朝の日差し。
雨上がりの湿った風が、濡れた体の熱を奪っていく。
「う、ぐ……、ぉえっ」
喉の奥からこみ上げる不快感に咳き込むと、生温かいものがびちゃびちゃと溢れてきた。
痛みにしびれる腕を持ち上げて口元を拭うと、手にはべっとりと赤黒い血がついている。
「よかった。目が覚めたのね」
上から振ってきた声に顔を向けると、特徴的な巻き毛が目に入る。モンモランシーだ。俺は血に濡れた地面に手をつき、起き上がろうとする。できない。途中でべしゃりと崩れてしまう。
「まだ起きちゃダメよ。陛下が治してくださったとはいえ、あんな大怪我したんだもの」
俺の隣に膝をついたモンモランシーが濡れたハンカチで顔を拭ってくれる。さすがに悪い、と彼女を止めようとするが、これ以上腕が上がらない。
俺は結局、されるがままだ。
ああ、高そうな絹の感触。四辺にレースまでついてる。洗って返さないと。いや、もう新しく買い直さないとダメか。
そういや前に鼻血出して倒れたときも、ギーシュにハンカチを借りたなあ……、とぼんやりした頭で俺は思う。
「ルイズは……」
また咳き込む。
喉の奥にあった血の塊を吐き出して、少しだけ気分が楽になった。
「あの子なら陛下と一緒にラドグリアン湖に行ったけど……あんた、最初に訊くことがそれ? やっぱりミスタ・コールスはヴァリエールの騎士気取りなのね」
モンモランシーは呆れたように笑った。
ちげえよ、と俺は反射的に言い返しそうになって、しかし口を閉じる。
彼女の笑い声は、俺が入学以来さんざんに向けられていた嘲笑ではなく、素直な、芯から感心したような澄んだ音色だったから。
黙りこくった俺にモンモランシーが語ったのは、『原作』通りの顛末。
アンリエッタたちが放った竜巻は、才人がひとりで受け止めた。その間にルイズが長ったらしい詠唱を完成させ、竜巻も『偽りの命』も吹き飛ばした。
正気に戻ったアンリエッタは、ルイズに促されて怪我人たちの治療を始めた。俺と才人はもちろん、なんとか生きながらえていた衛士隊の騎士たちにも高度な『治癒』の魔法をかけ、残らず助けてしまった。
一通りの応急手当を終え、一行は死体を街道から脇の木陰に運んだ。いずれ王宮から応援が来て埋葬するにしても、雨ざらしのまま放っておくわけにはいかない。敵も味方も、同じように丁寧に扱った。
アンリエッタを
そうして、話が死体のことに及ぶと、モンモランシーは息を詰まらせた。
唇をぎゅっと噛みしめて、勝ち気な顔をくしゃりと歪めた。
「ああ……すまない、モンモランシー」
話を聞いている間に多少は痛みが引いてきた腕を酷使し、俺はなんとか体を起こす。近くの木の幹に背中を預けて、俺から顔を
「俺のせいだ。俺が巻き込んだせいで……こんな、怖い思いを……」
「ば、ばかに、しないで」
モンモランシーは涙に濡れた声で、しかし気丈に言い放った。
「あんたのせいじゃ、ないわ。わ、わたし、が……わたしが、選んだ、の。ルイズたちについてくって、わたしが、決めたのよ」
ぐずぐず泣きながらつっかえつっかえ言うその後ろ姿にどうしてもルイズを思い起こして、俺はますます罪悪感にかられてしまう。
「だが……」
「三人、よ。あんたを入れて」
モンモランシーはマントの裾で顔をごしごし拭いた。大きな音を立てて鼻をかんだ。振り返ったその顔には、怪我人の面倒を見ている間にマントを汚していたのだろう血と泥がくっついている。
「女王陛下が目を覚まされるまで、わたしが、みんなを治してたの。陛下の魔法と比べたらちっぽけな力だけど……それでも、わたしは水の使い手よ。傷の深さくらい、触れたらわかる。わたしがいなかったら、少なくともあと三人は、陛下の『治癒』を受ける前に死んでたわ」
「それは……」
俺も命を救われた、ということだろうか。
俺が無理矢理に連れてきた、争いごとが苦手な優しい女の子のおかげで。
そうしてその上、『原作』よりも死人を減らし、俺の罪を軽くしたいという身勝手な
彼女の傷ついた心を代償にして。
「もう、なんであんたが泣きそうになってんのよ」
ようやくいつもの調子を取り戻してきたモンモランシーが、耳慣れた、高慢な声音で言った。
「わたしはね、誇りに思ってるの。わたしが救った人を、治した傷を……。だからわたし、謝られたくなんかないわ。わたしの誇りは、わたしのもの。あんたが責任感じるのは勝手だけど、わたしには関係ないことだわ」
そうして俺は、またしても俺自身の傲慢さを知る。
いつかキュルケに叱られたときから、ちっとも成長していない。
少しばかり未来に起きることを知ってるからって、なんでも自分のせいにしようとして、人の責任を、決断を、誇りをないがしろにしてしまう。
以前キュルケに叱られたのは、タバサがワルドとの戦いで負傷していたことを知ったときだった。
あのとき俺はタバサの怪我も自分の責任だと言いかけて、キュルケに蹴飛ばされたのだった。
俺が頼んだこととはいえ、アルビオンに向かったのはタバサ自身の選択。怪我の責任はタバサ自身にあるのだ……、と。
キュルケの指摘は正しく、しかし事実の半分しか表していなかった。しかしそれは、彼女が言葉足らずだったわけではない。彼女が言い損ねていたことはあまりにもあたりまえで、言うまでもないことだったのだ。
あのニューカッスルの戦いで、タバサはルイズと才人を救った。
タバサ自身の選択と責任で。
俺はあの子が傷ついたことばかりに気を取られて、成し遂げたことにはまるで目を向けていなかった。
「……どうしたのよ、おかしな顔しちゃって」
モンモランシーは怪訝な表情。
俺はぼんやりと答える。
「いや……、バカだなあと思って」
「はぁ? 助けてもらっといて、
「モンモランシーじゃなくて。俺の話。俺と……、ついでにギーシュもバカだ」
バカ、という言葉が想起させたのか。
不意に、モンモランシーの恋人の顔が頭に浮かぶ。
俺は俯かせていた視線を上げる。朝焼けに染まっていく空を眺め、素直な気持ちを吐き出した。
「ほんと、ギーシュのバカは深刻だよ。モンモランシーみたいな素敵な子に好かれてるのに、浮気ばっかりしてるんだから。俺なら、そんなことしないだろうな」
「ぬぇえ?」
奇妙な声に振り向くと、モンモランシーはいっそう奇妙な顔で固まっていた。
目を丸くして、口をぽかんと半開きにして、いつもつんと澄ましている彼女らしくない、隙だらけの表情だった。
「どうした?」
「……ぅるさい。知らない。ひとの恋人に、めったなこと言うもんじゃないわよ」
そっぽを向かれた。
恋人を悪く言われて、気を悪くしたのかもしれない。たしかに無神経な発言だった。ギーシュがバカで浮気性なのは事実だが、他人から口を挟まれるのは不快だろう。
怒りを抑えるためか、モンモランシーは俺に背を向けたまま深呼吸を繰り返し、えっとね、それからね、と呟いた。
悲しい誘拐事件の結末を語り始めた。
街道の脇に死体を並べ、最後にアンリエッタがウェールズの亡骸を運ぼうとしたとき、
「ウェールズ皇太子が、目を覚まされたのよ」
それは『原作』と変わらぬ展開。
ルイズの魔法で『偽りの命』を拭い去られたウェールズは、
けれども彼の死因、ワルドに
彼らはシルフィードに乗って、湖に向かったのだという。
アンリエッタの付き添いとしてルイズと才人、シルフィードの主人であるタバサ、そしてタバサに寄り添っていたキュルケも一緒に風竜の背に乗った。
モンモランシーは意識のなかった俺や重傷で動けない騎士たちのためにここに残り、ルイズたちを見送った。
「奇跡ってあるのね、ほんとうに」
モンモランシーはため息のように言う。
「魔法は神の御業だ、奇跡だって神官たちは言うけど、魔法じゃ説明のつかないほんとうの奇跡ってのがあるんだわ」
涙に潤んだ、せつない声。
ある意味でトリステイン貴族らしい、非合理で、夢に満ちた解釈。
もしかしたらそれが正解なのかもしれないけれど、俺は首を振った。
ふと、ひとつの仮説を思いついてしまったのだ。
魔法を科学的に理解しようと徒労を重ねていた幼い日々の影響か。あるいは一年生のころ、コルベール先生の研究室に入り浸っていた時間の成果だろうか。
ひとたび仮説が脳に浮かぶと、俺の頭は自然とそのことばかりを考えてしまう。
「誓約だ」
モンモランシーが訝しそうに俺を見る。
「水の精霊の力が誓約を
「誓約? 誰が何を誓ったのよ」
「皇太子殿下が……」
俺はうっかり『原作』でしか知り得ない知識……かつてウェールズが精霊の前で立てた『ラドグリアンの湖畔で太陽のもと、誰の目もはばかることなく、アンリエッタと手を取り歩くこと』という誓い……を零しそうになって、慌てて口をつぐむ。あたりさわりない言葉に置き換える。
「ルイズから聞いたんだよ。女王陛下と皇太子殿下が出会ったのは、ラドグリアン湖の園遊会なんだって。きっと、そのとき約束したんだ。ふたりでまたラドグリアン湖に来ることを。だから水の精霊の力が、殿下に最後の時間を与えたんだ」
「そうね。もしそうだったら素敵だけど……」
モンモランシーは悲しげに首を振った。
「水の精霊が、そんなことするはずないわ。あの精霊、人間に興味なんてないもの」
「だったら、ラドグリアン湖の精霊とは別のやつがやったんだろ」
モンモランシーは首を傾げた。雨と泥に汚れて
「あり得ないわ。水の精霊は『全にして個。個にして全』。精霊の力に宿る意思は、みんなあの精霊と同一の存在なのよ」
「『水精霊の涙』は?」
「あれは精霊が自ら切り離した体の一部。力はあるけど、意思が宿ってないわ」
なにをいまさら、とばかりにモンモランシーは否定する。
俺は重ねて問いかける。
「じゃあ、『アンドバリの指輪』は? あの指輪で蘇った人たちは、ひとつの意思で繋がっていた。まるで水の精霊みたいに」
また『原作』の描写でしか知り得ないことを言ってしまったことに気づき、俺は早口に補足する。
「戦ってるとき、そんな感じがした」
モンモランシーは胡乱な目で俺を見つめながらも、
「それは、やっぱりラドグリアン湖の精霊と同じ意思なんじゃないの? 『アンドバリの指輪』に宿る力は……たぶんだけど……『水精霊の涙』とは別物よ。精霊の意思は『全にして個』。指輪にも、あの精霊と繋がってる意思があったんでしょ」
「もしそうだったら、蘇った人たちが指輪を放っておくのはおかしいだろ」
モンモランシーは、はっと息を呑んだ。
ラドグリアン湖の精霊は、ハルケギニア全土を沈めてでも指輪を取り返そうとしていた。
もし指輪の力にも同一の意思が宿っているなら、蘇らされた死者たちがすぐにでも指輪を奪ってラドグリアン湖に返しに来るはずなのだ。
「あなたが言いたいのは、つまり……、『アンドバリの指輪』が与えた水の力に宿る意思が、殿下をもう一度蘇らせたってこと?」
「そうだな。そんできっと、水の力に意思を宿らせるのが、『アンドバリの指輪』の機能なんだ。死者に『偽りの命』を与えることができるのは、その機能のおかげだ。人間を素材にガーゴイルや
モンモランシーは考え込む様子を見せ……、しかし、再びを首を振る。
「でも、それっておかしいわ。皇太子殿下が誓ったのは……もし誓ってたとしたら、だけど……ラドグリアン湖の水の精霊に対してでしょ? 『アンドバリの指輪』に誓ったわけじゃないわ」
俺はまばたきして、モンモランシーを見つめ返す。
「ああ、それは……考えてなかった」
「ちょっと」
モンモランシーは脱力した。何がそんなに堪えたのか、座ったまま木の幹にぐったりと背中を預けて、ずるずると姿勢を崩す。巻き毛の先に枯葉がくっつくのも気にしない。
「まともに考えてるように見えるぶん、ギーシュより質が悪いわね、コールス……」
「仕方ないだろ。俺だって、思いついたことをしゃべってるだけなんだから」
あんたねえ……、とモンモランシーは嘆息する。それから木の根っこに手をついて体を起こし、朝焼けの空を見上げた。
「でもまあ、そういうこともあり得るのかもね。水の精霊は、ずっと指輪と一緒にいたって言ってたもの。指輪が殿下の誓いを聞いてたって、別におかしくないわ」
「なるほど。さすがモンモランシ家の長女」
バカにしてるの? とモンモランシーは横目で俺をにらむ。
「……あんたの説が正しいなら、水の精霊が指輪をあんなに恋しがってた理由もわかる気がする」
妙に真剣な声音で呟くモンモランシー。
俺は黙って先を促す。
「水の精霊は『全にして個。個にして全』。自分以外の誰も必要としない完璧な存在に見えるけど、でもそれって、実はとっても寂しいんじゃないかしら。だって、同族は自分しかいないってことでしょ? たとえ離れてるように見えても、水の精霊の力は、ぜんぶひとつの意思に繋がってるんだから。あの精霊には、自分と同じ時間を生きてくれる家族も、友達も、恋人もいないのよ」
モンモランシーは視線を落とし、ひどく沈んだ声で言う。
「どこまで行っても自分しか存在しない世界……考えただけで、ぞっとしちゃう。もしそんな世界で、自分と同じ……だけど自分とは別の存在を生み出せる秘宝を見つけたら、きっと命より大切にするでしょうね。ハルケギニアを沈めても、たとえ一万年かかっても取り返したいって思うくらいに。ああ、ほんとう、惚れ薬なんか作るべきじゃなかった」
「なんで惚れ薬が出てくるんだよ」
思わず呟いた俺に向かって、モンモランシーは自嘲気味に笑った。
「わたしね、ギーシュを自分
どこからか男の呻き声が聞こえて、膝に顔を埋めてぐずぐず泣いていたモンモランシーが、はっと視線を上げた。
重傷を負っていた衛士隊の誰かが目を覚ましたのかもしれない。
モンモランシーはすぐさま声の主に駆け寄っていく。
男は覚醒したわけではなく、眠りながら痛みに呻き、うなされるように女王への詫びの言葉を繰り返している。
アンリエッタの施した『治癒』は強力だったが、完璧ではない。ひとまず命をつなぎ止めただけで、傷はまだまだ残っている。魔法とはそんなに万能な力ではないし、仮に魔法で傷を消してしまっても、当分の間、痛みは続くのだ。
モンモランシーはそんな男の傍らに跪き、優しく手を握る。きっと『治癒』を唱える精神力さえ残っていない彼女の、精一杯の看護だった。
俺にも手伝えることはないか、と彼女を追いかけたが、「怪我人は休んでなさい」と厳しく叱られた。
そうしてすごすごと引き下がる……前に、ひとつだけ確かめたいことがあった。
できれば、衛士隊が目を覚ます前に。
「なあ、モンモランシー。ルイズのアレ、覚えてるよな?」
モンモランシーは男から目を離さずに頷いた。
忙しいからあとにして、というオーラを全力で放っている。
俺は無視して続ける。
「……怖くなかった?」
モンモランシーの眉が、困惑に歪む。
「まさか。むしろ安心したわよ。ずっと聞いていたくなるような、頼もしい……聖なる感じがしたわ。『ゼロ』には似合わないけどね」
「そうか。それで、ルイズのことなんだけど」
「わかってる」
モンモランシーはようやく俺に振り向いた。不機嫌を前面に出した顔で俺をにらんだ。
「心配しなくても、言いふらしたりしない。あの子が惚れ薬の件を黙ってる限りはね」
ありがとう、と俺は呟く。
「あんたに言われる筋合いはないわよ」
モンモランシーは冷たく言った。
それはきっと、俺みたいな怪我人がふらふらしながら膝をついて礼をするのを阻止したかったからだ。
特に根拠もなく俺はそう思い……そうだったらいいなと思い……だから、そう信じることに決める。
「いいからあんたは休んでること。さっきまで死にかけてたんだから、いまは余計なこと考えなくていいのよ」
モンモランシーは虫でも払うように手を振って、傷ついた騎士に真剣な瞳で向き直る。
俺は木陰に腰を降ろす。ポケットに手を突っ込む。慣れ親しんだ滑らかな感触を指先で探り……使い魔の不在に気がついた。
あのやろう逃げたか、と非合理的な思考が頭をよぎる。そんなわけはない。
ガーゴイルに胸を刺されたとき、ロッキーは地面に転がしていた。
俺の使い魔はそのへんの石ころとなんら変わらない見た目だから、どうせそのまま放置されてるはずだ。
痛む体を引きずって街道にできた血だまりの跡を探してみると、やっぱりそうだ。
長さ八サントほどの、ちょうど水切りしたらよく跳ねそうな扁平な石ころが、割れた石畳の間に挟まっていた。
休んでろっつったでしょ、と威圧するモンモランシーの視線を浴びながら石畳をひっくり返してロッキーを拾い、もといた木陰に座り込む。
傷ついた体にはたったそれだけでも重労働で、俺は深呼吸を繰り返して乱れた息を整える。
それからやっと、本題に入る。
手のなかの石ころにそっと囁く。
「お前、ルイズを殺そうとしただろ」
当然、なんの反応もない。
いや、
「おい、ロッキー……いまさらふつうの石のフリするのやめろよ。お前の正体、気づいてんだからな」
とりあえずカマをかけてみるが、返事はなかった。
俺の使い魔はやっぱり話せないのか、それとも話す気がないだけなのか……。
水の精霊に襲われた俺が気を失っている間に精霊が語りかけていた内容も、ロッキーが精霊からの『助力』とやらをもらったことも俺は知っている。
タバサたちと戦う前、才人が寝ている間に、ルイズに尋ねていたのだ。
惚れ薬で頭がおかしくなっていたとはいえ、さすがに自分の使い魔への興味は残っていたらしい。
ルイズは(短気で視野が狭くて才人が絡むと途端にアホになるけれど)基本的にはとても頭の良い子だ。精霊が話した内容を、彼女は正確に記憶していた。
その意味については未だによくわからないけれど、ロッキーがただの石じゃないことだけは確かである。
少なくとも、水の精霊に『
そしてこの石ころが水の精霊のような超越的な存在で、ともすれば使い魔契約の主人にまで影響を及ぼすような力を持っているのだとしたら、いくつかの疑問がきれいに解けるのだ。
ロッキーの感覚の、砂嵐のなか世界を正確に把握できるような精密さ。女子寮塔のキュルケの部屋からアウストリの広場にいるルイズを見つけることさえできる、その射程範囲。
精霊の力に対する反応の鋭さ。
そして俺が虚無の力に抱く、得体の知れない恐怖心。
その由来がみんな説明できてしまう。
俺は最初、ルイズの虚無に怯えてしまうのはメイジとしての本能のせいだと思っていた。
自身を圧倒的に超えた力に対する、生き物として当然の畏怖。
『原作』でも、『魅惑の妖精』亭を訪れた
同じく虚無を目の当たりにしたタバサやキュルケ、アンリエッタが恐怖を抱く描写はなかったけれど、それは彼女たちが飛び抜けて優秀なメイジだったからであり、俺のような平凡なメイジは虚無に怯えるのが当然なのだ……、と。
けれどもモンモランシーは恐れていなかった。
学院の大半の生徒と同じドット・クラスで、俺よりずっと怖がりに見える彼女は、しかしルイズの詠唱に安心し、聖なるものさえ感じていた。
チュレンヌたちが怯えていたのは、ただ単純に未知の魔法に驚き、その使い手の怒りを恐れたからにすぎない。
結局の所、俺が虚無を恐れるのは、メイジの血を引いているからではない。
メイジの本能なんてものは
だとすれば、筋が通る説明はひとつだけ……これは俺の恐怖ではないのだ。
怖がってるのはロッキーだ。
俺は知らぬ間に、使い魔の感情を、恐怖を共有していたのだ。
ロッキーが虚無を怖がる理由はわからない。しかしこの仮説が正しければ、他のいくつかの疑問にも納得がいく。
ひとつは、俺がキュルケににらまれるまで『解除』の存在を忘れていたこと。
純然たる恐怖によって記憶に蓋をしていたのか、あるいはロッキーには俺の思考を操る術があるのか……いずれにせよ、この使い魔が悪さしていたのは間違いない。
そしてもうひとつは、背後から迫るガーゴイルに気がつかなかったこと。
あのときはロッキーと感覚共有していたが、この使い魔の感覚を持ってすれば、ガーゴイルなんて石の塊を見落とすようなことは、本来はあり得ないのだ。
つまり、こいつ……
虚無の担い手であるルイズを見殺しにしようとして、ガーゴイルの存在を俺に伝えなかったのだ。
実際、モンモランシーが気づいてくれなければ、ルイズとキュルケは殺されていただろう。
俺はロッキーをまっすぐ高く放り投げ……、手のひらで受け止め、また投げ上げる。
「べつに、そこまで怒ってないよ。ロッキーにも事情があるみたいだし……お前のことをさんざん便利に使ってきたのは、俺のほうだしな。どこかでツケを払わされると思ってたんだ」
それでもやはり、返事はない。
地面や木の根っこをひっかいたり、水溜まりを叩いてみたりするけれど、いつも通りの、ただの石ころのロッキーだ。
「でもお前、次やったらラドグリアン湖に……いや、火竜山脈の火口に沈めてやるからな。それかいっそ虚無だ。ルイズに頼んで爆破してもらう」
ぞくぞくっと背筋が震えた。
ロッキーの恐怖だ。軽く脅かしただけでこの
俺はくすくす笑いをこぼして、ロッキーを弄びながら空を見上げる。
晴れ渡った空が眩しい。いつの間にか、太陽が昇りきっている。
「……つっても、どうせ次なんてないけどな」
ここからトリスタニアはそう遠くない。もうじき応援の騎士たちが着く頃だ。
それでやっと、事件が一段落するはずだ。
そしたら俺は学院に帰って、キュルケのところに行って……灰にしてもらおう。
約束を守ってもらおう。
俺がいまこんなにも落ち着いていられるのは、結局のところ、キュルケと交わした約束のおかげなのだから。