雪風の姫と砂の城   作:もちもちゼリーちゃん

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40.「おいおい、どこのバカだよ。下の窓から順番に拭いてるのは」

 

 

 学院に帰った俺が最初にやるべきこと。

 それはもちろん、ゼロ戦の整備……、ではない。

 ガソリンの精製、でもない。

 『原作』の展開に関わるような、他のなにごとでもなく。

 

 講堂の大掃除である。

 

 

「こんなことより、(みことのり)を考えなきゃならないのに。姫さまの結婚式まで、もう二週間もないのよ」

 

 ルイズはバケツの水に雑巾を浸し、不機嫌を隠そうともせず呟いた。

 彼女の隣でモップをかけていた俺は、諭すように言う。

 

「仕方ないだろ。あんだけ授業サボったんだから」

 

 一週間以上も無断で学院を離れていた俺とルイズ、タバサにキュルケ、そしてギーシュは、罰として講堂の大掃除を命じられていた。

 おまけにオールド・オスマン直々のお説教もたっぷりと。

 『原作』より少し早めに帰ってきたから大丈夫かと思っていたが、どうやら先日の一件……俺とキュルケのラ・ロシェールからの帰還が遅れた件が尾を引いていたらしい。

 

 ルイズは恨めしげに俺を睨みながら、

 

「わたしは、仕方なくだもん。タバサが行くっていうから。詔を作るために、付き合ってあげただけだもん」

「で? その詔とやらは、『宝探し』の間に少しは……うわっ」

 

 濡れた雑巾が飛んできた。

 危うく顔面にぶつかりそうになったそれを、なんとか右手で受け止める。

 

「おい、お嬢……」

「絞って。手が疲れちゃった。水も冷たいし。もうやだ」

「せめて頼み方ってもんがあるだろ」

「知らない。いいから黙ってやんなさい。わたしの言うこと聞くのは、コールスの義務でしょ」

 

 ぷいと顔を背けるルイズに、俺はなんだか懐かしい気持ちになった。

 彼女と掃除するのは、いつぶりだろう?

 才人が召喚されて以来、久しくやっていなかったが、去年はルイズが爆発でめちゃくちゃにした教室を一緒に片付けるのが日常茶飯事だった。

 ギトーなんか毎週のようにルイズに実演させるから、『ユルの曜日の掃除当番』なんて同級生たちに影で呼ばれていた。

 あの頃もたいてい、途中でへそを曲げたルイズがこんな甘えたことを言い出したものだった。

 

「なに笑ってんのよ、キモいわね」

 

 絞ってやった雑巾を手渡すと、ルイズはにこりともせずに罵倒した。

 ここで言い返すともっと面倒くさくなると予感した俺は、はいはい、と流してモップがけを再開する。

 するとルイズは俺の脚をげしげしと蹴り始めた。

 

 ……くそ、見誤った。

 今回は()()()が欲しかったのか。

 もうちょっと煽って、口で発散させてから離れればよかった。

 最近はずっと才人が引き受けてくれてたから、爆弾処理の勘が鈍っていたらしい。

 

「あんたたち、いつまでもイチャついてんじゃないわよ」

 

 講堂の反対側で箒をかけていたキュルケが、呆れたように言った。

 ルイズは虫を踏んづけたような顔をして、すっ……と俺から離れていく。

 無言で机を拭き始める。

 もしこれが才人をイジメてるときにからかわれたのだったら、頬を染めてきゃいきゃい反論していただろうに……。

 そう思うと、なんだか感慨深くなる。

 顔立ちは整ってるのに男っ気のひとつもなかったこいつが、そんな青春っぽい反応もできるようになったんだな、成長したなぁ……、なんて。

 

 ここで嫉妬のひとつでもできたら話が変わってくるのだろうが、ルイズに対しては、もはや異性として見ることはできない。

 半分、親の心境である。

 きっと前世の記憶が蘇って間もなく、前世と今世の人格が混在している状態だったあの頃……、まだこの世界(ハルケギニア)に対しても自分自身(クルト)に対しても違和感を強く抱いていた時期に、幼いルイズと出会ってしまったせいだろう。

 俺はルイズを同年代の友達と思っている一方で、いまだに一回り以上も年下の女の子と認識している。

 そんな彼女との初対面で大人げないこと言って大泣きさせたあの瞬間は、いまでもトラウマだ。

 俺がルイズに逆らえない原因のひとつは、間違いなくここにある。

 

「クルト、あんたもぼんやりしてないで手を動かしなさいよ。いつまでたっても終わらないじゃない」

「ああ、悪いキュルケ……」

 

 と、俺はまたモップをかけようとして……、気がついた。

 

「おい待て、お嬢。なにやってんだ」

「あによ」

 

 ルイズは不機嫌をあらわに振り向いた。

 

「お前、もう忘れちゃったのかよ。机拭くときは、同じ場所をごしごしやっても意味ないんだって。『(ウル)』の字型に拭けって教えただろ」

 

 去年、ルイズと掃除しながら、散々教えたはずである。

 貴族というのはたいてい生活力に乏しいものだが、公爵家令嬢であるルイズは特に壊滅的だった。

 机の拭き方はおろか、『雑巾を絞る』という概念さえ知らなかったのだ。

 初めて一緒に掃除したとき、バケツにつっこんだ雑巾をそのまま引き上げ、床に水を滴らせながら机に叩きつけているルイズの姿は、いまだに夢にあらわれる恐ろしい光景だ。

 

「いいじゃない、べつに。わたしが汚したわけじゃないもん」

 

 ルイズは無視して……というか当てつけのように机をごしごしやり始める。

 

「誰が汚したって一緒だろうが。あとお前、また天板だけ拭いて終わりにしただろ。ちゃんと()()まで拭かなきゃ……」

「あーもう、うるさい! わたしはメイドじゃないのよ! おそれおおくも公爵家! ヴァリエール家の三女なの! 掃除の仕方なんか知ったこっちゃないわよ!」

 

 ルイズが噛みつきそうな勢いで怒鳴って、雑巾を投げつけてきた。

 俺はそれを拾い上げ、バケツの水で汚れを落とす。ぎゅうっと絞ってルイズに差し出す。

 ルイズは怒りに顔をひきつらせ、俺の手から雑巾をひったくった。

 

「ったく、ほんとめんどくさいんだから、こいつ……」

 

 ぶつくさ言いながらも、今度はきちんと拭けている。

 その姿に、俺は少し感動した。去年はできていたのだから、当たり前ではあるのだが。

 

「いいじゃないの、適当にすませちゃえば。汚れてたって、どうせ平民がやるんだから」

「あのな、」

「わかってるわよ! 平民に余計な仕事増やすなって言いたいんでしょ! 意味わかんない!」

 

 ルイズは頬をむくれさせた。

 俺たちを面白そうに眺めていたキュルケが、くすくす笑いをこぼしながら言う。

 

「あんたたち……、去年ずっとこんなことやってたの?」

「ツェルプストーには関係ないでしょ」

「関係なくない。お前もだぞ、キュルケ」

 

 俺が低くつっこむと、キュルケは目を丸くした。

 さっきからずっと気になっていたのだが、この際だから言わせてもらおう。

 

「黙って見てりゃあ、四角い部屋を丸く()きやがって……」

「ダメなの?」

 

 心底不思議そうに尋ねられ、俺は思わず膝をついた。

 そうだった。

 こいつ、世慣れしてるように見えるけど、ラ・ヴァリエールと張り合える大金持ちのお嬢さまだった。

 

「ああ、(かど)に、角に……! 埃が! 髪の毛が!」

「でも掃いてるじゃない」

「掃けてないだろ! 角は!」

「え? なんで? 掃いてるじゃないの」

「うおお……」

 

 俺は頭を抱え、苦悶の呻きをあげた。

 前世(日本)の小学校よろしく掃除の時間を設けるべきだと、オールド・オスマンに具申したほうがいいんじゃないか。

 

「と、とにかく、掃除は、隅まで。部屋の角には埃とか溜まりやすいから、壁際まできっちり掃く。じゃないと、ゴミ、残る。虫も湧く。わかった?」

「なんだかよくわからないけど、虫はイヤね。わかったわ」

 

 ルイズと比べるとキュルケは素直で、言われたとおりに箒をかけ始める。

 俺はその姿を見届けてから、自分の持ち分を片付けようとモップを握り直し……、ダメだった。

 今度は中途半端に拭かれた窓が目についてしまった。

 ルイズとキュルケのポンコツぶりを見せつけられたせいか、細かな粗が気になって仕方ない。

 

 たしか、窓拭きはギーシュがやっていたはず。

 あのバカは、ワルキューレを出して一斉に掃除させようとしていたのだ。

 上手く使えば大幅な時間短縮になるからそれはかまわないのだが、最低限、やり方ってものがある。

 俺は苛立ちをあらわに、嫌味ったらしく呟いた。

 

「おいおい、どこのバカだよ。下の窓から順番に拭いてるのは」

「わたし」

 

 えっ。 

 

「わたしが拭いた。ダメだった?」

 

 硬直している俺のマントを、誰かが、くいっ、と引っ張った。

 おそるおそる振り向くと、頭に三角巾をつけたお掃除スタイルのタバサ(かわいすぎる……)が、無表情に俺を見上げていた。

 

「え、あの、その……ギーシュは」

 

 タバサは講堂の反対側を指差した。

 袖をまくったギーシュが、七体のワルキューレの後ろで杖を振り回している。

 ワルキューレたちはそれぞれに掃除道具を持ち、講堂の西側の窓に取りかかっている。

 そして俺がいま嫌味をぶつけたのは、東側の窓だった。

 

「なにがいけないの?」

 

 タバサはふたたび尋ねた。

 俺はかたい唾を飲み込んで、

 

「い、いや、よく考えたら、べつにいい気がしてきた。やり方は人それぞれだし……」

 

 タバサは無言で、表情も変わらなかったけれど、視線の圧が一段増した。

 

「ただ、その、い、一般的には、あくまで、一般的にはだぞ? 汚れってのは上から下に落ちるから、掃除も、上から始めないとダメなんだ。じゃないと、せっかくきれいにしたところに埃とかが落ちてきて、また汚れちゃう」

 

 タバサは頷いた。

 一番上の窓から拭いていくつもりなのか、雑巾を片手に『フライ』を唱えた。

 そうしてふわりと浮き上がったところで、ふと気がついたように、

 

「全部やり直したほうがいい?」

「いや、もう拭いてくれたところは大丈夫。そこまで神経質になることじゃないから。だから、その……、ほんとすみませんでした」

 

 タバサは頷き、すうっと高度を上げていく。

 俺はその姿を目で追いそうになって、慌てて俯いた(白かった! 白かったであります! と俺の脳内のギーシュ(バカ)が快哉をあげる。ふとももが千切れそうなくらい強く(つね)り、なんとか平静を保とうとする)。生徒が日常的に『フライ』を唱えるのに制服がスカートなのは頭おかしいと、改めて思う。

 長年学院長を務めているオールド・オスマンの趣味だろうか。

 やっぱり罷免したほうがいいだろあのセクハラジジイ。ミス・ロングビルの件で王室に告発できないかな……と、そんなやつあたりじみたことを考えながら、俺は今度こそモップがけを再開する。

 

 

 

 床を見つめて無心でモップを動かしていると、ぱりんっ、とガラスの割れる音。

 

「ギーシュ! なにやってんのよ!」

 

 振り返ると、ワルキューレの一体の腕が、大きな窓を突き破っていた。

 ルイズに叱られているギーシュは悪びれた様子もなく、

 

「いやあ、すまん。力加減を間違えてしまったようだ。クルト、直してもらっていいかい?」

「やだよ。自分でやれよ。お前も土の使い手なんだから」

 

 ギーシュは豪快に笑って答えた。

 

「ワルキューレに掃除させていたら、精神力がなくなりそうでね。呪文を唱える余裕がないんだよ」

「仕方ないやつだな、お前は……。七体も出すからだよ。たいして広くないんだから、二、三体で十分だったのに」

「おお、それもそうだな! 気がつかなかったよ!」

 

 そのあっけからんとした態度に、俺はすっかり脱力し、怒る気にもなれない。

 

「ともかく直すにしても、破片を集めないと。ほとんど外に飛び散ってるみたいだが……」

 

 と俺は呟いて、ワルキューレがぶち破った窓に近づいた。

 せっかく掃除した講堂がガラスまみれになるよりはマシだが、外に散らばったガラスを集めるのも苦労しそうだ。

 全部は回収できないから、ある程度『錬金』で補う必要があるだろう。

 ガラスを探すべく割れた窓から外を見回していたら、禿頭(とくとう)の教師と目が合った。

 

「コルベール先生?」

「おや、ミスタ・コールス。ちょうどいいところに!」

 

 どうしてこんなところに、と一瞬だけ疑問に思ったが、窓からゼロ戦の翼が見えて、納得する。

 そういえばコルベール先生の研究室もこの講堂の近くだったか。

 『原作』でも、才人とルイズがゼロ戦の近くで話してたら掃除中のタバサたちに見つかるシーンがあったな、と俺は思い出す。

 

「この()()()()を動かすのに、()()()()という油が必要らしいのだ。これが少々変わった性質を持っていてね。解析と精製に君の手を借りたいのだが、かまわんかな?」

「もちろん。是非とも手伝わせてください」

 

 アルビオンの侵攻までにゼロ戦を飛ばせる状態に整えておくのは、『原作』を守る絶対条件である。

 コルベール先生に限って間に合わないってことはないはずだけれど、万が一の可能性を考えると、俺も多少は関わっておきたい。

 

「ではさっそく! ……と、言いたいところだが、君たちは掃除中だったね」

「ええ。先週は授業を休んでしまって、すみませんでした」

 

 コルベール先生はにっこり笑った。

 

「かまわんとも! 自ら好奇心を満たしにゆくのは、学びの基本だ。授業を聞いてもらえなかったのはちょっぴり寂しいが……、なに、些細なことだよ! 君たちは、こんなに素晴らしい宝物を見つけてくれたのだからね!」

「先生? なにしてんすか」

 

 ゼロ戦の影から、才人がひょっこりと顔を出した。

 手には黒く汚れたぼろ切れを持っていて、ゼロ戦を磨いていたらしい。

 

「おお、サイトくん! ちょうどいま、君のともだちに協力を頼んだところだ。がそりんの精製が、思ったより早く進むかもしれませんぞ。彼の知識と発想には、この私も及ばないところがあるからね」

 

 ほんとっすか! でも友達って? と才人は子犬のように先生に駆け寄って……、しかし窓際に立つ俺の姿を認めると、わずかに表情を曇らせた。

 あの家出事件以降、彼とはいまだに喧嘩中なのである。

 きっと才人は許してくれているのだろうけど、『原作』と関わりすぎることを恐れた俺が、喧嘩を口実にしてずっと彼を避け続けている。

 そうして彼を避けているという事実がまた気まずい空気を作り、いよいよ関係が拗れてしまった。

 正直、しんどくて堪らない。

 コルベール先生の手伝いなんかしたら、どうしても才人と顔をあわせてしまう。また気まずい思いが続きそうだが、こればかりは諦めるしかないだろう。

 

「ねえクルト、サイトのオモチャの話はいいから、さっさと窓を直しなさいよ」

 

 使い魔の声に釣られたのか、いつの間にか隣に来ていたルイズが俺をせっついた。

 俺は彼女に頷き、杖を握る。

 ガラスがどこまで散らばっているのかわからないが、ロッキーの力を借りればだいたい把握できるだろう。

 あとは砂像(サンド・ゴーレム)を作って集めさせれば、安全に回収できるはず。

 ポケットからロッキーを取り出し、『クリエイト・ゴーレム』を唱えようと息を吸ったとき、コルベール先生が呟いた。

 

「ああ、そうか。窓が割れてしまったのか」

 

 いまさら気がついたような口ぶり。

 実際、ゼロ戦に夢中でまわりの様子が目に入らなかったのかもしれない。

 先生は素早く杖を抜き、聞き取りづらい低声で詠唱した。

 

 窓の外に風が渦巻き、飛び散ったガラスを一所(ひとところ)に集める。

 無数の破片が宙を飛び、まるでパズルを完成させるみたいに、ぴったりと窓枠におさまった。

 本職の風使いと見紛うような、繊細な操作。

 先生がさらに杖を振ると、ガラスが淡い光を帯び……、光がおさまったころには、窓はすっかり元通りになっていた。

 俺はガラスを触り、ロッキーまで使って確かめてみるけれど、継ぎ目も歪みも見つからない。

 ほのかに熱が残っているところを見ると、『錬金』に加え、火のスペルも使ってガラスのかたちを整えたようだ。

 相変わらず、とんでもない技術である。

 

「先生、助かりました」

 

 俺は直してもらった窓を開け、コルベール先生に頭を下げる。

 

「たいしたことはない。それより掃除が終わったら……、おっと! 君たちは、罰則で掃除をしているんだったな。私がこの窓を直したことは、他の先生方には内緒ですぞ?」

 

 コルベール先生は茶目っ気たっぷりにそう言うと、研究室に戻って行った。

 残された才人と一瞬だけ目が合って、しかし、すぐに逸らされる。

 彼は何も言わずに先生を追って研究室に走ってゆく。

 俺の隣にいたルイズは自分が無視されたと思ったのか、うぎぎと唸って俺の足を踏みつける。

 文句を言う気にもなれなかった。

 

 

 

 ようやく掃除が終わろうかという頃、開け放たれていた窓から、一羽のフクロウが飛び込んできた。

 フクロウは講堂のなかを旋回し、下段の窓を拭いていたタバサに一通の手紙を落とすと、窓からすうっと出て行った。

 手紙を拾い上げたタバサはそれを無造作に開き、それからくしゃりと握りしめた。

 雑巾をバケツに落として、ルイズのもとへと歩いて行く。

 

「ごめんなさい。用事ができた」

「いいわよ、もうほとんど終わってるもの。先生たちにはわたしから言っとくわ」

 

 タバサは首を振った。

 

「結婚式までに、戻れないかも」

 

 ルイズは少し戸惑ったけれど、すぐに納得した様子で、

 

「詔なら、気にしないで。なにか事情があるんでしょ? あなたには十分、助けてもらったもの。あとはきっとひとりでもできるわ」

 

 タバサはこくりと頷いた。

 ふたりのやりとりを眺めていたキュルケが、感慨深そうに言う。

 

「あんたたち、すっかり仲良くなっちゃったのねぇ。嫉妬しちゃうわ。そのうち親友の座も奪われちゃうのかしら?」

 

 タバサは首を振った。

 

「あなたが必要」

 

 キュルケは一瞬、虚をつかれたような顔をした。

 一呼吸のあと、頬をうすく染め、にぃっと笑みを浮かべた。

 

「バカね。そんなの、言われなくても知ってるわ。用が済んだら、またトリスタニアでお茶しましょ。あなたの好きそうなお店、探しとくわね」

 

 タバサは頷いた。

 その透きとおった青い瞳に優しい光が浮かんでいるように、俺は感じた。

 彼女はそのまま講堂の扉へと歩き、不意に足を止める。

 ちらりとこちらを振り返る。

 

「どうした、忘れ物?」

 

 尋ねるが、タバサは首を振る。

 それから、頷いた。

 

「え? やっぱりなにか忘れたってこと?」

 

 本でも置き忘れたのかと、彼女が掃除していたあたりを探してみるけれど、なにも見つからない。

 そうこうしているうちに、タバサは講堂を出て行ってしまった。

 いったいなんだったんだ……、と首を捻っていると、突然、体が浮遊感に包まれた。

 『浮遊(レビテーション)』……じゃない、コモン・マジックの『念力』だ。

 幼い頃、無意味に豪勢な屋敷の晩餐から逃げようとして、上の兄(ヴィルヘルム)の『念力』にしょっちゅう捕まっていた日々を思い出す。

 

「クルト、あんたってときどき、どうしようもなくバカになるわね」

「キュルケ? どういう……うおおっ!?」

 

 俺を捉えた呪文の主、キュルケは指揮棒のように杖を振り、俺の体を講堂の扉にぶん投げた。

 ぶつかる、と思った瞬間、扉がひとりでに開く――これもきっとキュルケの仕業。

 

 講堂を放り出された俺は芝の上をごろごろ転がり、背中をなにか硬いものにぶつけて、ようやく動きを止めた。

 

「……きゅい?」

 

 三半規管を振り回されてくらくらする視界に、陽光にきらめく鱗が映る。

 見上げると、それは風韻竜のシルフィードだった。

 

 シルフィードは脚にぶつかったのが俺だと気づいたのか、ぺっと唾を吐きかけた。空に飛び立とうと翼を広げ……ぽかり、と頭を殴られた。

 竜の背に跨がって本を広げていた彼女の主人、タバサが杖を振り下ろしたのだ。

 

 きゅいきゅいと恨めしげに鳴く使い魔を気にもせず、タバサはじっと俺を見下ろした。

 

「いや、わからん、キュルケが……」

 

 と、俺は言いかけて、ようやく彼女の意図に気がついた。

 俺とタバサの仲をいつまでも誤解しているキュルケのことだ。タバサの『忘れ物』を俺からの抱擁とかいってらっしゃいのキスとか、そういう()()的なものと勘違いしたに違いない。

 

「あいつがまた、ひとりで勝手に燃えてただけだ。だから、すまん。忘れ物を届けに来たわけじゃないんだ。あとで探しとくよ」

「いらない」

 

 タバサは小さく答えた。

 

「そうか? まあ、もしなにか見つけたら、戻ってきたとき渡すよ。それじゃあ、気をつけて」

 

 タバサは頷いた。

 はやく行くのね、とばかりに翼を震わせている竜の背を撫で、

 

「心配?」

 

 と呟いた。

 

「あたりまえだろ」

 

 と俺は言い……、言ってから、思い出した。

 ただの同級生にすぎない俺が、タバサの身分も過酷な運命も知るはずがない。

 だから俺が北花壇騎士(シュヴァリエ・ド・ノールパルテル)の任務に赴くタバサを案じていること自体がおかしいのだ、ということを。

 もう遠い昔に思えるフリッグの舞踏会でも、俺はまったく同じミスを犯したのだった。

 

 ただ、あのときと違うことがあるとすれば、俺はもうタバサをメインヒロインにする『計画』を諦めているということ。

 俺はもはや、彼女にどれだけ怪しまれても、警戒されてもかまわない。

 『原作』の重要人物であるタバサとは距離を置いたほうがいいはずだし、彼女からの信頼を利用して進めるべき『計画』なんて、存在しないのだから。

 

 なんとも無責任な態度だが、一度そんな発想が浮かぶと、俺はもう言葉をとどめておくことができなかった。

 

「心配だよ。もしタバサが怪我でもしたら、帰ってこなかったらって思うと……、怖くてたまらない。ほら、見ろよ。手がこんなに震えてる」

 

 冗談めかして右手を上げてみせるけれど、タバサは別に興味がないのか、顔の半分を本に隠すような格好で読書に夢中になっている。

 俺のほうには、ちらりと視線を寄越しただけだ。

 

「ごめんな、引き留めちゃって。変なこと言ってごめん。いってらっしゃい。気をつけて。心配しながら、学院で待ってるよ」

 

 タバサは本に集中したまま、呟いた。

 

「寄り道しないから」

 

 その言葉を合図に、風韻竜が力強く羽ばたいた。

 タバサを乗せた竜の姿が、あっというまに遠く、小さくなってゆく。

 

 一方的に感情を吐き出してしまった俺は、タバサを警戒させ要らぬ心労を増やしてしまったかもしれないという罪悪感にかられ、危険な任務に駆り出された彼女が今度こそ帰ってこないかもしれないという不安に怯えながらも、どこか満足した気持ちでその姿を見送った。

 あんたいつまでサボってんのよ、と怒ったルイズが蹴りにくるまで、俺はずっと、タバサの消えた空を見ていた。

 

 

 





三章のお話は明日の更新分でおしまいです。

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