最凶を纏う者が行く忘却の譚 作:五目柔目焼そば
闇が、総てを呑み込む。
宇宙(そら)の死すら見送った魂が、深海の底で凍える。
引力が引きずり出すのは、忘却の底の記録(ラベル)。
喰らった命、駆け抜けた白銀、瓦解した約束。
数多の世界を巡り、理(ことわり)を看取ってきた果てなき孤独。
すべてが剥がれ落ちた虚無の底。
だが、見聞は微かな光を捉える。
四つの道標が、瞬いている。
絶望の澱から、男は再び眼を上げる。
次なる「意志」を、見届けるために。
闇は、すべてを呑み込む。
光も、音も、温度さえも。
男は目を閉じたまま、ただ座っていた。
島の鼓動はすでに遠く、ゆっくりとした波動だけが、肉体を通して伝わってくる。
――静かだ。
コーティングの膜は、深海の水圧を完璧に遮断していた。
周囲は完全な静寂。
己の呼吸すら、耳障りなほどに大きく響く。
孤独。
心の奥底で、どす黒いささくれが広がっていく。
慣れているはずだった。
何百年、何千年、何億年と。
時間という概念すら意味を失い、エントロピーが尽き果てた後の「絶対的な零」の中にさえ、俺は独りでいたはずだった。
星が死に、銀河が崩れ、虚空の穴すら蒸発し、最後の光が消え去った後も、まだそこにいた。
それなのに。
今、ここで、この小さな島の、小さな膜の中の静寂が、これほどまでに痛い。
男は膝を抱え、額を押しつけた。
震えが、止まらない。
死にたくなる。死ねない体だと識っているのに、魂だけが腐食して、指先から零れ落ちていく感覚。
――誰か、側にいてくれれば。
誰かが、ただ息をしているだけでいい。
声が聞こえなくても、気配が感じられなくても。ただ、そこに「命」があるという事実だけで。
男はゆっくりと手を伸ばし、苔に覆われた岩肌に触れた。
冷たい。だが、生きている。
巨大な生き物の背に癒着したような、ゆっくりとした脈動が指の腹に伝わる。
「……お前は、識っているのか?」
声は闇に吸い込まれ、返事はない。
だが、気配がわずかに強くなった気がした。
男は声をあげずに笑った。
嗚呼、たったこれだけのことが、なんと尊いものか。姿は見えなくとも、ただ「在る」というだけで、救いというものは確かに存在するのだ。
俺は、何度死んだ?
何度、目覚めた?
何度、世界の終わりを見送った?
問いかけに答えはない。
ただ、先ほど飲み込んだ「悪魔の実」――あらゆるものを引きずり込む引力の化身が、肉体の内側から作用し始めていた。
事象の地平面。ブラックホールがすべての光を呑み込みながらも、その表面に情報を「ラベル」として貼り付けて保存するように。
ヤミヤミの引力が、男の魂の底に沈殿していた情報の澱(おり)を、強引に引きずり出していく。
『ぱしゃん』
脳裏で、水泡が弾けるような音がした。
同時に、記憶――否、ラベル化された過去の「記録」が、鮮明な映像となって網膜を焼いた。
《極限の食》
味の果てを求める世界。
人を喰らう不可思議な猛獣、致死の毒を秘めた特殊な植物群。それらはすべて、究極の一皿に至るための通過儀礼だった。
甘い香りの中で出会い、苦い敗北の中で別れた。
『これが――。だが、まだ足らない。次か、或いはその次か』
星の崩壊すら、宙を跨いで次に繋げるためのプロセスの一つでしかないと知った火元の大爆発。
暴食の限りを尽くしていた類友のようなアイツとは、終ぞ決着をつけられなかった。また別な形で逢いたいものだと思いながら、迫り来る熱線に身を預けた記憶。
『ぱしゃん』
ラベルが剥がれ、映像が切り替わる。
《白銀の競走》
ヒトにあってヒトならざる少女たちが、己の意志をぶつけ合い、夢を乗せてターフを駆け抜ける世界。
暴力と狡知だけで生き抜いてきた俺には似つかわしくない、不可思議で眩しい場所だった。
『おい、子犬。あっちばかり構ってねえでこっちも見ろ』
『出会ったときは半べそかいてたのに、随分と生意気な口を聞くようになったな』
たまたま降り立った深山の淵。凍える雪の中で保護した、腹を空かせた灰被りの少女たち。
彼女たちを導き、その背中を見守った。勝利の涙と、敗北の悔しさ。だが、ある日の最中、微睡みの中で唐突に記録は途切れた。
『ぱしゃん』
さらに深く、古いラベルが剥がれる。
《未踏の超大陸》
目が覚めると同時に、途方もなく巨大な何かに踏み潰され、ワーム状の化け物に呑み込まれた世界。
取り乱し、感情に任せて平原の生物を殺し、喰らい尽くした泥濘の中で、人間たちと出会った。
『ーーーなあ、見ての通り独りなんだ。せっかくだから、仲間にいれてくれよ』
彼らの住む世界へ入り込み、湖の上を歩き、様々な人間を観察し続けた。
『また、会おう』
そう約束を残したにも関わらず、終わりは唐突に訪れ、すべてが瓦解した。
――幾つもの世界を超えて。消えて、繰り返して。
一つの映像が終わるたび、記録の奔流は速度を増し、脳髄を直接殴りつけるような情報の嵐となった。
魔界の深淵で「闘神」の異名を持った大妖怪、その仲間たちと死闘を繰り広げた焦熱。
ひと皿の料理に祈りを込めて料理人たちが己の矜持を刃丁に込めてぶつけ合った学舎の喧騒。
珈琲の香り漂う路地裏で、赫い眼をした者たちが悲劇を喰らい、その身を血に染めた夜。
鉄の機械と失われた魔法、そして愛を知らぬ少女が奏でた、切なくも力強い幻想曲。
呪われた運命から逃れた先で出会った、純粋無垢な魂。それを守ることこそが、失われた人間性を取り戻すための旅路。
マスターの少年と盾を持つ少女と共に幾多の英霊たちと足跡を共にして人理を取り戻すために奔走した日々。
そして――廃坑の奥深く、嘘喰い達が己の命と魂をチップに替え、狂気の遊戯に興じた死の迷宮。
『ぱしゃん』『ぱしゃん』『ぱしゃん』
すべてが剥がれ落ち、弾け飛び、最後には、元の「完全な闇」だけが残った。
男は、息を吐いた。
「……何度も、何度も。出会いと別れを繰り返した。惜しんで、惜しまれて。それなのに、俺は、いつも独りで終わるのか」
ならば、今回も?
眼前に広がる闇よりもさらに深い、絶望という名の黒に塗りつぶされそうになった瞬間。
強く握りしめた腕に、己の爪が食い込む痛みが走った。
我に返る。
すると、島の意志が、優しく響いた気がした。
『ーーー、ーーーー』
言葉にはなっていない。
正規の道標――四つの赤い石を辿ってきたわけではないからだ。世界の声を聞く資格を、男はまだ持っていない。
だが、声は聞こえずとも、たしかに伝わる熱があった。
男は顔を上げた。
自然と、己の意志とは関係なく「見聞色」が広がる。闇の中で、世界を視る。
――四つの点。
遠く、遥か彼方の海に、四つの光が微かに瞬いている気がした。
世界を見届けること。それが分相応な願いゆえに今の孤独があるのだとすれば、それこそが己の罪なのだろう。
だが、これまで歩んできた道程は、決して絶望だけではなかった。先ほど引きずり出された記録たちが、それを証明している。
ならば、この世界で俺がやることも一つだ。
新しい意志を見つけ、それを見届ける。
そして今度こそ、正規の方法で「ここ」に至り、この島と対話する。
男は、ゆっくりと頷いた。
深海の底で。
男は孤独と向き合い、忘却と対話し、次の旅へ歩み出す準備を始めた。