雪風の姫と砂の城   作:もちもちゼリーちゃん

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第四章の更新は今日まで。
今日は二話投稿で、このあと幕間の話を投稿します。




66.タバサの午睡

 

 クルトが部屋を訪ねてきたとき、タバサはベッドに横たわっていた。

 痩せた体を杖のように硬くまっすぐにして、じっと天井を見上げていた。

 彼女が浅い眠りから覚めて、とうに一時間は過ぎたころだった。

 

 

 タバサたちが女王アンリエッタを王宮に送り届け、学院に戻ってきたのは午前の授業時間の半ば。

 オールド・オスマンへの報告はルイズに任せ、キュルケとともに軽い食事を済ませたタバサは、部屋で休むことにした。

 ラドグリアン湖での任務に続いて女王の誘拐事件を解決し、さすがの北花壇騎士(シュヴァリエ・ド・ノールパルテル)『七号』も疲れていたのだ。

 その気になればもう一昼夜寝ずに活動できる自信があった……シルフィードを召喚する以前の任務では、丸二日間も不眠不休で動き続けたこともある……が、眠れるなら寝ておくべきだ。

 特にあの誘拐事件では切り札のひとつであるトライアングル・スペル『氷嵐(アイス・ストーム)』を使い、一度は精神力が尽きかけたのだから。

 

 太陽が天頂にさしかかった頃、タバサは制服から清潔なシュミーズに着替え、ベッドに潜り込んだ。

 寝る前の読書が習慣となっている彼女には珍しく、本の一冊も持たないで。

 

 ……あるいは、それが良くなかったのかもしれない。

 空想の物語であれ無味乾燥な知識の集積であれ、タバサは本を読むべきだった。

 いくら疲れていたとしても、眠りにつく前に、彼女を取り巻く残酷な世界から無防備な心を遠ざけてくれる()()()が必要だったのだ。

 

 

 悪夢。

 タバサにとって、それは馴染み深い経験だ。

 

 母が心を壊される瞬間を目の当たりにしたあの日以来、彼女の眠りにはふたつの恐怖がつきまとっている。

 ひとつは現実の恐怖。いつ叔父王(ジョゼフ)が送ってくるかもわからない刺客や、従姉姫(イザベラ)が気まぐれに与える任務が生み出す命の危険。

 死ぬこと自体は怖くない……と、タバサは自分に言い聞かせている……が、復讐を果たせず死んでしまうことは何よりも怖い。

 体に染みついたこの恐怖のせいで、タバサはめったに熟睡できない。

 

 もうひとつは空想の恐怖。タバサ自身が生み出す幻。

 悪い夢。

 夢にあらわれるのは、例えば心を壊された母の姿であり、母が毒薬を飲むあの瞬間であり、あるいは彼女自身は見たことがないはずの、父が毒矢に倒れる光景である。

 父の死を知ってからヴェルサルテイルの晩餐に呼ばれるまでの、あの不安に満ちた二日間に閉じ込められたこともある。

 

 キュルケという友人を得てからは悪夢の頻度がずいぶんと減り、シルフィードを召喚して以降は夢を見ること自体が珍しくなっていたけれど、タバサにはいまだに、必ず悪夢を見てしまう夜がある。

 

 それはオルレアンの屋敷で過ごす夜。

 タバサが母の部屋を……かつて『シャルロット』と呼ばれていた少女が『タバサ』と名付けた人形が大事に守られている、心を病んだ母の部屋を訪れた日の夜。

 タバサは決まって、怖い夢に襲われる。

 そうして彼女は夜中に目を覚まして、翌朝、執事のペルスランが起こしに来てくれるまで、ベッドでひとり本を眺めているのだ。

 

 たとえ屋敷を離れても、数日の間は悪夢が続く。

 だからその日、魔法学院の寮で眠ったタバサの前にヴェルサルテイルの晩餐会の光景が広がり、母が自分の手から毒酒の杯を奪ったとき、彼女が抱いたのは『ああ、やっぱり』という諦めの感情。

 恐怖を抱いているはずなのに、心は奇妙に平静だった。

 

 毒を飲み下した母が意識を失ったところでその夢は終わり、タバサはベッドで目を開ける。

 窓の外ではまだ日が高く昇っていたので、タバサは着替えて部屋を出ることにした。

 

 外は明るいような暗いような不思議な光景。晴れてるのに空が灰色。空気が妙に生温く、風がちっとも吹いてない。

 人っ子ひとりいない広場を歩いて、タバサはアルヴィーズの食堂に着く。

 

 食堂には生徒がぎっしり詰まっている。でも誰の名前も思い出せない。見知った顔がひとつもない。

 不安になったタバサが食堂を見渡すと、長い長いテーブルの端にルイズがいる。

 友達になったばかりの同級生。鮮やかなピンクブロンドの長髪が目印の、意地っ張りな女の子。

 ルイズを見ていると、なぜだろう、タバサは急に怖くなって、机の間を駆けてゆく。

 

 でも、近づけない。

 走っても走ってもルイズのもとに行くことができない。

 呼吸ばかりが苦しくなって、涙が出そうで、タバサはとうとう杖を振ろうとするけれど、伸ばした手の先で揺れてるのは女の子のお人形。

 タバサ――いや、シャルロットだ。

 

 オルレアンの屋敷で母に守られているはずのシャルロットを両手に抱え、タバサはその場にへたりこむ。

 遠く離れているルイズがワイングラスに手を伸ばす光景が、なぜか近くに、鮮明に見える。

 やめて、と叫ぼうとしたそのとき、ルイズの後ろから男の手がひょいと伸ばされて、グラスをひったくった。

 クルトだ。

 彼はワインをひと息に飲み干し――タバサは目をつむって顔を背けたが、彼の姿は変わらず彼女の前にあり続けた――何事もなかったかのようにルイズやその使い魔の少年に話しかけている。

 

 全身から、力が抜けた。

 自分は、いま、とてつもなく安堵しているのだと、タバサは遅れて理解した。

 

 タバサは両手にシャルロットを抱えたまま、ルイズたちのもとへ向かう。

 今度はなんの問題もなく歩いて行ける。

 

 その途中にキュルケがいて、知らない男の子とくっついてなにか話している。タバサが近づいても見向きもしない。存在自体に気づいてないみたいだ。

 そんなに大事な話なのかと耳をそばだててみるけれど、なぜだか言葉が聞き取れない。まるで外国語で話しているかのよう。

 タバサは仕方なしにキュルケを置いて歩いていく。

 

 そうしてルイズのすぐそばに立ったタバサは、しかし、また急に怖くなった。

 これ以上、ここにいてはいけない気がした。

 タバサはルイズに呼びかける。彼女の隣に座るサイトに、クルトに呼びかける。

 けれども彼らはタバサなんか存在しないかのように、彼女を無視してどこか遠くに行ってしまう。

 

 あたりを見回してみるけれど、食堂にはもう誰もいない。キュルケさえも消えてしまった。

 そこはオルレアンの屋敷だった。

 お人形のシャルロットを抱えたタバサは暗い廊下を歩き、歩き、ひたすらに歩いて、母の居室の扉を見つける。

 

 いけない。母さまが目を覚ましてしまう。シャルロットを返さないと……そう思ったときにはタバサの手からお人形が消えている。扉の向こうで半狂乱の母の声。娘を守ろうと必死に戦っている母の手は、しかしタバサを抱きしめない。

 ここはタバサの居場所じゃない。

 タバサはシャルロットじゃないのだから。

 

 それからタバサはどことも知れない暗い森を歩き、夜のラドグリアン湖に立っている。

 水の精霊を退治しに来たのだ。

 そばにはキュルケがいる。ルイズも、その使い魔のサイトもいる。

 クルトも。

 いつの間にか彼はタバサの手を掴んでいて、ぽきりと骨を折ってしまう。

 彼はぽきぽきとタバサの骨を折りながら、しかしタバサを見ていない。キュルケやルイズと楽しそうに話してる。

 

 激昂したキュルケが眩しい炎を投げつける。キュルケはお人形を抱えている。お人形の名前はタバサ。タバサはキュルケの親友だ。

 だけどクルトはタバサの指を折っているのではない。なぜって彼はタバサをとても心配していて、タバサが傷つくことをひどく恐れているようだから。

 その証拠に、あのタルブの夜では、昔の母さまみたいにタバサを温めようとしてくれた。フリッグの舞踏会で、講堂の大掃除のあとで、任務に赴こうとしているタバサを、あんなに怯えた目で見てくれた。心配だと伝えてくれた。アルビオンでの戦いでタバサが怪我したと知ったクルトは、顔面を蒼白にして彼女のもとを訪れたのだ。

 彼が傷つけてるのはタバサじゃない。

 

 ――じゃあ、彼があのとき傷つけて、あのときあんなに痛くて怖くて泣いてしまった()()()は、だれなんだろう? この光景を見ている()()()はだれなんだろう?

 

 炎の輝きが砂のお城の向こうに消える。

 お城から出てきた剣士が長剣を振り、切り裂かれる()()()はシャルロット――ではない。

 シャルロットは母さまが守ってるお人形。

 

 タバサ――ではない。

 ()()()を見つめるクルトの瞳は、タバサに向けられたものじゃない。彼はタバサを傷つけない。彼に傷つけられている()()()はタバサじゃない。

 

 ここにいるのは、だれでもない。

 タバサですらないのだ。

 

 タバサでない()()()はキュルケの親友でもなければルイズの友達にもなり得ない。

 けれども()()()はシャルロットでもなく、母さまの部屋にもいられない。

 

 ()()()はどこにも行けない。

 いてはいけない。

 

 砂のお城が儚く崩れ、胸に穴を空けたクルトが棒のように倒れている。

 彼が死ぬのは()()()のせいだと、なぜだかわからないけど確信する。

 血の海に沈む彼から逃げる。逃げる。逃げる。

 

 気がつくと、まわりにはだれもいない。

 深い暗い夜の森をさまよっている。

 森の奥には異形の竜が待っている。

 そこにいけば、殺してもらえる。

 あとかたもなく食べてもらえる。

 それが唯一の希望に感じて、かつてシャルロットだった――そしてもはやタバサでもない彼女は、ひとりぼっちで歩き続ける。

 夜の空に月はなく、狩人の導きさえ受けられずに。

 ようやく出会えた巨大な化け物(キメラドラゴン)は、彼女を頭から飲み込んでしまう。

 

 

 目を開けた。

 全身に汗を滲ませて、体をこわばらせて、ただただ天井を見つめて荒い呼吸を繰り返す。

 やがてタバサは自分が夢を見ていたことを理解して、泣きそうなくらい安堵して……、ばかげてる、と思う。

 いったい、なにを不安に思っているのか。

 

 ラドグリアン湖の夜、クルトに指を折られたとき、タバサは恐怖していた。

 その恐れは指の痛みに対してではなく、彼の瞳に……タバサではない誰かを見ているかのような冷めた瞳に抱いたものだ。

 

 そうしてその後、彼が薬のせいで心を狂わされたこと……よりにもよってルイズを()()()自ら薬を飲んだことを聞かされたとき、タバサはひどく動揺した。

 シャルロットという名前をなくしたあの瞬間を思い出して、頭がまっしろになってしまった。

 

 だけど、だからって、こんな夢。

 ばかげてる。

 彼は治った。

 もう、怖がらなくていいのだ。

 

 必死に自分に言い聞かせても、震えは(おさ)まらなかった。

 夢に見た光景がいくつも頭のなかに浮かんで、自分を不安にするだけの恐ろしい想像がどうしても止められなかった。

 

 父の死を、あるいは母が壊れる瞬間を夢に見たときでさえ、タバサがこれほどまでに恐怖に囚われることはない。

 それは彼女が父母の喪失に慣れてしまったからであり、その別れには必ず怒りと憎しみがついてきたからだ。

 怯える自分を冷たい復讐心で()てつかせることができたからだ。

 

 しかしクルトが狂わされた事実に対して、タバサは怒りを抱けなかった。

 彼が庇ったルイズはタバサの大切な友人だった。惚れ薬の制作者であるモンモランシーはまるで自分の傷のようにタバサの傷を痛み、懸命に治してくれた。

 彼が惚れ薬を飲んだのは単なる事故で、復讐すべき相手など、初めからいない。

 

 クルトを刺したガーゴイルに、あの石像を操っていた未知の存在に怒りを向けようとするけれど、あまり上手くいかなかった。

 タバサを真に(さいな)んでいる恐怖は、結局のところ、彼が刺されたあの光景とは別の場所にあったからだ。

 タバサは己の抱いた恐怖を、ひたすらに純粋な恐怖として受け止めねばならなかった。

 

 キュルケがそばにいる間は平気だったけれど、ひとりきりになった途端、タバサは己の心を持て余した。

 それを誤魔化すように眠りについて、結果、このざまだ。

 昼の日差しが差し込む自室で、タバサはベッドのなかで全身を硬くこわばらせる。

 ふだんなら、悪い夢を見たときは無理矢理にでも本を開いて文字の世界に逃げ込むのだが、それすらもできなかった。

 ベッドを出たらまたあの夢が始まるんじゃないかと怖くて動けなかった。

 

 タバサは待った。

 キュルケでもルイズでもシルフィードでも、誰でもいい。いっそイザベラからの使いでもかまわない。

 自分をこの恐怖から解き放ってくれる誰かがあらわれるのを、震えながら、じぃっと待ち続けた。

 

 扉の前に人の気配を感じたのは、そうして待ち続けて、もはや世界中の誰もタバサを覚えてないんじゃないか……と、夢に見た、子どもじみた非現実的な恐怖が喉元までせりあがってきたころ。

 遠慮がちなクルトの声に名前を呼ばれた瞬間、硬直が解けた。杖を取って『解錠(アンロック)』を唱えた。

 扉が開く前にガウンを羽織るだけの判断ができたのは、自分でも意外だった。

 

 

 

 ――ある冬、イーヴァルディはノルシエの村にやってきました。

 何日も何日もひとりで荒野を歩いていたので、とてもお腹が空き、喉はからからにかわいていました……

 

 ぎこちない朗読を聞きながら思うのはクルトのこと。

 彼がタバサの身を案じる理由。

 タバサの境遇を知っている理由。

 

 彼はタバサがガリア王国の北花壇騎士だと知っている。

 そうでなければ、任務に赴くタバサに『気をつけて』なんて言うはずがない。

 たかだか数日授業を休んだだけの同級生に、『おかえり』と、あんなにうれしそうに言ってくれるはずがない。

 

 彼の正体について、タバサはずっと思い悩んでいた。

 彼を信じてしまっていいのか。あるいはもっと警戒し、距離を置くべきか……冷静に考えれば、答えは決まっていた。

 秘すべき身分を知られている以上、警戒しないわけにはいかない。いくら彼がキュルケの友人とはいえ、心を開いていいわけがない。

 けれども気がついたときには……いや、きっと最初から……タバサは彼の不安を心地よく思っていた。

 フーケによる『破壊の杖』盗難を解決した晩の、フリッグの舞踏会。彼と踊っている最中に、イザベラからの手紙に気づいたとき。まるでタバサを放すまいとしているみたいに力強く握られたその手の痛みは、熱は、ずっと消えずに残っていた。

 

 タバサは彼を信じたかった。 

 信じるために考えた。

 タバサが彼女らしくもなくルイズやキュルケから彼の話を聞き出そうとしたのは、彼を信じたかったからだ。

 そうして、この惚れ薬を巡る騒動と女王アンリエッタの誘拐事件を経てようやく、タバサは彼を()()できたのだった。

 

 クルト・ド・コールスは、ルイズを守る騎士なのだ。

 

 ルイズは特別な存在だ。四大系統のいずれにも属さない魔法を唱え、伝説の使い魔を従える彼女は、現代に蘇った『虚無』の担い手。

 クルトの役目は、そんな彼女を守る騎士。

 まわりの誰にも、きっとルイズにもその立場を明かしていない、タバサと同じ秘密の騎士。

 

 彼は学院の同級生という立場に身を置くことで、自然と彼女の近くにいられるようにしたのだろう。

 いや……、あるいは因果が逆かもしれない。

 ルイズの同級生のなかから、彼女の騎士が選ばれたのだ。

 その時期はきっと、春の使い魔召喚の儀式のすぐ後。

 ルイズがガンダールヴを召喚し、虚無の担い手であることが明らかになったのがきっかけで、彼女に護衛の騎士がつけられるようになったのだ。

 

 そして彼の背後にはヴァリエール公爵家か、もしかしたらトリステイン王室がいるのかもしれない。

 アルビオンに遣わされたアンリエッタの依頼や今回の誘拐事件で彼がルイズと同行していたことを考えると、やはり王室が関わっていると見るべきか。

 

 タバサの身分を知っていたのも、春先から急に視線を感じるようになったのも、そう考えればすべて説明がつく。

 なんてことはない、彼はタバサの身分を教えられていたのだ。

 なぜって、ルイズの護衛を任務とする以上、彼女のまわりの不審人物を警戒するのは当然だから。

 『タバサ』なんてあからさまな偽名を使っている青髪の留学生は、学院の不審人物リストの筆頭だから。

 

 タバサが北花壇騎士の一員であることは、学院ではオールド・オスマンしか知らないはず。しかし王室からルイズの護衛を任じられたであろうクルトにその情報が開示されていたとしても、おかしくはない。むしろ当然だ。

 彼はオールド・オスマンの口から、あるいは王室の上層部から直接、タバサの身分を明かされたのだ……。

 

 その物語は、矛盾と(ほころび)びに溢れていた。

 半分眠っているようなタバサの頭でも、そのくらいすぐにわかった。

 たとえば、アンリエッタから依頼されたアルビオン行きの任務。もし彼がルイズの騎士だったら、『女神の杵』でフーケたちに襲撃されたとき、囮になることを選んでルイズのそばを離れるはずがない。裏切り者と(おぼ)しきワルドが、ルイズと一緒にアルビオンに向かうというのに。

 たとえば、あの『宝探し』の小旅行。もしタバサがルイズをひっぱって来なければ、彼はルイズを置いて学院を離れていただろう。しかも、彼女の使い魔であるサイトを……虚無の担い手にとって最高の護衛であるガンダールヴを連れ立って。ルイズを守る任に就くものが、そんなことをするはずがない。

 

 そもそもの話、彼は弱すぎる。

 同級生のなかではマシなほうだが、伝説の虚無の担い手という重要人物の護衛を任せるにしては、明らかに実力不足だ。

 

 けれども、タバサは、いくつもある矛盾をまるごと心の奥底に放り込んだ。

 それらしい物語が組み立てられれば満足だった。タバサはなにより安心したかった。クルトという男の子を疑いたくなかった。彼が向けてくる気持ちを無防備に受け入れたかった。

 すぐそばにいる誰かが自分を心配してくれるのは、抗いようもなく心地よかったから。

 

 心配……。

 その言葉を口のなかで反芻して、タバサは小さく笑う。

 それから、慌てて笑顔をひっこめる。

 タバサのために一生懸命『イーヴァルディの勇者』を読んでいるクルトはその変化に気づかなかったようで、ほっとしたような寂しいような、不思議な気持ちが胸をくすぐる。

 

 クルトがタバサの身を案じる理由を()()するには、もう少しだけ物語が必要だ。

 短くてわかりやすくて、素敵な物語が。

 

 タバサの身分を知っているからといって、すなわち彼女を心配することにはならない。

 ガリア王家の血を引くタバサに見当違いの嫉妬を向けたり、媚びへつらってきたり、逆に(おそ)れて近寄らなくなったりする可能性もある。タバサの青髪の意味に気づいた学院の生徒や教師の一部は、たいていそんな反応を示した。

 ルイズの護衛を務める彼であれば、タバサを警戒して距離を置くのが自然だろう。

 

 しかし彼はなんだか不器用にタバサに近づき、奇妙な必死さでタバサを心配しているのだ。

 理由は至極単純で、『クルトは優しいから』。

 それより複雑な物語は、タバサには要らない。

 この物語を裏付ける証拠は、すでにいくつも見つけている。

 

 クルトの読み上げる『イーヴァルディの勇者』を聞きながら、しかしタバサは、彼女自身の紡いだ甘い物語の世界に浸る。

 穏やかな眠りに落ちていく。

 恐怖も不安も遠く離れた、温もりに満ちた夢の世界に。

 

 

 

 ――でもイーヴァルディはくじけませんでした。

 己に何度も、イーヴァルディは言い聞かせました。

『ぼくならできる。ぼくは何度も、いろんな人間を助けたじゃないか。今度だってできるさ。いいかイーヴァルディ。力があるのに、逃げ出すのは卑怯なことなんだ』……

 

 優しく本を閉じる音で、タバサは目を覚ました。

 呼吸は穏やかに、まぶたも閉じたまま、そうっと耳をそばだてる。

 かつて母に本を読んでもらっていた、愛しい、懐かしい日々と同じように。

 

 シャルロットと呼ばれていた彼女を寝かしつけるために、母はいろんな物語を聞かせてくれた。

 まだ幼かった彼女が物語の最後に辿り着けることはめったになく、たいてい、途中で眠ってしまった。

 しかしそれで母が本を閉じると、彼女は耳聡くその音を聞きつけ、目を覚ますのだ。

 

 目を覚ますといっても、そのまぶたは閉じられたまま。

 幼いシャルロットは、寝たふりをしながら母の気配を聞くのが好きだった。

 自分が眠ってもしばらくは部屋にいてくれて、子守唄を口ずさみながらそうっと髪を撫でてくれる母が大好きだった。

 そうして母を感じながらふたたび夢の世界に行くのが、シャルロットの幸福だった。

 

 たまにシャルロットが寝付く前に母が離れてしまうことがあって、そんなときは(かえ)って嬉しかった。

 シャルロットは青い瞳をぱっちり開けて母を呼び止め、『まだお話の途中よ』とわがままを言う。

 すると母は困ったように笑い、けれども必ず、本の続きを読んでくれるのだ。

 

 ベッドの隣に座るクルトの気配に、タバサは幼い自分を思い出す。もう少しだけ寝てるふりをしようと決める。

 そうして彼が腰を上げたら、わがままを言うのだ。『まだ途中』と――、

 

「かわいい」

 

 不意に耳に届いた呟きに、タバサの心臓はおかしくなった。

 かわいい、かわいいと彼は繰り返す。そのたびに脈拍が奇妙に早く、強くなり、タバサは体が内側から壊れそうな不安な錯覚に襲われる。

 

 ああ、これだ、とタバサは思う。

 

 クルトがタバサに向けているこの気持ち。

 これがタバサをおかしくさせるのだ。

 惚れ薬の一件でタバサがあんなに怯えてしまったのは、彼の……キュルケだったら『情熱』と表現しただろう、いつまでたっても慣れることのできない、このおかしな態度が消えたことも原因だった。

 

 けれどもタバサは、彼のこの態度を扱うための完璧な物語を持っていた。

 彼に『イーヴァルディの勇者』を読んでもらうより早くに、安心できるお話を紡いでいた。

 

 それはごく単純な物語……彼は、女の子が苦手なのだ。

 だからタバサみたいなやせっぽちのちびの色気のない相手と話してるときでもそわそわと落ち着かなくなり、心臓を早く脈打たせているのだ(優れた風の使い手であるタバサは、静かな環境であれば、近くにいる人間の脈拍の乱れを聞き取ることができた。タルブの納屋で一緒に過ごした夜でも、彼の不思議な緊張に気づいていた。今だって、彼の鼓動がおかしなことは、彼を部屋にあげた瞬間から手に取るようにわかっている)。

 

 オルレアンに向かう道中、キュルケの思い出話を聞いてるときに閃いたこの物語に、タバサは相当の自信を持っていた。

 彼は幼い頃からキュルケに翻弄されているらしかったし、彼自身にも直接確かめた。

 先ほど『女の子が苦手?』と尋ねてみたら、『得意ではない』と、実質的な肯定とも取れる答えが返ってきたのだ。

 

「いやいやいや……だめだってば」

 

 思い悩むようなクルトの声。

 なにを葛藤しているんだろう?

 

「バカか俺は。ルイズの件とは話が別だ」

 

 タバサは、心臓が冷たい手にぎゅうっと掴まれたような、しかし同時に重たい鎖から解き放たれたような、得体の知れない感情に飲み込まれた。

 そうして、彼女が紡いできたクルトに関する物語をきれいに組み合わせて、また新たな()()に達する。

 幼いころから無数の物語に浸ってきた空想家のタバサにとって、それはさほど難しい作業ではなかった。

 

 クルト・ド・コールスは『優しい』『ルイズの騎士』で、『女の子が苦手』な男の子。

 ルイズやキュルケから聞いた話によると、彼は一年生の頃からやたらとルイズを手助けしたがって、キュルケの誘惑には動揺しながらも、恋人になることだけは(かたく)なに拒否していた。

 それだけでも十分な証拠と言えるけれど、何より、彼はルイズのために命を投げ出した。

 一度はルイズに代わって毒酒を飲み――それはタバサの知っている限り、最大の献身だ――さらに昨夜の戦いでは、彼はルイズに迫るガーゴイルを、体を張って食い止めたのだ。

 

 もし彼が心底から任務に忠実な、己の忠誠心に酔える(たぐ)いの……たとえば同級生のギーシュや、亡き父を慕うカステルモールのような……人間であれば、この行動にも納得できた。

 しかし彼は家柄からして忠誠とは縁遠く、タバサ自身の印象としても、任務や主君への忠誠というより自分の内側にある信念や誇りに従う性格に見える。

 

 そんな彼の無謀な、不可解な行動を上手に説明してくれる物語を、タバサはひとつだけ想像できる。

 彼は、ルイズを好きなのだ。

 きっと、ずっと恋しているのだ。

 

 なにせルイズはかわいい。

 人間の美醜というものにあまり興味のないタバサをして、時折どきりとさせられる魔性の魅力を持っている。

 クルトはそんなルイズと幼い頃から友達で、しかも入学した当初からずっと世話を焼かされている。

 自分みたいな子どもっぽい同級生にも緊張するような、女の子が苦手な彼が、ルイズを好いてしまわないはずがない。

 好きだから世話を焼いてたのか、世話を焼くから好きになったのか、わからないけれど……その両方、ということだってあるかもしれない。

 

 彼の気配が、だんだん近づいてくる。

 タバサはどうしていいのかわからず、目を開けられないまま、じっと彼を待っている――待っている? なにを? 自分は、なにかを期待しているとでもいうのだろうか?

 突然、毛布を降ろされた。

 汗ばんだ肌が外気に、視線にさらされ、身を(すく)めそうになる。耐える。タバサは動かない。動けない。先ほどタバサを恐怖の(くびき)から解放してくれたクルトの存在は、いまや彼女をきつく(いまし)めていた。

 

「だめだ。もう無理。超かわいい」

 

 なんだか頭の悪い呟きが胸に響いて、気が遠くなる。

 やっぱり彼は女の子が苦手なのだ。だってそうでもなければ、こんな無口で無愛想で女の子らしい魅力なんか欠片もない自分に『かわいい』なんて、思うわけがない。

 だけど、たったこれっぽっちのことでひどく動揺してしまう自分も、相当に『男の子が苦手』なんじゃないか……。

 でも、仕方ないじゃないか。いままで男の子とまともに話したことなんてなかったんだから。

 でも、タバサには目的があるのだ。父と母の(かたき)を取らなければいけないのだ。それを果たすまではふつうの女の子らしい感情なんか要らない。欲しがっちゃいけない。

 でも、この気持ちは耐えがたかった。彼に見られてると思うだけで、かわいいと囁かれるだけで、頭がふわふわした。

 

 肩を掴まれる。

 悲鳴をあげそうになるけど、我慢する――だから、どうして我慢なんか。

 わからない。

 ただ、身を任せてみたいとタバサは思う。

 

 彼が顔を近づけて、焦らすようにゆっくり、やがて呼吸を肌で感じられるほどの距離になって……、離れていく。

 思い直してくれたのだ。

 

 タバサは安堵する。

 落胆する自分から目を背けるようにして、安堵した理由をかき集める。

 

 だって……、まずは、そうだ。タバサには目的がある。男の子のことなんか考えてる暇はない。

 それにこれはクルトにとってもよくないことだった。彼はルイズが好きなのだから。他の女の子に手を出してちゃいけない。

 いまの行為は、言葉は、一時の気の迷いだったのだ――そう考えたほうが安心できるので、タバサはそうした。

 いままで彼が与えてくれたものは温かくて、それをこれからも無防備に受け止められることのほうが、他の可能性を考えるより大切なことに思えた。

 好きとか恋とか情熱とか言われても、いまのタバサには受け取ることができない。だから彼はルイズが好きで、タバサに対しておかしくなるのは、たんに女の子が苦手なだけ。たいした意味はない。

 そういう物語を、タバサは信じることにした。

 

 がたがたと椅子を引きずる音がして、クルトが立ち上がる。

 彼は謝罪の言葉をいくつも囁き、タバサに背を向けて、

 

「まだ途中」

 

 タバサは呟き、呟いてから、ぎゅうっと強く目をつむった。

 かつて母にそうしたときとは……あるいはラドグリアンの湖畔の森でキュルケに甘えたときとは違って、その反応を(うかが)うことはできなかった。

 こちらを振り返って困惑しているだろうクルトの顔を見つめ返すことは、できなかった。

 

「と、途中? なにが?」

 

 クルトは上擦った声で言う。

 タバサは答えなかった。

 自分は何の続きを求めているのか、どうしてこんなことを言い出したのか、タバサ自身、さっぱりわからなかった。

 

「……ああ、本か」

 

 タバサは頷いた。何度も頷いた。

 

「ごめんって。話の途中で帰っちゃったら、そりゃ怒るよな。起きてるのに気づかなくて、その、ごめん、俺、変なこと……」

「寝てた」

「え……、あ、そうか。よかった」

「いま起きたところ。はやく続き読んで」

 

 タバサは目をつむったまま、早口に言う。

 その要求の幼さに自分でも恥ずかしくなるが、そうでもしなければ、もっと恥ずかしいことが知られてしまう。

 寝たふりをして、彼を受け入れそうになっていたなんて。

 

 クルトは安心したように小さく笑い、タバサに柔らかく問いかけた。

 

「えっと……じゃあ、どこから読もうか? タバサがいつから寝てたのか、俺、気づかなくってさ」

 

 

 

 それから程なくして、クルトは『イーヴァルディの勇者』を読み終えてしまった。

 彼は最後の一行を読み上げると、そそくさと立ち上がる。

 

「それじゃ、俺もそろそろ休むよ。長い間邪魔してごめんな」

 

 足早に部屋を出て行こうとした彼は、しかし扉の前で立ち止まる。

 鍵がかかっていたのだ。彼を部屋に招き入れた直後、無理矢理に目を合わせたとき、タバサは彼を逃がさないために素早く『施錠(ロック)』を唱えていた。

 彼は礼儀に(のっと)った仕草で杖を抜き、『解錠(アンロック)』を唱える。開かない。トライアングルのタバサが手加減なしに唱えた『施錠』には、ラインの彼では歯が立たない。

 

 クルトはタバサを振り返る。

 ようやくまともに見ることができた彼の困ったような顔に、タバサは甘えたくなった。もうさんざんに甘えたというのに、幼い欲求は底がなかった。

 タバサは横たわったまま枕元の杖に手を伸ばし、軽く振ろうとして、落とした。

 

 クルトは慌てて駆けより、杖を拾い上げる。

 臣下が主人にそうするように、タバサの手に杖を持たせる。タバサはまた杖を落とす。

 

「タバサ……?」

「手が痛い」

 

 クルトの顔色が変わった。

 

「すまない! お、俺のせいだよな。まだ治ってないのにあんな戦いに巻き込んで……その上、また魔法を使わせて……すぐにモンモランシーを、いや先生呼んでくるから!」

 

 彼は扉に駆けていくが、当然、開けられないのだった。

 ノブをがちゃがちゃ鳴らしたクルトは『解錠』の呪文を繰り返す。しかしそれでも開かないので、真剣な瞳で振り返り、

 

「タバサ、この扉、壊していいか!?」

「だめ」

「頼む! ちょっと『錬金』するだけ! 後で直すから!」

「だめ」

 

 クルトは頭を抱えてうんうん唸り、部屋をうろうろ歩き回り、それから床に落とされた杖を拾い上げ、実に苦しそうにタバサに差し出した。

 

「ほんとうに申し訳ない。『解錠』だけ、なんとかお願いできないだろうか。扉が開いたら、急いで『治癒』できる人を捕まえてくるから」

「だめ。手が痛い」

 

 クルトは泣きそうな顔になって、がっくりとうなだれた。

 タバサは毛布をどけるとベッドの端にちょこんと座り、いつもの平坦な声で言う。

 

「あなたがする」

 

 一瞬間、クルトは戸惑ったようにタバサを見返した。けれどもすぐさま杖を握り直して、『治癒』のルーンを唱え始める。

 タバサはそんな彼の手に自身の手を重ね、杖を降ろさせる。

 

「だ、だめだったか?」

「だめ」

 

 そのままじっと視線を合わせていると、クルトの顔は見る間に赤くなっていく。だんだんと早くなっていく心臓の音が、うるさいくらいに耳を打つ。

 そんなに女の子が苦手なんだろうか。

 ふ……、と、軽く閉じられたタバサの唇の隙間から、湿った吐息が漏れた。

 

「……もしかして、タバサ、笑った?」

「笑ってない」

「でも……」

「気のせい」

「そっか、タバサが言うなら、気のせいだな。変な勘違いしてすまん」

「許す」

 

 タバサは右手を差し出した。

 クルトはタバサの前に跪き、その右手を恭しく持ち上げ、熱心にさすり始めた。

 

 それが期待に添ったものだったのか、それとも彼のおかしな遠慮や誤解によるものなのか、タバサ自身わからない。

 けれども不思議に心地よくて、タバサはずっと、彼に右手を預けていた。

 

 ガウンも着ていないシュミーズ一枚の格好を男の子に晒してることに気づいたタバサが慌てて毛布に潜り込んでからも、ずっと。

 自分の手より一回り以上も大きな男の子の手を毛布のなかに捕まえて、タバサは自分がひとりぼっちじゃないことを……大事に思われていることを、ずっとずっと、確かめていた。

 

 その手が持った熱の意味を、それ以上、けっして考えないよう気をつけながら。

 

 

 

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