えー、昨今、まことにセカセカと忙しない世の中でございます。皆様、信心というもの、お持ちでございましょうか。
近所に住んでおります熊さん。この男が、まあ、妙に信心深い男でございまして。 朝にパン、夜にパン、いや、朝に三遍、夜に三遍、きっちりお仏壇に手を合わせる。道端のお地蔵さんにも、必ず一礼していく。
そんな熊さんがある晩、くたびれて会社から帰ってまいりました。「あー、疲れた。今日は残業でクタクタだ。早く帰って、一杯やりてえな…」アパートの玄関先で鍵を探しておりますと、
「プチュリ」
「ん?」 足元で、何か、妙な感触が。 そっと足を上げますと、あぁ、こりゃいけない。一匹のナメクジが、哀れな姿に。
「あぁーー! し、しまった! 殺生をしてしまった! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…!」
熊さん、その場にしゃがみ込みまして、涙ながらに手を合わせます。「ナメクジさん、すまねえ。お前さんにも、命があったろうに。俺が、俺がうっかりしていたばかりに…。どうぞ、極楽浄土へ行って、安らかに…」
家に入りますと、仏壇から、使いかけで余っておりました線香を一本、すうっと持ってまいります。 「ちょうどいい。これでお前さんを供養してやろう」 例の「プチュリ」の横に、線香を立てまして、チーンと手を合わせる。
「南無阿弥陀仏…」
言い終わらないうちに、その線香の煙が、ふわりとナメクジの亡骸を包んだかと思うと、小さな、小さな光の玉が、天に昇っていくじゃありませんか。「お、おお…」その光の玉、昇りながら熊さんに向かって、ぺこり、ぺこりと会釈をしているように見えた。 「あぁ、極楽へ行かれたか。よかった、よかった…」熊さん、すっかりいい事をした気分で、その晩はぐっすりと眠りました。
ところが、大変なのは次の晩からで。
夜中、うとうとしておりますと、枕元で何やら、か細い声が。「うぅ…うぅ…、旦那様、旦那様…」「んあ? 誰だ、こんな夜中に」 目をこすって見ますと、痩せぎすで、妙にイライラした様子の女が、布団の周りをせわしなく飛び回るような仕草をしております。
「あのう、どちら様で?」「私、覚えていらっしゃいませんか。去年の夏、八月の半ば、あなたが縁側で昼寝をなさっていた時…」「あ?」「私が、旦那様の腕に止まって、ほんの少し、血をいただこうとしたところ…」「おお」 「パァン!! と!」「えっ」「見事な平手打ち! 私、血も吸いきれないうちに、洋服のシミになりました!」「ま、まさか…お前さん…」「はい! 蚊でございます!」「か、蚊!?」「聞きましたよ! ナメクジは線香一本、お経付きで極楽行きだそうじゃありませんか! 私なんか『チクショー、かゆい!』の一言で叩き殺されて、それっきり! ひどい! 差別だ! 私も供養してください! うぅ~ん…」
と羽音のようにわめいて飛び回ります「わ、わかった! わかったから! 騒ぐな、騒ぐな!」
熊さん、慌てて飛び起きて、線香を一本。 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」「あぁ、やっと…これで…」 蚊の幽霊は、満足そうに消えていきました。
「やれやれ、とんだことになっちまった…」 熊さん、次の晩は恐ろしくて眠れない。案の定、夜更けになりますと、今度は台所の方で、ガサゴソ、ガサゴソ…
見ますと、黒いスーツを着て、妙にテカテカした、やたらとすばしっこい男が立っております。 「よぉ、旦那。やってるねぇ、供養サービス」「だ、誰だお前は!」「俺だよ、俺。先月、冷蔵庫の裏でアンタに『出たぁ!』って叫ばれながら、殺虫剤浴びせられた…」「あ! ゴ、ゴキブリ!」「おうよ! ナメクジだぁ? 蚊だぁ? あんな軟弱な連中が極楽なら、俺なんざ大往生だ! なぁ、頼むよ、旦那! 俺にも一本、景気よく焚いてくれや!」「うう…わ、わかった…南無阿弥陀仏…」
それからというもの、熊さんの家には、毎晩のように「供養待ち」の行列ができるようになっちまいました。
ある晩は、「私、あなたが赤ん坊の頃、うっかり飲み込んだ『おはじき』でございます…」「お前、生きてねえじゃねえか!」「消化されなかった恨みが…」
またある晩は「あの…熊さん…覚えてますか…私、小学一年生の時の…」 ひょろりとした、青白い顔の子供が立っている。「だ、誰だい、坊や」 「夏休み…あなたは、私に、水をくれるのを忘れて…私、カラカラに…」「ま、まさか…お前…」「朝顔でございます…」「植物まで来たか!!」
熊さん、もうヘトヘトでございます。 毎晩、線香を焚き続け、お経を唱え続け。目の下には真っ黒なクマ。 「こりゃあ、祟り殺される前に、俺が過労死しちまう…。あぁ、でも、さすがに植物まで供養したんだ。もう、化けて出るヤツもいねえだろう…」
そう思って、朝顔の供養を終えた熊さんが、ふと窓の外を見ますと…
「うわぁぁぁぁぁっ!」
アパートの周り、道という道、電信柱のてっぺんまで、もう、おびただしい数の、小さな、小さな、半透明の幽霊が、びっしりと! その数、何万、いや、何億か。
熊さん、腰を抜かしながら、這うようにして窓を開け、 「お、お、お前たちは、一体、何もんだい!?」
すると、その無数の幽霊たちが、まるで風の音のように、さわさわと、一斉にこう答えたそうでございます。
「「「私どもは…」」」
「お、おう」
「「「貴方様が、今まで、手を消毒した時に死んだ、コロナウイルスでございます…」」」
「…一回だけでも、何億とか」 熊さんが呆然とつぶやくと「あ、明日はインフルエンザの連中が来るそうですよ」
熊さん、線香を買いに走る気力もなくなった、という。 おあとがよろしいようで。