守る──。その一言が胸の内に静かに響く。
源一郎は木刀を、真っ直ぐ新吾の喉元へ向けた。
「恐れるなとは言わん。誰しも恐いものはある。死ぬ気で行けとも言わん。死んで守れるものなど、世には幾らもないからな。だが──男なら死んでも通したい意地というものがあるだろう」
「……はい」
「……男ってのは、結局は女にカッコいい姿を見せたいだけの生き物だからな」
源一郎が、ふっと笑んだ。
──渡辺様の御子息は変わり者だ。
組屋敷の者たちは、幼い頃からこの上役をそう噂した。誰もいない方へ話しかけ、誰も知らぬ遊びを知り、人とは違うことを言う。しかし、陰で何と言われようと、この人がそれを意に介したためしはない。
武士ならば強くあれ。世のため、人のため。命を惜しむな、名を惜しめ──。子供の時分から繰り返し聞かされてきたそんな教えでさえ、この人は意に返さない気がした。
「立て」
新吾は立った。
「さて……ここからは幻なんてヌルイのはやめだ。本当に打っていく」
覚悟はいいな、と源一郎は木刀を右手に提げたまま、無造作に新吾の間合いへ踏み込んできた。
言い終わると同じ頃に木刀が奔る。構えも取っていないのに避けきれなかった。力の加減くらいはしているだろうが、小手を打たれた衝撃に手が痺れ、刀を取り落としかける。返す木刀が胴を薙ぐ──息が詰まり、新吾は膝をついた。
「ぐ……」
先ほどまでの幻影ではない。木刀の切っ先が肉を打ち、衝撃が響き痺れと痛みが走る。
「どうした。お前の守りたいという意思はその程度か」
新吾は立った。構え、振ろうとする。腕が躊躇うように竦み、また打たれる。源一郎は手を緩めることなく肩を、腕を、胴を打ち据えてくる。
死を見せるほどの幻は、確かに恐ろしいが諦めることにも慣れてしまう。だが、この痛みには慣れようがない。打たれるたびに己がまだ生きて、ここに立っているのだと体に直接叩き込まれる。幻の死よりも、生身の痛みの方がよほど芯に響く。
ジリジリと押し込まれる。踵が何かに当たり、背が板塀にぶつかった。
もう退がる先がなかった。
一刀流ではない直心影流の如く──源一郎が木刀を大上段に振りかぶった。真剣であれば脳天から一刀で断ち割る構え。その顔には先ほどまでの心胆を寒からしめるような剣鬼の相はなく、ただ静かに新吾に睨みをきかせていた。
「新吾。この一刀でお前が前へ出られないと言うのなら──お駒は俺が助けに行く。いいか、心して聞け。腑抜けてしまった男を御用改めの修羅場に連れて行くのは御免被る」
「な……」
声は低く、揺るがない。新吾は息を呑んだ。
戯れではない。この人は言ったことを違えない。使えないと判断すれば、本当に置いて行くつもりなのだろう。だが、それも道理──足手まといを連れていては他の仲間が危険に晒される。
──振らねば。
だが、腕を上げれば、またあの顔が頭に過ぎる。これまで斬ってきた者たちの、あの顔が。
それでも──。
お駒を助ける役目だけは誰にも譲りたくない。
刀を握れず、組屋敷にも居られず、逃げるように品川へ流れてきた。そんな男に、あの娘は何も訊かないでいてくれた。若菜と呼べば振り向いて笑い、ぼうっとしていれば抓ってくる。手管であったとしても構わない。あの娘の傍でだけは、天井に浮かぶ顔を忘れていられたのだから。
腰を落とし刀を八相に構えた。息を深く、長く吐き出し、目の前を見据えた。
音が、消える──。
端に並ぶ若い衆の息遣いも、台所から仕度の物音も聞こえない。霜の冷たさも、打たれた疼きも、どこか遠いところへ退いていく。肩口にこびりついていた強張りも気にならなくなる。
恐れは、そのままに。消えぬまま、新吾はそれを呑み下した。己にすべき事は前へ出る、ただそれだけ。
「──来い」
息を吸った覚えもないまま、体が動いた。八相から袈裟へ。組屋敷の庭で幾度となく繰り返してきた太刀筋を、体がひとりでに辿っていた。
真剣であることなど意識にない。当たれば重傷は必至な渾身の一刀を──しかし、大上段から振り下ろされたただの木刀が、その鎬を払った。
それだけであった。刃は木刀に滑るように逸らされ、源一郎の肩先を外れて空を切る。切っ先が霜の土を深く掻き、一気に力の抜けた新吾は膝から崩れ落ちた。
荒い息が白く散る。
新吾は刀を握る己の手を見た。指が震えている。体の芯が熱かった。肩口にまとわりつく違和感は、不思議なほどに晴れている。
──振れた。
源一郎の顔からも張り詰めたものが抜けていた。そこにいたのは、よく見知った年の近い上役の顔。少し呆れたような、少し可笑しがっているような。
「なんだ、振れたではないか」
源一郎は木刀を肩に担ぎ、新吾の前に膝をついた。その手が新吾の左の肩に置かれる。肩に置かれた手が温かかった。
「乗り越えた。これで自らの手で助けに行ける」
新吾は何か言おうとしたが言葉にならなかった。刀を地に置き、両手をついて頭を下げると額に霜の冷たさが沁みた。
顔は上げられなかった。上げれば、泣いているのを見られてしまう。
源一郎が一つ肩を叩いて立ち上がり、庭を去ってゆく足音がした。
§
それから毎朝、新吾は裏庭へ出た。
──もう荒療治は済んだということで、稽古で真剣を抜くことはなかった。軒下に立て掛けてある木刀を取り、ただ源一郎と向き合う。
打ち込もうとする腕が途中で止まることは、もうなかった。ただし踏み込みは浅く、振りは遅れ、手の返しは硬い。木刀は一つ残らず源一郎のそれにいなされる。新吾は黙って構えを直した。
構えれば分かる。肩口の違和感はなくなっている──。
しかし、振れるようになったことと、剣の腕と勘を取り戻すこととはまた別。決着の日までに、刀から遠ざかっていた間に鈍ったそれを少しでも元に戻す必要がある。
打たれた痕は体のあちこちに青黒く残っている。腕を上げれば肩が痛み、踏み込めば腿が軋む。だが、休んでいる暇などない。新吾は痛みを押して木刀を握っていた。
──二十四日の暮れ方、屋敷の潜り戸を男たちが潜った。
先に立ったのは熊造であった。背中を丸めて土間に入り、源一郎の姿を見つけると、ひょいと頭を下げる。
「若旦那、お待たせいたしやした。お二人をお連れしやしたぜ」
「ご苦労だったな」
その後ろから鳥居本太郎が入ってきた。肩に担いだ荷を土間に下ろし、物珍しげに屋敷の中を見回している。熊造の手下が幾人か、荷を担いでそれに続いた。
最後に、真島権助が戸を潜る。
権助は土間に立ったまま、新吾を見た。
新吾が板間の上で膝をつく。何か言わねばと思った。岡場所通いをしたこと。役宅に出仕せず役目から逃げたこと。詫びる言葉は幾つも浮かんだが、どれも喉の手前で止まって出てこない。
権助は何も訊かず、框に腰掛けて草鞋の紐を解きながら、ぼそりと言った。
「痩せたな、新吾」
新吾は頭を下げた。
「……ご心配を、お掛けいたしました」
「飯は食っているのか」
「はい」
「なら、いい」
権助はそれだけ言って、板間に上がった。
本太郎は荷の傍にしゃがんだまま、新吾と目が合うと、決まり悪そうに笑う。
「新吾さん。その……お元気そうで、何よりです」
「あぁ……本太郎も悪かったな」
「そんな、いつものようにポンタでいいですよ! そんなしおらしい新吾さん見てると調子が狂います!」
初めて品川へ誘ったのは、この男であった。新吾は笑って頷いた。源一郎が腰を下ろして三人を迎える。
「年の瀬に呼び立ててすまんな」
「とんでもないことにございます」
権助が草鞋を脱ぎ終え、上役である源一郎に向き直る。
「私たちは、まずは何をすれば」
「新吾の錆落としだ。本太郎と二人、相手してやってくれ。俺一人では、こいつに同じ太刀筋しか見せてやれん」
権助は頷き、新吾に視線を戻した。
「新吾、明日から相手をしてやる。今夜はよく寝ておけよ」
「ええ……よろしくお願いします」
御用改めの準備が始まろうとしていた──。