ある放課後。
美しいピンクブロンドの少女、ルイズはひとり自室の机に向かい、本を睨んでいた。
勉強家の彼女が机に向かっているのはそう珍しい光景ではないが、この日は少し、様子が違っていた。
ルイズが開いているのは、古めいた革の装丁がされた本。めくってもめくってもページは真っ白で、ひとつも文字が書かれていない。本というより、ノートと呼ぶべき代物だ。
だからルイズは本を読んでいるのではなく、大粒の鳶色の瞳に真剣な光を宿らせ、じぃっと睨んでいるのだった。
この奇妙な本こそ、トリステイン王家に伝わる秘宝、『始祖の祈祷書』である。
彼女がこの秘宝を手に入れたのは、一昨日の放課後。
使い魔の少年がコルベールの研究室に遊びに行ってしまい、ひとり暇を持て余していたときのこと。
オールド・オスマンの使いが届き、訪ねた学院長室で、学院長から直々に手渡されたのだ。
曰く。
トリステインの王女アンリエッタとゲルマニア皇帝アルブレヒト二世の結婚式が、近く行われる。
その式を祝福する巫女として、アンリエッタはルイズを選んだ。
トリステイン王室の伝統として、巫女はこれから『始祖の祈祷書』を肌身離さず持ち歩き、式に捧げる
幼いころからの友人であり、仕えるべき主と忠誠を誓うアンリエッタからの指名である。
当然のこと、ルイズはその大役を引き受けた。
そうして誇りに満ちた緊張とともに学院長室を出たのだが……、
「……無理よ、詔なんて。わたし、詩人なんかじゃないんだもの」
そう。
この二日間で、ルイズは理解した。
自分には、詩の才能がこれっぽっちもないのだ、と。
もちろん公爵家令嬢の
各国、各時代の代表的な詩人を
けれども自ら新しい詩を作るとなると、それはまったく話が違ってくるのだった。
「この
とりあえず、できたところまで……、創造性の要らない冒頭部分を読み上げてみるが、この先がまったく思いつかない。
ここから火に対する感謝、水に対する感謝……、順に四大系統に対する感謝の辞を、詩的な言葉で韻を踏みつつ詠みあげなければならないのだが、ひとつも言葉が浮かばない。
愛するウェールズを失い、国のために好きでもない男に嫁ぐアンリエッタのためにも、なんとか素敵な詔を捧げたい。
なのに考えれば考えるほど、ルイズの頭は目の前の『始祖の祈祷書』のように、真っ白になってしまうのだ。
「あのバカ、どこで何やってんのかしら」
バカとはサイトのことである。
生意気にもご主人さまの胸をドキドキさせる使い魔の少年は、今朝からルイズのそばを離れてどこかほっつき歩いている。
一応、昼食の席には顔を出していたが、彼はがつがつと食事を平らげると、ふらりとどこかへ行ってしまった。
またあのメイド……サイトは気づかれていないと思っているようだが、彼が黒髪のメイドから施しを受けていることを、ルイズはとっくに知っていた……、あいつと遊んでいるのだろうか。
せっかく同じ食堂で食べられるようにしてあげたのに。
「帰ってきたら、とっちめてやるんだから」
艶っぽい、かたちのいい唇を不機嫌にひん曲げて、ルイズは呟いた。
サイトが詩作を手伝えるとは思えなかったが、それでも、一緒にいて欲しいのである。
それはべつに彼を好きとかじゃなくて、主人が困っているときには黙って寄り添うのが使い魔の仕事だから……、とルイズは誰にともなく言い訳する。
それからルイズはサイトのことを考えて……、ぶるぶると頭を振った。
「いけない、集中しないと」
ご主人さまのお役目を邪魔するなんて、まったくいけない使い魔である。
ルイズは部屋の隅に置かれた藁束を見て、ため息を吐いた。
この部屋がいけないんだわ。
サイトがいるのがあたりまえになっちゃったから。
いなくなると、おかしな感じがしてしまう。
どうしてあいつ、ここにいないのかしら。
べつに、寂しいってわけじゃぜんぜんないけど。
ただ……、気が散る。
そう、気が散るのよ。
イヤになっちゃう。
ルイズは煮詰まった頭を冷ますべく、『始祖の祈祷書』を抱えて部屋を出た。
あたたかな日差しが降り注ぐアウストリの広場を歩きながら、ルイズは思う。
こんな調子で、ほんとに詔を作れるのかしら……。
ルイズとて、トリステイン貴族の一員である。
アンリエッタのためなら身命を賭す覚悟であるが、芸術的な詩を作れというのは、勇気や誇りでなんとかできるものではない。
誰かに相談できれば良いのだが、悲しいかな、ルイズは友達が少なかった。
同級生としてまっさきに思い浮かぶ相手……、キュルケは論外だ。
ラ・ヴァリエールがツェルプストーを頼るなど、天地がひっくり返ってもありえない。
他のクラスメイト……、モンモランシーなんか、相談したらここぞとばかりにルイズをバカにしそうだし(「詩の才能もゼロなのね!」とか言って)、ギーシュが結婚式にふさわしい詩を作れるとは思えない(彼はきっと、四系統とも薔薇に
唯一のまともな相手として、幼いころから付き合いのあるコールス家のクルトの顔が浮かんだが、ルイズはこれも却下した。
彼ならルイズをバカにしないし、詩作もそつなくこなしそうである。
しかし、だからこそ、ルイズは彼に頼るのがイヤだった。
もし彼に手伝ってもらったと学院の生徒たちに知られたら、詔の手柄はみんな彼のものとして扱われてしまうだろう。
『ゼロのルイズは、またフォン・コルパスに頼るのかい?』とくだらない言いがかりをつけられて。
入学以来、『ゼロ』と蔑まれてきたルイズを陰に日向に助けようとしてきたクルトは……、ときにルイズをからかう同級生たちとまっこうから喧嘩することさえあった彼は、しかしそれゆえにもっとも頼りたくない相手になってしまった。
それでも彼はルイズを気にかけ、魔法の使えない彼女をなにかと手伝ってくれるのだが、いつしかルイズは、そんな彼にお礼を言うことさえできなくなっていた。
クルトに感謝している自分を認めるのは、彼に対する敗北のように、ルイズには思えた。
もしそんなマネをしたら、己のプライドの大事な部分が崩れてなくなってしまう気がした。
そうして脳内で順々に候補を潰し、やがてルイズは、自分にはこの件で頼れる相手がひとりもいないという、悲しい事実に行き着いた。
せつない気分で息を吐き、生徒たちがめいめいに過ごすアウストリの広場を見渡して、ふと、気づく。
「……いたわ。もうひとりだけ」
広場の端っこ、まるで人目を避けるかのような位置に置かれたベンチに座って本を読む、小柄なルイズよりもさらに小さな、メガネの少女。
彼女ならきっとルイズをバカにしないし、詩を作ることもできそうだ。
唯一の問題は、彼女がキュルケの親友というところだが、しかしツェルプストーの友達がヴァリエールの友達になれないという法はない。
ルイズの幼なじみのくせしてツェルプストーの友達に成り下がったクルトという前例もいるし、この青髪の同級生は、両家の因縁とは関係ないのだから。
ルイズは意を決して、彼女の座るベンチに歩いていく。
「ね、ねえ、タバサ。隣、いいかしら?」
タバサは答えなかった。
ルイズの声が聞こえなかったみたいに、じーっと本に目を落としている。
ルイズは内心の怒りをぐっとこらえた。
この青髪の少女、とにかく人を無視することで有名なのである。
そのせいで、決闘騒ぎまで起こしたくらいだ。
だが、ここで怒りをぶちまけては元も子もない。
唯一の頼れそうな相手を失ってしまう。
ルイズはタバサの隣に腰掛けた。
座っていいとは言われてないが、拒否もされていないのだ。文句は言うまい。
タバサはちらりとルイズを見て、また本に視線を戻した。
どうやら許されたらしい。
ルイズはほっと安堵しながら、いや、でも、こいつが最初っから返事してればこんな緊張せずにすんだのよ、何様のつもりよ、とさらなる怒りを覚えた。
「なに読んでるの?」
苛立ちに震えそうになる声を抑えて、尋ねてみる。
……が、またもや無視。
懸命に会話しようとするルイズに見向きもせず、タバサは優雅にページをめくる。
キュルケはよくこんなのと付き合ってられるわね、変人同士、気が合うのかしら……そんな失礼な考えが頭に浮かぶ。
それをひっこめて次の言葉を探すけれど、どうにも思いつかない。
ともすれば式に捧げる詔を作るより難しいように、ルイズには思えた。
ルイズはタバサが苦手だった。
体は自分より小さいくらいなのに、魔法の腕はずっと優れている。
しかしそれをひけらかすことは決してせず、することと言えば、ただひとりで本を読むだけ。
いてもいなくても誰も気にしない、空気のような存在。
わたしも魔法が上手に使えたら、こいつみたいにみんなを無視して、自分の世界に閉じこもることができるんだろうか……。
入学してからサイトを召喚するまでの一年間、同級生たちにプライドを傷つけられ、泣きながらベッドに潜り込んだ夜、ルイズは度々、そんな悲しい夢想にとらわれた。
タバサはキュルケとは違ったコンプレックスを刺激される相手であり、どうせこいつも内心でわたしを見下しているのだと、一方的に敵愾心を募らせることもあった。
しかしフーケとの戦いとアルビオンへの旅を経て、タバサの印象は大きく変わった。
ルイズは彼女に、何度も命を救われた。
ニューカッスルでの戦いなど、タバサはルイズを庇ったために、ワルドの烈風をその身で受けたのだった。
そうして傷つきながらも立ち上がった彼女の姿は、『敵に後ろを見せないものを貴族と呼ぶのだ』と、幼い頃から叩き込まれてきた貴族の理想像と、眩しいくらいに重なっていた。
そんな相手を、いつまでも憎く思えるはずがない。
ルイズがタバサに抱いていた敵愾心は、いつの間にか素直な尊敬へと変わっていた。
……それはそれとして、無視されるのはムカつくのだけれど。
ルイズは深呼吸をひとつして、これも無視されたらひっぱたいてやるわ、そのきれいな青髪ひっこ抜いてやるんだから、と決意を固めてから口を開いた。
「あのね、タバサ。相談したいことがあるの。読書の邪魔して悪いんだけど、聞いて欲しいの。頼れそうな友達が、あなたくらいしかいないのよ」
タバサは振り向いた。
メガネの奥の青い瞳を、まっすぐルイズに向けた。
「……友達?」
ルイズはどきりとした。
友達……。
たしかに友達と呼べるほど親しくはないかもしれない。
だけど目の前の無口な少女が、ひとの言葉尻をとらえて、こうもつっかかってくるとは思わなかった。
その動揺は積み上がった苛立ちと劣等感、そして微かな羨望の念と混ざり合って、ルイズのなかで、ひとつの不満をかたちづくった。
なによ。
優秀なトライアングルの『雪風』さまは、『ゼロ』とは友達になれないっての?
しかしそれをそのままぶつけては、詔の相談どころではなくなってしまう。
だからルイズは不満を押し殺してにっこり笑い、口に出しては、こう言った。
「なによ。優秀なトライアングルの『雪風』さまは、『ゼロ』とは友達になれないっての?」
タバサはまばたきした。
ルイズは顔を青くした。
緊張すると言ってはいけないことを口走ってしまうのは、
二の句が継げず、陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせているルイズの前で……、タバサは、首を振った。
それから、ぽつりと呟いた。
「なに?」
「な、なにって、なによ」
「相談」
ふぇ……? とルイズは間抜けな声を出す。
タバサは本を閉じて、平坦な声で尋ねた。
「相談って、なに?」