五章は明日の話でおしまい。
『バタフライ伯爵夫人』の最初の台詞と、「お気に入りの騎士を寝室に呼びつける」シチュエーションは原作でシエスタが言ってた通り。あとは捏造です。
――『お前が望むやり方で、このわたしに奉仕しなさい』
バタフライ夫人の命令に、騎士ジャスマンは応えなかった。
蝋燭の光がゆらめく寝室に漂う甘い香りは、夫人がロマリアから取り寄せた特製の媚香。
しかしジャスマンを狂おしくさせるのは、夫人自身が放つ魔性――この美しい女主人に忠誠を誓う騎士ジャスマンが命令を受けてもなお動けずにいたのは、彼が奉仕を望まなかったからではない。
真実は、むしろその逆。その命令があまりにも甘美で魅力的であるがゆえに、ジャスマンの身体は硬直し……
夜。
自室のベッドの上で。
寝る前のシュミーズ姿になって、壁を背もたれにして座っていたタバサは身じろぎして、お尻の位置を直した。
素朴な白色のショーツに包まれたお尻とベッドの間には、タバサ自身の右手が挟まれている。
風呂で身を清めてきたばかりなのに、手のひらはじっとり湿っていた。
――バタフライ夫人は笑みを深くした。昼間はひたすらに実直で勇敢な年若い騎士の狼狽する姿に、腹の奥をくすぐられたような心地だった。
夫人はゆるゆると右手を動かし、己の脚を、腹を、胸を撫で上げ、ガウンのボタンをひとつ、外した。
ジャスマンは瞳を震わせて夫人に魅入られていたが、ボタンがさらにふたつ、みっつと外されていったので、慌てて夫人に近づき、ガウンに手をかけた。
高貴な女性は、自分の手で着替えない。当然、自分で脱ぐこともない。伯爵夫人に自らの手で服を脱がせるのは、とてつもなく無礼なことだ。
緊張と興奮に破裂しそうなジャスマンを動かしたのは、騎士として、従者としての本能であった。
ジャスマンの手は夫人の手の動きを引き継ぎ、ボタンをひとつ残らず外してガウンを脱がせる。それからレースのついた紫色のシュミーズに手をかけ――
『あら、それも脱がせたいの?』
ジャスマンはふたたび、硬直した。
謝罪の言葉を述べようとする騎士を制して、夫人は蠱惑的に言う。
『いいのよ。許すわ、わたしのジャスマン。言ったでしょう? お前の望むやり方で……
タバサはふたたび、身じろぎした。
めったなことでは動かないその色白のかんばせは
けっして、気温のせいではない。
すでに夏が終わりかけているトリステインの夜は肌寒く、タバサが着ているような夏物のシュミーズ一枚では、むしろ凍えてしまうだろう。
夜の散歩の後、入浴を終えて部屋に帰ってきたタバサは箪笥の奥から厚手のパジャマを出すべきかと悩んだけれど、結局、読書を優先した。
ざわついた心を鎮めるには、とにかく本を開くのが一番と判断したのである。
そうして読み始めた『“大王”の功罪 ジュリオ・チェザーレの征服とロマリア没落の百年記』は、十ページも読み進められぬうちにベッドの隅に放られているのだが……。
「ん……」
タバサは鼻にかかった声を漏らし、お尻に敷いていた右手を出してページをめくり、その手をまた元の位置に戻した。
左手ひとつで支えている本のなかでは騎士ジャスマンがバタフライ夫人の『慎ましやかだが先端がつんと上を向いた、はっとするほど美しい女性の象徴』に顔を寄せ、『熱心なキス』を繰り返している。
けれどもタバサが思い描いているのは、夫人の不貞の光景ではなかった。
彼女は本を読んでいるようで、その実、まったく別の物語を楽しんでいるのだった。
とある男の子に関する、記憶と空想が入り交じった、タバサだけの物語を。
ふだんは大衆小説の
――やっぱりあなた、まだまだお子さまね。情熱がわからないのね。本はたくさん読むけど、恋の話は読んでこなかったのかしら?
タバサとキュルケが友人の恋路に関する議論を交わしていたとき、キュルケはそんなことを言ったのだった。
性根が負けず嫌いなタバサは『読んでる』と反論したものの、彼女が知る恋の物語といえば、『イーヴァルディの勇者』に出てくる、竜に掠われたルーのお話くらい。
それでさえ、恋が主題というわけではない。あれは『勇気』の物語だ(正確には、ルーの物語に恋愛の要素は一切ない。幼い日のシャルロットが、ルーとイーヴァルディは恋に落ちるのだと勝手に夢想していただけである)。
友人のクルトと一緒に行ったチクトンネ街の古本屋で『バタフライ伯爵夫人』を買った理由は、『わたしだって恋の話くらい読んでる』と、キュルケに言い返すためだ(けっして、書棚の前でぱらぱらとページをめくったときに見つけた過激なシーンが気になったから……では、ない)。
クルトをコールス領に送った日の晩には、タバサは『バタフライ伯爵夫人』を開いていたのだが、その衝撃はあまりにも大きかった。
タバサはガリアの闇を
タバサ自身は経験がないけれど、夜の営みというものがどんな行為かは知っている。男女が……ときに男同士、女同士でも……
ただ、果たしてそれがどんな感情をともなう行為なのか、想像したことはなかった。
情熱だなんだとキュルケが騒ぎ立てるのを聞くのはしょっちゅうだったけれど、自分には無縁なことだと決めつけていた。
初めて『バタフライ伯爵夫人』を読んだ夜。
ページをめくるごとに過激さを増し、露骨なまでに描かれる官能に、タバサはただただ圧倒されるばかりだった。
タバサは目が眩むような思いをしながらも、本をめくる指と文字を追う眼球以外はぴくりとも動かさずに、さほど内容の厚くない『バタフライ伯爵夫人』を読み切ってしまった。
いつもならとっくに寝ている時間を過ぎていたが、タバサは続いて書棚を漁り、『メイドの午後』を手に取った。それは現在七巻まで刊行されている、トリスタニアで人気の大衆小説だった。
そうしてタバサが気づいたときには、東の空が白んでいた。
以来、タバサの読書習慣は変わってしまった。
読書は幼い頃からの趣味だったが、いまのタバサは、楽しむために本を読んでいるのではない。父を殺し、母の心を奪った
だからこそ、彼女は小説の類いは極力読まないように努めていた。
図鑑や魔法の理論書なんかより物語を読んだほうがずっと心躍ることはよくわかっていたが、自身の幼心に冷たい怒りで蓋をして、
けれども『バタフライ伯爵夫人』を読んでからというもの、タバサの手はどうしても無益な本に伸びるのだった。
こんな調子ではいけない。
目的を遂げるため、もっと真摯にならなければと自分に言い聞かせても、タバサは『バタフライ伯爵夫人』ばかり選んでしまう。
だからこの夏期休暇の間、タバサは部屋を出るように意識していた。
ひとりで自室にいると、くだらぬ本しか読めないからだ。
日が出ている間、タバサは広場で、図書館で、キュルケの部屋で、コルベールの研究室で、堅実かつ有益な本を開いていた。
もともとの予定では、任務以外はとにかくずっと部屋に籠もって、休暇の最初に買い付けた大量の本を読破するはずだったのに。
とはいえ夜になれば、タバサも部屋に帰らざるを得ない。
キュルケに頼めば毎晩でも部屋に泊めてくれるけれど、そういうわけにもいかなかった。
夜にキュルケの部屋を訪ねると、いやに気遣われてしまうのだ。
夏期休暇の前半、三日ほど連続でキュルケの部屋に泊まったとき、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた親友に『怖い夢を見ちゃうのね? いいのよ。一緒に寝ましょう、あたしのシャルロット……』と抱きしめられて、タバサは顔から火が出そうだった。
ひとりだとくだらない本を読んでしまうから、なんて理由で部屋を訪ねているとはとても言えず、とてつもない羞恥と申し訳なさで、タバサは朝まで口が
もっとも、タバサがしゃべらないのはいつものことなので、キュルケに怪しまれることはなかったのだが。
それからというもの、キュルケの部屋に泊まるのは週に一回程度に抑え、結局タバサは『バタフライ伯爵夫人』ばかり開いている。
一緒に買っていた『メイドの午後』も同じくらい過激な内容だったのだが、彼女が繰り返し繰り返し読んでいるのは、『バタフライ伯爵夫人』。
そのなかでも、ちょうどいまもページを繰っている第二章を、本に
――バタフライ夫人のシュミーズを床に落とし、あらわになった女性の象徴への奉仕を続けていた騎士ジャスマンは、やがてその口づけを下へ下へと移してゆく。
ジャスマンは夫人のくびれた腹に、可愛らしい臍に、脚の付け根に、丁寧に、まるで夫人を――そして彼自身を焦らすかのように……
タバサは座り直した。
汗ばんだ手をお尻の下から取り出して、ページを戻した。
――『お前が望むやり方で、このわたしに奉仕しなさい』
バタフライ夫人の命令に、騎士ジャスマンは……
また冒頭部分に戻った『バタフライ伯爵夫人』の第二章を、タバサの青い瞳がなぞってゆく。
本の中の騎士ジャスマンは(当然ながら)直前に読んだのとまったく同じに夫人の命令に硬直し、夫人がガウンを脱ぐのを手伝い、そしてシュミーズに手をかけ……、
「許すわ、わたしの……」
湿った声でタバサが呟いた、それはバタフライ夫人の台詞だった。
タバサはさっきから何度もそうしているようにお尻の位置を直して、右手に体重をかけた。
「……許す」
タバサはふたたび、呟いた。
彼女の脳裏に浮かんでいるのは、その台詞が呼び起こした甘い記憶。
アンリエッタの誘拐を防いだ翌日、部屋に訪ねてきたクルトに『イーヴァルディの勇者』を読んでもらったあとのこと。
『許す』と呟いたタバサの右手を、彼はずっとずっと熱心に握っていた。まるでガラス細工の宝物みたいに優しく、けれども手放すことを恐れているかのように……フリッグの舞踏会でイザベラからの使いに気づいたタバサの手を握りしめた、あのときのように、強く。
タバサは体を右側に傾け、肉の薄い自分のお尻で、右手を押し潰した。
そうすると、手を強く握られた感触と少しだけ似たものを味わえるのだ。
彼の手をお尻なんかで代用するのは悪い気がしたけれど、片手が本でふさがっているのだから仕方ない。
タバサはひとりで過ごす長い夜の間に、この方法が一番
タバサは考える。
あの日、クルトに許しを与えたとき、彼はこの手を握ってくれた。
それは惚れ薬に心を奪われていた彼が指を傷つけたことへの贖罪もあるのだろうが……、彼自身の望みは、どうだったんだろう。
もし、あのときタバサが『あなたの望むやり方で』と付け加えていたら、彼はどうしていただろう……。
タバサは傾いたまま体を揺らして、手が痛むくらいにお尻で圧迫する。
そうやって右手に体重をかけているうちに、滑ってしまう。自分の体を支え損ねて、壁に頭をぶつけそうになる。
知らぬ間に、手のひらにひどく汗をかいていたらしい。
ふだんはここまで強くしないのだけれど、この数週間、ひとりになる機会がなかったせいだろうか。久しぶりの『バタフライ伯爵夫人』に頭の奥がぴりぴりするような、奇妙な気分になっている。
タバサはお尻の位置を直して、目を
「タバサ、遅くにごめん。いまちょっといいかな?」
クルトの声だ。
全身が
タバサは左手ひとつで器用に『バタフライ伯爵夫人』を閉じ、脚で蹴り上げた毛布の下に押し込んだ。それからベッドに転がっていた『“大王”の功罪 ジュリオ・チェザーレの征服とロマリア没落の百年記』を取って読み始め、ページの半分ほど読んだところでクルトが扉の前で待っていることを思い出した。本を読んでる場合ではない。タバサはベッドの脇に立てかけていた杖に右手を伸ばし、『
ずっとお尻の下に敷いていた右手は汗で滑り、しかもこわばって上手く動かなかったのだ。
「タバサ? いまの音……どうしたの? 大丈夫か?」
焦りと恐怖を滲ませたクルトの声。
タバサはベッドから落っこちるように床に降りて、杖を拾い上げる。
今度こそ、『解錠』を唱える。
そうして鍵が開くと同時に扉が勢いよく開けられ、
「タバ……!?」
閉じられた。
「す、すまん。悪気は、なかったんだ。ほんとうなんだ。ただちょっと大きな音がしたから焦って、つい……、ほんとうに申し訳ない」
タバサは火照った顔で扉を見つめ……、乱れた呼吸を整えるだけの間があって、ようやく理解した。
クルトが逃げてしまった理由。
そういえば、タバサはガウンも身につけず、シュミーズ一枚の格好で読書に耽っていたのだった。
「すまない、また失礼なことをして……っていうかこんな時間にすみませんでした。ごめんなさい。ほんとごめん……」
「いい」
タバサは短く呟き、クルトの謝罪を遮った。
いつも通りの冷たい無表情に戻った彼女は、制服のシャツとスカートを纏い、マントまで身につけている。
以前彼が部屋を訪れたときのようにガウンを着てもよかったのだが、もっとしっかり肌を隠したかったのだ。
いままで誰に見られたって、ぜんぜん気にしなかったのに。
イザベラに命じられて侍女たちの前でショーツ一枚になったこともあったし、地下賭博場で肌着姿を大勢に晒されたこともあった。それでもタバサは、羞恥というものを感じたことがなかった。
両親の
肌を見られたくない、という……まるでふつうの女の子が抱くような羞恥心を、いまのタバサは抑えきれなかった。
それはきっと、魔法学院のこの部屋では、友人である彼の前では、心を凍らせることができないからだ。
この温かい空間では、タバサの心はどうしても
タバサは努めて
キュルケだったらごく自然に読み取って、ルイズだったら『ちゃんと喋りなさいよ、失礼でしょ』と叱ってきそうなその仕草を、クルトは嬉しそうに受け止めた。
彼は片手に持っていた籠を机に置いて蓋を開ける。食欲を刺激する、香ばしい匂いが漂ってくる。
籠のなかを覗くと、そこには小さなパンと、代用肉の
「夕飯、タバサも食べ損ねたと思って。それで、その……もしよかったら、一緒にどうかな、って」
なぜか、クルトは言い訳でもしているみたいな落ち着かない口調。
「えっと、これ、リュリュさんから代用肉もらってたからさ。ちゃちゃっと作ってきたんだ。パンはタバサが買ってきてくれたやつの余り」
タバサは自分の腹をさすった。
言われてみれば、空腹だった。
リュリュを送ったあともふらふら散歩なんかしていたタバサは、夕食の時間をすっかり逃していたのだった。