「秀にぃ、ケーキ作ってよ」
この春に単身上京した、従弟の声がスマホから聞こえる。
「ケーキ?」
「ほら、前に作ってくれただろ」
「あぁ、ショートケーキな」
純白の生クリームに、これでもかとイチゴを乗せたケーキに、まだ小学生だった従弟は目を輝かせて喜んだ。
あれは、量でも満足できるケーキだ。
今回はそうはいくまい。
記念すべき20歳の誕生日、仕事で地元に帰れぬ従弟のたってのお願いだ。
これは、手間をかけたい。
大人、手間のキーワードに、アイディアが浮かぶ。
「じゃあ、違うケーキにするか」
「え、なんで?」
「20歳だろ。大人のケーキ、だ」
「何それ」
「オペラ。楽しみにしといて」
通話を切って、指で絵を描く。
ビスキュイ生地1に、バタークリーム、ビスキュイ生地2にガナッシュクリーム、ビスキュイ生地3にバタークリーム、ビスキュイ生地4にグラサージュ。
「ひぃ、ふぅ、みぃ――、8層か。なかなか手ごわそ」
小さく、息を吐く。
ちょうどいい。
ゴールデンウイークの過ごし方を決めかねていたところだ。
いつもの俺なら、土日に作り置きして、一週間を楽にする。
だが今回は違う。
一回で終わる満足に、手間をかける。
オペラは、コーヒーとバターの5種類の層を組み立てるケーキだ。
大人の苦みを、芳醇なバターの香りと甘味で層にする。
もう甘いだけのお子様ではない。Welcome 大人。
「よし、やるか」
コーヒー豆を挽き、マキネッタでエスプレッソを抽出する。
エスプレッソは2つにわけて、片方は砂糖を入れて煮立たせる。
とろみがついたら、エスプレッソシロップのできあがり。
大匙一杯のエスプレッソシロップを冷たい牛乳に入れて飲む。
「珈琲牛乳、ちゃんとうまいな」
寄り道ではない。味を知らねば戦えない。
何しろ、このエスプレッソが5種類の層の内2つに入る。
主戦力である。
次に、ビスキュイ生地を焼く。
卵白はツンツンになるまで泡立ててるのは勿論、俺は卵黄だってふわっふわになるまで泡立てる。
弾力のある生地ならエスプレッソシロップに負けないはずだ。
200度のオーブンで10分焼く。
焼いている間に、ガナッシュ作りだ。
こいつは作り慣れている。
生クリームを雪平で温め、刻んだチョコレートを溶かす。
木べらでなめらかになるまで混ぜる内に、つやが出てくる。
このつやに、俺はぐっとくる。
うまさの保証というか、うまく混ざった感があるからだ。
焼けたビスキュイ生地をひっくり返して、網の上で冷やす。
その間に、今度はバタークリーム作りだ。
正直、オペラ作りでバタークリーム作りが一番しんどい。
雪平に砂糖と水を入れて、ぐらっぐらに沸騰させる。
シロップを作りながら、ボウルに卵黄を入れて泡だて器で攪拌する。
唾を飲み込む。
ここからだ。
雪平の中を確認する。
シロップはキャラメルになる手前。
鍋を揺らすと、小さな泡を出しながら、ねっとりと傾きについてくる。
いけるか。
卵黄のボウルの中に、くつくつ言うシロップを少し入れる。攪拌する。
右手に撹拌機、左手に雪平。
雪平を少しずつ傾けて、細く、切れぬようにシロップを流し入れながら、攪拌する。
卵黄の中に熱と砂糖が入り込むイメージ。
ふんわりしてくれ!
両手で祈りたいくらいだが、生憎両手とも忙しい。
回す。
ただ、回す。
——立ち上がれ。
気持ち悪いバタークリームになるか、軽いのにコクがあるバタークリームになるかは、こいつにかかっている。
音が変わる。
空気を含んだ、軽い音になる。
「来たか――」
ふぅと一息いれるが、まだ休めない。
パータ・ボンブのご機嫌を損ねない内に、バターに混ぜ込まねばならない。
バターを攪拌してふわふわにし、パータ・ボンブと残していたエスプレッソシロップを少しずつ入れていく。
ここで崩れる。
わかっている。
バターとパータ・ボンブは混ぜやすいが、エスプレッソシロップが厄介なのだ。
エスプレッソシロップだけが液体で、少しずつ混ぜなければ分離してしまう。
冷たい麦茶を飲んで、一息つく。
机の上には、シロップやらクリームやらが5種類並んでいる。
それぞれが個性的な味に完成している。
「これ、本当に調和するかなぁ」
個性と個性がぶつかりあい――、芸術になる。
かどうかは、俺次第のはずだ。
「でも、ここから味は変わらないしね……」
俺にできるのは、完璧な層にすることだ。
ビスキュイ生地をパティスリーボードの上で測り、正確に四等分に切り分ける。
ビスキュイ生地1にエスプレッソシロップを塗る。
その上に、バタークリームを乗せるのだが、乱暴なことはせず、絞り袋に入れて均一に置く。それから、ナイフでならす。
全ては、平行のためである。
ビスキュイ生地2に、エスプレッソシロップ。
その上に、今度はガナッシュを塗る。
塗るものが固くなっていれば、手の平の温度で温め、緩くなっていたら冷蔵庫で冷やす。
美しい層のために。
エスプレッソシロップを吸ったビスキュイ生地は、コーヒー色。
ガナッシュは艶のあるチョコレート色。
バタークリームは、ベージュ。
どれか一つでも崩れれば、全体が台無しになる。
――、なるほど、確かにオペラだ。
オーケストラでさえ楽器一つずつの音の層なのに、そこに歌と演劇が入る。
ぶつかりあって、芸術となる。
そもそもパティシエの領分だろう。
だが、やりたい。
層を重ねて、冷蔵庫で冷やす。
「さぁ、最終楽章だ」
5種類目、グラサージュ。
目を一度瞑る。
息を整え、目を開く。
雪平に、ココアをたっぷり、砂糖を入れて混ぜ、生クリームを混ぜて火にかける。
焦げやすいのを木べらで絶えず混ぜ、大きく一度沸騰させる。
火を止めても、混ぜ続け、温度が下がったらふやかしていたゼラチンを混ぜる。
息が切れる。
粉っぽいのは絶対ないし、ゼラチンの塊があるのもダメ。
こいつで美しさを増させる。
刻んだビターチョコレートを入れて、混ぜる。
温度計を突っ込み、混ぜながら35度になるのを待つ。
37―、36.5――。
眼鏡が曇る。
温度が下がるごとに、さらさらだったグラサージュが粘度を強めてくる。
グラサージュは、ケーキの一番上に流しかけて、薄い層にするやつだ。
流れなければ、薄くはならず、流れすぎると残らない。
タイミングは温度が教えてくれる。
36――。本当に35度まで待っていいのか?
疑うほどにグラサージュは粘り気を増している。
だが、経験上、チョコレートってのは温度が物を言う。
堪えどころだ。
数字を信じろ!
35.5――、35度。
よし!
冷蔵庫から、冷やしていた本体を取り出す。
雪平の中で一秒ごとに粘度を強めているグラサージュを、一気に本体に流しかける。
うわぁ、流れねぇ――。
体感を信じるべきだったかも――。
大いに焦りながら、ナイフで強引にグラサージュを流す。
つやっつやなだけに、ナイフの跡が残る。
うひぃ!
心で泣いて、顔には出さぬ。
これが大人のたしなみだ。
涼しい顔をして、冷蔵庫に入れる。
まぁ、時間が解決してくれるでしょう。
誕生日当日。
直立するオペラにスマホを向ける。
温めたナイフで切り出した一切れのオペラ。
直角の角、均一の8つの層が、美しい。
グラサージュが分厚いのも、なんだかもう愛おしい。
「いいねーいいねー。この形のまんま渡したいね」
角度を変えて何枚も写真を取る。
SNSに投稿した瞬間から、何度も頷いてしまう。
「ふぃー」
大きく息をついて、写真に写らぬようにしていた皿を手繰り寄せた。
皿には、オペラの端切れが山になっている。
美しい断面を見せるということは、端切れが出るのだ。
今日はそれを食べる。
「うまいな」
美しい層のために、温めたり冷やしたり、ならしたり――、した。
混ざってるのに、うまい。
苦くて、あまい。
複雑さをバタークリームが包み込む。
エスプレッソの香りが口に残る。
「残りのゴールデンウイークは、のんびり過ごそ」