最凶を纏う者が行く忘却の譚 作:五目柔目焼そば
潮は塩辛く、
男は目覚めた。
記憶は、泡のように消えた。
だが、体は識る。
火を灯すこと、
水を濾すこと、
鳥を狩ること。
島は、息をしている。
鳥は、種を運ぶ。
強い意志は、視ている。
忘却の底で、
最凶の灯が、瞬く。
潮の音が、鼓膜の奥で脈打っていた。
低く、深く、まるで巨大な心臓が海底で息をしているようだった。
男は目を開けた。
最初に感じたのは、冷たさだった。
ざらついた、ゴツゴツとした、生き物のような岩の感触が背中全体に張り付いている。
視界はぼやけ、空は鉛色で、雲が低く垂れ込めていた。
波が這い寄り、泡を残して引いていく。砂はない。
足の裏に伝わるのは、岩の感触だけ。
靴は片方だけ残り、爪先が海水に濡れて黒ずんでいる。濡れた髪を指で払うと、かさぶたが剥がれ落ちた。
血の匂い。自分の血だ。
「……ここは?」
声は掠れ、すぐに風に掻き消された。
喉が渇いている。だが、渇きは「不思議と」耐えられる。腹の底に疼く空腹も、まるで遠い世界の話のようだった。
男は立ち上がった。
膝が震え、視界が揺れる。だが、体は動く。
記憶は――ない。
名前が浮かばない。年齢も、出身も、昨日食べたものさえ。
記憶は潮の泡のように弾けて、跡形もなく消えていた。
ただ、ここにいるという実感だけが、胸の奥で脈打っていた。
島だった。
海岸線は緩やかに湾曲し、岩が層を成して重なり合っている。
草は膝のあたりまでしか伸びておらず、風に揺れるたび、葉の裏側が銀色に光った。
木は一本もなく、視界を遮るものは何もない。だからこそ、遠くまで見渡せた。
水平線は灰色と青が溶け合い、どこまでも続いている。
島は、思ったより広かった。
海岸沿いを辿るだけで、太陽が三度も傾き、影が長く伸びた。
歩き始めた。
岩は歩くたびに足首を抉り、靴底がすり減っていく。潮風が頬を打ち、塩の粒が唇に張り付いた。
疲労はあった。だが、喉の渇きは不思議とやってこない。
そして――気配。
最初は錯覚かと思った。
背後から、横から、どこからともなく、確かに「何か」が視線を注いでいる。
振り返っても誰もいない。岩陰にも、草の奥にも。ただ風が通り抜けるだけだ。
それでも、男は識っていた。
一つだけ、強い意志が自分を追っている。
重い。深く。
まるで、島そのものが「見ている」ようだった。
「出てこい」
声は岩に吸い込まれ、返事はなかった。
一周した。出発点に戻ると、足跡は波に消えかけていた。
男は膝をつき、岩に手を這わせた。
冷たい。ざらつく。指の間から細かい砂が零れ落ちる。
――砂?
いや、違う。岩の粉だ。島全体が、まるで巨大な一枚岩のように思えた。
気配は近づいていた。
今度ははっきりと、背後で草が鳴った。
男はゆっくりと振り返った。誰もいない。
けれど、視界の端で何かが動いた気がした。影か、風か、それとも――。
島が震えた。
足元の岩が、ほんの一瞬、波打った。
男は立ち止まり、耳を澄ました。
潮の音の下に、もうひとつの音があった。
低く、深く、まるで巨大な肺が息を吸うような――地鳴り。
岩が軋み、草が一斉に倒れた。男はよろめき、膝をついた。
視界が揺れる。いや、島そのものが揺れている。水平線が歪み、空が傾く。
背後で、何かが割れる音がした。岩が、皮膚が、殻が――。
男は振り返った。
そこに、街があった。
いや、廃墟だった。
崩れかけた石壁、折れた柱、苔に覆まれた階段。
かつての栄華を思わせる遺構が、島の中央に広がっている。
男は息を呑んだ。歩いてきた海岸線には、そんなものはなかった。
いや、あったのだ。見えなかっただけだ。草と岩に隠れて、眠っていた。
男は歩み寄った。
石壁に手を這わせる。苔が指に絡みつく。
柱の根元には、割れた陶器の欠片。階段の踊り場には、錆びた金属の輪。
男はそれを拾い上げた。指で擦ると、緑青が剥がれ、鈍い銀色が覗く。
――何だ、これは。
識っている気がする。いや、知らない。だが、胸の奥で何かが疼いた。
廃墟の奥、崩れた神殿のような建物に入った。
床は石畳で、苔が厚く積もっている。
祭壇の前には、ひび割れたガラス瓶。透明な、細長い瓶。
男はそれを手に取った。
指が自然に動く。瓶を傾け、底に残る水滴を確かめる。
思考よりも先に、体がその価値を理解していた。
笑いがこみ上げてきた。
最初はくすり、と。次に、はは、と。
やがて、堪えきれずに声を上げた。
「はははははははは!」
廃墟に響き、岩に吸い込まれ、風に散った。
腹の底から突き上げる衝動。涙が頬を伝う。
なぜ笑っているのか、自分でも知らない。
ただ、胸の奥で何かが弾けた。
悲しいのか、嬉しいのか、怖いのか。すべてが混じり合って、笑いに変わった。
笑い疲れて、男は地面に座り込んだ。
夕陽が廃墟を赤く染める。
男は立ち上がり、動き始めた。
岩肌に生えた乾燥した草を掻き集める。苔を剥がし、細かく裂く。
ガラス瓶を拾い、割れた陶器の欠片で底を削る。
――火を起こす。
手順に迷いはなかった。
苔を揉み、草を束ね、陶器の欠片で火打石のように擦る。
火花が散り、苔が煙を上げ、やがて小さな炎が灯った。
男は海岸へ向かった。
岩陰に溜まった潮だまり。小さな魚が泳いでいる。
男は手を突っ込み、素早く掴んだ。
指が鱗を滑り、魚が跳ねる。
獲った。
まるで呼吸をするように、殺した。
男は魚を岩に打ちつけ、腹を裂いた。内臓を捨て、肉を火にかざす。
焦げた匂いが鼻をくすぐる。
男はかじった。塩辛い。生臭い。だが、腹が満たされる。
ガラス瓶に海水を汲む。廃墟に戻り、火の上に陶器の欠片を置く。
瓶を載せ、蓋代わりに平たい石を被せる。
――蒸留。
なぜ、識っている。
問いかけるまでもなく、手は動いていた。
海水が沸き、蒸気が上がり、石に凝結して滴る。
男はそれを瓶に集めた。冷たい。甘い。喉を潤す。
夜が来た。
火は小さく燃え、廃墟の壁に影を踊らせる。
男は火のそばに座り、膝を抱えた。
サバイバル。生き延びる術。
すべてが体が識っている。
だが、なぜ。誰。
記憶はない。名前はない。だが、手は識っている。
火を起こし、水を作り、食を確保する。
島は静かだった。
気配は、まだそこにいる。だが、今は遠い。
男は火を見つめた。
炎が揺れ、影が踊る。夜は、さらに更けていく。
――島は、眠らない。
夜明け前の、薄い靄のような闇。
男は目を開けた。
最初に感じたのは、気配だった。
昨日まで、ただ一つだけだった強い意志の視線が、今は無数に増えている。
ざわめく羽音のような、息遣いのような、小さく鋭い無数の「目」。
それが男を起こした。
知らぬ間に寝ていたらしい。
火の残り灰は冷え、膝の上で腕が重なっていた。
体を起こすと、骨の軋みも、皮膚のむず痒さも、昨日の倦怠感も――すべてが、最初からなかったかのように消えていた。
傷口は塞ぎ、足の裏の擦り傷は薄い皮一枚で覆われている。
「……こういう体質なのか?」
男は呟いた。答えはない。
だが、体は確かに「回復」していた。理由も、記憶も、知らないままに。
立ち上がる。
廃墟の石壁に朝露が光る。
空はまだ灰色だが、東の空がほんのりと薄紅を帯び始めていた。
男は深呼吸した。
潮の匂い、苔の湿り、焦げた鳥の骨の残り香――すべてが、生きている証だった。
気配は、確かに増えていた。
昨日まで感じていた「一つ」の重い意志は、まだそこにある。
だが、その周囲に、軽やかで、ざわめくような無数の気配が加わっている。
見聞色――脳裏に、唐突にその単語が浮かんだ。
気配を、探る力。
理由は知らない。だが、体はその扱いを熟知している。
男は歩き始めた。
海岸沿いではなく、今度は島の内部へ。草を掻き分け、岩を越え、廃墟の奥へ。
――鳥だった。
最初は影かと思った。
だが、岩陰から飛び立つ群れ。
白と灰と青の羽が、朝焼けに瞬く。渡り鳥だ。
数十羽、いや、百を超えるかもしれない。
岩肌の窪みに巣を作り、草の実を啄み、潮だまりの小魚を狙っている。
「いつの間に……」
男は呟いた。
鳥たちは、渡り鳥だった。遠くの島々を渡り歩き、羽に、足に、糞に――種子を運んでくる。
岩だけの荒れ地に、草の芽を落とし、蔓の種を撒き、苔の胞子を散らす。
死んだ鳥は土に還り、肥料となる。
年月をかけて、この島を「生き物」にした。
鳥たちは、島の植生を築いた運び屋だったのだろう。
男は微笑んだ。
島は、眠っていない。目覚めている。
鳥たちが、羽ばたくたびに、島が息をしている。
再び探検。昨日とは違う道。
廃墟の奥、崩れた神殿の奥に、半ば埋まった石碑。
男は苔を払った。
文字は読めない。だが、彫られた模様――波、鳥、触手のような曲線――に、なぜか胸が熱くなった。
また笑みがこみ上げる。
「はは……」
堪えきれずに、声を上げた。
なぜ笑うのか、知らない。
悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。
ただ、ここにいるという実感が、笑いに変わる。
腹が鳴った。男は動き始めた。
岩の隙間に生えた赤い実。指で摘み、鼻に近づける。
甘酸っぱい匂い。
――食べられる。
口に含む。渋みと甘みが広がる。
次に、蔓から垂れた青い実。皮を剥くと、白い果肉。水分が多い。喉を潤す。
鳥の群れが、近くで騒いでいる。
男は岩陰に身を潜めた。
手には、昨日拾った割れた陶器の欠片。鋭い縁。
――狩る。
一羽が、潮だまりに降り立つ。首を傾げ、小魚を狙う。
男は息を止めた。
指が自然に動く。欠片を握り、距離を詰める。
投げる。
腕が鞭のようにしなった。
欠片が弧を描き、鳥の首に吸い込まれる。
羽が舞い、血が散る。
男は走った。鳥を掴み、首を捻る。
仕留めた。
なぜ、できる。
だが、男は感謝した。
「命を、いただきます」
心の中で呟いた。
「生かしてくれて、ありがとう」
捌く。羽をむしり、腹を裂き、内臓を捨てる。
火を起こす。昨日と同じ手順。
苔、草、陶器の欠片。火花。煙。炎。
鳥を串に刺し、火にかざす。脂が滴り、焦げた匂いが立ち上る。
ガラス瓶に海水。蒸留。滴る水。
魚も獲る。潮だまりの小魚。手で掬い、岩に打ちつける。
すべてが、体が識っている。
知識も、技術も、身体能力も――すべてが「ある」。
なぜ、知らない。
だが、男は思った。無いよりはマシだ。
むしろ、これのおかげで、今を生きられる。
昼下がり。
男は廃墟の石段に座り、鳥の骨を海に投げた。
骨は波に飲まれ、消えた。
鳥の群れは、まだ島の上を旋回している。
強い気配――「一つ」の意志――は、奥底で静かに息をしている。
男は立ち上がった。
今日も、生きる。
感謝を胸に、刻みながら。
――島は、目覚めている。
そして、男も。
火は灯り、
鳥は落ち、
男は生き延びた。
感謝は、胸に刻まれた。
だが、忘却は、まだ深い。
島は、動く。
実が、幾つも揺れる。
巨獣は、観ている。
海に嫌われる前に、男は限界を試す。
最凶の灯が、灯り始める。