「ねえクルトくん、使い魔は連れてきてないの?」
腕の裂傷に秘薬を浸したガーゼをあて、その上から包帯をぐるぐると巻いていたカトレアが、ふと思いついたように言った。
「いえ、いまもここにおりますが……どうされましたか?」
俺は答えながら、自由な腕を伸ばしてポケットを
「あのね、春頃に来たルイズの手紙に書いてあったのよ。あなたの使い魔がとっても面白いから、ぜったい見たほうがいい、って」
「あのやろ……」
俺のロッキーを指差して笑うルイズの顔を思い出して、眉間にしわが寄る。
春の使い魔召喚の儀式から数週間、才人を召喚したのは『失敗』だったと思い込んでいたルイズは、『平民』より明らかに格下な『石ころ』を嘲笑するのを心の慰めとしていたのである。
「嫌だったら、無理に見せなくていいのよ」
カトレアは優しく言うけれど、その瞳は俺が嫌がるとはちっとも思っていない様子。
そうして実際、俺はためらいもなくロッキーを差し出した。
俺自身、召喚当初は石ころが使い魔なんてなにかの間違いだと思っていたけれど、一緒にいくつもの戦いを乗り越え、いつの間にか頼れる相棒のような気持ちを抱いていたのだった。
ルイズを見殺しにしかけた件については、一切許す気はないけれど。
「この子が、クルトくんの使い魔……?」
カトレアは包帯をテープで固定し、ロッキーを受け取った。
「ただの石ですよ。甲羅に覆われてるとか、なにかの卵とかでもないです」
つっこまれる前に俺は言う。
カトレアはルーンの刻まれた扁平な石ころに顔を近づけて、撫でるようにその表面をさすりながら呟く。
「不思議。静かだけど、とても強い意志を感じるわ。きっと素敵な使い魔なのね。……うん、ロッキーちゃん、クルトくんと仲良くしてあげてね?」
カトレアはロッキーをそっと胸に抱き、祈るように握りしめてから俺に返した。
妹のルイズはさんざんバカにしてきたというのに、えらい違いである。やっぱり彼女はヴァリエール家の良心だ。
そうしてカトレアは治療に戻る。俺の傷をひとつひとつ確かめ、『治癒』を唱え、包帯を巻き……また唐突に口を開いた。
「あなた、貴族らしくなったわね」
しみじみ呟かれたその言葉に、俺は素直に頷けない。
貴族らしいって、どういう意味だろうか。
俺が貴族や魔法使いという存在に違和感を抱いてることは、このひとならば気づいているはずだと思っていたけれど。
「ごめんね、これでも褒めてるつもりなの。覚えてるかしら。いつかクルトくんに『貴族の条件』を話したことがあったでしょう?」
カトレアはおっとりと言い、思い出すように目を細める。
「それは爵位があることでも、魔法を使えることでも、土地を治めてることでもなくて……」
「お姫さまを命がけで守ること、でしたっけ」
いつだったか。やはり何かの祝いの席でラ・ヴァリエールの屋敷に連れてこられた日。
会場の隅で不機嫌にしていた俺を見つけたカトレアは、そんな話をしてきたのだった。
「そうそう。あのときクルトくん、『じゃあ女のひとは貴族になれないんですか? 悪い竜に掠われて助けを求めて震えてるだけの存在なんですか? あなたはルイズお嬢さまにも、そんなトロフィーのお姫さまになってろって仰るんですか?』なんて言うものだから、わたし困っちゃった」
「その節は失礼しました……」
真摯な顔を作って謝ると、カトレアはころころ笑った。
「あのときね、わたし、あなたに立派な貴族を目指して欲しかったのよ。あなた自身が心底から認められるような、立派な貴族の姿を見つけて欲しかったの。そうしたら、そんなに怒らなくてすむんじゃないか。あなたの素敵なところを、みんなに気づかせてあげられるんじゃないか、って」
およそ七年越しに真意を語られて、俺は……死にたくなる。
そんなにも優しい気持ちで俺を案じてくれたひとに、俺はなんて無礼な態度を取ってしまったんだ。
「いいのよ、謝らなくて。わたしだって下心があったんだもの」
一通りの処置を終えたカトレアは、包帯や空の薬瓶を手際よく鞄にしまっていく。
俺はカトレアに礼を言い、やはり彼女が持ってきてくれた清潔なシャツに腕を通す。
「ルイズはもちろん可愛いけど、わたし、弟も欲しかったのよね」
無邪気な笑顔でそんなことを語るカトレアに、俺はなんて答えたらいいのかわからない。
「クルトくんが貴族らしくなった、っていうの、ルイズは関係ないわよ? あなたがあの子をお姫さまにしてくれるんだろうなってずっと思ってたけど、やっぱりわたし、世間知らずね。このお城のなかのことが、世界のすべてだと思ってたみたい。あなたには、わたしの知らない素敵なひとができたのね」
俺は驚きを通り越して、いっそ畏怖するような気持ちでカトレアを見つめた。
昔から勘の鋭いひとではあったけれど、ここまで見透かされてしまうとは、さすがに予想外だ。
「ごめんなさい。話し過ぎたわね。わたしって、すぐ余計なこと言うのよ」
カトレアは椅子から立ち上がり、よっこらしょ、と顔に見合わぬかけ声と一緒に鞄を持ち上げる。
「カトレアお嬢さま。ありがとうございました。このご恩は必ずお返し致します」
俺もベッドから立ち上が……ろうとしたら鳶色の瞳に咎められたので、せめて頭だけは深々と下げる。
「いいのよ、お礼なんて。元はといえば、母さまのせいなんだもの。家族のしたことに責任を持つのは当然だわ」
カトレアの言葉はいちいち正しいが、だからといって感謝が薄れることはない。
なにせ、彼女は文字通り身を削って俺に『治癒』を唱えてくれたのだから。
「そうね。クルトくんは、そう思うわよね……それなら、もうしばらくの間、母さまに付き合ってあげて。ルイズが帰ってこなくて、あれで寂しがってるのよ」
「付き合うもなにも、私がご指導いただいているのです」
それは半分社交辞令で、しかし半分は本音である。
ただの折檻と思っていたから怯えてばかりだったけれど、指導となれば話は別だ。
想定していた
あれほどの風の使い手の指導を無償で受けられて、しかもあわよくば領地への支援を倍増してもらえるなんて。これ以上望むべくもない、最高の条件だ。
不信心者の俺でさえ、始祖ブリミルのお導き、なんて感謝を捧げたくなる幸運である。
明日から、また地獄を見ることになるだろうが……、タバサが見てきた地獄よりずっとマシだ。
「いいわねぇ、男の子って」
カトレアは頬に手をあて、感慨深そうに呟いた。
「がんばってね、クルトくん、あなたのお姫さまのためにも。母さまは貴族らしい貴族が大好きだから、今日みたいにやりすぎちゃうかもしれないけど……心配いらないわ。このお城にいる間は、どんな怪我をしたって、わたしが治してあげますから」
そう言ってカトレアは客室を出て……扉が閉まった途端、げほげほと激しい咳の音が聞こえた。
いますぐにでも駆け寄りたい衝動に襲われたが、唇を噛んで我慢する。それは誇りを損なう行為だ。俺はなにも聞いていないし、カトレアは何事もなく治療を終えた。ここにあるのは、そういう物語だ。
俺は自分にそう言い聞かせ、ベッドに身を横たえて目をつむる。
俺自身、それなりの怪我人なのだ。明日からの稽古に備えるためにも、まずは回復に専念しないと。
だけど……、
「ロッキー、頼んだ」
ずっと握っていた使い魔を床に落とし、感覚共有。ふらふらと廊下を歩いているカトレアを捉える。
せめて彼女が自室に帰るか、使用人の誰かに見つかるまでは、様子を見てたって許されるだろう。
地獄の一週間の最終日。
右の肩から胸にかけての裂傷、そして右脚の骨折と引き換えに公爵夫人の古びた騎士服の裾を砂で汚し、実に温情的な判定で領地への支援の増額を認めてもらった俺は、半分死んだような心地で馬車に乗っていた。
ヴァリエール家が用立ててくれた、コールスへの帰路を走る馬車である。
痛い。
とにかく痛い。
『治癒』の魔法で出血は治まり、骨も一応繋がっているが、体へのダメージはなくならない。他にも大小さまざまな傷が全身に残っていて、包帯がすべて取れるのは半月は先のことになるだろう。
今日一日は休養にあてて、コールスに戻るのは明日にしたらどうかとラ・ヴァリエール公爵は言ってくれたのだが、俺は早々に帰ることに決めていた。
理由のひとつは、公爵その人である。
稽古の三日目以降、俺に治療を施してくれたのは公爵だった。ガーゼをあてたり包帯を替えたりといった世話は使用人たちに任せていたが、『治癒』のスペルを唱えていたのは公爵自身だ。
なぜって、カトレアが倒れたからだ。
俺のために魔法を使ったのが原因で、彼女は高熱を出してしまった。
当然、公爵は俺に激怒し、夫人とふたりがかりの折檻が始まるかと思われたが……彼の対応は奇妙に穏やかだった。屋敷付きの治癒師はカトレアの治療で手が離せないからと理由をつけて、わざわざ彼自身が客室に通い、杖を振るった。
彼の心情は、なんとなく想像できる。
三日目の稽古が終わったとき、俺の前にあらわれた公爵は怒りに満ちたオーラを放っていたが、折檻するまでもなく妻の手でこれ以上なく痛めつけられた俺の姿に気勢を削がれたらしい。
もしかしたら、彼は俺に対して、ある種の同情を抱いたのかもしれない。
あの晩餐の様子を見るに、公爵夫妻の関係には、ルイズと才人の関係を思い起こさせるものがある。きっと公爵自身、妻の魔法や脚や拳による制裁を幾度となく受けてきたのだろう。
もちろん、公爵が怒りを収めた背景にはカトレアの取り成しもあったはずで、彼女にはいくら感謝してもしきれない。
そういうわけで俺は水のスクウェアたるラ・ヴァリエール公爵直々の治療を受けていたのだが、正直、ずっと気が気ではなかった。
彼の怒りがいつ再燃するか、わかったものじゃなかったからだ。
もしカリーヌから与えられた傷が消えたら……次は公爵が俺をいたぶるのだ。しかも、今度こそ稽古や指導などではない。純粋な懲罰として水の鞭が振るわれるはずだ。
そう思うと俺は恐ろしくて、一刻も早くラ・ヴァリエールの屋敷を離れたかったのである。
そして俺が帰路を急ぐもうひとつの理由は、ヴィルヘルム。
俺の滞在が伸びることをコールスに伝えるべく飛んでくれたトゥルーカス……カリーヌの使い魔である、大きなフクロウ……が持って帰ってきた、兄からの手紙である。
「やあ、クルト。ヴァリエールは楽しかったかい?」
コールスとの領境付近にある小さな村。
ブドウ畑が広がる平和な村の入り口で、ヴィルヘルムは朗らかに手を振っていた。
俺は馬車を降りてシャツの袖をまくり、何重にも巻かれた包帯を見せつけながら兄に問う。
「楽しんできたように見える?」
「いや、まったく」
ヴィルヘルムは悪びれもせず首を振った。
「ミセス・ヴァリエールの稽古を受けたというのは、ほんとうなのだな。トゥルーカスさまから聞かされたときは、なにかの冗談かと思ったが」
「冗談だと思いたかったよ、俺も」
俺は嘆息し、馬車の御者台に座る
俺は懐から手紙を取り出し、漫然と馬車を見送っていた兄に尋ねた。
「それで、ヴィル兄。急にどうしたんだよ。わざわざこんなところで会おうだなんて。屋敷じゃいけなかったのか?」
「あー……まあ、そのへんは後でじっくり話すよ。まずは酒場にでも入って、一息つこうじゃないか」
ヴィルヘルムは、軽薄で楽天家の彼らしくもなく憂鬱そうに答え、村のなかへと歩き出す。
村で唯一の寂れた酒場に入ると、ヴィルヘルムは店主に三人前の食事を頼んだ。
溺愛している使い魔のレルニーに食べさせるのかと思ったが、どうも違うようだ。いつも体に巻き付かせてる、あの大蛇の姿が見えない。
「ああ、レルニーは迎えに出てもらったんだ。あいつが約束通りの時間に着いていたら、もうじき……」
ばんっ、と酒場の扉が勢いよく開き、ヴィルヘルムの言葉を遮った。
反射的に振り返った俺の視界に、赤い影が――
「やあ! やあやあ! 久しいな、クルト! 何年ぶりだ? 大きくなったな! せっかく魔法学院に通っているのだから、一度くらい会いに来てくれたらいいものを!! お兄ちゃんは寂しくて死ぬかと思ったぞ!」
気づいたら俺は強く抱きすくめられていて、全身の傷に痺れるような痛みが走る。
身を
「ちょ、まて、はなせ、何年ぶりって、去年も会ったじゃねえか、っていうか
「お、に、い、ちゃ、ん」
耳元で吐息混じりに囁かれ、背筋に悪寒が走る。
この変わり者の兄は、十年以上も前の約束……ツェルプストーでの俺の失態をヨアナが尻拭いする代わりに、俺は彼を『お兄ちゃん』と呼ぶこと……を
「わ、わかったから、はなして、はなしてください、お兄ちゃん」
「よろしい」
ヨアナはようやく俺を解放し、ヴィルヘルムは呆れたように笑った。
「弟よ、私に抱擁はないのかい?」
「兄さんには嫌だ」
すげなく拒絶されたヴィルヘルムは露骨に落ち込み、ヨアナの後を這ってきたレルニーを体に巻き付かせた。ああすると寂しさが慰められるらしい。
俺は数年振りに兄弟が揃った光景に懐かしさを覚え、なんだかずっと浸っていたいような気持ちに襲われるが……、首を振って兄に問う。
「ヴィル兄、それじゃあ本題を話せよ。ヨアナ……お兄ちゃんまで呼んで、いったいなにがあったんだ?」
「うむ、クルトの言うとおりだ。はやく兄さんの用事とやらを教えてくれたまえ」
弟ふたりに詰め寄られ、ヴィルヘルムは困ったように眉根を寄せた。
「えー……、その、なんだ。久しぶりに兄弟の思い出話など振り返ってからでも……」
「だめだ。コールスでも言っただろ。俺は急いでるんだよ」
「私もクルトに賛成だ。兄さんのような田舎貴族と違って、
ヴィルヘルムは降参したように両手を挙げて、ため息交じりに頷いた。
「わかったよ。昔から、お前たちには敵わないな。だが、せめて、この兄にワインを一杯飲ませてからにしてくれんかね」
ヴィルヘルムは店主が運んできたタルブの古いワインを手酌でなみなみと注ぎ、一息に飲み干した。
そうしてもう一度グラスにたっぷりと注ぎ、今度は舐めるようにほんの一口だけ飲んでから、言った。
「父上がな、レコンキスタと通じているのだ」
「は? ヴィル兄、いったいどういう……」
「証拠も掴んでる」
ヴィルヘルムは十枚ほどの紙束を机に広げた。
「父上がレコンキスタの間諜と交渉したらしき手紙に、受け取った金貨と宝石の帳簿……とりあえず、これはその写しだ。まだまだあるが、隠し金庫の中身まですべて把握しているつもりだ」
「おいおい、冗談きついぞ。あのクソ親父、いつかやらかすとは思っていたが……」
と俺は言い、言ってから、そんなとんでもない秘密をこんなところで語り始めたヴィルヘルムの不用心にぞっとして……、ヨアナがすでに『サイレント』を唱えていることに気がついた。
「お兄ちゃん、まさか、知ってたのか?」
思わず尋ねると、ヨアナは唇を薄く歪めた。
「いいや。ただ兄さんの様子からして、ロクな話題じゃなかろうと思ってね。感謝したまえよ、兄さん」
「ああ……すまない、ヨアナ。恩に着る。私はやはり、田舎貴族だな。こんなとき、どう振る舞ったらいいのか……まるでわからないのだよ」
ヴィルヘルムが素直に頭を下げると、ヨアナはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「兄さんはそのままでいいさ。アカデミーなんて淀んだ場所にいると、陰謀の匂いばかりに敏感になっていく。まったく、つまらぬことだ。いっそクルトを
ヨアナは冗談めかして言うが、それが心底からの言葉であることを俺は知っている。
およそ十年前、コールス領がゲルマニアからトリステインの支配下に移ったとき。
当時すでに火のスクウェアであったヨアナは、ゲルマニア屈指の錬金魔術師シュペー卿の工房で働き、炉の管理者という名誉と責任ある立場を任されていた。
コールス家と縁を切ってシュペー卿の養子となる話が進められていたらしいのだが、彼はそれを断り、トリスタニアへと拠点を移した。
シュペー卿から学んだ冶金技術をまるごとトリステインの王立
その理由は、彼が俺とヴィルヘルムだけに語ったところによると『これ以上、あの工房にいても退屈なだけだ。私はクルトを見ていたいのだ』と。
どうせ俺の知識に興味があるのだろうが、なにかと過激な次兄が怖くて、俺は極力、彼に前世の知識を教えないよう努めている。
「兄さん、私はコールスを離れた身だ。父上が何をしようと口出しする資格はない。兄さんとクルトに任せるよ」
生家とともにトリステインに籍を移したヨアナは、しかしコールスとの繋がりを絶たれている。
アカデミーが、彼を受け入れる条件として、コールス家との離縁を要求したからだ。
コールスがゲルマニアに奪い返されたとき、彼がトリステインの技術を盗んで寝返らないようにするための処置である。
そのためヨアナは、名目上は俺の兄ではない。コールス家ともあまり関わらぬよう、アカデミーの上司に言い含められているらしい(とはいえ彼は度々コールスの屋敷を訪れているし、俺に『お兄ちゃん』と呼ばせてはばからないのだが)。
「しかしなあ、ヨアナ」
ヴィルヘルムはふたつばかり歳の離れた弟に、すがりつくように言った。
「クルトにこの件を任せたら……」
「すぐにでも王宮に報告しよう。今なら、親父が首を
「……ほら、こうなるだろう?」
諦めたように両手を広げたヴィルヘルムの困り顔に、ヨアナは大笑した。
それから、ちらと後ろを振り向き、いきなり密談を始めた貴族に怯えている様子の店主を手招きし、三人分の料理を運ばせた。
緊張に硬くなった店主が給仕を終え、『サイレント』の膜の外に出るのを待ってから、ヨアナは言う。
「兄さんも、同じ結論に達しているんじゃないかね? クルトに相談したってことは、つまりそういうことだろう」
「しかしだな……」
ヴィルヘルムは消え入るような声で呟き、スープに浮かぶ根菜をスプーンの先でつつき回した。
俺もスープを一口飲んで、長兄に言う。
「ヴィル兄は優しいな。あんなのでも、父親と思ってるんだから」
「あのなぁ、クルト。お前、私のいくつ年下だ?」
ヴィルヘルムは低く尋ねた。
俺は唐突な質問に戸惑いながらも、頭のなかで歳を数える。
「ええと……ヴィル兄は今年で三十だから、十三歳年下か」
「そうだ。十三だ。私はお前より十三年も長く父上と暮らしていたんだ。つまり少なくとも十三年はお前に毒されず、優雅に貴族らしい生活を送っていたわけだ。父上と母上と一緒にな。わかるか? 私は父上と母上を愛していたし、愛されていたんだよ、お前と違ってな」
それはこの軽薄な男には珍しい、静かな怒りの籠もった声だった。
彼が糾弾しているのは、『原作』とは関係のない、しかし確かに俺が壊した平穏に対する罪。俺を愛して、守ってくれた家族への罪。
俺は自分勝手な正しさを追いかけるのに夢中で、兄たちの優しさに甘えて、この罪悪を意識の隅に追いやっていたのだった。
ほんとうは、ずっと昔から気づいていたはずなのに。
「……わかってるよ、ヴィルヘルム。いまのは言うべきじゃなかった。謝罪する」
ヴィルヘルムはグラスのワインを一気に飲み干し、深い、苦悩に満ちた息を吐く。
「ああ、クルト、やめてくれ。この兄に、そんな顔を見せないでおくれ。私はお前も愛してるんだ。可愛い、大事な弟なんだ。愛さないわけがなかろうが」
ヨアナがぽんぽんとヴィルヘルムの肩を叩き、彼のグラスにワインを注いだ。
「あのなあ、お前もだぞ? ヨアナ、私はお前も可愛いんだ。なあ……」
「うむ、うむ。わかるよ、兄さん。とにかく飲みたまえ」
ヴィルヘルムはヨアナに促されるまま、もう一杯グラスを空ける。間髪入れずにまたワインが注がれて、それもすぐに飲み干される。
ヨアナは赤錆色の目を細め、兄の姿を楽しそうに眺めているが、その頬が微妙にこわばっているあたり、これは彼なりの照れ隠しなんだろう。長兄のあけすけな愛情が自分に向けられるのを避けたのだ。
「ふたりとも、そのくらいにしとけ」
俺は一応、兄たちを止めるが、そのころにはもうワインの瓶がほとんど空になっている。
「……決めた、私は決めたぞ、弟たちよ」
酔いに濁った目をしたヴィルヘルムは、しかし屹然とした口調で言った。
「私は父上を告発する。最初からわかってたんだ。私には、そうするほかないのだ。い、言っておくがね、クルトの思想に毒されたわけじゃあないぞ。貴族だから、そうするのだ。そうだ、父上の教えてくださった貴族の姿、誇りあるすがた、それに殉じるならば、わたしは、たとえちちうえを……」
唐突に、ヴィルヘルムは机につっぷした。
机に向かって何やら熱心に語っているが、まったく聞き取れない。
相当に酔いが回っているらしい。あんな飲み方するからだ。
「王宮には、私から報告しておこう。アカデミーの関係で、多少は伝手があるのだ」
兄の世話は彼の使い魔の大蛇に任せることにしたのか、ヨアナは俺に顔を寄せ、囁いた。
「このところ、女王陛下の粛正は特に厳しいと聞く。なんとか穏便に済ませられないか……父上の首ひとつでお許しいただけないか、という意味だが……試してみるよ」
「いや、この件は俺に任せてくれ。俺も王宮に伝手があるんだ」
それも、女王陛下直通の伝手が。
ゲルマニアとトリステインの
その汚名を正当にも体現しているヨアナが告発するより、俺の伝手を使ったほうがまだマシだろう。
「こんなことであいつの手を借りたくなかったんだが……、領民のためだ。仕方ない」
俺は『女王直属の女官』という大出世を果たしたばかりの幼馴染みの得意げな顔を思い、憂鬱にため息を吐いた。
「やれやれ、久しぶりの再会だというのに、
ヨアナは酔い潰れたヴィルヘルムに肩を貸し、よたよたと歩きながら、せつなく呟いた。
彼はこれから兄とともにコールスに帰り、父の内通の証拠を回収してくる予定である。
一方の俺は、ヨアナが乗ってきた馬を借りてトリスタニアに向かい、ルイズを通して王宮に父の告発をする。
ヨアナが言っていた通り、内通者に対するアンリエッタの粛正は苛烈を極める。学院にまでその噂が届くほどだし、『原作』にも彼女の憎しみの深さが描写されていた。
コールス家が背負う
ヴィルヘルムが持ってきた手紙と帳簿の写しだけでも、告発の根拠としては十分なはずだ。
「だがな、クルト。私たちは意外とすぐに再会できるかもしれんぞ」
「裁判の席か、それとも監獄で、ってところか?」
「ふむ、その可能性もあったな。しかし、それとはまた別件だ。あまり期待できないのだが、魔法学院の……」
ひとを
いきなり顔を上げたヴィルヘルムに突き飛ばされたのである。
「く、クルト、クルト……、わたしの、弟」
「お、おう、ヴィル……ヴィル兄の弟のクルトだよ」
ヴィルヘルムは酔っ払い特有のふらついた足取りで俺に迫り、がっしと両肩を掴んだ。
「お前は、あれだな、おかしな子だな。おかしくて、かわいげがなくて、怒りっぽいから、愛されなかったな。ははうえにも、ちっとも愛されてなかったな。
酒臭い息が目に染みて、視界がじわりと歪む。
「だ、だがな、だからこそ、な、わたしは、おまえを愛するぞ。わたしはおまえをなんど殺そうとしたか、わからんが、そ、それでもやっぱり、愛するぞ、愛してるぞ。だって、弟だものな。かわいいものな。なあ、ヨアナ? お前も……」
ヴィルヘルムの頭が薄く光る靄に包まれ、細身の体がずるずると崩れ落ちた。ヨアナの『
「兄さんは、余計なことばかり言う」
ヨアナは杖を振って兄の体を浮かせると、つまらなそうに呟く。
「私はね、お前を殺そうと思ったことはないよ、クルト」
ただ……、とヨアナは言い、赤錆色の瞳に悪戯っぽい光を浮かべた。
「お前が生まれる、少し前のことだがね。兄さんと話し合ったものだよ。母上のお腹にいるのが妹だったらいいな、そしたらふたりで思い切り可愛がって甘やかしてやろう……、とね」
「悪かったな、こんな弟で」
俺は兄たちから顔を
いくつになっても幼い反応が出てしまう自分が嫌だ。
「いまじゃ弟でよかったと思ってるよ。私も、きっと兄さんもね。私から言ってやれるのは……、まあ、そんなところだな」
ヨアナにぐしぐしと頭を撫でられ、俺は死にたかった。
俺は、
なぜって、俺が兄たちから奪ったのは、まさしくこの温かいものなのだから。
そうして、兄たちの言葉に心底から救われてもなお、俺は俺の正しさに執着している。
兄に愛されている父を愛せず、いまでも最低の人間と決めつけ、たとえ彼が縛り首になってもちっとも悲しめる気がしない。
むしろ心の奥底では、父の死を望んでさえいる。
ヴィルヘルムが領主になったほうが、コールスの民はずっと平穏に、豊かに暮らせるはずだから。
この期に及んでこんなことを考える俺には、兄たちに……誰かに大切にされる資格なんてないのだ。
まして、世界でいちばん素晴らしい女の子の初恋を奪おうだなんて。
最近の俺は、浮かれすぎていたらしい。
兄の愛情のおかげで直視せずにいられた罪悪を突きつけられて、俺は一刻もはやく死ぬべきだと、この世界から消えるべきだと思った。
ああ、だけど、俺の兄たちは優しいから、もうしばらくは待ってくれるだろう。
せめてタバサに訪れる悲劇を防ぎ、彼女の苦難を取り除くまでの間は。
このくらいの傲慢は、きっと許してくれるだろう。
【ヨアナ】
○概要
クルトのお兄ちゃん(その2)。
火のスクウェアで、二つ名は『
本来オリ主が持つべきスペックを持って生まれた天才。
かつてはゲルマニアのシュペー卿のもとで修行し、現在はトリステイン王立
ゲルマニアを離れる際、コールス家と縁を切り、アカデミーの要職を代々輩出してきたヴァランタン家の養子となった。
いまはコールスの姓を捨て、ヨアナ・ローレライ・ド・ヴァランタンと名乗っている。
○性格
レイブンクロー。
己の興味に忠実で短絡的。まわりの被害を顧みない享楽主義者。
火系統のメイジらしく、ものが燃えたり壊れたりする様子を見るのが大好き。たんに物理的な破壊だけではなく、目に見えない秩序が破られる瞬間に大きな喜びを覚える。
クルトに『自己破壊的な情熱』を見出し、深い興味を抱いているのも、この嗜癖のためである。
一方で兄と似て情け深い側面もあり、家族に対してはありきたりの、しかし人並み以上の愛情を抱いている。
※あくまでも『筆者の解釈』であり、クルトやその他視点人物の認識とは異なることがあります。