役宅を出た源一郎が向かったのは、南ではなく東であった。
京橋を渡って南伝馬町の裏通り──表店の並びから一本奥へ折れた先に、間口の狭い店が一軒ある。軒先には色の褪せた暖簾が下がり、そこには「損料」の二文字だけが染め抜かれていた。
──損料屋。
衣類、夜具、膳椀、祝儀に不祝儀の道具一式──暮らしに要るものを買わずに借りて済ませるための店。江戸の暮らしは町人から武士まで、この商いに支えられているといってよかった。中には鍋釜どころか、褌まで借りて日を送る者もいた。
源一郎が暖簾をくぐると、帳場に座っていた白髪頭が顔を上げた。
「おや。これは渡辺様、いらっしゃいまし」
「久兵衛。邪魔をする」
「なんの邪魔なものですか」
損料屋久兵衛は齢六十を越え、痩せて背が低く、老齢らしく腰も曲がっていた。しかし──その目の光だけは炯々として老いてはいない。客が店の暖簾をくぐった瞬間に、身なり、職業、その懐具合まで見て取る鋭い目を持っていた。
──この老爺は火付盗賊改方の密偵であった。
密偵になる前は、衣紋の久兵衛と呼ばれていた。押し込みもせず人も殺めずの本格派、ただ屋敷に入り込んでは金目のものを持ち去る大盗人。その手口が知られていながら十年以上も捕まらなかったのは、この男が誰にでも化けたからである。
出入りの職人、寺の使い、大店の主人、時には武家の中間。衣服の仕立ての良し悪しから帯の格、着こなしに至るまで──久兵衛は身分というものが須く衣に宿ることを知り尽くしていた。
そんな久兵衛がとうとう捕まった際には、平蔵が縄を打つより先に問うたという。
──衣紋の久兵衛よぉ。その腕、俺に貸す気はねぇかい。
以来、久兵衛は火盗改の密偵となり、損料屋の主人として落ち着いているのだった。
「して、本日は何をお借りで。またぞろ、妙な格好でもなさるおつもりですかな」
久兵衛が煙管に火を入れながら言った。前回此処に来た時は修験者の格好を所望したからである。
「南へ行く予定がある」
「はて。南、と申しますと」
「品川宿だ」
久兵衛の手が一瞬止まった。
煙管を口から離し、しばらく源一郎の顔を見る。それから、ゆっくりと煙を吐いて笑みをつくる。
「……ほう」
「その余計な勘繰りをするような顔はやめろ」
「いえいえ。この爺、何も勘繰ってなどおりませぬとも」
久兵衛はやおら膝を叩いて立ち上がると、奥の板戸を開けた。積み上げられた行李から幾つかを下ろし目当てのものを探している。
「どのような御用で、とはお尋ねいたしません。ただ──品川宿となりますと、勝手が少々違いますな」
「勝手が違うとは?」
「あちらは宿場町でございます。単純な江戸市中ではございませんので」
久兵衛は並べた行李の紐を順に解いた。
「町方の手は届きにくうございますし、如何に江戸の玄関口とは言え火盗改も常に密偵を置いてはおられますまい。あの場所は江戸の内にあるようで、外にございますからな。わたしらのような者も、あの辺りに根を張るのは骨が折れる」
「そうか」
「まあ、いざとなれば昔の伝手が幾つか残っております。要り用でしたら、そのときに」
§
「──して。何にお化けなさいます」
久兵衛が広げた品物を前に、そう源一郎に問うた。
「俺では町人にはなれんだろうな」
「無理でございますな」
久兵衛は即答した。
「腰の据わり方が違います。歩幅も違う。渡辺様は武士の歩き方が身に染みついておりますので、今更、町人の真似事は難しいでしょう」
「では浪人は」
「悪くはございませんが、金を持たない浪人は相手にされません。浪人が一人で流れて来れば、まず博打の借金逃れか、食い詰めて用心棒の口を探しに来たかと思われます。客とは見られにくい。どちらにせよ、一歩引かれるかと」
「では……勤番侍はどうだ」
勤番侍──地方藩主の江戸登城の際の警護や、藩邸の警備をした者達のことであり、江戸では田舎侍と言われることもあった。源一郎の提案に久兵衛が、ふ、と笑った。
「それが最も無難でございますな。品川宿で勤番の侍と申せば、風景に溶けるようなもの。誰も気に留めることもありません」
「では、それで」
「──ですが、渡辺様」
久兵衛は取り出した羽織を膝に置いた。
「無難と、都合が良いは別のものにございます」
「うん?」
「勤番侍は風景に溶け込みますが、それは同時に、誰も相手にせぬということでございます。田舎から出てきて右も左も分からぬ男とはつまり、江戸の人間にとっては、どこまでも余所者だということ。宿場の者が何かを話すとお思いですか」
源一郎は口を閉じた。久兵衛の言うとおりだろう。風景に溶け込むことと、内偵として実情を聞き出すことは違う。
「では、どうする」
「──遊び人になさいまし」
久兵衛は別の行李を引き寄せた。
「遊び人と申しても、町場の破落戸のことではございません。──大身旗本の部屋住み。家督は兄が継ぎ、己は冷や飯食らい。他にすることもないゆえ稽古三昧になるか、朝から遊ぶかして暮らしている。そういう手合いにございます」
源一郎は眉を寄せた。
「そんな者が、宿場町に現れるものか?」
「掃いて捨てるほどおりますとも」
久兵衛はきっぱりと言った。
「江戸には家を継げぬ武家の次男三男が溢れております。役にも就けず、婿の口もなく、家に居れば厄介者。銭だけは多少ある。暇は無限にある。──あれらが岡場所と賭場を支えておるようなものでございますよ」
「……身も蓋もないな」
「事実にございますので」
久兵衛は行李から着物を出した。
青みを帯びた深い紺の小袖である。地味に見えるが、手に取ると生地が違った。細かい縞が織り込まれ、裏地には思いのほか鮮やかな萌葱が使われている。
「裏地に凝るのが江戸っ子の粋というものでございます。表は地味に、裏で遊ぶ。金は持っているが成金のように見せびらかしはしない──内面から溢れ出る色気というものがございます」
「……ふむ」
「羽織はこちら。表は地味な黒でございますが、羽裏は──」
差し出された羽織を裏返すと、豪奢な風神と雷神が描かれていた。
「帯は少し緩めに。ここは周囲への気遣いを見せるため、刀は落とし差しで」
源一郎は言われるままに着替えた。
帯を緩く締め、刀を落とし差しにする。それだけで腰の位置が変わる。背筋の伸び方の印象も変わる。普段のカッチリした源一郎の印象とは、まるで違っていた。
久兵衛が鏡を出した。
果たして──映っているのは火盗改の与力ではなかった。
整ってはいるが、どこか崩れている。しかし、だらしないというほどでもなく、滲み出る自然体。日々に張りがなく、だからこそ常に気晴らしを求め、粋を磨いている。そういう類の男に見えた。
「これは……」
「よくお似合いで」
「それは褒めているのか」
「褒めておりますとも」
仕上がった遊び人の姿を見て、久兵衛は笑った。
「いつものように堂々となさいませ。渡辺様は剣の道に生きておられる割に、身体に無駄な筋肉のついておらぬお方でございます。無駄に腕の立つ浪人風で、大変よろしい」
源一郎は懐に手を入れ、十手を取り出した。紫の総と鈴の付いた鉄の十手である。
「これは、置いていくべきか」
久兵衛が首を振った。
「なりませぬ」
「しかし」
「渡辺様。あちらで直ぐさま御用改の真似事をなさるおつもりではございますまい。ですが──万一の折には必要となりましょう」
久兵衛の声が低くなった。
「品川宿には宿場の役人もおれば、道中奉行の手の者もおります。町方の手も、たまには伸びる。それに──もっと厄介な連中も。そういう連中と鉢合わせて、いざという時に身分を明かせぬのは困りましょう」
源一郎は言われた通りにした。羽織の内側、帯の裏に十手を差し込み、鉤を引っ掛けて固定した。
「それと、こちらも」
久兵衛が煙草入れを差し出した。
源一郎は受け取って、しばし眺めた。袋に金の刺繍が入っている。煙管も自分のものより長く、雁首に細かい彫りが入っていた。
「俺のがあるが」
「渡辺様のあれは、いただけません」
久兵衛が断り、真顔で首を振った。
「使い込んでおいでなのは結構でございますが、地味で飾り気がなさすぎます。あれを出した途端に粋が削がれます」
「……そんなものか」
「そんなものにございます。道具は人となりを表す──煙草を出して火を借りると、人と話が始まります。人には常に見られると思い、道具は良いものを持っておいでなさいませ」
前世における腕時計のようなものか、と思いながら源一郎は帯に挟み替えた。
「久兵衛」
「へえ」
「世話になるな」
「昔の商売柄に関わることでございますから。どうにも妥協は許せませんので」
久兵衛はひとしきり整えると煙管の灰を落とした。
「──若い頃は、あのあたりの旅籠にも出入りしておりました。表向きは、でございますが」
「裏では」
「どこの蔵に何が入っておるかを、覚えて回っておりましたよ。懐かしいものです」
あっさりとしたものである。源一郎は苦笑した。
「その頃と今では、宿場町は変わったか」
「変わりました」
久兵衛は煙管を仕舞い、源一郎を見上げた。
「わたしが歩いていた頃の品川宿は、荒っぽくはあっても、筋の通らぬ話は少のうございました。宿場の女たちは元気で、その色気で男を手玉に取る。裏に潜む悪党も悪党なりに、越えぬ一線というものを持っておりました」
老爺の目が、少しだけ遠くなる。
「ですが、今はどうでしょうか。──実際の所、わたしにも分かりません。ただ、裏から聞こえてくる声では、どうにも変わったと思わざるを得ませんので」
ひとまず、更新おわり!