雪風の姫と砂の城   作:もちもちゼリーちゃん

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55.平賀才人(5) 国境の森で才人、文字を教わる

 

 ラドグリアン湖をぐるりとまわり、国境線からさらに十分ほど馬を走らせた岸辺。

 才人は倒木に腰掛け、夕焼けに染まる湖面を眺めていた。

 水の精霊が退治を頼んできた襲撃者は、深夜になるとこのガリア側の岸辺にあらわれるという。

 魔法を使って湖底まで侵入し、あの恐ろしい精霊を襲う連中……まったく、とんでもない奴らと戦う羽目になったものだと、才人は嘆息する。

 

 そりゃ才人には伝説のガンダールヴの力があるし、場数もそれなりに踏んできた。

 そこらの兵士やメイジ相手に負ける気はしないが、上には上がいるのだと、水の精霊との邂逅で身に染みてわかったのだ。

 

「才人、夕飯できたぞ」

 

 振り向くと、クルトが立っている。彼は相変わらず、惚れ薬による薄気味悪い微笑みを浮かべていた。

 

「今夜はヨシェナヴェだ。近くの森で良い山菜が採れたから、思い切って作ってみたんだ。シエスタにレシピ聞いといてよかったよ」

「鍋は嬉しいけど、お前、そんな動いて大丈夫なの?」

 

 クルトが目を覚ましたのは、水の精霊が湖に沈んでから間もなく。

 ことの顛末を聞いた彼はなぜだか安堵したように笑い出し、ルイズが精霊に放たず溜めておいた『爆発(エクスプロージョン)』を食らって吹き飛ばされた。

 そのときできた傷の他、彼はまったくの健康体である。

 『あんなに長く水の精霊に触られてたのに』とモンモランシーはしきりに首を傾げていたが、どれだけ診ても『水』の流れに乱れが見つからないのだとか。

 

「大丈夫だよ。お嬢の爆発は、さすがに死ぬかと思ったけどさ」

「ならいいけど」

 

 才人は呟き、立ち上がった。

 目の前でクルトを(さら)われたあの瞬間、水から放り出されたクルトが力なく横たわるあの光景は、いまだ記憶に焼き付いている。

 デルフリンガーが精霊を諭してくれなかったら、自分はこの友人を失っていたかもしれない。そして彼だけではなく、自らの命も。ルイズを守ることさえ叶わず、あっけなく……。

 そう思うと凍えるような恐怖が胸の奥から湧いてきて、才人は身震いした。

 

「なに笑ってんだよ」

 

 才人は、にやにや笑いを深めるクルトをにらみつけた。薬のせいとはいえ、ムカつくものはムカつくのである。

 クルトは片手で口元を隠し、

 

「いや……、すまん。嬉しくなっちまって、その……、才人に、心配されて。こんなので喜んじゃいけないってのは、わかってるんだが……」

 

 頬を染め、俯き加減でそんなことを言う。

 もしこれがルイズだったら、才人は悶絶していたかもしれない。

 けれども現実は厳しく、彼の前にいるのは薬で狂った男友達でしかないのだった。

 

「悪かったな、ルイズじゃなくて」

「え」

 

 考えていたことをぴたりと当てられて、才人は固まった。

 急に照り焼きバーガー作ってきたこといい、やっぱりこいつ、心でも読めるんじゃないか……。

 

「才人はわかりやすいからな」

 

 クルトはくすりと笑った。

 

「ルイズが好きなんだろ。知ってる。見ればわかるよ」

 

 当然のように言われて、才人は頷いた。

 それから身構えた。

 恋が叶わないなら、と包丁でも出してくるんじゃないかと思ったのだ。

 クルトは拗ねたように眉をひそめる。

 

「そんな警戒しないでくれよ。俺が才人に乱暴するわけないだろ」

 

 『乱暴』という言葉の響きに包丁より恐ろしいものを刺される想像をして、才人は思わず後退(あとずさ)る。

 クルトは呆れた顔で言った。

 

「あのな。お前ずっと勘違いしてるみたいだけど、俺は別に、才人とどうこうなりたいわけじゃない。基本的には、俺はお前とルイズの仲を応援してるよ」

「嘘つけ、こないだはヴァリエールから奪うとか言ってたじゃねえか」

「あのときは、つい、頭に血がのぼって……。お嬢のやつ、昔っから暴力的すぎるんだよ」

 

 クルトの声はあくまで穏やかな調子で、逆上しそうな気配はない。

 才人はようやく警戒を解いて、クルトに問う。

 

「じゃあ、どうして……。お前、俺のことが好きなんじゃないの?」

 

 相手が惚れ薬を飲んでいるという前提でなければ、とても訊けないような自惚れた質問。

 クルトもまた、惚れ薬でも飲んでいなければできないようなまっすぐな瞳で、

 

「好きだよ。大好きだ。世界のぜんぶを天秤にかけてもお前を選べるくらい、愛してる」

 

 と頷いた。

 

「でも才人を幸せにできるのは、俺じゃない。ルイズだ。だからお前がルイズと結ばれるように、せめて手助けしてやりたい。それだけだ。愛する相手の幸せを願うのは、別におかしなことじゃないだろ?」

 

 

 

 夕飯のヨシェナヴェは、あまり味がしなかった。

 みんな美味い美味いと褒めていたので、きっと美味しかったのだろう。

 才人は美味しいとも不味いとも感じないままクルトに勧められるだけおかわりをして、食べ過ぎた。くちくなった腹を抱え、ルイズたちを離れて岸辺の木陰で休んでいた。

 クルトから向けられていた感情が予想外の方向に重たすぎて、なんだか具合が悪くなったのである。

 

 単純に好意を向けられるだけならまだいい。よくないが。少なくとも気持ちは理解できるし、はっきりと拒否することができる。

 しかしあんな風に……愛してるからこそルイズへの想いを応援したいのだと言われてしまったら、どうしたらいいのかわからない。

 拒否する自分が悪いような気がして来る。

 クルトが惚れ薬を飲んでからこっち、彼を怪しんで貞操を死守しようとしていたのがなんだか悪いことをしていたかのような、奇妙な罪悪感さえ抱きそうになる。

 ようするに、才人はお人好しで流されやすい性格で、いまは友人にぶつけられた重たい感情に流されまくっているところなのだった。

 

「才人、いま大丈夫か」

 

 夕飯の片付けを終えたクルトが、才人の隣に腰掛ける。

 彼はいつもと変わらぬ態度で……否応なしに慣れてきてしまった、惚れ薬が作った優しすぎる笑顔で才人に紙束を差し出した。

 

「なにこれ」

 

 受け取った才人が問うと、クルトは杖先の『灯り(ライト)』で紙を照らし、

 

「ガリア語の文字」

 

 と答えた。

 なるほど、その紙にはアルファベットと似た文字がいくつも並んでいる。

 文字を教えると約束していたけれど、わざわざ手書きして作ってきたらしい。

 重たい……と思いながらも才人は好奇心をくすぐられて、

 

「ガリア? トリステイン語じゃないの?」

 

 と尋ねる。

 

「トリステインの公用語はガリア語なんだ。ガリアとトリステインは言葉が一緒で文化も似通ってるから、『双子の王冠』なんて呼ばれることもある」

「へえ」

「ロマリアとゲルマニアにはまた別の言葉があるけど、ガリア語が一番広く使われてるからな。とりあえず、ガリア語さえ覚えとけばどこ行っても困らないはずだよ」

 

 訊かれてないことまで答えるクルトは、やはり嬉しそうだった。

 

「まずは文字と簡単な単語から覚えていこうと思うんだけど、どうかな」

「勉強なんかしてる場合かよ」

 

 才人はつっけんどんに言った。

 しかしクルトは微笑みを崩さず、

 

「精霊を襲う奴らが来るのは夜中なんだろ? 時間はたっぷりあるさ」

 

 そう言って指差した西の空は、まだ残照に染まっている。赤く照らし出された雲の影がラドグリアンの静かな湖面に映り、呆れるほど美しかった。

 その景色をぼうっと眺めていると、クルトはそれを都合良く肯定と解釈したらしい。

 才人の持った紙に指を置き、「アー、べー、セー……」と文字の読み方をひとつずつ教え始めた。

 

 

 才人の学習は、異様な速度で進んだ。

 文字をひとつひとつ読み上げている間は、クルトの声は耳慣れない外国語にしか聞こえない。しかしそれが単語になると、『わたし』とか『トリステイン』とか『夏』という具合に、意味がはっきりわかるのである。

 クルトはハルケギニアの言葉で発音しているはずなのに、才人はそれを日本語として聞いていた。

 

 そしていくつかの単語を理解すると、今度は文章の認識に変化が起きる。

 そんなに覚えがいいなら、とクルトが差し出した『イーヴァルディの勇者』の冒頭を、才人はすらすら読み上げることができたのだ。

 その読み古された本には、まだ習ってない単語がいくつも含まれていたにもかかわらず、だ。

 

「使い魔契約のおかげだろうな。使い魔の種族によっては、契約後に人間の言葉をしゃべれるようになるんだ」

 

 とクルトが言う。

 

「トゥルーカス……お嬢のお母さまが使い魔にしてたフクロウなんか、ギーシュより語彙が豊富だった。人間が使い魔になったなら、主人の言葉を読めるようになってたっておかしくない」

 

 そういえば、召喚されてからというもの、才人は言葉で困ったことがない。

 いままで文字こそ読めなかったものの、しゃべる分にはまったく問題なかったのだ。

 いつだったか、デルフリンガーは召喚ゲートに翻訳機能がついてるのかも、と言っていたが……、今回の授業でそれが書き言葉にも適用されたらしい。

 

「こんな簡単なら、もっと早く勉強しときゃよかったな」

 

 『イーヴァルディの勇者』の第一章を読み終えた才人が、本を閉じながら呟いた。

 

「まあ、いいじゃないか。勉強を始めるのに遅すぎるってことはない。才人はまだ若いんだし、これから色々読んでみたらいいさ」

 

 会うたびに図書カードをくれた親戚のおじさんみたいなことをクルトが言うので、才人は笑う。

 

「でもこっちは結局、使わなかったな。せっかく作ってきてくれたのに」

 

 と才人がひらひらさせたのは、最初に渡された十枚ほどの紙束。

 一枚目はガリア語の文字が並んでいたけれど、二枚目以降は暦や数の数え方、代名詞などの基本的な単語が簡素なイラスト付きで並んでいる。

 やけに作り込まれているが、才人の習得があまりにも早かったせいで、最初の三枚までしか使わなかったのだ。

 クルトが学院から持ってきたらしいけれど、照り焼きバーガーを作ったあとにこれを書き出していたのだとしたら、昨夜はほとんど寝てないんじゃないか。

 

「気にしないでくれよ。たいした手間じゃないし。領地で何枚も作ってたから、慣れてるんだ」

「領地で?」

「ああ、学院に通う前、毎週虚無の曜日は領民に読み書きと算数を教えてたんだよ」

 

 へえ、と才人は感心した。

 貴族はみんな威張って平民を見下してばかりだと思っていたけれど、立派なやつもいるもんだなあと、他人事のように考える。

 

「そっか、教え方も慣れてる感じしたもんな」

「だろ? わかりやすいって、けっこう評判よかったんだ」

 

 クルトは得意げに笑った。

 優しい……、しかし才人の居心地を悪くさせる愛情深い笑みとは違う、穏やかな微笑みだった。

 その笑顔に、こいつにも故郷ってものがあるんだよなあ、と才人はあたりまえのことを思う。

 クルトだけじゃない。ルイズにもギーシュにもモンモランシーにも、いまは学院にいるシエスタにだって、生まれ育った場所がある。

 この世界に故郷がないのは、自分だけだ。

 

「どうした、才人?」

「なんでもねえよ」

 

 才人は首を振って、不意に訪れた望郷の念を追い払う。

 照り焼きバーガーやヨシェナヴェのせいで、いろいろ思い出しやすくなってるのかもしれない。

 泣きたいような気分だったけれど、いまのクルトに慰められるのはごめんだった。もし、ふだんの彼が隣にいたなら、きっと涙を堪えられなかった。堪えようとも思えなかっただろう。

 才人はつとめて平気な調子で言う。

 

「お前んとこって、平民の学校でもあんの」

「そんな贅沢なもの作れないよ。教会の集会場を借りて、人を集めてたんだ。親父は反対したけど……ま、無視してやったさ。俺の責任でもあるしな」

「責任って、先生やるのが?」

 

 才人は首を傾げた。

 自分とさほど歳の変わらないこの友人に、いったいどんな責任があったというのか。ルイズがよく威張り散らして言う『貴族の義務』というやつか。

 クルトは目を伏せ、自嘲するように言った。

 

「俺のせいで、ちょっとしたベビーブームが始まっちゃってなあ……」

「どゆこと?」

 

 ベビーブーム……、なんとなく聞き覚えがある。社会の授業で習った気がする。

 具体的な内容は覚えてないけど、字面から意味は想像できた。

 

「コルパスがコールスに……、実家がゲルマニアからトリステインの領土になって、ルイズと会うようになったころの話なんだけど……」

 

 クルトは静かに語り始めた。

 

 曰く、彼の実家は土地が狭くて急峻で痩せていて、しかもオークやコボルトの徘徊する……、とにかく人が住むには向かない土地だった。領民はみんな食うにも困っていた(にも関わらず自分の屋敷だけは立派で食べ物が潤沢にあるのがイヤだった、とクルトは砂を蹴る)。

 幼い頃からずっと領民を手伝いたくてたまらなかったらしいのだが、母が許してくれなかった。ごくありふれた貴族的感性を持っていた母は、末の息子が平民と混じって土に汚れることなど許容できなかったのだ。

 

 しかしコルパスがコールスとなったことをきっかけに、元々ゲルマニア貴族であった母は家を出た。

 こうして自由を得た彼は領民の畑仕事や狩りの技を学ぶようになり、さらには以前からの趣味で学んでいた『東方の知識』を用いて新たな農法や土地の改良を実践した。

 

「農器をいじったり三圃制を試したり、ヴィル……上の兄に頼んでハーバー・ボッシュ法のまねごとを……肥料を『錬金』させてみたり……思いつく限り、なんでもしたよ。そのせいで結局何が良かったのか、いまだによくわからないんだけど、収穫は毎年増えていった」

「へえ、すげえじゃん」

 

 才人は素直に感嘆した。

 以前、ルイズはクルトと知り合ったのは十年近く前だと言っていたから、この話もきっとその時期のことなのだろう。

 目の前にいる男は才人が中学生のときか、下手したら小学校に通っているような時期から、学校の図書室にあった学習まんが(シリーズ・世界の伝記)に出てきそうなことをしていたのだ。

 

「な? すごいだろ?」

 

 とクルトはにやりとする。

 けれどもすぐに肩を落として、

 

「ほんと、あのときが一番楽しかったなぁ……。生きててよかった、生きててもいいんだって、素直に思えた。ああ、あの頃に帰りたいな」

「そのあと、なんかあったんか? 農業が失敗したとか?」

「いいや、上手く行ったさ。そりゃ多少の失敗はあったけど、全体として見れば、これ以上ない大成功さ。夢みたいだった。それが良くなかったんだ」

 

 なんで? と才人は首を傾げる。

 

「言っただろ? ベビーブームさ。俺が十歳くらいのころから、赤ん坊がやけに増え始めてなあ……。まあ、豊作が続けばそりゃ当然なんだけど、ちょっと続き過ぎちまって……」

「ダメなの?」

「ダメだよ。うちの土地は、どうがんばっても狭すぎる。養いきれない。飢える人間が出てきちまう」

「でも、収穫が増えてたんだろ? なんとかなるんじゃないの?」

 

 クルトは頭の中で説明を組み立てているのか、眉間にしわを寄せて宙を眺めた。

 指先で杖をとんとんと叩き……ふっ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「人口は指数関数的に増えるけど、食料生産は等差数列的にしか増やせない」

「え? しす……、なんだって?」

 

 目を白黒させている才人に向かって、クルトは揶揄(からか)うように続けた。

 

「経済学者、マルサスの人口論だよ。知らないのか?」

「いや知らねえよ。こっちの学者さんなんか言われても、わかるわけねえって」

「そうか、悪かったな」

 

 クルトはくすくす笑った。

 片手をあげて、すぐにひっこめた。

 なにしてんだよ、と才人が問うと、

 

「すまん。急に撫でたくなって。才人がかわいくて」

「やめろよ……」

 

 才人はクルトから離れた位置に座り直した。

 クルトは悲しそうな瞳をしながらも、穏やかな口調で言う。

 

「マルサスっておっさんが書いたのは、『人口が増える速度に対して、食料が増える速度は絶対に追いつかない』ってこと。ちょっとばかり奇跡が起こせても、この法則は打ち破れなかった。土地の生産性をあげただけじゃ、飯は食えない仕事もないって連中がどうしても生まれちまうんだよ」

「はぁ」

「バカだよなあ。魔法が使えるから、ちょっとばかりものを知ってるからって、俺は神様になるつもりだったんだ。だけど実際のところ、俺はせいぜい百人の腹を満たし……、そして結果的には、それ以上に飢え死にさせるかもしれない」

「ふうん」

 

 才人はよくわからないままに頷いた。

 

「増えすぎた人口は、コールスじゃ生きていけない。いまの子どもたちの何割かは都市に出てもらうしかないんだけど、そのとき文字も読めない計算もできないんじゃ、食い物にされるだけだからな。読み書き計算を教えるのが俺の責任ってのは、つまりそういうこと」

 

 ああ、そういやそういう話だったな、と才人はぼんやり頷いた。

 夕飯のすぐ後に勉強して、小難しい話を聞かされて……、なんだか眠たくなってきたのだった。

 

「少し寝るか?」

「いや……」

 

 と才人が首を振ったのは、襲撃に備えねばならないからではない。

 クルトの隣で寝ることに、やはり危険を感じていたからである。

 しかしクルトのほうでもそれを察していたのか、微笑を浮かべて立ち上がる。

 

「お嬢のとこで休んでろよ。湖は俺が見張っとくからさ。いざってときに『我らの剣』が眠くて動けないんじゃ困る」

「じゃあ……そうしようかな」

 

 才人はあくび混じりに頷いた。

 ルイズの隣であれば、たしかに安心である。

 独占欲の強い才人のご主人さまはクルトへの警戒をいまだ解いていないようだし、クルトのほうもルイズを……、ルイズの放つ虚無魔法をやたらと怖がっているようだから。

 

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