「……そして一定の空間における空気の総量、すなわち空気の密度を、ここでは気圧と呼ぶ。この気圧が下がるとき、温度も下がってゆく。気圧と温度の関係……これが重要なのだ。『風』に『水』を足すことで氷の魔法となるのは、微細にして急激な気圧変化によって温度を下げ、水を凍らせているからだ」
教壇に立つ黒髪の男、『疾風』の二つ名を持つトリステイン魔法学院の教師、ギトーは
俺はポケットのロッキーを握り、あくびを噛み殺した。
ギトーの低くてくぐもった声は……本人は威厳があると思っているようだが……聞き取りづらくて、異常に眠気を誘うのだ。
「『ジャベリン』や『ウィンディ・アイシクル』が『水』ではなく『風』に分類されるのも、これが理由だ。氷の真髄は『風』なのだ。ゆえに氷の魔法を扱う場合、大気圧にも注意を払わねばならぬ。例えば、高度千メイルを飛んでいる軍用艦で……」
不意に、ギトーが言葉を切った。
彼は細長い指で教壇をこつこつと叩き、苛立ちをあらわに顔をしかめた。
教室の誰も、授業を聞いてなかったからだ。
ギトーの好みとはまるで裏腹に、教室の空気はすっかり弛緩していた。みな、来週に始まる夏休みが待ち遠しくてたまらないのだ。
俺の隣に座るルイズも例外ではない。ふだんのマジメな様子と打って変わって、まるで授業を聞いてない。ぽけーっと中空を見つめて、時折にまにまと笑っている。
その原因は、俺が彼女に語った
ギトーは舌打ちをひとつして、陰気な目で教室を見渡した。
怒りのはけ口を探しているのだ。
一瞬、俺と目が合うけれど、すぐに逸らされる。
俺は一年生のときから、ギトーもギトーの授業も嫌っている。その嫌悪は彼のほうにも伝わっているらしく、去年からずっと目をつけられていた。
特にフーケの一件以降、彼ははなにかにつけて俺を指名し、やたらと難しい問題を解かせ、恥をかかせようと目論んでいるのだ。
とはいえ、彼の目論見が上手くいったことはほとんどないけれど。
なぜって、俺はギトーにケチをつけられるのがムカつくので、一年生の頃から『風』の授業だけは完璧に予習していたからである。
このところ授業どころではなく、勉強がおろそかになっていたが、二年生のカリキュラムで習う内容は把握しているつもりだ。
いつだかの『最強の系統はなにか?』みたいな正答のない底意地の悪い質問ならともかく、授業に沿った内容であればなんでも答えられる自信があった。
そんなわけで、ギトーが目をつけたのはもうひとりの不遜な生徒。
「ミス・ヴァリエール!」
「ひゃいっ!」
頬を緩ませ、なにやら幸せな妄想に浸っていたらしいルイズは、驚いた顔で立ち上がった。
「授業に集中したまえ。夏期休暇まで、あと五日もあるのだ。いくら君が公爵家の令嬢とはいえ、休暇までの日数をゼロにさせてやることはできぬ」
ギトーはねちねちと嫌味を言う。
ふだんは誰よりマジメに授業を受けてる『ゼロ』のルイズが隙を見せた途端、大喜びである。
「ミス・ヴァリエール。気圧と温度の関係は理解しているかね?」
「は、はい。気圧が下がるほど、温度は低くなります、ミスタ」
「よろしい。そして高度が上がれば上がるほど、気圧が低くなることも伝えたな。では質問だ。アルビオン大陸で『ウィンディ・アイシクル』を唱える場合、この教室で唱えた場合と比べて、氷の精製に関してどのような違いが生じる?」
あ、いじわるな質問。
露骨な
「違いは……、ありません。この教室で唱える場合と同じです、ミスタ・ギトー」
ルイズは危なげなく正答を出した。さすがの秀才っぷり。授業参観に来た親の心持ちではらはらと見守っていた俺は、隣でほっと息を吐く。
「アルビオンを浮かばせている風石の力が、大気圧や空気の組成を地表とほぼ同じ状態に保ってますから、フネの上で唱える場合と違って、風魔法はトリステインと同じように……」
「ミス・ヴァリエール。誰もそこまでは聞いておらぬ。そんなに自分の実力をひけらかしたいのなら……、そうだな、みなの手本になってもらおう」
ルイズは顔をひきつらせ、ギトーは意地悪い笑みを浮かべた。
座学でやりこめられなかったからって、無理矢理実技をやらせて辱めようとしているのだ。
性格が悪い……。
「安心したまえ。『ジャベリン』を唱えろとは言わぬ。あれはライン・スペルだ。ミス・ヴァリエールに唱えられるとは思えぬ。水は私が用意するから、ドット・スペルの『ウインド』で気圧を操作し、凍らせてみせるのだ。さあ、前に出たまえ……」
命じられたルイズは顔色を悪くしながらも、しかし誰の助けも求めず、鳶色の瞳に決意を浮かべてまっすぐ歩いてゆく。
ギトーの陰湿さと対照的に、その後ろ姿はあまりにも眩しかった。
放課後。
俺とルイズは教室に残って掃除をしていた。
教壇を爆破した罰として、ギトーがルイズに掃除を命じていたのだ。
ギトーは『これは罰なのだから、ミス・ヴァリエールがひとりで行うように』と強調していたが、知ったことではない。
小柄な女の子ひとりっきりに、しかも自分ではどうしようもない失敗を理由にして、こんな広い教室の掃除を任せて帰るなんて、ありえない。放っておけるわけがない。ましてその女の子は、幼い頃から知ってるルイズ・フランソワーズお嬢さまなのだから。
もし才人がいたら彼に手伝って欲しかったのだが、あいにく、最近の彼はめったに教室に顔を出さない。メイジではない才人は魔法の授業なんか受けても仕方ないので、授業時間中はデルフリンガーの指南を受けて体を鍛えていることが多い。
そんなわけで、俺は久しぶりにルイズとふたりで教室掃除をしているのだった。
「ねえクルト、いつになったら姫さまから手紙が来るのよ」
黙々と机に
「何度も言ってるだろ。夏休みの初日だよ」
「ほんとでしょうね?」
「わからん」
「わからんってなによ」
「わからないんだから仕方ないだろ。俺の知ってる通りだったら五日後に手紙が来るし、そうじゃなかったら手紙は来ない。それだけだ」
ルイズは眉間にしわを寄せて俺をにらんだ。
俺はその視線を受け流し、爆風でヒビの入った窓に『錬金』を唱え、一枚ずつ補修を施してゆく。
「ねえ、わたし、姫さまに何をお願いされるの?」
「城下の情報収集。それもこないだ話しただろ」
「確認したいのよ」
「だからって、何度も言わすな」
「うっさい。わたしが何度も質問したら、あんたは何度でも答えるの。あんたの義務なの」
ルイズはつんけんとした態度で言った。
腕を組み、高慢に胸を反らしているが、口元が微妙に緩んでいる。内心のよろこびをまるで隠し切れてない。
こいつ、敬愛するアンリエッタから任務を授かれることが名誉で、嬉しくて、たまらないのである。
それで授業にもまったく集中できてなかったし、母親にお話をせがむ子どもみたいに何度も何度も同じ質問を俺にぶつけ、何度でも俺の口から任務について語らせようとしているのだ。
タバサが急にルイズを連れてきて、ルイズが泣いたり俺の枕を爆破したりしたあの日。
俺は、ルイズと才人に秘密を打ち明けた。
俺には日本の東京都郊外で暮らしていた『前世の記憶』があり、だからスポーツドリンクも照り焼きバーガーも知っていたのだということ。
そして『前世の記憶』とは特に
ここで小さな嘘をついたのは、このハルケギニアはライトノベルの『ゼロの使い魔』に描かれていて……なんて言い出したらいよいよ気が狂ったと思われそうだから。
そしてそれ以前に、ルイズと才人を前にして『ゼロの使い魔』が云々と語るのは、ふたりをとてもバカにしてるように感じられたから。
いまの俺にとって、ルイズたちは現実の、生身の、同じ世界で生きている対等の人間だ。もはや彼女たちは、俺にとって、ライトノベルの登場人物じゃないのだ。
『ゼロ魔』を思い出してからしばらく、『タバサメインヒロイン計画』なんて頭の悪いことを考えていた時期はそういう非現実感に囚われていたけれど、いまの俺にはそういう傲慢さは消えている(……と、思いたい)。
俺に前世の知識があることについて、才人はすぐに納得した。
日本のマンガやアニメでそういう設定に慣れてるだろうし、彼の立場からしたら、そうとでも言わなければ説明のつかないことが多すぎたのだろう。
わずかに残っていた疑いも、俺が日本の地名や歴史上の人物の名前をあげ、前世の暮らしの思い出を語ってみせたら、たちまち消えたようだった。
一方のルイズはブリミル教的には異端でしかない『前世』の存在には眉をひそめていたが、『未来の知識』はあっさり受け入れた。
もちろん疑いは残していたが、『あんたの知識と行動には、それ以外に説明がつかない』『王室の密命を受けてたとか、レコンキスタと内通してたって言われるより、よっぽど現実的だわ』と、以前のキュルケと似たような反応を示したのだ。
そこで俺も以前キュルケにそうしたのと同じように、ルイズたちにいくつかの予言を話した。
そのひとつが『夏休み期間中、ルイズは女王陛下から密命を受け、トリスタニアの民衆に混じって城下の情報を集めることになる』ということ……『ゼロの使い魔5 トリスタニアの休日』のあらすじだ。
ルイズはこの予言をいたく気に入って、ことあるごとに子細を聞き出そうとしてくるのだった。
「そりゃお前に訊かれたら答えるけどな。しつこいんだよ。何回言わせるつもりなんだよ」
「だってあんた、ちょびっとしか教えてくれないんだもん。ねえ、もっと教えなさいよ。そしたらわたし、もっともっと姫さまのお役に立てるわ」
『未来の知識』を多く語らないようにしているのは、まさしくこれが理由である。
すなわち、予言自体が未来を変える要因になり得るから。
そうしてその結果、未来がどこに向かうかわからないからだ。
以前、キュルケにアンリエッタ誘拐事件の顛末を教えたとき。
ラドグリアン湖で再会した彼女は、この事件を確実に防ぐべく、『アンドバリの指輪』と『蘇ったウェールズ』について打ち明けるタイミングをもっと早められないかと提案した。
そのとき俺は惚れ薬のせいで『原作』沿いの展開を絶対のものと信じていたから、キュルケの提案を拒絶したのだが……この経験こそが、俺がルイズたちに未来を語ることをためらわせていた。
ようするに、
『未来の知識』なんか持ってしまったら、まして未来に起きる悲劇なんか知ってしまったら、それを恐れて変えたくなるのはあたりまえの感情だ。俺やキュルケに限った話じゃない。
特にルイズなんか、どう考えても運命をそのまま受け入れるって性格ではない。
アルビオンとの戦争の結末を知ったら、ルイズはけっして受け入れないだろう。
『アンドバリの指輪』の力で友軍を操られ、トリステイン・ゲルマニア連合軍は惨めに敗走。その連合軍を逃がすために、
ルイズが認めるわけがない。
ルイズ自身が残るならともかく、才人を殿軍に行かせるわけがない。未来を知ったルイズが、才人を死地に放り出すわけがないのだ。なんとしても敗走を防ごうとするだろうし、それが叶わなければ、ルイズひとりで足止めしようとするはずだ。
そしてそれは才人も一緒。
彼はルイズを守るためなら、きっと命を捨てるだろう。
もちろん俺だって、そんな未来は望まない。
そもそもの話、戦争なんか起きなきゃいいと願ってるし、ルイズも才人も戦場に行かせたくない。
そして当然、才人が七万の軍勢に挑むことは、許せない。『原作』では奇跡的に生き延びることができたけれど、この世界でも奇跡が起きるとは限らない。
才人がタバサを救う可能性を秘めた勇者であることとは関係なく、俺は、友達を失いたくないのだ。
『未来の知識』を用いて歴史の流れそのものを変えられたら良いのだが、問題は、あの戦争はすべてガリアの手のひらの上だったということ。
ガリア王ジョゼフの気まぐれ次第、サイコロの出目次第で、戦争の勝者はアルビオンに変わり得る……ということだ。
もしも、サイコロの出目が違ったら。ガリア王が、己の艦隊にアルビオン軍ではなくトリステイン・ゲルマニアの連合軍を攻撃するよう命じていたら。才人が決死の覚悟で逃がしたルイズさえ死んでいただろう。
下手に戦争に干渉したら、ルイズも才人も命を失い、タバサを苦しめ続けたジョゼフが……、戦争を盤上遊戯の如く捉えている狂った王が権勢を拡大し、エルフとの『聖戦』を掲げるレコンキスタがトリステインもゲルマニアも支配する、もっとも破滅的な未来に至る可能性があるのだ。
けれども俺は、すでに知っている。
ジョゼフのサイコロの出目を変えず、しかし才人を七万の軍勢に向かわせずにすむ方法を。
それは戦争に至る流れそのものを変えようと躍起になっていた俺には思いつかなかった方法。惚れ薬の力で才人を愛していた俺が、連合軍の勝利を確かなものにしながら最後の最後で才人の運命を変えるべく、必死に考え出したものだ。
ただし、その方法を成功させるには、戦争の終盤まで『原作』通りの展開を保たなければならない。
ルイズと才人を戦場に行かせ、何度も危険な目に遭わせなければならない。
それだけでも死にたい気分になってくるが、問題は他にもある。
もし才人の運命を変えることができたなら、この世界は『原作』とは決定的に違う方向に進むことになる。
果たして、それは正しいのか。
才人を死なせたくないという俺の思いは、結局のところ、彼を不幸にするだけじゃないか。才人にとって、ルイズにとって……、そして彼らに救われるはずだったタバサにとって、悪い結果をもたらすんじゃないか。
俺は友達を守ろうとして、なにか取り返しのつかない、とても大切なものを壊してしまうんじゃないか。
俺にはずっと、そんな不安な予感がある。
そうしてなおも厄介なことに、それはたんなる不安ではなく、期待だった。俺は『原作』が壊れるその瞬間を待ち望んでさえいた。
キュルケに叱られたとおり、俺は心底、バカで傲慢だ。
ほんとはいますぐにでもこの世界から消えるべきなのに、呑気にルイズと掃除なんかしているのだから。
『あんたが燃やすべきはあんたじゃない。世界よ』と、キュルケがくれた無責任な励ましを信じ、『俺は俺の情熱に従う』なんてふざけた誓いに心を支えられているのだから。
予言にかんする執拗な追求を避け、なんとか口を滑らせずに終わった教室掃除。
ルイズは最後の机を拭き終えるなり、にまにましながら教室を出て行った。
当然、使った道具を片付けようともしない。罰として命じられたのは教室の掃除だけであり、その後の片付けまで終わらせる義務はない、という理屈である。
ふだんなら文句のひとつでもぶつけているところだが、まあ、あんなに機嫌の良いルイズはめずらしい。ようやく自分の力が大切な人に認めてもらえたのだから、もうしばらくはそのよろこびに浸らせてやってもいいだろう。
俺はルイズが放置していったバケツや雑巾や箒やモップを抱え、持ちきれない分は『
『貴族の近くに見苦しい平民の道具など置くものではない』という意味不明な理屈で、『風』の塔の倉庫は教室から三つ下の階に設置されているのだ。
去年から何度も往復してきた階段だけど、この距離が地味にめんどくさいんだよなぁ……と俺はため息を吐く。
別に俺にも片付けの義務はない(正確には、掃除の義務もない)が、放っておいたら使用人の誰かが片付けることになる。重たい道具を運ぶのに、『レビテーション』も使えない誰かが。
いや、もちろん掃除用具の運搬ぐらい、使用人の日常業務に含まれているはずで、実際やるとなったら、彼らは(魔法なしで)苦もなくやってのけるだろう。でも俺には魔法があって、彼らよりはかんたんにできるはずで……。
つまり、俺がやらねばならない。
そのほうが俺の気分が良い。
ただの自己満足だ。
ようやく辿り着いた倉庫の奥に掃除用具を押し込んで、廊下に振り向き、俺は足を滑らせかけた。
タバサがいた。
身の丈より長い杖を持った青髪の(かわいい)少女が、なぜか、倉庫の入り口に立っていた。
「終わった?」
「あ、ああ。ちょうど片付けたところ」
どぎまぎしながら答えると、タバサは無表情に頷いた。
「胸の調子は?」
「大丈夫。オールド・オスマンが言ってた通り、一週間休んだらすっかり……」
言葉の途中で、咳き込んでしまう。
胸の傷のせいではない。この倉庫、やたらと埃っぽいのだ。
「ルイズはどこ」
「……そっか、あいつに用があったのか。お嬢なら、才人を探しに行ったよ。いまごろヴェストリの広場にいるんじゃないかな」
タバサはわずかに眉をひそめ、倉庫に入ってきた。
後ろ手に扉を閉め、突然、俺に抱きついて――ない。聴診だ。俺の胸に耳をくっつけて、呼吸の音を聴いてるのだ。
「ちょ、タバサ、へいきだよ、ほ、埃で、むせた、だけでっ」
「うるさい」
必死の抗議も一蹴される。
病床では何度もしてもらった行為だけど、そのときでさえ、まるで慣れることができなかった。それをこんな小さな薄暗い密室で、不意打ちで、気が狂いそうだ。
彼女の背中に腕を回して抱きしめないようにするのに、俺は全神経を集中させねばならなかった。
死にそうに長くて短い沈黙のあと、タバサは俺から身を離し、
「悪くない」
と呟いた。
俺は緊張に乱れた呼吸を整えようと深く息を吸って、倉庫に舞う埃でまた盛大に咳き込んだ。
タバサは俺の腕を掴んで倉庫の外にひっぱり出すと、廊下の窓を開けて杖を一振りし、新鮮な空気を俺に
「あ、あり、がとう……」
げほげほ咳をしながらお礼を言うが、タバサは頷きもしない。
そうして、俺の咳が
「もっと休んだほうがいい」
と呟く。
「そう、かもな……」
喉がまだいがらっぽくて、顔を背けて咳払い。
「もうじき夏休みだから、領地でゆっくりさせてもらうよ」
「休める?」
かわいく小首を傾げるタバサは、キュルケかルイズから俺の夏の過ごし方を聞かされているのかもしれない。
「ヴィル……上の兄貴が遊びすぎてなければ。まあ、あんまり期待できないけど」
タバサは返事をしなかった。
しかし会話を打ち切るつもりはないようで、メガネの奥の眠たげな瞳を、じぃっと俺に向けている。
「ええと、タバサは、夏休みはどうするんだ?」
俺は沈黙を誤魔化すように問いかける。
「残る。あなたはすぐに帰る?」
「うん、夏休みの初日には出発するつもりだよ」
タバサは無言で頷いた。
俺はまた何か言おうと口を開きかけ……、やめた。
彼女がお見舞いに来てくれていた数日間で身に染みて学んだことを、俺は改めて思い出す。
タバサは沈黙を苦にする性格じゃない。ちょっと気まずいからって、無意味にいろいろ話しかけても迷惑だ。もし彼女に言うべきことがあるのなら言ってくれるはずだし、なければ黙ってどこかに行くはずだ。
俺がすべきは、やたらと話しかけることではなく、タバサが口を開くのを待つことなのだ。
「提案」
タバサがぽつりと言った。
彼女は窓の外の夕焼けを見つめ、ほっそりとした指で頬を掻きながら、
「あなたの領地まで、馬車で三日はかかる」
「そうだな。コールスはラ・ヴァリエールの向こう側だから。実家に帰るってだけで金と時間がかかって仕方ないんだ」
「シルフィードなら半日」
そして沈黙。
タバサの言葉を理解するのに、俺はちょっと時間がかかる。
「……もしかして、乗せてくれるの?」
「代わりに」
タバサはそこで言葉を切った。
夕焼けに視線を向けたまま、彼女にしては珍しい早口で続ける。
「代わりにあなたの一日をもらう。休暇の一日目、あなたは学院で休む。二日目、トリスタニアで、わたしの買い物につきあってもらう。三日目、シルフィードであなたを領地に送る。あなたは予定どおり領地に帰れる。これで貸し借りゼロ」
「え、いや、それは……おかしくないか? さすがに、俺に有利すぎるというか……」
シルフィードに乗せてもらえば旅費をまるごと節約できるのはもちろん、タバサとトリスタニアに行けるなんて。一緒に買い物できるなんて。
話が良すぎる。
いったいなにが起きているんだ……と、無意味に罠を疑ってしまう。
「貸し借りゼロ」
「そ、そうか……?」
領地まで送る見返りとして買い物につきあってもらう、と言われても、俺にとっては、その『見返り』自体がこれ以上ない報酬なのだ。
借りが増えてくだけじゃないか。
浮いた旅費をまるごと支払うくらいしないとダメなんじゃないか。
「わたしに急用ができて、領地まで送れなくなるかも。そのときはキュルケが馬車を用意する約束。心配いらない。でも、帰省が遅くなるかもしれない。だからこれで、貸し借りゼロ」
なるほど。タバサにはいつ
どう考えても不平等な取引だけど、俺がそのリスクを受け入れることも含めて『貸し借りゼロ』というわけか。
いや、それにしたって、釣り合わないような気がするが……。
「……迷惑ならいい。忘れて」
「まさか。助かるよ、すごく。ほんとうに嬉しい」
タバサからの提案を、俺が断れるわけなかった。
ぼうっと窓の外を見ていたタバサは小さく頷き、廊下の向こうへと足早に去って行く。
俺はその後ろ姿が曲がり角に消えるまで見送って、それから、どさっ、と壁にもたれかかった。そのままずるずると床に座り込み、にへら、と口を歪ませる。ああ、キモい。我ながらキモすぎる。
こんなのでよろこんでる場合じゃないのに。
俺はもっと、未来に備えなければいけないのに。
考えるべきことが山ほどあるのに。
だけどタバサと一日過ごす約束を交わせたのだと思うと、あらゆる不安を凌駕した浮かれた気持ちが胸にこみ上げて、俺はどうしても笑ってしまうのだった。
○授業中のクルトの走り書き
・「氷は風に属する」とか言ってるけど、水の授業だと「氷の魔法は水系統の領分とするのが定説」
→どっちでもいいけど、コルベール先生の意見は聞きたい
・気圧と氷点の関係。凍るのは氷点が上がるからでは?
→これもコルベール先生に質問
→タバサに
→コルベール先生に質問