男女比がどうとか以前に性格が悪い   作:河川敷の三人

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第5話

 

 

 

 人生を語るには短い年月ですが、それでもこの十六年を振り返って思うのは、この錦城優香という少女は、どうにも上手い具合に出来ている、という事でした。

 

 錦城という家は歴史あるもので、その由緒を辿れば、古代日本において有力な渡来人氏族であった秦氏をルーツとしていると伝え聞きます。その内、平安の世、朝廷の大蔵省に属する織部司に、錦城という名がよく見えるようになった事から、この時期に、現在へ続く系譜を確立したものとされています。

 

 しかし、歴史などというものは、往々にして都合よく改竄されるものですから、確かとは言えません。それでも錦城という家は、そういった年月を背負い、誇って、時代を繋げてきた自負がありました。それが真実であろうとなかろうと、もうずっと前の話ですから、今更確かめようとする者もいませんし、真実、私は高貴なお家の子供として、生まれてきた事になります。

 

 こんな考え方をするのは、何も私が、お家の歴史に疑念を抱いているのではなく、自分が錦城という家、歴史に含まれているのだと、自覚しているからです。そしてそれこそが、我ながら、上手い具合に出来ているものだと感心する部分でした。

 

 人間というものは、生まれた当初は、それこそ赤ん坊ですから、好き勝手に振る舞って、好き勝手をしているという事にも無自覚ですが、これが年を重ねて、ものの分別が付いてくると、自分の生活を司っているのは親だという事に気が付きます。この、幼児期の気付きが、自我の芽生えを促し、親の言う事を拒否する、第一次反抗期を生み出すのですが、私の反抗期は、自分でも覚えていないのですが、その様なものはなかったと聞きました。

 

 これはやはり、生活に起因するのかもしれません。私の生活とは、幼児期から衆目に晒される事が常で、たとえば幼稚園の入学式、七五三に際しまして、どこからともなく大人がやって来ては、頭を下げる。勿論、それは私個人というよりも、親や祖母、ひいては錦城という家そのものに挨拶をしているのでしょうけど、それでも、生まれた時の様子さえ写真に撮られ、記録される生活に、気味が悪いとまでは言いませんが、居心地悪く、恥ずかしい思いを、その時々に感じたものでした。

 

 しかしながら、人は慣れるもので、或いは教育の賜物でしょうか。幼稚園の年長児、五歳になる頃には、私はすっかり視線を意識していて、時々の行事にも心乱される事なく、立派に錦城の娘をこなしていました。これは早熟と、そう呼べれば格好も付くのですが、何て事はなく、私はただ、そういった生活が好きになっただけなのです。

 

 それはきっと、比較にあったのでしょう。幼稚園に入学した際、私は少し、驚いた覚えがあります。

 

 そこは錦城の娘が入学するだけはある、格式高い場所ではあったのですが、同年代の少女達は、私に比べ、どうにも礼節がなっていない。確かに一見して、えらく出来た子供だと──これは幼稚園教員達の口癖でした──そう、褒められるような振る舞いをするのですが、私からしてみれば、その挨拶の角度、座る際の所作などの端々に、程度の低いものを見つけるのが常でした。

 

 私は当初、そういった程度の低さを見つける度に、彼女達を注意しました。それが当然の振る舞いと思っていたのです。何せ、私は祖母に、母に、教育係に、なっていない所作をする度に咎められ、懇々と叱られるのが常でしたから、これは善意から出たもので、つまり、大人に叱られる前に直してあげようと思っただけでして、それが嫌われるとは、まるで考えていなかったのです。

 

 いじめと呼ぶには、流石に意地が悪いでしょう。彼女達は、陰湿ではありませんでした。というのも、ある日、私がいつものように注意したところ、その内の一人が立ち上がり、私に向かって『うるさい』と、実に子供らしく言ったのです。

 

 今にして思えば、それは寧ろ、彼女なりの善意でした。知らずの内に嫌われていた私を、そのまま嫌わせるのではなく、気付かせてあげようという、善意でした。

 

 しかし私は、おかしなもので、その善意に、『なんて程度が低いのだろう』と思ったのです。『ただでさえ程度が低いのに、それを改善しようとも思わないとは、馬鹿みたいだ』と。

 

 幼児の頭に、ここまではっきりとは思いませんでしたが、言語化してしまえば、そういった思いを抱いた事は事実です。

 

 この時の体験は、今思い返すと、とても恥ずかしく思います。何せ、程度の低さを言うのなら、公衆の面前で失敗を指摘する事は、全く最低の行いでしょう。礼節にも、人の心としても欠ける、思い上がった振る舞いでした。

 

 しかし、この出来事を契機として、その日から私は、注意する事を止めました。これは改善ではなく、思い上がりから来た無言でした。無言のままに、内心で、私は彼女達をせせら笑い続けたのです。

 

 また、錦城の家における公式の場、つまり、振る舞いを厳しく見られ、衆目に晒される状況を、私は好ましく思うようになりました。程度の低い人間には付き合っていられない。こちらが注意しても聞かぬのなら、私は一人、高いところに居たいと──あの、全ての人間が整然として、清く正しく調和している場所を、私は望むようになりました。

 

 何事も、義務を以て成すよりも、趣味を以て成した方が上達し、それこそ、好きこそものの上手なれ、とも言いますが、私にとっての好きは、子供らしく遊ぶ事よりも、錦城の娘という立場をこなすことにあったのです。

 

 今にして思えば、これも一種の反抗期だったのでしょうか。私は母親に反抗するのではなく、世の中に対して反抗し、礼節という、自分勝手な振る舞いを楽しんでいたのです。

 

 そして、小学校に上がる時分になりますと、私もようやく、礼節の発揮すべき場所というものを知りました。

 

 日常の全てが礼節に満ちているのは、普通の人にとっては、どうやら息が苦しくなるようだと、そういう事を知ったのも、この時分でした。教師の間では折り目正しく振る舞うものの、生徒同士の中にあっては、その振る舞いも綻びを見せ、寧ろ綻びを見せる事が、友情なるものを──これはとても意地の悪い言い方ですが──演出させる。綻ばせる事で、自分達は仲間であると思い込む。そういった考えがあるようでした。

 

 小学生であった私は、過去の行いを反省し、そういった考えにも理解を示し──しかし、依然としてせせら笑っていました。

 

 何故ならば、錦城という家、ひいては立場ある女に求められる生活とは、決して日常ではないからです。公的な場が日常となる、というのもそうですが、彼女達が夢見がちに語る、男という存在が、何よりも日常を許さないでしょう。

 

 男を日常に求めるのならば、日常は日常ではなくなります。何せ、彼らは生まれながらに尊く、保護されるべきものですから、綻びなどというものを見せ、それを用いて親しげに近寄れば、身を引かれるのは分かり切ったことでした。

 

 ここに、私が幼少期から礼節を仕込まれた理由がありました。然るべき立場を求めるからには、どうしても、男という装飾が必要不可欠でしたから、私の未来には、当然、日常はなく、生活の隅々にまで礼節を行き届かせる必要があったのです。

 

 こういった気付きもまた、きっと早熟ではなく、思うに私は──とても悪い事ではありますが──人を笑う事が好きなのでしょう。

 

 錦城というお家の、全く毀損すべきところのない跡取りとして、私は誰よりも上に立っている。礼節という技術が、この社会において有用で、上に立つに必要不可欠であるからこそ、誰よりも熟達しようとする。

 

 私が幼稚園の頃、本当に望んでいたのは、整然とした場所ではなく、整然とした場所に属している私と、雑然とした世界との対比でした。そしてその対比は、年を重ねるにつれ、かつて整然だと思っていた場所にまで行き着き、そして遂に、私は──錦城という家すらも笑うようになったのです。

 

 何せ、錦城の家に、父親は居ませんでした。勿論、遺伝子的に存在し、籍にも入っているのですが、それでも彼は錦城の家から距離を置き、資金を貰って、悠々自適、山中の別荘にて生活を営んでいると聞きました。

 

 つまり、私の母親は、私にあれほど厳しく接しながらも、女として失敗していたのです。

 

 これは、思い返しても、おかしい。悪い事ではありますが、今でも笑みが零れてしまいます。小学校の卒業式、あの、春近くにしては妙に肌寒い日に、私は生まれて初めて男と会話をしたのです。

 

 父親とは違い、祖父は錦城の家に居ましたが、それも私が生まれてすぐに死去したとの事で、他には遠目に見るだけで、実質、私は男というものを知りませんでした。

 

 その、初めて会った男は、黒色のスーツが似合っておらず、如何にも服に着られているといった有様で、なよなよとして落ち着かぬ、真っ白い顔をしていまして、それが、『お前の母親が無理を言ったから来たんだ』と、まず初めに言い訳が出てきたものですから、私は驚き、母親の顔を見ると、あれがきっと、負けた女の顔というもので、捨てられた女の顔というもので、唇を噛み、怒りながらも泣いているような、実に悔しそうな顔を浮かべておりました。

 

 それでも母は気丈なもので、それこそ礼節に沿って、何とか言い返したものの、父親はまるで聞こうとせず、どころか、子供のように耳を塞いで、笑ってしまうほど無様な恰好で、『そんなに言うならもう帰る』と、むっとして言いました。それに母親は慌てて、何とか宥めすかして、子供に向けるような──ああ、いえ。私に、というのではなく、一般的な──甘い言葉を言うものですから、私は驚きも、失望さえも飛び越えて、あははと、笑ってしまいました。

 

 母は、怒って『どうして笑うのか』と、顔を真っ赤にして、私を叱りました。父もまた、同じような事を言いたそうに唇を曲げていましたが、母とは違って言葉にも出来ず、ただ、十二の子供に大人が向けるものとは到底思えぬ、恨みがましい、惨めな目ばかりを浮かべておりました。それに、また私はおかしくなって、今度は大口を開き、お腹を抱えて、その場に多くの人の目があるのにも関わらず、笑って、笑って、楽しく思ったのです。

 

 この時に、私は私を自覚しました。その時まで私は、自分には才能があるかもしれないが、それもお家の伝統があり、周囲の教育があるからこそ、私は素晴らしくいられるのだと、それこそ道徳の教科書に乗せられるほど、立派な考えを抱いていたものでした。

 

 しかし、違いました。私の才能とは、単にそれが好きで、楽しかったというだけなのです。それも、礼節に沿って素晴らしくある事ではなく、礼節を利用して人の上に立つ事が、人を笑う事が、私にとって最も楽しい事なのだと──。

 

 それを自覚してしまえば、覆い隠す事は簡単で、また、利用する事も出来ました。

 

 私という人間は、負けず嫌いで、傲慢で、性格が悪い。しかし、私は私自身を嫌悪せず、寧ろ誇らしく思いました。何せ、努力する事は美徳ですし、その美徳は、私にとっては楽しく行えるものでした。コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスと、昨今では勢いよく叫ばれるようになっていますが、しかし私は、それが出来るのかは分かりませんが、ずるをして、結果として人の上に立つ事を嫌います。

 

 何せ、それでは片手落ち。楽しみの半分が、消えてしまう。比較という結果だけでなく、比較に至る経過すら楽しめるところに、私の才能はありました。そして、その姿勢は、おかしなことに──ただ意地の悪い楽しみをしているだけなのに──実直な努力家であると、衆目には見られるのです。

 

 この才能を、私は自覚的に喜びました。私はどうにも、上手い具合に出来ている。まさしく、生まれながらにして、人の上に立つべき人間。

 

 私は──なんて素晴らしい人間なんだろう!

 

 しかし、自画自賛の絶頂は、ふとして凋落に変わりました。あの、冬の日に、私は転げ落ちて行ったのです。

 

 中学生に上がると、体験学習という名目で、男性と接する機会が与えられましたが、その時に出会う方々は、釣り合う家格を選んだというのもあるでしょうが、一様になよなよとして、父の惨めな姿を思い出すものでした。

 

 それでも周囲の少女達は、女子中学校での生活に、同年代の少年と触れ合う事もありませんから、緊張して、所作は拙く、目に余る部分が多い。そこで私が、全体を上手く行くよう努めれば、少年達の、そして少女達の目は私に向かい、見上げるが如くに見つめるのです。

 

 この時期になると、私はすっかり礼節というものを、単に素晴らしいものとして扱うのではなく、周囲を操作して良い様にするために使っていたものでしたから、そういった反応は当然予期していたもので、しかし、些か拍子抜けした事も事実です。少女達のみならず、少年達が同じような反応を示した事は、これが世に価値あるとされるものかと思い、見下して、そして男を見下せる私自体を嬉しく思いました。

 

 しかし、あの日。中学二年生の冬に、私が見たものは、それらとは一線を画していました。

 

 私は、芸術を解さないわけではなく、礼節と同じく、教養として学んでいましたが、しかしそれまで、特別な感慨を抱いたことはありませんでした。ピアノにも、ピアニストにも、たとえそれが男性であろうとも、私にとってはどうでも良い、それを理解し、こなすことで人を見下すことが出来る、道具の一つでしかありません。

 

 ただ、国立劇場の、橙色に明るまったホールの中。母親を隣にし、これが高校生活を先取りして、繋がりを作るためのものだと理解しながらも、私は一切期待をしておらず、寧ろ他人へと向ける期待など既にどこにも存在しませんでしたが、やがて電気が消えて、『あの蔭木昌紀様の……』という長々とした場内アナウンスに促されて、ゆっくりと濃い赤色のビロードの幕が持ち上がっていくと、ぱっと四角く世界が開けて、そこに私は目を見開きました。

 

 その時受けた感慨は、目に閃光が飛び込んで来たようなもので、私はしばし唖然として、真っ白な頭の中に、少年らしい微笑みと、しかし完璧な所作、そして指先から紡がれる澄み切った音を、心地よく、心臓を高鳴らせて聞いたのです。

 

 それからの出来事は、言い訳染みておりますが、無我夢中に行った事で、今思い返してみても、私らしくない。思い返す度に恥ずかしくなって、怒りさえ湧いてくるほどです。しかし、自分にそういった感情が、熱狂があったという事に、はにかみたくもありました。

 

 我ながら、可愛らしいと思うのです。あれほど人を見下す事を好み、見下される事を嫌っていた少女は、しかし一目で少年を見上げ、恋焦がれ、生来の武器として用いていた礼節さえ投げ捨てて、本当に実直に、思いを告げようと努力したのですから。

 

 ……いえ、嘘ですね。実直ではありません。やはりこれも、私らしくない。

 

 私はこの事に関しては、全く経過を楽しまず、どころかそれを恐れました。蔭木昌紀という少年を、獲得しようとする過程において、私は見上げてばかりいたのです。比較を楽しもうとする気概すらなく、比較自体を嫌って、私以外の誰かが、蔭木昌紀という少年に少しでも近づく事を想像するだけで、私は身震いし、吐き気がして、遂には楽屋に押しかけて、『貴方は蔭木様に相応しくない』と、脅迫するまでになったのです。

 

 これは、なんと、惨めな。所詮は私も、あの母親と父親の血を受け継いでいるのかと。ひいては錦城という名前すらも嫌悪したくなるほどの変わりようでしたが、しかし、あの椿京奈という少女は、押しかけた私に驚くでもなく、酷く冷淡に『それで?』と言いました。

 

『それで、私の価値はそれだけですか』

 

 その時は、意味が分からぬ言葉でしたが、しかし、お二人にとっては、それこそが関係性の証左だったのでしょうね。

 

 それを、今更ながらに、呪わしく思います。

 

 季節が過ぎて、受験も終わり、私は日々を焦がれながら過ごしました。あと何月、あの何日で、蔭木様と同じ学校に通うことが出来るかと、指折り数え、繰り広げられる生活を想像して、やはりはにかむほどで。時には身勝手な、薄汚い想像をするほどでしたが、しかし私は、この時期の私に関しては、はっきりと見下します。

 

 これは、単なる馬鹿でした。何も分からぬ、分かろうともしない、錦城優香という馬鹿。その比較に楽しみは見出せず、ただ後悔を、苦しく、身勝手に思うばかりです。

 

 私が事件を知ったのは、そんな浮かれた朝の事でした。使用人が微妙な顔を浮かべている事を訝しく思いながらも、手に取った新聞の社会面に、実にセンセーショナルな見出しで、蔭木という名前が書かれる事に目を留めて、さっと顔の血の気が引きました。

 

 しかし滑稽なのは、私はその一瞬に、記事が真実かどうかを疑ったり、身の上を心配するのではなく、確かに、事件を引き起こした蔭木様を、駄目になってしまったと、見下したのです。

 

 初めて私は、自分を醜いと思いました。そういった心の動きが、どうして起こるのか。これが恋する少女の、ひいては人間の感情かと、恐ろしく思って、新聞を取り落とした私に、しかし母は『見たのね』と言って、同じく明らかに見下す目を浮かべ、

 

『これでは、駄目になってしまったわね』と言いました。

 

 母は、蔭木様をものとして見ていて、だから父に捨てられるのだと、その上であんな顔を浮かべたのかと、三年前の出来事がぱっと頭に浮かび、しかし母が発した言葉は、私が思ったものと同じだと、そう気付き、愕然としました。

 

 血が人を形作り、遺伝子が人を決定付けるのならば、私は、私が笑った母を、否応なく受け継いでいる。あの、悔しさに満ちた表情は、まさしく下らないものに見下される悔しさで、しかし、それでも縋りつかざるを得ない感情の、背反した心の動きを、ありありと示しているのではないかと。そして、それこそが、私の未来そのものですらないのかと、その一瞬に、私は思い、ぞっとしました。

 

 それは、どうしても、嫌でした。私が、誰かに縋りつく。捨てられて、尚もしがみ付き、どうか愛してくれと願い乞う。そんな惨めな思いは、想像するだけでたくさんでした。

 

 だから、入学式を終え、同じクラスになった喜びも束の間、蔭木様の振る舞いを見た時に、私はとても安心したのです。

 

『これをもう見上げる事はない』と、『これはただ見下す事が出来る』と、胸を撫で下ろし、内心でせせら笑いました。妥協点と、蔭木様は言いましたが、その振る舞いこそが妥協点を越えている。滑稽で、不遜極まりなく、だからこそ、私という人間が、決して縋りつく事はない。

 

 それでも、人が変わったような様子に、心配はあって、その言動に傷付く部分もあり、だから私は、かつて宿した特別を、胸の奥、そっと小箱に入れるようにして、固く閉じようと決意したのです。

 

 だから、だからですよ。おかしいじゃないですか。なんであんな。

 

 貴方が、貴方はまだ、そんな音を。それもずっと、広い。それが貴方と、否応なく突き付けて来る。貴方の全部が込められた音に、私は本当に、ただ様子を見ようと思って通りすがっただけなのに、打ち震え、涙さえ流すほどで。たった今、封じたはずの、柔らかで暖かな心の動きは、熱を持って再び騒ぎ出して。

 

 しかし、あの、女。

 

 私が先に聞いていたのに、あの女は、自分に権利があると言わんばかりに、貴方の下に近づいて行って、何度殺しても足りないくらいの言葉を、親しげな、身勝手な振る舞いを繰り返し、遂には右手を、貴方の手首を掴み。

 

 剰え、私に恥をかかせ、見下す目を。

 

 朝の時間に、容易く振る舞った、あの音もまた、決して許す事はありません。それを、貴方は、私の礼節と同じように扱いました。道具として、私が見上げたものを、ただ暴力的な道具として。それこそ見下している。しかし見下されているというのに、怒りと共に悲しみが湧いてくるのは不思議で、どうか許して下さいと、僅かなりとも泣いて縋りつきたくなった事は、死にたくなるくらいの無様でした。

 

 しかし、これは本当に身勝手な思いであると、私は自覚しています。言い訳染みていますが、それは確かです。

 

 男が女に向けるならまだしも、女が男に向けるのは、全く格好が付かない。他人にどう思われるか、それを気にして態度を変えるなど、人間としても最低の行いですし、況や、その上で愛していると言うのは、滑稽を超えて気が狂っているでしょう。

 

 だから、貴方が妥協点を探すように、私もまた、妥協点を探そうと思うのです。

 

 どこまでを許し、どこまでを許さないか。貴方が社会へ向けて言った言葉は、なるほど、正鵠を得ている。社会に生きるという事は、その繰り返しであり、それこそが人間の人生そのものでもありましょう。

 

 妥協なしに生きていけると、そう思う事は思い上がりであり、現実を知らぬ戯言でしかない。

 

 だからこそ、私が妥協できない一線として引きたいのは、たった一つでしかないのかもしれません。

 

 貴方を何時か、私を決して見下ろす事が出来ぬよう、私と同じ思いを抱かせる事。

 

 錦城優香は、その様に、蔭木昌紀を、恋しく、呪わしく、思っています。

 

 

 

「……これ、恋文ではなく果たし状ですね」

 

 そもそも、人生そのものを投げつけるのが間違っているのではないか。しかし、相手が妥協点を求めるのなら、私の内心を飾り付けずに──それは受け止められたいという欲求もあるだろうか──あけすけに曝け出す事が必要ではないか。

 

 向かった机にうんうんと唸り、そもそも何故、私がこんな事に時間を使わなくてはならないのか。立場を考えれば、あちらが私に泣いて将来を頼むべきではないか。それと後半に感情が出過ぎている。いやいや、これは多分にあの男が悪いのだ──などと反省も忘れて苛つき、怒りと共に憎しみが湧き、遂には殺意が出てきたところで、私は止めた。

 

「明日にしましょう。うん。あんな男、放っておいても嫌われるだけですから、考えようによっては楽ですね」

 

 私は便箋を破り捨て、しかし思い立って拾い直し、カッターで丹念に切り刻んでから、それをハンカチに包み込んだ。

 

 こんな思いだからこそ、誰にも見つかるわけにはいかず、数か所、数回に分けて捨てなければならない。

 

「……いや、食べさせる。いやいや、そんな。まさか。そもそもどうやって……」

 

 しかし、あの男が知らずの内に私の思いを口に含み、消化するという想像は、大変無様で滑稽で、狂おしく甘美にも感じられ、私は思わず一人で笑った。

 

 

 

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