20歳の秦谷美鈴が、過去に戻って藤田ことねをアイドルにするお話。(後にチラシの裏から引っ張り出すかも知れないので、こちらは削除するつもりです。)

 追記 通常投稿しました!お読みいただいた方々ありがとうございました。ここすきを貰えたのが嬉しかったので残しておきます。

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藤田ことねと美鈴プロデューサー

 

 

 きっと、何かの間違いでした。

 何かの間違いで、私はあのようなことを言いました。

 

 

「……アイツ、大丈夫だっつーの。美鈴ちゃんからも心配すんなって言ってやってよ。」

 片手の指で数え切れないほど1週間に何度もアルバイトをし、授業中に倒れることはもっぱらだという、藤田ことねさん。彼女がまりちゃんの好意を無碍にするような言葉を言い放った時、決定的な軋轢が彼女との間に生じました。

「──どこが大丈夫なんですか。お金を稼ぎたいのなら、アイドルとして成功すればいいでしょう。バイトのせいで授業が疎かになっているのなら本末転倒です。高(・)い(・)学(・)費(・)を(・)ご(・)両(・)親(・)に(・)払(・)わ(・)せ(・)て(・)、何のために学園に通っているんですか。」

 今にして思えば、これこそが最悪の選択でした。事情も知らずに、私は彼女に決して言ってはならないことを言いました。

「あなた、アイドルになる気はあるんですか?」

 禁句を口にした途端に、私の熱がさっと冷えました。不気味な程に身体が冷たくなって、ようやく私は本当に冷静になったのだと気付きました。藤田さんは、目を見開いて固まっていましたが、やがて怒りを爆発させるように叫びました。

「あるに決まってんだろっ!!」

 驚いて、私は蛇に睨まれたように動けなくなりました。激しく息をして汗を流している藤田さんもまた、私に掴みかかることはありませんでした。

 

 

 お昼休みが終わるチャイムの音が、キーンコーンと鳴り響いて、私たちの止まっていた時間を動かしました。

「あ……」

 涙ぐんでいる藤田さんが、しまったという顔をして俯きました。

「……ごめん、美鈴ちゃん……」

 踵を返して校舎の方に走り去る彼女を、私は呆然と眺めることしかできませんでした。眠気を忘れ、重苦しい空気に息も忘れ、ただただ立ち尽くしていました。

 

 

 手を伸ばしたかった。声をかけたかった。あの日、何か行動を起こせていたなら。酷いことを言ったと謝れていたのなら。

 全部、私の間違いでした。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 真っ黒なスーツに身を包んだ私は、しゃこしゃこと歯磨きをしながら鏡の中の私を見つめていました。伸ばしている長い髪が、首を傾げるとゆらゆら揺れます。

 初星学園に在籍していたあの頃から2年の月日が流れました。今日から私はアイドルと兼任してプロデューサーになります。

 理由はいくつかありますが、何よりも、私をプロデュースしてくれた星南先輩の背中を追いかけて、トップアイドルになりましたから。それから、誰かのお世話をしたいという普遍的な欲求に歯止めが効かなくなってきました。

 後は──

(そろそろ参りましょうか。)

 脳裏に誰かを浮かばせながら、私はアパートの自室のドアを開きました。

 今日は晴れやかな青空。110プロダクションへの道を歩きながら、大きな欠伸をします。お昼寝をせずにはいられないお天気ですが、流石に入社式に出ない訳にはいきません。

 そうして、受付が開始される30分前には大きな建物が見えました。ほっと一息ついた後、側にあったベンチに腰掛けます。

(まだ早いですね……。少しだけ、少しだけまどろんでもいいでしょうか)

 誰の返答も待たずに、私はスマホを取り出して、15分後にアラームを設定しました。これで中々目が覚めなくとも、受付が終わるまでには起きるはずです。

 穏やかな呼吸を繰り返していると、やがてとてつもない眠気が襲ってきました。身を任せるように、私は瞼を閉じました。

 

 

(……?)

 微睡む中、何時間も経過したような感覚に襲われます。設定していたアラームは一向に鳴ることなく、私は目を瞑ってうとうとし続けていました。

 もしや、何か不味いことが起きているのでは。スマホの充電が切れたり、あまりに熟睡していたせいで耳に音が入らなかったり、ケースは色々考えられます。いい加減意識もはっきりしてきたので、私はゆっくりと瞼を開きました。

(……えっ?)

 厳粛な雰囲気。周りに座る大勢のスーツを着た人々。前方には制服に身を包んだ学生たち。

 見間違いでなければ、私は何らかの入学式に立ち会っていました。

 入社式ならぬ、入学式。

(これは、夢の中でしょうか?)

 そう思ってほっぺたを強めに摘んでみましたが、鈍い痛みが走ったのですぐにやめました。

 内心困惑しながら鉄パイプの椅子に座り続けていると、ようやく意識がはっきりとしてきました。とどめに、聞き覚えのある声が、しかし今聞こえるはずのない声が聞こえました。

「──月村手毬さん。」

「はい!」

 まりちゃんの声が体育館中に響くと、目が覚めるどころか放心しそうになりました。名前を呼ばれ、返事をする。入学式のお決まり事です。問題は、アイドル科の1年1組として、私の大切な親友が威勢の良い返事をしたことでした。

 次々に知っている名前が、あさり先生の声によって声高らかに呼ばれます。その度に皆が声を出します。

「花海咲季さん。」

「はいっ!」

 何が起こっているかなんて、まるで分かりません。夢ではないのに、夢以外には有り得ません。

 有り得ない。けれど。

 

 

「藤田ことねさん。」

「はい!」

 これは神様に与えられた、一世一代のチャンスなのでしょうか。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 1年1組、藤田ことねさんには二人のプロデューサーが付いています。1人目は、生徒会長にして現在の一番星(プリマステラ)、十王星南。彼女はサププロデューサーです。私がサブに就こうとすると断られてしまったからです。

 2人目は、私。仮にこれが夢でないとしたら、20歳のまま、まだ藤田さんが初星学園にいた頃に戻ってきてしまったらしい、秦谷美鈴です。

「まずは私たちにプロデュースを任せてくださったこと、本当にありがとうございます。」

「いえいえ!なんたってあのトップアイドル、美鈴ちゃんのスカウトですから!むしろ、ありがとうございますっていうか……」

「まあ。お褒めいただき嬉しいです。」

 訝しげに顔を覗く藤田さんに、私は最大級の笑顔で返事をしました。

 数日前、入学式が終わった後の私はすぐに生徒会室へと向かいました。そこで星南会長を仲間にし、スムーズに藤田さんのスカウトに成功したという訳です。

 プロデュースするからには、全力を尽くす所存です。最悪な未来を回避できたとはいえ、まだ桜の舞うスタートラインに立っただけの話です。この春、中頃の梅雨、HIF本戦を迎える夏までに、彼女を稼げるアイドルに育てる必要があります。私はあらかじめ考えていた方針を藤田さんに告げました。

「ではまず、一ヶ月半以内にアルバイトを全て辞めてください。」

「ムリで〜〜〜〜す♪」

 即、断られてしまいました。

「………」

「………」

 じとりと見つめていると、元気いっぱいに笑みを浮かべた藤田さんの顔を徐々に汗が伝い始めます。そして、笑顔のまま彼女は抗議を始めました。

「あのぉ、全部は勘弁してもらえませんか……?あたし、昨日雇ってくれたバイトもあるんで……」

「では、そのバイト以外全て辞めましょう。」

「極端すぎますってぇ!!」

 しばらく口論した結果、昨日始めたらしいアルバイト以外は一ヶ月後に辞めてもらい、代わりに私が提示した学園内の仕事を受けてもらうことで合意しました。

 マシになった、と喜ぶべきでしょう。私が知っている藤田ことねさんは、バイトに専念するあまり学校を辞めてしまったのですから。しかし、彼女にかかる負担は依然として重たいまま。

(ならば、こちらにも考えがありますよ)

 私はあることを決め、職員室に向かいました。

 

 

「……ふぅ。つっかれた~~!」

 寮の敷地内に入ると、あたしはすっかり真っ暗闇に染まった空にぐぐぐと両腕を伸ばした。スマホを開くと、時刻は20時半。吐いた溜息は夜に吸い込まれて、影も見えないあたしに孤独が纏わりついた。

「学園生活始まったって感じするなぁ……っと。」

 独り言を呟きながら、玄関の人工的な光に向かって歩く。異変に気付いたのは、自分の部屋の前に立った時だった。

「えっ?」

 明かり、ついてる。

 鍵、開いてる。

 出る前にちゃんと電気消したから、電気代が、とかそういう怖さじゃないと思う。あたしの頭の中は一気に警報をけたたましく鳴らした。他の寮生?それともストーカー?ドアを開けた瞬間、不審者と出くわすとか?

「………………」

 どうしよ、滅茶苦茶怖い。多分真っ青な顔をして、しばらく立ち尽くしていた。とりあえず寮の管理人さんに尋ねに行こうと思って、音を鳴らさないよう慎重に忍び足をした。これが犯罪的な何かではないことを信じて。

 そして数分後。あたしはずかずかと大股で歩き、勢い良く自室の扉を開いた。

「プロデューサーっ!!あたしめっちゃ怖かったんですけど!?」

「まあ。そんなに騒ぐと響きますよ、藤田さん。」

 スーツの上にエプロンを着て三角巾を被った元トップアイドル、美鈴ちゃん。机に料理をずらりと並べているこの人は、どういう訳かあたしのプロデューサーだ。

「わざわざ寮に入る許可貰って、どういうことですか!」

「帰ったらまず手洗いうがいですよ、藤田さん。料理が冷めないうちに、一緒に食べながらゆるりと話しましょう?」

「うっ……。説明してもらいますからね。」

 あたしは洗面所に行って、ばしゃばしゃと手を洗い、ついでにこの現実が夢かどうか確かめるために顔を洗った。

 うん、夢じゃない。にっこり笑顔の美鈴プロデューサーが、あたしを待ってる。

 席に着くと、お米も味噌汁も焼き魚もまだ湯気が立っていた。グリルも無いのにどうやってですか?と聞くと、焼き魚はフライパンでも作れるということを初めて知った。目の前に座ったプロデューサーと、美味しそうな和食に感謝を込めて、あたしは手を合わせた。

(……うま〜〜っ!)

 口に運んだサバの塩焼きは脂が乗ってて米とよく合う。思わず顔が綻ぶくらいだった。白味噌で作られた味噌汁を一口飲むと、ほっこりと落ち着くような味わい。そうしてあっという間に完食してしまったあたしを、プロデューサーは黙ってじっと見つめていた。

「ごちそうさまでした!めーっちゃ美味しかったです!」

「お口に合ったようで良かったです。ふふ、何か忘れてませんか?」

「え?……あっ、どうして晩ご飯作ってくれたんですか?」

 すっかり頭から抜けていたけれど、あたしは聞いた。困惑とかはいつの間にか消えちゃってる。どうやら、プロデューサーはこれから学校のある日は毎夜寮に来て、あたしのバイトの疲れとかを癒したいようだった。

「いや〜。ありがたいんですけど、流石に毎日は〜……」

 入浴剤が溶けたお風呂に浸かりながら、あたしは抗議した。

「プロデューサーも大変じゃないですかぁ?こんなお世話みたいなことを毎日……」

 ドライヤーで髪を乾かされながら、あたしは大きな欠伸をした。

「疲れちゃいますよぉ〜……」

 歯磨きをした後、ベッドに寝転んだあたしは、瞼がどんどん重くなるのを感じながら、プロデューサーにふにゃふにゃと言った。

「おやすみなさ〜い……」

 はい、と優しい声色の返事が聞こえる。ぱちっと電気が消えて、同じようにあたしの意識は沈んだ。

 

 

 ぴぴぴぴぴぴ……。目覚まし時計の鳴き声であたしは目を覚ました。確認もせずに手を伸ばして、うるさいアラームをぴたりと止める。

 こんなにぐっすり眠ったのも、疲れが一切無いのも、久しぶりかも。せっかく早く起きられたし、あたしはランニングに行くことにした。

(……おおおおおおお!?)

 びっくりしたのは、嘘みたいに手足が速く動くことだった。身体中から力がみなぎってくるような感覚。洗っても洗っても取れないようなしつこい疲れが、綺麗さっぱり消え去っていた。

「身体かっる〜〜〜〜〜〜!!」

「ことね!?待ちなさい!」

 途中で追い越した星南ちゃんと何故か勝負になって、それは結局負けたんだけど。汗だくになった二人で一緒に笑って、素直な気持ちで握手をすることができた。

 それからのレッスンも凄かった。振り付け自体は完璧に覚えていたので、あとはあたしが100点満点のダンスをするだけ。張り切って踊ってる最中、プロデューサーと、何故か星南ちゃんも見に来てくれた。

(プロデューサー!いつもよりめーっちゃ踊れますよ!あたし、本当に才能あるのかも!)

 最後の決めポーズでレッスンは終わり!珍しくトレーナーさんが褒めてくれた。誰かに認めてもらえるのって、すごく嬉しい。ちらりと美鈴プロデューサーの方を見ると、彼女はにこりと微笑み返してくれた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 あの日の出来事はよく覚えています。

 放課後、まだ1年生だった私が何も知らないまま生徒会室のドアの前に立つと、微かに会長の声が聞こえてきました。

 お取り込み中でしょうか。そう思いつつ、気になって少しだけドアを横に引くと、よりはっきりとした声が聞こえます。

「──ことね……違うの、冗談なんかじゃないわ。励ましでも、お世辞でもない。あなたには比類なきアイドルの才能があるのよ。」

 途端に背筋が冷えた私は、すぐ横に隠れました。盗み聞きだなんて、やましいことをする趣味はありません。けれどこの時、この時だけ、私は立ち去ることができませんでした。

「……すみません。劣等生のあたしには、どうしてもその言葉を信じられないです。」

 言い争いをしたあの日より、彼女の声は幾分か弱々しく聞こえました。生気の抜けたような声に、私は耳を澄ませます。

「お願い、お願いよ……!あなたがアイドルを諦めるだなんて、あってはならないことなのよ。私に、あなたをプロデュースさせて頂戴。」

 その言葉を聞いた瞬間。全身が強張って、私はその場から動けなくなりました。

 ”あなた、アイドルになる気はあるんですか?”

 先日放った心無い言葉が、私の首を絞めて息をしづらくしていきました。心臓がどくどく鳴りました。

「あなたの事情は、今更ながら知ったわ。……その……家計が苦しくて、来年の分の学費を自分で稼いでいたそうね。今まで知らなくて、本当にごめんなさい。辛かったでしょう?私に任せておきなさい。だから、ね……」

 動悸はピークに達しつつあります。呼吸が速くなりました。いつ気付かれても可笑しくないくらいに、激しさを増しました。

「……星南会長。大好きなアイドルっていますか。」

 しばらくお互いに沈黙した後、藤田さんの空元気を纏ったような声が聞こえてきました。

「あたしにはいます。……ちっちゃい頃からずっと見てきて、大好きで、憧れで、あたしより少し年上の子で、本当に可愛くて……。あぁ、あたしもこんなアイドルになりたいなって。」

 藤田さんはとても嬉しそうに語りました。星南会長は今、どんな顔をしているのでしょうか。

「お願いします。大好きなアイドルの足を引っ張るなんて、そんなに辛いことは他に無いです。」

 最早、会長はどんな言葉をかけることもありませんでした。静まり返った生徒会室で誰かが歩く音が響きます。

 扉のすぐ近くで、藤田さんが言いました。

「あたし、大人になっても星南ちゃんのライブに行きます。……大好きです!」

 ガラガラガラ、と音がしました。私と真逆の方向に走っていった彼女の背中を見つめます。気付かれなくて、良かったのでしょうか。盗み聞きをしていたことが後ろめたく、声は出ません。

 会長の啜り泣く声と共に、走り去る彼女の後ろ姿が、癒えることのない深い傷を私の中に残す予感がしました。

 

 

 2024年、6月。

 あの頃より少し背が伸びました。窓に目を向けると、激しい雨が降っています。視線を戻すと、ここはボイスレッスン室。

「ひとつ〜の〜ゆぅーめー、かーなーえーたいっ、おもーいはぁ〜きっとぉ〜〜〜〜!!」

 目の前には息切れしてしまうくらいに激しく歌うまりちゃんがいました。

 先日、突然頼みがあると藤田さんが言うので、膝枕と耳掻きを所望するのかと思えば、それらは冷静に否定されました。どうやら藤田さんと同じクラスメイトが私のファンで、レッスンの様子を見てもらいたいらしいのです。私は快く承諾しました。それがまりちゃんだったとは露知らず。藤田さんは用事があるとのことで、必然的に私たちは二人きりになりました。

「ハァッ……ハァッ……!どうでしたか……!」

「とてもお上手でしたよ。ただし、最後の方は息が切れてしまっていました。他にも、いくつか指摘してもよろしいでしょうか。」

「はいっ……!」

 かつてりんちゃんが指導していたように、私は彼女に具体的なアドバイスをいくつかしました。お手本として私が歌ってみると、彼女は食い入るように私を見てくれます。

(相変わらずの頑張り屋さん。)

 もう一度歌ってぜぇぜぇと息をしているまりちゃんを見つめると、どうしても元の世界を思い出してしまいます。だから私は、今まで彼女やりんちゃんを避けていました。

「サインありがとうございますっ!!」

「いえいえ」

 けれど、こうしてまりちゃんに尊敬されるのは悪い気分ではありません。一抹の寂しさはありますが。

「あのっ!」

 レッスン室を出ようとした時、突然まりちゃんが思い出したように私を呼び止めました。喉が一瞬詰まるような感覚がして、それが治りきらないうちに私は振り返りました。

「あの……別に、頼まれたとかじゃないんですけど、どうしてことねをプロデュースしようと思ったんですか?えっと、ことねに頼まれたとかじゃないんですけど……」

 

 

(頼まれましたね)

 生徒会室で書類の分類を手伝いながら、そう思いました。

 私が藤田さんをプロデュースする理由。まりちゃんに頼んでまで知ろうとするのは、分からない話でもありません。4月1日、アイドルを諦めたはずの藤田ことねさんをもう一度見つけたあの日、トップアイドルが一番星をお供に連れて彼女をスカウトしました。彼女からすれば有り得ない話でしょう。私なら夢だと思ってその場でほっぺたを引っ張ります。

 初星学園の入学式で実際にそうしたのが私でした。あの時も、今だってほっぺたに痛みはあります。だから、夢とは違うような気がします。しかし、この世界はなんなんでしょうか。過去に戻ったにしてはおかしな点がいくつもあります。例えば、学生の頃の私がいない。記憶に覚えのない自分のライブ映像がたくさんある。皆、私がプロデューサーも付かずにソロでトップアイドルになったのだと思い込んでいる。都合の良いように、現実が歪められている。

(………)

 重いため息を吐き、再び仕事に集中します。考えても分からないのなら、考える必要はありません。今は、過去に戻ったのだと仮定し、藤田さんをトップアイドルにします。

 生徒会室の仕事が終わっても、雨はザーザーといやに降っています。まだまだ梅雨は続きそうです。学生の頃は、雨粒が鉄骨造に降り注ぐ音を聞きながら、ぐっすりと眠れるこの時期が好きでした。今はうたた寝する暇などありません。

(明日は、次の仕事の説明と、HIF本戦で使用する曲と衣装について、それから……)

 頭がぼうっとしてきたので、少しだけ廊下で立ち止まりました。やけに疲れているような気がします。こういう時は、何も考えずに窓の外の景色に目を向けてみましょう。

 雨粒が次から次へと窓を叩き、落ちていくのを繰り返します。中庭のベンチはびしょ濡れで、今あそこで居眠りをすれば風邪を引いてしまいそうです。

(……?)

 一瞬、頭が理解を拒みましたが、傘も差さずにベンチに座っている人物を二人見つけました。お昼寝をしているのではありません。一人は笑顔で、もう一人は微笑み程度。どちらも私に向かって手を振っているように見えます。

 それが、私のよく知る人たちに見えて、やはり頭が理解を拒みました。

(……えっ……)

 大人の月村手毬と、大人の賀陽燐羽。

 ここにはいないはずの、親友たち。

 咄嗟に私は地面を蹴って、廊下を走り出しました。

 必死になって、学園の決まり事を破って、すぐ靴に履き替えて、重いガラス張りのドアを横に開いて、傘置き場に目も向けず必死に駆け出します。私を濡らす土砂降りの雨など、関係ない。一番会いたかった人たちの元へと腕を振ります。もう二度と会えないかも知れない人たちの名前を叫びながら足を動かします。

「まりちゃんっ!りんちゃん!!」

 足を滑らせそうになりながらとうとう中庭まで辿り着きます。そこにはもう、人の気配はありませんでした。

「えっ……?」

 全身から力が抜け落ち、膝から崩れ落ちそうになってしゃがみました。けたたましく降る大雨が、彼女たちのいた痕跡を塗り潰したように思いました。

(……幻覚?)

 ハァッ、ハァッ、と荒い息を繰り返します。同時にお昼に会った学生のまりちゃんが頭に浮かびます。彼女は、私の知るまりちゃんじゃない。彼女を迎えに来た燐羽も、燐羽じゃない。幼馴染じゃなくなって、SyngUp!の全てが無くなってしまっただなんて、受け入れられるはずがない。

 先程見えた二人は幻だったのでしょうか。ならば、やはりこれが荒唐無稽な夢である証拠に他ならない。夢なら良かった。いつか覚める。でも、いつ覚めるんでしょう。

 私が藤田ことねさんをプロデュースする理由は、私の言葉が彼女にアイドルの道を諦めさせた、その償いをするためです。

 ならば、全て償うことができたのなら。

 彼女をトップアイドルにすれば、この夢を終わらせることができるのでしょうか。

 

 

「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」

 案の定、雨に濡れた私は風邪を引いてしまいました。おでこを触ると、異常なほどに発熱しています。

 とりあえず、本日休むこととレッスンのメニューの連絡を藤田さんにしました。それっきりスマホも見ずに、私は自室の布団で横になります。夏のHIF直前という大事な時期です、何とか今日中に治さなければ。

 しばらく咳き込んでいると、ピンポーン、と何故かインターホンが鳴りました。

(誰……?)

 気怠い身体を起こし、私は映像を見て訪問者をチェックします。

 そこには、大きな帽子やサングラスやマスクを付けた担当アイドル──藤田ことねさんがいました。

(……!?)

 かなり驚きましたが、とにかく私は外していたマスクを付け直し、急ぎ人に会える最低限の取り繕いをして一階に降りました。合流して、サングラスを外した藤田さんが囁くような小声で言います。

「すみません、身体辛いのに出迎えさせちゃって……看病しにきました!」

 がさっと両手で差し出されたレジ袋には、スポーツドリンクやらゼリーやらが沢山入っていました。以前、私はファーストライブ記念パーティーに彼女と会長を自室へ連れてきたことがあったので、その記憶を頼りに来たのでしょう。

「遠かったでしょう……?お気持ちはありがたいですが、あなたに風邪が感染ってはいけません……」

「大丈夫ですって。マスクしてます!手洗いもします!バイト減らさせてくれたおかげで、ちゃんと寝てるし体調も万全ですっ♪」

 このような調子でしばらくいたちごっこを繰り返しましたが、結局私は折れて彼女を部屋にあげてしまいました。

「お邪魔しま〜す。」

 自室に帰った途端、部屋の清掃を怠っていたことにはっと気が付きました。転がっている空のペットボトル、脱ぎ散らかされたパジャマ。プロデューサーとして情けない部屋を、藤田さんは特に気に留めずにキッチンへと向かいました。

「……失望したでしょう?」

「へ?何がです?」

「プロデューサー失格の部屋です。」

「風邪引いてるし、急にあたしが来たんですよ。メール見れないくらいヤバかったなら当然です。むしろ安心しました!」

 そう言われ、のそのそとスマホを取りに行ってみると、藤田さんの心配するメールが何件も届いていました。会長からも2件ほど。

 私は返信をしつつ、料理をしている様子の藤田さんに、それ以上は何も言葉をかけませんでした。貰ったポカリスエットを飲むと少しだけ楽になります。包丁がとんとんとんとまな板を叩く音が、妙に心地良く聞こえる気がします。

「はい!召し上がっちゃってください!」

「……いただきます。」

 机にことりと置かれたのは、ネギを散らした卵がゆでした。私は両手を合わせた後に膝の上に置き、しばらくの間そのままでいました。

「あーんってしましょうか?」

 突然、冗談なのかよく分からない提案を彼女はしてきました。しかし、私の身を案じての言葉だとすぐに分かりました。確かに、先程から頭がぼーっとして、腕も上手く動かせない。ならば、仕方が無い。そう自分を納得させて、私は彼女の提案を受け入れました。

 木のスプーンで掬われた一口目が、何度か息を吹きつけられてからそっと口に運ばれます。

「……どーですか?」

 出来立ての卵がゆは、火傷するくらいに熱いです。熱で口の中がじんじんと痛み、味はよく分かりません。

 けれど、彼女の好意を咀嚼したくて、私は匙を咥えたままでいました。

「………」

 藤田さんの顔をちらっと覗くと、少し顔が赤くなっている気がしました。そういえば、粥を冷まして私に差し出すため、彼女は一時的にマスクを外していた。移りますよ、とすぐにマスクを着けなおさせ、彼女から匙を受け取りました。

(誰かにお世話をされるだなんて、いつぶりでしょう……)

 ゆっくりと、彼女の作ってくれた卵がゆを一口ずつ味わいます。喉の奥に流れ込むたび、じんわりと胸が暖かくなっていきました。

「とても美味しいです。元気が出ます。」

「よっしゃあ!!いつも世話してもらってるお返しですよ、美(・)鈴(・)ち(・)ゃ(・)ん(・)♪」

 突然、藤田さんから一度も呼ばれたことのない呼称を耳にし、私は顔を上げました。目が合った彼女は、しまったという顔をしてから苦笑いをつくりました。

「あっ……その~、あたし昔からファンで………プロデューサーってそう呼ばれてたんでぇ……すみません!」

「……いいですよ、美鈴ちゃんで。」

「いいんですか!?」

 彼女が大きな声を出すのを横目に、私はスプーンを口に運び続けました。米粒ひとつ残らず完食できて、ほっと肩をなでおろします。ほんの僅かに食欲が戻ってきたみたいです。ごちそうさまでしたと手を合わせるときも、用意していた解熱剤を水で喉に流し込んだ時も、藤田さんはじっと私を見つめ続けていました。

 やがて、意を決したように彼女は言いました。

「あの、質問していいですか。具合悪いならやめときます。」

「大丈夫ですよ」

「……美鈴ちゃんは、どうしてあたしをプロデュースしようと思ったんですか?」

 私は彼女を見つめ返します。しかし、頭が熱いせいでしょうか、視界がぼやけて、目の前のアイドルがよく見えなくなってしまいました。

 例えば、風邪をひいてしまった私の看病をしていたのは、他のアイドルだったかもしれない。自分が担当アイドルでなければならない理由が、思い浮かばない。あなたはずっとそう思っていたのでしょうか。

 ならば、断言しなければなりません。あなたの代わりなんて決していないことを。プロデューサーとして、そのような不安を抱かせたことを恥じなければならない。解熱剤が効いてきたのか、ようやくあなたの自信なさげな顔がはっきりと見えました。気を抜けば伝染してしまうくらい、可愛らしい顔でした。

「ことちゃん。」

「ことちゃん!?」

「これは過言ではありません。あなたは私と同じくらい、アイドルの才能があります。」

 最初にその才覚に気付いたのは、星南先輩でした。しかし2番目は私です。2番目は誰にも譲らない。夢から覚める、出張に行く、事故が起きる、何かが起きる──仮に、私の身に何かがあった時、先輩以外に藤田ことねさんを任せるつもりはありません。

「だから、あたしを?」

「それだけではありませんよ」

 げほっ、げほっ、と咳をしながら、私は自分の腕を枕にして、うつ伏せになって机の上で目を瞑りました。

「昔……学園を退学してしまった人がいたんです。毎日アルバイトで身を粉にして、周りには何でもないフリをして、授業は居眠り、レッスン中は倒れるような……放っておけない人でした。」

 熱を逃すように呼吸をしながら、私は話を続けます。

「そんな彼女に、私はひどい言葉を掛けてしまいました。きっと、それが原因になったのでしょう。彼女は初星学園を自主的に退学し、二度と会うことはありませんでした。」

 頭に血が昇っていくのを感じながら、黄色い髪をした少女の遠ざかる背中を思い浮かべます。

「後から、何もかも分かったんです。あの子は重たい借金を背負っていた。身に余る学費を、自分だけの力で稼ごうとしていた。……気付いた時には、もう遅かった。」

 今なら、私の目の前でさえ泣きじゃくっていた星南先輩の気持ちが痛いほどに分かります。身近にいながら、彼女の抱える苦しみに最後の最後まで気付けなかった。彼女を救うプロデューサーになることが叶わなかった。

 だから、これは贖罪なのだと。雨に打たれながら私は思っていました。

 けれど、あなたは傘を差した。風邪を引いた私を看病するために、ここまで来てくれた。心配なのか、あるいはそういう立ち回りなのか。しばらくプロデュースを続けて分かりましたが、彼女は意外と打算的な人物です。

 どれでも構いません。何があっても、私はあなたの側にいるでしょう。

 いつか夢が終わるまで。夢でなくともいいとさえ思える。彼女というアイドルが、失われていいはずがありません。そして償いなど関係なく、あなたに笑ってもらい、私も笑っていたい。

 振り絞った力で顔を上げ、あなたを安心させるように、私は微笑みました。

「私は、あなたを救うために、プロデューサーになったんです──」

 

 

 そして、ベッドの上で目が覚めました。

 薄暗い部屋の中にいました。ゆっくりと立ち上がって、恐る恐るカーテンを開けると、眩しい陽の光が私の瞳孔を刺激します。

 ここは別の世界。藤田さんがアイドルを諦めなかった、眩しい世界。ほっぺたを摘み、夢ではないことを確かめて、一つ息を吐きました。

 熱は嘘のように消えていました。藤田さんもまた既に部屋から。いつ帰ったのでしょうか、昨夜の記憶が全くありません。

「……着替えましょうか。」

 その言葉でスイッチを入れたように私はてきぱきと動きました。顔を洗い、寝癖を直し、スーツ姿に着替え、ネクタイをきゅっと締めます。鏡に映った私は、病熱と共に憂いが祓われたように見えました。

 にこりと微笑み、洗面所を後にします。

 

 

 この日、私が復帰した時から、藤田さんのアイドルとしての成績は全く伸びなくなりました。

 

 

[newpage]

 

 

 夏のHIFの敗北。想定内のことです。予想だにしていなかったことは、藤田さんが演技のような悔しがり方を見せたことでした。

 様子がおかしいのは、私が看病をしてもらった後からでしょうか。彼女はレッスンをそつなくこなします。授業も数えられる程度しか居眠りをしていない。ライブも、それなりのパフォーマンスで会場を沸かせる。共通しているのは、どの活動にも以前より熱意が見られないことでした。

 何となく、本気でやっていないと分かってしまいます。お客さんにもそれが伝わる。HIFで一番星に選ばれなかった要因はそこにあると私は結論付けています。最大の敵として立ちはだかったサブプロデューサーの星南会長も同意しました。

「Vocal、Dance、Visual。私の目に見える、ことねのアイドルパワーは成長を止めてしまった。」

「原因を早急に突き止める必要があります。本人にはもう聞きましたか?」

「……いつもの調子で流されちゃったわ。」

「私もです」

 困った顔をした星南会長と一緒に、私もほんの少しだけ眉を顰めます。担当アイドルが、不調や不安を隠そうとする。プロデューサーにとって最も厄介な状況です。

「人間だものね。隠したいことの一つや二つはある。あなたも、未来からやってきたという隠し事は私にしか話せないでしょう?」

「はい。信じてくれそうな人が星南会長しかいませんでしたから。」

「……誉め言葉として受け止めるわ。なら、私たちで彼女が抱える問題を推測し、勝手に解決してしまうのはどう?」

「考えはしましたが、何が原因か分からない以上は慎重に動くべきだと思います。星南会長。こういう時にはどうすればいいのか、私は大人のあなたから教わったことがあるんです。」

「あら、何かしら。」

 興味津々という風に目線を向ける彼女に、私は微笑みます。

「アイドルと運命共同体になるんです。」

 それから大真面目に言いました。

「私たちは、藤田ことねというアイドルと一蓮托生の関係にあるのだと。結果がどうなろうと、必ずあなたの側にいると約束をするんです。ただし、それは結果を求めないという話ではありません。運命共同体にあるからこそ、あなたと共に悩み、苦しみ、成長したいのだと──」

 

 

「──私たちは思っているんです。藤田さん。」

 8月31日。最後の夏休みの夕方に、私と星南会長と藤田さんは寮の敷地内で線香花火をしていました。パチパチと光る火花を見つめながら、藤田さんはきまりが悪いように笑いました。

「……心配させちゃいましたよね。」

「ええ。とても心配よ、ことね。」

「藤田さん。私と会長はあなたと苦楽を共にします。そして、あなたと同じ夢を見て、同じ夢に翔けます。だからこそ、あなたがアイドルとして伸び悩んでいることが辛いんです。」

 夕暮れを過ぎ、空は薄暗くなってきました。三人分の線香花火が音を立てて手元を照らします。

「藤田さん、あなたは……」

 言葉を続けようとしたその時、私の口はぴたりと止まりました。踏みとどまったと言うべきでしょう。私は口をつぐみ、新たな言葉を頭の中で再構成しました。 

「私たちに話せない問題を抱えていますか?」

 彼女にそう聞いてから、しばらくの間は誰も何かを話そうとしませんでした。燃え尽きた花火の火薬の臭いが辺りを漂います。

 水を張ったバケツに燃えがらを入れて、藤田さんは新しい線香花火を手に取りました。

「これって、長持ちさせるコツあります?」

「……はい、ありますよ。」

 私も線香花火を手に取りました。火薬のすぐ上の部分を軽く捩じり、先端を点火棒の炎で少しだけ炙ります。パチパチと輝き始めた花火を、斜め45度程度に傾けました。すると、何もしなかった時よりも10秒程度長持ちしました。

「へ~、全然違うんですね……」

「流石ね先輩。私と勝負するわよ!」

 笑顔で線香花火を配る星南会長に、負けませんよと言い返します。

 買ってきた3人分の花火がもうじき灰になるという頃、外はすっかり真っ暗になっていました。最後の一本が盛んに火の花を咲かせている最中、藤田さんがぽつりと呟きました。

「あたし、幸せなんです。」

 にこりと笑いながら、彼女は星南会長と私に目を向けます。

「中学までは落ちこぼれアイドルやってたのに、今じゃ憧れの二人があたしの側にいてくれます。す~っごく、幸せなんです!だから、どうして不調なのか、あたしにも分かんないんです……」

 視線を地面に向け、藤田さんはそれっきり何も話そうとしませんでした。私たちは、彼女と、彼女を淡く照らそうとする花火をただ見つめていました。

 パチパチと鳴っていた小さな閃光が、やがて勢いを弱めてぽとりと落ちました。

 

 

 非常に難しい問題になりました。ほとんどお手上げと言わざるを得ません。夏休みが終わっても、彼女は授業にもレッスンにも身が入らない様子でした。やはり彼女は何か問題を隠している。しかし、てこを使っても話してくれそうにありません。もしかしてと思い、帰り道を何日か尾行してみましたが、アルバイトをこっそりしている訳でもありませんでした。

 彼女の寮に行ってお世話をすることは、9月頃に彼女に断られてからすっかり無くなっていました。過干渉が原因かと気付かされたような気持ちになりましたが、レッスンなどに熱意が見られないことに変わりはありません。時折、嫌な妄想が頭の中に浮かぶようになりました。また元の世界のように、藤田さんはアイドルを諦めてしまうのではないか。夜はぐっすりと眠れなくなりました。

 11月。肌寒さが増してきた頃、私は早朝5時から走っていました。

 星南会長の案で藤田さんの金銭面などの問題を解決してきましたが、喜ばれるだけで効果はありませんでした。ならば、原点に戻りましょう。藤田さんは星南会長に憧れてアイドルを目指したと聞きました。私と会長の二人によるライブを披露することにしたのです。まだ会長以外には誰も話していませんが、SNSに投稿すれば瞬く間に情報が広まるでしょう。圧倒的なパフォーマンスで、藤田さんの情熱を再び蘇らせるのです。

 そのため、私は体力づくりの為に走り込みを始めました。

 藤田さんと星南会長を誘ってから。

「おはようございま~す……」

「ちゃんと起きられましたね。偉いですよ。」

 まだ眠そうな藤田さんが欠伸をします。今日から会長は名古屋に出張しているため、藤田さんと二人きりです。

 深いブルーが満たす朝に、静けさを強調する二人分の走る音が響きます。隣に並ぶ彼女は長袖のランニングウェアを着て、金髪の三つ編みを揺らしています。

「……この頃は、きちんと食事を取っていますか?」

「バッチリです。あ~でも、朝食はサラダとかで簡単に済ませちゃいますね。」

「まあ……集中力が切れますから、エネルギーは摂取しなきゃですよ。」

「ですよね~」

 他愛もない話を繰り返していると、やがてトッタッタッタッ、という足音だけが聞こえるようになりました。吐いた真っ白な息が冬の到来を実感させます。次のHIFまで、残り3ヵ月もありません。それまでに何とか藤田さんのモチベーションを回復させたい。

「………」

 けれど、その前に。彼女の意思を聞いておくべきだと思いました。

「藤田さん。」

「……何ですか?」

 クッション性のある運動靴が地面を踏み鳴らす音が二つ、ずれて聞こえます。私とあなたの考えにもずれがあるのなら、私の方から合わせなくてはならない。たとえその先に、トップアイドルになった藤田さんがいないとしても。

 口が少しだけ震えました。私にとって、それはトラウマのようになっていました。開いた口が乾く前に、私は気付かれないように深呼吸して、心を落ち着かせました。

 そして私は言いました。

「今でも、アイドルになりたいと思っていますか?」

 

 

 "あなた、アイドルになる気はあるんですか?"

 未熟な私が放ったあの言葉が、ずっと怖かった。吐き気がしました。

 線香花火を一緒にした時、同じような言葉を放ちそうになって、咄嗟に飲み込みました。

 また、あなたをアイドルの道から踏み外させてしまうのではないかと。恐れと一緒に飲み込みました。

 けれど、もしかしたら、あなたはアイドルを諦めたいのかも知れない。最近の彼女が、私にはそう見えてしまう。

 あなたが抱える闇が何なのか分からないことがもどかしい。

 あなたが私を頼ってくれないことがこんなにも辛い。

 せめて聞かせてほしいと思いました。アイドルになりたいのなら、私は一蓮托生を再び誓いましょう。

 気が変わってしまったのなら、別の道を探そうとするあなたを支えましょう。

 だから、藤田ことねさん。

 あなたは──

 

 

 あなたは突然、私を振り切るように走り出しました。

「……!」

 瞬く間に遠ざかる彼女を見て、考えるよりも先に足が前へと動きました。

(待って……!)

 藤田さんの背中が、私の古い記憶を呼び起こしました。私が酷い言葉を投げた時や、生徒会室から走り去った時など、何度だって手を伸ばせた瞬間と、ぼんやりと重なりました。小さな私にできたことと言えば、不安そうにただ見つめることだけ。可能ならば、小さな私の腕を引っ張ってやりたかった。追いかけてくださいと叫びたかった。

 ここにはもう、昔の私はいない。全身全霊の私がいる。

「藤田さんっ!」

 全く似合わない全力。掠れた大きな声。腕も足も必死に前へ前へと動かす。走る。冷たい風を受ける。救えなかった彼女を追いかける。秦谷美鈴というマイペースを捨てる。あなたのために捨てる。あなたがいるから。あなたのプロデューサーだから。

 私は、必死に叫んだんです。

「藤田ことねさんっ!!」

 今、彼女を追いかけるのをやめてしまえば、二度と彼女のプロデューサーを名乗れない気がしました。無我夢中で走っていると、海を見渡せる場所で彼女はようやく速度を落としました。

 少しずつ、やがて止まるまで、緩やかに足を動かすのをやめた藤田さんは、激しい息で肩を揺らしていました。しばらく体力づくりを怠っていた私もまた、倒れそうなくらいに疲れ果て、全身から汗を流して息を必死に吐いていました。

 

 

 か細い声で、藤田さんは言いました。

「思います」

 薄暗い空の下で、彼女は振り返ろうとしませんでした。

「思っちゃいました」

 彼女の声は震えていました。痛みを堪えているようにも思えました。私が話しかける前に、彼女は言いました。

「全(・)部(・)夢(・)だ(・)っ(・)て(・)わ(・)か(・)っ(・)て(・)る(・)の(・)に(・)……っ、思っちゃいましたっ……」

 冷たい風がごおっと吹きました。汗ばんだ身体がさあっと冷えました。

 背中に悪寒が走り、私は目を大きく見開きました。彼女の言葉を飲み込むには、長い時間を要しそうでした。

「……ぜんぶ、夢なんですよ!ぜんぶ、ぜんぶっ!」

 藤田さんが振り向かないまま、それまでずっと隠していた感情を爆発させるように、ひたすらに叫びました。

「あたしはっ、アイドル諦めて!初星学園を退学して!普通に就職して、普通に働いてたら!いつの間にか昔の自分に戻ってたんですよっ!!」

 彼女の告白に、私は何も言えなくなりました。

「毎日幸せすぎて……星南ちゃんも、美鈴ちゃんも、あたしのこと気にかけてくれて……嫌でもあたしがアイドルに向いてたって分かっちゃって!でも、全部夢だって気付いたっ!!」

 震えも涙も隠しきれずに、藤田さんは蹲って嗚咽を漏らしました。

「だって……美鈴ちゃんだけ大人で、あたしのプロデューサーで、あたしに何でもしてくれて……有り得ないじゃん……?どこまであたしを馬鹿にする気なんだよ……」

 小さく丸めた背中から、囁くような懇願が聞こえます。

「……嫌だ。覚めたくない。美鈴ちゃんと離れたくない……。」

 私は立ち尽くしたまま、視界が滲みました。

「あたし、アイドルになりたい……」

 喉と胸の奥が苦しくなって、私は歯を強く噛み締めました。

 あなたは、ずっと抱えていた。

 誰も信じようがない、誰にも言えない秘密。けれど、私には星南会長がいた。藤田さんは独りぼっちだった。どんなに辛かったでしょう。朝目が覚めれば、泡のように消えてしまうかもしれない夢に怯えて、心細い気持ちでいっぱいだったのでしょうか。

 私たちは同じだったんです。ただし、理想の姿が違った。私はあなたをプロデュースすることができる姿に。あなたはアイドルとしてやり直すことができる姿に。全てがまだ間に合う、初星学園に入学した1年生の時代に、お互いに戻ってきた。世界中の人間から愛されたい。広い宇宙をどこまでも旅したい。そんな、語ることしか許されないはずの幻想に、私たちは身を置いている。

 限界が訪れました。あなたはこの世界で幸せになるほど、元の世界が嫌になった。理想のアイドルとして軌道に乗れば乗るほど、夢から覚めてしまうのが怖くなった。アイドルとしての活動は最早無意味に思えた。そして今、あなたは何もかも嫌になって、私に全てを話した。

 話してくれて、本当に良かった。この巡り合わせに、一世一代の出来事に、応えなければならない。

 私は藤田さんに一歩一歩近付きました。足元に蹲った彼女の背中が見える頃に、視線を合わせられるくらいにしゃがみました。

「私は、どこまで行ってもあなたのプロデューサーです。」

 まだ日が昇っていない暗い空の下では、どんなに恥ずかしいことも言える気がしました。

「ことちゃん。プロデューサーを信じることはできますか。」

 そっと、私は彼女に言葉を伝えます。

「もしもこれが現実ならば。私はそれでもいいと思っています。藤田さんがアイドルを諦めることなど、あってはならないことですから。」

 冷たい海風がびゅうと吹きます。朝焼け頃は本当に静かで、声が良く通りました。

「もし、これが夢なのだとしたら。私たち、また同じ夢を見ましょう?」

 ゆっくりと顔を上げた藤田さんが、弱々しく呼吸を繰り返します。寒さもあってか、鼻を啜る音が聞こえました。

「……夢から覚めたら、今より少し大人になったことちゃんを迎えに行くんです。20歳だなんて、何も遅くはありません。世の中には30を超えているアイドルもいます。身体は鈍って、歌声は出なくなっているかも知れませんが、少しずつ、ゆるりとアイドルの道を歩みましょう。」

 途端に藤田さんは振り返って、ようやく私の方を見てくれました。

 打ちひしがれて泣きじゃくった後の赤い顔に、私は微笑みかけます。

 彼女はぽろぽろと涙を零しながら、心底驚いた顔をしました。

「みすずちゃん」

「あなたと同じです。いつの間にか私も過去に戻っていたんです。現実か夢かは分かりませんが。」

「あたし」

「アイドルになれますよ。」

「ぇ……」

「夢から覚めても、必ずあなたを見つけます。」

 一蓮托生を約束した、素敵なアイドルへ。私は安心させるように笑みを浮かべ、手を伸ばしました。

「私に、あなたをプロデュースさせてください。」

 藤田さんは動きを止めて、唖然とした顔で私を見つめ続けました。やがて、私の差し出した右手に、恐る恐る藤田さんが右手を重ねました。

「はい」

 微かな声を出した後、彼女は包み込むように両手で私の手を握りました。二人とも寒さで悴んでいて、冷たいはずなのに、指先から手首まで暖かい気さえしました。

「はいっ……!」

 取り繕っていたものが音を立てて崩れるように、藤田さんは大粒の涙を流しました。夜明け前の海辺には誰もいませんでしたが、彼女の手を引っ張って、アイドルの泣き顔を隠すために強く抱きしめました。私たちは互いに抱きしめ合ったまま、どこにも行かないことを誓い合いました。これが夢ならば、いつ目が覚めてもいいように、ずっと離れないままでいました。

 何十分経ったのでしょうか。胸の中で小さな寝息を立てて眠っている藤田さんをそっと離します。さざ波の音が聞こえる水平線に目を向けると、橙色の美しい日の出が拝めました。

 彼女を横向きに抱え上げ、その場を立ち去ろうとします。すると、ぼんやりと小さな私が見えました。恐らく初星学園の1年生の頃の姿でしょう。とても不安そうに、私が抱える藤田さんを見つめています。最早この程度の幻覚には驚きませんが、自分を見るというのは奇妙な感覚です。

「大丈夫ですよ」

 私は子供の私に一言掛けてから、踵を返しました。

 きっともう、何もかも大丈夫です。

(約束しましたから。)

 

 

[newpage]

 

 

「すぅ~……はぁ~……。」

 HIF本戦。控室。黄色いサンバイザーとオーバーオールを身に着けた藤田さんは端から見れば準備万端です。

「落ち着きましたか?」

「……んー、無理です!星南ちゃん、夏の時よりもめっちゃすごかったです!感動しすぎてそれどころじゃないっていうか……」

「素晴らしいライブでしたね。けれど成長したのはあなたもでしょう?それも、たった2ヵ月で見違えるように。」

「アハハ……。それでも緊張はしますね。」

 再び深呼吸を始めた彼女は、しばらくしてから私をじっと見つめてきました。そして、にこりと笑って言います。

「心臓止まらないです。……美鈴ちゃん。」

 私の名前をちゃんづけで呼ぶのは、一種の合図のようなものでした。私は静かに距離を縮めます。少し恥ずかしそうに彼女ははにかみました。

 ぎゅっと、両腕を広げて藤田さんを抱きしめた瞬間。ライブが終わった星南会長が控室の扉を勢い良く開きました。

「皆!見てくれていたかしら!」

「………」

「………」

「………」

 非常に不味いことになりました。私と藤田さんは扉の方を見てフリーズします。先刻異次元のパフォーマンスを披露していた星南会長はわなわなと震え、顔面を蒼白させて叫びました。

「う、裏切りよーーーー!!」

 とりあえず私は藤田さんから離れ、弁明し始めました。

「すみませんでした。メンタルケアの一環としてひそかに実施していたんです。」

「ずるいわよ先輩!だ、抱きしめるだなんて、そんな……。破廉恥よ!」

「敵に塩を送ることになるかも知れませんが、星南会長もどうですか?」

「えっ」

「え?」

 同時に会長と藤田さんが目をぱっちりと開きます。先に切り替えたのは会長でした。首にかけていたタオルで音速と見紛う程素早く汗を拭き、目をキラキラと輝かせて両手を広げます。

「ことね!!」

「え?えっ!?」

「大ファンなんでしょう?」

 軽く背中を押すと、藤田さんは躊躇いつつも星南会長に近付きました。

「い、いいんですか?」

「勿論よ!私もあなたのプロデューサーだもの。」

「じゃ、じゃあ……」

 そう言うと、彼女は気恥ずかしそうに脇を締めながら、会長の腰辺りに真っすぐ指先を伸ばしました。

「ことね~~~~!♡」

 星南会長に力強く抱きしめられた藤田さんは、なすがままに固まっていました。HIF本戦への緊張が解け切っていないのでしょうか。学園中の生徒たちが、鋭い審美眼を持つ審査員が、外部からの人々が、一番星を超えようとする藤田さんを厳しい目で見る。怖くないはずがありません。それを見抜いたであろう会長はふっと真剣な表情になって、少し離れてから藤田さんの肩に両手を添えました。

「今まで本当によく頑張ってきたわ。あなたは、あなたの努力と才能を信じられる?」

「……ハイ!信じられます!」

「良かった。あなたならできるはずよ!歌って踊って、アイドルを最高に楽しんで!お客さん全員も楽しませなさい!」

「はいっ!!」

 そこには元気良く返事をした藤田さんと、かつて私をプロデュースしてくれていた星南先輩がいました。

 

 

 いよいよ始まった藤田さんのライブは、私が抱いていた緊張感など容易く吹き飛ばしてしまうような、最高のパフォーマンスを見せてくれました。皆と目と目を合わせることを絶やさずに、手を振って高くジャンプをして、会場にいるお客さんたちを熱狂させます。

「まだまだまだ足りない!まだまだ終わらせない!まだまだいけるでしょ?キミとわたしならっ!」

 何よりも藤田ことねというアイドルは、アイドルになるために生まれてきたのだと、楽しそうに笑顔で歌って踊りました。あまりに素晴らしく、あまりに心が躍るライブです。思わず私の顔はほころびました。

「叫べ!叫べ!さけべぇ~~~~!!」

 大きな声が響く会場は、曲が落ち着くと共に静寂に包まれます。

「夢みたいで……」

 目を潤わせた藤田さんが、繊細に歌を紡ぎます。

「夢じゃないんだ」

 震える歌声は、彼女の感情が強く込められている気がしました。しんと嘘のように会場が静まった後、彼女はマイクを口元に近付け、曲の盛り上がりに合わせて満面の笑みを浮かべました。

「地球まっるごとねっ!巻き込んでYellow Big Bang!せかいい~ち~はじっけっちゃって!!」

 元気一杯の歌声に、会場は最高の盛り上がりを見せ、誰もコールを厭いません。

「さい~こうのっ笑顔でほらっ!キミも!わたしも!アドレナリン全開で!」

 汗を流しながら楽しそうに笑った藤田さんと目が合い、私は走馬灯のようなものを見ました。

 4月。ベンチに座っていたあなたを、星南会長と一緒にスカウトしました。5月。私たちがプロデュースを始めてから、あなたはどんどんアイドルとして成長を続けました。6月。風邪で弱っていた私をあなたは看病してくれました。7月。8月。9月。10月。11月……

(あなたに出逢えて、本当に良かった……。)

 かけがえのない日々に、世界中の人を楽しませられる彼女のライブに、心の底から歓喜し、視界が潤みます。

「キミと目が合う。ほら笑い合う。この瞬間が……ダ!イ!ス!キ!Yeah-oh,Yeah-oh,一緒にさ、ほとばしっていこう、はみ出していこう、どこまで~も~いこ~~~~う!!」

 伸びる叫び声が、いつまでも終わってほしくないと、私たちに名残惜しく思わせます。

 曲が終わると、割れんばかりの大きな拍手の中で、彼女は一番星になりました。

 

 

 控室で、私はうたた寝をしていました。

 興奮冷めやらぬのはそうですが、椅子に座ると安心からか眠気が襲ってきたのです。いけないと思い、私は無理矢理身体を立たせました。

「………」

 いつからそこにいたんでしょうか。寝惚けた眼を擦る私の目の前には、大人の月村手毬と大人の賀陽燐羽が立っていました。

 以前も、雨の中私に手を振っていた不思議な幻です。あの時は分かりませんでしたが、半透明のようにぼやけて見えます。

「また、寂しがってる私をからかいにきたんですか?」

 私の問いかけに、二人は何も答えません。梅雨は必死に追いかけた幻影たちが、逃げも隠れもせずに堂々と立っています。この過去の世界で、SyngUp!の全てが無かったことにされたのがあまりに辛く、当時は精神的に追い詰められていました。けれど、既に未練はありません。まりちゃんとりんちゃんに、私は微笑みながら言います。

「今はもう大丈夫ですよ」

 すると、二人は私の目をじっと見つめてきました。よく見ると、まりちゃんは今にも泣きだしそうな表情をしています。りんちゃんは、曲げた人差し指の第二関節を口元に持ってきて、クスリと笑いました。

「違うわよ。」

 久しぶりに聞いたりんちゃんの声に困惑していると、彼女は言いました。

「寂(・)し(・)い(・)の(・)は(・)、私(・)た(・)ち(・)の(・)方(・)。」

 その時、控室の扉が開きました。

 

 

「ぷろでゅ~さぁ~~~~~~♡!」

 何か、勘付いてしまった私は、咄嗟にライブから帰ってきた藤田さんの方を振り向きました。

「……?」

 不思議そうな表情を浮かべた彼女に向かって、私は地面を蹴ります。

 蹴って、走って、全てが終わる予感に胸を締め付けられて、虚脱感を覚えて、それでも巡り合えた彼女を、頑張ったあなたを強く抱きしめました。

 最高のライブを終えてきたあなたは、小さな身体に大きな熱をこもらせていました。まだ息が上がっていて、胸の中でひたすら呼吸を繰り返しています。

 あと少しだけ。もう少しだけ、あなたを抱きしめなければならないのに。

 次の瞬間、視界は真っ暗になりました。

 

 

 

 

 長い夢を見ていた。

 とても幸せで、大好きな人たちに囲まれている夢だった。

「あ……」

 ぴぴぴぴと目覚まし時計が鳴っている。実家で使っていたもので、これがあればすぐに目を覚ませる。

 ああ、そうか。夢から覚めちゃったんだ、あたし。

 分かっていたはずなのに。陽の光がカーテンに遮られた真っ暗な部屋の中で、眩しい夢がぼおっと頭の中を流れる。美鈴ちゃんと星南ちゃんが、アイドル諦める前のあたしを拾ってくれた。美鈴ちゃんは、懲りずにバイトを続けようとしたあたしの世話をしてくれた。星南ちゃんは一緒にレッスンに付き合ってくれて、厳しくて優しいアドバイスをくれた。だからあたし、冬のHIFで一番星になれた。

 美鈴ちゃん。全部夢だったのかな。

 あたし、ずっと現実みたいな感覚があった。ほっぺたは引っ張ると痛かった。線香花火は煙臭いけどキレイだった。冬の早朝は寒くて、抱きしめられると暖かい。

 

 

(ねぇ。)

 大好きな人を、思い浮かべる。

(もう一回だけ、あたしに笑いかけてくれないかな。)

 幼稚な我儘に心を塗りつぶされて、涙が止まらなかった。

 

 

[newpage]

 

 

 あの不思議な夢を見てから一週間が経った。

 かなり落ち込んだけれど、毎日ぐっすり眠ったら次第に記憶も薄れていった。

 傷心したあたしを社会は慰めてくれやしない。月曜日になれば、あたしはスーツを着て会社に行った。周りの人たちとは上手くやれている。たまにはノルマのことで上司から怒鳴られるけれど。時々溜息が出るくらいの日常生活。

 忙しくやっている間に、あたしはすっかり立ち直ってしまった。

(ま、何はともあれ……今日は美鈴ちゃんのライブ!!)

 天川駅に近い、女性専用の格安カプセルホテルで今日のあたしは目が覚めた。ライブの遠征の時によく使っているホテルだ。倍率100倍くらいの美鈴ちゃんのライブに当たったから、あたしは気合入れてしゃかりきに働いて、有休取って地方からやってきたのだった。

「……ハァ。」

 周りの人を起こさないように、静かに溜息を吐く。初星学園にいた頃は、星南ちゃんも美鈴ちゃんもすぐ近くにいたのに。話しかけようと思えば話しかけられたって、我ながらすごい場所にいたんだなって思う。今となっては二人とも最高のトップアイドル。そして優秀なプロデューサー。もっとも、美鈴ちゃんは今年からプロデューサーで、アイドル活動休止前の最後のライブが本日行われるという訳だ。

(テンション上がるぅ~~~~!!)

 何度参加したって、この高揚感はたまらない。あたしは顔をほころばせてもう一度寝転んだ。

 数時間後。会場に行くと、沢山のファンが紫色や青色のペンライトを持ってはしゃいでいた。あたしもフルグラTシャツを身に着けてきたから、十二分に気合の入ったファンだ。カチカチと持ってきたペンライトが点灯するか確認する。

 周りの人たちが口々に楽しそうに美鈴ちゃんを語るのを聞きながら、あたしは嬉しくなって笑った。

(すごいなぁ、美鈴ちゃん……)

 そして始まった最高のライブは、藤色の長い髪を揺らす彼女の登場で、まずは地響きのような歓声が沸いた。もちろん、あたしも一緒になって叫ぶ。次々に披露されていく圧巻の歌とダンスに、感情が揺さぶられて溢れ出しそうになる。数万人の声に、あたしの声は埋もれていく。それでも感動を伝えたくて、曲が終われば必死に叫んだ。

 最後のアンコールも終わって、いよいよ美鈴ちゃんとの別れが来た。ライブの時間は本当にあっという間に過ぎる。とてつもなく高い倍率を勝ち抜けたことに、今は感謝しよう。心が彼女で満たされ、あたしは大満足した。

 マイクを持った美鈴ちゃんは、汗を少しも流さずににこりと笑っている。

「──皆様。今日は来てくださって、本当にありがとうございました。」

 美鈴ちゃんの最後のMCが始まる。一言一句聞き逃さないように、あたしは集中して耳を傾けた。

「ご存じかと思われますが、私はプロデューサーとしての道を歩むべく、アイドルとしての活動を休止します。皆様、いつになるかは分かりませんが、また私のライブに来てくれますか?」

 わああああああああ、と悲鳴のような歓声がそこら中から上がった。実際、悲鳴を出した人もいただろう。たとえ少しの期間でも、彼女がアイドルを休止してしまうだなんて。SNSでは言い争いが起こってたくらいだ。あたしもちょっぴり寂しい。

 ようやく歓声が止むと、美鈴ちゃんはにこりと笑って言った。

「ありがとうございます。さて、簡単にですが、私がプロデューサーを目指す理由を最後にお話します。」

 周りのファンたちはざわめき始める。アイドルを休止してまでプロデューサーになりたい理由。皆知りたがっていたことだ。

(……あれ……)

 ドクン。

 心臓が一つ鳴った。二つ鳴って、三つ鳴った。

 聞き覚えのある語りを、これから聞かされる予感がした。

「……学生時代、アイドルを諦めた人がいました。その方の比類なき才能は、十王星南も認めるほどです。」

 あたしは覚えている。夢の中で、こんな話を。今ステージの上に立っている美鈴ちゃんにしてもらったって、一体誰が信じるんだろう。 

「私は彼女をトップアイドルにしたい。そう思い、プロデューサーになったんです。」

 心臓がバクバクと鳴って、倒れそうなくらいに身体がのぼせた。

「アイドルを諦めたあなたへ。夢(・)の(・)中(・)の(・)私(・)に(・)電(・)話(・)を(・)か(・)け(・)て(・)み(・)て(・)く(・)だ(・)さ(・)い(・)。そうすれば私は応えます。あなたに、この声が届きますように。」

 忘れられる訳がない。心細い時も、何でもない日も、何度だってあたしは美鈴ちゃんに電話をした。3秒で番号を打てる自信さえある。

(美鈴ちゃん……)

 やっぱり、夢じゃなかったのかな。あたし、もう一度泣いてもいいのかな。

「秦谷美鈴でした。本日はありがとうございました。」

 パチパチパチとまばらな拍手が起こって、やがて盛大な拍手へと変わった。彼女がステージから去った後も、あたしはずっと動けないままでいた。

 

 

 次の日。天川市の郊外にあるカフェの『みつばちポトス』に、あたしはおずおすと入った。

「いらっしゃいませー!」

「あ、あの……秦谷さんという方の……」

「お連れの方ですね。こちらにどうぞ。」

 何も言わずとも笑顔の店員さんに案内される。席に座っていた人物に、あたしは息を吞んだ。

 しばらくの間、スーツ姿の彼女と立ち尽くしたまま見つめ合った。促されてから慌てて対面の席に座った。

 やっぱり夢でも見ているのだろうか。目の前に、昨日最高のライブを終えたトップアイドルが座っていた。私に向かって、にっこりと微笑んでくれている。夢から覚めた時に願ったことが呆気なく叶ってしまった。あまりに現実味が無くて、やっぱりぎこちない。

 先に話し始めたのは彼女からだった。

「……髪は、染めたんですか?」

「あ、いえ……。元々黒いのが地毛で……」

「まあ。そうだったんですね。」

 少しの会話の後、無言の時間が流れる。彼女は湯気が立っているホットミルクに、透明なポットのレバーを引いて微量のハチミツを溶かした。真っ白なカップに口を付けてこくこくと飲む姿に、あたしは見惚れていた。

 ことりとテーブルにカップを置いて、彼女は一つ息を吐いた。

「夢の中でも、ここには来たことがありましたね。」 

 ドクン、とやっぱり心臓が高鳴る。 

「確かパンケーキを頼んでいました。同じものを注文しましょうか?」

 

 

 ああ。

 ちゃんと同じ夢を見ていた。やっと、安心することができた。

 不意に胸の中でこみ上がるものがあって、あたしは俯いた。ぽろぽろと熱いものを流して、顔を上げるときには泣き笑いになった。

「こんなことっ……有り得るんですか……?」

「本当に……まるで、まだ夢を見ているみたいですね。ことちゃん。」

 目頭が熱くなって、持ってきたハンカチで拭う。次から次へと溢れ出してしまうから、しばらく話すことができなかった。

 落ち着いてきたから、目の前を見た。彼女もあたしにつられていて、お互いに涙ぐんだ。

「──あなたを、プロデュースさせてください。」

 

 

 桜が舞う季節に、美鈴ちゃんはあたしを迎えに来た。二度目の春だった。

 あたしはホットミルクと、ハチミツをたっぷりかけたパンケーキを注文した。

 

 


使用楽曲コード:N01429120

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