「……で。なにやってんのよ、あんたは」
翌朝。
客室のベッドで痛む体を起こした俺を、不機嫌そうなルイズが睨みつけている。その隣には微妙な表情を浮かべた才人。
ふたりは俺が気を失ったあとも一階で働いていたのか、瞳が充血して、目の下にはクマができている。
さきほどルイズから受けた説明によると、俺の傷はアンリエッタが治してくれた。血で汚してしまった床板やベッドの清掃代、宿泊費、ついでに俺がいま着ている清潔なシャツの代金も、みんなアンリエッタがポケットマネーから出してくれたらしい。さすが一国の王、太っ腹だ。
「どこでそんな傷を負ったの。誰にやられたのよ。黙ってんなら虚無よ、虚無」
「半分はルイズじゃねえの」
才人がぽそりと呟き、ルイズの肘打ちを食らった。
「わ、わたしのせいじゃないわよ。あんただって、あの包帯見たでしょ。こいつ、ここに来る前から怪我してたのよ」
「その怪我人を、お前がボコボコにしたんだろが」
「う、うううううるさい! こいつが悪いのよ! 怪我してんならしてるって言いなさいよ! 手加減し損ねたじゃないの!! だいたいねえ、傷が開いたきっかけはサイトなんだから、あんたの責任でもあるのよ! っていうかあんたのせいよ!!」
「へいへい」
才人は肩をすくめた。
それから真剣な、怒りを宿した瞳で俺に向き直り、
「今度は変に隠さないでくれよ。姫さまと隊長さんからも頼まれてんだ。その傷の原因によっちゃ、親父さんの処遇も変わってくるって話だ」
「あ、そういうことか」
ふたりがやけに深刻そうに尋ねてくるから、何事かと思ってしまった。
どうやら、俺の傷は親父の内通の証拠を掴むためにできたものじゃないか、なんならレコンキスタの間諜とでも戦ったんじゃないかと、誤解されてるらしい。
そんな顔されると逆に答えづらくなる真相なのだが、素直に吐くしかなさそうだ。
「この間まで、ラ・ヴァリエールの屋敷に呼び出されててな。そこで色々、去年みたいに学院の様子を話したんだが……ほら、フーケの一件でさ、俺たち
「それがどうしたのよ。自分だけは騎士になれたって、自慢したいわけ?」
やたらと噛みついてくるルイズに、俺は首を振る。
「俺みたいのが
ルイズの顔から、さっと血の気が引いた。
おおよその事態を察したらしい。
「あとは……すまん、あまり思い出させないで欲しい」
ルイズはこくこくと頷いた。
しかし才人は納得がいかない様子で、
「どういうことだよ。ミセス・ヴァリエールって……」
「ルイズのお母さまだよ、才人」
「そのルイズの母ちゃんが、お前の怪我となんの関係があんだよ」
声が震えるのを自覚しながら、俺は答える。
「け、稽古を、受けてな。騎士として、最低限の気構えを身につけろって。い、一週間、ほど」
「一週間!? 母さまに!?」
ルイズが悲鳴をあげた。
「ミセス・ヴァリエール、やけに気合いが入ってて……と、途中から、衛士隊の制服みたいなの着だして……」
「せ、せ、せ、制服!? 母さまが、衛士隊の制服を出したの!?」
ルイズが悲鳴をあげた。
「どういうこと? お前の母ちゃん、衛士隊の人だったの?」
ルイズはもはや言葉も出てこない様子で、顔面を蒼白にして頷くばかり。
「ミセス・ヴァリエールは、その……過激な、人でな。ちょっと、こう、こだわりが強くていらっしゃるというか、加減というものが苦手で……つまり、ルイズのお母さまだから、な?」
「はぁ」
才人は首を傾げながらも、頷いた。
「ええと、ともかく、その怪我は親父さんの件とは関係ないんだよな?」
「ないよ。陛下と隊長殿にもそう伝えといてくれ。手間かけさせて悪かった」
「手間はいいんだけどさ」
やはり納得しかねている様子の才人の隣で、なんとか我に返ったルイズが呟いた。
「……あんた、いっぺん死んだほうがいいとは思ってたけど、いっぺんどころじゃなく死んでたのね。言っときなさいよ、そういうのは……」
母の恐怖を思い出したのか、ふらふらと屋根裏部屋に帰って行くルイズ、そして彼女に付き添って行った才人を見送り、俺も客室を後にする。
才人が去り際に杖を返してくれたが、もう自分を殺す気はない。才人にも、そう約束させられている。さっきは感情的になりすぎた。体が限界のときに最悪な出来事が重なって、やけになってしまったのだ。
俺のせいですべてが悪くなっていくのは、以前からわかっていた。だけど、だからこそ、死んで逃げるなんて許されない。せめて義務を果たしてからでなければ、自分を殺す権利もない。
その事実を、忘れないようにしなければ。
「お兄さん、お帰りですか? 一応、もう一泊分のお代は預かってるけど」
階段を降りた先にあるカウンターで、昨夜接客を受けた黒髪の少女……ジェシカに声をかけられた。
彼女は昨夜着ていた胸元の開いたドレスとは違い、灰色の地味なワンピース姿。化粧もすでに落としていて、頭には掃除用らしい三角巾をつけている。
「あはは、恥ずかしいカッコ見られちゃったね。ふだん、こんな時間に降りてくるお客さんなんていないから」
照れたように笑うジェシカは夜の姿よりずっと親しみやすくて、魅力的だ。たいていの男はくらりとするだろう。『原作』で彼女の手練手管を知っていなかったら、俺も通いたくなってたかもしれない。特に、こんな気分のときは。
「俺はもう帰るよ。そのお金は、店への迷惑料として受け取っておいてくれ」
「はぁーい」
あくび混じりの返事。
彼女には、昨夜ほんの数回言葉を交わしただけで、俺が『平民にナメらてよろこぶ貴族』と見抜かれているのだった。
「そうだ、君、訊きたいことがあるんだけど」
「うん、ルイズのこと?」
「……タニアっ子は鋭い、ってのはほんとなんだな。なんでもお見通しか」
「タニアっ子じゃなくて、あたしが鋭いのよ」
ジェシカはにやりと笑う。
「あの子なら、元気にやってるよ。最初は落ち込んでたけど、サイトが上手くフォローしてるみたい。大丈夫なの?」
「俺に訊かれても。大丈夫じゃなさそうなのか?」
「いや、ルイズが元気で、お兄さんが大丈夫なのかってこと」
「俺が? どういうことだ?」
「だってルイズに掃除教えたの、お兄さんでしょ?」
「それは、そうだけど」
曖昧に答えながらも、首を傾げてしまう。
確かに教室掃除の罰則のとき、ルイズに机の拭き方やなんかを教えていたけれど……それがどうして、この場面で出てくるのだろう。
というか、どうしてジェシカがそのことを知ってるんだ。
「あの子ねー、最初は掃除係としてこのお店に入ってきたんだけど、ぜんっぜん使えなかったのよ。そんで注意するとぶつくさ文句言ってて、しょっちゅうあなたの名前を出してたの。『クルトは言ってなかった』とか『クルトったら気が利かない……』とか。だから、昨夜あの子がお兄さんの名前を呼んだとき、ぴんと来ちゃった」
意外な『原作』との差異を教えられて、俺は思わずまばたきする。
あいつの掃除につきあってたことが、こんなかたちで影響してくるとは。
「そりゃ初めはできないことばっかりなのは仕方ないけどさ、あの子、てんでダメだったわ。『お掃除が得意です!』とか言ってうちに来たのに。モップと雑巾しか知らなかったんだから。しかも最初、雑巾絞るのだって人に任せようとしてたのよ」
「……まあ、そうだろうな、お嬢は」
そういえば、教室掃除のときは煤や埃で汚れた机を拭いたり、箒やモップで床を掃いたりしかさせてなかった気がする。力仕事は基本的に俺がやってたし、あいつの機嫌が悪いときは(つまり、ほとんど常に)雑巾を絞るのも俺の担当だった。
それでなくとも学院の教室と夜の酒場じゃ勝手が違っただろうし、俺が中途半端に関わっていたせいで、ルイズに要らぬ苦労をさせてしまったようだ。
「お兄さん、どんな教え方してたの? あの甘えっぷり、いつでも誰かが傍にいて、助けてくれる、って思い込んでる感じだったわ。これはもう、あれでしょ、お兄さん。没落令嬢を
タバサが歴史書で隠してた三文小説にでも出てきそうな、素晴らしい名推理。
なんというか、頭痛がしてきた。
ジェシカの立場からすれば、状況証拠を拾っていけば、そう見えるのかもしれないが……。
「お妾さんじゃないからね。話すと長くなるけど、いろいろ……ほんとうにいろいろ、あったんだよ。それにお嬢、あれでだいぶマシになったんだ」
しかし、昨夜出会ったばかりの、この鋭い少女にさえこんな誤解をされてしまうとは。
いままでいろんな連中にルイズとの関係を『恋』だとか『忠誠』だとかくだらない誤解を受けてきたが、もしかして、客観的に見たら、そう見えるのがふつうなのだろうか。
誤解するやつらがバカの低俗の恋愛脳なのだと決めつけていたが、もしかして、この手の誤解も俺が悪かったりするのか。
「あいつ、昔は『雑巾を絞る』って発想さえなかったんだぜ。初めて一緒に掃除したとき、バケツにつっこんだ雑巾をそのまま引き上げてさ、床を水浸しにしながら机に叩きつけてた」
うっそだー、とジェシカはけらけら笑うが、俺がマジメに話してることに気づいたのか、その笑みが次第に驚愕に染まっていく。
「……本気で? ルイズってば、どんなお嬢さまだったのよ。どういう事情で、そんな子がうちで働いてるわけ?」
カウンターから身を乗り出して尋ねてくるジェシカの瞳はきらめいていて、そういやこの子、才人なみに好奇心が強いって描写があったな、と俺は思い出す。
「くそ、話しすぎたな。この件には、興味本位で首を突っ込まないほうがいい。平気で人が死ぬやつだから。俺としても、これ以上この店に迷惑をかけたくない」
『トリスタニアの休日』で描かれた事件がすでに終わっている以上、もうたいしたことは起きないだろうが、あえて脅迫するような言葉を選ぶ。そうでもしないと、この好奇心の強い少女は引き下がらないだろうから。
「ずるいなー、貴族のお兄さん。そんな言い方されたら、あたしもこれ以上訊けないじゃん」
案の定、むすーっと顔を頬を膨らませたジェシカに文句をつけられ、俺は自嘲の笑みを浮かべる。
「すまない。でも、巻き込みたくないんだよ。俺のせいで誰かが余計に傷つくのは、耐えられない」
『魅惑の妖精』亭の扉を出ると、夏の日差しに迎えられた。
反射的に視線を俯かせるけれど、強い光に目眩がする。
とりあえずはどこかで馬を借りて、魔法学院に帰らなければ。
ヨアナと話し合った結果、領地のことは兄たちに任せ、俺は学院で待機することに決まっている。
女王との伝手を持つ俺がトリスタニアの近くに残っていたほうが都合がいいから、とヨアナは言っていたけれど、実際は俺がヴィルヘルムや親父と顔を合わせずにすむよう、気遣ってくれたに違いない。
タバサが賭場で稼いだ金貨が残っているから、馬を借りる分には問題ないが……、どうにも、体が重たかった。
疲労や痛みだけじゃない。兄たちと別れてから、ずっと憂鬱な気分が拭えない。俺には時間がない。こんなところで甘ったれてる権利はないとわかってるのに、動きたいと思えないのだ。
けれども、いつまでもこんなところで突っ立ってるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせ、無理にでも歩き出そうとした、そのとき。
べちゃっ、と。
目の前に水の塊が落ちてきた。
不思議な既視感。
雨? と一瞬だけ思うけれど、それにしては不自然だ。水は微妙に粘性を持っているし、空は雲ひとつなく、どこまでも青く晴れ渡っている。
と、不意に、青空のなかにサファイアのようにきらめくものを見つける。目を細めてその正体を見極めようとして――とす、と間近になにかが落ちる気配。
視線を降ろすと、そこに立っているのは青髪の天使。
「た、た、たば、どうして」
「シルフィード」
身の丈より長い木の杖を持ち、眠たげな瞳をした小柄な少女、タバサは平坦に呟いた。
「あ、ああ、そうか、あいつが、見つけたのか」
ってことは、さっきの水はシルフィードの唾か。どおりで見覚えがあるはずだ。
というか風韻竜の視力すごいな。『タバサの冒険』にも高度三千メイルから人の顔を見分けられるとか書いてた気がするけど、実際にあの高さから人混みにいる俺を見つけて、ついでに狙って唾を吐きかけられるとは。
ずっと会いたいとは思っていたが、あまりにも不意打ちであらわれたタバサの姿に、俺は心臓が落ち着かない。また傷口が開きそうだ。
「えと、買い物に来てたのか」
「帰り道」
どこからの、とはタバサは語らない。きっとまた任務を命じられていたのだろう。
この時間にトリスタニア上空を飛んでたってことは、昨日の明け方まで働かされていたのかもしれない。
「おかえり。大変だったな。怪我は、してない?」
「した」
あっさり肯定されて、吐きそうになる。
タバサの体に触れて傷を確かめたくなる衝動を、必死で抑える。
タバサはそんな俺をじぃっと見つめ……、何かを堪えるかのように
「でも、もうへいき。治した」
「ほ、ほんとに?」
タバサは頷いた。
「でも、でも、痛かっただろう?」
そんなこと訊いて、いったいなんの意味があるのか。俺にはどうしようもないことなのに。
「いつものこと」
「そう、だよな。すまない……余計なこと言って」
タバサは首を振った。
「あなたは?」
「俺はこっちに急用ができて……」
どこまで打ち明けていいものか、考えながら話していると、気がついた。
タバサの視線。
俺ではなく、店の看板に向いている。
けばけばしいピンクの染料で書かれた、『魅惑の妖精』の文字。
「ご、誤解だ」
この期に及んでタバサに良い格好を見せようとしてる自分が情けない。
けれども俺の口は、俺の意思とは無関係に早口で言い訳を並べ立てる。
「どうしても、用事があったんだ。つまりその、店に遊びに来たわけじゃなくて、そりゃあ店の女の子と話したりもしたけどけっして俺の意思ではなくて、泊まってたのも仕方なく、事故みたいなもんだから」
「ルイズ」
その呟きで、俺は一気に脱力した。
「なんだ、もう知ってたのか」
タバサは頷いた。
『原作』通り、キュルケやギーシュに連れられてこの店にやってきたのかもしれない。
キュルケにはこの店のことを教えなかったのだが、彼女なら『原作』など関係なくここまで辿り着いても、まったく違和感がない。
「あなたも仕事?」
「まあ、そんなところかな。家の関係もあって、急いでこの店に来なくちゃいけなかったんだ」
「終わった?」
「うん」
「領地」
「いや、戻らない。残りの夏休みは、学院で過ごす予定だよ」
タバサは頷き、すたすたと歩き始めた。
人混みに消えてゆく青い後ろ姿を見送っていると、彼女は不意に
「タバサ、どうしたの?」
タバサは無表情に俺を見つめ、呟く。
「帰る」
「うん。気をつけて……って言っても、シルフィードに乗ってくならめったなことはないだろうけど」
「あなたも」
数秒の間、俺は考える。
それから、間抜けに問いかけた。
「……一緒に乗せてくれるってこと? いいの?」
タバサはもはや頷きすらせず、すたすた歩き出していた。
中心街を外れた広場でシルフィードに乗せてもらい(以前から嫌っている俺がご主人さまについてきたせいか、この風韻竜はひどく機嫌が悪そうだった)、学院に向かう空の上。
「迷惑だった?」
俺の前で竜に跨がり、飛び立って早々に本を広げていたタバサが、ぽそりと呟いた。
俺の頭があまりにも鈍かったものだから、事情があって竜に乗るのを拒んでるように見えたのかもしれない。
「まさか。すごく助かってるよ。馬借りて学院まで走らせるの、けっこうしんどくてさ」
タバサは本を閉じ、俺に振り向いた。
澄んだ青い瞳で、じっと俺を観察した。
「また怪我してる」
「あー……、まあ、ちょっとだけな」
俺は曖昧に頷いた。
汚れた服は着替えたし、包帯も服の下に隠れてるはずなのだが、タバサの前では隠し事なんて無意味らしい。
「でも、たいしたことないから」
「心配」
まっすぐ視線を合わせたままそんなことを言われて、俺は、また泣きたくなる。
落ち着け落ち着け落ち着け……と、自分に言い聞かせる。
俺なんかがタバサに心配される価値はないんだ。
それに……、そうだ、タバサは別に、俺を心配したわけじゃないのかもしれない。
友達思いの優しいタバサのことだから、きっと……、
「大丈夫だよ、ルイズとは関係ない怪我だから」
タバサは微妙に目を細めた。疑われてるみたいだ。
「この怪我は、トリスタニアに着く前にできたものなんだ。ルイズが危ない目にあったりはしてない。保証する。安心してくれ」
タバサの表情は動かない。
俺の言葉は、まるで信用されてない。
仕方ない。素直に話すことにする。彼女の前で
「実はこの一週間くらい、俺、ヴァリエールの屋敷に呼び出されててさ、ルイズのお母さまに
それでようやく、タバサは納得したらしい。
小さく頷き、
「がんばって」
と呟いた。
カリーヌの苛烈さについて、ルイズから愚痴でも聞かされていたのかもしれない。
タバサはまっすぐ座り直して、読書を再開しながら、短く問う。
「ルイズは?」
「どうだろう。夏休みの間は、あの店で働いてるんじゃないかな」
タバサはページをひとつめくり、
「あなたは」
「いまのところは、ずっと学院にいる予定」
「ルイズのところ」
俺はタバサの言葉の意味を、少しだけ考えてから、
「もう行かないよ。いちいちトリスタニアに行くのも手間だし」
「つれてく」
きゅい!? とシルフィードが抗議の声をあげるが、タバサは気にする様子もない。
ずいぶん久しぶりに感じるこの光景が、なぜだか胸の奥にじんと沁みる。
「ありがとう。でもいいんだよ。ちょっと心配だけど、あんまり顔出しても怒られちまう」
「あのお店で、平気なの?」
「ルイズなら、きっと大丈夫。あれで芯は強い子だから」
「サイトもいる」
「うん、才人もいるから、大丈夫」
「……?」
タバサはわずかに首を傾げた。
その仕草に、俺はなぜかジェシカの誤解を思い出す。
『サイトにルイズ取られちゃいそうだけど、大丈夫?』という、くだらない……しかし客観的に見たら仕方ないような気がしてきた誤解。
けれどもタバサの場合は、純粋にルイズを心配しているんだろう。
タバサはルイズが虚無の担い手だと気づいている様子だし、そもそも、彼女がこんな誤解をする余地はない。
なぜって、あの惚れ薬の一件で、俺の好意はタバサに伝わってしまったはずだから。
俺が彼女の指を折ったのは薬の影響だったと説明するため、惚れ薬の『もともと好きだった相手への関心を失わせる』効果と『俺のもともと好きだった相手』について、キュルケが話しているはずだから。
俺がルイズを好きだとかお妾さんにしようとしてるだとか、タバサがそんなバカげた発想をする可能性はひとつもないのだ。
「それじゃあ、あなたは」
タバサはここで言葉を切った。
それはいつものような言葉の節約ではなく、次の言葉を選ぶための沈黙なのだと、俺は不思議と理解できた。
「……暇?」
「え? 暇、なのかな……。どうだろう……」
暇ではない、と思う。
領地でなくとも、自分を鍛えることはできる。学院にいたらオークやコボルトを実験台にするのは難しいけれど、その分、コルベール先生に助言を求めることができる。図書館で知識を漁ることだってできる。
夏休みの残りを学院で過ごすことが決まった瞬間から、俺はコルベール先生に訊くべきことのリストを脳内に作っていたのだ。
だから、いくら領地の仕事がないとは言っても、暇をする余裕はないはずで。
「まあ、いろいろやりたいことはあるけど。だいたい暇、かな? ……たぶん」
だけど口から出てきたのは、そんな腑抜けた言葉。
なぜだろう、そう答えるのが正解な気がした。
「タバサは」
「暇」
暇なはずないのに俺にあわせてくれるタバサは、やはり優しい子だ。
そんなタバサの幸福を壊さないためにも、やはり暇してる余裕はないなと、俺は改めて決意する。
少しでも強くならなきゃいけない。できるはずのことを、ひとつも取りこぼしてはいけない。
俺はそう思って……、でも、それはいままでのような恐怖に追い立てられた末の脅迫観念的な思考ではなく、ごく自然な、キュルケが気づかせてくれた
好きな女の子と言葉を交わしただけでこんなにも前向きになれる自分自身の単純さに、俺は自分で呆れてしまう。苦笑いがこぼれる。
そうして、突然ひとりで笑い出した俺を怪しく思ったのか、タバサが訝しげな視線を向けてきた。
「すまん、なんというか……タバサといると落ち着くな、って思って」
「うそ」
「ほんとだよ。タバサに会えてよかった。いつもいつも、ほんとうに助けられてるんだ」
タバサは無言で肩をすくめ、また本を読み始めた。