駐マクシムープル公使館のライ麦の備蓄は、中尉が赴任してくるだいぶ前にすでに尽きていたという。何も知らずに毎日イスマイル料理が食べられて最高の職場だと思って暮らしていたわけだが、周りの牡たちは故郷の味に飢える日々を送っていたのであった。
「お嬢さんもそのうちわかりますよ。故郷の素朴な料理を躰が求めることが」
いつものように温和な口調で、しかしいつになく真剣に書記官殿がそう言った。
考えてみれば、公使館の面々はダークエルフを見たことすらなかったのである。つまり、少なくとも開戦どころかあの逃避行の前からずっとここにいるということだ。そして現地社会との関係構築を考えれば、おそらくさらにさらに長く。
「というわけだからなぁ、中尉ぃ、俺は今日から市場でライ麦探しをしてくるぞぉ。公使館の仕事は任せたからなぁ」
と言って張り切って大尉は公使館を出発していき、そして三日後、やつれた顔で帰ってきた。
「だめだぁ。どこの穀物市場も小麦だらけだぁ。あとは大麦が若干あるだけだぁ」
さすが老いたといえども大国の都であった。まともな市民はもちろん、貧民ですら白パンらしい。せっかくの毛並みを埃まみれにして、しっぽを垂らしながら泣きそうな顔でそういうのである。さすがに可哀そうになったので、馬鹿らしいと思いつつも助け舟を出してあげることにした。
「大尉、先日の悪所に連れて行ってください」
「おいこら貴様ぁ、こんな非常時に悪所遊びとはいい度胸じゃないかぁ」
「まぁ、行けばわかりますよ」
少し意地悪をしたくてそう堂々と言い返した。飽食に慣れた若造相手なのだからこれぐらいはいいだろう。軍人たるもの少しは物資不足になれた方がいいぞ。
翌日、こうして再び悪所にやってきたわけである。またしても被ったフードの中で、大尉に向かってぼやく。
「なんで今回は昼間に来たっていうのに、酔っぱらいがそこらそこらに転がっているんですかぁ」
「そりゃ一晩中酌をされたら昼にはこうなるにきまっているだろぉ」
おい、こいつはなんでそんなどうしようもないことを誇らげに言うんだ。絶対何度も経験しているだろ。バカの相手をしても無駄なので無視して酒場に入る。前回のコボルトの御婦人の店だ。
「あら坊やったら、昼から飲みに来るとはいい度胸ねぇ」
前もって小間使いに手紙を運ばせているので要件は知っているはずなので、わかっていてからかっているのだろう。確かに慣れてきたら大尉はなんとなくからかいたい顔をしている。上官だから普段はやらないが。
しどろもどろに弁解する大尉を無視して、御婦人はお茶を淹れる。うん、やはりこの牝に任せてよかった。
「貴女、どうして私にライ麦の仕入れを頼んだのかしら」
あえて大尉にはわからないアールヴ語で話しかけてきたのだから、これはきっと大人の会話だ。
「このお茶です。先日も酔い覚ましにと出してくださいましたよね。これはダークエルフ伝統の薬草茶ではないですか。マクシムープルどころかオルクセンですら手に入らないものを仕入れられているのですから、ライ麦のありかもご存じだろうと思ったのです」
「坊やと違って優秀ねぇ。このお茶はモーリアにいたころからのお気に入りなの。マクシムープルに来て道洋産のお茶やら珈琲の味も覚えたけど、やはり故郷の香りが懐かしくてキャメロット商人経由で取り寄せてるのよ」
そうか、やはり長年異国にいると故郷の味というものは懐かしくなるのか。なら、ライ麦パンも。
「坊や、ライ麦が買いたければ馬の餌を探してるといえばいいわ。ここでは人じゃなくて馬の食べ物なの」
彼女は大尉にもわかるようにオルク語でそう言った。暖かな笑みを浮かべながら。そして飛び出していきそうな牡を呼びとどめて、店の奥に消えていった。
「これ、公使館の皆さんにお土産よ。昨日焼いた残り」
ずっしりと思いそれは、麻袋にいっぱいの黒パンだった。そしてもう一つ。
「普段はお客さんには譲らないのだけどね。貴女の顔は幼馴染に似てるから、特別に」
缶から漏れる匂いでわかる。故郷の薬草茶だ。
「中尉ぃ、よかったなぁ。ねぇさんにダークエルフの御友人がいらっしゃったとは。お礼に軍の方で探しましょう。どちらの村ですか? きっと見つかりますよ」
能天気に笑いながら大尉は店から出ていった。そして中尉にだけわかるようにか、彼女はアールヴ語で呟いた。
「死んだわ。ロザリンドで」
中尉は何も言わず、ただ二指の敬礼だけしてその場を去った。敵と味方が目まぐるしく入れ替わり争い続けるこの世の中の儚さと散っていった戦友たち、そしてロザリンドから帰ってこなかった姉妹を思いながら。