五章も折り返し地点までやって来ました(この話を入れてあと十三話)。
ルイズは得意になっていた。
『魅惑の妖精』亭の厨房に備え付けられた姿見の前に立ったルイズは、お給仕を始めたのは正解だったわね……と、華奢な体をくねらせる。
たったそれだけで、脚も肩も胸元も大胆に露出した、純白のキャミソールに包まれた細い肢体が、暴力的な色気を振りまいた。
服装の卑近な俗っぽさと生まれ持った高貴な気品が奇跡的な調和を果たし、誰しもが……というか、バカ犬が目を奪われる。
その証拠に、ほら……ぱりん! と皿の割れる音。流し場に目をやると、皿洗いをしていたサイトがスカロンにぺこぺこ頭を下げていた。
やっぱりあの犬、わたしに夢中なのね! そりゃあわたしってばちょっとばかし可愛いから、バカ犬がヨダレ垂らして興奮しちゃうのも仕方ないけど! けど!! それで皿洗いもできないなんて! まったく、もうふんとに、ほんとに可愛い……じゃなくて、みっともないんだから!! し、し、躾が必要だわ!
ルイズはにまにまと頬を緩ませ、サイトが箒とちりとりで割った皿を片付ける情けない姿をたっぷりと鑑賞する。サイトがこちらを向く瞬間を狙って、もう一度愛らしいポーズを決めてみる。バカ犬が鼻血を噴き出すのが見える。
まさに『魅惑の妖精』と称するにふさわしい肢体を映していた鏡に、ふと、黒髪の少女が映り込んだ。店長の娘であり、この店で一番の給仕でもあるジェシカだ。
ジェシカは苛立ちを滲ませた呆れ顔で、ぱしんとルイズの背中を叩いた。
「あんた、チップレースで優勝したからって、気ぃ抜けすぎ。お料理できてるわよ。冷める前に持ってって」
はぁーい、とルイズはぽやぽや返事をして、酔客の溢れるフロアに飛び込んでゆく。
ルイズとサイトが『魅惑の妖精』亭で働くようになって、もうじき一ヶ月が経つ。
初めは慣れない仕事に戸惑い、疲弊するばかりだったふたりだけれど、いまじゃもう立派にそれぞれの仕事をこなしている。
サイトはいまだに皿洗いばっかりしているが、その手際は以前と段違いだ。ジェシカやスカロンからコツを教わったらしい。最近は汚れた皿を溜め込むこともなくなり、浮いた時間に料理を習い始めたという。
一方ルイズは、キャミソールを着るようになった。
最初は、こんな下品な格好で人前に出られるものですか、と断固として掃除係を希望していたのだが、ルイズは自分で思っていたほど掃除ができなかった。
罰則の教室掃除でクルトから教え込まれた技は、夜の酒場じゃなんの役にも立たなかったのだ。
机に山盛りになったキセルの灰の片付け方も、ソファについたワインの染みの落とし方も、ルイズは知らない。酔客にふんづけられた油っこい料理の食べこぼしが散らばった床をきれいに磨く方法なんて、ひとつも教わってない。
まして、ここにはルイズがいじけてる間に黙々と作業を進めてくれる男の子はいない。誰も自分の代わりに雑巾を絞ったり、机や椅子を運んだりしてくれないのである。
だから仕方なく、ルイズは給仕として働くことにした。
そう、
断じて、店で働く女の子たちに目を奪われるサイトにムカついたからではない。
あの女の子たちと同じような格好をしたら、わたしを見てもらえるのかな……なんて考えたからじゃない。
とはいえ、それはそれとして、キャミソールは効果てきめんだった。
サイト、厨房で皿洗いをしながら、給仕するルイズをずっと目で追っている。
それだけでなく、仕事のときも、屋根裏部屋で過ごす時間でも、ルイズに妙に優しくなった。
使い魔がご主人さまを見てくれてるので、ルイズも安心して……実際は安心どころか、サイトの視線を感じるたびに心臓が張り裂けそうなほど高鳴るのだが……給仕の仕事に、ひいては女王アンリエッタから与えられた『市井の声を集めよ』という密命に取り組めるのである。
そんなルイズをさらに得意にさせる事件が、先週から立て続けに起きていた。
ひとつは『魅惑の妖精』亭の恒例行事であるチップレースで優勝したこと。
ルイズはレースの序盤から順調にチップを集めていたが……夜の酒場で男に媚びを売るなんてプライドが深く傷つけられたけれど、ルイズにはサイトの視線という最強の精神安定剤があった。それに給仕を始めるまでの数日、ルイズは掃除女として働きながらも、『市井の声を集める』使命を忘れていなかった。モップで床を磨きながらも店で交わされる会話を必死に観察し、結果、女の子たちの手練手管を自然と学んでいたのだった……ジェシカを初めとする先輩たちには、さすがに及ばなかった。
けれどもレース最終日、ルイズは一躍、店の誰より多くのチップを獲得した。
きっかけは、店を訪れたチュレンヌという悪徳徴税官。
チュレンヌは貴族の権威を笠に着て、銅貨の一枚も支払わず酒を飲み、給仕たちを好き放題に触ろうとした。ルイズの胸も『洗濯板』と侮辱した。
デルフリンガーが預かっていたクルトの
このときチュレンヌとその取り巻きが落としていった財布が、まるごとルイズのチップとなったのである。
チップレース優勝の賞品として、ルイズは店に伝わる『魅惑の妖精のビスチェ』を着る権利を得たのだが……それはまた別の話。
ルイズを得意にさせた事件は、もうひとつある。
それは、女王アンリエッタと銃士隊隊長アニエスによる
ルイズはちょっとした偶然からアルビオンとの内通者を追うアニエスと同行することになり、捕縛作戦に協力したのである。
この事件ではたいして活躍できなかったが、それでもアンリエッタが自ら主導する作戦の一助となれたことは、ルイズの不安定な自尊心を多いにくすぐってくれた。
しかも不思議なことに、この事件以来、サイトがますます優しく、そして視線が熱っぽくなっているものだから、ルイズは浮かれたいだけ浮かれていられるのだった。
「ルイズちゃん、ちょっといいかしら」
常連である四十がらみの商人に料理を運び、ついでに心にもないお世辞でチップをかすめて厨房に帰ってきたルイズを、スカロンが呼び止めた。
「なんですか、
とルイズは素直に返事をする。
もしかして、今度からお給金を増やしてくれるとか、あの埃っぽい屋根裏部屋から移してくれるとか、そういう話かしら? なんて浮かれた頭で考える。
しかしスカロンの
彼はぴったりとした革の胴着に包まれた肉付きの良い体をかがめ、声をひそめて言う。
「あなたを指名してるお客さまがいるのよ」
「はぁ」
それが、どうしたのだろう?
新入りのルイズが指名されるのは珍しいけれど、初めてでもない。こんなふうに周囲をはばかって話すようなことではないはずだ。
訝しげな表情を浮かべたルイズに、スカロンはひそひそ声で続ける。
「ふつうの指名だったらいいんだけどね。あのお客さま、このお店に来るのは今日が初めてなの」
なるほど、それは妙である。
この店に通う常連ならともかく、初めての客がどうしてルイズを知っているのか。
「しかもあの方、貴族ね。ちょっと貧乏くさいけど……あなたの知り合いかしら? もしあなたの
スカロンの言葉に、ルイズは胸の奥が熱くなるのを感じた。
先日のチュレンヌの事件以来、ルイズの正体が世をはばかる貴族であることは、スカロンや店の女の子たちに知れ渡ってしまった(実際は、仕草や態度で以前からバレバレだったらしいのだが)。
けれども『魅惑の妖精』亭の仲間たちはそれ以降も態度を変えず、ルイズたちを受け入れている。
そのことが、やけに嬉しかった。
それはルイズが経験したことのない種類の、家族愛とも忠誠とも違う、しかし心地よい連帯だった。
しかもこのスカロン、ルイズの関係者と
初めはなんかキモいおっさんとしか思えなかったのだが、明らかに訳アリのルイズさえ守ろうとする懐の広さは、この店を訪れる下賤な貴族より、よっぽど貴族的だ。
ルイズは不意に、『トレビアンな人は信頼できる』という幼馴染みの言葉を思い出す。
彼のうさんくさい占いを信じた自分は、やはり正しかったのだ。
「ほら、あの方。いまジェシカがグラスをお渡しした……」
ルイズは厨房の料理台に身を隠し、スカロンの太い指が示した席を見る。
彼の娘であるジェシカが酌をしている客は、なるほど、たしかに貴族のようだ。こちらに背を向けてるので顔は見えないが、マントを羽織っている。
ただ、そのありふれた金髪にはどうも見覚えがあるような……そのとき、近くに座っていた酔客の一団が大声をあげて、貴族の客が振り向いた。
ルイズの目に入ってきたその横顔は――、
「――ミ・マドモワゼル。かまいませんわ。あの方、わたしがお相手します」
ルイズはゆらりと立ち上がる。手近にあったワインの瓶をひっつかむ。
自分にこんな苦労をさせておきながら、のうのうと姿をあらわした幼馴染みに、一発食らわせてやらねばならないと決心したからだ。
ルイズはこの現状がそこまで悪くないものだと理解していたが、それはそれとして、彼への恨みと怒りは消えていなかったのである。
「あ、あら、そう? ルイズちゃんがいいなら、いいんだけど……」
スカロンはその様子に、なにか逆らってはいけないものを感じたらしい。いかつい髭面を引きつらせながらも、ルイズに頷いた。
『魅惑の妖精』亭の一席で、ジェシカがクルトに体を傾け、にこにことお愛想を振りまいている。
ルイズは怒りをあらわにその背後にやってきたが、酒場の喧噪に紛れ、ふたりは気づいてない様子。
「お兄さんカタいよー、せっかくこんなお店に来たんだから、もっと楽しまなきゃ!」
「い、いや、俺は遊びに来たわけじゃなくて」
「うっそだー! ほんとは興味あったんでしょ? っていうか、あたしのほうが興味あるかも。お兄さんみたいな人、うちにはめったにこないし」
「そっすか、というか、その、離れてください」
「あ、照れてる? えへへ、やっぱり
「いっ、……、やめてください」
「いいじゃん、いいじゃん! 減るもんじゃないし! かわりにー、お兄さんもあたしのこと触っていいから!」
「触りません。離れて、っ、はなれてください」
「うわー、二の腕かたーい。やっぱり貴族さまだね、鍛えてるんだ。ねえねえ、ふだんどんなことしてるのか……きゃっ!?」
ルイズはここで限界を迎え、クルトの頭にワインをぶっかけた。
巻き添えをくらったジェシカが悲鳴をあげるが、無視である。ルイズはクルトの頭上でワインの瓶を揺らし、最後の一滴まで余さず、入念に振りかける。
「ルイズ!? あんた、またお客さんに乱暴して! あたしまで濡れちゃったじゃないの! このドレス、染みになったらどうすんのよ!」
「うっさい。あんたがいつまでもくっついてんのが悪いのよ」
ルイズも一応ジェシカに恩があるので、彼女がクルトから離れるまで我慢してやろうと思っていた。けれども彼女がクルトにべたべたするのをやめないので、待ちきれなくなったのだ。
ルイズは空になったワインの瓶をくるりと回し、クルトの頭をぶん殴る。
クルトは、いでっ!? と悲鳴をあげ、しかし満面の笑みでルイズに言う。
「おじょ……ルイズ! 助かった! この子、すげえぐいぐい来るから、もうどうしたらいいかと、」
もう一発、殴った。
ごっ! とヤバめの音がして、クルトは机につっぷした。
数秒の沈黙の後、彼はぷるぷる震えながら顔をあげ、髪からワインを
「はは、この容赦ない感じ、ルイズだ……。なんつうか、すごいルイズって感じがする。ここにいるだろうとは思ってたけど、会えてよかった。安心したよ」
「……あんた、ちょっと見ない間にますますキモくなったわね」
「そうか? 元からだろ」
キモい、とルイズは思った。
春の使い魔召喚の儀式以降、この幼馴染みはちょっと様子がおかしかったのだが、今日はいつにも増して変だった。
やはり、あの占いが関係しているのだろうか。ルイズがアンリエッタからの密命を受け、『魅惑の妖精』で働くことになると言い当てた、あの占いが。
ルイズはクルトの腕を掴んで、強引に立ち上がらせる。
「ジェシカ、二階の客室は空いてたわよね?」
「へ? うん……え? ルイズまさか、このお兄さんと一緒に?」
「あたりまえじゃない」
こいつには、あの占いの話をしてもらわなきゃいけないのだ。
必然、アンリエッタに関する話も出てくるし、席を移したほうがいいだろう。
「おっどろいたな、ルイズはサイトだと思ってたけど」
「そうね、サイトも上に来るように言っといて」
「サイトも!? 三人でってこと!? さすがお貴族さま……!」
「は? 何言ってるのよ」
「あんた、意外とやるね……マダム・バタフライは実在したのね……」
ジェシカが感心したようにぶつぶつ言ってる横で、クルトが申し訳なさそうに口を開いた。
「なあルイズ、俺、あんまり金ないんだけど」
「知ってる。そんな
ルイズは不機嫌を丸出しで言う。
「安心なさい。今夜はわたしの奢り。最近、懐に余裕ができたのよ。こないだ親切なお客さまが、お財布ごとチップを落としてくださったから。あんたの占いを信じたおかげね」
『ぴかぴか店内清潔に!』を
ラ・ロシェールで泊まった『女神の杵』ほどではないが高級な寝具や調度品が並び、床には埃ひとつ落ちてない。
クルトと話すだけならふだん寝泊まりしている屋根裏部屋でもよかったのだが、あの狭くて埃っぽい部屋を彼に見られるのは、プライドを傷つけられる気がした。
しかしクルトにとっては、このいかにも高級そうな部屋のほうが落ち着かないのだろう。彼はそわそわと部屋を見渡しながらテーブルの前の椅子に座った。
ルイズはその対面に座り、脚を組んでクルトを睨む。
流し場から駆けつけたサイトもルイズの隣に椅子をひっぱってきて、腰を降ろした。彼の椅子には、デルフリンガーが立てかけられている。
ルイズが何も言わずともこの
実際、サイトはクルト以上に落ち着かない様子で客室の大きなベッドを見つめたり、下から持ってこさせたワインを飲んだり、クルトを憎々しげな目で睨んだり、かと思えばルイズを妙に熱っぽく見つめてきたりと
とはいえ、発言の優先権を持ってるのは使い魔ではなく主人である。ルイズは低い声で尋ねた。
「あんた、わたしがこんな店で働かされるって知ってたわけ?」
「ああ、知ってた」
クルトは当然のように頷き、ルイズは顔がひきつるのを感じた。
ことここに至って、彼女は『未来を知ってる』というクルトの言葉を、微塵も疑っていなかった。
ひとつには、それはルイズ自身が信じたかったから。彼が最初に語った占いが『女王陛下から実力を認められ、密命を授かる』という、ルイズにとってもっとも輝かしい未来を示していたからだ。
しかしこの『密命』が思っていたほど誇り高い仕事ではないと理解させられた今でも、ルイズは彼の占いを信じていた。
それは、クルトの知識や言動にはそれだけのおかしさが……彼は以前からズレていたけれど、ここ最近の振る舞いは特におかしかった……あったからであり、彼の占いが実際に当たっていたからであり、そして始祖ブリミルとも面識があると
この伝説の剣はあれ以降『
曰く、始祖ブリミルは大いなる精霊の意思を真似て『希望』を作った……と。
そしてクルトは『未来が見えるようになったのは使い魔召喚の儀式以降だ』と語り、彼の使い魔である石ころのロッキーは、ラドグリアン湖の水の精霊に『
これだけの事実が揃った以上、『未来を知ってる』というクルトの言葉には、一定の真実味を認めねばならない。
そうして、彼の言葉を信じればこそ、ルイズはどうしても彼に問わねばならなかった。
「なんで教えてくれなかったの?」
「前も言っただろ。教えたら、未来が変わっちまう」
予想していた通りの答えに、ルイズはとうとう、我慢をやめた。
「い、い、意味わかんない! 変えりゃいいじゃないの! このわたしが! こんな場所で! こんな格好で! 平民相手に酌をして! お愛想言って! 触られそうになって!! なんでこんな目に遭わなきゃいけないの!?」
今でこそ給仕の仕事にも慣れてきたし、汚い屋根裏部屋も平気になってきた。酒場が街の噂を集めるのにぴったりの場所ということも理解している。
でも、それとこれとは話が別である。
いくら密命に必要といっても、ルイズはしっかり傷ついていたのだ。
好きでもない男に肌を晒したくないし、笑いかけたくもない。薄っぺらなおべっかを言うたびに心が削れていくのを感じる。サイトのおかげでなんとか今日まで乗り越えられたけど、ほんとうは、毎日つらくてたまらなかった。
お給仕なんか始めたのは、真実、
サイトの視線を奪うため……なんてバカなことを考えていたけれど、それこそ、ただの言い訳にすぎない。掃除も料理もできないルイズは、肌を晒すしかなかったのだ。
このところずっと浮かれていたのは、そうしていなければ自分の心が耐えられないとわかっていたからだ。
「ああ、そうか……すまん、ルイズ。そりゃイヤだったよな。あたりまえだよな。ごめん、そこまで気が回らなくて」
ルイズはサイトの手からグラスをひったくり、クルトの顔に投げつけた。
「ば、ば、ば、バカじゃないの!? い、イヤに決まってるじゃない! あんた昔っからおかしかったけど、そんなこともわかんないくらい気ぃ狂ってたわけ!? 平民に混じって喜ぶような変態の貴族は、あんたくらいしかいないのよ!!」
激情に任せてクルトを罵るルイズの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
それは気の遣えない幼馴染みへの怒りの涙であり、しかし同時に、深い安堵のあらわれでもあった。絶対に認めたくはないけれど、ルイズは安心していたのだった。
なぜって、いかにも申し訳なさそうに謝るクルトには、少しも悪意が感じられなかったから。
彼は本気で気を回す余裕がなかったのだと、わかってしまったから。
信じていた相手に裏切られたのではなく、幼馴染みが義務を放棄したのでもなく、ごく単純な彼の不手際だったと知ることができたから。
ルイズはただただ安堵して……今はまだ、こいつを許しちゃいけないとわかってるのに……どこか無防備な、甘えた心でクルトに怒りを向けていた。
「すまなかった、ルイズ・フランソワーズ。気がすむまで殴ってくれ」
「も、もう、いいわよ……あんたが気ぃ利かないのは、いまさら、だもの」
ルイズはクルトが差し出したハンカチをひったくり、ぐしぐしと顔を拭った。そうすると、この男の子の前で涙をこぼした幾度とない思い出が蘇り、ますます泣けてくる。
幼い頃、中庭の小池で初めて出会ったとき。母や長姉から受けたお説教について、ずーっと愚痴をこぼしてたとき。新しい家庭教師が厳しくて、怖くて、逃げ出したくなったとき。また熱を出したちいねえさまがこのまま死んでしまうんじゃないかと不安でたまらなくなったとき。そうして学院に入ってからも、ルイズがいくら拒否しても彼はしつこくつきまとってきて、彼女が情けなく涙を流す姿を何度も何度も見られたのだった。
やっぱり殴ってやろうかしらとルイズは思い……、しかし、その殺気立った思考はふわりと宙に浮かんで消えた。
隣に座っていたサイトが、ルイズの肩に手を置いたのである。
サイトは無言でルイズを抱き寄せ、ちょっと乱暴に髪を撫でた。なんだかそれだけで、ルイズの胸にはどうしようもない多幸感が溢れ、ずっとわだかまっていた怒りも悔しさも
ルイズは口元をわずかに緩め、しかし、サイトの手を振り払った。温かい使い魔の胸から体を起こし、幼馴染みを睨みつける。
いまのルイズに必要なのは穏やかな心地よさではなく、純粋な、冷えた怒りだったから。
ここまでの質問は、いわば前座だ。彼にほんとうに問うべきことを、ルイズはいまだに、口にできていないのだった。
「ねえクルト。あんた、未来を変えたくない、って言ってたわよね? 占いで見えたっていう未来を」
「……そうだな。大筋では変えたくないと思ってる」
「それって、そんなに大切なことなの? わたしにこんな格好させて、男に媚び売らせてでも守らなきゃいけないことなの?」
クルトは
「結局、あんたの目的はなんなの? あんたはどんな未来を知ってるの? これからなにが起きるっていうの?」
「すまん、ルイズには言えない。サイトにも」
「言ったら未来を変えちゃうから?」
「ああ、そうだ」
ルイズは深呼吸をした。
給仕に出るために薄く紅を塗った唇を小さく開けて、……しかし、言葉にできなかった。
ルイズの喉元に詰まっているのは、この『魅惑の妖精』亭で働き始め、彼の占いについて真剣に考えるようになって気づいた疑問。クルトとの関係の、根幹を揺るがしかねない問いかけ。
あんたは、どうして――、
「クルト、あ、あんたは、わたしの味方……よね。わたしのためになることをするのが、あんたの義務よね」
「そうだな。見失ってた時期もあったけど、やっぱり、お嬢のためにできることをするのが、俺の義務だったら良いと思う」
「信じるわよ。だから」
ルイズは
「……だから、訊くわね」
純白のキャミソールから伸びる、きわどいところまであらわになった脚が目に入り、こんな
いくら怒りに身を任せようとしても、どうしても、うまくいかないのだった。
なぜだが涙があふれてきて、ふとももの上でぎゅっと握った拳に、ぽたぽたと熱い
ぐずず、とルイズは鼻をすすった。
そうして涙に濡れたルイズの手が、大きな手のひらに包まれた。
サイトだ。
「しょ、正直に、答えなさい」
その温もりを拠り所にして、ルイズはとうとうクルトに尋ねる。
「あんたの知ってる未来、変えたくない未来っていうのは、ほんとうに、そんなに、大切なものなの?」
ルイズは、不意に理解する。
必要なのは、怒りじゃなかった。サイトの手がくれた、小さな、しかし確かな温もりだった。
たとえクルトの答えがルイズにとって許せないものでも、この優しい使い魔なら彼を受け入れてくれる。そんな温かな確信こそが、彼女に
「そうだ。つらい思いをさせてすまなかった」
「ちがうわよ、そんなの、もうどうでもいいわよ」
実際、これから口にすることと比べたら、自分が酒場で働かされることなど、まるでどうでもいいことなのだ。
「ほんとうに、あんたはそれを変えちゃいけなかったの? 未来を占ってたなら、わかってたなら、あんたは、どうして――」
ルイズはここで言葉を切り、深呼吸をして、
「……どうして、ウェールズ皇太子を……姫さまの大切な人を、見殺しにしたの? あの方を助けることは、できなかったの?」
ひゅっ、と、クルトが息を呑む音が聞こえた。
その表情を確かめることは、ルイズには怖くてできなかった。
○
デルフリンガーによると、始祖ブリミルが大いなる精霊の意思を真似て作った虚無魔法。
詠唱者は未だ来たらざる己と存在を重ね、未発の世界を視る。
なんとなれば、起こり得る最も善き道を辿り、望む世界を描くことができる……かもしれない。
※原作には存在しない呪文