rainy days
/001
カーテンの隙間から差し込む朝日が、デンジとレゼの顔を照らしていた。二人とも横向きで、互いを抱き合うように静かな寝息をたてている。
窓側を向いているレゼの顔に、一瞬、影がよぎった。
瞬間、パチっとレゼの瞳が開かれ、顔を動かさないまま視線だけで周囲を見渡す。
しばらくするとスズメの鳴き声が聞こえてきた。すぐ外の電線に何羽か止まっているようだ。
(……鳥が横切っただけか)
刺客の襲撃でないことに安堵しつつ、一度索敵モードに切り替えたレゼの意識は既に完全に覚醒していた。
目の前でいまだに寝ているデンジの顔を見る。自然と口元が緩くなり、気分も落ち着いてくる。
二人は昨日、恋人同士になったのだ。
(だらしない顔。安心しきっちゃって……私たち、追われる身なんだよ?)
だが、そのだらしない顔がレゼは愛おしい。
緩く開いたデンジの口に、自身のそれを触れ合わせた。
「ぅおっ……え、れぜ?」
「お、は、よ、う」
「……おはよ。え?いま、キスした?」
「うん。したよ」
「なんで?」
「したかったから。……ダメ?」
「……ダメじゃない。最高に目ェ覚めたわ」
照れ隠しに頬をかきつつも嬉しそうな顔のデンジを見て、レゼは満足気に微笑んだ。
「起きよっか。朝ごはん食べて、簡単にお掃除して、出発の準備しよ」
「おう。朝は俺が作るよ。って言っても、パン焼いてジャムかけるだけだけど」
「焼いたパンが出てくるなんて、最高の朝食だよ」
起き上がったその勢いで、布団をたたみ部屋の端に寄せる。
レゼが顔を洗っている間に、デンジは備え付けのトースターでパンを焼き始めた。
さて飲み物を用意しようとデンジがコップを探していると、昨日は気付かなかったが、インスタントコーヒーの袋が2つ置いてあった。袋の裏にドリップパックの使い方が書いてあり、読めない漢字が多く全部は理解できなかったが、ご丁寧にイラスト付きだったため、なんとなく用意してみようと思った。
やかんでお湯を沸かしていると、洗面所から帰ってきたレゼがデンジの手元を見て言った。
「それ、コーヒー?」
「ああ。たまたま見っけたから、淹れてみようかと思って。いまお湯沸かしてる」
「んふふ。二人の思い出の味だもんね。カフェのマスター、元気にしてますかねぇ」
「……あっ。そういえば俺、結局マスターに何も言わずに来ちまったよ。レゼは何か言った?」
「私も、花火大会の日に置手紙を残しただけだよ。家の事情で急に遠くに引越すことになったから、バイト辞めさせてもらいますって。バイト代、貰い損ねちゃったな」
「いつか、行けるといいな」
「うん……そうだね」
同意しつつ、レゼは少し物寂しそうな顔をした。
あのカフェはデビルハンター東京本部庁舎の近くに位置しており、目下逃走中の自分たちが最も忌避すべきエリアにある。
自分たちが抱える根本的な問題が解決しない限り、カフェに行くことは叶わないだろう。
「夢に加えようかな。マスターに会って、レゼと付き合ってますって伝えること」
「いいね。私もバイト代を取り立てに行かなきゃ」
やかんからお湯が沸いたことを知らせる音が鳴る。
レゼはリビングの椅子に座り、ニコニコしながら台所でインスタントコーヒーに苦戦するデンジを眺めていた。
「おまたせ。食べようぜ」
「ありがとー。いただきまーす!」
食卓には、トーストした食パン、パックのいちごジャム、コーヒーが並べられている。
「デンジ君、コーヒー苦手じゃなかった?」
「苦いから苦手だけど、レゼが好きなモンだから、俺も好きになりたくて……やっぱりニゲェ!!」
「……ふふ。じゃあ、少し甘くしてあげるよ」
レゼはデンジのコーヒーをさっと手に取ると、一口だけ飲み、そのままデンジに返した。
「はい、どうぞ。カノジョの間接キス味になったよ」
「おぉ……さっきより甘ェ気がする!」
デンジはまだ熱いコーヒーをグビグビっと喉を鳴らしながら飲み込んでいく。
「おかわりする」
「え?インスタントコーヒーっておかわり作れたっけ」
「分かんねーけど、もっかい淹れてみる」
デンジは台所で再びドリップを始めながら、少しだけマキマのことを思い出していた。
(俺のファースト間接キスは……チュッパチャプスのコーラ味)
公安にいた時、デンジが姫野にゲロチューをされた日に、落ち込む自分にマキマが食べかけのチュッパチャプスを渡してきた。あの時マキマは、ゲロの味は一生忘れないと思うが、これから自分ははたくさんの初めてを経験するから、思い出す暇もないと言っていた。
確かに、ゲロの味は思い出せるが、今の今まで忘れていた。思い出す暇などなかった。
そして、今ではキスの味は、全てレゼに上書きされている。
レゼはパンを食べていて、デンジを見てはいない。
見ていなくて良かった。
マキマが恋しくなった訳でも、感傷に浸りたくなった訳でもなかったが、なぜかレゼに見られたくなかった。
たぶん、この朝食の風景が、アキとパワーを思い出させるから。間接キスという言葉が、マキマを思い出させるからだと思った。
2度目の抽出が終わり、くい、と一口飲み込んだ。
もぐもぐとパンをかじる口元を手で隠しながら、いつの間にかこちらを見ていたレゼが聞いてくる。
「どう?薄くなってない?」
「うーん……薄いけど、さっきより苦くねェから、こっちの方がウマイかも」
「……デンジ君がコーヒーを好きになるまでには、だいぶ時間がかかるかもね」
あの頃の思い出も、いつかこの2杯目のドリップコーヒーのように薄まっていく。
薄まっても、味が無くなるわけじゃない。
寂しさがないと言えば嘘になる。ただ、自分にはもっと大切なものができただけ。
「3杯目はもっとウマくなるかも」
「バカ舌だ〜。もう牛乳とか飲みなよ」
べえ、と自身の舌を出してデンジを揶揄うレゼ。
デンジは薄くなったコーヒーをくい、ともう一口飲み、食卓に戻った。
「これでゴミは全部かな」
「そうだな。……あ、そういや公安の時のズボンとネクタイ、何となく持ってきてたけど、もう着ることもねェし一緒に捨てちまおうかな」
「んー、変装用にとっといてもいいかもだけど」
時刻は11時。2人は朝食を食べ終え、室内を軽く掃除し、ゴミをまとめているところだ。
デンジが荷物の中からズボンを引っ張り出してきて広げると、見事に穴や傷でボロボロだった。
「あー、これはもう履けないねぇ」
「このズボン、すげェ動きやすくて、けっこう頑丈だから気に入ってたんだけど、さすがにもう無理だな」
「へぇ……あ、ホントだ。特注品かな」
レゼはズボンをつまんで引っ張りながら、感心したように言う。レゼの言うとり、公安、特にデビルハンターに支給される制服一式は国内最高級の質を誇り、伸縮性や耐久性に長けた逸品だった。
「私が縫って直してもいいけど、たぶん元通りにはならないかなー」
「……よし、思い切って捨てよ」
ズボンとネクタイをゴミ袋の中に入れ、いよいよ旅支度は完了する。
「…………」
「…………」
無言でリビングの椅子に並んで座る2人。
どちらともなく椅子を動かしてぴったりとくっつき、レゼは頭をデンジの肩に寄せる。
昨日は、夢のような穏やかな一日だった。贅沢ですらあった。これが基準になってしまうと、今後の旅が辛くなる。
レゼは駄々をこねるように、頭でデンジの肩をぐりぐりと擦った。
「んー」
「え、え、なに、どした?」
「べつに。うりうり」
「ちょ、くすぐってェよ」
「……いや?」
「イヤじゃない。……さみしーの?」
「……うん」
「楽しかったよな。洗濯して、買い物して、昼寝して、レゼが作ってくれたメシを食って、公園で遊んで、花火やって、一緒に寝て。普通の日常、みたいで」
「……いっぱい、キスもしたよ」
「キスは、俺にとっては日常じゃなくて特別」
「じゃあ、特別な時しかキスしないの?」
「特別だけど、日常でもしちゃう」
「なんじゃそりゃ」
2人で笑い合い、どちらともなくキスをする。
そのまましばらく、日常で特別なやり取りを繰り返していると、来客を告げるチャイムが鳴った。
「管理人さんだ。挨拶して、出発しよう」
「ああ。いいトコだった。また来ようぜ」
名残惜しさを隠せぬまま、少し俯き加減で玄関に向かい、管理人を招き入れた。
「一応チャイムを鳴らしてみたが、まだ居たのか。ああいや、もちろん居てもいいんだが」
「昨日のお野菜のお礼を言いたかったので、待ってたんです」
「晩メシで食ったよ。美味かった!ありがとな」
「ちょっと。敬語、敬語」
「ハハ、あんたらはお客さんだし、気にしなくていい。それにお礼なんてわざわざよかったのに。今時の若いもんにしては礼儀正しいな。ここは何もない町だが、機会があればまた来てくれ」
「ああ。ゴミ、まとめてあるけど、どっか運ぶなら俺やるぜ」
「じゃあ頼むとしよう。外の軽トラの後ろに乗っけてくれ」
「あいよ」
「あ、じゃあ私、リビングに置いてある料金を取ってくるね」
レゼはいったん家の中に戻り、デンジはゴミ袋を片手に管理人と共に軽トラに向かって歩いていく。
デンジと管理人が軽トラの前まで来ると、管理人の持つ携帯電話の音が鳴った。
管理人は軽くデンジに手を振り、悪いねと言いながら電話を取る。
「もしもし。パトロールの件か。ああ、分かってる。仕方ないだろ、この町にはデビルハンターがいないんだから」
デビルハンターという単語に、デンジの体がピクリと反応する。
「ああ。また民間のデビルハンターに声をかけてみるよ。いまお客さんの対応中だから、いったん切るよ。じゃあ」
管理人は電話を切ると、スマンスマンと言いながら愚痴るようにデンジに言う。
「こんな町にも、定期的に悪魔がでるもんでな。ただこの近くに公安の詰所はないし、民間登録のデビルハンターもいないから、わざわざ都市部から呼んで来てもらってるんだ」
「へェ。おっちゃん、偉い人?」
「偉くはないが、この辺りの地域の悪魔災害を防ぐ仕事をしてるんだ。不動産をいくつか持ってるからその管理と掛け持ちでな。まあ、暇人だからこういう役を押し付けられるんだよ。あ、ゴミはこの荷台に乗せてくれ」
「あいよー」
軽トラの荷台にガサッとゴミ袋を置きながら、デンジは頭の片隅に何かが引っ掛かるような感覚を覚えた。
「え?おっちゃん、もしかしてデビルハンターの仲介屋やってる?」
「仲介屋ってほどじゃないが……まあ、一般的にはそういうことになるな」
「デビルハンター探してんの?」
「探してるさ。紹介してほしいくらいだよ」
デンジはニヤリと笑いながら、管理人に言う。
「デビルハンター、紹介できるかもしんねェぜ」
/002
「仲介屋を見つけた?」
軽トラの前で長話をしていたかと思えば、玄関口に戻ってきたデンジがそんなことを言うので、レゼは思わず訝しげに聞き返した。
「ああ。管理人のおっちゃんが、そういうこともしてんだとよ」
「彼の言った通りだが……ホントにキミらがデビルハンターなの?」
「…………えっと、ですね」
話の全体像が見えず、何をどこまで伝えて良いものかとレゼが困っていると、察したデンジが手でレゼを示しながら管理人に言う。
「悪いんだけど、こういう話はコッチの方が得意だから、もう一回説明してくんね?」
「分かったよ。じゃあ、まずはこの町のことから話そうか」
管理人曰く。
特段目立った産業も観光資源もないこの町は、徐々に人口を減らしながら緩やかに衰退していること。
県境に位置しており、隣り合った両県の都市部同士の間にあることから、公安の詰所はもとより、民間のデビルハンターの拠点も近くにないこと。
この町の悪魔発生率は全国平均と比べれば高くはないがゼロではなく、悪魔が発生してから民間のデビルハンターに出動要請をしても、到着までとにかく時間がかかること。
自分は不動産賃貸業を営むが、多くの物件は管理会社に任せており、比較的時間に余裕があることから町の治安維持のために近隣エリアの悪魔駆除案件の仲介屋をしていること。
「そういう訳で、近場に常駐してくれるデビルハンターを探しているんだ。まあかれこれ5年は探しているが、なにせ何もない町だから、いっこうに見つからない」
「……なるほど。お話を聞かせてくれてありがとうございます。少し、質問してもいいですか?」
「もちろん構わないが……立話もなんだから、家の中でもいいかい?」
3人はいったん家に入り、リビングに座って打ち合わせを始めた。
レゼは、もしデビルハンターとしてこの町に常駐するならという前提で、平均的な出動回数や出動エリアの範囲、出動報酬や討伐報酬、移動手段の用意、契約書の作成等について細かく質問した。
管理人も慣れているようで、淀みなく回答していく。デンジは話の半分も理解していなかったが、時折うんうんと頷き、場の雰囲気に合わせていた。
「ちなみにですが、もしこの町に常駐するデビルハンターになった場合、住む場所とかって紹介してくれますか?」
「もちろんだよ。不動産は私の本業だからね」
「ありがとうございます。……少しだけ、向こうの部屋で彼と相談してきてもいいですか?」
「ああ。ぜひ検討してくれ」
レゼはデンジを別室に連れていき、小声で話しかける。
「悪くない話だと思う。全部を信用した訳じゃないけど、話が本当なら、むしろかなりラッキーだよ」
「契約とか細かい話はあんまよく分かんなかったけど、確かに俺がヤクザん下でデビルハンターやってた時よりは全然イイと思う」
「それ、相当ピンハネされてたと思うから参考にしていいかは微妙だけど……。この話、いったん受けようと思う。向こうも私たちに対して試験期間を設けると思うから、その間に私たちも継続するか見定めよう」
「おう」
「ただ、申し訳ないけど資金が貯まったら海外に逃げるつもりだから、長くても来年の春頃までしかできないかな」
「まあ、そんときゃそんときだ」
リビングに戻りその旨を管理人に伝えると、管理人は立ち上がって喜んだ。
「そうか!よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「あぁ、それと、決めておいてもらって悪いんだが、一応キミたちの実力を知っておきたい。とりあえず案件が発生したらキミたちに優先的に連絡するから、その結果で正式な決定にするでもいいか?」
「報酬を頂けるんであれば、その判断はそちらにお任せします。それまで寝泊まりする場所も、お願いしてもいいですか?」
「そうだな……立ち入ったことかもしれんが、あんたらの関係を聞いてもいいか?」
「仕事上のパートナー兼……恋人、です」
レゼの視界の端でデンジがニヤニヤしているのが見えた。
気持ちは分かるが、今は止めてほしい。こっちまでニヤけてしまいそうになる、とレゼは思った。
「なら、このままここに住むか?」
「えっ?」
「ここなら家具家電も揃ってるから、新たに買う必要もなかろう。民泊に使ってはいるが、正直な話、2ヶ月に1回くらいしか利用がないんだよ。昨日泊まって、もし気に入ったなら」
「ココがいいですっ!とっても気に入ってますっ!!」
食い気味で答えたレゼに、管理人とデンジはビクッと驚く。
「あ……す、スミマセン」
「い、いや、思いのほか気に入ってくれてたようで嬉しいよ。この物件は管理会社を入れてなくてね、私が直接管理しているんだ。何が不具合があれば直接私に言ってくれ。置いてある物はそのまま使って構わない」
家具家電が揃っていることや、タオルや食器など最低限の生活用品が完備されていることなど、ここは初期費用を抑える上で最高の物件だ。
何よりレゼは、こんな家にデンジと住めたらいいなと思っていた。デンジと恋人になって初めて一緒に過ごした家であり、思い入れもある。少し恐くなるほどの幸運だと思った。
その後、振込もしくは現金で2ヶ月分前払い、という条件で、敷金礼金なしに加えて相場より割安な家賃を案内され、賃貸契約書の締結は後日となるが、今日からこの家に住んで良いこととなった。
「じゃあ、契約書ができたら連絡するから」
「はい、よろしくお願いします」
「ボウズ、こんな可愛くてしっかり者の彼女、なかなかおらんぞ。しっかりやれよ」
「言われなくても分かってるよ!」
「はは。じゃあ、またな」
5年かかってやっと町に常駐するデビルハンター候補を見つけられた管理人は、上機嫌で帰っていった。
いつの間に仲良くなったのか、デンジは管理人からボウズと呼ばれており、からかわれて少しむくれていた。デンジは表面上は捻くれているが、根っこは素直な性格だ。本人は全く自覚はないが、素で人を惹きつける性格であり、レゼにはそれがとても眩しく思えた。
「なんか、トントン拍子に色々決まったね。管理人さんが仲介屋ってこと、デンジ君が聞き出してくれたおかげだよ。ありがとう」
「あ、いや、たまたまおっちゃんが電話してるのが聴こえただけだから……。俺、いつもレゼに迷惑かけてばっかでなんの役にも立てなかったから、少しでも役に立てたなら良かった」
「…………デンジ君」
レゼは立ち上がって座ったままのデンジの前まで移動し、その頭を抱えるように抱き締めた。デンジの頬にレゼの胸が押し当てられ、デンジは慌てふためく。
「アェっ!?」
「そんなこと、言わないでよ。私たちは、役に立つとか立たないとか、そういう利害関係で一緒にいるわけじゃない。得意じゃないことがあっても、2人で補っていけばいいでしょ?」
そう言いながらも、レゼはデンジの気持ちが痛いほどよく理解できた。
「デンジ君は私のこと、何でも知ってて、何でもできる完璧な人みたいに思ってるかもしれないけど、全然そんなことないよ。デンジ君にあって私にないものもたくさんあるし、それを羨ましいって思ってたりもするんだよ」
「……俺にあって、レゼにないものなんて、あんのかな」
「私は、他の人より記憶力が良くて、動作や行動を再現する能力が高いだけ。誰にも思いつかないことをやってのけるような、そういう独創的な能力はデンジ君の方が圧倒的に高いと思うよ」
例えるなら、レゼは公式や方程式をたくさん覚えており、その都度、状況に応じて最適解を導き出しているようなもの。対してデンジは、1+1が3だったり4だったりと、常識をすっ飛ばした思考や行動ができる。
事前に危機を回避しすり抜けるためにはレゼの能力が、直面した危機を打破するためにはデンジの能力が重宝される。
「誰にも思いつかない……ノーベル賞ってこと?」
「アハハハハ!!そう!それ!そういうこと!」
デンジは何だか釈然としなかったが、レゼが笑ってんならそれでいいか、と思った。
「さてさてデンジ君。しばらくこの家に住むわけだし、今日はこの後、生活用品のお買い物をお願いしてもいい?」
「いーぜ」
「私も他に買いたい物があるから、今日は別々で行動しよう」
そう言って、レゼはデンジにスーパーや100円ショップ等で揃うような内容の買い物リストを渡した。
「レゼの買い物は?重い物とかあれば俺も行くけど」
「そういうのは特にないから大丈夫だよ。帰りは……たぶん夕方頃になると思う」
「じゃあ俺のほうが早く帰ってくるから、晩飯の支度しとくよ」
「ありがと。お弁当とかお惣菜でいいからね」
先に家を出るデンジを見送ると、レゼは小さく、よしっ、と気合いを入れて、自らも買い物に出掛ける。
足早に最寄りのバス停に向かい、バスを待つ。時刻表は事前にチェック済みであり、あと10分ほどでバスが来るはずだ。田舎町のため、これを逃すと次は1時間後になってしまう。
予定より少し遅れて到着したバスに乗り込み20分ほど揺られていると、降車予定の停留所の案内放送が流れてきたため、レゼは降車ボタンを押した。
停留所から降りてすぐ、目的地である隣町の衣料品店に辿り着く。
(良いものがあるといいけど)
レゼは店舗に入ると、真っ直ぐにランジェリーコーナーへ向かう。
今日、仮とはいえ2人で住む家が決まった。まさか昨日の今日で見つかるとは思っていなかったが、これも16歳男子の性への執念とデンジの悪運が呼び寄せた運命だったのかもしれない。
家が見つかったら、2人はエッチなことをするという約束をしている。
恐らく今夜、2人は初めてキス以上の肉体関係を結ぶことになるだろう。
レゼは機能的な下着しか持ち合わせていなかったため、いざその時に備えて、いわゆる勝負下着を購入したいと思っていた。
陳列されている商品を眺めながら、脳内で自身に着せ替えてシミュレーションする。
(デンジ君は、何色が好きなのかな……)
イメージカラーでいえば、自分は髪の毛や瞳にちなんだ紫色か緑色といったところか。
清楚さを前面に押し出して地味すぎるのもなんだか面白くないし、かといって派手すぎるのは自分の好みではない。
これはデンジに見せるものであると同時に、自身を鼓舞するための武装でもあるのだ。
(専門店じゃないから、当たり障りない色味とデザインが多いな……)
時間も限られており他の店に行く余裕はないが、今回は妥協したくない。
半ば祈るように端から端へと視線を走らせていると、ふと1点、目に留まるモノを見つけた。
(あ……コレ、いいかも)
レゼはそれを手に取り、じっと見つめる。
薄紫色のブラとショーツ。全体的に落ち着いた雰囲気のそれは、随所に散りばめられた花模様から控えめではあるが確かに主張する華やかさも感じられた。
近くに置かれた姿見の前まで行き、軽く自身の胸元に宛がってみる。
(んー……けっこう似合っているのでは)
そのまま少し顔を傾けて、ポーズをとってみたりする。
(うん……イイ感じな気がする)
いろんな角度から、デンジにどう見られるか、自分がどう魅せれば良いかを探っていく。
今まで服や下着は支給される物を何の感慨もなくただ着用していただけだったが、下着姿の自分の前にデンジがいることを想像すると、感じたことのない高揚感が心の奥底から湧き上がってくる。
値札を見れば、無地のものより多少高いが、良心的な価格設定。
これに決めた。これがいい。
フィッティングサービスは行われていない店だったが、自身のサイズ感は正確に把握している。
レゼは晴れやかな表情でレジに向かった。
レゼは衣料品店で下着を購入した後、近くのドラッグストアに向かった。常備薬の補充と、今夜必要となるであろう避妊具を購入するためだった。
正直なところ、人体実験でボムとなった自分が正常な生殖機能を有しているかは全く分からなかったが、逃亡中の身で万が一にも妊娠するようなことは絶対に避けなければいけなかった。本当ならピルを手に入れたかったが、この国では医療機関でしか正規ルートで入手することはできず、裏ルートで買うには時間がなかった。
(えっ、こんなに種類があるの?)
性関連商品の棚の前で、レゼは避妊具の種類の多さに驚いていた。ざっと流し見しながら、花の香り付き、という商品が少し気になったが、ジョークグッズの域を出ないと思って結局一番オーソドックスなパッケージのモノに決めた。近くのコンビニにはこの類の商品は置いていなかったことを確認していたため、後で足りなくなるよりはいいかと思い、目当ての箱を気持ち多めにカゴに放り込んだ。
「ただいまー」
「レゼおかえり!遅かったから心配したァ!」
「ごめんごめん。バス1本逃しちゃって」
衣料品店で予定より時間を使ってしまった為、乗車予定のバスを一本逃し、レゼが帰宅したのは17時を少し過ぎていた。衣料品店の買い物袋は、ドラッグストアでもらった大きめの袋の中に隠してある。
「半額だったから、今日の夕飯はフライ祭りにしたぜ」
台所には半額シールの貼られたフライ系の総菜が2パック積まれていた。
問題は、その種類だった。
「で、デンジ君、これは……」
「こっちは肉!んでこっちは、漢字が読めなかったから店員に聞いたんだけど、カキっていう貝だって」
デンジはニコニコしながら牛肉のヒレカツと牡蠣のフライをレゼに見せてくる。
(デンジ君、完全にその気になってる……いやいいんだけれども。私もそのために隣町まで行ってきたんだけれども)
赤身肉も牡蠣も、精力のつく素材としては代表的な食材だ。そういった栄養学的な知識がデンジにあったことに少し感心しつつ、半額だからなどとデンジなりに下心を隠そうとしているのがとても可愛く感じた。
「米も買ってきたから、もうちょっとしたら炊き始める」
「重かったでしょ。ありがとね。お礼のマッサージ〜」
「ちょ、くすぐってェよォ」
レゼはすっとデンジの腕を取り、ほぐす様に揉み始める。
今夜の本番に向けて気持ちを盛り上げていく意味を込め、いつもより多めにスキンシップを重ねていった。
夕飯を食べ終えた二人。レゼは食器を洗い、デンジは風呂の準備をしていた。
「レゼ、風呂沸いたよ」
「はーい。デンジ君、お先にどーぞ」
「んー。一番風呂、頂きまァす」
今日はデンジの勧めで浴槽にお湯を張り、レゼは人生で初めて湯船に浸かる予定だ。
デンジが浴室に入ったのを確認すると、レゼは今日買ってきた勝負下着を袋から取り出し、タグを切った。本当は一度洗って新品の衣類特有のにおいを取りたかったが、さすがに間に合わない。
次に避妊具の入った紙箱を出し、包装ビニールを破った。寝室の押入れの端に隠しておき、いざその時にすぐに取り出せるようにしておく。
(なんか、私の方がウキウキで準備しちゃってる感じになってるけど……)
男性用の避妊具であり、本当ならこの辺りの作業は男性が女性に隠れてやっておくのが通例だが、この分野においてデンジがどの程度の知識があるか分からないため仕方ない、とレゼは思った。
浴室の方から、デンジが風呂からあがった気配がした。レゼは寝間着の中に新調した下着を隠して、自分も風呂に入る準備をする。
「前住んでたとこより湯船もでかいし、サイコー」
「ふふ。じゃあ、私も初めての湯船、行かせてもらいまーす」
レゼはデンジと入れ違うように浴室へ向かう。
いつもより念入りにシャワーで体を清め、デンジお勧めの湯船に浸かった。
「……っ、ぅあー……」
全身を包む温かさに、思わず声が漏れる。
温熱作用で血流が良くなり、体の芯からポカポカと優しい熱が湧き上がってくるようだ。
それに加えて、デンジが浸かった後の湯に自分も全身を浸していると思うと、妙な気持ちになってくる。
(私とデンジ君、本当に恋人になったんだ。……なんか、ちょっと前までの生活を思うと、信じられないな)
モルモット時代は短期決戦の暗殺任務がほとんどだった。
恋人関係を匂わせるのは殺しやすい場所にターゲットを誘導することが目的であり、必要がなければ篭絡することなく殺してきた。
そもそも爆弾の悪魔の能力自体は暗殺には不向きであり、任務によっては女としてターゲットに近づき、殺害した後、悪魔に変身して空から脱出する、という乱暴な作戦もままあった。
少し暗い気持ちになりかけたレゼだったが、不意にお湯の中を一本、金色の長い毛がふよふよと漂っているのを見つけた。
手ですくって、じいっと眺める。デンジの髪の毛だ。
目をつぶり、ゆっくりと湯船に顔を沈めていく。
(この家で、私、デンジ君と一緒に暮らしているんだ)
その事実は、レゼの昏い過去を照らす光のように思えた。
よし、と心の中で呟くと、レゼは勢いよく湯船から立ち上がる。入りすぎてのぼせてしまっては元も子もない。
軽くシャワーで体を洗い流してから浴室を出て、鏡の前で全裸の自分を見る。
初めて湯船に浸かったからか、全身に赤みが差していた。柄にもなく緊張しているのか、心臓の鼓動はいつもより少し早い。
置いてある扇風機を回すと段々と赤みは引いていき、レゼに雪原のような白い肌が戻ってくるが、なぜか火照りは止まらない。
新調した下着を着用してもう一度鏡を見る。
「うん、イイ感じ」
声に出すと、幾分か気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
寝間着を着て、ドライヤーで髪を乾かした後、ハミガキをし、化粧水で顔を濡らす。
最後に唇に軽くリップを走らせ、レゼはデンジの待つリビングへ戻った。
「出たよー。お風呂、気持ちよかったー」
「だろォ?お風呂発明した人、マジでサンキューって感じ」
「褒め方が雑だ~」
デンジはリビングでテレビもつけずに、ただ座っていた。
テーブルには半分ほど残ったお茶のペットボトルが置いてある。
「お茶、ちょっともらってもいい?」
「……モチロン、ドーゾ」
「アハハ、なんでカタコト?」
レゼは笑いながらデンジの飲みかけのお茶を一口頂く。適度に冷えた水分が、風呂上がりのレゼの体に染み渡る。
「……レゼ、あのさ」
「なーに?もう寝ますか?」
「あ、あぁ。寝室いくか」
デンジは緊張した面持ちで何かを言おうとしたが、レゼに言われるまま寝室へと向かった。
レゼも心中では多少緊張しており、意図しない顔の赤らみを感じていた。
寝室にはレゼが風呂に入っている間にデンジが用意した布団が一組だけ敷かれていた。
昨夜はレゼから同じ布団で寝たいと言った。今日はできれば、デンジから言ってほしい、とレゼは思っていた。
「なあ、レゼ」
「は、はい」
いつもより少し低い声で名前を呼ばれ、緊張でどもってしまったレゼが後ろを振り返れば、少し困ったような顔のデンジがいた。
「あの約束のことなんだけど」
「う、うん。そうだね。あの約束のことだよね」
心臓が早鐘を打つ。
顔だけでなく、全身が火照るような感覚。
「大丈夫だよ、デンジ君。分かってる、キミの気持ちは分かってるから」
「あ、そう?じゃあ、こんなこと思うのはよくねェかもだけど、早く悪魔が出るといいな」
「……へ?」
「ほら、管理人のおっちゃんが言ってたじゃん。俺らの実力を見ておきたいって。そン結果で正式に決めるってことは、まだ仮ってことだろ?」
レゼは先ほどまで感じていた全身の火照りが、急速に冷え込んでいくのを感じた。
「だから、悪魔ァぶっ殺して、おっちゃんから正式に採用!ってなったら……そん時は、ここは仮住まいじゃなくて俺らン家ってことでいいよな。約束、楽しみにしてんぜ!」
「……うん。そうだね。わたしもおなじかんがえだったよ」
天国から地獄とはまさにこのこと。
レゼは恥ずかしさや情けなさで、なんだか泣いてしまいそうだと思った。
生まれて初めて感じる種類の悲しみが心を埋め尽くす。
しかしその悲しみは一瞬で、生まれて初めて感じる種類の怒りに上書きされた。
「……って、そんなわけないじゃん!!」
「えっ!?」
「デンジ君のバカ!!私たち二人が、こんな田舎にノコノコ現れるような悪魔に負けるわけないじゃん!絶対勝つじゃん!もう勝ったようなもんじゃん!」
「え、え、え?」
「せっかく可愛い下着選んだのに!今日デンジ君とエッチなことするんだと思って準備してた私がバカみたい!バカ!バカデンジ!!」
「エェエエエ!!そーなの!?今日で良かったの!?」
「わたしはそのつもりだったけど、デンジ君は違ったみたいだね」
「ウソぉ!ま、まだ間に合う?今からでもエッチなことできる?」
「何言ってんの?私たち、正式に採用されてないんでしょ?だからココはまだ仮住まいだって、自分で言ってたじゃん」
「うわアアアアっ!エッチチャンス、逃したァ!!」
「バカ。ホントにバカ。いつも欲望丸出しのくせに、なんでこういう時にヒヨるの」
「……今から悪魔探しに行く!悪魔探してぶっ殺して、おっちゃんに正式採用してもらう!」
「今回は試験も兼ねてるから、仲介屋を経由して仕事を受けないと意味ないよ」
レゼはその場に崩れ落ちたデンジをジト目で見下ろす。
夕飯の赤身肉も牡蠣もたまたまその組み合わせだっただけで、全体的にレゼの早とちりだったと分かり、レゼは盛大なため息を吐いた。
「はーあ。なんか疲れちゃった。もういいよ。もう今日は寝よう」
「……ごめん、レゼ。俺ァいつも、間違ってばっかりだ……」
「いいよ、別に。ただ罰として、正式採用されるまでデンジ君から私に触るの禁止ね」
「えええェ!?」
「ほら、お布団入ってて。私はちょっと着替えてくるから」
レゼはナイトブラへ着替えるために、いったん脱衣所へ向かう。
寝間着を脱ぐと、出番のなかった勝負下着姿の自分が鏡に映る。
(この町に悪魔が現れて、私たちがそれを倒して、仲介屋から正式にこの町常駐のデビルハンターとして認めてもらう。……一体いつになることやら。まあ、昨日の今日で仲介屋を見つけられたこと自体が、既にかなりのラッキーだけどさ)
来るべきその時まで、この下着は封印だ。
せっかくだから、それまではデンジの目に触れないところに隠しておこう、とレゼは思った。
寝室に戻ると、デンジがうつ伏せになって枕に顔を埋めていた。
レゼがデンジの横に潜り込むと、デンジは顔だけ横に向けてレゼに言う。
「レゼ……さっき、可愛い下着きてたの?」
「うん。とびきり可愛いのを選んだけど……もう今日は見せてあげないよ」
「ぐうう」
今日は、ね。
レゼはデンジに聞こえないように口の中でそう呟く。
デンジの様子から、タイミングはズレていたが想いは一緒であることは分かった。
しゅんと落ち込むデンジを見ていると、怒りのボルテージも徐々に下がってくる。
レゼからデンジに触るのは問題ないため、レゼはデンジの頭をひと撫でした。
「おやすみ、デンジ君」
「……おやすみィ」
デンジの不満気な返事を聞き流し、レゼは目を閉じた。
/003
二人のすれ違いの夜から3日が経過した。
すれ違いはしたが、買い物には二人で出かけ、寝る時は同じ布団。特段二人の関係が悪化するようなことはない。
ただ、デンジからレゼへの接触禁止令は継続しており、スキンシップは減った。
デンジは暇になれば縁側でぼうっと空を見上げていることが増えた。今も、レゼがそろそろ夕飯の支度を終えようとしているが、その間ずっと縁側に座ったままだ。
(そろそろ許してあげようかな……っていうか、もうさっさと許したい。せっかく恋人になれたのに。なんであんなこと言っちゃったんだろう)
あの夜の怒りはとっくに消え去っており、レゼも早くデンジに触れてほしいと思っていた。
レゼが抱き着いてもキスをしても、デンジは律儀に禁止令を守り受け身の状態を保っている。寝る時もこちらに触らないように背中を向けているほどだ。
(……さみしい)
もうそろそろ、自分の方が辛くなってきた。
悪魔が出ないのであれば、何か適当な理由をつけて許してあげようとレゼが思っていた時、家の固定電話が鳴り響いた。
近くにいたレゼが電話を取る。この家の管理人兼仲介屋からだった。
『悪魔が出た。町から近い山の中だ。来られそうか?』
「了解。行けます」
『じゃあ、私が車を回すから、近くのコンビニで集合しよう』
「すぐに向かいます」
電話を切ると、レゼは小さくガッツポーズをした。
報告書に使用するかもしれないため、手元のメモ帳に電話を受けた時間を記入しながら、縁側に居るデンジに声をかける。
「デンジくーん。お待ちかねの悪魔ですよー」
「……俺ァよ、思うんだけどよォ」
「……んん?」
レゼは縁側にいるデンジに向かって声をかけたはずだが、不思議なことに返事は反対側にある玄関の方からきた。
「こんな穏やかな町ン平和を脅かす悪魔なんてよォ、絶対許せねェよなァ!」
「って、はやー!!もう着替えてるし、そもそもいつ移動したのさ!?」
「早く行こうぜ。町の平和を、守りてェ」
デンジは少し間を取って、キメ顔でレゼに言った。
「う、うん……まぁ、いいか」
デンジがこの町の平和を本気で守りたいと思っているかどうかはさておき、急いで集合場所に向かったほうが良いことは事実である。
レゼも手早く動きやすい服装に着替え、モルモット時代から愛用しているナイフを手に、デンジの下へと急いだ。
電話を受けてから15分程でコンビニに着くと、ちょうど仲介屋の車が駐車場に入ってきたところだった。
「早いね。こっちも急いで来たのに」
「たまたますぐに出掛けられる状態だったので。後ろ、乗りますね」
レゼは素早く後部座席に乗り込み、デンジもそれに続く。デンジがドアを閉めたのを確認すると、仲介屋は車を発進させた。
「走りながら説明するよ。すぐ近くの山で悪魔の出現を確認。通報してきたのは麓の川っぺりで遊んでいた地元の学生さん。近隣住民の避難は済んでいて、被害者は一名。悪魔にやられた訳じゃなく、逃げてくる際に転んで腕を骨折したらしい」
「何の悪魔かは分かりますか?」
「私が直接見た訳じゃないが、通報の内容からはクワガタムシの悪魔だと思う」
「クワガタ……甲虫系かぁ」
「クワガタ、つえーの?」
それまで黙っていたデンジが、レゼに小声で質問した。
「強いっていうか、クワガタとかカブトムシみたいな虫の悪魔、あとエビ、カニみたいな甲殻類の悪魔は、外骨格っていう、いわゆる殻が固いんだよね。だから基本的には関節とか部位と部位の隙間を狙って足を止めた後、本体の内側に攻撃を通していくのが定石かな」
「ふーん。じゃあ適当にぶっ叩いてもダメってことか」
ボムになれば爆破で一発だし、デンジもチェンソーマンになれば外骨格ごと削りきれるだろうな、とレゼは思ったが、二人は悪魔に変身することなくデビルハンターの仕事をこなす予定だ。変身後の姿を見られたくないためと、デンジもレゼも変身後は派手に戦うので、チェンソーの回転音やボムの爆発音から追手に見つかるのを避けるためだった。
「そろそろ現場に着く。悪魔を確認したらこの無線機で知らせてくれ。基本的には戦闘開始時と戦闘終了時。あと緊急時ってとこだな」
仲介屋が助手席に置いてあった無線機の端末を渡してくる。
受け取ったレゼが簡単に操作方法を確認していると、車が停まった。
「着いた。報告だとこの辺り……うわぁ!」
仲介屋の言葉の途中で、近くの民家の玄関を突き破ってクワガタムシの悪魔が現れた。
「もう民家まで入ってやがった!お前さんたち、後は頼めるか!?」
「はい。18時20分、戦闘開始します」
「終わったら連絡すっから、おっちゃんは離れてな!」
「頼んだぞ!無事を祈る!」
2人が車から降りると、仲介屋は来た道を引き返していく。
改めてクワガタムシの悪魔を見る。高さはデンジの腰くらいで、全長は3メートル程。普通のクワガタムシとの違いは、ハサミが一対ではなく、縦に三対生えていることだろう。
「うげェ、なんか気持ちわりーな」
「虫系の悪魔は見た目がグロいんだよねぇ」
さすがに場馴れした2人。野良悪魔はこの旅路で何度も狩ってきた。
デンジは手斧、レゼはナイフを手に、徐々に悪魔との距離を詰めていく。
「デンジ君、さっきも言ったけど基本的には足の関節を狙ってまず動けなくする。飛ばれると面倒だから、もし翅が開いたらすぐに根元らへんを切るようにして。間に合わなくても長くは飛べないはずだから、降りてきたところを同じ様に攻撃してこう」
「おう!」
クワガタムシの悪魔も既に臨戦態勢となり、明らかにこちらを警戒している。生まれてまだ間もないのか、言葉を発する様子はない。
1分ほど睨み合いが続いていたが、やがてクワガタムシの悪魔がキリキリキリ、と耳をつんざくような音を発し始める。
「来るよ」
「ん」
デンジが返事をするのと同時に、クワガタムシの悪魔が二人に向かって突進してくる。
「よっと」
戦術も何もない直線的な動き。レゼは軽々と身を翻して突進を避けながら、愛用のナイフで足の関節部分を切りつける。
ザシュッという音と共に血しぶきが舞う。バランスを崩した悪魔に、今度はデンジが襲い掛かる。
「町のォ!平和ァ!」
「まだそれ言う~?」
レゼも加わり、二人で悪魔の足の節々を攻撃していく。
キイイイイ、と口元から鳴き声のような音を発して悪魔は苦しんでいる。
ほどなく、全ての足を細切れにして悪魔の歩行手段を断つ。
「あとは本体の外骨格の隙間から攻撃を通して終わり」
「もっと長ェ武器にしときゃあ良かったぜ」
「次から得物は大鉈にしてもいいかもね」
二人は話しながらザクザクと悪魔を削っているが、デンジの言う通りリーチが足りないため物理的に距離が不足しており、本体に致命的な傷をつけるに至らない。
デンジの武器はホームセンターで売っているような一般的な手斧だ。公安時代に貸与されて使っていた得物であり、チェンソーの次に手に馴染むが、いかんせんリーチは短い。
日本ではいかに民間のデビルハンターと言えど銃火器の使用は許可されていない。長距離の武器はボウガンや改造モデルガンが多く使用され、近接武器では大鉈の使用者が一番多い。
決定打に欠ける状況のなか、急にクワガタムシの悪魔がその場で転がるように暴れ出した。
半ば消化試合のように惰性で攻撃を繰り返していたデンジは驚いて後ろにひっくり返る。
「うおっ!」
「……大丈夫?立てる?」
すぐにレゼがカバーに入るが、一瞬乱れた二人のコンビネーションを、悪魔は見逃さなかった。
バサァ!と大きな音を立て、翅を広げてその場で浮遊したかと思ったら、初速からトップスピードでレゼに突撃してきた。
「ッ!!」
「レゼ!」
凄まじい勢いで飛んできたクワガタムシの悪魔は、レゼがいる場所を猛スピードで飛び抜けていく。
デンジは舞い上がる土煙で目が開けられなかった。かろうじて薄目を開けて周囲を見渡すと、デンジの前に立っていたレゼの影が見当たらない。
ドゴッ!と何かがぶつかる音がした。
音がした方を振り返ると、クワガタムシの悪魔がこちらに飛んできた勢いのまま民家に体当たりをして、壁に埋まっている。
悪魔はレゼに向かって突撃し、レゼの影は土煙に消えた。
あの勢いのまま、レゼごと民家にぶつかったのか。
「レゼェ!!」
「はいはい。ちゃんと後ろにいますよ」
「あれェ!?」
「体当たりは伏せて避けたよ。クワガタは振動で相手の動きを察知するから、しばらく大人しくしてただけ」
「あ、そう」
「ありがとね、心配してくれて。あ~、アレは体がハマって動けなくなっちゃってるね。羽もしまえなくなってるし……今がチャンスかな?」
クワガタムシの悪魔を見れば、折れた羽が邪魔をして内部に収納できず、外骨格の中の柔らかい肉体部分が無防備に晒されている。
「トドメはお願いしてもいい?」
「ああ」
デンジはクワガタムシの悪魔の目の前まで来ると、民家の塀によじ登った。
「運が悪かったなァ。俺ァどうしても、お前ンことぶっ殺さなきゃいけねェ理由があってよォ」
デンジはクワガタムシの悪魔に向かって思い切りジャンプして、振りかぶった手斧を振り下ろす。
「オメェを倒したらよォ!俺ァ念願の、レゼとの初エッチだァアアア!」
「町の平和はどこいったの~」
クワガタムシの悪魔は断末魔の叫びをあげて、やがて力尽きたように動かなくなった。
「俺たちの、愛の勝利だ!」
「性欲の間違いじゃない?」
さらっとデンジにツッコミを入れながら、レゼは無線機のプレスボタンを押し、仲介屋に戦闘終了を報告した。
「お疲れさん!思ったより早かったな」
迎えに来た仲介屋はニコニコしながら二人を労った。それもそのはず、仲介屋としてはこの戦闘でデンジ達が死亡もしくは敗走すれば、またデビルハンター探しを再開しなければならないが、勝利したおかげで二人を正式に迎え入れることができる。
「戦闘で民家が1棟半壊しちゃいました」
「被害としては少ない方だし、確かあそこは空き家だったはず。気にしなくていい」
「報告書の作成はどうしますか?」
「明日以降でも構わないが、書けそうならこのまま事務所でお願いするよ」
時刻は19時過ぎ。民間のデビルハンター登録は適当な情報で仲介屋が代行して行う手筈となっており、報告書の作成には30分もかからないだろう。
戦闘後特有の気だるさはあるが、戦闘内容自体は比較的軽いものだった。体力もまだ十分に残っている。
今日できることは終わらせて、明日は完全にオフにした方が良いと思い、事務所に向かってくださいとレゼは仲介屋に伝えた。
ほどなくして仲介屋の事務所に到着する。少し待っていてくれと仲介屋に言われた二人は、応接室で待機していた。
デンジはソファーに深く座り込み、戦闘時のレゼの動きを思い出していた。
「レゼの動きって……なんか無駄がなくて、カッコイイよな」
「そう?まぁ、訓練ですよ、訓練」
「俺もああいう風にできるようになっかな」
「うーん、確かにデンジ君の戦い方は無駄な動きが多いかもしれないけど、それも含めてデンジ君の戦闘センスは高いと思うから、私みたいに型に嵌まった戦闘スタイルより、ぶっ飛んだ今のままの方が勝率高い気がするな」
「ぶっ飛んだって……それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。でも、そうだな……楽しそうだし、今度組手稽古でもしよっか」
「クミテゲーコ?」
「スパーリング……実践形式の練習試合みたいなやつ」
「えー!?俺、練習でもレゼを殴ったりできねェよ」
「当てなくても、寸止めでいいよ」
「そんな器用なことできねー」
「……じゃあ、私に勝ったらご褒美あげる」
「エッ……?ご、ごほうび?」
「隣町にね、プールで遊べる場所があるんだって。そこ、行ってみたくない?」
「行きたい!……けど、夏の間にレゼに勝てるようになる自信ねぇ」
「そこ、温水プールだから、冬になっても入れるよ」
「つまり……一年中、レゼの水着見放題ってこと!?」
「アハハッ。まずは水着、一緒に買いに行こうね」
仲介屋が書類を持って戻ってくる。
報告書はレゼが記入した。デンジはレゼがすらすらと文字を書いていくのを眺めながら、レゼは指も字も綺麗だなと思った。
「……こんな感じでいいですか?」
「あぁ。いやぁ、丁寧な字で、要点をまとめてくれて助かるよ。デビルハンターは割と事務仕事が雑な人が多いから」
「あはは、なら良かったです」
確かにデンジに書かせたら仲介屋の言う通りになっていただろうと思い、レゼは軽く笑った。
日本式の報告書はレゼの想像以上に記入箇所が多く、事務所に着いてから既に1時間が過ぎようとしていた。
「あと、これもね。あの家の賃貸借契約書。これからもよろしく頼むよ」
「あ……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「ヨロシクな!」
「ボウズ、お前もちょっとは事務仕事おぼえろよ」
「漢字が苦手なんだよォ〜」
偽名として名乗った『鈴木』の判子を渡され、そのまま契約書に押す。
この町の常駐のデビルハンターという前提があるためか、審査や連帯保証人についても細かいことは言われなかったので、契約内容をざっと目に通すだけでよかった。
週に4日以上はこの町に常駐すること、週に3日以上この町を離れる時は事前に連絡することが条件に追加されたが、予定通り敷金礼金はなしになった。
判子を向こうが用意している時点で偽名ということはばれているだろうが、お互い敢えて確認はしなかった。
「家まで送ろう。今回の報酬は後日用意できたら連絡する。次回からはその場で渡すから」
レゼは渡された契約書を大事に抱えた。
それは、二人がこの町に、あの家に住むことを正式に許された証だった。
/004
「ただいま」
「おかえり」
「おかえり」
「ただいま」
家に入り、互いに挨拶をする。これで晴れて正式採用となり、念願かなってこの家は二人の住む場所、帰る場所となった。
「レゼ、あの、俺ら正式に、この家」
デンジがそわそわしながらレゼに話しかると、レゼはデンジに振り向いて、両手を広げた。
「ん」
「え?」
「ん!」
「……レゼェ!」
接触禁止令が解かれたデンジはレゼを抱き締めた。レゼもデンジを抱き締めた。
互いの身体が相手に食い込むような強さで、痛みすら感じるほどだった。
「ずッッッッと!レゼに触りたかった、こうしたかった」
「私も、触ってほしかった。抱きしめてほしかった。罰とか、バカなこと言ってごめん。もう言わない。いつでも触っていいし、抱きしめて」
レゼが少しだけ上を向いて、デンジの背中に回していた両の手を、首筋と頬に添える。
「デンジ君から……お願い」
懇願するような顔と声音でそんなことを言うレゼに、デンジは一も二もなくキスをする。
「レゼ……好きィ」
「私も、好き、大好き」
触れ合うだけだったキスは、やがて深いものになっていく。
デンジはただただもっとレゼを味わいたいと思い、離れないようにレゼの頭を掴んだ。それは何か意図があった訳はないが、自然とレゼの両耳を塞ぐ形となり、レゼの聴覚は二人の口が、舌が絡む水音でいっぱいになる。
「!?」
脳内に直接音が響いてくるその感覚に、レゼの体から段々と力が抜けていく。
レゼは自分より大きなデンジの身体に抱きかかえられ、貪られるだけの存在になる。
暴力的なまでのデンジの愛情に、頭と身体がバラバラになって溶けてしまいそうだと思った。
「ちょ、デンジ君、タイムタイム」
放っておいたら日を跨ぐまでキスし続けそうなデンジを、レゼは一度制止する。
自分の顔が真っ赤になっているのは、デンジに口を塞がれて上手く呼吸ができなかったからだと言い聞かせた。
「口がなくなっちゃうかと思ったよ」
「わ、わりィ。久しぶりにレゼに触れると思ったら、止まんなくなっちまった」
「それは、全然、止めなくていいんだけど……ね、デンジ君。お腹、空いてる?」
「空いてるけど……空いてるけどォ……」
レゼよりデンジの方が背が高く、二人が向かい合って話すと自然とレゼが見上げ、デンジが見下ろす形となる。
今もそうだ。しかし、レゼを見下ろしながらも、顎を引いて上目遣いで揺れるデンジの瞳は、何かを強く訴えていた。
腹は空いている。だが今はそれよりも、もっと強く乾いているものがある。
「……あは。じゃあ、デンジ君、先にシャワー浴びてきて」
レゼはデンジが自身の意図を汲んでくれたことに最上の喜びを感じ、妖艶な笑みを浮かべてそう言った。
デンジは一組だけ敷いた布団の上で正座をしていた。
レゼはデンジと入れ替わりでシャワーを浴びているところであり、デンジはレゼを待つこの時間が永遠のように思えた。
心臓に手を当て、自身の胸元に話しかける。
「ポチタ……おれ、今日、ついに夢が叶うよ」
夢が叶うなら女を抱いてから死にてェ。
いつかポチタに語ったデンジの夢だ。
「今までの人生、イヤなことの方が多かったけど、これで全部チャラ……どころか、一気にハッピーの頂点まで登りつめちまうぜ」
スターターを撫でると、ワン!というポチタの懐かしい声が聞こえた気がした。
「へへ……お前も嬉しいってか。あんがとよ」
「何笑ってるの?」
「うわァッ!!」
いつも間にかシャワーを終えたレゼが、見慣れた寝間着姿でデンジを見ていた。
「おまたせ」
「べ、別に待ってなんか……」
「待ってなかったの?」
「ずっと待ってましたァ!」
「素直でよろしい」
スルリと流れる様に、レゼはデンジの隣に座った。
デンジは改めてレゼを見る。
少し湿り気を残して下ろされた髪、美しく光る翡翠の瞳。どこを見ても、カワイイ以外の感想がでてこない。
「なんですかー?そんなに見つめちゃって」
「メッチャカワイイって思ってた」
「そんなこと言ってくれるのは、デンジ君だけですよ」
「そんなことねーだろ。誰が見たって、レゼはキレイだし、カワイイと思うぜ」
「……本当の私を知ってもそんなこと言ってくれるのは、デンジ君だけってことだよ。このモノ好きさんめ」
レゼはデンジに身を寄せ、その肩に頬ずりした。
一瞬だけデンジの体が強張るが、すぐに受け入れる。
「デンジ君、私と同じ匂いがする」
「レゼと同じボディソープ使ってるからな」
「同じ家に住んで、同じボディソープで体を洗って、同じ布団で寝て……まだデンジ君と出会ってから一ヶ月くらいしか経ってないのに、もう長い間ずっと一緒にいるみたい」
「ずっと、一緒にいようぜ。これから先、何があっても。レゼが一緒なら、俺ぁ最高にハッピーになれる。ハッピーで埋め尽くして、行けるとこまで行ってみようぜ」
「……行き着く先は、地獄かもしれないよ?それでも、同じこと言える?」
少し暗い声音でレゼがそんなことを言うので、デンジは少し上を向いて目をつぶり、言われたことを想像してみる。
地獄。行ったことも見たこともないが、さぞ苦しくて辛くて嫌なことばっかりな場所だろう。そんな場所でも、隣にはレゼがいる。
デンジは自問自答する。
問1……そこは地獄か?
イエス。ここは地獄だ。
問2……そこはクソッタレな場所か?
イエス。ここはクソッタレな場所だ。
問3……お前はハッピーか?
イエス。隣にレゼがいれば、ここがどこだって俺はハッピーだ。
問4……そこは地獄でクソッタレな世界だが、それでもお前はハッピーなのか?
イエス!何回も同じこと言わせんな!隣にレゼがいれば、俺にとっちゃ地獄で天国で楽園なんだよ!!
デンジはつぶっていた目をゆっくりと開き、レゼに答えた。
「頭んなかでよォ、ちょっと地獄行ってきた。苦しくて、辛くて、イヤ~なことばっかりのクソッタレな場所。でもよ、隣にレゼがいるって思うと、俺ァなんかニヤニヤしちまうんだ。苦しいとか辛いとかイヤなこととかもどうでもよくなってくる。俺の好きな子が、俺ンこと好きって言ってくれて、手ェ握ってくれて、抱き締めてくれるって思ったら、地獄だけど天国みてェで、なんだかよく分かんなくなっちまうんだ。あー、なんか上手く言えねェんだけど……」
次いだデンジの言葉に、レゼは目を見開き、肩を震わせた。
「許された、みてェな感じ。俺が生きることを、ここにいてもいいんだってことを、レゼが許してくれるから、俺はこの世界から弾き出されずにすんでるんだ。だから、その地獄は天国で、楽園だ」
これだ、とレゼは思った。
ずっと探していた自分の気持ち。どうしても上手く言語化できなかった
「……やっと、分かった気がする。私があの時、デンジ君の待つカフェに行った理由が。漠然と幸せを求めてカフェに向かったけど……私も、きっと許されたかったんだ。この世界に生きていてもいいって。ここにいてもいいって。私の居場所はここにあるんだよって。あの海で、カフェで、デンジ君が許してくれたんだ。そして今も、許してくれてる。……すごいなぁ、デンジ君は。キミってば、ホントにすごい」
「レゼも同じってこと?じゃあ、俺達……ずっと一緒にいて許し合えば、ずっと一緒にいられてハッピーってことじゃん!永久機関の完成だなァ!!」
「アハハッ!なにそれ、そんなの聞いたことないよ」
「じゃあ俺らが人類初ってことだ。こりゃあノーベル賞もいただきだぜェ!!」
「ッふ、アハハハハッ!!せっかくいい話だったのに、笑わせないでよ~!」
「いてェな、ボーリョク反対!」
レゼは笑いながらデンジの肩を軽く叩いた。大して痛くもなかったが大げさに痛がるデンジに、レゼはまた笑った。
デンジは悪戯なレゼの顔も好きだが、この無防備な笑顔も大好きだった。
もっと近くにレゼを感じたくて、ポカポカとじゃれてくる細腕に手を伸ばす。
「あっ」
デンジに腕を掴まれ、レゼは小さく声を上げた。
つかんだ腕を、デンジは離さない。少しだけ力を込めて、レゼを見つめたまま胸の中へ引き寄せた。
「…………」
「…………」
二人は密着したまま見つめ合う。
レゼがゆっくりと目を閉じた。
段々と距離が近づき、やがてゼロになる。
「……デンジ君」
恥じらいの混じった悪戯な顔で、自身の胸元を指さしながらレゼは言う。
「この日のために、とびきり可愛い下着を着てるんだけど……見たい?」
「そりゃあ……最っ高に……見たい、です」
「じゃあ……いいよ。デンジ君、脱がせて」
レゼはデンジに向かって両手を伸ばす。
デンジが誘われるままにレゼの服を掴んで上に引っ張るようにして脱がすと、目の前には薄紫色の下着姿の最高に可愛い彼女が現れた。
「どう、かな?」
「カッ」
「か?」
「かわいすぎて……鼻血でそう」
「私の下着姿、プールで一回見てるのに?」
「あン時も良かったけどォ、今は、なんつーか、
「デンジ君のその反応が見られて、私も頑張って選んだ甲斐があったよ」
「マジで可愛い。ずっと見てたい」
「……見てるだけでいいのかあ?」
「見てたいし……触りたいです……」
レゼはニンマリと笑うと、デンジの手を取り、ゆっくりと自身の胸に導いた。
ブラジャーの生地の固さと、その奥にある確かな柔らかさを感じ、デンジは自身の手が宛がわれたレゼの胸を凝視する。
自分が女性の胸を揉んでいるという事実と、その先の夢のような行為を想像し、スターターを引かずともエンジンが掛かりそうだった。
「デンジ君の、エッチ」
「レゼこそ、エロ女だ」
「じゃあさ。私たち、このまま……エロ男とエロ女になっちゃお」
「……なっちゃい、ます」
「約束したもんね。デンジ君のしたいこと、全部するって」
「したいこと……全部」
「うん。全部、何でも」
自分という存在を肯定し、受け入れてくれるレゼの言葉。
デンジは吸い寄せられるように、その唇にキスをする。
「優しくしてェけど、レゼが可愛すぎて優しくできねェかもしんねえ」
「可愛すぎるってほどではないと思うけど」
「いンや、可愛すぎる。俺の心も体も、全部レゼに使い果たしちまう」
「……デンジ君なら、私のこと、めちゃくちゃにしたっていいんだよ。キミがそうしてくれたように。私も全部、受け止めるから。かっこいいデンジ君も、かっこ悪いデンジ君も、男らしいデンジ君も、可愛いデンジ君も、大人っぽいデンジ君も、子供みたいなデンジ君も。ぜんぶ、ぜーんぶ、大好き。だから、ちゃんと全部、私にぶつけてね」
許されて、受け入れられて、甘やかされて。
もういっそのこと、この世に生まれたレゼが悪いとすら思ってしまう。
「おいで、デンジ君」
デンジの目が、イヌからオオカミへと変わる。
二人の長い夜が始まった。
/005
二人は初めての情事を終え、レゼは隣で先に寝てしまったデンジの横顔を眺めていた。
伸ばされたデンジの腕を枕にしてその寝息を聞いていると、まるで子守唄のようにレゼを包み込んできて、優しい眠気が襲ってくる。
しかし、レゼは眠らない。
レゼはデンジと初めて出会ってから先程の幸せな睦言までの時間を、繰り返し繰り返し、頭の中で反芻していた。
「……今でも、信じられないよ。どうして君は、私を選んだの?」
正確に言えば、レゼはデンジと出会ってから今までを反芻しているしていたわけではない。
出会ってから今までのあらゆる場面において、違う選択肢に手を伸ばす自分、その先にあるであろう分岐した未来を想像していた。
出会ってすぐに電話ボックスでデンジを殺す自分。
カフェでデンジを殺す自分。
夜の学校でデンジを殺す自分。
プールでデンジを殺す自分。
夏祭りでデンジを殺す自分。
公安の建物でデンジを殺す自分。
逃げる車でデンジを殺す自分。
市街地でデンジを殺す自分。
海でデンジを殺す自分。
「どうして私は……キミを選べたんだろう」
あらゆる場面において、彼の心臓を狙っていた。
あらゆる場面において、彼の心臓を奪うことを先延ばしにした。
あらゆる場面において、モルモットとして間違った選択肢を選び続けた。
間違えて、間違えて、間違えて。
間違いが満ちたその先に、奇跡のような今がある。
「レゼ……?」
「あ……ごめん。起こしちゃった?」
「ん……よしよし……よしよし……」
デンジは寝ぼけたまま、昔はよくポチタを抱いて寝ていたことを思い出し、自由な方の腕でレゼの頭を抱える様に撫でると、再び眠り始める。
「…………ッ」
言葉にならない想いで胸が締め付けられる。
初めて手に入れたこの暖かい陽だまり。
幸せな時間のはずなのに、一滴、また一滴と、レゼの心に不安が滴り落ちてくる。
(こんなに幸せなのに。なんでだろう……こわいよ、デンジ君)
このまま一つになってしまえたらいいのに。
レゼはデンジをギュッと強く抱き締めて、そんな叶わぬ願いを胸に、やっとの思いで目を閉じた。
窓の外から、雨が降り始める音が聞こえた。
プルルルル、という電話の音で、レゼは目を覚ました。この家に電話をかけてくるのは管理人兼仲介屋のおじいさんだけだ。
デンジを起こさないように布団から抜け出し、気配を消したままリビングで受話器を取る。
「はい」
『もしもし。私だが、昨日の悪魔討伐の報酬が用意できたので連絡したよ。振込でもいいが、一応現金で用意してある』
「昨日の今日で、もう用意してくれたんですね。ありがとうございます」
『金払いが遅いと思われて出ていかれたら困るからね。生憎の天気だし、別に今日受け取りに来なくてもいいよ』
仲介屋の言葉にレゼが窓の外を見ると、昨日まで晴れ渡っていた空にはどんよりとした雲がかかり、しんしんと雨が降っていた。
「……もしよければ、しばらく預かっていてもらえますか?」
『構わないよ。予報だと雨も今日から三日は続くみたいだし、天気が良くなったら取りにきてくれ』
「ありがとうございます。また連絡します」
レゼは電話を切って、小走りでデンジの眠る布団に戻った。
デンジはまだ起きていなかったが、急にレゼがいなくなったことでポカンと空いた空間に対し、何かを探すように腕を動かしていた。
空を切るデンジの手をとってその腕の中に体をすべり込ませると、デンジは当たり前のようにレゼを抱き寄せてようやく落ち着いた様子を見せた。
「ふふ……可愛いね。私がいなくてさみしかったの?」
デンジはまだ寝ているようで、規則的に胸を上下させるだけで返事はない。
枕元に置かれた時計を見ると、針は10時を示していた。
昨夜、情事を終えたデンジが倒れる様に眠った時は深夜0時を過ぎた辺りだった。
昨日は二人とも晩御飯も食べていないため、半日以上何も口にしていない状態だ。
我慢できないほどではないが少しお腹が空いたなとレゼが思っていると、デンジの腹からグウウウと大きな音が鳴り、鳴ったかと思ったらデンジが飛び起きた。
「うわあああぁ!腹減った!!」
「アハハ!そんな起き方ある?」
「……おはよ」
「おはよう、デンジ君。キミは本当に欲望に忠実だね。性欲、睡眠欲が満たされて、次は食欲ってわけだ」
「え?なにそれ」
「人間の三大欲求だよ」
「へェ~」
デンジは最初は何かを考えているようだったが、寝起きの頭では上手く理解できなかったのか、やがて「朝飯にしよ」と提案してきた。
リビングに移動し、デンジがキッチンに立つ。特に役割を決めたわけではないが、食事の用意について、朝はデンジが、昼はレゼが、夜はその日の気分でどちらかが準備することが多かった。
「あっ!レゼが昨日用意してくれた晩飯がそンまま残ってたわ。これ朝飯にしようぜ」
「昨日は晩ご飯の準備してる時に呼び出しがあったもんね。もう10時過ぎてるし、お昼ご飯も兼ねて食べちゃおうか」
作りかけの野菜炒めの材料は、後は炒めるだけの状態でボウルごと冷蔵庫にしまわれている。デンジは冷凍してある白米を電子レンジで解凍しながら、フライパンで野菜炒めを作り始めた。
「デンジ君が料理できるの、ちょっと意外」
「できるってほどじゃねーよ?前に一緒に住んでた先輩と、レゼの真似っこしてるだけ。一番の得意料理はパンを焼くことだな」
「その言い方だと、食パンをトーストするんじゃなくて生地から手作りしてますって聞こえるよ」
「小麦粉を水と砂糖で溶かしたドロドロのケーキモドキなら作れるから、あながち嘘じゃねェかも」
「アハハ、なんじゃそりゃ」
野菜炒めの味付けに麺つゆを投入する。デンジは美味いのが確定しているからと、焼く、炒める系の料理は全て麺つゆで味付けをしていた。
「できたァ!」
「ありがとー!美味しそー!」
「野菜切ったレゼだけどな」
「じゃあ二人の合作だ。いただきまーす!」
「俺もいただきます。……美味ェ!」
「おいしー!」
情事を終えた後のご飯がいきなり野菜炒めとはムードが無かったが、半日ぶりのご飯は体に染みた。
二人ともすごい勢いであっという間に完食し、デザートにアイスを食べた。
「そういえば、さっき仲介屋さんから電話きたよ。昨日の報酬の準備できたよって」
「そーなの?早いな」
「民間のデビルハンターは支払いは即金でっていう人が多いから、次からはその日の内に支払われると思うよ」
「そーなんだ。公安の時は給料日が決まってたから、なんか得した気分だ」
「ちなみに、公安てお給料いくらだったの?」
「んー、知らねェな。給料は同居人の先輩が管理してて、俺は小遣い貰ってただけだから」
「え?でも、デンジ君が働いたお金なんでしょ?」
「そうだけど、なんかそういう風になってた。でも俺の給料はちゃんととってあったぜ」
確かに、デンジが公安で働き始めてまだ数ヶ月のはずだが、この旅に持ってきた軍資金はそれなりの金額だった。デンジの話し振りからも、その先輩なる人は恐らく単に面倒見の良いタイプなのだろうとレゼは思った。
「報酬、もらいにいく?」
「雨だから、そのうち取りに行きますって伝えちゃった」
「あー、そうだな。雨、止んだらにするか」
「天気予報では、今日から三日くらいずっと雨みたい」
「じゃあしばらくデビルハンターは休みだな」
「悪魔は雨が振ってるからって出ない訳じゃないと思うよ」
「たしかに、そっか」
「でも、昨日デンジ君がたくさん買い物してくれたから、三日くらいは補充しなくても食べ物には困らないかな」
「そんなら、とりあえず今日は飯食ってテレビ見て昼寝して飯食って寝るっていう日にする」
「ダメ人間だ。欲望に忠実なダメ人間がいる」
「そう。おれダメ人間」
食べ終わった食器をレゼが洗っていると、背後にデンジが近づいてくる。
「んー?」
レゼがデンジに笑いかけると、デンジからは隠そうとして、しかし隠しきれずに漏れ出ている雄の気配を感じた。
「どうしたの。何か、言いたいこと、シたいことがあるの?」
「……ちょっとだけ、抱きしめてもいい?」
「いいに決まってるじゃん」
あっさりと受け入れられて少しだけ面食らったデンジは、いいに決まってたんだ……と小さく呟きながらレゼを背中から抱き締めた。
「レゼ……好きィ……」
抱き締めはするが、デンジの抱き方は、洗い物をしているレゼの手許を邪魔しないように気を付けているのが分かる優しいものだった。
「私も好きだよ。もう少しで洗い物終わるから、そしたらイチャイチャしようね」
「うん。出かける予定とか、なんもない?」
「何にもないよ。だから、ずっと抱き締めててもいいよ」
「……最高の休みの過ごし方じゃん」
「抱き締めるだけでいいの?」
「え?」
「デンジ君のしたいこと、もう全部できた?」
「えっ」
「できた?」
「……できて、ない。もっと、したいこと、ある」
「なら、残りのしたいことも、やらなきゃだね」
「じゃあ……じゃあ……仕事が休みで雨降ってる間、ずっとレゼとエロいことしててェ」
「それは……最高の休みの過ごし方だね」
ちょうど最後のコップを洗い終えたレゼは、首だけ後ろに回してデンジにキスをした。
「…………ハッ」
外から聞こえる音楽放送の音でレゼは目を覚ました。
(あ、あれ?今何時?これ、夕方5時になると流れる地域放送の音じゃない?え?うそ、もうこんな時間?今日なにもしてない、いやしてたのか?ず、ずっと、え、えええ?)
隣には裸で寝ているデンジがいる。
昨晩から始まった情事。寝坊しながら朝起きて、ご飯を食べて、また体を重ね、そのまま眠り、気付いたらこの時間になっていた。
(……デンジ君大変です。私たち、お猿さんになってしまったみたいです)
雨が降っているため換気もしていない寝室は、二人の長時間に渡る行為により少しこもったにおいがする。
多少湿度が上がっても空気を入れ替えようと窓に近づくと、庭の向こうに傘が二つ揺れているのに気付いた。
大きな傘と、小さな傘。大小でおそろいの柄の傘を持つ親子連れ。母親とその娘だろうか。
子供は雨を弾くのが楽しいのか、くるくると傘を回し、時折母親に注意されながらも仲睦まじく歩いている。
二人の背中が見えなくなるまで、レゼはその場に立っていた。
「…………」
結局、窓は開けずに、レゼはシャワーを浴びるため浴室に向かった。
シャワーから戻るとデンジも既に起きていて、リビングでスナック菓子を食べていた。
「あー、悪い子がいるぞ」
レゼにからかわれたデンジは少しバツの悪そうな顔をした後、何かを思いついたようにニヤリと笑いレゼの口に菓子を運んできた。
「ぅむっ」
「これでレゼも共犯だぜェ。俺もシャワー浴びてくるわ」
「…………」
浴室に向かうデンジの背中からどことなく余裕めいたものを感じ、レゼは柄にもなく胸が高鳴るのを感じた。
「……なんか、カッコいいじゃん」
口に放り込まれた菓子をポリポリとかじりながら、レゼはキッチンに向かう。喉は渇いていたが、食欲はあまり無かった。
冷えたペットボトルの水を飲みながらテレビでニュースをチェックしていると、台風の悪魔による被害の復興状況についてアナウンサーが話し始めた。
不思議なことに、あれだけ派手な戦闘だったにも関わらず、自分たち二人をはじめ、台風の悪魔さえも実物の映像は使われていないようだった。
(間違いなく公安からの情報規制がかかってる。爆弾の悪魔について報道すれば、凶悪犯が国内逃亡中ってことで国民の不安を煽るから公開してないのかな)
予想はあくまで予想。正解は分からない。
しばらくするとニュース番組が終わったので、テレビを消した。
目を閉じて耳を澄ませば、レゼの世界はシャワーを浴びるデンジの気配と雨の音だけになる。
しばらくそうしていると、デンジがシャワーから帰ってきた。
「あれ?レゼ、まだ髪乾かしてねーじゃん」
「え?……あ、ホントだ。ちょっとぼんやりしちゃってたみたい」
「俺終わってるし、やろうか?」
「……じゃあ、お願いしようかな」
レゼがそう言うと、デンジはニコニコしながらドライヤーを持ってくる。
「痛かったり熱かったりしたら言えよな」
「うん。お願いしまーす」
座ったままのレゼの髪に温かい風が当てられ、少し遅れてデンジが優しく髪を梳いてくる。
ただそれだけの行為なのに、途轍もないほど大きな充足感がレゼを満たす。
(気持ち、いい……)
髪に触れるデンジの手からは、レゼを想う気持ちが直接流れ込んでくるようだった。
頭に、脳に、直接何かを送り込まれるような感覚。
「どう?どっかイヤなところない?」
「……ぜんぜんないよー。サイコー。めっちゃ気持ちいいよー」
普段からは想像できないレゼの少し間の抜けた回答に気を良くしたのか、デンジの手がレゼの首を撫でる。
「隠れてお菓子を食べる悪い子の次は、いたずらっ子ですかー?」
「ここ、赤くなってたから」
「……キミがやったんでしょ」
誤魔化すようにデンジがドライヤーの角度を変えると、風がちょうどレゼの首元のピンに当たるようでチャリチャリと音が鳴る。
今はいつも着けているチョーカーは外されており、体から直接生えるピンの根本がよく見えた。
「ピン、気を付けてね。抜くと爆発しちゃうから」
「……俺たちさ」
「え?ごめん、何て?ドライヤーで聞こえなかった」
デンジはドライヤーを切って、レゼのピンを撫でる様に触った。
「俺たちみたいな悪魔の心臓を持つ不死身の人間って、世界中探してもほとんどいないんだろ?人間って当たり前だけど、死ねば、死ぬじゃんか。だけど俺ァ、死んでも死なねェ……ってことは、今俺ン周りにいる奴らは、俺が生きてても全員死んじまうってことだよな。だけど、レゼは俺と同じで不死身だから、ずっと一緒に居られる。俺ァ、それがすっげェ嬉しいんだ。もちろん最初は任務だったってことも俺ん心臓が目的だったってことも分かってんだけど、今は、俺と一緒に居てくれて、遠い国からわざわざ俺に会いに来てくれてありがとなって思ってる。……わ、わりィ。なんかレゼのピン見てたら急に言いたくなってさ。髪、乾いたぜ。……ドライヤー片づけてくる」
レゼは背を向けたデンジの手を取り、思い切り引き寄せた。デンジの手からドライヤーが落ち、ガタンと大きな音が響く。
「そんなの、そんなの私も同じだよ。デンジ君が
だからせめて、少しでも伝わるようにと強く抱き締める。
しばらく抱き合っていた二人だったが、レゼはふとデンジの様子がおかしいことに気が付いた。
妙に体をモジモジさせているかと思ったら、抱き合うデンジの下腹部に膨らみを感じた。
「ちょっと、デンジく~ん?キミはあれだけシたっていうのに、まーだ足りないの?」
「俺ンせいじゃない!レゼに触ってると体が勝手にこうなっちまうんだ!」
「私のせいみたいに言われてもなぁ」
「……そういや俺たち、今日一日エロいことしかしてねーな」
「そうだよ。これじゃ私たち、田舎のネズミじゃなくて、田舎のサルだよ」
「サル……ネズミより人間に近づいてね?」
「これは進化って言えるのかなぁ」
爛れているなぁ、とレゼは思うが、デンジの望みであると同時に自身の望みでもあったため、口には出さない。
「まあでも、いいんじゃないですかー?仕事が休みで雨降ってる間は、ずっとエッチなことしてたいって言ってたもんね」
「そんな可愛い顔で、そんなエロいこと言われると、俺……」
「……あは。一緒にご飯食べようと思ってたけど……少し、運動してからにしよ?」
レゼはデンジの手を引いて、寝室へと誘う。
生まれて初めて、このまま雨が止まなければいいのにと願った。
/006
ポタ、ポタ、と。
何かが滴り落ちるような音でレゼは目を覚ました。
最初は雨音だと思ったが、音はキッチンの方から発生しているようだった。
重い足取りで音の発生源に向かうと、閉め方が甘かったのか、キッチンの水栓から水滴が垂れていた。
強めにレバーを落とし、水が漏れなくなったことを確認してデンジの元に戻ろうとしたが、ふと視線を落とすと、滴り落ちた水滴がシンクの中で水たまりを作っていることに気付いた。
覗き込めば、無表情の自分が映っている。輪郭はぼやけていて、酷くいびつに見える。
「…………」
デンジとレゼは、雨の降り続く三日三晩、ただひたすらに互いを求めた。
一度も外出せず、食事や寝る時間もまちまちに、それ以外の時間のほとんどを抱き合って過ごした。
行為に及ぶこともあれば、触れ合うだけで終わることもあった。ただ、1日の内で互いの肌に触れていない時間がごく僅かであったことだけは確かだ。
「…………」
ずっと幸せだった。
肌の触れ合う場所はレゼを心ごと暖かくした。
しかしそれでも、時折どうしようもないほど大きな不安がレゼを襲った。
その不安は、デンジに抱かれている時だけは忘れられた。
逆を言えば、デンジに抱かれるまでは心に残り続けた。
「……ッ!!」
レゼは水栓のレバーを思い切り上げた。
ジャアアアと勢いよく水が流れ、水面に映ったレゼの顔ごと水たまりを消し去った。
「なんで……」
水たまりは消えても、レゼの不安は消えない。
水栓から水は漏れていないはずなのに、シンクに水滴が落ちる音がした。
二人が初めて体を重ねてから、四日目の朝。
天気予報の通り、雨は止み、晴天となった。
降り続いた雨が嘘だったかのように空は晴れ渡り、太陽の光が雨水で濡れた庭の草木をキラキラと輝かせている。
「見て見てデンジ君。お庭、すごい光ってて綺麗だよ」
「おー、ホントだ。綺麗……ってか、眩し!」
「アハハ!風情がないなぁ」
デンジはキッチンで朝食の支度をしている。今は買ってきたインスタントコーヒーをドリップ中だ。
レゼはリビングで座りながら、上機嫌で庭とデンジを交互に見ていた。
「雨、上がっちまったから、レゼとエロいことだけする生活も一旦終わりだなァ」
「終わり……終わりかぁ……」
レゼは噛みしめるように、この数日間を思い返していた。
そして、三日三晩、デンジを愛し、デンジに愛されるだけの生活を繰り返してきたレゼに、その変化は突然やってきた。
「あー……これが、普通の生活なんだなぁ……」
いや、突然と言うには語弊があった。予兆はあった。ただ、見えないふり、聞こえないふりをしていただけ。
「あー……これが、幸せってことなんだぁ……」
帰る家があること。
自分の帰りを待つ人がいること。
「あー……い……たい……」
それは、とても幸せで。幸せすぎて。
「いま……しに、たい……なぁ……」
レゼの瞳から、つう、と涙が頬を流れていく。
今、死んでしまいたい。
それは紛れも無くレゼの本心だった。
ずっと知りたかったモノがあった。欲しかったモノがあった。
知ることができた。手に入れることができた。
しかし、知ってしまえば。手に入れてしまえば。その喜びよりも、失う恐怖の方が遥かに大きかった。
レゼは思う。
もしも今、この幸せの中で死ぬことができたなら。
私の人生は幸せだったと、胸を張って言える気がする。
「レゼー、パン何枚食う?……え?レゼ、泣いてる?」
「え?」
顔を上げた拍子に、ポタポタと机に水滴が落ちた。
慌てて目元を擦るが、もう自分では止められなかった。
「ど、どした?どっか痛い?俺、なんかしちゃった?」
「ちが、ちがうの。デンジ君のせいじゃない。あー、ちょっと待ってて、すぐに泣き止むから。ほら、訓練でね、涙も自由自在だから。すぐ、すぐに、な、なきや、止める、止めるから。……あ、あれ?止まんない、なんで、あんなに、訓練したのに……お願い、見ないで。ぅ、ぅうう……ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい」
モルモット時代に、泣くのも泣き止むのも嫌というほど訓練してきた。当然、時間内に泣けず、あるいは泣き止めなければ厳しい罰が与えられた。
レゼは感情がごちゃ混ぜになり、訳も分からず顔の前で腕を交差して体を丸めた。デンジにはそれが、罰を与える人間、暴力を振るう人間から自らを守ろうとする動作に見えた。
「レゼっ……!!」
デンジはレゼに駆け寄り、その丸まった小さな身体を抱き締めた。レゼは最初はいやいやと弱々しく抵抗していたが、デンジに背中を優しく撫でられているうちに段々と落ち着きを取り戻し、やがておずおずとデンジの背中に自らの腕を回した。
「デンジくん……デンジくん、デンジくん」
「おう。いるよ、ココに。レゼん傍に、ずっといるよ」
デンジはありったけの想いを込めて、レゼの背中を撫で、声をかけ続けた。
丸まったレゼの小さな身体は、どこかポチタに似ている気がした。そう思うと余計に優しい気持ちになれた。
「レゼの気持ち、言ってもいいし、言わなくてもいいよ。聞いても聞かなくても、俺のレゼが好きだって気持ち、ぜってェ変わんねーから」
その優しさが、レゼを嬉しくさせる。幸せな気持ちにさせる。そしてまた、失う恐怖が蘇る。
「こわい……こわいよ、デンジくん……」
ずっと普通になりたかった。普通に憧れていた。
デンジがレゼを普通の女の子にしてくれた。憧れを現実にしてくれた。
そして、夢に近づき、手に入れた分だけ、レゼは何かを失い、弱くなっていく。
公園で出会った親子。庭から見た傘を差す母子。無垢な一般市民の命。
今までのレゼなら、目的の達成に必要であれば、その命をいとも容易く刈り取ることに何の躊躇いもなかっただろう。
実際に、告解の悪魔にこのことを指摘された際、本心から「悪いことだと思っていない」と答えていた。
だが、今はできないとレゼは思う。
知ってしまったから。デンジに教えられたから。人々の普通を。当たり前の生活を。
今までの任務で巻き込んで殺した一般市民は一体何人いたのだろう。
直接的か間接的かの違いはあれど、自分が今まで殺し、巻き込んできた人たちにも、当然のように家族がいて、生活があったはず。
その
その人たちは、何か悪いことをしたのだろうか。
殺してきた相手の数だけ人生があり、悲しむ人間がいるということ。
口では自分のことを「大量殺人犯」だと言いつつも、その本質をまるで分かっていなかった。
「デンジ君……私、怖いの。今が幸せすぎて、デンジ君を、デンジ君と過ごす日々を、いつか失くしてしまうのが怖くてたまらない。それに、今までは知らなかった。知らなかったから平気だった。でも、今は違う。今は知ってる。大切な人と過ごす日々が、かけがえのないものだってことを。私が殺してきた人たちには、きっと大切な人がいて。私が殺してきた人たちも、私にとってのデンジ君みたいな、きっと誰かにとっての大切な人だったんだ。なんで、なんで気付けなかったんだろう。簡単に奪っていいものじゃなかった。踏みにじっていいはずなかったのに」
レゼはモルモット時代、人を殺すということに対し何の興味もなかった。
結局は任務の達成条件が全てであり、殺人はその結果に過ぎなかった。
誓って快楽的に人を傷つけたことはないが、任務の達成のためなら無関係の一般人を何人巻き込もうと関係ないと思っていた。
特に爆弾の悪魔の能力を大きく引き出せるようになってから、人や物を傷つけ破壊するという観点においてこれ以上ない人材であったレゼは、テロ行為に近い任務を言い渡されることも増えた。
私は道具だ。私は兵器だ。道具は、兵器は心を持たない。疑問を抱かない。怒ることも悲しむこともない。
そう自分に言い聞かせていた。そのうち、本心からそう思うようになった。
希望を抱けば、打ち砕かれたときに本当に壊れてしまうから。もう二度と、立ち上がれなくなってしまうから。
「私、弱くなっちゃった。あんなに普通になりたかったのに、普通を知ると弱くなって、デンジ君を守れない。だから、私の人生で、初めて感じる、この一番幸せな瞬間に、いっそ……いっそのこと」
死んでしまいたい。
言葉にはせずとも、デンジにはそう聞こえた。
「……好き、好き、好きだよデンジ君。キミが好き。自分でもびっくりするくらい、キミのことが大好きだよ。キミがくれる愛情が、光が、私にはとても暖かくて、眩しくて、心地いい。だけど、後ろを振り向くと、大きな影ができてるの。影の中から、私が殺してきた人たちが言うんだ。お前だけ幸せになれると思うなって」
光は強ければ強いほど、大きな影を生む。
光は手を伸ばしても触れることはできず、眩すぎる光はもはや見ることすらできない。
「私、なんて弱くて、狡くて、醜い生き物なんだろう。他人は平気で傷つけておいて、いざ自分の番が回ってきそうになったら、その前に自分で勝手に終わらせようとしてる。でも、それでも、わたし、こわくて、デンジくん」
デンジはレゼを抱き締める腕に、ギュッと力を込めた。
「俺は」
「…………」
「俺は、レゼに死んでほしくねェって思うよ」
「……うん」
「だけど……もしレゼがどうしても死にたいって思ってんなら……レゼのいない世界は寂しいからさ、そんときは一緒に死のうぜ。俺ら、悪魔ン心臓あるからさ、死んだ後もしかして地獄に行くかもしんねーじゃん?でも、一緒に死ねば、地獄でも一緒にいられるかもしんねェし。そうすりゃ寂しくねェだろ?」
「うん……うん……」
幼子をあやすように、デンジはレゼの背中をぽんぽんと叩きながら続ける。
「でも、レゼはホントにそれでいいの?」
「……え?」
「俺ァこの家に来てから、レゼがカノジョんなってくれて、飯作ってくれて、いっぱいキスもエッチもできて、一緒に寝てくれてさ。正直、大、大、大満足の人生なんだわ。ヤクザに飼われてた頃の自分じゃあ考えられないくらい、俺ん人生、ハッピーで埋め尽くされてんだよ。だから、もっとずっとレゼと一緒に居たいけど、もし今死んじまっても、レゼと一緒なら
「幸せが、続く……?」
「こっから100年も生き続けたら、レゼを恨んでる奴なんてみーんな死んじまってるぜ?レゼんこといじめてた国だってきっと滅びてる。残ってんのは、レゼんことが大好きな俺くらいだ」
「……100年後なんて、考えたこともなかったよ」
「俺たち、きっと、もっと幸せになっていいんだよ。もっとずっと幸せでいいんだ。もう一生分イヤな目にはあってきた。誰に許されなくても、幸せを求めていいんだ。俺ァこれからもレゼが隣にいないとヤだよ」
「……そんな幸せを願うことが、私に、許されるのかな」
告解の悪魔との戦いの中で、既に一度、レゼはデンジから赦しを得ている。
それは公安という枠組みのなかではあるが、デンジがやっと手に入れた生活基盤や人間関係、仕事のやりがいを放棄させたことに対する赦しだった。
今レゼが赦されようとしているのは、自分とデンジの未来の話。二人の未来の幸せを願うことに対するものであった。
「俺が許すよ。レゼが俺を許してくれたように、レゼがした悪いことはいつだって俺が許してやる。そんでさ」
デンジは、頬を伝うレゼの涙を拭った。
「俺が、一生、一緒に背負う。それがレゼの荷物でも、俺も一緒に持ってやるよ。そんで、もう重くて持ちきれねェ!ってなったら、そんときゃやっぱり、一緒に死のうぜ。俺のチェンソーでレゼの心臓ぶった斬るから、レゼは俺を心臓ごとドカンってぶっ飛ばしてくれよ。同時にやれば蘇らせる奴もいねェし、一緒に死ねるだろ。……コレ、名案じゃね?」
「……ふふ。なに、それ」
得意げなデンジの顔。
もっと見ていたくなる。幸せであり続けることを、彼の隣で歩き続けることを、許したくなってくる。
今死ねば幸せだと思っていたのに、これでは悔いが残りそうだ、とレゼは思った。
「……私ね、デンジ君にまだ話してない、内緒の座右の銘があるんだ。……デンジ君と、必死に生きてから、死ぬ、っていう座右の銘」
思い返せば、全てはあの電話ボックスで、デンジがレゼに花をプレゼントしたところから始まった気がする。
「……わたし、まだ、必死に生きてないッ……!本当は、もう逃げたくない……私が決める、私の人生を。デンジ君と一緒に生きる、私たちの人生を、胸を張って、堂々と生きたいッ……!誰かから奪うんじゃなくて、誰かに、何かを与えられる人間になりたいッ……!!」
あの時、レゼに与えられた一輪の花が、今この道に繋がっている。
「私は、弱くて、卑怯で、情けない女だけど……私がこれからも生きていくのを……デンジ君に、私の隣で、手伝ってほしい。それでも、どうしようもなくなったら……その時は、ホントに私と一緒に死んでくれる?」
朝日がリビングに差し込み、レゼの顔に陽が当たる。小さな決意と、若干の不安が入り混じった表情。
笑っていても、泣いていても、怒っていても、ぼうっとしていても。どんな表情のレゼも可愛いとデンジは思った。
「いいぜ。俺も、生きるのも死ぬのも、レゼと一緒がいい」
「……ありがとう」
「レゼ、言ってただろ?役に立つとか立たないとか、俺たちはそういうリガイカンケーで一緒にいるわけじゃないって。得意じゃないことは、2人で補っていけばいいってさ。俺ン心は、レゼのもんだ。だから、レゼん心は、俺がもらう。心なくしたら生きていけねェからよォ、俺はレゼを、レゼは俺を、大事なモンを預け合って、お互いで守っていこうぜ」
「……デンジ君てさ、記憶力、結構いいんじゃない?」
「俺は覚えていてェことはずっと覚えてるし、忘れてェことはすぐに忘れるタイプ」
「アハハ、なんじゃ、そりゃ」
「……なんかさ、これって結婚みたいだな」
「へ?」
「健やかなるときも、病める時もってやつ。この前テレビで見たんだよ。あれって、元気な時も元気じゃねェ時も相手を愛するってことだろ?俺らなんて生きてる時だけじゃなくて、死ぬときも、死んだ後もずっと相手を愛してんだから、普通の奴らよりもっと最強じゃん」
レゼは口をポカンと開けて、目をパチクリさせた。
普通になりたかった。普通に憧れていた。しかしいざそれを目の前にしたら、途端に怖気づいた。
そんな自分に、目の前の男は、普通を飛び越えて最強ときた。
「なら、最強の二人になるために、いつか私にプロポーズしてね。ちなみに、私の答えはいつだって……『はい、喜んで』だよ」
「……レゼが俺のカノジョから、お嫁さんになんのかァ。じゃあ指輪が買えるくらい、金稼がねえとなァ」
「すました顔でカッコつけてるけど、顔、赤くなってますよ~」
「う、うっせーな!レゼだって真っ赤じゃんかよ!」
晴れの日もあれば、雨の日もある。
雨宿りをする人に、そのうち晴れるよと言って立ち去る人は大勢いるだろう。
「雨あがったし、この前の報酬、受け取りに行く?」
「うーん……いや、明日にしよう。私泣いちゃって目が腫れてるし、それに、さ」
しかしデンジは、自分が濡れるのをお構いなしにこちらに傘を差しだしてくる。
「雨が降ってる間ずっとエッチなことしてたいってのは、デンジ君の希望だったでしょ?今度は私の番。私は晴れてる日だってデンジ君といっぱいイチャイチャしたいから、今日は晴れになった記念で一日イチャイチャしてようよ」
「そんな最高な記念日があんの?大、大、大満足な俺の人生が、大、大、大、大満足になっちまうよォ!」
レゼはそんなデンジと、相合傘をするには小さい傘で、二人とも少しだけ肩を濡らしながら、体をくっつけて歩いていきたいと思った。
「デンジ君。愛してるよ」
「俺もだよ。レゼのこと、愛してる」
健やかなる時も、病める時も。
生きている時も、死んだ後でさえ。
手をつないで歩き続ける二人の足跡は、いつだって並んでいる。
終
「告解」はこれにて完結ですが「ふたりの足跡」はまだ続きます。
次回は、本編とは無関係の毛色の違う話を2話分投稿した後、ふたりの足跡シリーズに戻る予定です。
もう少しだけお付き合いいただけたら幸いです。