王宮の小会議室には、同じ土地を描いた三枚の地図が並んでいた。
一枚はエ・ランテル周辺を詳しく描いたもの。
もう一枚は、その北に広がるトブの大森林を含めたもの。
そして最後の一枚は、さらに北へ連なるアゼルリシア山脈までを大雑把に収めた広域図である。
どれも同じ地方を描いているはずだった。
それなのに、三枚を重ねてみれば川筋すら一致しない。
「……この川、三枚とも流れている場所が違うな」
ザナックが呆れたように呟いた。
向かいに座るレエブン侯は、さほど驚いた様子もなく頷く。
「森の中ならば、そう珍しいことでもありません」
「川だぞ?」
「森へ入る者の目的は、川の位置を正確に測ることではありませんからな。薬草を採り、魔物を討ち、帰ってくる。その途中で見たものを、後から思い出して描けばこうもなりましょう」
地図の脇には、さらに厄介なものが積まれていた。
ラナーが持ち込んだ冒険者組合からの報告、周辺領主からの陳情、薬師や林業商人の聞き取り、猟師から伝えられた口述記録。内容はどれも細々としたものだが、場所の表し方はさらに統一されていない。
『カルネ村から北へ半日ほど。枝分かれした大樹の先』
『黒い岩場から東。沢を二本越えたところ』
『以前、ゴブリンを討伐した場所より少し奥』
『猟師たちが蛇の背と呼ぶ尾根の南』
ザナックは何枚かめくり、やがて諦めたように束を机へ戻した。
「同じ場所の話かどうかすら分からん」
「はい」
「で、これを何とかしたい、と」
ラナーは静かに頷いた。
「エ・ランテルが以前より森を必要とするようになっていますから」
施療所ができ、ポーションの流通量が増え、遠征中の事故に備える保険も少しずつ根付いてきた。モモンというアダマンタイト級冒険者が拠点を置いたこともあり、エ・ランテルへ集まる冒険者と依頼の質は以前より明らかに変わっている。
人が増えれば薬も要る。商売が増えれば木材も要る。街道を使う者が増えれば、周辺にどの魔物がいるのかという情報にも値段が付く。
森は以前からそこにあった。
ただ、そこから何を得られるのかを考える者が増えた。
「既知の薬草採取地だけでは、いずれ供給が足りなくなるという話も出ています」
レエブン侯が書類を一枚抜き出した。
「北方の領主からは新しい伐採地を探したいという要望が二件。魔物の出没域も、古い記録と最近の報告が一致しない場所がありますな」
「なら調べればいい」
ザナックの返事は早かった。
「測量のできる者と護衛をまとめて送り込む。一度に調べた方が、個別の依頼を何度も出すより安く済むだろう」
だが、レエブン侯はすぐには同意しなかった。
「どの程度を調べるおつもりで?」
「森全部とは言わん。エ・ランテルから利用できそうな範囲でいい」
「それでも測量役、護衛、荷役、案内人が要ります。交代要員まで考えれば五十人でも心許ないでしょう」
「多いな」
「食糧も要ります」
「さらに多いな」
「そして、目立ちます」
ザナックの指が止まる。
「……帝国か」
「はい」
王国と帝国は、毎年のようにカッツェ平野へ兵を並べている。
実際にどれだけ血が流れるかとは別に、相手がどこで兵を集め、どこへ物資を運び、何を調べているかに無関心でいられる間柄ではない。
王家の名で人と荷を集め、大森林へ継続的に送り込む。
帝国にとっては王国が大森林で何かを始めたという事実だけで、十分に価値がある。
「新しい道を探している。軍を通すつもりかもしれない。鉱脈を見つけた。国境近くに拠点を作るつもりだ」
ザナックは数えるように指を折った。
「実際には薬草を探しているだけでも、向こうは好きに理由を考えられるわけか」
「分からないからこそ調べます。こちらが森を観察しようと大きく動けば、今度は帝国がこちらを観察するでしょうな」
「面倒だな」
「ええ」
そこでラナーが、妙に楽しそうな声を出した。
「ですから、王国が森を調べなければよいと思います」
「今まで何の話をしていた?」
ザナックが胡乱げに妹を見る。ラナーは気にせず続けた。
「森へ入る人なら、もう大勢おりますもの」
レエブン侯の目が僅かに細くなった。
「冒険者ですか」
「はい」
素材採取、魔物討伐、素材回収、失踪者の捜索、領主からの調査依頼。理由は違っても、冒険者たちは今日も森へ入り、明日もまた入る。
王家が新しく命じなくとも、彼らはすでに王国でもっとも頻繁に未知へ足を踏み入れている者たちだった。
「エ・ランテルの冒険者組合なら、活動を広げる理由もあります。施療所があり、ポーションの供給も増え、保険も整い始めた。高位冒険者が拠点を置く都市として、人も依頼も集まっています」
「だから組合が自主的に、より遠い地域の依頼を扱い始める」
「表向きは」
ザナックが眉を上げた。
「裏は?」
「割に合わない探索へ、少しだけ報酬を足します」
「誰が」
「組合が」
「その金は?」
「エ・ランテルの行政から」
「……癒着では?」
「協力ですわ」
「言い方を変えただけだ」
レエブン侯が小さく咳払いをした。
「周辺領主から出る調査費も混ぜれば、王家から直接組合へ資金が流れる形は避けられます」
「お前まで乗るな」
「実務の話をしているだけでございます」
ザナックはバルブロの汚職の隙をついて成り上がっている。こういった話題には敏感になるのは仕方がないことではある。
しかし、反対はしなかった。
「まあいい。組合を使えば、王家が大掛かりな測量隊を出すより目立たない。それも分かった」
そこで彼は、地図の中央を指で叩いた。
「で、どこを調べさせる?」
ラナーは考え込む様子を見せ、即答が得られないと考えたザナックはルミィに茶を淹れることを命じた。
*
問題は人手ではなく、その人手がどこへ行ったのかを積み上げられないことだった。
ラナーは冒険者組合と周辺領主の報告を一枚の森林図へ重ねてみたが、赤、青、黒の印は互いに噛み合わなかった。
同じ沢を指しているらしい二つの報告が別々の場所に置かれ、同じ魔物の群れかもしれない三件の目撃記録が三方向へ散らばっている。
「これでは、どこを知っていて、どこを知らないのかも分かりませんね」
「そもそも場所の呼び方が人によって違うからな」
「はい」
ラナーはしばらく地図を眺めていたが、やがて別の大きな紙を取り出した。
森の輪郭を写すでもなく、まず真っ直ぐな横線を引く。
少し間を空けてもう一本。
さらにもう一本。
等間隔の縞のようなものを連ねていく。
次に、それらへ直角に縦線を重ねていった。
「何をしている?」
「森を分けています」
「森はそんな形をしていないぞ」
「知っていますわ」
ラナーは顔を上げた。
「森を描いているわけではありませんから」
「では、何を描いている」
「場所です」
紙の左端へA、B、C。上端へ1、2、3と記す。
そして下辺の中央付近へ、小さく印を付けた。
「基準になる場所を一つ固定します。エ・ランテルの北門でよいでしょう。そこから一定の距離ごとに北と東西へ線を延ばす」
「実際の森の形を描くのではなくてか?」
「必要なのは、別々の人が同じ場所を同じ名前で呼べることです」
レエブン侯が、三枚の地図を見比べた。
「ですが、元の地図そのものが間違っている可能性があります」
「でしたら、川を書き直せばよいのです」
「升目は?」
「動かしません」
返事は即答だった。
「昨日のC7と明日のC7が別の場所になってしまえば、過去の報告を全部読み替える必要があります。間違っていた地形は直せますが、場所を呼ぶための枠まで動かしてはいけません」
「……ずいぶん乱暴だな」
「はい」
「否定しないのか」
「細かいことを全部正しく知るまで使えない方法では、今と同じですから」
ラナーは既存の地図を下へ滑らせ、方眼の上から川筋をなぞった。
「地図が粗いなら、粗いまま始めます」
紙の隅へ簡単な図を描く。
6 7 8
+-------+-------+-------+
A | | | |
+-------+-------+-------+
B | | B7 | |
+-------+-------+-------+
C | | | |
+-------+-------+-------+
「例えば、最初はこの程度で十分です。B7について報告が増え、ひとつの区画として扱うには粗すぎると分かったら――」
B7
+------+------+
| B7-1 | B7-2 |
+------+------+
| B7-3 | B7-4 |
+------+------+
「その場所だけ四つに分けます」
「全部を細かくするのではなく?」
「必要になったところだけです。誰も入っていない森を細かく切っても、空欄が増えるだけでしょう?」
説明されれば単純な話だった。
だが、地図は最初から同じ細かさで描くものだと思っていたザナックは、一度方眼を見直した。
「昔の報告はどうするのです?」
レエブン侯が訊いた。
B7しかなかった頃に『B7で狼型魔獣を確認』と記録されていたとして、後からB7を四つへ分けても、その狼がどの小区画にいたのかは分からない。
ラナーは少しだけ考えた。
「分からないままにします」
「無理に割り振らない?」
「はい。B7について分かっていたことは、B7に残す。細かく分かるようになってからの報告だけを、下へ置けばよいでしょう」
B7
+-- 上火月二週: 狼型魔獣確認
|
+-- B7-1
+-- B7-2
+-- B7-3
+-- B7-4
「分けた日付も必要ですな」
レエブン侯が言う。
「昔の報告書にB7-2などと書いてあれば、後世の者にはその区画が当時から存在したように見える」
ラナーの目が僅かに見開かれた。
「ええ。日付も残しましょう」
ただの方眼だったものに、別の意味が生まれる。粗い場所。細かい場所。昔は粗かったが、今は細かく見える場所。
どこに報告が集まり、どこだけが長く大雑把なままなのか。
地図は土地を記録するだけでなく、王国がその土地をどの程度知っていたのかまで残せる。
「……これは、本当に地図なのか?」
「地図ですわ」
「俺の知っている地図は、もう少し大人しい」
ラナーは答えず、既存の報告を新しい方眼へ移し始めた。
街道沿いとカルネ村周辺には印が密集した。既知の薬草採取地や討伐地点も濃い。
そのすぐ隣に、何もない区画がある。
さらに奥へ行けば、白いマスがまとまって残った。
普通の地図で眺めていた時には、ただ「森の奥はよく分からない」としか言えなかったものが、方眼にした途端、どこから分からないのかという形を持ち始める。
「今までより、分からない場所が増えたように見えるな」
ザナックが言った。
「逆ですわ」
ラナーは白いマスを指した。
「余白が、分かるようになったのです」
*
三日後。
同じ会議室の机には、今度は小さな方眼紙と賽、そしていくつかの木駒が並んでいた。
ザナックは席に着くなり顔をしかめた。
「なぜ俺は、妹と賽遊びをするために呼び出された」
「遊びではありません」
「その台詞を言いながら賽を三つ並べるな」
レエブン侯は苦笑しつつも、紙の方を先に見た。
五つずつ、五列。升の中には数字が書かれている。
1 2 3 4 5
A [4] [5] [4] [3] [2]
B [5] [7] [6] [4] [3]
C [6] [8] [9] [5] [4]
D [5] [7] [6] [8] [10]
E [4] [5] [6] [9] [12]
「何の数字だ」
「その場所を調べた時の、仮の価値です。得られるものから危険や日数を引いた、とでも考えてください」
現実の森をこの数字だけで評価できるという意味ではない。
どういう規則で冒険者を動かせば、どこへ集まり、どこを見落とすのか。それだけを調べるために、ラナーは森を小さく作り直していた。
「この駒を冒険者だと思ってください」
C3の[9]へ、小さな駒を置く。
「最初は簡単にします。隣に今より価値の高い場所があれば進み、低ければ進まない」
「賢いな」
「ええ。とても」
だがC3の周囲は、北が[6]、東が[5]、南が[6]、西が[8]。
どこへ行っても[9]より悪い。
駒は動けない。
その一方で、右下には[12]がある。
「毎回、目の前で良い方を選んでいるのに、[9]で止まってしまう」
ザナックが盤面を見た。
「[12]があるのにな」
「そこへ行くには、一度悪くならなければいけませんから」
ラナーは駒を動かした。
[9]から[6]へ。そこから[8]、[10]、[12]。
「では、悪い場所へ行くことも許しましょう」
「どれだけだ」
「それを賽で決めます」
一だけ悪くなるなら賽を一回振り、偶数が出れば進む。二悪くなるなら二回とも偶数がでて成功した時だけ。三なら三回。
つまり一段の損なら半分、二段なら四分の一、三段なら八分の一。
「一つ悪くなる判断を二度する時と、二つ悪くなる判断を一度する時で、悪さを許す厳しさが変わらないようにしました」
「理屈は分かる」
ザナックは賽と駒を見比べた。
「探索と賽を同じものとするのも、悪いとわかっている方へと進むのも正気とは思えんが」
「知らない場所を探す時に、正しい方向しか歩かない方が不思議では?」
何度か試すと、駒は[9]から抜け、時には[12]まで届いた。
ラナーはそこで満足せず、最初の位置へ戻す。
「行ったぞ」
「偶然です」
「お前がそれを言うと妙に怖いな」
「ですから、もう少し確かめます」
しばらく賽をふり、駒を動かし続ける。
*
ザナックは茶と共に出されたタルトを頬張りつつ眺めていた。
ラナーはまた違った実験を始めていた。
マスの価値の影響を消すため、五つの区画をすべて同じ値にした小さな森を作っていた。
[N]
|
|
[W] -- [C] -- [E]
|
|
[S]
最初の規則は単純で、今いる場所から通行可能な道を一つ、四面体の賽(上面が定まらないから底面を読んでいるらしい)で選び取る。
中央の[C]なら四本のいずれかへ進むが、外側の[E]まで行けば、通れる道は[C]へ戻る一本しかない。
すべてのマスの価値が同じなら、どこのマスにも同じ程度いるようにも思う。
しかし、この動きを想像すればわかるように、記録を重ねるほど、駒は中央へ偏った。
「中央には道が四本。外側には一本しかありません」
ラナーはしばらく盤を眺めた後、最初の記録までめくり直した。
「……大事なのは価値だけではありませんね」
中央から外へ出る時は四本のうち一つを選ぶ。
外側にいる時は、戻る道が一本しかない。
長く動かせば、道の多い場所ほど駒が現れやすくなる。
「よくありませんね」
「嬉しそうに言うことか?」
「間違いが見つかったのですもの」
規則を変えた。
通れる道の中から選ぶのではなく、毎回最初に北、東、南、西の四方向を同じ割合で選ぶ。その方向へ進めなければ、その場に留まる。
これなら中央から北が選ばれる割合と、北から中央が選ばれる割合は同じになる。
この規則に従い、同じ価値の森でもう一度繰り返すと、今度は五つの場所へほぼ同じように駒が現れた。
「これは現実でも起こりますな」
記録を見ていたレエブン侯が言った。
「薬草が多いから報告が多いのか。人が入りやすいから報告が多いのか。それだけでは分からない」
街道沿い、村の近く、安全な場所。そこには当然、人が多く入る。
「報告の量を、そのまま価値だと思ってはいけない」
「ええ」
ラナーも実際の森林図へ目を移した。
「どれだけ見に行ったかと、見た結果どうだったかは、分けて残した方がよさそうですね」
最初は賽遊びにしか見えなかった盤面が、少しずつ組合へ集まる報告の読み方まで変え始めていた。
*
悪い場所へ進むことをどの程度許すか。
その割合を大きくすれば、駒は森全体を広く歩く。小さくすれば、高い数字の場所へ集まる。
ラナーは次に、四つしかマスのない盤を用意した。
[0] [1]
[1] [2]
一段悪くなる移動を半分の割合で許し、十分に長く歩かせる。
すると価値0の場所に一度いる間に、価値1にはおよそ二度、価値2にはおよそ四度いるようになった。
「高い場所に長くいる」
ザナックが記録を見ながら言う。
「でも、[2]へ着いても止まらない」
「はい。これは最高の場所へ行って終わる規則ではありません」
「良い場所ほど多く歩かせる規則、か」
レエブン侯が言った。
ラナーは頷き、賽を手のひらで転がした。
「駒の性格を変えてみましょう。悪い場所へも果敢に挑んでいく、半分以上の割合で行く駒を"熱い"駒と呼びますか。例えば三分の二の割合で行く駒は"熱い"わけです」
「なるほど?」
「悪い場所へ半分以上の割合で行かない駒、例えば三分の一の割合で行く駒は"冷たい"。冒険者の熱意を反映した素晴らしい命名ではないですか?」
「言わんとすることはわからなくはない」
名前が付くと、違いは扱いやすくなった。
熱い駒は広く歩く。
冷たい駒は、いったん良い場所へ入ると動かない。
そして問題は、冷たくした時に現れた。
開始 目標
[9] -- [7] -- [6] -- [8] -- [12]
一本道の森である。
[9]から[12]へ行くには、一度[6]まで下がらなければならない。
一段悪くなる場所へ半分の割合で進む駒なら、[12]へ初めて辿り着くまで平均して百十五手ほど。
三分の一まで冷たくすると、三百手近く。
六分の一まで冷たくすれば、二千手近い。
「同じ五つの場所だぞ」
ザナックが記録を指した。
「距離も変わっていない」
「はい」
「なのに、これだけ違うのか」
「谷があるからです」
低い場所から高い場所へ進むことは難しくない。
問題になるのは、今いる場所より悪い場所へ、あえて進む時だった。
[9]から[7]へ。
[7]から[6]へ。
その先に[12]があることを駒は知らない。
冷たい駒ほど、目の前の損を嫌う。
だから一度良い場所へ落ち着けば、その場所が森全体で最良なのかを知る前に、動かなくなってしまう。
「なら、最初だけ熱くすればいい」
ザナックが言った。
「最初は森を広く歩かせる。良い場所が見つかってきたら、少しずつ冷たくしていく」
「なるほど」
ラナーの目が細まった。
「それならば、最初は谷を越えやすい。後になれば、見つけた良い場所から動きにくくなります」
「今度こそ解決か?」
「試してみましょう」
「その返事が嫌なんだが」
ラナーはすでに次の紙を取り出していた。
*
用意された森は二つだった。
一つ目には谷がない。
[9] -- [10] -- [11] -- [12] -- [13]
もう一つには深い谷がある。
[9] -- [7] -- [6] -- [8] -- [13]
距離は同じ。
開始地点も、最も価値の高い場所も同じ。
違うのは、その途中だけである。
「五十手で止めます」
「なぜ五十なんだ?」
「百でも千でも構いませんが、私たちの時間にも限りがありますので」
「そこは現実的なんだな」
「実験ですから」
最初は熱く、すぐに冷える。
少しずつ冷える。
長く熱いのに、最後に突然冷える。
五十手を五手ずつで区切り、三種類の性格の駒を作った。
早冷
熱 熱|中 中|冷 冷 冷 冷 冷 冷
徐冷
熱 熱 |微熱 微熱|中 中|微冷 微冷|冷 冷
遅冷
熱 熱 熱 熱 熱 熱|中 中|冷 冷
熱 :5/6
微熱:4/6
中 :3/6
微冷:2/6
冷 :1/6
の割合で悪い値へ移動する
そして同じ条件を何度も繰り返し、五十手目に[13]へ留まっている駒がどれだけあるかを数えた。
早冷 徐冷 遅冷
谷のない森 82 76 69
谷の深い森 32 43 52
「逆だな」
ザナックが言った。
「はい」
谷のない森では、早く冷える方がよい。
途中に悪い場所がないのだから、いつまでも熱くして寄り道を許す理由がない。
一方、谷の深い森では違った。
早く冷やすと、駒は最初の[9]へ留まりやすい。
その先に[13]があるとしても、そこへ行くために必要な[7]と[6]を越えられない。
「つまり、森によって正しい駒が違う」
「そうなります」
「なら――」
ザナックは実際のトブの大森林を描いた地図へ指を移した。
「これは、どちらの森なんだ?」
ラナーも同じ地図を見る。
街道。
村。
川。
既知の採取地。
討伐記録。
そして、その隙間を埋める白いマス。
「分かりません」
「……分からないのか」
「ええ」
ラナーは困っているようには見えなかった。
ただ、分からないものを分からないと答えただけだった。
「どれだけ深い谷があるのか。それを知るために調べるのでしょう?」
「そうだな」
「では、調べる前に一番良い歩き方を決めるには、調べる前から森の形を知っていなければいけません」
ザナックが天井を仰いだ。
「馬鹿げている」
「はい」
「お前の実験が?」
「問いの方が」
レエブン侯が実際の地図へ目を落とした。
「最善の探索法を決めるために必要な情報が、探索の結果でしか得られない」
「そういうことになります」
しばらく誰も話さなかった。
窓の外では、王宮の庭を整える者たちの声が微かに聞こえている。
ザナックは次のタルトを一口で食べ、別の逃げ道を探すように口を開いた。
「なら、長く熱いままにしておけばいい」
「はい?」
「どんな森か分からないなら、ずっと熱いまま歩かせればいい。その中で一番良かった場所だけ覚えておけばいいだろう」
「探索だけが目的なら、それでも構いませんわ」
「違うのか?」
「私たちは森を知りたいだけではありません。薬草も採りたいし、木材も欲しい。熱いままでは、良い場所を見つけた後も、人と金を悪い場所へ散らし続けることになります」
「……」
「ですから、現実的ではありません」
レエブン侯が口元を僅かに緩めた。
「それに、冒険者は帰ってこなければなりません」
「ん?」
「十日の依頼を出したからといって、十日間奥へ進めるわけではないということです。情報を持ち帰ってもらわねばなりませんからな」
五日進めば、五日戻る必要がある。
七日進んでしまえば、残り三日では帰れない。
森の中でどこまで進めるかは、与えられた日数そのものでは決まらない。
「国の金も同じでしょう」
レエブン侯は続けた。
「いつか見つかる最良の場所のためだけに、今年必要な薬草も、木材も、魔物の討伐も捨てるわけにはいきません」
「……なるほどな」
ザナックは頬杖をついた。
「で、どうする」
ラナーは最初に作った大きな方眼地図を引き寄せた。
「決めないことにしましょう」
「何を」
「正しい歩き方を」
*
制度案そのものは、驚くほど短くまとまった。
表向きは、エ・ランテルの冒険者組合が周辺地域の探索情報を整理し、未知領域の依頼を増やすだけである。
理由はいくらでもあった。
施療所ができた。
ポーションの流通量が増えた。
保険制度も整い始めた。
高位冒険者が集まり、以前より遠征に耐えられる環境になった。
冒険者組合が活動範囲を広げようと考えても、不自然ではない。
「大森林探索事業などという名前は付けるなよ」
ザナックが念を押した。
「もちろんです」
「王家の紋章も要らん」
「はい」
「お前の名前も」
「私が考えたのに寂しいですわ」
「冗談はよせ」
組合のロビーには、大きな方眼入りの地図を置く。
基準点と升目は固定。
各依頼には、可能な限り区画の番号を付ける。
戻ってきた冒険者にも、どの区画を通り、何を見たのかを報告してもらう。
『C7、水場あり』
『D11、西側は沼地。通行困難』
『B7、狼型魔獣。数不明』
ただし、報告された内容をそのまま公開地図へ書き込むわけではない。
一人がオーガを見たからといって、そのマスにいつもオーガがいるとは限らない。
見間違いもある。
季節によって移動することもある。
同じ場所について別の報告があれば照合し、矛盾するなら矛盾したまま台帳に残す。
「公開する地図は、どれくらいの頻度で変えます?」
レエブン侯が尋ねた。
「毎日では忙しすぎますね」
「十日ごとでは」
「職員が死ぬぞ」
ザナックが即答した。
ラナーは少し考える。
「ひと月に一度くらいでしょうか」
「妥当でしょうな」
毎月、新しい地図を出す。
古い地図は捨てない。
春には渡れた沢が、夏には増水しているかもしれない。
去年はいなかった魔物が、今年は住み着いているかもしれない。
「今の地図だけでなく、昔の地図にも意味があります」
そして、報告が十分に集まったマスは細かく分ける。
分けた日付も残す。
昔の粗い報告は親のマスへ置いたままにして、新しい報告だけを細かいマスへ入れていく。
「随分と紙を食う仕組みだな」
「紙より人の命の方が高いですわ」
「そう言われると反対しにくい」
残る問題は、冒険者をどうやって白いマスへ向かわせるかだった。
「命令はしません」
ラナーは言った。
「普通の依頼として出してもらいます」
素材採取。
魔物の確認。
水場の探索。
地図の更新。
周辺領主からの林地調査。
どれも、もともと存在している仕事である。
違うのは、その仕事を既知の場所で行うか、まだほとんど情報のない場所で行うかだった。
「例えば、既知の採取地なら二日の仕事で済む。同じものを未知のマスで探せば五日かかるかもしれない。何も見つからない可能性もあります」
「当然、普通なら既知の方を選ぶな」
「ですから、その差を少しだけ埋めます」
組合が追加報酬を出す。
その不足分を、エ・ランテルの行政や周辺領主の調査費から補う。
表から見れば、危険地域や長距離依頼への手当が少し厚くなっただけである。
「固定額か?」
ザナックが聞いた。
「いいえ」
ラナーの返事は早かった。
「誰も受けないなら少し増やします。受ける人が増えたら減らす。報告が十分集まったマスなら止める。長い間誰も入らず、情報が古くなったなら、また増やします」
「つまり」
ザナックは数日前の盤面を見る。
「金で冒険者を熱くしたり、冷たくしたりするのか」
「ええ」
ただし現実の冒険者は駒ではない。
同じ金額を上乗せしても、危険を好む者もいれば、家族がいて遠征を嫌う者もいる。
装備も違う。
仲間も違う。
経験も違う。
模型のように、一段悪い場所なら二分の一の割合で進むなどということはない。
「だから、最初から正しい追加額を決めようとはしません」
ラナーは白いマスを指した。
「実際に依頼を出して、どれだけ受けられたかを見る。それから次を変えます」
「毎月か?」
「地図の更新と合わせればよいでしょう」
レエブン侯が制度案へ一文を書き加えた。
『探索関連の追加報奨は、受注状況及び報告密度に応じて定期的に見直す』
ザナックがそれを読む。
「それだけ見ると、随分普通だな」
「普通の制度に見える方がよろしいのでは?」
「帝国にはな」
レエブン侯は地図の北端へ目を向けた。
トブの大森林の向こうには、さらにアゼルリシア山脈が続いている。
「将来的には、山脈にも使えますかな」
ラナーも視線を上げた。
「森を出たら、升目は消えるのでしょうか?」
「いいえ。そのようなことはあらませんな」
レエブン侯は、少しだけ笑った。
*
会議が終わる頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
ザナックは完成した制度案を最初から読み直した。
方眼。
報告。
細分。
月ごとの更新。
追加報酬。
その見直し。
森をどう歩けば最善へ辿り着けるのか。
何日もそれについて話したはずだった。
だが、完成した制度のどこにも「正しい探索法」とは書かれていない。
「結局、どの歩き方が正しいのかは決めなかったな」
ラナーは、小さな森で使った駒を箱へ戻していた。
[9]。その隣の[6]。その向こうの[12]。
「はい」
「いいのか」
「決められませんでしたもの」
あっさりした返事だった。
「森の形を全部知っているなら、正しい歩き方を選べます。でも、それを知るために歩くのでしょう?」
ラナーは実際の地図へ目を移した。
白いマスが、まだいくつも残っている。
「でしたら、最初の歩き方が間違っていた時に、次を変えられるようにしておけばよいと思います」
レエブン侯が最後の紙を持ち上げた。
「冒険者組合へ渡す地図には、名称が必要ですな」
「トブ大森林探索図、でよろしいのでは?」
「版は?」
ラナーは少しだけ考え、紙の右下へ小さく書いた。
『第一版』
ザナックがそれを見る。そこに積み上がり変化をし続ける図を幻視した。
「人とは営みを積み重ねるものなのだな」
「ええ」
ラナーは当然のように頷いた。
「それが正しく積み上がるようにするのが、私がこの国と国民にできることだと思っております」
方眼の森には、何も書かれていないマスがいくつも残っていた。
ただ、それはもう曖昧な森の奥ではない。
余白は人を待っていた。
これで第六章は完結です。
また少し時間をいただきますができるだけ早く書きたいと思います!