四章は明日の更新でおしまいです。
「ミスタ……ミスタ・コールス! お待ちください!」
女子寮塔の入り口についたとき、遠くから女の子に呼びかけられた。
振り向くと、本塔に続く廊下の向こうから黒髪のメイドがこちらに駆けてくる。シエスタだ。
「どうしたの? 才人に用でもあるのかな」
今日はやけにいろんな人に会うな、とぼんやり思いながら、俺の前ではふはふと息を整えるシエスタに問いかける。
シエスタはぶんぶん首を振って、
「あ、あの……上着……ありがとうございました。お返しするのが遅れて申し訳ありません」
差し出されたのは、俺が才人と追いかけっこした夜にシエスタに貸したガウンである。
気がつけば、あれからもう五日も過ぎている。
「ありがとう。わざわざ洗ってくれたんだね」
「ほんとうはもっと早くにお返ししたかったのですが、この数日、とてもお忙しそうにされていたので……」
そう言ってシエスタがぺこぺこと頭を下げるので、俺は慌てて、大丈夫だよ、俺が変な薬を飲んだせいなんだから、と早口で繰り返す。
それでようやく、シエスタは安堵の息を吐いた。
学院の生徒たちの横暴さをよく知る彼女にとって、貴族の私物を何日も預かってるのは気が気じゃなかっただろう。
あんな丈の短いセーラー服じゃ寒いだろうと無理矢理に押しつけてしまったけれど、悪いことをした。
「先ほど学院に戻られたってサイトさんから聞いて、急いで宿舎の部屋から上着を取って来て、ミスタ・コールスを探してたんです。でも教室にも本塔の寮にもいらっしゃらなかったから、もうどうしようかと……」
「それはすまなかったね。ちょっとキュルケと話してたんだよ」
「いえいえ、そんな! どうか謝らないでください!」
大げさに恐縮されて、ちょっぴり寂しくなる。
他の生徒たちと比べたら警戒は薄いのだろうが、貴族と平民という身分の壁はあまりにも大きい。彼女がそのうちルイズにそうするくらいナメてかかってもらえたら嬉しいのだが、さすがに高望みだろう。
シエスタもなにかと忙しい身分だし、いつまでも引き留めてるのも申し訳ない。改めて上着の礼を言って寮塔に入ろうとしたら、意外にもシエスタのほうから呼び止めてきた。
「あの、ミスタ・コールス。ひとつお伝えしたいことがあるのですが」
「なんだい? ルイズか才人に伝言かな」
「いえ、ミスタに。お礼をさせていただきたくて」
シエスタから、俺に?
上着の礼ならさっき言ってもらった。恨み言ならともかく、他になにを伝えるというのか。
「昨日、母から手紙が届いたんです。ようやく家を建て直せた、って」
シエスタの言葉に、俺は暗い気持ちになる。
彼女の故郷であるタルブの村がアルビオンの竜騎兵に焼かれるのを、俺は黙って見過ごした。
タバサの救いにつながる『原作』沿いの展開とタルブの人々を天秤にかけて、俺はあの村を見捨てた。
アルビオンの侵攻を防ぐのは無理だったにしても、村人たちに警告するくらいはできたはずなのに。
俺はそれさえもしないで『竜の羽衣』と一緒に学院に帰っていたのだ。
「そんな顔なさらないでください。家も畑もたくさん燃やされちゃったし、火傷した人も大勢いますけど、でも、村の誰も死んでませんから。えへへ、サイトさんのおかげですね」
「そう、か……、よかった……」
シエスタに明るく言われて、俺は涙ぐんでしまう。
まるで身勝手にも、許されたような気さえして。
「生きてさえいれば、頑張れます。畑はまた耕せばいいし、家だって、なんとか建て直せたんですから」
「そうだな……うん。そうだ。すごいな、シエスタは。シエスタの家族は」
ふつうの田舎娘とその家族ですよ、とシエスタは照れたように笑う。
「それで、お礼を言いたいのはそのことなんです」
「俺に? ルイズと才人にじゃなくて?」
「ええ、ミスタ・コールスに。わたしやわたしの家族だけじゃなくて、タルブの村のみんなから」
そう言って、シエスタは姿勢を正した。
「ミスタがタルブにお泊まりになったとき、村の
これから彼女に言われることを予感して、俺は息を呑む。
あの『宝探し』の旅の終わり、『竜の羽衣』を見つけたタルブの村で。
俺は『泊めてくれたお礼』と称して村中の壊れた農具や鍋を集めさせ、出立の直前までずっと『錬金』による修理と『固定化』をかける作業を続けていた。
おかげで村を
俺たちを親切に迎えてくれた村の人たちを見捨てる罪悪感を誤魔化すための現実逃避に過ぎない。
ずっと、そう思っていたのに。
「魔法って、やっぱり奇跡ですわ」
どこか夢見るような声音でシエスタが言う。
「わたしの家も燃えちゃったんですけど、ミスタが直してくださったものは、みんな無事だったんです。お鍋も包丁も
深々と頭を下げて感謝を告げるシエスタを前に、俺はぎゅっと唇を噛んだ。気を抜くと泣き出してしまいそうだ。
「参っちゃう、な……。そんな、たいしたこと、してないのに」
「ミスタ・コールスにとっては、そうですね、たいしたことじゃないかもしれません」
顔を上げたシエスタは、俺がおかしな表情をしてることに気づいたのだろう、驚いたようにまばたきする。
それから、はにかんだ笑みを浮かべ、まるで俺を慰めるかのような冗談めかした口調で言った。
「でもわたしたちにとっては、とってもたいしたことです。奇跡です。
手の甲で涙を拭い、ぐず、と鼻をすすって、なんとか返事を絞り出す。
「拝んでないで、使ってくれよ。せっかく直したんだから」
そうですね、とシエスタは笑う。
「手紙のお返事には、そう書いておきます。ミスタ・コールスがそう仰ってたって教えてあげたら、がんこなレオニおばあちゃんも鎌を使わせてくれるかも」
またぺこりとお辞儀をして去って行くシエスタの後ろ姿を見ながら、俺は考える。
俺のしたことはただの偽善だ。自分勝手な罪滅ぼしだ。感謝される権利はない。
結局のところ、俺に作れるのは砂の城だけ。脆くて弱くて、歴史の大きな波の前には、あっけなく崩れてしまう。
だけど、そこに、意味がなかったわけじゃないのだ。
子どもの砂遊びのようなそのお城は、確かに誰かを助けた。痛みを和らげることができた。
俺は俺を誇っていいのかもしれない。
言いつけ通り寄り道はせず、けれどもできるだけゆっくりゆっくり歩いて、とうとう辿り着いてしまった扉の前。足を止める。深呼吸。ノックしようと手を伸ばし、ひっこめて、ふたたび深呼吸して……気づく。
この部屋の主であれば、廊下に立っている俺の気配をとっくに捉えているだろう。
任務に続いて女王の誘拐事件に巻き込まれ、疲れが溜まっているだろう彼女を、無意味に
諦めて、俺はノックする。
「た、タバサ。コールスだ。休んでるところ邪魔してすまない。話したいことがあって、少しだけ時間を……」
言い終える前に、がちゃりと鍵の開く音。
内側から『
反応が早い。さすが
「すみませんでした」
閉めた。
「いや、あの、ほんとすみませんでした。わざとじゃないんです」
扉が内側から開いた。
「入って」
杖を片手に部屋から出てきたタバサはかわいくて眩しい。目が潰れそうだ。いつも以上の破壊力だ。
なぜって彼女はシュミーズにガウンを羽織っただけの格好。
しかもガウンの前をちゃんと閉めてないせいで、細い体の線を浮かび上がらせるような薄青色のレースのシュミーズがまるで隠せてない。
「す、すみません。寝てたとは思ってなくて」
「寝てない」
タバサは俺の腕を掴み、強引に部屋にあがらせる。
俺は必死で彼女から目を
タバサがこんな格好で男を部屋に連れ込んでるところを誰かに見られたら大変だ。俺のせいであらぬ噂を立てられてしまったら、どうやってお詫びすればいいだろう……。
「ぱ、パジャマじゃないんですね、今日は」
我ながらキモすぎる発言。
タバサはいまさら気づいたようにガウンの前を留めて、
「夏だから」
と呟く。
「なるほど、夏だからパジャマじゃなくてシュミーズで寝てるんですね」
バカみたいに繰り返す俺はキモさの二乗。
さすがのタバサも耐えかねるキモさだったのか、杖でこつんと床を叩く。
「話し方」
「なんでしょうか」
こんこん、と杖がせわしなく床を叩く。
「その話し方、やめて」
「はい。わかりました」
杖が俺の頭を叩いた。
「ふつうに話して」
「すみません……」
杖が俺の頭を叩いた。
「す、すまん、つい」
タバサは嘆息した。
それから突然、つい、と俺に距離を詰めた。俺は思わず
無表情に、まっすぐ視線をあわせたまま。
また後退る。詰められる。
さほど広くもない部屋のなか、俺はあっという間に逃げ場を失う。
「な、なに、を……」
扉に背中を押しつけて、喘ぐように言う。
タバサは答えない。
ラドグリアン湖の青よりもいっそう深い青を湛えた宝石の瞳で俺をひたすらに見つめているだけ。
俺はだんだん呼吸さえも苦しくなって、くらくらとめまいがして、扉に体重を預けてずるずると座り込む。心臓が激しく脈打って胸の傷から血が溢れそうだ。
タバサは俺にあわせて床にしゃがみこみ、鼻と鼻がくっつきそうな至近距離で俺に視線を浴びせかける。
意味がわからない。
殺される……このままじゃタバサの美しさ、かわいらしさに殺されてしまうと本気で思い始めたころ、彼女はようやく立ち上がった。
「なおったのね」
その呟きが耳に届いてからたっぷり一分以上はかけて、俺は理解する。
タバサは確かめていたのだ。
モンモランシーの作った解除薬はきちんと作用したのか、俺が惚れ薬の影響からほんとうに脱しているのか……タバサ自身の魅力を使って俺の反応を探っていたのだ。
ラドグリアン湖の夜でもタバサが妙に近づいてきた記憶があるけれど、あれも俺の反応を見ていたのかもしれない。
俺が彼女の前でおかしくなってしまうことは、とっくにバレていたらしい。
なんとか隠してるつもりだったけれど、聡明な彼女の前には隠し事なんて無意味だったのか。
……いや、待て。
もしかしたら、そういう問題じゃないかもしれない。
タバサはキュルケから教えられているのだ。『もともと好きだった相手への関心を失う』という、特別製の惚れ薬のもうひとつの効果を。
だからこんな方法で俺が治ったことを確かめたのだ。
つまり、これは……、最悪だ。
こんなかたちでタバサに好意が伝わるなんて。
思わず、キュルケを恨みそうになる。情熱だなんだと人をけしかけておいて、裏でこんな仕打ちをしていたとは。
けれども俺は彼女を信じる。タバサの親友である彼女を。俺の友達でもある彼女を。
惚れ薬の副作用について教えたほうが、きっと、タバサにとってはよかったのだ。心が傷つかなかったのだ。
キュルケがそう判断したのなら、それは正しい。受け入れる。
俺は力の入らない体を無理矢理に動かし、壁に手をついて立ち上がる。
正直、かなり心に来ているが、俺の好意なんかより大切なこと、タバサに言わなきゃならないことが山ほどあった。
「タバサ、すまなかった。ラドグリアン湖のこと……」
「いい」
覚悟していた通り、タバサの返事はそっけない。
「それでも、頼む、謝らせてくれ。そうしないと気がすまないんだ。生きていけそうにないんだ。タバサを傷つけてしまったこと、ほんとうに申し訳なく思っている」
俺は床に膝をつき、深く
貴族として、最大限の礼。己の非を認め、この首を……命を差し出してもかまわないと思っていることを伝える礼だ。
頭上のタバサがたじろぐような気配がするけれど、実際、俺はこの礼に値するだけの罪を犯した。
「指を……ああ、すまない、タバサの、ゆ、指を傷つけたこと、だけじゃない。その後も、俺は最低なことをした。い、一個貸し……あんな場所で、あんな理由で、汚していい言葉じゃなかった」
「気にしてない」
「わかってる。タバサは優しいから」
昨夜、ルイズたちを助けるために力を貸して欲しいとタバサに頼んだとき、彼女は『一個借り』と答えてくれた。
そのたったひとことで、俺は確かに救われたのだ。
もしあの言葉がなかったら、きっと耐えられなかった。キュルケとの約束さえも意味をなさずに、俺は杖を返された瞬間『ブレイド』を唱えて自分の首を刎ねていただろう。
「でも俺が許せないんだ。あのとき、あのタルブの夜にタバサがああ言ってくれて、ほんとにうれしかったんだ。宝物だったんだ。なのに、俺は……」
「顔をあげて」
俺は従順にタバサを見上げる。
情けなくも涙に滲んだ視界に映る彼女はやっぱり無表情で、なにを思っているのかわからない。
「痛かった」
「す、すまない。痛かったよな。嫌だったよな。怖かったよな。俺が惚れ薬なんか飲んだせいで、辛い思いをさせてしまった」
「でも、あなたじゃない。あなたのせいじゃない」
ちがう。
俺のせいだ。
タバサの母の事情を知ってるくせに、俺はルイズを庇ってしまった。
俺がこんなにも愚かでなければ避けることができたのに。無意味にタバサを傷つけてしまった。
「許す」
タバサはすうっと右手を差し出して、呟く。
俺はその慈悲深さに感謝を捧げ、タバサの小さな右手を両の手で包んだ。
白くきめ細やかなその肌を見つめ、あの晩、俺が折ってしまった指をでき得る限り優しく撫でる。彼女の信頼を裏切り、
その痛みを、ほんの少しでも癒やせるように。
俺はひたすらに、白くたおやかな手を撫で続ける。
「……クルト」
そうして、どれだけの時間が経っただろうか。
不意に、小さく名前を呼ばれた。
見上げると、タバサはわずかに眉根を寄せて、珍しく困惑を表に出している。
「なにしてるの?」
時間が止まった。
今度はなにをどう間違えたのかと焦り、思考が空転して……、気づく。
慌ててタバサの手から飛び退き、背中を扉に打ち付けた。
「すまん! そういう意味か! そ、そうだよな……俺、どうかしてた!」
タバサが『許す』と言ったのは、別に手を好きなだけ撫でてよいという意味ではない。
彼女は『手を許した』のだ。
ハルケギニアの貴族にとって、『手を許す』とは、手の甲に口づけさせること。
この行為には、文脈によってさまざまな意味が付与される。
それは例えば上位者から下位の者への報酬であり、忠誠の確認であり……、この場合は俺の失敗を許し、謝罪を受け入れる、という意味だ。
俺はそれを盛大に勘違いして、傷つけた手に触れることへの許可と捉えてしまった。
アンリエッタとの初対面で唇にキスした才人とは似て非なる失敗。
それにしても、才人みたいに大胆な方向に間違えなくてよかった……とタバサを見上げると、彼女はやはり困り顔のまま、右手を中途半端に浮かせていた。
いまからでも口づけるべきかと悩んだが、タバサはその前に手を引っ込めてしまう。
残念なような、安心したような。
タバサはまたいつもの無表情に戻って俺を見下ろしていたが、ふと、なにかに気がついたように、
「あ」
と声を漏らした。
彼女には珍しい、意味をなさない驚きの声。
その視線は、俺の隣を向いている。
それは俺が壁際に追い詰められたときに落とした、一冊の古びた本。
『イーヴァルディの勇者』。
「クルト」
青い瞳に悪戯っぽい光が浮かんだような気がして、俺はどきりとする。
「読んで。そんなにお詫びしたいなら」
俺は『イーヴァルディの勇者』を持って、机の前の椅子に座る。
すでにベッドで横になっているタバサがもぞもぞと動く気配。
俺は彼女を直視しないよう努力しながら、ちらりと横目で様子を
タバサは肘をついて上体を起こし、ベッドの脇を指差していた。
そこじゃ遠くて聞きづらい、もっと近くで読め、ということか。
俺はつとめて壁だけ眺めて椅子を引きずり、指示された場所に座り直す。
……本を読んで欲しいと求めたタバサが『寝る』とガウンを脱ぎ始めたときは悲鳴をあげそうになったものだが、いまでも気を抜いたら口から悲鳴が出てきそうだ。
杖を枕元に立てかけ、メガネを外して毛布に潜り込んでるタバサの姿は、ただのあどけない少女にしか見えない。
これが『七号』とガリアの裏社会で恐れられている凄腕の北花壇騎士だとは、誰も思わないだろう。彼女の実力を何度もこの目で確かめ、前世では『タバサの冒険』を読んでいる俺でさえ、ちょっと信じがたい。
しかしいまの俺にとって『七号』の噂なんかよりずっと恐ろしいのは、毛布から覗く無垢な肌。ふだんは制服のシャツとマントに隠されている薄い肩。無防備な、起伏のない胸元。
俺は咳払いをひとつして、薄手の毛布をタバサの首元までひっぱり上げる。
「あつい」
目をつむったままのタバサが呟く。
季節はもう初夏から本格的な夏に移り変わろうという頃。夜ならともかく、昼間からしっかり毛布をかぶっていたら、そりゃ暑いだろう。
「だめだ。そんな薄着なんだから。ちゃんと毛布かぶってないと」
俺はさも『風邪をひいたら大変だ』的に言うけれど、もちろん嘘で、実際は彼女の肌を視界に入れたくないだけだ。
タバサはこてりと首を傾け、俺を見る。
メガネを外してるせいか、その美しい青い目は、心なしかいつもより細められている。
なんだか睨まれてるような気がして、俺はいっそう落ち着かない。
「訊きたいことがあった」
「な、なにか」
「女の子が苦手?」
え? と俺は間抜けに聞き返す。
「あなたは、女の子が苦手?」
いやどういうことだよ。
そんなこと訊いてタバサはどうしたいんだよ。
俺の言動が女の子に慣れてなさ過ぎてキモ過ぎるってこと? やっぱ死んだほうがいいのか俺は。
「得意では、ない、……かな。やっぱり」
内心の動揺を抑えて答えを絞り出す。
タバサは小さく頷き、ふたたび目を閉じた。
この仕草は、会話はこれで打ち切りという合図。つまり早く『イーヴァルディの勇者』を読めと命じられているのだということは、彼女との付き合いが深くも長くもない俺にも察せられた。
俺は本のページを開いて、もう一度咳払い。
――イーヴァルディの左手にしるしがあらわれたのは、妹のスノリと一緒に羊を追いかけているときでした。
イーヴァルディは、しるしに気がつくと、お父さんとお母さんの……
「とばして」
タバサは呟いた。
「その話はいい」
続けて呟かれた言葉で、俺はやっとタバサの言いたいことを理解する。
この『イーヴァルディの勇者』は、短編集のような形で綴られている。
本の前半には、ほんの数ページで終わるようなごく短い物語が七つ。後半部分にはイーヴァルディが竜に
前半の掌編群はガリア各地の伝承を切り取った物語なのだが、子ども向けに話を簡略化し過ぎたせいか、逆にわかりづらくなっている。展開が唐突すぎるし、昔話に特有の理不尽な部分が目立ってしまっているのだ。
にもかかわらず何度も読み返したくなる魅力を持っているのが、この本の不思議なところなのだが。
「じゃあ、次の話から読もうか」
最初に語られていたのは、しるしを見出したイーヴァルディが故郷の村を旅立つ話。
俺はこの別れの不条理さが気に入っているのだけれど、タバサは好きじゃないらしい。家族を
「ルーの話」
考えるような間を置いて呟いたタバサに、俺は笑ってしまった。
領地の教室を思い出したからだ。
領民たちに読み書きを教えるとき、俺はしょっちゅうこの本を教材にしていた。単純に俺が好きだったのもあるが、『イーヴァルディの勇者』の題材になっている伝承は、誰もが知っている有名なものばかり。ひとつひとつの話も短く、読み書きの教材として取り上げるのにちょうどよかったのだ。
そんななか、タバサが所望したルーの話……本の後半を占める、竜に掠われた少女を巡る物語は、一番人気の話だった。
大人も子どもも男女を問わずこのお話が大好きで、俺が『今週はルーの話をやるよ』なんて言うと、みんな勉強というより物語を聞くために教会の集会場に集まってくるのだった。
タバサが薄く目を開け、こちらを見る。
「ごめん、俺も好きな話だったから」
嘘じゃない。
この本に限らず、『イーヴァルディの勇者』の話は、だいたい好きだ。
タバサは訝しむように俺を見つめていたが、やがて目を閉じた。
俺は不思議と穏やかな気持ちで、物語を読み始める。
――ある冬、イーヴァルディはノルシエの村にやってきました。
何日も何日もひとりで荒野を歩いていたので、とてもお腹が空き、喉はからからにかわいていました……
――イーヴァルディは怖くて泣きそうになりました。皆さんが、暗い洞窟にたった一人で取り残されてしまったことを想像してください。どれほど恐ろしいことでしょう!
しかもこの先には、恐ろしい竜がひそんでいるのです。
でもイーヴァルディはくじけませんでした。
己に何度も、イーヴァルディは言い聞かせました。
『ぼくならできる。ぼくは何度も、いろんな人間を助けたじゃないか。今度だってできるさ。いいかイーヴァルディ。力があるのに、逃げ出すのは卑怯なことなんだ』
イーヴァルディの台詞を終えて息をつき、ページを捲ろうとして、ふと気づく。
タバサの呼吸。
いつの間にか、深く、穏やかなものに変わっている。
本から目を離して、タバサの様子をそっと窺う。相変わらず神秘的に美しいその顔は、本を読み始めたときより力が抜けているように見える。
こうして朗読を止めても反応がないことからしても、彼女はほんとうに眠ってしまったようだった。
本を閉じ、その寝顔をじっと見つめる。
ああ、かわいい。
タバサはかわいい。
無防備な寝顔はいつもよりずっと幼く見えて、無垢で、愛らしくて、俺はもう目が離せない。
かわいい、と口から零れる。
無意識に呟いてしまう。何度も。
かわいいかわいいかわいい……と、俺はバカみたいに繰り返す。
透き徹った青い髪が、静かに閉じられたまぶたが、長い睫毛が、雪のように白い頬が、つややかな唇が……。
――キスしたい。
「いやいやいや……だめだってば」
突然頭に浮かんだ不埒な考えに、俺は全力で抵抗する。
寝てる女の子にそんな、しちゃいけない。犯罪だ。たとえバレなくっても許されない。
――いや、でも、才人はしたじゃん。『風のアルビオン』で。
「バカか俺は。ルイズの件とは話が別だ」
あれは結局ルイズが寝てるフリしてたわけだし、あの時点でふたりはもうお互いのことが好きだった。
この状況で俺が同じことしたら死刑にしかならないわけで。
でも……、と俺は思う。
思ってしまう。
でも、俺の好意は、タバサに伝わっているはず。
だって彼女は『惚れ薬のもうひとつの効果』について、キュルケから聞いてるはずだから。
『もともと好きだった相手への関心を失う』という効果を説明するために、俺の『もともと好きだった相手』に言及しないわけがないから。
そうして、自分を好いてる男をこんな格好で部屋に上げて、こんな無防備な寝姿を見せつけるなんて、それはもう……誘ってる? 合意ってことでいいんじゃないか?
んなわけねえだろ、とわずかに残った俺の冷静な部分が叫ぶ。無視する。俺はじりじりとタバサに顔を近づける。
その芸術品じみた愛らしいかんばせ、新雪のように清楚な印象を与える白い頬が、かすかに赤くなっていることに気づく。
『あつい』と言ってたのに、俺の言いつけた通り首元まで毛布をかぶってるせいか。
それは、だとしたら、かわいそうだ。
俺の責任だ。
毛布を少しだけずらしてやる。
そうして当然、隠されていたその細く白い首、鎖骨、薄い肩、シュミーズの肩紐までがあらわになって、あまりにも扇情的なその光景に目を灼かれて……奪うのよ、なんて無責任なキュルケの言葉が頭のなかに
「だめだ。もう無理。超かわいい」
俺は、
◆
「いけない、忘れてた」
夏の日差しが降りそそぐアウストリの広場。
地面に腰を降ろしてフレイムの鱗を磨いていたキュルケは、誰にともなく呟いた。
「惚れ薬の副作用、タバサにはまだ黙ってるのよね。そのこと、クルトに伝えるの忘れてたわ」
キュルケは、ゲルマニアの専門店から取り寄せた専用のブラシで使い魔の背中を丁寧に擦りながら言葉を続けた。
さまざまな覗きの現場に駆り出してきたこの忠実な使い魔には、事情を説明してやってもいいと思ったのだ。
「どうしましょ。クルトのやつ、自分の気持ちが伝わっちゃってるって勘違いして、おかしなこと仕出かさなきゃいいけど」
ともすれば、彼はうっかり告白しちゃうかもしれない。
あるいは逆に『好意が伝わった上でこの反応なのだ』と独り合点して、フラれたと思い込んでしまうかも。
「ま……、いいか。それはそれで面白そうね」
自分は失恋したのだと勘違いして猛烈に落ち込むクルトを想像して、キュルケは頬を緩めた。
そうして次に、自分の好意が伝わっている前提で
いずれにせよ、愉快なことは変わらない。
明日にはタバサとクルトを問い詰め、子細を聞き出さねば。
タバサは口を割りそうもないが、クルトだったら吐かせることができるだろう。というか、絶対吐かせる。あれだけ背中を押してやったのだ。話を聞く権利が、自分にはあるはずだ。
……とはいえ、残念ながら、キュルケ好みの真に
「好きな女の子を押し倒すような根性、どうせ彼にはないものね」
それでも明日が楽しみなことは確かで、くすくす笑いが止まらない。
主人の笑い声に反応してか、フレイムも口の端からちろちろと火を零す。
キュルケはいっそう丁寧に、自分の爪にそうするのと同じくらいの情熱を籠めて、使い魔の赤い鱗を磨く。
当のクルトに予言されている苦難も悲劇もまるでおかまいなしにキュルケは笑い、陽気な鼻唄を奏で始めた。