——初めてイゴール・ハフトが勝った時、彼へ送られたのは、まばらな拍手だった。
全銀河から招待された武芸者が集まり、羅浮の演武台で腕を競う。主催側の羅浮は幾人かの防衛剣士を立て、挑戦者を迎えるという大規模な
その年、景元は防衛剣士の末席に名を連ねていた。雲騎軍での位は
腰の剣は、朱明の炉で懐炎将軍自らが打った代物だ。典礼への出場に際して
一体全体どうしてこうなったのかと嘆息し、そっと横へ視線を向ければ、
——そこには兄貴分である是印がいた。
買い出しの荷を足元に置き、足を組んで頬杖をつき、めんどくせ〜……という表情を全く隠さず、日陰の席でデカい態度をさらしている。
とてもじゃないが、出場者の世話を仰せつかっている身——
将軍府が選抜した数十人の
「飯係じゃなくてそれもうただのパシリじゃねーかよ」とは本人の弁だったが、全くもって間違っていなかった。
是印の受け持ちは二人。一人は景元、もう一人は、今まさに初戦を迎えようとしている、遠い星から来た拳闘士だ。
いずれ挑戦者として自分の前に立つかもしれない。
そのつもりで観戦に来た景元をめざとく見つけた是印は、「何か用があればなんでも言ってくだせぇ、へへへ」と揉み手で媚び、そのまま隣に居座った。つまり、担当の傍らで待機している、という
……よくはないが、よいと仮定して。
景元は将軍たちの
そして、例年なら防衛剣士を務める雲騎軍の手練れたちも、その先遣隊についていったのである。
しかし、その時点で既に銀河中へ招待を発していた手前、典礼は開かなければならない。迎え撃つ剣が足りないから中止、では羅浮の名がすたる。
将軍府は、残っている者から列を埋めるしかなかった。
景元は討伐軍の頭数と兵糧の帳面を任され、羅浮に残された口だ。そこへ騰驍将軍がいつものようにふらーっとやってきて、「防衛剣士にも名を載せておいたからね、がんばれ景元ちゃん」と、事前承諾もなく宣言したのである。
景元が演武台へ駆り出され、どこぞの飯係が司賓に化けたのも、つまりはそういう年だったからだ。
さて、演武台へ視線を戻す。
拳闘士の名が司会によって叫ばれた。
「——イゴール・ハフトか」
「つえーな、アイツ」
兄貴と色の系統が近い赤髪。鍛え上げられた肉体の中で、一際目を引くものがある。
——その片腕は肩から先が鋼で、軽く拳を突き出すだけでも、空気を打つ音が観戦席まで届くほどだった。
勝負は実にあっけなく決した。
数秒と経たずして、鳩尾に見事なストレートが入り、相手がたまらず膝をつく。立ち上がる気配は微塵もない。
そのまま勝ちが確定した時、イゴールは勝ち名乗りを上げなかった。
勝者に与えられる賞金や賞品にも首を横に振り、その代わりに観客席へ向き直ると、声を張った。
「俺の名は忘れてもいい。
だが、ヤリーロ‐
——今もあの星では、反物質レギオンと戦っている。この脅威に備えてくれ!
そしてどうか、我が故郷を救うために、力を貸してくれ!」
観客席が戸惑ったのも無理はない。
戸惑った、というのは柔らかに表現した場合であって、実際は
“壊滅”の軍勢である反物質レギオンの悪名は、ここ仙舟にまで響いてきてはいた。だが、それは対岸ならぬ、遠い星の火事である。しかも仙舟は今まさに、辺境の同盟星で自分の火事を抱えている。
それでも拍手は起きた。
まばらに、義理のように。手を叩きながら出口へ向かう者もいて、その音はすぐに足音に紛れてしまった。
——まばらな拍手とは、そういう拍手だった。
景元は、演説を聞きながらも、あの腕の動きを思い返していた。
鋼の腕を振るう時だけ、踏み込みが半歩深い。重さを乗せる癖なのだろう。肩や肘の継ぎ目からは、薄く湯気が立っていた。
あれだけの拳を放てば、機構が熱を持たないほうがおかしい。あと……打ち終わりに脇腹をかばう動きも混じっていた。
あの強さだ。いずれ当たる者のために——ひょっとすると自分のためにもと、景元は脳の片隅に留めておくことにした。
不意に、隣を見ると、是印は頬杖のまま目だけが動いていた。
「……めんどくせえ」
一言だけ残して、是印は荷を片手で掴んで席を立った。
きっとぶつくさ言いつつも、受け持ちの控え室へ向かい、労いの言葉のひとつと水でも差し出すのだろう。
景元も少し遅れて席を立つ。敵情視察という目的もなくはないが、力を貸してくれ、と張り上げた声が耳に残っていた。
似たような扉の続く廊下は板張りで、薄暗い。
おそらくこの辺りだろうと景元が角を曲がった時、是印はすでに荷を下ろし、壁際へしゃがみ込んでいた。
その前にイゴールが腰を下ろしている。はずした鋼の腕を膝に置き、上着の裾で扇いでいた。肘の継ぎ目からは、まだ湯気が立っている。
是印は荷から水と汗拭きの布を取り出すと、イゴールへ差し出した。
「——あんたさっきの話、次も同じ話をすんのか?」
「ん? ……ああ。勝つたびにする。救いの手を差し伸べてくれるまで。そのために俺は来た」
「……んじゃ、もっと気ぃ使えよ。あんなやり方だとその前に喉と腕を潰すぞ」
イゴールは、差し出された布と是印の顔を見比べた。
やがて、「……ああ」と頷いて受け取る。その様子を見ていた景元が近づくと、イゴールの視線が景元の顔を捉え、次に腰の剣に落ちた。
「防衛剣士か」
「ああ。景元という、よろしく」
「イゴール・ハフトだ」
「知っているよ。司会が興奮して何度も叫んでいたからな」
イゴールは笑わなかった。ただ、是印を顎で示した。
「景元……ああ、そうか。このおと――なんだ?」
「なんだかんだと問われたら……じゃねーわ、是印さんだ。名前くらいは覚えろっつの。あと、仙舟いる間、お前の面倒みるけどよ、基本お礼は俺に、文句は将軍府に言えな」
「……是印の担当は、俺とお前の二人だと聞いたのを思い出した」
「ああ。そうらしい」
そこで、イゴールの瞳が改めて景元の全身を一通り撫でていく。
「いずれ、……演武台で会うかもしれないな」
「ああ。その時はよろしく頼む」
言ってから、景元は腰の剣を意識した。
この典礼に来る時点で、弱者はいない。今の一戦を見ただけでもそれは分かる。だがはたして自分は、末席とはいえ、防衛剣士の役目を果たせるものだろうか。
「あと、イゴール」
「……なんだ?」
是印はくんかくんかと鼻を鳴らし、
「――お前、なんか汗くせーから、水でも浴びろ、シャワー案内してやっから」
どストレートに宣告した。
途端に周囲を沈黙が支配し、気まずそうにイゴールは己の脇の辺りに鼻を向け確認する。
「えっと……すまない。
「い、いや……って、兄貴――? お前たちは兄弟なのか?」
まぁそうくるよなと、景元は歩き出した是印の後に続きながら、ひょんな出会いから始まった濃厚な日々を語り出す。
――それが、三人がまともに言葉を交わした最初の日だった。
* * *
それから幾日か。
イゴールの控え室には、水と手拭いが二人分、置かれるようになっていた。
片方はもちろん、部屋の主であるイゴールのものだ。それはよしとして、もう片方を是印が景元へ指差した時には、さすがに首を傾げた。
「兄貴、俺の方にも一応控え室はあるんだが」
「いいじゃねーかよ、お前もこっちで。二部屋行ったり来たりすんの、だりぃんだよ」
実に是印らしい理由だったが、実際、景元はイゴールの元へ足繁く通っていた。仙舟で生まれ育っている景元からすれば、他の星の人間との交流はそう多いわけではない。だからこそ、この異文化交流には好奇心や知識欲を大いに刺激された。だが、何より、
イゴールがイイ奴で馬が合ったから、というのが大きいだろう。
さて、そのイゴールも順当に勝ち進んでおり、そのたびに初戦から変わらず、故郷の名を叫んでいる。帰ってくる頃には喉がかすれ、鋼の腕は熱くなっていたが、次の対戦相手を確かめることだけは忘れなかった。
景元としても、イゴールの戦い方は気にかかる。ついでに他の挑戦者について意見を交わせば、自分の試合にも役立った。
「先ほどの試合、左の拳を放った後、戻すのが少し遅れていたな」
その日も景元が切り出すと、上着を脱いでいたイゴールが顔を上げた。
「分かるか」
「ああ。初戦でも——」
「おいおい、んな話は後だ。景元、ここ押さえとけ」
横から是印が手首を掴み、濡れた布の上へ置く。
イゴールの脇腹には濃い痣が浮いていた。そこへ当てた布を押さえると、腹の筋肉がぴくりと動く。
「……すまない。痛んだか」
「いや。大丈夫だ、この程度痛くはな——「ホアチョッ」ァくはなァい!!!」
強がろうとしたイゴールに是印の秘孔を突く真似によるツッコミが入った。涙目になりながら何をするんだと叫ぶイゴールに対し、
「ザマねぇじゃんかよ、強がってる場合かよ」
そのまま是印に促され、景元は少しだけ指の力を緩めた。
演武台の上からでも、イゴールが怪我をかばっていることは分かっていた。だが、剣も拳も届かない、安全な観客席から見ている間は、自分があの場にいてイゴールと対峙しているとしたらどうするということばかり考えていた。
——間近で見る痣は、思っていたより大きかった。先ほどの是印の意地悪指圧に対する反応といい、強がっているほど平気ではないらしい。
是印はその胴へ包帯を回し、ずれないように留めると、イゴールが腕を動かすのを待った。
「どうよ」
「……問題ない」
「問題はあんだろ。医士にも言われただろうが。試合のねえ時くらい休めよな」
イゴールは口を閉じた。是印はそれを返事と受け取ったらしく、荷から包みを取り出して、彼の膝へ載せる。
続けて、景元の膝にも。
「うん? 兄貴。こっちはまだ戦っていないぞ」
「わーってるよ。まぁでも、食うなとは言われてねえだろ」
温かい包み——弁当だった。
景元はイゴールと顔を見合わせ、少し迷ってから口を開いた。
「……兄貴は、どちらに勝ってほしいんだ?」
いずれ、この二人が演武台で向かい合うこともあるだろう。少なくとも、景元の方がそれまで負けずにいられればの話ではあったが。
是印は面倒そうに眉を寄せた。
「あ? いきなりなんだよ、そりゃ、まあ……」
二人の顔を順に見て、
「二人とも、ちゃんと自分の足で戻ってくりゃいいさ。どっちもぶっ倒れたらどうせ運ぶの俺なんだからよ」
随分と勝手な言い草だった。
だが、どちらかを選ばれなくてよかったと、景元は包みを開きながら思った。
イゴールの次の次に、景元の出番が来た。
相手は長槍を使う男だった。大柄で、槍の扱いに無駄がない。突いてよし、払ってよし。引き戻した柄で打つのも巧みで、懐へ入れば安全というわけでもなかった。
景元は前の試合を見ていた。それに何より、槍の扱いに関してはこの上なく参考になる丹楓が友人にいる。
とはいえ、油断は禁物。
控え室で広げた紙には、相手の踏み込み、間合い、槍を引く時の癖と、それに対応する手を幾通りも書きつけてある。
あれをされたら、こう返す。さらに返されたら、次はこう。
書き足すうちに、紙は三枚にも及んでいた。
「っぷは、……軍議でも始めんのかよ、ったく相変わらずクソ真面目だなぁ?」
片手で水をラッパ飲みしていた是印が、机の上を覗き込んで言った。
「備えは多い方がいいさ」
「ふーん。じゃ、水分とれ。それも備えだろ」
もう片方の手で持っていた水を置かれれば、反論のしようもなかった。
備えた甲斐は、確かにあった。
正面から伸びてきた穂先を、景元は半歩横へ外す。追ってくる横薙ぎは剣で受けず、さらに下がってやり過ごした。
そこまでは、見ていた通りだ。
男が槍を引く。懐へ入れる。
ただし、そのあとに柄が来る。剣を振るえば、肩への一撃を避けきれないかもしれない。
景元は踏み込まず、切っ先だけで相手を牽制した。
次の突きも躱した。
その次も。
幾度目かの打ち合いで、剣を握る手に痺れが残った。
相手が強いことは分かっていた。勝ち残っているということはつまりそういうことなのだ。傷の一つも負わずに勝てると、侮っていたわけでもない。
それでも、いざ踏み込もうとすると、もう少し確実な好機を待ちたくなった。
ただ負けるのとは違う。
経緯はどうあれ、羅浮の防衛剣士として、懐炎将軍の剣を預かり、師匠の留守を守る者として、ここに今立っている。
断じて——失態を演じるわけにはいかなかった。
槍を弾く。下がる。
石床を擦る靴音が、先ほどから後ろへばかり続いている。
息が詰まる。男の槍が、一段と近くまで届いた。
「おーい、景元!」
聞き慣れた声が飛んできた。
目を向ける余裕はなかった。だが、どの辺りから聞こえたかは分かる。
「肩! 肩、上がってんぞ! 息しろ、息!」
——して、いる、さ。
反射的にそう返しかけて、頭を振って、景元は口から息を吐いた。
思ったより長く、吐けた。
男が槍を構え直す。その穂先を見ながら、景元は握り込んでいた柄を、わずかに握り直した。
懐へ入る手はあった。
肩へ来る柄も、分かっていた。
その両方をどうにかしようとして、さっきからどちらも選べずにいた。
次の突きに、景元は下がらなかった。
穂先を剣で外へ弾き、槍が引かれるのを追って踏み込む。
男の手が滑り、柄が跳ね上がった。
左肩に、硬いものがめり込む。
痛みに奥歯を噛みしめながらも、景元は足を止めなかった。振り抜いた剣の腹が、槍を握る男の指を打つ。
握りが緩んだ。
もう半歩、詰める。
男が再び槍を掴むより先に、その喉元へ剣先が届いた。
——そこまで、と立会の声がかかった。
勝ち名乗りをしようとしたが、余裕がないほどに景元は肩で息をしていた。
左腕を上げようとすると痛む。額から垂れた汗が目に入り、瞬きを繰り返した。
もっと上手くやれたはずだ。踏み込むのが早ければ、あれほど深く打たれずにも済んだだろう。
それでも、剣を下ろして一礼するだけの余力は残っていた。
「おーおー、なんとか歩けてんな」
控え室へ戻った景元を、是印はそう迎えた。
「……お陰様で」
「じゃ、座れ。肩見せろ」
腰を下ろすと、水が差し出された。
受け取って顔を上げれば、イゴールだった。
「最後の踏み込みはよかった」
「その前が長すぎた」
「ああ。二度は入れたな」
容赦のない指摘に、景元は苦笑するしかなかった。
「次からは、もう少し早くするよ」
「そうしてくれ。あれだと見ている方も疲れる」
言いながら、イゴールが景元の襟元へ手をかけた。左腕を動かさずに肩を出せるよう、上着をずらしてくれる。
是印が冷たい布を当てた。
「めっちゃ腫れてら。イゴール、ちょい、ここ押さえといてくれ」
今度は、彼の手が布の上へ置かれた。
手当てを終え、景元が机に残していた紙を片づけようとすると、横からひょいと是印の手が伸びてきた。
「これ、もういらねえか?」
「ああ。勝ったしな……何に使うんだ、そんなもの」
「まだ裏が白いじゃんか。もったいねえだろ」
是印は三枚を裏返して重ね、荷の間へ挟み込んだ。
そんな貧乏性のところがあっただろうかと思うも、まさか将軍府から紙まで出し渋られているわけでもあるまい。景元は呆れたが、元々捨てるつもりだったものだ。好きにさせておいた。
「よし。んじゃ、俺ちょっと買い出し行ってくっから。お前ら、そこら辺に軟膏とか置いてあるからツバと一緒に適当に塗っとけ」
そう言い残して、是印は空いた籠を持ち、さっさと出ていった。
沈黙が残された二人の間を埋める。
それに耐えかねたように、景元は水を飲んだ。
同じくイゴールも飲んだ。そしてゆっくりと嚥下してから、
「なぁ景元。俺に兄弟はいないが……」
「ああ」
「もしもいたら、あんな感じなのかもしれないな」
その後で、二人はしばらく先ほどの試合と是印について話していた。
是印が籠をいっぱいにして戻ってくるまで、どちらも席を立たなかった。
* * *
その晩、三人は宿の台所の脇で、ひとつの鍋を囲んでいた。
是印が宿の主に頼み込んで借りてきた場所である。昼の買い出しで手に入れた肉と根菜を出汁でゆっくり煮込んだらしい。蓋を取ると、生姜の匂いを含んだ湯気が、景元の顔まで上がってきた。
「ほーれ、たーんとお食べ」
どんな台詞だ。と、左肩を気にしながら景元は椀を受け取る。
その隣では、イゴールがすでに匙を手にしている。是印が彼の分もよそう間に、景元へ顔を向けた。
「景元。明日も、将軍府の方々は見に来るんだろうか」
「そのはずだが……どうした。直接、話をしたいのか?」
「ああ。演武台の上からでは、まだ伝えきれていない。俺が星を出た時には、避難所が次々に落ちていた。ベロブルグまで失えば——」
「イゴール」
是印が、イゴールの前へ湯気の立つ椀を置いた。
「お前も景元も、まず食えよ。話はそれからだ」
「……すまない。だが、まだ伝えていないことが」
「わーったっつの。飯が済んだら、ちゃんと聞く。今は冷めねぇうちに食えよ」
イゴールは開きかけた口を閉じ、湯気立つ椀へ目を落とした。
景元も匙を取る。煮汁を吸った根菜は、縁を押すだけで崩れた。口へ運ぶと、思わずのけぞりそうになるほど熱い。息を吸い込みながら噛んでいると、向かいのイゴールは早くも二口目を飲み込もうとしていた。
「お前、味分かって食ってんの?」
「……ああ。うまい」
「ほんとかよ……お前んとこの、ヤリーロ-Ⅵだっけ? そこでも、こういうの食うのか?」
イゴールの匙が止まった。
「肉を煮た料理ならある。……ただ、今はどこも食料が——」
「あーだから今じゃなくてさ。お前が普段、何食ってたかって話」
「俺が?」
「そう。お前が」
是印も肉をひとつ口へ放り込み、返事を待った。
イゴールは椀の中をしばらく見ていたが、やがて、
「……俺がいつも出ていた拳闘場の裏に、よく行く店があった」
と、口を開いた。
「安くて、量が多くてな。練習が終わると、皆でそこへ行っていた」
「故郷でも、ずっと拳闘を?」
「ああ。俺は……頭も金もなくてな、子供の頃から腕っ節に頼ってきた」
景元の問いに頷き、イゴールは鋼の指を軽く曲げた。
「もっとも、その頃はこいつじゃなかったがな」
匙を握り直す指の継ぎ目が、小さく鳴った。
景元はそこへ目を向けた。
「……戦で失った、のか?」
イゴールは首を横に振って、
「自分で落とした」
匙を持つ景元の手が止まった。是印もまた眉根を寄せている。
「こいつはカンパニー製の義手らしい。相当な型遅れでスクラップ山から見つけたものだが……それでも、この腕があれば、もっと勝てると思った。名のある相手を倒せば、それだけ大勢が試合を見る。話を聞いてくれる人間も増える。そうすれば、いつか、故郷を助けてくれる」
淡々とした口調だった。
だが、元の腕をどう失ったのか、景元は一度も訊いたことがなかった。
何か言おうとしても、言葉が出なかった。
「……馬鹿野郎」
是印が低く言った。
イゴールは顔を上げる。
「後悔はしていない。この腕のお陰で、ここまで来られた」
「だったら、残りの身体含めて大事に使えよ。休めっつってんのに、宿に戻ってからも振り回してんじゃねえぞ」
イゴールが目を瞬かせた。
「……知っていたのか」
「宿屋のおっさんから夜中に裏庭で汗だくの男が拳を振り続けてるってネタが上がってきてんだよ」
それは景元も知らなかった。
イゴールは鋼の腕を見下ろし、それから、匙を静かに椀へ戻した。
「……気をつける」
是印は鼻を鳴らしただけだった。
——しばらく、三人が食べる音だけが続いた。
景元は何度か顔を上げたが、イゴールへ何と声をかければよいのか、まだ分からずにいた。
そのイゴールが、煮汁をひと匙、ゆっくり口へ運んだ。
「……これ。生姜が入っているんだな」
「ん? まーな。嫌いか?」
「いや。故郷のとは、違う味だと思っていた」
今度は根菜をすくい、口の中で確かめるように噛む。
「さっきの店の煮込みは、もっと塩気が強かった。肉も、噛んでいると顎が疲れるほど硬くて……仲間とは実はモグラの肉だのよく馬鹿な予想をしてた」
「褒めてんのか、それ」
「それでも、うまかったんだ」
イゴールの口元が、少し緩んだ。
「練習が長引いて店じまいに間に合わなくなると、裏口から顔を出した。店主の親父さんはいつも文句を言いながら、鍋を温め直してくれた」
イゴールは空いている方の手を椀へ添えると、
「女将さんは試合に勝ったと言えば大盛りにしてくれた」
「へえ」
「負けたと言っても、大盛りになった」
「勝ち負け関係ねーじゃんかよ、ただいいオバチャンと食べ盛り」
「ああ……だから、皆で通っていた」
イゴールはもうひと口、煮汁を飲んだ。
「——またいつか、あれが食いたいな」
小さな声だった。
「——景元は?」
全員がひとしきり満腹になったところで、イゴールが話をこちらへ向けた。
「何がだ?」
「この典礼が終わったら、何をする?」
「軍の仕事に戻るさ。師匠が帰れば、稽古もある。それに次の出征までには、もう少し腕を上げておきたいな」
「何か、目標があるのか?」
景元は匙を置いた。
「……もっとできることを増やしておきたいんだ。腕が足りないから選びたい道を選べない、というのは悔しいからな」
昔、家の中から、出征していく雲騎たちを眺めていたことが脳裏によみがえる。
あの中の何人が帰ってこられるのだろうと思いながら、自分は今日も明日も、何ひとつ不自由せずに暮らしている。それが嫌で、家を出たのだ。
雲騎となった今は、任された仕事も、頼れる仲間もある。
タラサでは、自分で人質たちを運び出す手筈を決めた。是印と応星に先を託し、自分は残って白珠と搬出を進める。あの時は、それが一番よかった。
だが、自分の剣では足手まといになると認めた時の悔しさも、——まだ覚えている。
「任せるべき時は、任せるさ。ただ、いつまでもそのままでいるのは……面白くないだろう?」
イゴールは、ゆっくりと頷いた。
「……そうか。それは、俺にも分かる」
その言葉に、景元も頷き返し、ちらりと横へ目を向ける。
是印は爪楊枝で歯に挟まった食べかすと格闘していた。
「さしあたっては、兄貴を稽古でひっくり返すところからだな」
「……あん?」
是印が、爪楊枝をくわえたまま振り向いた。
「師匠が戻るまで、付き合ってくれよ。まだ試したい手があるんだ」
「おーおー。懲りねえなぁ、お前も」
「懲りたら終わりだろう。いつまでも、同じように負けていると思わないでくれよ」
「はいはい。じゃ、また転がされに来いよ」
「転がす方だと言ってるだろ」
思ったより大きな声が出た。
兄貴の口元が、にやりと歪む。しまった、と思った時には遅かった。
「お前、今のですら顔に出たぞ。試合中もそれやってみろ。何狙ってっか、丸分かりだわ」
「……兄貴が相手だからだよ」
「へーふーん、ほー?」
腹の立つ顔だった。
昔からそうだ。こちらの考えを見抜いたかと思えば、まるで見当違いのことを言う。そのくせ、剣を合わせれば、こっちが考えてもいなかった動きでひっくり返してくる。
いつか、絶対に、この顔を驚かせてやりたかった。
「勝ったら、顔を合わせるたびに話してやるからな」
「やれやれだぜ……。じゃ俺も勝つ度、連呼してやるわ『てめーの敗因はたったひとつだぜ……景元。たったひとつの
「今から楽しみにしていてくれ」
「おい馬鹿、最後まで言わせてよ」
そこで、向かいから吹き出す音がした。
イゴールが口を覆っていた。だが、指の間から笑い声が漏れ、抑えようとするほど肩が揺れている。
「……すまん。気にせず、続けてくれ」
「いや、お前がそんなに笑っていたら——」
言いかけた景元の横で、兄貴までけらけらと笑い始めた。
——まったく。他人事だと思って。
そう言ってやるつもりが、つられて口元が緩んでしまい、景元はとうとう言い返せなかった。
* * *
それから日を追うごとに、試合のない時であってもイゴールの名を羅浮のあちこちで耳にするようになっていった。
景元が掲示板で次の対戦の組み合わせを確かめていると、背後で誰かが、あの鋼の腕の男、と言った。
「ほら、勝つたびに故郷の話をする——」
「ああ。ヤリーロとかいう星から来たとかいう」
気取られぬよう様子を窺えば、見知らぬ二人が掲示板を指さしていた。イゴールの次の出番を探しているらしい。
初戦の日には、誰も口にしていなかった名だったというのに。と、表情を引き締め直しながら、次戦の準備のために景元はその場を去る。
その日のイゴールは、鋼の拳を警戒する相手を、生身の右拳で追い詰めた。
右が来る、と相手が身構えたところへ一撃必殺の左を差し込み、崩れた構えを右で打ち抜く。景元が初めて見た時のように、あっけなくとはいかなかったが、最後に立っていたのは彼だった。
そして、勝ち名乗りが終わると、やはり観客席へ向き直った。
話すことは変わらない。変わったことがあるとすれば、連日の演説で喉を潰さぬよう、多少発声や声量に気を配るようになったくらいだ。
ヤリーロ‐Ⅵ。反物質レギオン。故郷に残って戦う者たちと、救いを待つ人々のこと。
だが、たしかに席を立つ人の数が以前より少なくなっている。
出口へ向かいかけた者が足を止め、隣と話していた者が演武台へ顔を戻す。イゴールが言葉を切るまで座っていた者たちが、最後に手を叩いた。
次の試合では、彼が口を開く前に、観客席から星の名が飛んだ。
「ヤリーロ‐Ⅵだろう! 覚えてるぞ!」
イゴールが、声のした方を見た。
赤ら顔の男が、片手を上げている。その隣の者も頷いていた。
イゴールは深く頭を下げた。それから、いつものように話し始めた。
景元も席を立たずにそれを聞いた。
故郷へ帰ったら、また食べたいと言った煮込み。その鍋を温め直してくれた親父さんも、勝とうが負けようが大盛りにしてくれた女将さんも、彼が助けたいと語る人々の中にいるのだろう。
試合の後、イゴールを訪ねてくる者も増えていった。
途中で次の試合を告げる声が響いたが、女は戻らなかった。
別の日には、是印が声をかけたという指先に煤の残る若い工造司が来た。鋼の腕を見せてほしいという。
「動かすと、どこか引っかかりませんか」
「戻す時に、少し。使い込めば、こうもなるかと思っていたが……」
イゴールが肘を曲げると、若者は顔を近づけ、かすかな音へ耳を澄ませた。
その横から、是印も首を伸ばす。
「どうすかね、工造司はこういうのも分かんの?」
「私は懐炎様のように音だけで内部の不具合の原因まで当てるような芸当は到底できません。なので……中を見てみないことには、何とも。ただ、調子は良いとは言えないことは確かです」
「ふーん……」
その日の帰り際、兄貴は若者を呼び止め、何か話していた。
また別の日には、丸顔の交易商がやってきた。
初めは商売で訪れた星の話をしていたが、やがて言葉が途切れた。イゴールの故郷にも昔、荷を送ったことがあるという。
「取引先に便りを出しても、返事がなくてね。忙しくしているのかと思っていたんだが……」
イゴールは、その人の名を尋ねた。
残念ながら、知り合いではなかったらしい。それでも男はしばらく、その場を離れなかった。
訪ねてくる者が増えたぶん、是印の仕事も増えた。
「おーい、話はそこまで。休憩させてやってくれ。おい大丈夫かよイゴール。声、ガッサガサじゃねえか」
イゴールの肩を抱えて控え室へ押し込み、次の出番までどのくらいあるのかと係の者を捕まえる。空いた隙に自分もどこかへ出ていき、戻るとまた包帯だの弁当だのを広げていた。
景元も、羅浮側の列に残り続けた。
イゴールは相変わらず、試合の後には容赦なく感想を寄越したが、最近はそれを聞くのも楽しみになっていた。
「さっきの隙は、わざとか」
「さて、どうだろうね」
「あれだけ露骨なら分かる」
「なら、お前には別の手が要るな」
そんな話をしている横で、是印が膝に載せた紙へ何か書き込んでいることもあった。
裏から透けた丸印に、見覚えがあった。先日、景元が槍使いの踏み込みを書き留めた時のものだった。
言った通り、本当に裏紙として使っているらしい。
やがて、先日の薬士が廊下から顔を覗かせた。是印は手を上げると、紙を二つに折って懐へ入れ、出ていった。
「——そういや、お前。帰りの船って、もう取ってあんの?」
その問いが出たのは、夕方、三人で控え室を片づけている時だった。
是印が濡れた手拭いをまとめながら、何でもないことのように尋ねる。
「ああ。典礼が終わった翌朝に出る」
「翌朝ぁ? そりゃまた、早えな。どっから出んの?」
イゴールが
「あっちか。ここからだと、結構あんな」
「早く出るつもりだ」
「じゃ、朝飯は持ってけるもんにすっか。船の名前も教えとけよ。寝坊して追っかける羽目になったら困っから」
「寝坊はしない」
「はい想像力不足ゥ〜俺がするかもしんねえだろ」
自分で言うなよ、と景元は呆れながらツッコむ。
イゴールは荷の中から乗船の控えを取り出し、是印へ見せた。そのまま是印は何度か船名を口の中で繰り返し、頷いて返す。
典礼が終われば、イゴールは帰る。景元は残りの試合の日程を頭の中で数えた。
「……要請への返事は、まだだろうか」
イゴールの手が、荷の上で止まった。
「ああ。預かっていただいている、とは聞いている」
景元自身も、将軍府へ帳面を届けるたび、どこまで話が進んでいるのかを確かめていた。
要請が届いていないわけではない。イゴールの持参した書状も、既に担当の手へ渡っている。
だが、そこから先の答えは、まだ出ていなかった。
景元は畳みかけていた上着を置いた。
「書状の控えを、もう一度借りてもいいか」
「構わないが……」
「こちらからも、改めて取り次ぎを頼んでくる。今なら、お前の名を出せば分かる者も多い。出港の日まで伝えて、返事を急いでもらおう」
景元の名も添えるつもりだった。
典礼を通して、彼の戦いを見て、訴えを聞いた。雲騎軍の驍衛として、その要請を取り次ぎたい。
そこまでは、自分の言葉で言える。
「……頼んで、いいのか」
「そのために言っているんだよ」
答えると、イゴールは鞄の底から、丁寧に包まれた書状の写しを取り出した。
景元は、それを受け取った。
例の連合に対する討伐軍の編成は、今も着々と進んでいる。兵も船も余裕はない。つい今朝まで、そのための帳面を見ていたのだ。同盟関係にあるわけでも親交が深いわけでもない、よその星へ援軍を送るという話が、簡単に通るはずもなかった。
——それでも、救援の余地までないと決まったわけではない。
イゴールはこれだけ訴え続けたのだ。聞いていた者たちの一部は、試合が終わっても帰らず、彼のもとへ足を運ぶようになった。
将軍府の中でも、もう一度話を聞いてもらいたかった。何ができるかを、考えてもらいたかった。だからもう一度繰り返す。
「……どんなに遅くとも決勝の日までに返事をもらえるよう、掛け合ってくる」
是印が、手拭いを籠へ放り込んだ。
「おう、シクヨロ頼むわ、景元」
茶化すでもなく、そう言った。
「ああ」
書状を懐へ収めると、イゴールが頭を下げた。
「ありがとう」
「礼なら、まだ、とっておいてくれ」
景元はそう返しながらも、頭の中はもう既に、将軍府で誰をあたるべきを考えていた。
あまりに長くなったため分割でござる。
後編に続く