支配のデンジ 作:実験者
早川アキの部屋は、いつもより騒がしかった。
ドアが乱暴に開き、パワーが勢いよく飛び込んでくる。鍋の中身を見て、彼女は盛大に息を吐いた。ニンジン、ジャガイモ、ピーマン──色とりどりの野菜が、カレーの海に沈んでいる。
「野菜は嫌いじゃ!」
次の瞬間、皿ごと吹き飛ばされた。橙色の飛沫が壁に飛び散る。
「野菜投げるな」
アキが眉間にしわを寄せる。横でマキマが小さくため息をついた。
「パワーちゃん、農家さんに申し訳ないよ」
パワーは鼻を鳴らしただけだった。風呂の時間になると、さらに面倒なことになった。
「風呂にはたまにしか入らん派じゃ」
「入れ」
「臭いよ?」
マキマが笑顔で言うと、パワーは初めて少し怯んだ。それでも最後には渋々浴室に連れ込まれ、ドアの向こうで「うわあああ!」と叫び声を上げていた。風呂上がりのパワーは、濡れた髪を振り乱しながらニャーコを抱きしめた。
「なんじゃ、人間は繊細じゃのう。なー、ニャーコ」
猫は迷惑そうに耳を伏せた。アキは額を押さえ、マキマは静かに微笑んでいるだけだった。
翌日。
デビルハンター東京本部庁舎の執務室は、紙の匂いとインクの匂いで満ちていた。デンジに言われるまま書類に次々とハンコを押していく。隣ではマキマが同じ作業を続けている。
彼女の指は機械のように正確だったが、瞳の奥に何かが揺れていた。デンジがぼやいた。
「書類ばっかりで嫌になるよな。コウモリヤローをぶっ倒したのに、悪いことしたみてーだ」
彼は書類を静かに置いた。マキマもハンコを押す手を止める。デンジの声が、静かに落ちた。
「マキマちゃん、何か悩みでもあんの?」
マキマは、押していたハンコをゆっくりと机に置いた。インクの匂いが鼻先をくすぐる。視線を少しだけ落とす。睫毛が震え、唇がわずかに開いたまま、言葉を探すように空気を吸い込む。
長い沈黙。
「……私は今、平和な日常を得られました」
最初は、事務的な調子だった。まるで報告書を読むように。
「絶望の日々を乗り越えて、美味しいご飯に、お風呂、仕事をしていれば楽しく生きられる。そのはずです」
声が、少しずつ低くなる。
「朝、目が覚めて、冷蔵庫に牛乳が残っている。夜、鍵を閉めて、電気を消して、布団に入る。誰にも殺されず、誰を殺さず、ただ明日が来る。それが、ずっと欲しかったものだったはずです」
指先が、机の端をそっと撫でる。爪が、かすかに音を立てる。
「でも」
マキマは、初めて顔を上げた。瞳の奥に、深い淵のようなものが揺れていた。
「慣れてきてしまって」
声が、ひび割れる。
「朝起きて、牛乳を飲んで、『ああ、今日も生きてる』と思うことが、だんだん当たり前になって。風呂に入って『温かい』と感じることが、特別じゃなくなって。『安心だ』と思う回数が減ってきて」
彼女は、両手を胸の前で組んだ。指が絡まり、ぎゅっと握りしめる。
「最初は、ただ生きているだけで涙が出そうだったのに。今は、涙も出なくなってしまいました」
息を吐く。白い息が、冬の室内に溶ける。
「これから先も、何かを追いかけたって、きっと同じことになるんじゃないかって思うんです。手に入れた瞬間が一番輝いていて、持ってしまったら色褪せて、また別の何かを欲しくなる。永遠に満たされない。永遠に、追いかけた頃の方が幸せだったって、後悔するだけなんじゃないかって」
マキマの声が、かすかに震え続けた。
「平和って、こんなに脆いものだったんですね」
彼女は俯いた。長い髪が頬にかかり、表情を隠す。
「手に入れたくてもがいて、血まみれになって、やっと掴んだものが、こんなに簡単に『普通』になってしまうなんて。こんなに味気なく、退屈に、ただの空気に変わってしまうなんて」
涙は落ちなかった。ただ、瞳が濡れて、光を歪ませていた。
「私は……怖いんです。自分が、また壊れてしまうんじゃないかって。せっかく手に入れたこの小さな幸せを、自分で『大したことない』って踏み潰してしまうんじゃないかって。それが、一番悲しいことです」
静寂が、部屋を満たした。マキマは、ゆっくりと顔を上げた。頬は青白く、唇は震えていた。けれど、その瞳の奥に、まだ小さな火が灯っていることも、確かにあった。
デンジの声は、いつものように少しだみがかっていて、それでいて妙に優しかった。
「マキマちゃん、俺はな。日常も確かに大事だけどよ、大切な人と出会えること。心の底から共感してくれる人と出会えることが何より大切なんだぜ」
言葉が終わらないうちに、デンジの手がゆっくりと伸びてきた。ざらりとした掌が、マキマの右手の上に重なる。熱かった。
チェンソーマンの手はいつも血と油にまみれていて、指の関節には小さな傷がいくつも残っている。それでも、今はただ温かいだけだった。
生きている手だった。マキマの鼓動が、急に大きくなる。胸の奥で、どくん、と音がした気がした。デンジの指が、ゆっくりと絡まる。
人差し指が彼女の指の間に入り込み、中指が寄り添い、薬指がそっと包み込むように。まるで、壊れ物を扱うように、でも確かに、離さないように。
「……」
息が詰まる。次の瞬間、デンジのもう片方の手が、するりとマキマの肩に置かれた。肩口に触れる指先が、少し震えているのがわかった。少年の体温が、制服越しにじんわりと伝わってくる。匂いもした。汗と、煙草と、少しだけ甘い血の匂い。マキマの体が、びくりと小さく跳ねた。
「……!」
声にならない声が、喉の奥で震えた。視界が歪む。目の奥が熱い。心臓が、今にも肋骨を突き破りそうに暴れていた。これは、支配じゃない。これは、支配されることでもない。ただ、触れられているだけ。ただ、温められているだけ。マキマは、自分でも気づかないうちに、指先に力を込めていた。デンジの手を、ぎゅっと握り返していた。爪が食い込むほど強く。
それでもデンジは離さない。むしろ、もっと深く指を絡めて、まるで「ここにいる」と証明するように。
肩に置かれた手が、少しだけ力を増す。引き寄せられる。ほんの数センチ。けれど、その距離が、世界のすべてを変えた。
マキマの頬が熱い。耳まで赤い。息が浅い。視界の端が、涙で滲んでいる。怖い。でも、嬉しい。壊れそうで、でも、もう壊れたくない。デンジの体温が、胸の奥まで染み込んでいく。この温もりさえも、いつか「普通」になってしまうかもしれない。
それでも、今は。今だけは。マキマは、震える唇を噛みしめた。涙が一粒、頬を伝って落ちた。デンジの手に、ぽたりと落ちる。
温かい。
デンジの声が、すぐ耳元で落ちた。
「マキマちゃんの目が見えなくなっても、俺に指を噛まれた感覚を思い出せ」
その瞬間、マキマの体が内側から溶けていくような錯覚に襲われた。
指を噛まれた……? ぞくりと背筋が震えた。
デンジの歯が自分の指に食い込む感触。鋭くて、熱くて、痛くて、それでも逃げられない。噛みつかれた指を離さないまま、デンジが笑う。
血の味を舌で確かめるように、ゆっくりと舐め取る。そんな、狂おしいほどの現実が頭の奥で炸裂した。マキマは息を呑んだ。
喉の奥で、小さな嗚咽がこぼれそうになる。震える吐息が、ぽろりと零れた。
自分でも信じられないほど甘い、掠れた声だった。瞳が潤む。涙ではない。ただの熱だ。視界が揺れて、デンジの輪郭が滲む。頬が燃えるように熱い。耳まで火照って、首筋まで赤が広がっていくのが自分でもわかる。
(熱い……心が熱い)
心臓が、狂ったように鳴り響く。胸の奥が疼いて、息がうまく吸えない。
怖い。でも、欲しい。この人に、噛まれたい。指を、首を、喉を、どこでもいい。血が流れてもいい。痛くてもいい。痛ければ痛いほど、この人の存在が刻み込まれる。目が見えなくなったって、耳が聞こえなくなったって、触れられた場所だけは永遠に覚えていられる。
マキマの唇が、小刻みに震えた。開きかけた口から、掠れた息だけが漏れる。デンジは、そんな彼女を、じっと見つめていた。
少年の瞳は、どこか獣のように濡れ光っている。笑っているわけではない。なのに、口角がわずかに上がっていて、まるで獲物を見つけた肉食獣のようだった。無邪気で、残酷で、どこまでも純粋な欲望が、剥き出しになっている。
彼は、まだ手を離さない。絡めた指に、少しだけ力を込めた。「逃がさない」と告げるように。肩に置かれた手が、ゆっくりと滑る。
制服の襟元を掠め、鎖骨のあたりをなぞるように。指先が触れるたび、マキマの体がびくりと跳ねた。息が詰まる。膝が震える。
立っていられないかもしれない。
デンジは、もっと近づいた。吐息が頬にかかる距離。鼻先が触れそうな距離。唇が、ほんの数ミリで重なりそうで、重ならない、絶妙な距離。彼は、まだ何も言わない。
ただ見ている。瞳の奥に、底知れぬ熱を宿して。その視線だけで、マキマは支配されていた。支配されているのに、嬉しくてたまらない。
この人に、すべてを奪われたい。心を、体を、未来を、名前さえも。噛み千切られてもいい。食べられてもいい。この人に、残らず喰われて、骨まで溶かされて、それでも笑っていられるなら。
マキマの瞳が、完全に潤んでいた。涙ではなかった。ただの熱だった。溶けていくような、甘い、壊れそうな熱。デンジは、ゆっくりと息を吐いた。熱い吐息が、マキマの唇を掠めた。そして、ようやく、静かに言った。
「マキマちゃん、一つお願いがある。銃の悪魔を殺してほしい」
震える吐息が漏れる。マキマの瞳が潤み、頬が熱を帯びた。デンジは少し間を置いて、静かに言った。
「銃の悪魔?」
「強い悪魔だ。でもマキマちゃんならぶっ殺せるぜ。マキマちゃんは特別だからな。殺せたら何でも一つ、願いを叶える」
マキマの瞳が揺れた。動揺と、それ以上の感情が混じる。
「何でも。何でも。デンジさんと……」
「何でもだぜ。マジで」
マキマの胸の奥で、何かが弾けた。熱い。甘い。壊れそうな、幸福。デンジの言葉が耳の奥で反響する。殺せたら、何でも一つ、願いを叶える。
何でも。その一言が、彼女の心臓を鷲掴みにした。……デンジさんと。一緒にいたい。朝も夜も、隣にいてほしい。手を繋いで、肩を寄せて、吐息を交わして、指を噛まれて、噛み返して、血の味を分かち合って。それだけでいい。
永遠に、それだけで満たされる。デンジの匂いを嗅ぎながら眠って、デンジの声で目覚めて、デンジの体温を感じながら生きていく。
(それが叶うなら、どんな悪魔だって殺せる)
世界だって壊せる。マキマの唇が、小刻みに震えた。
「……何でも。何でも。デンジさんと……」
声が掠れる。自分でも信じられないほど甘く、恥ずかしく、切実な響きだった。瞳が潤み、頬が熱い。視線が絡まる。
デンジの瞳に、自分の姿が映っている。震える自分。欲に濡れた自分。隠しようのない、剥き出しの恋心。デンジは、それを見逃さない。彼は、ゆっくりと微笑んだ。それは、優しい笑みではなかった。
獲物が罠にかかったことを知った、獣の笑みだった。
「何でもだぜ。マキマちゃん」
声が低い。掠れていて、甘くて、毒のように耳に絡みつく。デンジは、まだ手を離さない。指を絡めたまま、ぎゅっと力を込める。痛いくらいに。それが心地いい。痛みが、確かに
「ここにいる」
と刻み込んでくれる。肩に置かれた手が、ゆっくりと首筋を撫でる。爪が軽く皮膚を引っ掻く。ぞくり、と背筋が震えた。
「俺の願い、ちゃんと叶えてくれるよな?」
囁くような声。耳元で、熱い息がかかる。マキマは頷くことしかできない。喉が鳴る。息が浅い。デンジの瞳が、暗く、深く、底なしに濡れ光る。
「マキマちゃんは特別だ。どんなデビルハンターよりも」
その言葉が、鎖のように首に巻きつく。支配されている。完全に、心を、手を、未来を、すべてを。でも、それが嬉しくてたまらない。
(ああ、好きだなぁ)
デンジは、もっと近づく。鼻先が触れそうな距離で、静かに微笑み続ける。
「銃の悪魔を殺したらさ……」
掠れた声で、甘く、残酷に。
「何でも言っていいぜ。全部叶えてやる」
マキマの心が、音を立てて落ちた。落ちて、砕けて、溶けて、デンジの掌の上で踊る。もう、逃げられない。逃げたくない。
「……はい」
掠れた、震える、でも確かに喜びに満ちた声。デンジは満足げに、獣のように笑った。
「よし、決まりだ」
指が絡まったまま、離れない。首に巻かれた鎖は、もう外れない。マキマは、幸福に溺れながら、静かに微笑んだ。デンジのものになる。
それが、今の一番の願いだった。
デンジは淡々と続けた。
「銃の悪魔つーのはよ、昔、悪魔対策に銃を使っていたら、治安悪化して銃が怖がれるようになった。そんで銃の悪魔が生まれて、やべーくらい人殺したんだ。そんで銃の悪魔を恐怖して、悪魔全体も強くなった。クソみたいな話だ」
マキマは静かに頷いた。
「強い悪魔ですね」
「マキマちゃんなら倒せる?」
「倒せるかどうかではなく、倒します」
デンジが笑った。初めて、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「よっしゃ。じゃあ次は見つけるぜ。銃の悪魔は破片がある。そして破片を集めると修復しようと動き出し、本体に辿り着く。つまりマキマちゃんは銃の悪魔の破片集めが当面の目標だ!」
「わかりました、デンジさん」
マキマは答えた。その声は静かだったが、確かに決意に満ちていた。窓の外、冬の陽射しが二人を照らしていた。平和な日常は、もうすぐ終わりを迎える。