ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#78 "彼は、誓いを新たにする - 後編 - "

 

 

 

 

 

 最初は掲示板の前に立っても、目当ての組み合わせを探すのに時間がかかったのだ。

 

 聞いたこともない出身の星の名に、読み方さえ分からない武芸者の名。幾枚にもわたって貼り出された試合の日程を、出場者も観客も肩を寄せ合って覗き込んでいた。

 

 それが、日ごと貼り替えられるたびに少なくなっていった。

 

 昨日は名のあった者が、今日の試合には呼ばれない。控え室を明け渡し、帰り支度を始める者もいれば、観客席へ移って残る勝負を見届ける者もいた。

 

 もちろんそれは迎え撃つ羅浮の側も同じだ。

 

 景元とともに防衛剣士に選ばれた者たちが、一人、また一人と敗れていく。控えの廊下ですれ違うたびに言葉を交わしていた顔が翌日にはもうそこにない。

 

「後は頼んだぞ」

 

 肩を叩いてそう言ってくれた剣士の手にも、包帯が巻かれていた。

 

 景元は頷いた。引き受けたからには、と剣を手に演武台へ向かい、またひとり挑んでくる武芸者と相対する。

 

 

 

 イゴールもまた快進撃が止まらない。

 

 行く手に立つ防衛剣士のことごとくを鋼の拳で崩し、生身の拳で打ち倒す。その逆も然り。

 

 そして、勝った後には必ず故郷の名を叫んだ。試合の数が減り、残った傑物たちの勝負を固唾を飲んで見守る者が増えるにつれ、その声を聞く観客の数は確実に増えていった。

 

 勝利の独演会を終え、控え室へ戻れば、いつもの二人がいる。

 

 是印に出来たばかりの傷を見せてみろとせっつかれ、景元とは互いの試合に口を出し、他愛もない話を繰り広げる。その時間だけは、出場者でごった返していた頃と変わらなかった。

 

 変わったのは、次に戦う相手の話をすると、お互いが向かいに座っている男の名を避けて通れなくなったことだった。そして、

 

 

 

 

 ——ついに、決勝の日が来た。

 

 

 

 

 掲示板に、最後の組み合わせが貼り出された。

 

 羅浮の防衛剣士、その末席から最後まで残った景元。

 

 彼を破れば、もはや行く手を阻む剣士はいない。最後の挑戦者、イゴール・ハフト。

 

 あれほど並んでいた名は、とうとう二人分になっていた。

 

 

 

 

 だが——将軍府からの返書は、まだ届いていない。

 

 今朝も係に確かめたが、届き次第知らせるという、なんとも役所じみた返事だった。

 

 あの交易商も船仲間へヤリーロの様子を尋ねてくれている。昨日、控え室へ顔を出してくれた時には、星の名を口にするだけでも「例の拳闘士の故郷か」と聞き返されることが増えたと話していた。

 

 イゴールが、少し照れたように鼻をこすっていたのを覚えている。

 

 ——届いてはいるのだ。演武台から、何度も何度も必死に張り上げた声は。

 

 景元は、係の者が出入りする戸口をもう一度確認し、

 

「決勝が俺たちとは。思えば、数奇なこともあるものだな」

 

 剣の柄を握りしめ言う。朱明の炉で打たれた一振りは、連日の激闘ですっかり手に馴染んでいた。

 

「ああ、それこそ……運命だったのかもしれないな」

 

 そこだけを切り取れば口説き文句のように言いながら、イゴールが鋼の指を一本ずつ曲げ、最後に拳を握り込む。

 

「いい策は、用意できたか」

「さて、どうかな」

 

 景元が答えると、イゴールの口の端がつり上がった。

 

 計ったようなタイミングで是印が、

 

「あーお前ら、いい空気吸ってっけどさ……ま、アレだ、後悔ねぇように、お互いせいぜいボコれ。どうせここまで来ちまったんだ。怪我しても、最後まで面倒みてやるよ」

「分かっているよ、兄貴」

「ああ。頼む」

 

 同じ相手へ返事をしてから、二人は演武台へと続く花道を進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 ——始め! の声がかかった時、先手を取ったのはイゴールだった。

 

 踏み込みが深い。

 

 景元は切っ先を上げた。正面から来る鋼の拳へ刃をぶつけず、身体ごと脇へ外し、すれ違いざまに剣を返す。

 

 ——左の拳を放ったあと、腕が戻るまでにわずかな遅れがある。

 

 初戦から見ていたイゴールの癖だ。手当てをしながら本人とも話したが、狙うなら、そこだ。

 

 振り下ろしかけた剣の前へ、その腕が跳ね上がった。

 

 ——速い。

 

 剣の腹が鋼にぶつかる。止められたと分かるのと同時に、向こうの右肩が沈んだ。

 

 景元は咄嗟に顔を引いた。

 

「——シッ!!」

 

 間に合わなかった。右拳が、頬をかすめる。

 

 靴底を滑らせて下がり、切っ先で追撃を止めた。直撃は避けたというのに頬が裂けたのか熱を感じる。まったくそちらは生身の拳だというのにどれほど研鑽を積んだらこんな芸当が出来るのか。

 

 慌てて間合いを取るべく後方へ飛び退く景元を、イゴールは追ってこなかった。

 

「お前なら、あそこを狙うと思った」

 

 鋼の腕が、ゆっくり構えへ戻る。

 

 ——今の遅れは、わざとか。

 

 景元があの腕の癖を見ていたように、イゴールもまた、こちらを見ていた。どこで剣を振りたがるか。何を好機と見なすか。それを知る機会はいくらでもあったことだろう。

 

「……随分、よく動くじゃないか」

「お陰様で。毎日、冷やしてもらっているからな」

 

 言うようになったものだ。

 

 景元は口の端を拭い、剣を構え直し——

 

 今度は、こちらから詰めた。

 

 イゴールの肩口へ剣を走らせる。左腕が上がる。その鋼へ触れる前に止め、今度は脚へ切っ先を落とす。

 

 イゴールは足を引きながら右を繰り出した。

 

 景元は退いた。拳が届かぬところまで下がり、再び剣を上げる。

 

 一度では分からない。

 

 上から。下から。途中で止める。

 

 イゴールは左で受ける構えを崩さず、右拳でこちらを追い払う。さっき一度、頬へ届いた拳だ。景元が下がれば、その分だけ前へ出てきた。

 

 剣を止める。右が来る。下がる。

 

 もう一度。

 

 そして、次に景元が剣を止めた時。

 

 イゴールの右拳が伸びるのを見ながら、今度は前へ踏み込んだ。

 

 拳が耳の傍を抜ける。

 

 下がる相手を追うつもりだったイゴールの身体が、わずかに前へ流れた。その肩へ、景元は短く持ち直した剣の腹を叩き込む。

 

 鈍い音がした。

 

 が、

 

 イゴールは踏みとどまる。すぐに警戒していた左が来た。

 

 景元も欲張らず、剣を引いて間合いを開いた。

 

「グッ…………なるほど」

 

 イゴールが、打たれた肩を回した。

 

「あれも、わざとか」

「さて、どうだろうね」

 

 同じ返事をしてやると、今度は向こうが高揚感を隠しきれずに笑う。

 

 景元も同じように笑う。

 

 

 そこから先は、互いに手を変え続けた。

 

 右を誘っても、もう簡単には出してこない。左をかわしたと思えば、拳を引く代わりに、肩ごとぶつかってくる。

 

 剣を長く使えば懐へ潜られ、詰めれば鋼の腕に阻まれた。

 

 ならば、と景元も手を変える。

 

 剣で拳を誘い、足を止めたところへ踏み込む。切っ先を見せておいて、振るわずに抜ける。イゴールが追ってくるのを待ち、今度こそと剣を返した。

 

 鋼が、それを受け止める。

 

 ——まだ、届かないか。

 

 腹立たしいはずなのに、次はどうする、と考える方が早かった。

 

 拳が肩をかすめた。こちらの剣も相手の上着を打った。息が上がり、剣を握る手が汗で滑る。

 

 それでも、全くやめたいとは思わなかった。これはひょっとしたら、楽し——

 

 

「おらおら、やれやれー、喧嘩だ喧嘩ーッ!」

 

 

 伝統ある星天演武典礼もあの人にかかれば、ただの喧嘩かと、聞き慣れてしまった声に笑いそうになる。

 

 似たような感想を抱いているのだろう。笑みをこらえる顔のまま、すぐさまイゴールが来た。景元は剣を立て、その拳を斜めに滑らせる。

 

 イゴールの額から散った汗が、斬れた頬に当たって染みる。

 

 近い。

 

 あの夜、鍋を挟んで見た顔よりもずっと近くに、イゴールの顔があった。

 

 押し返して離れる。観客席から、どっと声が降ってきた。

 

 気づけば、あちこちで人が立ち上がっていた。振り抜いた拳にも、それをかわして返す剣にも、声が上がる。

 

 イゴールの名を呼ぶ声へ、景元の名が重なった。

 

 

 演武台を揺るがすほどの声援だった。

 

 

 イゴールがさらにそれを煽るかのごとく拳を上げる。

 

 さらに声援の音量が増す中で、景元は集中しろと小声でつぶやきつつ、剣を構えた。

 

 

 ——あと半歩。あの左を越えれば、届く。

 

 

 息を吐く。

 

 

 次に足を出したのは、ほとんど同時だった。

 

 イゴールの踏み込みは、それまでのどれより深かった。腰が沈み、鋼の拳が真っ直ぐに伸びてくる。

 

 景元も下がらなかった。

 

 半身をずらし、肩を狙って剣を振るう。

 

 イゴールの肘が、わずかに上がった。

 

 来る。

 

 分かっても、もう止めなかった。

 

 

 柄を握り込み、最後まで振り抜く。

 

 

 

 鋼と鋼が、ぶつかった。

 

 

 

 凄まじい音がした。

 

 手が、肘が、肩まで痺れた。景元の足が石床を滑る。その向かいでは、イゴールも歯を食いしばり、片足を後ろへついていた。

 

 

 何かが落ちてくる。

 

 

 光る小さなものが、二人の間で跳ねた。

 

 景元は、握っている剣を見た。

 

 

 ——切っ先が、なかった。

 

 

 掌ひとつ分ほどの先が折れ、白い破断面をさらしている。

 

 視線を戻せば、イゴールも左腕を見ていた。

 

 剣を受けた鋼に、細い亀裂が走っている。彼が拳を握り直すと、肘の奥で、ガキキィッと異音がした。

 

 それでも、拳は上がった。

 

 景元も、再び剣を構え直す。

 

 折れたのは先だけだ。まだ終わっていない。

 

 ただ、もう一度あの腕とまともにぶつければ、今度は刀身まで保たないかもしれない。

 

 イゴールが、左肘を一度曲げた。

 

 ゆっくりと伸ばす。そして、

 

「……次で、決めよう」

 

 景元は頷いた。

 

「ああ」

 

 互いに、最後の一撃になることを承知で精神を統一する。

 

 意識が冷え、歓声が遠くなった。

 

 イゴールの肩が動く。その先だけを見据え——

 

 

 

「——双方、そこまで!」

 

 

 

 割って入った手を見て、とっさに景元が足を止めることができたのは幸運だった。イゴールもあわやというところでどうにか踏みとどまっていた。

 

 

 

 立会が、二人の間へ進み出ていた。

 

 その傍らに、天舶司の者らしい服を着た男が立っていた。台の下には、あの交易商もいる。

 

 いつから来ていたというのか。

 

 丸い顔にびっしり汗を浮かべ、握りしめた玉兆と、演武台の上とを交互に見ていた。

 

 観客席から、なぜだ、どうした、と疑問の声が飛んでくる。

 

 

「……勝負はまだついていない」

 

 

 息を整えつつ景元が言うと、立会は頷いた。

 

 

「承知しております。挑戦者の帰還に関わる急報が入りました。お二方とも、こちらへ」

 

 

 その言葉で、

 

 挑戦者——すなわちイゴールの顔から、表情が消えた。

 

 景元も剣を鞘へ収め、彼とともに演武台の縁へ向かう。

 

 是印はすでに立ち上がっていた。交易商へ何かを訊こうとして、こちらが来たのを見るなり言葉を呑み込む。

 

「……故郷で、何かあったのか」

 

 イゴールの問いに、交易商が頷いた。

 

「船仲間から、連絡がありまして。今朝入った便が、向こうの戦況の情報を持っていたんです」

 

 差し出された玉兆には、何行もの文字が並んでいた。

 

「どうやらその男もイゴールさんの試合を見ていたようで。ヤリーロと聞いて、あの拳闘士の星じゃないか、本人は知っているのかと、私に……」

 

 男はそこまで言って、隣の係へ目を向けた。

 

「天舶司(てんはくし)でも確認しております」

 

 係が、声を落とした。

 

「反物質レギオンの新たな部隊が、ヤリーロへ侵入しました。複数の地点で降下が確認され、避難拠点のいくつかと……連絡が途絶えています」

 

 景元は、イゴールの横顔を見た。

 

 動かなかった。ただ、生身の指が、玉兆の縁を強く押さえていた。

 

「……ここも、か」

 

 指が、地名のひとつで止まった。

 

 景元にも見覚えがあった。宿で広げた書類の上で、イゴールが何度か指していた場所だった。

 

「まだ、連絡が取れていないということしか判明しておりません。そこにいる方々が、どうなったかまでは——」

「ああ。分かっている」

 

 言ってから、イゴールは長く息を吐いた。

 

「帰りの船は」

「運航する会社が、その方面への定期便を休止すると決めました。お乗りになる船は、予定通り明朝出ます。ヤリーロへの寄港を済ませた後、当面、同じ便は出ません」

「それには、まだ乗れるんだな」

「はい。ただし、ご帰還を望まれるなら、早急に船主とお話しください。現地での滞在を短くし、積み下ろしの予定も変えると聞いています」

 

 イゴールが玉兆を返した。

 

 その手が、途中で止まる。

 

「将軍府にも、この報せは届いているのか」

「はい。こちらは、その際に預かって参りました」

 

 差し出されたのは、封書だった。

 

 景元は、息を止めた。

 

 イゴールがこちらを見た。

 

「……返事か」

「ああ」

 

 受け取って、封を切る。

 

 汗で指が滑った。

 

 紙を広げると、丁寧に記された文が並んでいた。景元の目は、その中ほどで止まる。

 

 

 ——援軍を派遣することはできない。

 

 

 そこから先にも、文字は続いていた。

 

 読まなければと思う。

 

 なのに、目が同じところへ戻ってしまう。

 

 ——できない。

 

 但し書き、それに類するような何か、とにかく条件がついてないかと、文の前後に目を走らせた。

 

「……見せてくれ」

 

 イゴールが、静かに手を差し出していた。

 

 渡すまでに、少し時間がかかった。

 

 イゴールは受け取った書状を、初めから終わりまで読んだ。

 

 やがて、

 

 鋼の腕が、力なく身体の脇へ下りる。肘から立つ薄い湯気だけが、先ほどの打ち合いの名残をとどめている。

 

「……この報せを聞いても、変わらないのか」

 

 係はすぐには答えなかった。

 

「現在の戦況を承知した上での、ご返答です」

 

 イゴールの目が、もう一度、紙へ戻った。

 

 観客席のざわめきが拡大していく。何をしている、早く再開しろ、と野次さえ始まっている。立会が片手を上げ、待つように伝えた。

 

「兵が出せなくても、ほかに——」

 

 言いかけて、イゴールは唇を結んだ。

 

 書状を畳む。折り目をつける生身の指が、震えていた。

 

「……明日の船へ載せられるものは、ないだろうか」

 

 その声に、景元は顔を上げた。

 

「薬でも、食べるものでもいい。向こうで、必要かもしれないんだ」

「そちらについては、将軍府へ確認しなければ——」

「俺が行く」

 

 景元は言った。

 

「俺からも、掛け合ってくる。出港までに用意できるものがないか、確かめる」

 

 イゴールは、こちらを見た。

 

 何かを言おうとして、口を閉じた。それから書状を返した。

 

「……頼む」

 

 受け取ると、彼は立会へ顔を向けた。

 

 

「この試合は、……棄権する」

 

 

 いつもの覇気に溢れた声とは程遠かった。

 

 

「イゴール……」

 

 呼ぶと、焦点の合わない目がこちらを向く。

 

 もう一度、構え合うはずだった。

 

 次で決めようと、言い合ったばかりだった。

 

 景元の手が腰の剣へ触れる。

 

「ありがとう……、景元。お前と戦うのは、楽しかった」

 

 イゴールも、一度だけ演武台の中央へ目を向けた。

 

「だけど……、俺は帰らないと。まだ……帰れるうちに」

 

 剣の柄から、手が離れた。

 

「港へ行かないと。船のことを確かめて、向こうへ着いたら……どう動くか、……聞いてくる」

 

 もはやうわごとのようだった。

 

 景元は頷いた。頷くことしかできなかった。

 

 今度こそ、引き止めることはできなかった。

 

 イゴールは立会へ軽く頭を下げ、それから観客席へ向き直った。

 

 まだ戦えるだろう、と誰かが困惑している。

 

 別の席からも、どうした、戻れ、臆したか、と好き勝手に叫んでいる。景元の方を指差している者もいた。

 

 イゴールは両手を下げたまま、それらをひたすら受け止めていた。やがて、いつも話し始める時のように、顔を上げて、言葉を振り絞る。

 

 

「すまない、みんな——どうか、せめて、ヤリーロ‐Ⅵを忘れないでくれ」

 

 景元は、その先を待った。

 

 いつもなら、ここから故郷の窮状を語り、力を貸してほしいと訴える。

 

 だが、イゴールはもう何も言わず、深く頭を下げた。

 

 観客席のあちこちで顔を見合わせる者がいた。立ち上がりかけた男が、腰を浮かせたまま、何が何やらといった面持ちで演武台を見つめている。

 

 再開を求める声も途切れた。

 

 会場は、水を打ったように静まり返っていた。

 

 イゴールはそのまま踵を返した。

 

 石床を踏む足音が、景元の耳にはっきりと届く。つい先ほどまで、歓声に紛れて聞こえもしなかった音のはずなのに。

 

 そのまま、拳を上げることなく、演武台を降りていった。

 

 降りたところで、イゴールの歩みが緩む。つい先ほどまで是印が立っていた辺りへ顔を向けている。つられるように景元もそちらを見たが、そこに是印の姿はなかった。

 

 イゴールは少しの間その場に立ち尽くしていた。それから待っていた交易商へ頭を下げ、連れ立って歩き出した。

 

 その背中を見送っていた景元は——ようやく、立会が自分の名を呼んでいることに気づいた。

 

 この最後の試合を終えた今、優勝者として。

 

 後ろ髪を引かれつつも景元は、一度、台の中央へ戻る。

 

 その際に折れた切っ先を拾い上げる。イゴールの拳に当たったところが、白く潰れていた。

 

 もう一方の手には、返された書状がくしゃくしゃの状態で残っていて、

 

 口の中は、苦い味しかしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 足早に将軍府を出た時には、もう日が落ちていた。

 

 医士に頬の傷を塞いでもらい、典礼で残っていた務めを終えると、景元はその足で返書を携えてきたのだった。

 

 取り次ぎ自体はすぐについた。

 

 今日の決勝を見ていたと言ってくる者もいたし、惜しい幕切れだったが見事な戦いだったと祝ってくれる者もいた。

 

 だが、返書について確かめたいと景元が口にした瞬間、相手方の顔から笑みが消えた。

 

 要請を退けた理由は、書かれていた通りだった。

 

 造翼者と慧駿族の連合に対し、鏡流たちの先遣隊だけで済ませるつもりはない。後続の討伐軍を送り、荒らされた同盟星を守らなければならない。その編成に加え、仙舟そのものの守りもある。

 

 兵も、軍船も、そこから割くことになる。

 

「イゴール殿の訴えは、承知している。お前の添えた書状も読ませてもらった」

 

 向かいに座った自分より上の位の武官は、景元の持参した返書へ目を落とした。

 

「だが、我らが巡狩の同胞にも援(たす)けを待っている者たちがいる。その者たちに、よそを助けるからもう少し耐えろとは言えない」

 

 その通りだ。そんなことは百も千も承知だった。

 

 景元は、膝の上で拳を握る。

 

 討伐軍の編成を記した帳面など、何度も何度も目を通し頭に刻まれている。日々の差分など命じられれば諳(そら)んじよう。空欄を埋めるために各所から人を集めていることも知っていた。

 

 それでも、そのまま席を立つことはできない。

 

 生まれてこの方、親や大人の命令に対して聞き分けの良い子として従ってきたつもりだ。それでも雲騎軍へ入る時には両親に逆らった。結果として家出同然で飛び出したが、自分で選んだ結果だった。

 

 軍の門をくぐってからも、自分なりに考え、選んできた。そのつもりだった。なのに今は、上官の仰ることは正しいと頷いて引き下がりかけている。でもそれじゃ、

 

 従う相手が、親から上官へ変わっただけじゃないのか。

 

 そうではないと言いたかった。でも、イゴールに何を持たせてやれるのかと考えると、その言葉まで出てこなくなる。

 

 だとすれば結局のところ、あの兄貴の言うところの頭でっかちというやつで、何も変わってやしない。

 

 

 いったい——なんのために、自分は。と景元は思う。

 

 

 艦隊を出せないなら、せめて帰還を助ける少数の護衛だけでも。自分も、その人数に入れてもらって構わない。

 

 兵を動かせないなら、武器や医薬品の供与はどうか。イゴールの乗る船へ積めれば、新たに輸送の船を出さずに済む。

 

 景元は食い下がる。返事を聞くたび、願い出る内容を変えた。

 

 武官も、途中で話を打ち切りはしなかった。物資については担当を呼び、軍の備蓄からどれだけ回せるか、改めて確かめると言ってくれた。

 

 ただし、明朝の出港までに用意できるとは約束できない。いくら人数を減らしても、雲騎の派遣をこの場で認めることはできない。

 

 とどのつまり、景元は吉報を得ることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 宿の廊下には、夕餉の匂いが残っていた。

 

 イゴールの部屋の前で景元は足を止めている。合わせる顔がない。だが、結果を伝えないわけにもいかない。

 

 意を決し、戸を軽く叩けば、中から返事があった。

 

「景元だ……入ってもいいか」

「ああ」

 

 イゴールは寝台の端に腰を下ろしていた。

 

 上着の襟から、新しい包帯が覗いている。鋼の腕には濡れた布が掛けられ、その脇に口を開けた鞄が置いてあった。

 

 机の上には、故郷から持ってきたという書類が広げられていた。

 

 ここで話す時には、いつもイゴールがその中から一枚を抜き、景元の方へ向けた。地名を指で示し、そこに何があったのか、どんな人々が暮らしていたのかを教えてくれた。

 

 今は、畳んで鞄へしまうために並べているらしかった。

 

「将軍府へ行っていたのか」

「……ああ。遅くなった」

 

 空いている椅子を引き、景元は腰を下ろした。

 

 いったいどこへ行ったのか。是印の姿は、ここにもなかった。沈黙が恐くて、景元の方から話を続ける。

 

「——船は、どうだった」

「乗れる。……あの商人が、船長に事情を話してくれた。俺も会ってきたよ」

 

 イゴールは、机に置いた乗船の控えを指で押さえた。

 

「向こうの港とは、一応まだ連絡がついている。帰ったら、荷を下ろすのを手伝うと言ってきた。ヤリーロ以外もごたごたしているらしくて……人手も足りないそうだ」

 

 景元は頷いた。

 

「ああ。それなら——」

 

 よかった、と続けかけて、口を閉じる。一体、何がよいと言うのか。

 

 イゴールは景元の報告を待つように、疲れた顔を向ける。

 

「こちらは……すまない。兵を出すという返事は、……もらえなかった。ただ、物資については、もう一度調べてもらえることになった」

「そう、か」

「何を、どれだけ拠出できるかはまだ分からない。だが、それが決まれば、船に載せる算段はつけられるかもしれない」

 

 イゴールは、膝に置いた紙へ目を落とした。

 

「いつ、分かる?」

「……明朝までに知らせてほしいと、頼んできた」

 

 紙の端が揃えられた。

 

「間に合うと、言ってもらえたのか」

 

 景元は口を開きかけ、答える前に閉じた。

 

「……いや」

「そうか」

 

 イゴールは、それ以上は訊かなかった。その配慮がなおさら景元には堪(こた)えた。

 

 畳んだ紙を布で包み始めた。その手が動くのを見ていると、言葉を切ったら、そのまま明日の別れまで決まってしまう気がした。

 

「埠頭にも、返事を届けてもらうよう頼んである。出港までは、まだ——」

「ああ。待つよ。船が出るまでは」

 

 イゴールは顔を上げ、頷いていた。

 

「頼んでばかりで、すまないな」

 

 違う。そんなふうに言ってほしかったのではない。

 

 明日はこれを持って帰れると、今度こそ、そう、少しでも希望のある話を持ってきたかった。

 

 景元は、椅子の上で身を乗り出したまま、次の言葉を探した。

 

「……今後、別の船を出せないかも調べる。今回の船に間に合わなくても、後から運ぶ方法を——」

「そうしてくれたら、助かる」

 

 空虚な言葉だけを並べている自覚しかなかった。

 

 それだけに、景元は続きを言えなくなった。

 

 いつ出せる船なのか。どこから向かう船なのか。

 

 何ひとつ、まだ決まっていない。

 

「景元。俺は、ちゃんと聞いてもらえたと思っている」

 

 イゴールの手が止まる。

 

「あの報せだって、俺がここで皆に話していなければ、知らないままだったかもしれない。お前も、将軍府へ届けてくれた」

「ああ」

「だから、もう一度頼む。何か決まったら、教えてくれ」

 

 頷くと、イゴールは布の端を折り込み、包んだ書類を鞄の底へ収めた。

 

「ただ、俺は明日の船に乗る」

 

 その言葉は、静かだった。

 

「それが最後の便だと言われた。船長にも、あの商人にもな。それはそうだろう、誰だって、命は惜しい」

 

 耐えきれなくて、景元は乗船の控えへ視線を移す。

 

 前に是印へ見せた時には、何でもない、帰りの日取りだった。寝坊すんなよと、三人で笑っていたほどだ。

 

「……もう、待てないんだ。今度は、本当に」

 

 景元の方へ向けられた目が、わずかに細められた。

 

「俺が出た時には、まだ戦っていたんだ。仲間たちは」

 

 その先を言うまでに、イゴールは何度か唇を動かした。

 

「今日、連絡が途絶えたと言われた場所にも、知っている奴がいた」

 

 膝の上で、鋼の手が握られた。

 

「……あいつらが戦っているうちに、帰りたい」

 

 景元は、膝の上へ視線を落とした。

 

 明日、船が出るまで。

 

 それ以上の時間を、もう、イゴールから借りることはできなかった。

 

 

 

「すまない」

 

 

 

 やがて景元がぽつりと放った言葉に、イゴールは首を横に振った。

 

「お前が、……謝ることじゃない」

「だが、もう一度掛け合うと言った。お前にも、その、期待をさせた」

「掛け合ってくれただろう。現に今も、その帰りだ」

 

 景元は俯いたまま、首を振った。

 

 何度訪ねたか。誰に話したか。どこまで聞いてもらえたか。

 

 そんなことを数えても、明朝イゴールが故郷にもたらす援軍は増えない。

 

「……何か、持たせたかったんだ」

 

 声にすると、それだけのことだった。

 

 イゴールはすぐには答えなかった。

 

 鞄の中を見下ろしていたが、やがて鋼の手を持ち上げ、自分の肩へ触れた。

 

「立派な痣なら、もらったぞ」

 

 景元は顔を上げた。

 

 あの試合で、剣の腹を叩き込んだところだった。

 

「……そんなもの」

「しばらく残るだろうな。ひょっとしたら消えないかもしれない。だからいつまでも、お前がつけた傷だと、覚えておくよ」

 

 イゴールは少しだけ笑った。

 

 景元も笑おうとしたが、うまくいかなかった。

 

 慰めなければいけないのは自分の方だというのに逆に慰められている。

 

 一縷(いちる)の望みを持ってこの仙舟へやってきたというのに、故郷へ手ぶらで帰らねばならない相手に、今、自分の方が。

 

「——なぁ景元。あんなにも宇宙は広いというのに、あまりにも悲しいことが溢れすぎているな。だから誰しもが、"運命"だと、仕方のないことだと、そう、受け入れるしかないんじゃないだろうか」

 

 何も、言えない。

 

 唇を結び直すと、塞いでもらった頬の傷が引きつれた。

 

「お前の兄貴にも、礼を言いたかったんだが」

 

 イゴールが戸の方を見た。

 

「……戻ったら、伝えておく。それに明日は、見送りに行くよ」

「ああ。……朝は早いぞ」

「知っているよ。俺は寝坊をしたことがないんだ」

 

 いつもなら、横から余計なことを言ってくる声があるはずだった。

 

 だが、二人とも、それ以上は続けなかった。

 

 景元が立ち上がると、イゴールはまた荷造りへ戻った。

 

 鞄の脇に置かれていた手拭いを畳み、隙間へ詰める。何度も水を替えてきた、あの布だった。

 

「——景元、」

 

 景元は戸口で振り返った。

 

「どうかしたか?」

 

 呼びかけた男が顔を上げる。

 

「お前たちは、俺からすると考えられない長い時を生きるんだろうな」

 

 長命種である自分と、化外民(短命種)であるイゴール、その種の隔たりは寿命という厚い壁がある。でも、そんな与えられた時間の長さの違い以上に、自(・)分(・)で(・)決(・)め(・)た(・)命(・)の(・)時(・)間(・)というのがあるのだとしたら、

 

 

 

「——俺のこと、忘れないでくれよ」

 

 

 

 それはきっと、もう会うことはないだろうとわかっているかのような口ぶりで。

 

 また会おうと、それだけ言えばよかったのに、

 

 ——どうか死なないでくれ、と言ってしまいそうになった。

 

 辛うじて振り絞ることができたのは、

 

「……また、明日」

「ああ。また明日」

 

 戸を閉めても、景元はすぐには歩き出せなかった。

 

 中から、再び荷をまとめ始める音が聞こえた。

 

 引き止める言葉ではなく、見送る言葉を探していることに気づいて、ほとほと自分がイヤになって、ゆっくりと景元は戸から手を離した。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、薄明かりのなかで宿を出たイゴールを待っていたのは、雲騎軍の正装に身を包んだ景元だった。

 

 そのまま荷を持とうとした景元に、イゴールは首を横に振った。代わりに頼まれたのは、埠頭までの道案内だった。

 

 

 

 是印は、結局、昨晩から姿を見せなかった。

 

 

 

 将軍府からの知らせも、まだなかった。

 

 

 一瞬だけ待っていてくれとイゴールに言い置いて、景元は宿屋の帳場へもう一度だけ声をかけた。もし将軍府から使いの者やここにもよく通っていた派手な赤橙頭の男が来たら、埠頭へ向かったと伝えてほしい。宿の主は頷き、イゴールへ道中の無事を祈ると伝えてくれと頼んできた。

 

 

 まったく——何をしているんだ、あの人は。

 

 

 昨夜から何度も浮かんだ言葉を、景元はまた飲み込んだ。イゴールの前で口にしても困らせるだけだ。

 

 

 

 

 朝の通りでは、店を開ける者たちが軒先を掃いていた。典礼の飾りを外している店もある。それが祭りのあとを実感させる。

 

 そこを通り抜けて、倉庫の並ぶ区画へ入る。

 

 借り物の手拭いまで丁寧に畳んで持っていくような男の鞄は、片手で提げられる大きさだった。

 

 その他に、故郷へ持って帰る荷はない。

 

 景元は努めてそちらを見ないよう、先を歩く。

 

 

 

 

 埠頭へ出る手前で、荷車の音が聞こえた。

 

 一台ではなかった。

 

 

「そっちの箱、横にしないで! 上に印があるでしょ!」

「おう、こっちはどこへ置くんだ?」

「同じ札のところへお願いします。数を確かめますから」

 

 

 何やら慌ただしいなと——倉庫の角を曲がり、景元は足を止めた。

 

 荷物が積み上がっていた。

 

 木箱に麻袋、紐でまとめられた包み。荷車の上にも、その横にも、まだ運び手を待つ荷がある。

 

 人もいた。二十人はいるだろうか。荷を下ろす者、蓋を開けて中身を確かめる者、札を読み上げて紙へ書きつける者。

 

 

 見覚えのある顔が、いくつもあった。

 

 

 控え室へ来た薬士が、箱の蓋を押さえている。丸顔の交易商は船員らしい男と話し込み、あの工造司の若者は、工具の詰まった鞄を足元へ置いていた。

 

 

 その向こうで、平底の荷運び用星槎から、白い狐耳がひょこりと覗いた。

 

 

「あっ、景元っ! おはようございますっ!」

「……白珠さん?」

「白珠でいいですよっ!」

 

 彼女は袖をまくった腕で船縁(ふなべり)を掴み、身を乗り出した。

 

「——是印さん、是印さんっ! 来ましたよ、お二人とも!」

 

 荷の陰から、あくびを噛み殺している生首だけが出た。

 

 

 兄貴だった。

 

 

 目の下には隈があり、髪も跳ねている。肩に担いでいるのか、はみ出た箱の角が、頬に食い込んでいた。

 

「おーお前ら。寝坊してねえな。うしうし、それだけは褒めて遣わす」

「……兄貴。これは、いったい」

「見りゃ分かんだろ。荷物だよ、荷物。道空けろって、結構重てぇんだよこれ」

 

 言いながら、是印は困惑を隠せない二人の間を走り抜けた。

 

 箱を荷車へ下ろし、腰に手を当てて息を吐く。

 

「いやー、飯係の次は荷運びかよ。腰いわすわ、こんなん」

 

 イゴールが、景元の隣へ進み出た。

 

 箱を見て、集まった者たちを見た。それから、是印へ顔を向ける。

 

「……だ、誰の荷だ?」

「あ?」

 

 是印が眉を寄せて、

 

 

 

 

「お前のだよ。他に誰が帰るんだ、ヤリーロ‐Ⅵへ」

 

 

 

 

 イゴールは、動かなかった。いや、動けなかった。

 

 薬士が手を止め、こちらを見た。交易商も話を切り上げて近づいてくる。

 

「持ってきましたよ。お話にあった、傷の手当てに使うものを」

 

 薬士が箱の蓋を開けた。

 

 小分けにされた薬包と、瓶。隙間には布が詰められ、その上に使い方を書いた紙が載っている。

 

「こちらは保存食です。帰りに空く貨物区画がありましてね。船主にも話をして、使わせてもらえることになりました」

 

 交易商が、別の箱を叩いた。

 

 他にも、毛布、着替え、工具、交換用の部品。景元が目で追っている間にも、星槎から次々に新しい荷が下ろされてきた。

 

「これを……全部?」

「まだ来んぞ。最後の店が、奥の倉まで探してくれてる」

 

 是印は袖で額を拭った。

 

 景元は、ようやく口を開いた。

 

「軍から出すという話は、まだ——」

「そっちは聞いた。こっちは、民間で出せるって奴から集めてきた分だ」

 

 兄貴は、そこにいる人々を顎で示した。

 

「店の親父だの、薬屋だの、船乗りだの。何かできねえかって言うから、じゃあ何が出せるって聞いて回った」

 

 

 

 

「だ……だが、どうやって」

 

 イゴールがうめくように言う。

 

「これだけの物を集める金は、どこから——」

「お前の賞金」

 

 あまりにあっさり言われたので、景元もすぐには意味が分からなかった。

 

 イゴールも同じだったらしい。口を開けたまま、是印を見ている。

 

「……俺は、受け取っていない」

「おう。だから——俺が受け取っといた」

「あ、兄貴……?」

 

 ピスピースしている是印に景元の口がわななく。

 

「司賓(しひん)が本人に代わって預かります、っつってな。ちゃんと珍しく俺の名前書いて受け取ったぜ」

 

 是印は懐から、折り重なった紙を引っ張り出した。

 

 賞金の受領書だった。イゴールの名と試合日、その横に、是印の署名が並んでいた。

 

 一枚どころじゃない。

 

「いつの間に……」

「だって、お前が台の上で喋ってる間。毎回いらねえって言いやがるから、彼はツンデレという思ってもないことを言ってしまうビョーキなんです。なので、あれは嘘ですってこっちも毎回もらいに行ったわ」

「勝手に、そんな」

「だって、いるだろーが。金。薬買うにも飯買うにも、船に載せるにもよ」

 

 是印は、何を今さら、という顔だった。それからほんの少しだけ付け足すように、

 

「まぁ、ちょっと増やしたけど」

 

 景元は顔を上げた。

 

「……増やした?」

「えへへ、これ」

 

 気持ち悪い声と共に、差し出された受領書の間から、別の紙が覗いていた。

 

 賭場の払い戻し票だった。

 

 『勝ち:イゴール・ハフト』

 

 その次にあった名を見て、景元は紙へ顔を近づけた。

 

 『勝ち:景元』、と書いてある。

 

「——兄貴」

「いやぁ、世の中見る目ねえ奴ばっかで助かったわ。まぁでもさー、ぶっちゃけ、よその星から来たちょっと体臭がアレな感じの拳闘士と、防衛剣士の末席だろ? 最初のうちはクソなめられてて、なかなかいいオッズで結構払い戻しついてさ」

 

 まさか、

 

「人の賞金を、勝手に受け取って、勝手に賭けたのか?」

「おーよ。お前らが勝つ方にな」

 

 絶句。

 

 ——伝統ある式典だぞ。胸を張るな。馬鹿兄貴。

 

 そう言うつもりだった。だが、イゴールが横で、かすれた声を漏らした。

 

「俺が、勝つ方に?」

「そりゃそうだろ。負けろと思いながら飯作ってたまるかよ。是印さんそんな意地悪じゃねーよ」

 

 是印は紙の端を指で弾いた。

 

「ちなみに決勝は賭けてねえぞ。どっちにも負けてほしくねえのに、賭けになるかよ。残りも全部、荷物にしちまったしさ」

 

 景元は払い戻し票から、積まれた箱へ目を移した。

 

 この箱のいくつかは、あの槍使いへ踏み込んだ一戦から来たのか。

 

 イゴールが喉を枯らしながら勝ち続けた、その一つ一つが、ここにあるのか。

 

「……呆れた人だな、本当に」

「お礼は俺に、文句も今回ばかりは俺に言え。将軍府に言っても知らねえからな」

 

 そりゃそうだ。実際、知らないだろう。

 

 何から言えばいいのか分からなくなった景元の横で、イゴールは受領書を見つめていた。

 

 

「——もっとも、それだけで全部買えたわけじゃねえよ」

 

 

 是印は紙を重ね直した。

 

「金が足りねえっつったら、値段まけてくれた奴もいたし、金はいらねえから持ってけって奴もいた。運ぶ足まで貸してくれたのが、このおっさん」

 

 交易商が照れたように頬を掻いた。

 

「ただ、手前は店があちこちにありましてね。朝までに回れる運び手を、どうしたものかと」

「そこで白珠の出番だったわけですっ!」

 

 星槎の最後の荷を下ろし、白珠がえへんと言いながら降りてきた。

 

「こちらの星槎をお借りして、昨夜から回ってきました。景元、そっちの包みも受け取ってくれますか?」

「あ、ああ……」

 

 差し出された包みは、ずしりと重かった。

 

「……助かったよ、白珠」

「いーえー、白珠へのお礼は、是印さんから直接頂くので大丈夫ですっ」

 

 是印が、あからさまに目を逸らした。

 

「次のお休み、一日ですからね。二人でお出かけするって、約束しましたからねっ」

 

「だぁもーわぁーってるって。荷物持ちでも何でもやりゃいいんだろ、やりますよ、自分やらせてください」

 

「荷物は持たせません。手は繋いでもらいますけどっ!」

 

「え、それは別料金プラン…………」

 

 白珠は花が咲くようににっこりと笑った。そこに圧がなかったかというと嘘になる。

 

 ——なるほど。兄貴も兄貴で、差し出せるものは差し出してきたらしい。

 

 景元は包みを荷車へ載せた。

 

 荷を結ぶ紐が、手のひらに食い込んだ。重さが残った。その感触を確かめるように、指を曲げた。

 

 昨日、何か持たせたかったと言った時には、何ひとつ決まっていなかったのに。

 

 

「——お、俺、は……」

 

 

 イゴールが、薬の箱の前に立っていた。

 

 差し出しかけた手を、蓋の手前で止めている。

 

「こんなに、してもらっていいのか」

「そのために持ってきたんだ」

 

 答えたのは、荷車を押してきた男だった。

 

 あの観客だった。ヤリーロ‐Ⅵだろう、覚えているぞと、席から手を上げた男。

 

 今は額に汗を浮かべ、袖を肘までまくっている。

 

「昨日、帰ってからも気になってな。覚えてるって叫んだくせに、それだけでよかったのかって。そしたら、この赤毛の兄ちゃんがまだ荷を集めてるって聞いてよ」

 

 イゴールの唇が動いた。

 

 何も出てこなかった。

 

「私たちも、あなたの話を聞いていましたから」

 

 薬士が、箱へ添えた紙を押さえた。

 

「向こうの医士の方へ、これも渡してください。中身が分かるようにしてあります」

「昔の取引先にも、届けられればいいんですがね。もちろん、必要な方へ回してくだされば、それで構いません」

 

 交易商の声が続く。

 

 イゴールは一人ずつ顔を見た。頷こうとして、途中で俯き、しゃがみ込んでしまう。

 

 是印が、景元へ残りの紙を押しつけてくる。

 

「ほれ、こいつ持っとけ」

 

 そこには、賞金の額も、賭けの結果もなかった。

 

 人の名前と、出せる品。数と、受け取りに行く場所。何時なら店の主がいるか、荷車をどこへ回すか。

 

 書き足された文字が、紙の端まで埋めていた。

 

 裏返すと、槍使いの踏み込みを示した丸印があった。

 

 ——裏が白い。もったいねえだろ。

 

 景元は、紙を持つ手に力を込めた。

 

 自分が将軍府へ届ける書状を整えている間も、兄貴は、これを書いていたのだ。

 

 

 

 

「……是印」

 

 イゴールが、顔を上げた。

 

「向こうが今、どうなっているか、俺にも分からないんだ」

 

 その声に、景元は顔を向けた。

 

「本当は、この薬を渡したい相手が、まだ生きているかも。これを持って帰って、どれだけ助けられるかも……」

 

 鋼の指が、ゆっくりと曲がった。

 

「何も、約束できない」

 

 是印は、イゴールの前にしゃがみ込んだ。そして、

 

 

「ゴチャゴチャ、うるせぇ」

 

 

 足元の麻袋を持ち上げ、箱の脇へ寄せる。それから立ち上がると、薬士が開けていた蓋の縁を、軽く叩いた。

 

「これ、使えんのか? それとも使えねーのか?」

 

 どっちだと選択を強要されたイゴールは、

 

「つ、使える……」

「んじゃ、こっちの飯はいんのか? いらねぇのか?」

「……いる」

「んじゃ、持って帰れ」

 

 兄貴はそう言った。

 

「誰が何人助かるかなんて、俺にも分かんねえよ。でも、使えるもんがここにあって、お前はそいつがいるかもしれない所へ帰るんだろ」

 

 イゴールは、箱の縁へ手を置いた。

 

「俺は、援軍を——」

「連れて帰りたかったんだろ。知ってるよ」

 

 是印は頷いた。

 

「この荷物じゃ、代わりにならねえのも分かってる。こいつを待ってる奴だって、いないかもしれない。でもさ、んなの、いるかもしれないのも同じじゃねーか」

 

 瓶のひとつが、差し込んだ朝の光を受けていた。

 

 イゴールがそれを見つめる。

 

 

「俺は、——いや、俺たちはな。お前に約束してもらいたくて来たんじゃねーよ。

 

 俺たちは、あんだけ一生懸命バカでかい声を張っていたお前を好きになって、

 やめろっつってんのに聞きもしねぇでボロボロになるまで頑張り続けたお前が、

 

 

 シケた面して手ぶらで帰んなきゃいけねぇのが我慢ならねーんだよ!」

 

 

 ——昨日まで、景元は見慣れていたはずだった。薬も、食料も、それを扱う店も、この羅浮にはいくらでもある。

 

 だが、イゴールの隣へ並べるには、誰かが店を訪ね、事情を話し、代金を払い、箱へ詰め、ここまで運んでこなければならなかった。

 

 その一つ一つをしてくれた者たちが、今、目の前にいた。

 

「だ、けど、俺には、返せるものが——」

「まーだ言うかよ」

 

 是印が、イゴールの肩を小突いた。

 

「お前が勝った金だぞ。それに、こいつらが聞いてたのも、お前の話だ」

 

 イゴールが顔を上げる。

 

「毎回、同じこと叫んでたろ。お前は。喉、ガッサガサにしてよ」

 

 兄貴は、あのぶっきらぼうな顔のままだった。

 

「ちゃんと聞いてたんだよ、みんな。——忘れてほしくねえんだろ?

 じゃ、俺らが忘れねーように、しっかり借りとけ。

 そんで、ちゃんと頼めよ。助けてくれって」

 

 

 イゴールは、口を開いた。

 

 息だけが漏れた。

 

 箱を掴む鋼の手が軋み、生身の手が、その上へ重ねられた。

 

 誰も急かさなかった。

 

 やがて彼は、箱から手を離すと、集まった者たちへ向き直った。

 

 

「——力を、貸してくれ」

 

「あーあーあー聞こえなーい。もっと大きく、もっと素直にーどちらさんですかーあなたはァー」

 

 耳に掌を当てて是印はこれ見よがしに言ってのける。

 

 

「俺は——」

 

 息を吸い込む。

 

 

「俺は——イゴール・ハフト!!」

 

 

 声がかすれた。

 

 唾を飲み、もう一度、口を開く。

 

「これを、故郷へ持って帰りたい。待っているかもしれない者たちに、届けたいんだ」

 

 深く、頭を下げた。

 

「どうか、手を貸してくれ……!」

 

「おうよ」

 

 あの男が、荷車の持ち手を握り直した。

 

「どれから運ぶ?」

 

 イゴールは顔を上げた。

 

 目元を生身の腕で乱暴に拭った。もう一度息を吸い、積まれた荷を見回す。

 

「薬を、先に。奥へ押し込まず、取り出せるところへ置きたい」

「分かりました。中身と数を、一緒に確かめていただけますか」

「ああ。それから、食料だ。船の貨物区画も、見せてもらいたい。全部入るか、確かめたいんだ」

「ご案内しますよ」

 

 交易商が船員を呼んだ。

 

 白珠が星槎の荷台へ戻り、次に回す荷車を指で示す。薬士は紙を広げ、工造司の若者も立ち上がった。

 

 あちこちから返事が上がり、人が動き始めた。

 

 イゴールは鞄を足元へ置くと、最初の箱へ両手をかけた。

 

 景元も、その反対側を持った。

 

 顔を上げたイゴールと、目が合う。

 

「……景元」

「俺にも、運ばせてくれ」

 

 イゴールは口を引き結び、それから、頷いた。

 

「ああ。頼む」

 

 横から、是印の手まで伸びてきた。

 

「お前ら、腰から上げんなよ。脚な脚、せーのでいくぞ。せーの——ッ」

 

 箱が、ゆっくりと持ち上がっていく。

 

 手のひらに、重さがかかる。

 

 故郷へ持って帰る荷が、たしかに、イゴールの腕の中にあった。

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 最初の箱を荷台へ載せたところで、交易商が景元を呼んだ。

 

「申し訳ない。ひとつ、手を貸していただけませんか」

 

 船員と、その隣に立つ天舶司の係が、書類を広げていた。

 

 船主から荷室を使う承諾は得ている。だが、昨夜から今朝にかけて加わった荷が最初に届け出た数を大きく越えていた。そのせいで積み荷の明細を直し、検分を受け直さなければならないという。

 

「船長からは、次の出港枠までなら待てると。ただ、そこを逃すと、向こうでの寄港の予定に間に合わなくなります」

 

 船員が、積まれた箱を見た。

 

「最後の便です。お乗せしたいのはこちらも同じですが、それ以上は——」

「分かっている」

 

 景元は頷いた。

 

 話を聞いていたらしい是印が荷車の上から、

 

「随分増えたからなぁ……けど、持ってけって善意で言ってくれたもん、置いてくんのもな……俺是印だしなぁ」

「兄貴。さっきの紙は、これで全部か」

「ん? ああ、あっちの箱に入れた分で最後だ」

 

 指された箱には、布で包まれた工具が詰まっていた。

 

 景元は、手元の紙を広げた。

 

 何を、誰が、どれだけ出したのか。受け取った品には印がつき、数が変わった箇所は書き直されている。

 

 綺麗な帳面ではない。だが、必要なことは書いてあった。

 

「明細はこちらでまとめ直す。品の数は、持ってきた方々と照合できる。確認が済んだ箱から、検分を進めていただけないだろうか」

 

 係は紙へ目を落とし、それから景元の顔を見た。

 

「失礼ですが、お名前を」

「雲騎軍の驍衛(ぎょうえい)、景元だ。この荷の取りまとめは、自分が引き受ける」

「景元殿……あ、失礼しました。昨日の典礼の」

 

 頷くと、相手の姿勢が変わった。

 

 景元は船員へ向き直る。

 

「その出港枠まで、待っていただきたい。船長には、自分からもお願いする」

 

 手元の荷を指し示し、続けた。

 

「一箱ずつ、こちらで数を確かめて係の方へ渡す。検分の済んだものから、船へ運び入れてほしい。全てを並べ終えてから始めるより、その方が早い」

 

 係は少し考え、それから書類を重ねた。

 

「担当官に確認します。明細は先に進めてください」

「ありがとう」

 

 景元は近くの空箱を机代わりにし、紙を置いた。

 

「イゴール。船へ入れる順に、品を分けてくれ。白珠は数を確かめて、こちらへ。兄貴、筆を」

「これでし」

 

 差し出された筆を取った。

 

 景元は、紙の一番上へ自分の名を書いた。

 

 

 その間に、工造司の若者がイゴールを呼び止めていた。

 

 出発前に腕を直してやってくれと、是印から頼まれていたらしい。

 

 埠頭に隣接する修繕所の軒先を借り、作業台へ鋼の腕を載せる。

 

 前腕を覆う鋼には、昨日の剣と打ち合ったところから、細い亀裂が走っていた。外装が外されると、若者は内側の部品へ顔を近づけて細部を確認していく。

 

 景元が明細の清書を終えた頃になると、是印の声が聞こえた。

 

「——で、どうよ」

「外装の割れは塞げます。動きの渋さも直せます。ただ、こちらは……」

 

 若者が細い工具で示したのは、肘の奥にある金属の軸だった。

 

「ここにも亀裂が入っています。傷んでいたところへ、強い力がかかったのでしょう。これからも拳を振るうなら、替えておきたいところですが」

 

 イゴールが景元へ、

 

「……最後の、あれか」

 

 剣を握る手から肩まで、痺れが走ったのを覚えている。

 

 景元は作業台の傍らへ寄った。

 

「同じ物はないのか」

「型が違いますから、作り直さないと。形は分かりました。ただ、これだけの腕を支えるなら、これに見合うような良質の鋼を選ばないと。ここの備えでは、また曲がる恐れが……」

 

 イゴールは、開かれた自分の腕を見下ろしていた。

 

「今あるもので、できるところまで頼む。動くなら、それで——」

 

 景元は腰へ手をやった。

 

 指に触れた柄は、昨日まで、ずっと握っていたものだった。

 

 将軍府へ行く時も、今朝、宿を出る時も、そこにあった。

 

 抜き放つと、作業台の上へ横たえた。

 

 続けて、懐から小さな布包みを出す。

 

 昨日、演武台で拾った切っ先だった。

 

 短くなった刃の先へ、そっと並べる。

 

「これでは、どうだろう」

 

 若者が顔を上げた。

 

 刀身を確かめ、根元の銘へ目を移したところで、息を呑む。

 

「これは……! 懐炎様の」

「典礼に出る時、賜ったものだ。鋼材として足りるなら、使ってほしい」

 

 若者は、折れ口から柄元まで、目を走らせた。

 

「使えます。ただ、残った刀身には傷みも少ない。先を研ぎ直せば、まだ剣として使えますが……」

 

 景元も、その刃を見た。

 

 最後の一撃を放つつもりで、構え直した剣だった。

 

 振れることは、知っている。

 

「景元」

 

 イゴールの声が低くなった。

 

「それは、……お前の剣だろう?」

「ああ」

 

 初めて腰へ差した時には、羅浮の名まで預かったようで落ち着かなかった。昨日はその剣でイゴールと戦ったのだ。

 

 誰かに選ばれ、託された一振りだ。

 

 ここから先に何のために使うかを、今、自分で決めたかった。

 

「俺の剣だ。だから、使い道は、俺に決めさせてくれ」

 

 イゴールは刀身を見つめた。

 

「だが……」

「軍は送れない。俺も、一緒には行けない」

 

 言うと、昨夜には唇を噛むほかなかった言葉が、今はその先へ続いた。

 

 

「だからせめて、お前の拳で、俺の剣を使ってくれ」

 

 

 イゴールの生身の手が、作業台の縁を掴んだ。

 

 景元は若者へ顔を向ける。

 

「懐炎将軍には、自分から説明する。出港までにできるか?」

 

 若者は、しばらく剣を見ていた。

 

 やがて、両手で持ち上げた。

 

「……できます。これなら。軸の寸法は取ってあります。今から始めれば、間に合わせます」

 

 横で、是印が、

 

「おし、時間がねぇ。それでいこう」

「……そのためらいのなさ。さすが他人の賞金勝手に使った人は違うな」

「やだもう、照れちゃう。判断が速い」

 

 是印は舌を出して笑い、手伝えることがあると若者と一緒に修繕所の奥へ入った。

 

 景元の剣が、炉へ差し入れられた。

 

 昨日までイゴールの拳と打ち合った刃が、火の中で赤くなっていく。

 

 取り出された刀身へ、鏨(たがね)が当てられた。

 

 槌が、振り下ろされる。

 

 景元は、その音を最後まで聞いてから、清書した明細を手に取った。

 

 こちらにも、まだ仕事が残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ——出港は、次の枠まで待ってもらえることになった。

 

 それ以上は待てないと、船長にも念を押された。景元は礼を言い、担当官のもとへ走る。

 

 署名を終えて戻ると、検分の済んだ箱から、すでに船へ渡され始めていた。

 

「景元、こっちはあと二箱です! 数は合っています!」

「ああ。こちらも通った。残りも、そのまま進めてくれ!」

 

 白珠が、最後の紙を係へ渡す。

 

 薬の箱が、食料の袋が、道具の包みが、次々と船へ運び込まれていった。

 

 もう、書状の中だけの話ではなかった。

 

 

 

 イゴールも修繕所から戻ってきた。

 

 肘を曲げ、鋼の指を開く。拳を握り込んでも、あの引っかかるような音はしなかった。

 

 外から見れば、ほとんど同じ腕だった。

 

 だが、その内側には、景元の剣だったものが入っている。

 

「残りは予備にしてあります。同じところをまた傷めた時に使えるよう、こちらへ」

 

 若者が小さな包みを渡した。

 

 イゴールはそれを受け取り、深く頭を下げた。

 

「——ありがとう。大事に使わせてもらう」

 

 起き上がった顔が、景元へ向く。

 

 拳が、こちらへ差し出された。

 

 景元も、自分の拳を握った。

 

 鋼へ、軽く打ち合わせる。

 

 昨日は受け止めるたびに手が痺れた拳だったが、今は静かに、そこにある。

 

 

 

 

 

 船へ渡す荷は、あとひとつになっていた。

 

 工具を詰めた木箱だった。景元が最後に貼った札を船員へ見せ、是印が荷車の端へ滑らせる。

 

「ほい、これで最後——っと、おいおい」

 

 持ち上げた拍子に、箱を締めていた帯が緩んだ。

 

 傾いた箱へ、是印が右手を回す。

 

 金具の端が、掌を横切った。

 

 景元には、それが見えた。

 

「兄貴!」

「ッ"…… 下、下! そっち持ってくれ!」

 

 言われるまま、底へ手を差し込む。二人で荷台へ戻したところで、箱の側面を赤いものが伝った。

 

 是印の右手から、血が落ちていた。

 

 掌の肉が、斜めに裂けている。

 

「……いちち、やっちまった。わり、これ締め直してもらっていい?」

「兄貴、その手を——」

「洗ってくるわ。荷、頼んだぞ」

 

 是印は右手を握り込み、空いた左手で、景元の肩を軽く叩いた。

 

 そのまま修繕所の方へ歩いていく。

 

 船員が箱の帯を掛け直した。血のついた金具が内側へ折り込まれ、別の布で覆われる。景元は箱の底を持ち上げ、船員へ渡した。

 

 指に、兄貴の血がついていた。

 

 荷台の端に置かれた籠へ手を伸ばす。

 

 残っていた清潔な手拭いを一枚取り、是印の後を追った。

 

 

 

 兄貴は修繕所の脇で水を流していた。

 

 人々が集まっている方からは、張り出した壁で見えなくなる場所だった。

 

「兄貴」

 

 呼ぶと、肩が跳ねた。

 

 振り向いた是印が景元を見て、その手にある布を見た。

 

 右手が、背中へ回された。

 

「手を出してくれ」

「い、いや……いいって。もう大したことねえから」

「だいぶざっくりいっていただろう。早く見せてくれ」

「見た目ほどじゃねえって。ほら、荷物もあるしよ。はよいけ」

「最後の箱も渡したよ」

 

 是印の口が、半端に開いたまま止まった。

 

 景元は布を広げた。

 

「人には散々、強がるなと言っていただろう。兄貴がそれでどうするんだ」

 

 返事はなかった。

 

 背中へ回した腕が、動かない。

 

「……兄貴?」

 

 顔を見る。

 

 いつもの、面倒がっているだけの顔ではなかった。

 

 景元は、広げた布を少し下げた。

 

 是印が、視線を落とす。

 

 やがて、隠していた手をゆっくりと前へ出した。

 

 

 傷が、動いた。

 

 

 景元は、息を呑んだ。

 

 掌を斜めに走っていた裂け目が、端から狭くなっていく。

 

 傷の底に見えていた赤いものが隠れた。水に薄まった血の下で、皮膚が寄り合っていた。

 

 瞬きをした時には、もう、一筋の赤い線しか残っていなかった。

 

 その線さえ、見る間に薄くなる。

 

「…………」

 

 手拭いを持ったまま、景元は動けなかった。

 

 さっきの金具を見た。

 

 裂けた掌も、滴った血も、見た。

 

 自分の指にだって、その血がついている。

 

 目を上げる。

 

 兄貴も、こちらを見ていた。

 

「……あー、景元。そのこれは、だな……」

 

 ——豊穣。

 

 その二文字が浮かんだ。

 

 この目でいくらも見てきている。傷を受けても肉を戻し、何度でも立ち上がる者たちのことが、頭をよぎった。

 

 まだ何も訊いていない。

 

 それなのに、兄貴が差し出していた手を、わずかに引いた。

 

 景元は、その動きを見た。

 

 今、自分は、どんな顔をしていたのだろう。

 

 

「景元殿。明細の控えを、お渡ししておきます」

 

 

 壁の向こうから、声がした。

 

 天舶司の係だった。

 

 景元は、是印の手へ布をかぶせた。

 

 そのまま手首を支え、係へ背を向ける位置へ半歩動く。

 

「ありがとう。そこの台へ置いておいてくれ。すぐに行く」

「承知しました。荷は全て積めましたので、あとはお乗りになる方だけです」

 

 足音が、離れていった。

 

 景元は布の端を折った。

 

 もう塞がってしまった掌へ、巻きつけていく。

 

 是印は、手を引かなかった。

 

「……痛みは、もうないのか」

 

 訊くと、兄貴が顔を上げた。

 

「……ねえよ」

「そうか」

 

 景元は頷いた。

 

 なぜ治ったのか。いつから、こうなのか。

 

 知りたかった。

 

 ここで問いを重ねれば、何かは聞けるのかもしれない。

 

 だが、兄貴はまだ、言葉を探していた。こちらを見ては目を逸らし、濡れた指を曲げ、また伸ばしている。

 

 この人が、こんなふうに困っているのを見たのは、いつ以来だろう。

 

「……話せる時で、いい」

 

 是印の指が止まった。

 

 景元は布を留め、巻き終えた手を返した。

 

「理由を、兄貴の口から聞かせてくれ」

 

 是印は何も言わなかった。

 

 巻かれた布を見て、それから景元を見た。

 

 その顔を、景元は見返した。

 

 何があったのかは、全く分からない。

 

 それでも、兄貴の知らないところで誰かに話して、答えを求めるつもりはなかった。

 

「安心してくれ。このことは口外しない。俺の胸に留めておく」

「……悪い」

 

 やがて、是印が言った。

 

 景元は首を横に振った。

 

「俺は——信じてるんだ、あんたを」

 

 手拭いは、荷を詰めた籠に最後まで残してあった。

 

 出港するその時まで、自分たちに何かあれば使うつもりだったのだろう。

 

 景元は、兄貴の右手をもう一度見た。

 

「俺以外の前でさっきみたいなことが起こらないよう、もっと気をつけてくれ」

「……ぐうの音もでねーっす」

 

 そんな本当に反省しているのかわからない、いつもの態度に景元は肩をすくめて、

 

「そろそろ、戻ろうか。イゴールが待っている」

 

 

 

 

 埠頭へ戻ると、船の傍らにいたイゴールが顔を上げた。その目が、是印の手に巻かれた布へ落ちる。

 

「……手を、どうかしたのか?」

「あー、ちょっと引っかけた。もう平気だよ」

「手当ては済ませたから、大丈夫だ」

 

 景元が添えると、イゴールは頷いた。

 

 是印はそんな二人を見比べ、それから辺りへ目をやった。

 

「お前ら、ちょい待ってろ」

 

 言い残して、交易商の方へ歩いていく。何事か話しかけると、男は頷き、足元の鞄を探り始めた。

 

 何を借りるつもりなのだろう。

 

 イゴールと顔を見合わせていると、兄貴が戻ってきた。

 

「——ちょいお前ら。そこ並べ」

 

 是印が掲げたのは、見慣れない機械だった。

 

 聞けば、交易商から借りた古き良きインスタント式の写真機だという。

 

「忘れねえように、写真撮っとこうぜ。おら、もうちょい寄れ。そわそわすんな。ちげーよ肩組んだりとかあんだろ」

「兄貴、急に言われても——」

「スマーイル。昨日、殴り合ってた時の方が楽しそうだったぞ、お前ら」

 

 自覚があったのか、イゴールが吹き出した。

 

 景元も、つられて笑う。

 

 思えば、あの鍋を囲んだ夜も、こんなふうだった。

 

 是印が何か言い、イゴールが笑う。言い返そうとした景元まで、とうとう笑ってしまう。それはきっと、誰かさんがいるからで——

 

 

 ——そうか、みんなといるときも結局——

 

 

 その顔を、写真機が捉えようとして、

 

 

「「待ってくれ」」

 

 景元とイゴール、二人の声が重なった。ファインダーを覗いていた是印が、「あんだよ?」と写真機を降ろす。

 

「「是印(あにき)も入ってくれ」」

 

 また声が重なった。思わず景元もイゴールも互いの顔を見合わせて笑う。そんな二人に面倒くさそうな顔を隠さず是印は、

 

「はぁ? 誰がシャッターどわたたッ!?」

「はいはいっ、白珠撮りますっ! 是印さんも入った入った〜」

 

 白珠が写真機を奪うようにして、是印の背中を押し出す。

 

 かーっと頭をボリボリ掻きながら、端っこに行こうとして、

 

「いいや、兄貴が真ん中だ」

 

 景元とイゴールに無理矢理真ん中に据えられる。「おい、魂抜かれたらどうすんだ!」とかわめいていたが二人は無視した。観念したように両手でピースサインをつくり、そんな是印の両側から二人は肩を組んで、

 

 

 

「いきますよーっ!」

 

 

 

 

 

 ——吐き出された写真に写っていたのは、野郎が三人。どいつもこいつも、いい顔をしながら肩を組んでいた。

 

 

 

 

 

 船員が乗船を促していく。

 

 出港の支度が整っていた。イゴールは鞄を提げると、船へ続く通路の前へ進んだ。

 

 イゴールは写真を鞄へ収め、集まった者たちへ改めて礼を言い、深々と頭を下げた。

 

 薬士に、工造司の若者に、交易商に。荷を押してきた男たちにも、一人ずつ顔を向けた。

 

 最後に、是印の前へ立つ。

 

「世話になった」

「おう。ついでに握り飯も入れといたぞ。一番上の包みな。そいつは人にやる前に、イゴール。お前が食えよ」

「……ああ。分かった」

 

 イゴールが神妙な顔で頷くと、是印は頭を掻いた。

 

 

「なんだったら、あー……ついてってやろうか?」

 

 

 そんな問題発言に景元は弾かれたように是印を見る。

 

 イゴールも、少し驚いた顔をして、

 

「本当に、不思議な男だ」

「それよく言われがち」

 

 

 それから、イゴールはゆっくりと首を横に振って、

 

 

「いいや——あんたは、ここにいるべきだ」

「ん。ま、冗談だ」

 

 それにと、

 

「兄貴を借りたら、恐い顔で追ってきそうな弟がいるからな」

 

 隣を含めて心当たりがいくつかあるのか、複雑そうな顔をする是印に、

 

「便りを出すさ。着いたら、何が必要かを、もう一度調べてな」

 

 

 イゴールは、船の方へ目を向けた。

 

 そして、自分の持ち帰る荷が入った、貨物区画の扉を見た。

 

「その時には……また、助けを借りてもいいか」

 

 是印は黙っていたが、やがて口元を歪めた。

 

「いいぜ貸し2でな。最初っから、素直にそう言やいいんだよ」

 

 イゴールも表情がほぐれる。

 

「それと、景元」

「ああ」

「あの決勝の続きはいずれやろう。あれでは負けた気がしない」

「俺も、勝った気がしていないよ」

 

 景元は、その鋼の腕を指さした。

 

「だが、その腕を使われるのは、少し困るな。前より厄介そうだ」

「お前がくれたんだろう」

「——おっと、そうだった」

 

 言い合って、二人で笑った。

 

 気づけば、次があると、当たり前のように約束していた。

 

 昨夜は、それさえ口にできなかったのに。

 

「来られるようになったら、二人とも俺の故郷にも来てくれ。あの煮込みを食わせてやりたい」

「顎が疲れるやつか」

「そうだ」

「肉の正体は確かめとけよ。俺、よく分かんねえもん食うのヤだぞ。ポンポン弱いんだから」

 

 是印が横から口を挟んだ。

 

 イゴールは、今度は声を上げて笑った。

 

「分かった。聞いておく」

 

 そして、鞄を提げ直した。

 

 景元は、差し出された生身の手を握った。

 

「……また会おう、イゴール」

「ああ。——また会おう」

 

 手を離すまでに、少し時間がかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 船が動き始めても、イゴールは見えるところに立っていた。

 

 鋼の腕を上げていた。

 

 景元も手を上げた。隣では是印が、両手を口へ当てて何か叫んでいる。

 

 聞こえたのか、イゴールもまた何かを叫び返している。

 

 その姿が、次第に小さくなっていった。

 

 やがて船が埠頭を離れ、見えなくなっても、景元はしばらくそこに立っていた。

 

 周りでは、空の荷車が引かれ始めていた。

 

 白珠も借りた星槎を返してくると言い、是印へ次の休みの約束について念を押してから去っていった。

 

 それに対し、へいへい、と言いながらも是印の手はしっしっと言わんばかりの振り方だった。

 

 

 

 

 ——辺りは静かになった。

 

 

 

 

「——もういいぞ」

 

 そっちを見ることなく、兄貴は弟分に対して言う。

 

 

 景元は腕で目元を既に押さえていた。その下からは食いしばった歯が覗いている。

 

 

 

「……兄、貴」

「あん?」

 

 

 振り向いた是印へ、赤い目をしながら景元は言った。

 

 

「悔しいよ……また、俺はあんたに頼りっぱなしだった」

 

「……んなことねーよ」

 

「あるさ……あるんだよ……!」

 

 景元の口からは言葉がとめどなく溢れる。

 

「タラサもそうだった、俺にもっと力があればいいのにと無力さを痛感させられた。そして、今回もそうだ。俺は……俺はもっと、友や故郷、自分の守りたいものを守れるだけの強さがほしい……ッ」

 

 

 是印は、いつも冷静で大人な景元の吐露に、かけるべき言葉がすぐに見つからない様子で口を開いては閉じるを繰り返す。

 

 

 だが、景元は優しい言葉を求めている訳じゃない。

 

 

 

 ただ、誓いを、聞いてほしかったのだ。

 

 

 

「俺は、——将軍になるよ。この仙舟を、羅浮を、背負える強さを持った男になる。なってみせる。こんな想いを他の誰にも味わわせないように」

 

 行き場のなかった是印の手が静止する。

 

 景元の顔を見て、それから、船の去った先へ一度だけ目を向ける。

 

「そっか……そりゃまた、面倒くせえもん目指すな」

「そうだ」

 

 わかっているからこそ、苦笑はできた。

 

 だが、言ったことを引っ込める気にはならなかった。

 

「今日、俺の名を知っている者がいた。驍衛の景元だと名乗れば、担当の人間へ取り次いでもらえた。それで動かせたものがあった」

 

 荷のなくなった場所へ、景元は目を向ける。足下には何かが落ちたのか、濡れた跡がいくつも散らばっている。

 

「そっか。今の立場でも、できることはあったんだな。やったじゃねえか」

「ああ。……でも、昨日は届かなかった」

 

 軍船も、兵も、今の景元が行き先を決められるものではなかった。

 

 帳面を任されていても、書き込む命令を出す側ではない。

 

「もっと腕を上げる……ッ。功も立てる……ッ。名を知ってもらって、仕事も責任も任せてもらう。その果てで、俺は、自分が決められることを、守れるものを、増やしたい……ッ」

 

 是印は、黙したままただそれを聞く。

 

 

「そのために、なるんだッ。将軍に」

 

 

 宇宙の果てであろうと大切な誰かが困っているのなら、手を差し伸べる。

 

 

「それが、俺の——"巡狩"の道だ」

 

 

 是印が、目を細めた。

 

 

「……おう。なれよ、将軍」

 

 

 その手が、景元の肩へ置かれた。

 

「そんで俺の給料上げてくれ。今回、持ち出しまでしてんだからよ」

「なんだよそれ……その分、働いてもらうぞ」

「……え? これ以上? 今の話なしで。お世話になりました」

「もう遅い。聞いたからなッ!」

 

 兄貴が露骨に嫌な顔をした。

 

 景元はもう一度目元を拭う。それから、改めて是印を見た。

 

「ありがとう、兄貴」

「んだよ、急に」

「兄貴がいなかったら、——俺は今日のことを、ずっと後悔していたと思う」

 

 是印の手が、肩から離れた。

 

「自分にも言い聞かせていたはずだ。できることはやった、仕方がなかった、と」

 

 昨夜、戸口で手を離した時のことを覚えている。

 

 イゴールの荷造りを止める言葉がなくなって、ただ、明日をどうやり過ごすか考え始めていた。

 

「だが、あのまま手ぶらで帰す自分を、俺は許せなかったと思う」

「帰してねぇじゃんか」

「ああそうさ。兄貴がいたからな」

 

 是印は頭を掻いた。

 

「俺だけで、あの荷物が船に載ったかよ。お前が走り回って、イゴールが持ってくって決めて、あいつらが手ぇ貸してくれたんだろ」

「分かっているよ」

 

 その中へ、自分まで引き戻してくれた。

 

 もう何もできないと、見送るだけになりかけていた自分を。

 

 それを言う代わりに、景元はもう一度、頭を下げた。

 

 是印は困ったように唸り、それから景元の背を叩いた。

 

「分かった、分かったからよ。腹減ったわ。俺らも飯にしようぜ」

「イゴールの分は作ったのに、自分の分はないのか?」

「もう食っちまった。んで、腹減った。何か文句あんのか」

 

 景元は、今度こそ声を立てて笑った。

 

「ないよ。——そうだな。今日くらい、俺が奢る」

「わーい! よし来た。景元様、最近ハマってる揚げ物屋のジジイんとこで、『こっからここまでくれ』ごっこしようぜ!」

「はぁ……まったく」

 

 並んで歩き出した兄貴の目の下には、まだ隈があった。

 

 景元の巻いた布も、右手に残っていた。

 

 いつか、あの手のことを話してくれる日が来るだろうか。

 

 来たら、ちゃんと聞こうと思った。

 

 

「——なぁ、兄貴」

 

 

 もういい加減にしろよ……と目で訴えてくるその顔に、

 

 

「俺は追いかけるから。——置いていかないでくれよ」

 

「え、なにそれ、キモッー!」

 

 

 距離を取るように後ずさりし、走り出す馬鹿兄貴の背中の向こうに広がっているのは、

 

 

 

 

 馬鹿みたいに爽やかな空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ——しばらくして、イゴールから便りが届いた。

 

 故郷へ戻れたこと。運んだ薬で、手当てを待っていた者たちが何人も助かったこと。補強した腕は、崩れた建物の下から人を引き出すのにも役立っていること。

 

 短い文の末尾には、煮込みを食いに来るまでに顎を鍛えておけ、と書いてあった。

 

 景元は、その便りを是印にも見せた。

 

 薬士や交易商、あの日集まった者たちにも、写しを届けた。

 

 こちらからも返事を出した。

 

 

 

 

 

 だが、イゴールからの便りは、それきりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——参軍殿」

 

 呼ばれて、景元は顔を上げた。

 

 炉の前に、職人頭が立っていた。袖で額を拭い、組み直した火床へ目を向けている。

 

「まずは、この火で乾かします。異状がなければ、明日には本焼きに使えるかと」

「……ああ。ありがとう。皆にも、交替で休んでもらってくれ」

「承知しました」

 

 景元は炉の縁から手を離した。

 

 もう、冷たくはなかった。

 

 高窓の外は、既に白み始めていた。

 

 

 

 

 応星がやって来たのは、その日の朝だった。

 

 開いた戸口で足を止め、炉を見て、並べられた炭を信じられない様子で見回している。作業台に道具を置いていた職人と目が合うと、挨拶を返し、それから景元の方へ向き直る。

 

「えっと、どういうことだこれ……さっき懐炎師匠のところへ行ってきたんだが」

「許しは頂けたようだな」

「頼みを最後まで言う前に、こっちへ行けと。話はついているから、さっさと鋼を運べってさ」

 

 

 景元は頷き、空けておいた作業台を示した。

 

 

「使ってくれ。炉も明日には完全に使えるそうだ。必要な人手は、職人頭に相談してある」

「はぁ!? ま、まだ、頼んでもいないんだけど」

「頼まれてから準備を始めたのでは、その分、お前を待たせることになるだろう」

 

 

 応星は、もう一度、鍛冶場を見渡した。

 

 

「……ありがとう」

 

 

 深々と頭を下げる応星に「いいさ」と返し、景元は戸口の向こうへ目をやる。

 

 荷車の上から、赤橙の髪が覗いていた。

 

 

「あのー、いい感じに話まとまったんなら、誰かこっち手伝ってくれねぇかなぁ!」

 

 

 是印が、積まれた鋼を押さえていた。

 

 

「兄貴。そこまで来たなら、中へ運んでくれよ」

「中へ運ぶために呼んでんだよ! なに、なんなの、急に呼ばれてコキ使われすぎなんですけど。こんなんばっかじゃん」

 

 

 お前も持てと、すぐに言い返されるかと思ったが、まず仕事への文句が来た。

 

 相変わらずだった。

 

 景元は袖をまくり、荷車へ歩み寄った。

 

「分かった、分かった。ぶつくさ言っているうちに、日が暮れてしまうぞ」

「人のこと言えっかよ。お前こそ、目の下すげえぞ。寝てねえだろ」

「ほう、まさか兄貴に言われるとはな。そっちはちゃんと寝たのか?」

「寝たよ。十年分くらいぐっすりな」

 

 是印の冗談を景元は笑いながら、鋼の束の反対側へ手をかけた。

 

「こっちは持ったぞ。せーのでいこう」

 

 応星も荷台へ手を添えた。

 

 三人で持ち上げた鋼が、鍛冶場へ運び込まれた。

 

 

 

 

 応星は作業台へ分厚い帳面を広げる。

 

 書き込み——細長い剣の姿の隣に、輪切りにしたような図が幾つも並んでいる。刃の厚み、鋼を合わせる位置。何度か修正された線を、応星の指が順に辿った。

 

 職人頭が覗き込む。

 

「こちらの細かい筋は、何でしょう?」

 

「ああ。これは——割れる場所だ」

 

 応星は答えた。

 

「ここを境に、刃が散る。折れ口も、できるだけ鋭く残したい」

 

 職人頭の指が止まった。

 

「き、聞いたことがありません……割れを防ぐための図では、ないのですか」

「ああ。そうだ、その逆、これから打つのは、」

 

 

 応星は顔を上げ、

 

 

 

 

 

「——実にもろく、砕ける剣だ」

 

 

 

 

 

 道具を並べていた見習いまで、応星の方を振り返っていた。

 

 是印が作業台へ肘をつき、帳面を逆さから覗き込む。

 

「は? なんだそれ……、いや、先生に渡すんだろ? あの人にぶん回させて、即砕けましたーってなったら、賭けてもいいけどお前まで砕かれっぞ」

「砕けてほしいんだよ。微に入り細を穿つ超精細な刃として。必要な時に」

 

 応星は、刀身を描いた線へ指を置いた。

 

「剣は剣だ。だがその刃を砕く瞬間を選ぶのは、鏡流さんだ」

「しかし、それではたとえば一度でも攻撃を受け損ねれば……」

「保たない」

 

 応星は、職人頭の懸念を否定しなかった。

 

「だから、誰にでも渡せるものじゃない。この剣は一方向のみに対しては強靱だ。だがその他はまったくの脆弱。鏡流さんが、どう刃を当てて、どう力を逃がすのか。昨日、それを見せてもらった」

 

 言いながら、頁の端を押さえる。

 

「あの人なら扱える。そのための作り方もようやく定まった」

 

 景元は図へ目を戻した。

 

 一本の剣を描いた線から、さらに細かな刃の形が抜き出されている。

 

 応星が、荷の中から封をした小さな容器を取り出した。

 

 貼られた札には、雄黄(ゆうおう)とあった。

 

「そして更に散った刃を、肉に残る毒の棘にする。治ろうとする身体の中に、こいつが残るように」

「あ? ……それって、咬骸に刺さった、あの切っ先みたいにか?」

 

 首を傾げる是印に、

 

「ああ。あれをこの剣は狙ってやる」

 

 応星は容器を置き、帳面を職人頭の方へ向けた。

 

 男は黙って図を見つめていた。やがて、最初に指した箇所へ戻り、応星へ問い始める。

 

 どこまで薄くするのか。どこを残すのか。鋼を合わせるために、何から取りかかるのか。

 

 応星は、そのひとつひとつに答えた。

 

 景元も、二人の話を聞いていた。

 

 剣が形を失っても、その先で誰かを守ることはできる。

 

 ——それなら、知っている。

 

 空になった鞘と、別れ際に高く掲げられた鋼の拳を、景元は思い出した。

 

 

「足りないものがあれば、早めに言ってくれ」

 

 話が途切れたところで、景元は口を開いた。

 

「私の方でも、用意できるものは探す。他の将軍への取り次ぎも必要があれば引き受けよう」

「助かる。遠慮なく頼ませてもらう」

 

 応星はそう返しつつ、帳面の次の頁へ何やら書き付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、炉の支度が整った。

 

 職人たちが持ち場につき、応星の指示を待っていた。

 

 景元は戸口を空けるよう荷を寄せ、最後の炭を運び終えた是印から、空の籠を受け取った。

 

「ご苦労。兄貴、水はそっちにある。好きなだけ飲んでくれ」

「げー……働かせるだけ働かせといて、水かよ」

「こないだツケを立て替えて——」

「わーわーわー! ハタラクヨロコビ!」

 

 水をガブ飲みしている是印を放っておき、景元は炉の方へ向き直る。

 

 応星が火箸を取っていた。

 

「名は、決めているのか」

 

 景元が尋ねると、応星は頷いた。

 

「ああ」

 

 その背後で、鞴が動き始めた。

 

 炭が明るく燃え上がり、炉の奥まで赤く照らした。

 

 応星は鋼を持ち上げた。

 

 

 

 

「——支離(しり)だ」

 

 

 

 

 火の中へ、鋼が差し入れられた。

 

 景元の頬にも、熱が届いた。

 

「支離……」

 

 ばらばらになる、という字だ。砕ける剣に付ける名としては、素直すぎるほど素直だった。

 

 だが、字を分ければ、支えて、離す。それはすなわち、

 

「鏡流が、自らの手で断つための名だな」

「ああ——豊穣の加護だろうが、何であろうが、切り捨てられる剣の名だ」

 

 応星は職人頭へ声をかけ、炉の具合を確かめる。指示を受けた者たちが動き始めた。

 

 鋼が熱を帯びるのを待つ間に、応星が作業台へ戻ってきた。

 

 広げてあった帳面をめくる。

 

「——それと、お前のも」

 

 差し出された頁を見て、景元は眉を上げた。

 

「俺の?」

「忘れるなよ。皆さんの手にする得物は、俺が打つと言っただろう。——当然、お前のもだ。景元」

 

 そこにも、剣の図があった。

 

 支離の頁ほど書き込まれてはいないが、長さの違う刃が並べて描かれ、柄の脇にはいくつか問いを書き留めてあった。

 

 応星が筆を取り、問いかける。

 

「お前は——どんな剣を、望む?」

 

 景元は、並んだ図を眺める。

 

 ふむと顎に手を当てるものの、答えは、すぐに出た。

 

 

 

 

「——もう決して、折れることのない剣を」

 

 

 

 

 応星の筆が止まった。

 

「支離の真逆……ずいぶん、難しい注文だな」

「どうかな。お前になら、頼めると思ったんだが」

「簡単に言ってくれるよ」

 

 苦笑しながら、応星は図の脇へ何かを書き留めた。

 

 景元も、少し笑った。

 

「……気に入っていた剣はあったんだが、以前、人にあげてしまってな」

「そうなのか。誰にだ?」

 

 炉の中で、炭が鳴った。

 

 

 

 

 

 景元の私室の机の上に飾られている一枚の写真。

 

 三人の男が笑みを浮かべ、肩を組んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――大切な、友にさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




執筆時BGM:「ありがとう」SUPER BEAVER
⇒最後の言葉と共に特別EDへ流れ込みたい。













ブンブン、ハローハーメルン!
皆さん、こんにちは、収束アツシです。

魂の前編後編あわせて……うおw四万字。
くぅ〜疲れましたw。これにて完結です!

……なんちゃって(笑)冗談ですヨ?(笑笑)

大人気な二次元ホース先生(アニメ化おめでとうございます!)に負けないよう
ボクも引き続きがんばります!
いつも応援ありがとう! これからもよろしく!
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