11/23(日)、文学フリマ東京41にて配布される「新青春エンタアンソロジー アルゲントゥム」に寄稿する作品『ラヴ・イズ・モンストロルム 第一話 愚者and暗礁』の前日譚です。
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最も純粋な愛は怪物の形をしている。
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神は乗り越えられる試練しか与えない。
この世に溢れる数々の品性下劣な言葉のうちでも、いっとう下品な因果の錯誤で、醜悪極まる美辞麗句を以て生存バイアスを塗り固めただけの、詐欺もいいところの虚偽虚言であるのだけれど、しかし今だけはその言葉に縋ってもいいと、そう思えた。
「よければ、この後、デートにでも行かないかい」
京都において、一年のうち最も寒い時期はいつかといえば、それは間違いなく二月になる。平均気温なんかから見ればまた別なのかもしれないけれど、少なくとも体感として、京都の冬は、終わりがけの二月がこそ最も寒い。身を切るような空気の冷たさ。極限までの乾燥。日照時間の短さ。全てが全て、人からその体温を奪い去り、凍させるためにある。だからこそ、そう。それはつまり、都合が良かったのだ。ぼくの心に宿る熱を冷まさせて、凍て付かせるには。その寒さは十分過ぎた。
声は震えなかった。うぶなねんねじゃあるまいし、という話だが、しかし不安なものは不安なのだ。そう、女子をデートに誘う、くらいのことならば、別段、恐れるほどのものじゃない。これまでだって何度だってやってきたことで、けれど今回のそれは、これまでとは全く意味が違う。
戸運えるだは、ぼくにとって特別なのだ。
長く伸びた黒髪に、日に焼けていない白い肌。大きく開いた目に、ヘーゼルの瞳。いつだって憂いに満ちた、その表情。
初めて出会ったのは、だから図書館でのことだった。ぼくの通う私立新神海岬学園中等部には大きな図書室があるけれど、しかしそこでというわけではなく、市立図書館——京都市左京図書館にて、ぼくと彼女は巡り会った。
同じ棚の、同じ本。それに同時に手を伸ばして、指と指が触れ合う。今時メロドラマでだってありえないような、冗談みたいな出会いの始まり。けれどそんなものが、時として身を焦がすような恋を生み出してしまうことを、ぼくは学んだ。
「……その本、好きなんですか?」
実のところ、ぼくはその本が好きだというわけではなかった。趣味でもない純文学。手に取ったのは好きだからというよりもむしろ、滅多にそんなジャンルを読むことがないからだ。なのだけれど、そんな事情を隠して、ぼくは「そうだけれど……きみは?」と返した。前半は嘘で、本当に言いたかったのはたった一言だけだった。ヘーゼルの瞳は純粋で、人の悪意など知らないかのように美しく煌めいていた。つまりその時からすでに、ぼくの興味は戸運えるだにこそ向けられていたのだ。
仲良くなるのに、時間は掛からなかった。
彼女は本が好きだった。いわゆる濫読家というやつだ。一昔前なら活字中毒と言っても良かったかもしれない。小説はライトノベルから純文学まで総浚いしているのはもちろん、科学書や哲学書、辞書、新聞、雑誌、果ては絵本や児童書までさえ、兎にも角にも、図書館に置いてあるのならそれがどんな本であれなんだって読む。それが彼女のポリシーにようだった。本の話を振れば、それがどんな本の話題であっても必ず振った以上の返事が戻る。打てば響く、どころの騒ぎじゃあない。人間図書館とでも言うべき知識量だった。
「すごいな。ぼくも本は読む方だとは思っていたけれど、きみと比べりゃ藤四郎もいいところだ」
本を、というか、文字を、か。少なくともぼくはこれまで生きてきた十三年間のうちで、調べ物をするのでなく純粋な『読み物』として辞書を通読したような経験は一度もない。
「別に、すごくないよ……ただ読んでるだけだし。それに、他にすることがないだけだから」
彼女は言った。
「他にすることがない?」
「うち、親が厳しいんだ」
テレビやゲーム、携帯端末と言った、いわゆる現代の子供であれば誰もが触れるであろうコンテンツに、彼女は人生で一度も触れたことがないのだ、という。
「『現代文明に毒されない、古き良き豊かな人生を送ってほしいから』だってさ。馬鹿みたいだよね」
彼女は言って、ため息を吐くみたいに疲れた笑みを浮かべた。
現代文明に毒されない、古き良き豊かな人生……ね。
ある意味では、その狙いは成功していると言える。娯楽を奪った結果、彼女はそれを求めて図書に走った。そして、少なくともぼくがこの歳では持ちえなかった知識的豊かさを、彼女は確かに獲得することに成功している。
だが——それが彼女にとって真実、正しく豊かさとして機能しているかといえば、それは否だろう。
「クラスの誰とも、話が合わないんだ」
ただでさえ、子供の……否否、国民の読書離れが騒がれる時代だ。今の時代、中学校のクラスメイトと読書の話題で盛り上がるなんてことはありえない。それよりも遥かに手軽に消費できて、遥かに気軽に共有できる娯楽が、現代には溢れかえっている。それを毒と表現したくなる気持ちもわかりはするが、しかし所詮、それは老人の理屈だ。『新しいもの』はいつだって古い人間には毒だし、そしてそれは逆も然りなのだ。
その名の通り……彼女は『古き良き豊かさ』に毒されている。
毒されて、犯されて——孤立している。
「だから、久しぶりに『合う』話ができて、嬉しかった」
彼女は言って、その時初めて、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔が、あまりにも痛ましかったから——
ぼくは、その手を取った。
「良ければ——ぼくと友達にならないか」
その時からだ。
その時からぼくと彼女の——戸運えるだの友人関係は始まった。待ち合わせはいつも図書館。ぼくが読んだ本の話をすれば、彼女は嬉しそうに応えてくれる。その時間はとても楽しい時間で、彼女もまた、同じように思ってくれていることが伝わって……けれどぼくは、それだけでは満足できなかった。
だから——二月二十一日の金曜日。ぼくは彼女を、デートに誘った。いつもの図書館を出た後、傾き始めた太陽の光が、長く影を作り出す中、向かい合う彼女に、手を伸ばして。
指先が震えていないかが、酷く心配だった。
手のひらを差し出したまま、一秒、二秒……あるいは永遠にも似た時間が経って——驚いたような表情のまま、固まっていた彼女は。
「……死んでもいいわ、って、返した方がいい?」
「月が出るには、少し早い」
「それ、誤解だよ。『片恋』は、二葉亭四迷」
彼女はくすりと笑って——ぼくの手を取った。
「よろしくね、王子様」
「もちろん、お姫様」
ぼくらは手を繋いで歩き、近場のバス停からバスに乗った。
「どこに行くの?」
「それはまあ、着いてからのお楽しみ、ってところで」
首を傾げる彼女に、ぼくはただ微笑みだけを浮かべる。
「お出かけするなら、もっと可愛い服着てくればよかった」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに言った。
「もう十分……可愛いよ」
「本当に?」
「これ以上可愛くなったら、目が潰れちゃうくらい」
「嘘ばっかり」
彼女は言って笑う。その笑みはどこまでも透明で、無垢だった。これから、そんな彼女を穢してしまおうというのだから、まったくぼくは悪い男で、最低なのだけれど。
「ね、思絃くんはさ、猫耳に通ってるんだよね」
「うん」
誤解をないように注釈を入れるけれど、ここでいう『猫耳に通ってる』という言葉が指し示すのは、ぼくがいかがわしい風俗店の類に通っている、という意味ではまったくない。ぼくの通う中学校——私立新神海岬学園は、なんの意図があってのことなのかやたらと多用される英語表記と、獅子という概念を冒涜しているとしか思えない前衛的な校章から、世間では曰くにして『猫耳学園』と呼ばれている、と、ただそれだけの話であって、断じてぼくが猫耳をつけたうら若き子女と戯れることを趣味としているわけではない。
「いいな。私も猫耳、受験したんだけど、失敗しちゃって」
「きみが? 信じられないな」
「私、数学が全然ダメなんだ」
彼女は恥ずかしそうに笑った。確かに、うちの学校の数学のレベルは高いが、それにしたって意外な話だ。
「私、本をたくさん読んでるから引き出しが多いだけで……地頭っていうのかな。元々の脳みその能力は、そんなに高くないんだと思う」
「……誰かに、何かを言われた?」
ぼくが問えば、彼女はびっくりしたように目を見開いた。
「……最近、お母さんにね。思絃くんのことを話したの」
「ぼくのことを?」
「名前は言ってないけど、猫耳の子と友達になった、って。そしたら……」
——あなたは頭が良くないんだから、その子に勉強させてもらいなさい。
と。
そんな風に、彼女は言われたのだという。
「……酷い話だ」
窓の外を見る。
母親……か。
「きみの家って、左京図書館のすぐ近くだったよな」
「ん、そうだけど、それが?」
「いや」
ただ、そこに思いを馳せる。家がすぐ近くにあって、それでも——本を借りて帰らずに、図書館に居座り続けていた彼女のことを。
今日。
差し出したぼくの手を取ってくれた、彼女のことを。
「悪いけれど」
ぼくは言う。
「ぼくは今日、きみに勉強なんてさせるつもりはまったくない」
そうだ。
ぼくは。
ぼくは彼女を堕とすためにこそ、今日この日、彼女をデートに誘ったのだから。
無垢に侵され、毒を知らぬ彼女を、毒するがために。
ぼくは彼女に、手を差し伸べた。
「ついたよ」
停車したのは、二条駅前。左京図書館からは少し離れて、けれど離れすぎてはいない。そんな距離。
近場には二条城があって、観光地でもあるけれど、しかし今日向かうのは、そこじゃない。
「……ここって」
「そ、映画館」
商業ビルの上階にある、映画館。そここそが今回の『デート』の目的地。
「来たことある?」
「実は……初めて」
恥ずかしそうに、彼女は言う。そうだろうな、とぼくは思った。実写化された小説の話を振ってみたことがあったりもしたけれど、帰ってきたのはあくまでも『小説』としてのトークだけで、映画なんかの話が返ってきたことは一度もなかった。
「映画ってさ、学生は割引が効くし、複数人でも見に来やすい」
何より——映画には話題性がある。『あのテレビ番組、見た?』ならば、話題が持つのは長くても一週間だが、映画の話ならば一ヶ月は持つ。
「ここならバスですぐ来れるし、『図書館に行く』って言っちゃえば、そうそうバレないだろう」
に、と笑っていえば、彼女は意図を察したのか、大きく頷く。
「今日は、どれを見る?」
「思絃くんの、おすすめは?」
「ぼくは、そうだな……」
話題性があり、面白く、また彼女向け……ちょうど、先月公開されたばかりの映画がある。小説が原作で、けれど原作から大きな改変があって、意外なことに、それが好意的に受け入れられている。その変更を受け入れられるかどうか。その意見を、彼女に聞いてみたかった。
「これなんかどうかな」
ぼくが壁に貼られたポスターを指差せば、彼女は「じゃあそれ、見よう」と言った。
チケットを二枚買って、シアターへ。ちょうど、上映時間がすぐだった。
平日の、妙な時間だからだろう。シアターは空いていて、僕たちはゆったりと座ることができた。
シアターの明かりが落ち、暗くなる。隣から手が伸びて、ぼくはその手を握った。
ブザーが鳴り。
上映が、始まる。
2
偽物の少年少女の物語だった。
少年と少女は仲睦まじく、幼少のみぎり、結婚の約束をする。
けれど少年は些細な事故で死んでしまい、約束は叶わなくなった。
葬式の次の日、少女は少年とよく似た誰かと出会う。他人の空似にしてはできすぎている。思わず呼び止めた彼女は、それが少年のドッペルゲンガーであると知る。
ドッペルゲンガーに出会った人間は、死んでしまう——かつて少年が死んでしまったのは、だからそのドッペルゲンガーと出会ったからなのだと、それ自身の口から真実が語られる。
そして。
「そこから先が、小説と映画の違うところなんだよね」
えるだは嬉しそうに言った。映画は、幸いなことに彼女を楽しませるのに十分以上のクォリティだったようだ。
ショッピングビルの一階。テナントに入っているカフェで、ぼくたちは語り合っていた。
映画中盤、少女とドッペルゲンガーは少しずつ絆を深めていく。どれだけ違うとわかっていても、かつての少年と何もかもが瓜二つなその存在に、少女は否応なく惹かれてしまう。
だが、それでも——
「小説では、ドッペルゲンガーを殺しちゃうんだ」
少年と似たドッペルゲンガー。彼と過ごす日々が、少年との記憶を塗りつぶしてしまうようで。それに耐えられなくなった少女は——ドッペルゲンガーを、殺す。
彼は死んだ。死んで永遠になった。
だから、それが穢されてはならない。
かくて少年は二度死に、少女は二度失う。
「だから、映画での結末は意外だったよな」
ぼくは言った。
映画終盤。
少女は小説版と同じようにドッペルゲンガーに惹かれ——そしてまた、ドッペルゲンガーの側も少女に惹かれ。
ついにドッペルゲンガーは、少女に愛を告げる。
あの時の少年と同じ顔、同じ声、同じ言葉で。
けれどそれでも——少女は彼を少年とは別人として扱う。
心に決めた人がいるから。
そんな言葉と共に、その告白を断って。
少女とドッペルゲンガーは、別々に生きていく。
そんな結末にこそ、映画は変わった。
「私は、映画の結末の方が好きだな」
意外なことに、彼女の感想はそうだった。
「そりゃ、小説のほうが原作だってことはわかってるし、そっちもそっちで好きだけど、それでも映画版のほうが、やっぱり綺麗だと思う」
ちう、とストローでオレンジジュースを啜りながら、彼女はそんなことを言った。
「綺麗、か」
「うん。だってさ、原作だと、ドッペルゲンガーと少年がダブっていって、それを防ぐために殺す、って話だったけど、それってなんだか、どっちにも不誠実じゃない」
「どっちにも?」
「そう、少年にも、ドッペルゲンガーにも」
映画版はその辺りが、綺麗だったと思う。彼女は言う。
「少年のことも、ドッペルゲンガーのことも、そして少女自身の気持ちも、全てが尊重された上でハッピーエンドになってて、それってやっぱり、素敵じゃない?」
評価高いのもわかるなぁ、と彼女は噛み締めるようにしみじみと言った。
「思絃くんは、どっちの結末が好きだった?」
問われて——ぼくは。
「強いて言うなら、どっちも好きじゃない、かな」
「え?」
「だってさ……愛を誓い合った少年が死んだのは——そのドッペルゲンガーのせいなんだろう?」
だったら。
だったら
「復讐……」
「そう。だって、己が愛した人を、理不尽に奪われたんだから」
愛した人のためにも。
殺したやつを、殺さなきゃ、嘘だ。
ぼくはそんな風に、思ってしまった。
「……思絃くんってさ」
「うん」
「もしかして結構、重いヒト?」
彼女に言われて、ぼくは笑う。
「なんだ、今更気付いたの?」
言いながら、ぼくは彼女に視線を合わせる。
「言っとくけど、ぼくは重いぜ。一度好きになったら——一生だ」
だからきみのことも、逃すつもりはない。
言えば。
彼女は顔を真っ赤にした。
「それって、さ」
「返事は」
ぼくは言って、立ち上がる。
「次の場所で、聞かせて欲しい」
3
双同院と言えば、京都は北の隠れた観光名所だ。
北野天満宮ほどではないけれど、庭園の梅が有名で、例年、時期になると夜のライトアップがある。規模が小さいから故だろう。入場料は無料で、学生にとってもありがたい。
「わ、綺麗」
幸いなことに、梅はもう咲き始めだった。去年なんかは同じ時期でもまだ蕾だったようなので少し心配していたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
紅白入り乱れる梅がライトに照らされて、いかにも幽玄な風景だった。北野天満宮よりも、山瀬に近いからだろう。足元はやや不安定だが、しかしそれが一層高低差を生んで、植えられた梅の美しさが際立っている。
手を繋いで、ぼくらは庭園を見て回った。観光客は少なく、まるで世界にぼくら二人だけみたいな、錯覚。
「昔ね」
静寂の中。ぼくはひっそりと語り出した。
「ぼくには、好きな人がいたんだ」
それは静かな告白だった。他の誰にも、ぼくはきっとその話をすることはないだろう。彼女だからこそ……戸運えるだという少女にだからこそ、ぼくはそれを告白しようという気持ちになれた。
「……どんな人だったの?」
彼女はそんな風に問いかけてくれる。
「長い黒髪の、美しい人だった」
彼女のことを思うと。
今も心が締め付けられる。
彼女はぼくの全てだった。
ぼくの世界は彼女でできていて、ぼくの心は彼女のものだった。
だから、そう。
彼女を失ったその時。
ぼくの世界は、壊れたのだ。
「……亡くなった、の?」
「ああ」
彼女は死んだ。
ぼくの目の前で。
「今日」
えるだへと向き直って、ぼくは言う。
「ぼくは彼女を——裏切ろうと思う」
言って。
ぼくは彼女の手を、握り直した。
「……裏切り、じゃ、ないよ」
そっと。
えるだはぼくにそう返した。
「きっとその人も……許してくれると思う」
「そうかな?」
「うん……だって——私だったら、そうだから」
彼女は言って。
その言葉に——ぼくは、迷いを捨てた。
「ありがとう」
「いいよ」
その微笑みが、透き通るように無垢で。
だからぼくは、小さく息を吸う。
「きみのことが好きだ」
ぼくは言った。梅の花の下、彼女に向けて。
「……嬉しい」
彼女は言って——一条の涙をこぼす。
その体を、そっと抱き寄せる。
周りにはもう、誰もいない。
「目を閉じてくれる?」
ぼくが言えば、彼女はこくりと頷いて、目を閉じる。何かを期待するように、彼女は顎を上に向けて——ぼくは彼女の唇に、唇を落とした。
「……私、ちゅーしたの、初めて」
「ぼくもだ」
小さな嘘をついて、ぼくは彼女と見つめ合う。
「……恋人同士、だね」
彼女は顔を赤らめて言った。
「今日は、思絃くんのいろんなこと、教えてくれてありがとう」
はにかむように言って、彼女は。
「お礼に、私の秘密も教えてあげる」
そんな風に言って——どこからか、一冊の本を取り出した。
それは奇妙な本だった。ハードカバー。まるで百科事典のように巨大な本。表紙には彫金の装飾が施されていて。けれどそれが一体どんな構造なのかを、脳が正しく理解することができない。まるで、そう、四次元……否否否、それよりも遥か高次元の構造体を、無理やり三次元空間内に投影したかのような、異常な形状。見ているだけで目が眩み、脳が狂いそうになる。そんな摩訶不思議な本だった。
彼女はその本を片手に、言う。
「私……魔法使いなんだ」
彼女の手から——ふわり、と。瞬くようなプリズムが、散り咲く。
信じがたい光景に、ぼくは目を見開いた。
「いつ、これを手に入れたのかはわからない。でも、でもね、本当。この本のおかげで、私、魔法を使えるようになったんだ」
そして——
「この本は——〈
それでね——
驚くぼくを置いて、彼女は説明を続ける。
「この本を手に入れた人は……ある儀式に参加できるんだって」
「ある儀式?」
「そう。それは——〈断章大戦〉」
曰くにして——六百六十六年に一度。
六百六十六の断章に分たれた〈
他の儀式の参加者を皆殺しにし、六百六十六の断章全てを集め、〈
言って、彼女は視線を俯かせた。
「私……殺し合いなんて、できない」
言って。
彼女は震える手で、魔導書を握りしめた。
「でも、それでもね、私、怖いけど——」
何事かを言いかけた彼女を、ぼくは抱きしめる。
強く、強く。
「思絃くん……?」
そして、唇を。
彼女と唇を、重ねて——
その舌を、噛みちぎる。
「あぇ……?」
血を吐きながら、彼女はその場に膝をつく。だくだくと、溢れかえる血潮を必死に止めようとして、けれど、止まらない。
「ぁ、あんえ……」
何事かを呟いて、ぼくの方へと視線を向けた彼女の頭を、掴み。
そのまま、ひねる。
ごきん——と。
音がなって、半回転。彼女の首は捻じれてはいけない方向へと捻じれて——彼女は絶命した。
「やれやれ……」
言いながら、ぼくはポケットからハンカチを取り出し、彼女の口の中に詰める。これでとりあえず、しばらく血は漏れないだろう……。全くぼくとしたことが、余計なことをしてしまった。舌を噛みちぎるなんて、不必要なことだったのに——唇を捧げた嫌悪感がひどくて、思わず。
噛みちぎった舌を証拠隠滅のためにごくりと飲み込む。血の味がして、不味かった。
「悪いけれど、知っていたよ」
捻った首を元に戻して俯かせ、疲れて寝てしまったかのように偽装する。そんな彼女を——彼女の死体をおぶって、ぼくはそのまま庭園を出る。
「魔導士のことも、魔導書のことも。断章大戦のことも、きみがそうであることも」
だからだ。
メロドラマも顔負けの臭い演技で運命の出会いを演出し、彼女と話を合わせて孤独から救い、そして告白をして、愛を得た。
全ては、彼女を油断させるためだった。
彼女を油断させ、彼女を殺し——その魔導書を奪うための、策だった。
「ハニートラップなんて、ふん。ぼくの柄じゃあないが……ま、彼女が惚れっぽい馬鹿で助かったな」
背にかかる重みがどんどんと熱を失っていくのを感じながら、ぼくは呟く。
なんともまあ、上手くいったものだ。本来ならばもっと……数ヶ月かけて完遂する計画だったのだが、まさか出会って一ヶ月とたたず目標を達成できるとは、驚きだ。最もこれはぼくの手腕が優れていたわけではなくて、ただ単に彼女が外れ値だったというだけのことなのだから、兜の緒を締めておかなきゃいけないけれど。
「それにしても……驚きだったな」
まさか彼女が、自分から魔導書のことについて話し出すとは思ってもいなかった。何かを勘付かれたのかと思って、『魔法』を使われる前に処理したが……しかし上手く使えば駒にできたか? ……いや、無理だろうな。ピンク色の脳みそをした馬鹿一匹、たとえ持っている『魔法』がどれほど有用でも、お荷物にしかならなかっただろう。
やはり——殺すしかなかった。
「あとは死体の処理、か」
事前の準備は一応してある。手早く済ませて、後処理をしよう。
こう言った作業にも慣れておかなければ。
なにせぼくはこれから——六百六十五人の魔導士たちを殺さなくてはならないのだから。
「ああ、そうそう」
ぼくは動かぬ背の死体に向けて、語りかける。
「あの時、嘘を言って悪かったよ」
あの時。
映画の感想を言った時、ぼくは一つの嘘を吐いた。
どっちの結末にも納得できない。
なぜ復讐をしないのか——なんて酷い嘘を、ぼくは吐いた。
「復讐なんてしたって、何にもならない」
犯人を殺したって、死んだ人は蘇らない。
だから本当はあの映画を見て、ぼくはこう思ったんだ。
あの少女はなぜ、最愛の少年が
人は死んだら、それで終わり——なんて。
そんなことは、誰が決めた?
「ドッペルゲンガーなんてものがいるのなら……」
魔法なんてものがあるのなら。
諦める理由には、ならないだろう。
「何を犠牲にしたって、蘇らせてみせるよ」
ぼくは微笑みながら、ここではないどこかで待つ彼女へ向けて、ぼくは語りかける。
それから約、二ヶ月近く後。
ぼくは魔導書との契約を果たし——断章大戦へと足を踏み入れることになる。
4
二月二十一日夜。京都市左京区の左京図書館すぐ近くにある民家が、不審火により全焼した。
中にいた家族、戸運
遺体は炎により損傷が激しく、推定は困難であったが、火事による死亡とされ、事件性はないと判断された。
放火の可能性もあるとされたその火事だが。
犯人の行方は、杳として知れない。