極端なフェミニズムが蔓延するアルカディア王国、その王太子であるシャルルはいわゆるスパダリである。しかしそんな彼でも、さすがに国のあり方についていけないとへこたれてしまった!その結果──

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王太子の憂鬱

 ◇

 

 アルカディア王国王太子シャルルとヘルメェス公爵家の令嬢アリア──この麗しき二人の婚約はロマンスという甘美な響きとは程遠い。どちらかといえば、歴史ある大企業同士の、いささか埃っぽい合併契約に近い代物だった。

 

 要するにありふれた政略結婚である。

 

 初めて顔を合わせたのは互いがまだ分別もつかぬ六歳の春。王宮の、それはもう悪趣味なほどに金銀財宝で飾り立てられた一室でのことだった。あの部屋の、空気に溶け込んだ妙に甘ったるい香の匂いをシャルルは十七歳になった今でも鮮明に覚えている。

 

 彼は国王陛下の隣、アリアは公爵閣下の隣。特注の小さな椅子に二人はまるで高価な舞台装置の一部であるかのように行儀よく配置されていた。

 

「シャルル。こちらがそなたの未来の妃となるアリア嬢だ」

 

 父王の、芝居がかった厳かな声が部屋に響き渡る。シャルルは事前に何度も練習させられた通りに立ち上がり、完璧な角度で頭を下げた。

 

 目の前に座る少女は、熟練の職人が魂を込めて作り上げたビスクドールもかくやという精巧さだった。陶器のような白い肌、感情の色が一切読み取れない、サファイアを嵌め込んだような大きな青い瞳。シャルルは一瞬、その非人間的な美しさに目を奪われた。

 

(綺麗だな。でも人形みたいだ)

 

 それがシャルルの、生涯の伴侶となるべき女性に対する、偽らざる第一印象だった。

 

 アリアもまた非の打ち所のない完璧な淑女の礼(カーテシー)を披露してみせた。スカートの裾が床に美しい円を描く。

 

「アリア・ヘルメェスと申します。シャルル殿下にお目にかかれて、光栄の極みでございますわ」

 

 六歳の少女の口から滑り出たとは思えぬ、完成されすぎた挨拶に父王も満足そうに鷹揚に頷いている。

 

「シャルルです。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 シャルルも負けじと優雅に返し、席に戻る。そこからは大人たちの退屈な時間だ。国の未来だの、両家の繁栄だのと子供には理解不能な美辞麗句が飛び交い始める。シャルルは退屈しのぎとばかりにアリアの人形にも似た姿を観察した。

 

 微動だにしない姿勢。だが膝の上で組まれた小さな手が時折かすかに動く。視線はまっすぐ前を向いているようで、ほんの少しだけ、窓の外の青空を盗み見ている。

 

(つまらないだろうな、僕と同じで)

 

 シャルルは何となくそんなことを思った。彼が幼くして周囲の顔色を窺い、他人の本音を読み取る能力に長けていたのにはそれなりの理由がある。

 

 それはこのアルカディア王国という国の、いささか奇妙な在り方が原因であった。

 

 ◇

 

 一言でいえば、このアルカディア王国にはある種の極端な精神至上主義が深く、そして厄介なほどに根を張っている。精神の高潔さが尊重されるのは決して悪い事ではない。しかし何事にも限度というものがあった。この国では「精神」こそが至高であり、「肉体」はその高潔な精神を汚す可能性のある、忌むべき器なのだという。

 

 あれは二人が十五歳の頃だったか。王宮の美しく整えられた中庭で、婚約者としての義務的な散歩をしていた時のことだ。アリアが敷石の段差に躓き、バランスを崩した。

 

「危ない!」

 

 シャルルは反射的に彼女の華奢な腕を掴もうと手を伸ばした。婚約者として、いや、人として当然の行動だった。だがその瞬間──

 

「きゃあッ!」

 

 絹を引き裂くような悲鳴を上げたのはアリアだった。彼女はシャルルの手をまるで汚らわしい虫でも払うかのように力任せに払いのけようとしたのだ。そのあまりに激しい拒絶にシャルルは一瞬、何が起こったのか分からず呆然とした。

 

 アリアは結局、地面に転倒してしまった。幸い、柔らかな芝生の上だったので大した怪我はなかったようだ。しかし問題はそこではなかった。彼女がシャルルを見る目が明らかに()()()()()。それは信頼する婚約者に向ける目ではなく、路上の暴漢を見るような、怯えと嫌悪に満ちた目だった。

 

「ア、アリア……? 大丈夫か?」

 

 狼狽えるシャルルにアリアはきっと眦を吊り上げて、震える声で言い放ったのだ。

 

「な、なぜあのような野蛮な事をなさるのですかッ……! わたくしの身体に許可なく触れるなど……!」

 

 野蛮? シャルルは困惑した。ただ単に彼女が転んで怪我でもしたら大変だと純粋な親切心から助けようとしたのである。その衝動がなぜ「野蛮」と断罪されねばならないのか。シャルルの中に芽生えた当然の疑問はしかしこの後すぐに打ち砕かれることになる。

 

 ◇

 

「其の方は王太子の身でありながら、何たる不見識か!」

 

 父王の雷鳴のような声が謁見の間に重苦しく響き渡った。

 

 玉座に座る父の表情は、まるで道端に転がる汚物でも見るかのように不快感で歪んでいる。

 

「アリア嬢は未来の国母となるべき、この世で最も高貴な精神の持ち主だ。その清らかな身体に男性である其の方が気安く触れるなど、言語道断! それは知性なき野獣の所業に他ならぬ」

 

 父王はそう断じた。シャルルは直立不動の姿勢で、ただ黙ってその蒙昧としか言いようのない説教を聞き流すしかなかった。

 

(転倒すれば怪我をする。肉体を持つ以上、それは当然の摂理だ。それを防ぐのが人の道ではないか。精神性とはそんなにも脆いものなのか?)

 

 胸中にどす黒い鬱屈が渦巻き、どうしようもない業腹な思いがこみ上げてくる。

 

 緊急避難的な動作さえも「野蛮」と断罪されるのであれば、我々は皆、肉を持たぬ幽霊にでもなる他ないのではありませんか──そんな喉元まで出かかった辛辣な反論を、強靭な理性でぐっと飲み込んだ。

 

 シャルルはあえて殊勝な面持ちを作り、深く、恭しく頭を垂れてみせる。

 

「父上のおっしゃる通りです。私の思慮が浅うございました。深く反省しております」

 

 心にもない謝罪の言葉が滑らかな舌に乗って、澱みなく吐き出される。そんなシャルルを見た父王はふん、と鼻を鳴らし、ようやくその険しい表情を緩めた。

 

「分かればよい。全ては高潔なる精神を守るためである」

 

 長かった叱責の時間が終わると、シャルルはその日の内に公爵邸への訪問を申し入れた。アリアへの謝罪のためだ。

 

 ◇

 

「アリア嬢。先日は驚かせてすまなかった」

 

 シャルルは極めて紳士的な態度で、しかし決して彼女に触れぬよう、意識的に一歩分の距離を保って語りかけた。

 

「私の配慮が足りず、君の清らかな精神を乱してしまったようだ。許してほしい」

 

 アリアの強張っていた肩が小さく震え、ようやく安堵の色がその美しい顔に広がる。

 

「いいえ……シャルル殿下。わたくしこそ、あのような場面で取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

 

 彼女もまた、この歪んだ教育の被害者なのだろう。シャルルはそう思った。咄嗟に差し伸べられた手を「穢れ」と感じてしまうほどにその精神は純化され、そして同時に決定的に損なわれている。

 

「二度とあのような粗相はしないと誓おう」

 

「信じておりますわ、シャルル様」

 

 二人の間には再び、完璧な婚約者同士という、冷たく透明な仮面が装着された。

 

 だがシャルルの胸の奥底には決して消えることのない、澱のような違和感が沈殿している。

 

 ◇

 

 あれから一年が経ち、シャルルとアリアは十六歳になった。二人はそろって王立学園に通っている。学園生活は概ね平穏だったが、シャルルはこの頃からこの国全体を覆う空気に耐え難いほどの息苦しさを感じ始めていた。

 

 とはいえ、アリアとの関係は表向きは良好だ。まあ、一般的な意味での「男と女」としてとは口が裂けても言えないが。

 

 学園の図書館。古書の匂いが漂う静謐な空間で、二人はしばしば知的な会話を楽しんだ。

 

「北のノルン連合を単なる蛮族の集まりと見做すのは危険ですわ。彼らの社会には我々とは異なる、古の契約に基づく独自の精神性があるはずです。それを理解せずして、真の外交は成り立ちません」

 

 アリアは歴史書の一節を指差しながら、熱心に語る。その知的な横顔は確かに魅力的だった。

 

「同感だ、アリア。だがその精神性とやらが我々の豊かな小麦を狙う口実になるのなら、我々は対抗する『実利』を持たねばならない。強固な防衛網と彼らを懐柔できるだけの圧倒的な経済力。それが現実的な抑止力だ」

 

「ええ。ですが経済力だけでは真に人の心は動かせませんわ。やはり、我々の『高潔さ』こそが最終的には彼らの心を打つのです」

 

 議論はいつも白熱する。互いの知性を尊敬し、王国の未来を憂う心は確かに二人を結びつけていた。シャルルはアリアの聡明さを愛し、アリアはシャルルの革新的な視点を尊敬した。二人は間違いなく、良きパートナーだった。

 

 だがその絆はどこまでも()()()()()()に限定される。二人の関係はまるで、無菌室で培養された、清潔だが生命力に欠ける植物のようだった。

 

 議論が佳境に入り、シャルルが自らの熱意を伝えようと思わずテーブル越しに身を乗り出し、アリアの肩に手を置こうとしたことがある。すると彼女はビクリと身をすくめ、さっと椅子を引いた。

 

 それはもう、条件反射だった。

 

 シャルルのフラストレーションは成長と共に静かに、しかし確実に心の澱となって蓄積していく。

 

 ◇

 

 そうしてさらに時は流れ、シャルルもアリアも十七歳になった。

 

 王立学園での最終学年。シャルルは眉目秀麗、成績優秀、非の打ち所のない王太子として、学園中の尊敬と羨望を集めていた。彼が王国の諸問題について語れば、その内容たるや、下手な大臣の演説よりよほど中身があるとあの口うるさい宰相がこっそり国王に漏らしたほどだという。そう、シャルルは何でもできたのだ。まあ、彼がその能力を存分に行使することは少なかったが。理由は無論、王国の精神至上主義に依る。

 

 婚約者アリアもまた、その理想を完璧に体現した令嬢だった。誰もが認める理想のカップル。シャルル自身、アリアの知性には深く惹かれていたのは事実だ。だが幼い頃から続く、あの不自然なまでの接触の禁止が二人の関係を決定的に歪めていることにも、とっくに気づいていた。

 

 だが二人の関係は世間の期待通り、実に清く、正しく、そして退屈に続く。

 

「素晴らしいお考えです、シャルル様。ですがその計画では伝統を重んじる一部の守旧派貴族の反発が予想されますわ」

 

「そこが肝心なのだ、アリア。変革には痛みが伴う。だが君のところ、ヘルメェス公爵家の力添えがあれば、その痛みを最小限に抑えられる」

 

「ええ、喜んで。お父様には私からお話しておきます」

 

 二人は王国をより良くしたいという点で、完全に同志だった。だが皮肉なことにその「愛」の定義が二人においては致命的に異なっていたのである。

 

 ◇

 

 ある日の放課後。政策議論が一段落した図書館の閲覧室。西日が差し込み、部屋全体がセピア色に染まっている。アリアの横顔が夕日に照らされ、その白い頬の産毛がきらきらと輝き、息をのむほど美しく見えた。

 

 シャルルはごく自然な衝動として、彼女の手に触れようとした。健全な十七歳の男子として、愛する女性を前にして、それは当然の欲求だ。

 

 だが彼の指が彼女の手に触れるか触れないかの瞬間、アリアは反射的に手を引いた。彼女の顔には驚愕とそして微かな怯えが浮かんでいる。

 

「……シャルル様……あの……」

 

 アリアは俯き、消え入りそうな声で呟く。

 

「……すまない。配慮が足りなかったようだ」

 

 シャルルは慌てて手を引っ込めた。まただ。また、拒絶された。その事実に彼の心は静かに傷ついていく。

 

「シャルル様はその……私に触れたいとお思いになるのですか?」

 

 アリアは恐る恐る尋ねる。禁忌の言葉を口にするかのようにためらいがちに。

 

「……ああ。私たちは婚約者なのだから、当然の欲求だろう? もちろん、君の精神性を何より尊敬している。だがそれとこれとは別問題だ。私は君という存在の全てを受け入れたい」

 

「別では……ありませんわ」

 

 アリアは静かにしかし断固として首を横に振った。

 

「精神的な結びつきが完璧であれば、肉体的な接触など、些末なことではありませんか? 私たちはもっと高次の次元で繋がっているはずです。その繋がりをなぜわざわざ低俗な肉体の欲望で汚そうとなさるのですか?」

 

 シャルルは軽い眩暈を覚えた。彼女の言っていることはこの国の常識からすれば百点満点の模範解答だ。だがシャルルにとってはそれは到底受け入れがたい空論だった。血の通った人間として、温もりを求め合うことの何が「低俗」なのか。

 

 無論、そんな事をシャルルがアリアに言えるはずもなく、結局シャルルのフラストレーションはさらに募っていくのだった。

 

 ◇

 

 シャルルの苦悩はアリアとの関係だけに留まらなかった。この国の歪みはあらゆる場所に巣食っていた。

 

 ある日、シャルルは老宰相と執務室で向き合っていた。議題は国内の治金技術の停滞について。

 

「……以上が私が提案する新しい精錬法の導入計画です。これが実現すれば、十年後には隣国ヴェロワ帝国にも対抗できる品質の鋼を生み出せると試算しています」

 

 シャルルが分厚い報告書を閉じると老宰相は深く、これ見よがしにため息をついた。

 

「殿下。そのご提案がどれほど画期的か、この老骨にも重々承知しております。しかし……」

 

「しかし何だ。また予算委員会の古狸たちが首を縦に振らないと?」

 

「……冶金ギルドの抵抗もさることながら、彼らはその……新しい技術を導入することで、伝統的な職人たちの『精神性』が損なわれることを深く懸念しております。鉄は職人の魂を込めて打つものだと……」

 

「精神性だと?」

 

 シャルルは思わず声を荒げた。

 

「鉄の品質に精神性が何の関係がある! 必要なのは技術と効率だ。それが国力を左右し、ひいては国民の生活を守るのだぞ。魂を込めたところで、脆い鉄は脆い鉄のままだ!」

 

「殿下、お言葉ですがいささか進歩的すぎます。物事には順序というものが……それに我が国の美徳は効率ではなく、高潔さにあるのです」

 

 またこの議論か、とシャルルは心底うんざりした。彼の革新的な政策はしばしばこうして「伝統」や「精神性」という名の、分厚く融通の利かない壁に阻まれる。

 

 シャルルにとって、この国はどうしようもなく息苦しい。

 

 国王である父に相談してみたこともあったが期待を裏切るものだった。

 

「シャルルよ。お前は王族としての自覚が足りぬ。アリア嬢の清らかさをなぜ理解しようと努めぬのか。女性を貴び、その精神性を守ることこそが我が王国の揺るぎない礎なのだぞ」

 

「ですが父上、国力は低下しつつあります。精神性だけでは他国の侵略から国を守ることはできません」

 

「だからこそ、我々は精神の高潔さで他国を圧倒せねばならんのだ。武器ではなく、徳をもって戦うのだ」

 

 会話にならない。精神論や徳で戦争に勝てると本気で信じているのだから、始末に負えない。

 

 さらにシャルルの不満を決定的にしたのはこの王国に存在する、ある常軌を逸した法律だった。男子は子を一人、あるいは二人為したあとは去勢をするという悍ましい法。表向きは余計な情欲から高潔な精神を守るため、とされている。まあお飾りの法といえばそうだ。平民も貴族も、これを律義に守っている者などはごく少数であった。しかし、王族は例外だ。

 

 馬鹿げている。シャルルはこの悪法こそが男性から活力を奪い、国全体を停滞させる元凶だと確信していた。それを彼は父王に熱弁したが一笑に付されただけだった。

 

「何を野蛮な。それこそが我々が精神性を保つための崇高な決断ではないか。子孫を残すという義務を果たした後は速やかに肉体の軛(くびき)から解放されるべきなのだ。それが真の自由だ」

 

 議論にさえならない。彼の切実な叫びは誰の心にも届かない。それもまた、シャルルがこの国に見切りをつける決定的なきっかけとなった。

 

 シャルルはまるで自分だけが異邦人であるかのような、深刻な疎外感を抱えていた。

 

 ◇

 

 そんなシャルルのうんざりするような日々に鮮烈な変化が訪れる。隣国ヴェロワ帝国からの交換留学生、メリッサが編入してきたのだ。

 

 快活な印象を与える、栗色のショートカットの少女。何よりシャルルを驚かせたのは彼女の物怖じしない、というか、いっそ無遠慮とも言える態度だった。

 

「やっほー、あなたがシャルル王太子? 話には聞いてたけど、すごいイケメン! よろしくね!」

 

 メリッサは学園の廊下で遭遇したシャルルに対し、まるで長年の友人のように気さくに片手を上げ、ウインクまでしてみせた。周囲の生徒たちが息をのむ。不敬だ、と。だがシャルルは不思議と不快ではなかった。むしろ、その自由でカジュアルな空気に新鮮な風が吹き込んできたような心地よさを感じていた。

 

「ああ、君がヴェロワからの。ようこそ、アルカディアへ。私はシャルルだ」

 

「知ってるよ。この国の堅苦しい雰囲気、ちょっと慣れないけど、あなたとなら楽しくやれそう!」

 

 メリッサはあっけらかんと笑う。アリアとはまさに正反対。太陽のように明るく、生命力に溢れている。彼女と話す時間はシャルルにとって唯一の、心からリラックスできる時間となった。

 

 ヴェロワ帝国の話は何もかもが新鮮だった。彼らは実利を重んじ、精神性よりも結果を評価する。合理的で、開放的。そして何より、男女の仲がこの王国よりずっと「健全」であるらしい。

 

「へえ、婚約者のアリアさんとはまだ手も繋がないんだ。ふーん……大変だね、王太子様も」

 

 メリッサはシャルルの悩みを聞いても、特に驚いた様子もない。ただ、少し同情的な、そして何かを見透かすような意味ありげな視線でシャルルを見つめるだけだ。

 

 シャルルは健全な男子だ。メリッサの健康的な身体のラインに視線が無意識に向いてしまうことがある。メリッサはそれに気づき──

 

(この国の王太子、案外むっつりなんだ。可愛いとこあるじゃん)

 

 とひそかに面白がっていた。

 

 シャルルはそんな鋭い観察眼には気づかず、彼女との会話に救いを求めていった。彼女と話していると自分が異端ではない、間違っていないと思えたからだ。

 

 だが友情が深まるにつれ、シャルルの心の天秤は確実に傾き始める。この息苦しい王国か。それとも、自由な帝国か。

 

 フラストレーションはついに限界点に達しようとしていた。

 

 きっかけは些細なことだった。アリアがシャルルの執務室に新しい茶葉を持ってきた。

 

「シャルル様、少しお疲れのようですわ。心を鎮める効果のある、特別なハーブティーですの」

 

 彼女の気遣いは完璧だった。だがその完璧さが今のシャルルには鋭い棘のように刺さった。

 

「……ありがとう、アリア。だが今、私に必要なのは心を鎮める茶ではない」

 

「では何がご入用ですの? 何なりとお申し付けください」

 

 アリアは不思議そうに小首を傾げる。その無垢で、純粋な仕草がシャルルの張り詰めていた堪忍袋の緒を切った。

 

「君だ、アリア」

 

 シャルルは立ち上がり、彼女の華奢な肩を掴んだ。その手には抑えきれない力がこもる。

 

「君の、その……肉体的な温もりが欲しい。私にはそれが必要なんだ。言葉だけではない、確かな繋がりが欲しい」

 

 アリアの顔が一瞬で強張る。その瞳に浮かんだのは歓喜ではなく、明らかな恐怖だった。

 

「シャルル様……また、そのようなことを。私たちの間にそんな野蛮なものが必要だと本気でおっしゃるのですか? やめてください、恐ろしい……」

 

「野蛮? 恐ろしい?」

 

 シャルルは自嘲的な笑みを浮かべた。力が抜けていくのを感じる。

 

「そうか、君にとっては野蛮で恐ろしいことか。愛する婚約者に触れたいと思うことが」

 

「愛しているからこそ、ですわ!」

 

 アリアは叫ぶように言った。

 

「愛しているからこそ、私たちは精神で繋がるべきなのです。肉体は……肉体はいずれ衰え、朽ち果てます。しかし魂の結びつきは永遠です。なぜ、その永遠を信じてくださらないのですか!」

 

 アリアは必死に訴える。彼女もまた、シャルルを愛しているのだ。彼女なりの、真摯なやり方で。だが二人の溝はもはや修復不可能なほどに深かった。価値観の断絶は愛情だけでは乗り越えられない。

 

「……君の言うことは理屈では理解できる」

 

 シャルルは静かにアリアの肩から手を離した。

 

「だがそれは私とは決定的に相容れない価値観だ。私には魂だけでは足りない。私は生身の人間なのだ」

 

 アリアの瞳にうっすらと涙が浮かぶ。しかし彼女は自らの信念を曲げることはできない。

 

 シャルルは確信した。自分はこの国では生きていけない。そして、アリアを真の意味で幸せにすることもできない、と。

 

 ◇

 

 その日の放課後、シャルルはメリッサを王立学園の、普段は使われることのない王族専用サロンに呼び出した。

 

「……それで、改めて、何の用? 王太子様。こんな格式ばったところに二人きりで。もしかして、私に告白でもする気?」

 

 メリッサは最高級の紅茶を一口すするといつも通りの軽い口調で尋ねる。だがその目にはいつになく鋭い警戒の色が浮かんでいた。

 

 シャルルはまっすぐに彼女の目を見据える。その瞳にはもはや迷いはなかった。

 

「単刀直入に言おう。私はこの国を出て、ヴェロワ帝国に行きたい」

 

 メリッサの持つティーカップがカタカタと微かに震えた。

 

「……何を言ってるの? 冗談にしては笑えないわよ」

 

「君の“上司”にそれを伝えてくれないか? 亡命を受け入れる用意があるか、と」

 

 シャルルの言葉にメリッサの顔から、快活な留学生の表情が完全に抜け落ちた。

 

「じょ、上司って何のこと? 私はただの交換留学生で……」

 

「もう芝居はよせ、メリッサ」

 

 シャルルの声は氷のように冷徹だった。

 

「君が単なる交換留学生だとは最初から思っていなかった」

 

 メリッサは観念したようにふう、と深く息を吐き、カップをソーサーに戻した。学生の仮面が剥がれ落ち、プロの顔が覗く。

 

「……いつから気づいてたの?」

 

「最初からだ。君の演技は完璧だった。私も君と会話するのは楽しかったよ。純粋にね」

 

 シャルルは窓の外に目をやる。夕暮れの空が赤く染まり始めていた。

 

「だが“なぜ”を突きつめると結局それはヴェロワ帝国による諜報活動の一環だな、と結論付けざるを得ない事象が多々あった」

 

 シャルルはメリッサが接近してきたタイミングの不自然さ、彼女が知りたがった情報の種類を指摘していく。

 

「決定打は先週の合同軍事教練だ」

 

 シャルルは彼女の目を再び射抜くように捉えた。

 

「君は北のノルン連合が使用する新型の弩(いしゆみ)について、私が漏らした運用上の弱点を異常なほど熱心に聞き質してきた。普通の留学生が仮想敵国の兵器の技術的な欠陥にそこまで執着するか? 君の目は専門家の目だった。軍事技術に精通した、諜報員の目だ」

 

 メリッサはもはや反論しなかった。彼女は肩をすくめ、降参の意を示す。

 

「……完敗ね。それで、それを分かった上で、私を泳がせていたってわけ? 性格悪」

 

「君というより、君の背後にいるヴェロワ帝国の意図を探るためだ。そして、利用できるものは利用させてもらう」

 

 シャルルはメリッサに向き直る。その表情はもはや十七歳の少年ではなく、一国の運命を担う政治家のものだった。

 

「ヴェロワ帝国は北方のノルン連合の動きに深刻な脅威を感じている。だからこそ、軍事力を増強するために我がアルカディア王国の治金技術に興味があるのだろう」

 

「……」

 

「王国も実のところ、北の動きを深く懸念している。僕らは本来、手を取り合う必要がある。だがヴェロワの領土拡張主義を警戒する王国は深入りを避けている」

 

「……それで、あなたはその橋渡しをすると? この国を捨ててまで?」

 

「捨てるわけではない」

 

 間髪入れずにシャルルはそう答えた。

 

「僕なら両国の真の橋渡しができる。僕は王国の人間だ。この国は息苦しいがそれでも僕の生まれ故郷だ。愛国心はある。だからこそ、僕が帝国に渡り、王国が帝国の餌場にならないように目を光らせる、という選択は王国側にとっても一定の有効性を認めてくれるはずだ」

 

「あなたを……信用できると?」

 

「信用させるだけの『手土産』を持っていく」

 

 シャルルは鞄から一巻の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。それは彼が宰相に提出し、「精神性」を理由に却下された、あの新しい精錬法の詳細な計画書だった。

 

「これは……!」

 

 メリッサはその内容を一瞥しただけで、その計り知れない軍事的、経済的価値を理解した。

 

「だがこれだけではない。ヴェロワ帝国は中央集権化を急ぐあまり、地方貴族の反発を招いている。彼らの不満を解消し、帝国の国力を真に高めるための抜本的な税制改革案……これも、手土産の一つだ」

 

 シャルルはヴェロワ帝国の内政の問題点とその具体的な改善策を立て板に水のように語り始める。まるで長年ヴェロワ帝国に住んでいたかのような精密な分析に、メリッサは──

 

「……分かった」

 

 そう、シャルルの言葉を遮った。

 

「あなたの提案、真剣に受け止める。……すぐに本国に確認を取るわ」

 

 ◇

 

 ヴェロワ帝国、帝都。絢爛豪華な皇帝執務室では若き皇帝ゼノンがメリッサからの緊急報告書を前に愉快そうに喉を鳴らしていた。

 

「……面白い。実に面白いではないか、クロード!」

 

 傍らには帝国の諜報部門を統括する、メリッサの真の「上司」であるクロード侯爵が神妙な面持ちで控えていた。

 

「王国の王太子が自ら国を捨てて帝国に降ると。にわかには信じがたい話ですが……」

 

「降るのではない、と彼は言っているのだろう? 『橋渡し』だと。実にプライドの高い言い回しだ。気に入った」

 

 ゼノンは報告書を指で弾く。

 

「そして、この手土産だ。この精錬法と税制改革案。これは間違いなく本物だ。あの息苦しい鳥籠のような王国で、よくぞここまで腐らずにこれほどの才能が育ったものだ」

 

「して、陛下。受け入れられますか?」

 

「決まっておろう。シャルル王子の才はヴェロワにこそふさわしい。彼を国賓として丁重に歓迎する。直ちに伯爵位と広大な領地を与えよう」

 

「しかしアルカディア王国の反発は必至かと……」

 

「彼自身が言っているではないか。王国が帝国の『餌場』にならぬよう、彼が目を光らせると。王国側も、北の連合を牽制するために帝国との繋がりは強化したい。シャルル王子という『人質』、あるいは『特命全権大使』を差し出すことは彼らにとっても決して悪い話ではない」

 

「……なるほど」

 

「それに」

 

 ゼノンは窓の外に広がる帝都の夜景を見下ろしながら、にやりと悪戯っぽく笑った。

 

「報告によれば、彼は極めて『健全な男子』らしいではないか。あの王国の異常な環境で、随分と欲求不満を溜め込んでいるようだな。我が帝国は知っての通り、多夫多妻を推奨している。国力とは人口だ。才能ある者の血は広く、多く残すべきだ」

 

「シャルル王子に帝国の貴族たちと縁を結ばせ、多くの子を成してもらう、と」

 

「そうだ。彼ほどの才と血筋だ。メリッサをはじめ、我が帝国が誇る美姫たちを存分に与えよう。あの息苦しい王国で溜め込んだ鬱憤を存分に晴らしてもらわねばな。それが彼を帝国に繋ぎ止める、最も確実な鎖となる」

 

 ◇

 

 アルカディア王国ではシャルルが国王に自らの決意を伝えていた。場所は国王の私室。二人きりの、父と子の、腹を割った話し合いである。

 

「……それが私の結論です、父上」

 

 シャルルは感情を排し、理を尽くして自らの計画を説明した。

 

 国王は黙って息子の言葉を聞いていた。やがて、重々しく口を開く。

 

「……お前の言うことは理屈としては分かる。だが感情が納得せぬ。お前はこの国を父をそしてアリア嬢を捨てると言うのか」

 

「捨てるのではありません。外から、この国を守るのです。父上や、他の貴族たちがこの国の『精神性』とやらを後生大事に守り続けられるように」

 

 その言葉には隠しきれない皮肉とそして深い諦念がこもっていた。

 

「……考え直せ、シャルル。お前がこの国のやり方に合わせれば……」

 

「それは不可能です。もう手遅れなのです」

 

 シャルルはきっぱりと遮った。彼の声には抑え続けてきた激情が滲み出ていた。

 

「私は私なりにアリアを愛しています。彼女が大切にしている考えも、尊敬もしている。ですが私はそれが厭(いや)なのです。彼女の価値観を受け入れることは私自身の存在を否定することになる」

 

 シャルルは初めて父の前で、自らの本心を赤裸々に告白した。

 

「私はアリアの髪に触れたい。その唇を私のそれで塞いでしまいたい。強く抱きしめ、互いの体温を感じあいたい。しかしこの国ではそれは禁忌です。野蛮な欲望です」

 

「シャルル……」

 

「だから私はこの国にいる限り、我慢を強いられることになるでしょう。何年も、何十年も。私はこの国を愛しているし、アリアの事も好きです。ですが──その我慢がいつか私自身を壊してしまう。あるいは私がこの国の価値観そのものを憎悪し、破壊しようとするかもしれない」

 

「……」

 

「そうなれば、私はもう、父上が望むような『才ある次王』ではいられなくなります。私はこの国にとっての怪物になってしまう」

 

 国王は息子の苦悩に満ちた告白に返す言葉を失った。彼がこれほどまでに追い詰められていたとは。

 

 国王はゆっくりと目を閉じた。長い沈黙の後、彼は目を開けた。その目には王としての威厳ではなく、一人の父親としての深い悲しみが宿っていた。

 

「……もう良い。わかった……」

 

 まるで十年老け込んだかのような、か細い声だった。

 

「……お前の好きにするがよい」

 

 父王は追認する形で、シャルルの出奔を認めざるを得なかった。シャルルの理によって動かされたわけではない。シャルルを怪物にしたくないという親心によって動かされたのだ。父王もまた、彼なりにシャルルを愛していた。

 

 次にシャルルはアリアの元を訪れた。彼女はシャルルの告白を静かに聞いていた。取り乱したりはしない。ただ、その血の気の失せた顔色が彼女の内心の動揺を如実に物語っていた。

 

「……そう、ですの。ヴェロワへ……行かれるのですね」

 

「ああ。君にはすまないことをした」

 

「謝らないでくださいまし。シャルル様が息苦しさを感じておられたことわたくしも気づいておりました。……気づいていながら、私は私の価値観を押し付けることしかできませんでした」

 

「君は悪くない。悪いのは私と君があまりにも違いすぎたことだ」

 

 ◇

 

 そしてシャルルが王国を発つ前の最後の夜。

 

 シャルルは公爵邸の中庭でアリアと向き合っていた。

 

「……シャルル様」

 

 彼女の瞳は涙で濡れていた。

 

「……行かないで」

 

 彼女は生まれて初めて、理屈でも信念でもなく、ただ、一人の女性としての心のままの言葉を口にした。

 

「行かないでください……シャルル様……わたくしを一人にしないで……」

 

 アリアはシャルルの胸に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。シャルルは驚きながらも、その華奢な体をそっと壊れ物を扱うように抱きしめた。アリアも、今夜だけはそれを避けたりはしなかった。

 

 腕の中で小刻みに震えるアリア。シャルルは彼女の温もりを、その柔らかな肌の感触を初めて感じた。甘い香りが鼻腔をくすぐる──これが自分が求めていたものだ。

 

 しかし。

 

 アリアの震えは喜びや官能によるものではなかった。それは拒絶と恐怖による震えだった。彼女の身体がシャルルの接触を本能的に「異物」として、「穢れ」として、弾き返してしまった。

 

「……っ! 嫌……!」

 

 アリアはまるで火傷でもしたかのように弾かれたようにシャルルを突き飛ばした。彼女は涙を流しながら、激しく首を横に振る。その顔は恐怖で歪んでいた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……私、やっぱり、だめ……触れられるのが恐ろしいのです……!」

 

 彼女の精神が彼女の肉体を完全に支配していた。幼い頃から刷り込まれた価値観はかくも恐ろしい。彼女自身の意思とは関係なく、身体が拒絶反応を起こしてしまうのだ。

 

 シャルルは静かに彼女から身を離した。

 

「……良いんだ」

 

 声は不思議なほど穏やかだった。シャルルの胸にあったのは深い諦念と、そして奇妙な安堵である。

 

 ──これで、心置きなくこの国を去ることができる。

 

 そんな思いを抱くシャルル。

 

「気にするな、アリア。人には合う水、合わぬ水がある……僕にはこの国の水は合わなかったんだ。ただそれだけの話で、君が悪いわけでもこの国が悪いわけでもない。価値観の違いだ」

 

 シャルルは静かに言葉を続けた。

 

「だが覚えておいてくれ。確かに僕は自らの責務に背を向け、ヴェロワに逃げ去る卑怯な男だ。君を幸せにするという約束も守れなかった。しかしこの国は僕が生まれた国だ。君の事も、一人の人間として尊敬している。ヴェロワで僕が何が出来るかは分からないが君とこの国を守れるように全力を尽くすつもりだ。それだけは約束しよう」

 

 そう言って、シャルルは彼女に背を向けた。それが二人の最後の会話となった。

 

 ◇

 

 シャルルが国を去った後、全ては彼の予言通りに進んだ。第二王子カイルが王太子となり、アリアと婚約した。カイルは兄とは正反対に精神的なつながりを何よりも尊重する、この王国好みの模範的な青年だった。

 

「アリア。君の魂の輝きはまるで夜空に浮かぶ清廉な月のようだ」

 

 カイルはアリアの手を取る代わりに彼女のためにいささか陳腐な詩を詠む。アリアは彼に完璧な微笑みを返す。

 

「ありがとう存じます、カイル様。あなたのお言葉、私の心に深く響きますわ」

 

 文句はない。何一つ、不満はないはずだった。それなのにシャルルと丁々発止の議論を交わしていた時のような、あの知的な高揚感と胸を焦がすような熱がどこにもない。アリアはその事実に気づかないふりをして、完璧な婚約者として微笑みかけ続けた。胸の奥がほんの少し、ちくりと痛むような、喪失感を覚えながら。

 

 一方、ヴェロワ帝国に渡ったシャルルはまさに水を得た魚のようだった。彼は皇帝ゼノンに謁見し、持参した手土産をさらに発展させた壮大な国家戦略を披露した。皇帝は彼を大いに気に入り、即座に帝国の伯爵位と豊かな領地を与えた。そして、約束通り、多くの「出会い」を用意した。

 

 シャルルの寝室のシーツは毎夜のように乱れた。

 

「……シャルル……っ、もっと……」

 

 隣で息を弾ませるのはあの快活な留学生の仮面を脱ぎ捨てた、諜報員としての、そして一人の女性としてのメリッサである。汗で湿った彼女の髪をシャルルは優しく指で梳く。

 

「熱いな、メリッサ。まるで太陽のようだ」

 

「……あなたのせいよ。あなたが私をこんな風にしたの」

 

 王国では決して許されなかった肌と肌が触れ合う熱。欲望をぶつけ合っても、叩かれることも、制止されることもない。求めれば求め返してくれる。シャルルはメリッサの豊満な唇を貪りながら、自分が()()()()()ことをその肉体の奥深くで実感していた。

 

 王国の息苦しい「精神性」から解放された彼はその才能を政治や軍事だけでなく、閨房(けいぼう)においても遺憾なく発揮した。

 

 彼は領地に王国で却下された革新的な治水計画と農業改革を即座に実行。領地はわずか数年で帝国有数の穀倉地帯へと変貌し、莫大な富を生み出した。

 

 シャルルはその有り余る甲斐性と財力で、メリッサをはじめ、皇帝から紹介された貴族の令嬢、才能ある踊り子、没落しかけた名家の未亡人まで、多くの女性を妻や愛人として迎え入れる事となる。そして、そんな彼女たち一人ひとりの才能を心から愛し、支援を惜しまなかった。

 

 その結果、美姫たちは王国の高潔な(と彼女たちが皮肉を込めて呼ぶ)元王子がこれほどまでに情熱的で、かつ甲斐性のある男であることに驚き、そして夢中になった。

 

 まあハーレムというやつである。ちなみに自由恋愛を推奨している帝国でも、シャルルほどに数多くの女性を囲っている者はそう多くはない。甲斐性とは何も経済的余裕だけを意味しないのだ。そして、己の器量を見誤って女性を不幸にでもすれば、それこそ帝国社会では村八分にされてしまう。

 

 そういった観点から見て、シャルルの甲斐性というものは実に見事なものであり、帝国の者たちは彼を大いに讃えた。

 

 シャルルの活躍はそれだけに留まらない。

 

 彼はその卓越した知見を買われ、帝国軍の参謀本部に籍を置く。折しも、北のノルン連合がアルカディア王国の国境付近で、剣呑な動きを見せ始めていた。彼らの狙いはアルカディアの豊かな穀倉地帯──というのが参謀本部の見立てである。仮にアルカディア王国がノルン連合にとられでもすれば、旧アルカディア領は打倒帝国の強大な橋頭保となるだろう。

 

 ゆえに、皇帝ゼノンは軍事介入を決めた。そうして軍部が色めき立つ中、シャルルは冷静に分析していた。

 

「連合は決して一枚岩ではない。部族長たちの緩やかな集合体にすぎず、今、深刻な後継者問題で揺れている。この機を逃す手はありません」

 

 シャルルは皇帝ゼノンに一つの策を進言した。それはあまりにも冷酷で、容赦のない謀略だった。

 

 シャルルはまず連合内部の反主流派閥に武器と資金を秘密裏に供給し、対立を煽った。そして、その上で、連合全体の生命線である主要なオアシスに遅効性の毒を流し込むという計画を提示したのだ。非人道的な謀略であることは言うまでもない。おびただしい死人が出るであろう事はそこらの野良犬でも容易に想像できる。

 

 皇帝ゼノンは計画書を見て、珍しく眉を顰めた。

 

「毒だと? それは無関係の女子供にも被害が及ぶ。彼らを内紛に誘導するだけで十分ではないか?」

 

「いいえ、陛下。それでは不十分です」

 

 シャルルの声は静かだが、非常に硬質だ。皇帝ゼノンはシャルルの声に、研ぎ澄まされた黒曜石の槍の切っ先を幻視した。

 

「彼らに二度と南を狙おうなどという気を起こさせないためには徹底的に叩き潰さねばなりません。生温い対応は将来に禍根を残すだけです」

 

「しかし……」

 

「毒の犯人が対立する部族であるという偽の証拠を流布します。彼らにとって、水は命です。それを奪われた怒りと恐怖は正常な判断力を失わせ、疑心暗鬼を生み出します。内紛は激化し、もはや他国へ侵攻する余力はなくなるでしょう。これは帝国を守るために必要な犠牲です」

 

 シャルルはそう言ってゼノンを説き伏せたが、彼の内心にはそれ以上の冷たい感情が渦巻いていた。

 

(アルカディアを──父上やアリアのいる国を狙うというのなら、容赦はしない。僕の故郷を脅かす者はは許さない)

 

 それは愛国心というよりも、彼自身の過去と彼が捨ててきたものに対する複雑な執着だった。ゼノンもすぐにそれを見抜き、頭の中にあったアルカディアに対する軍事侵攻の草案をビリビリに破いて捨てた。シャルルは帝国に大きな益を齎す金の鶏だ。それをむざむざ捨てる手はなかった。それ以上に、シャルルという毒の刃の切っ先を胸元に向ける気にはなれなかった。

 

 そうして計画は実行に移された。シャルルは領地で得た莫大な私財を投じ、間諜を放ち、金と武器をばら撒き、そして毒を流した。罪悪感はいささかもない。そう、シャルルという男には非情な側面があった。

 

 あるいはアルカディアの父王も、そんなシャルルの()を見抜いていたのかもしれない。だからこそ、あれほどしつこく精神、精神と言い聞かせていたのかもしれない。毒を持てば色々な事に使えるだろう。しかし取り扱いを誤れば自らの命を落とすこともある。最初から持たなければそんな事にはならない──父王はシャルルの()を、精神性によって抑制しようとしていたのかもしれない。まあ、それが正しくとも、その試みは失敗に終わったのだが。

 

 ともあれ、結果は劇的だった。

 

 ノルン連合は帝国へ侵攻する寸前で内部から瓦解。水源を巡る争いは凄惨な殺し合いへと発展し、多くの血が流れた。軍事行動は完全に頓挫し、北の脅威は今後数十年にわたって無力化されたのである。シャルルは帝国と王国に一滴の血も流させることなく、戦争を終わらせたのだ。

 

 皇帝ゼノンの彼への信頼は絶対的なものとなった。

 

 ◇

 

 数年後。ヴェロワ帝国の高台にある、広大な屋敷のテラス。シャルルはワイングラスを片手に眼下に広がる夜景を眺めていた。

 

 この帝国で、彼は真の自分を生きているという確かな実感があった。政治、軍事、経済、そして愛。彼が王国で押さえつけられていた全ての才能がここでは惜しみない喝采をもって受け入れられる。彼は幸福だった──

 

 が。

 

 時折、あの息苦しい鳥籠の中で出会った、人形のように美しい少女の面影が胸をよぎることがある。

 

 シャルルは夜空に浮かぶ月を見上げた。

 

「アリア、僕は約束を守ったよ。そしてこれからも守るだろう」

 

 呟きは誰に聞かれることもなく、夜風の中に溶けて消えた。

 

(了)


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