなるでしょう?」
「見たくならなかったら?」
ラナーの笑みが少しだけ消えた。
「その時は負けです」
「軽く言うわね」
「軽くは考えていません。ただ、モモン様の力を考えるとあまりにも動きが慎重すぎると思うのです。思い切った行動に出られない何かの理由がある」
実際には、相手が面倒だと判断し、王女一人を消せば済むと考えるかもしれない。
クレアを奪えばいいと考えるかもしれない。
王国そのものを力で押さえればよいと判断する可能性すらある。
そのどれにも、ラナーにはまともに抗う手段がない。
「それ、賭けでしょ」
「ええ。賭けです。私は生まれてはじめて賭けというものをやっているのです!」
「勝てると思ってる?」
力では勝てない。
魔法でも勝てない。
相手が持つ知識の量も、おそらく自分より多い。
けれど。
限られた情報から相手が何を知っているかを読み、自分が何を見せるかを選ぶ。
それだけは、ずっとやってきた。
「この勝負ならば」
ラナーは短く、それでいて確信があるように答えた。
クレアがため息を吐く。
「ほんと、現場の苦労がわからない姫様ね。死ぬのはこっちだって言うのに」
「まあ! でも、あなたが死んでしまったなら、私もすぐにあなたのそばに寄り添うことになると思いますわね」
ラナーがふわりと微笑む。そこには少女に似つかわしくない妖艶な気配が溢れている。
クレアは、自分がその気配に確かに魅了されていくのを感じた。