二十五日の朝、新吾はいつもより早く目が覚めた。
薄暗い裏庭へ下りると、源一郎が先にいる。木刀はまだ持たず、腰に刀を差し、打ち込みの丸太の前に一人で立っていた。
その立ち入りがたい雰囲気に新吾は足を止めた。
背後で廊下の板が微かに鳴り、振り向くと権助がいる。その後ろに本太郎が目をこすりながら続き、熊造も首を縮めて寒そうにしながら立つ。権助が新吾の横に並んで庭の方を見ると、黙っていろというように顎を引いた。
源一郎は動かず──。霜を踏む音も、息の音もしない。東の空が徐々に白んでゆく中で、その背が風景として当たり前に溶け込んでいるように見えた。
カチリ、と鯉口を切る音がした──。
抜いたところは見えなかった。瞬きの間に刃が鞘から出て、気づけば振り抜かれているという自然体。
丸太の上半分が斜めにずれ、切り口を滑って霜の上へ落ちる。ごとりと重い音を立てて転がった。切り口は鉋をかけたように白く滑らかな面である。
「ひえぇ……」
新吾の後ろで、本太郎が慄くような、喉の奥で引き攣った声を漏らした。
権助は黙ったまま、切り口から目を離さない。源一郎の剣を見慣れているはずの四人が、口を半ば開けて立ち尽くしていた。
──この人も、御用改めに向けて備えている。
源一郎がようやく息を一つ吐き振り返った。木戸の陰の四人を見ても、別段驚いた風はない。軒下の木刀を取り、庭の真ん中へ出てくる。
「来たか。構えろ」
いつもと変わらぬ声であった。
新吾が庭の中ほどへ出ると、権助と本太郎も襷を掛けて袖を絞った。熊造は塀際に寄り、腕を組んで見物の構えである。
源一郎と幾合か打ち合ったところで、権助が木刀を取って進み出た。
「代わりましょう」
それからは、木刀の打ち合う音が絶えなかった。まず源一郎が新吾の相手をし、一通り打ち込ませた後で権助が代わる。その権助が退けば、今度は本太郎が入る。
権助の太刀は重く、真っ直ぐに来る。本太郎は意外と機敏で、思わぬ方向から打ち込んできた。相手が替わるたびに間合いも拍子も変わり、新吾の勘は少しずつ磨かれてゆく。
日が昇る頃には、若い衆も庭へ出てきて、四人の打ち合いを見ていた。稽古が済むのを待って、留が源一郎の前に進み出る。
「旦那。あっしらにも、剣術ってもんを教えて欲しいんだが……」
言いかけて、留はばつが悪そうに頭を掻いた。後ろで若い衆たちが、揃って源一郎の顔を窺っている。
「脇差の稽古か」
「あぁ。どうにも棒だけじゃ心許ねぇ。懐へ入られちまったら、脇差を抜くしかねぇ。けど、抜いたところで使い方も知らねぇんじゃ」
源一郎は若い衆の顔を順に見た。どの目も、冗談を言っている目ではない。四人の稽古を見て触発された部分もあるようだ。
「そうだな。お前たちにも、身を守る術は要る」
源一郎は板塀に立て掛けてあった木刀を一本取った。
「人を斬るための剣ではない。己と、隣にいる仲間を守るための剣を教えよう」
「頼むぜ、旦那……いや、先生」
留は黙って頭を下げた。後ろの若い衆たちも、それに倣う。
その日から、源一郎は棒の稽古に加えて、脇差の抜き方と構え、刃を受けた時の逃がし方、組みつかれた時の身の守り方を教えるようになった。
長脇差と斬り結ぶための技ではない。懐へ入られた時に、生きて相手から離れるための技である。新吾の稽古が済むと若い衆の番になり、裏庭は朝餉の支度ができるまで、棒と木刀の打ち合う音の活気が絶えなかった。
§
──その晩、離れで火鉢を囲んだ。
源一郎と新吾、権助、本太郎、それに熊造。辰五郎が留を従えて座敷に入ると、七人も入った離れはすっかり手狭になった。留は辰五郎の斜め後ろに膝を揃え、身じろぎもせずに控えている。
「寒いなか、わざわざ足を運ばせてすまんな」
源一郎が言うと、辰五郎は火鉢の縁に手をかざした。
「なんの。あっしの屋敷でさ、気を遣っちゃいけやせん。──それより、そっちの熊さんが神妙な顔で戻ってめえりやしてね。どうやら浜で何か仕入れてきたようで」
辰五郎が顎で熊造を促した。辰五郎は気安い。それは熊造も深川の親分と言われる人物であるからなのか。
「牛頭の親分の口利きで、北の浜の漁師連中に当たってきやした」
熊造が言った。朝の稽古の後、留の手下を一人借りて、漁師町の方へ聞き込みに出ていたのである。
「件の二十八日の晩は、月の出は明け方近く。それも爪の先ほどの細い月だそうで、夜の内は真っ暗でさぁ。潮も大きく動く。宵に満ちて、夜更けにかけてぐっと引く筈だと、どいつも口を揃えておりやした」
「ということは、引き潮に乗れば沖へ出るのは造作もないということか……」
源一郎が言った。
「お蔦の時も、そうだったのだろうな」
新吾の脳裏に浜の景色が浮かんだ。網小屋の戸口の前に広がる干潟。船宿裏の桟橋から沖へと向かって伸びる澪の、色の濃い筋。
「晦日の前の、月のない晩……お駒の言った日と、浜で聞いた言葉が重なります」
「あぁ、やはり二十八日の夜に、海に嫁に出されると見ていいだろう」
源一郎が言い切り、辰五郎が煙管に刻みを詰めながら低く言った。
「月のねぇ晩を選ぶってのは、後ろ暗い連中の昔っからの常套でしてね。宿場の者の目にも触れにくい。漁師も舟を出さねぇ」
「玄人の仕事だな」
源一郎は辰五郎の方を見た。
「晦日の前の騒ぎに紛れる、というのもありそうだ。餅つきだ松飾りだと、どこの店も人の出入りが慌ただしい。女を一人消えたところで誰も構っていられない」
「へえ。嫌なところを、よく心得ておりやす」
辰五郎が煙を吐いた。
「あと三日ありますね……それまでに準備を進めませんと。割り振りはいかがするのです?」
本太郎が指を折って呟いた。
源一郎は頷き、火箸で灰の上に線を引いた。船宿、桟橋、漁師小屋、網小屋。新吾が浜で見てきたものが灰の上に並んでいく。
「捕り方の人員は漁師小屋や路地の各所に潜ませておく。裏の石垣の細道にも手を置いて塞ぐべきだろうな。だが、女を連れてくるとすればあの道だ、気取られないようにしなければならん」
火箸の先が、網小屋から家並みの裏手へ抜ける線をなぞった。
「網小屋で殺しの現場を押さえたら、その足で賭場に向かう。報せと騒ぎが勘蔵に届く前に踏み込む。そちらは俺と権助、本太郎、親分の衆で受け持つ」
「賭場の方は浪人が十人からおりやすぜ」
辰五郎が火箸の先の線を見ながら言った。
「若ぇ衆は気が立っておりやす。数だけは揃えられまさぁ。だが、それだけの浪人を相手にして、無事で済むとは思ってもおりやせん」
「まともにぶつけるつもりはない」
源一郎が言った。
「浪人どもは俺たちで引き受ける。親分の衆には博徒を相手しつつ、賭場の者が舟着き場へ逃げる道を塞いでもらいたい。勘蔵を外へ出さなければ、それでいい」
辰五郎はしばらく源一郎の顔を見ていたが、やがてふっと目尻を緩めた。
「……浪人を、お三方だけで?」
「ああ」
「まぁ……天下の火盗改だ。あっしが心配することじゃねぇってことなんでしょうな」
辰五郎の斜め後ろで、留が何とも言えない表情をした。源一郎に無手でのされた時のことを思い出したのかもしれない。
「ということは……あっしらは、勘蔵のとこの博徒を相手にすることだけ心配してりゃいいということですな」
「ああ──。待たせたな、よく堪えてくれた」
辰五郎はすぐには答えなかった。膝の上に置いた手がゆっくりと握られ、その斜め後ろでは留が不敵に笑む。
権助がここで初めて口を開いた。
「渡辺様。賭場に踏み込む刻限は」
「網小屋の首尾を見てからだ。早すぎれば網小屋を逃し、遅すぎれば気づかれる。網小屋と賭場はそう離れてはいない。現場で指揮を取りながら様子を見る」
「承知いたしました」
権助は短く頷いた。本太郎が隣で、心細げに肩をすぼめている。
「渡辺様。私と真島さんは、浪人のいる賭場の方ということなのですか……」
「当たり前だ。何のために呼ばれたと思っている」
「い、いえ。ただ、その、心構えというものが……」
権助が横目で睨むと、本太郎は首を縮めて黙った。
もっとも、本太郎の腕そのものは確かである。惚けた調子で甘く見られがちだが、剣も捕物も人並み以上にこなす。ただ、いざ修羅場となると一歩を踏み出すのにためらいが先に立ち、動くまで一拍遅れる。その臆病がこの男の欠点でもあった。
源一郎は火箸の先を、灰の上の網小屋の印に置いた。
「して、賭場の改めに新吾の名が含まれておりませんでしたが……」
「網小屋は新吾に任せる。出来るな。自ら行くと言ったのはお前だ」
新吾は膝の上で拳を握った。
「──はっ」
権助が、ちらと新吾の顔を見た。何かを言いかけたようにも見える。しかし何も言わず、源一郎の方へと向き直った。
障子の外は、海からの風が強く吹いている──。
全てを薙ぎ払わんとする、嵐が近づいて来ていた。