/*/ 応急措置と“正式工事” /*/
尾辻が滝の社跡から引き上げた、その晩のことだった。
氷室 英は、自室の机に広げたノートPCの画面を前に、静かに電話をかけていた。
「――はい。ええ、“生活圏安全対策”の案件として」
画面には、県庁サイトの防災ページと、文化財情報の地図。
その横に、阿武隈川流域の治水計画の資料。
さらに、逢瀬学園の“地域連携プロジェクト”の提案書。
「去年の台風で流された小祠の件、まだ復旧計画が棚上げですよね。
地元の学校としても、早めに“形”を戻しておきたいんです」
穏やかな声。けれど、言葉の選び方は妙に手慣れている。
「――ええ。“歴史的景観”と、“住民の安心感”の観点から。
はい、もちろん。費用の一部は、うちの学校側の地域貢献枠で持ちますので」
少しの沈黙。
「……助かります。では、具体案をまとめてメールしますね」
通話を切ると同時に、英は小さく息を吐いた。
(県の防災と、文化財と、観光課と。
仲が良いのか悪いのか分からない縦割りの人たちを、
“地域連携”という言葉でひとまとめにして――)
「やれやれ」
眼鏡のブリッジを押し上げる。
(こっちの“水門”は、とりあえず押さえた。
問題は、向こう側の“水門”の方だ)
/*/ 仮封の修正 /*/
数日後の放課後。
再び尾辻が滝に降り立った英は、社跡の基礎の前でしゃがみ込んでいた。
石の上には、惣一郎が描いた
雨に少し流され、所々がかすれてはいるが、輪郭は保たれていた。
「……頑張ったな、ほんとに」
ぽつりと呟いて、チョークを取り出す。
まず、かすれた線をなぞり直す。
それから、星形の端を少しだけ伸ばし、
枝分かれしている線の一部を、基礎の紋様に噛み合わせるように、微妙に描き換える。
「“ここから先は通行止めです”じゃなくて――」
英は、基礎の三つ円の刻印を指先でなぞった。
「“ここが境界線です。行き来したかったら、ちゃんと窓口を通ってね”」
線が繋がった瞬間、
足下の《エルダーサイン》が、ふっと淡く光った。
さっきより、少しだけ長く。
石の中まで染み込んでいくような、静かな光。
「……よし。これで“張りぼて”から“補強済み張りぼて”くらいには」
英は立ち上がり、基礎の周囲を一周する。
滝の音は、今日は静かだ。
水面に、黒い渦の影は見えない。
それでも、油断しない。
「で、本命はこっち」
/*/ 流された祠を“戻す” /*/
尾辻が滝から少し下流。
川の中央に、小さな中州がある。
以前、そこには木造の小さな祠が乗っていた――はずだった。
台風の濁流で、祠も台座もまとめて流され、
今は石がいくつか転がっているだけだ。
そこに、簡易の足場と、小さなクレーン。
川岸には「関係者以外立ち入り禁止」の表示。
そして、中州の上には、ヘルメットをかぶった作業員と、
スーツ姿の役所の人間数名。
「――こちら、逢瀬学園からのボランティアの皆さんです」
案内役の職員が言うと、ヘルメットの一人が振り向いた。
「おお、氷室くんか。理事長先生から伺ってますよ」
顔馴染みらしい。
地域イベントで顔を合わせることも多い、県の防災担当だ。
「今日はあくまで“復旧作業のお手伝い”って形でね。
君は図面の確認と、位置決めのアドバイスだけで」
「はい。“昔と同じ場所に戻す”っていうのが大事なので」
英は、濡れてもいい作業靴に履き替え、中州へ渡る。
足下に、川の流れがざぶざぶと音を立てる。
水深は浅いが、油断すると足を取られそうな速さだ。
中州に積み上げられた、古い石の台座。
そのうちの一部には、かすかな刻印が残っている。
「……やっぱり、ここが“支え”なんですよね」
英は、石の向きを一つ一つ確かめながら、
図面と照らし合わせる。
「台風前の写真と、古い絵葉書と、
江戸時代の古地図と、近代の測量図と……」
資料フォルダから印刷した紙を取り出して、作業員に見せる。
「ここ数百年、祠自体の形は変わっても、
“ここに立っている”っていう事実だけは一度も動いてないんです。
だから、できるだけ近い形で“元の位置”に戻したい」
「はは、こだわるねぇ」
作業員は笑ったが、
石を据え直す手つきは丁寧だ。
基礎が組み上がっていく。
昔と同じ高さ、ほぼ同じ向き。
上から、新しい木の祠がゆっくりと降ろされる。
真新しい木肌。
けれど、形は、古い写真を元にした“復刻版”だ。
「――おお」
川岸から、小さな拍手が起きた。
地元の自治会長や、観光協会の人たち。
そして、逢瀬学園から来たボランティア数名(茶髪の女子と、筋肉質の男子と、
なぜか作業中でもゲーム談義をしている伊東 惣一郎の姿もある)。
「おー、立った立った。
文明の利器と人力のコラボ、いいじゃん」
「お前、真面目に撮影係やれ」
川岸でビデオカメラを構えながら、惣一郎がぼやいている。
隣では青見が、しっかり三脚を押さえている。
「“地域連携授業の一環”だからな。
しっかり映像残して、理事長に渡さねぇと」
「どうせ広報動画のネタにされる未来しか見えない」
「もう慣れただろ」
そんなやり取りをしている間に、
英は、中州の祠の前に立っていた。
「――さて」
作業員たちが一歩下がったのを確認して、
英は、祠の足元、石の台座と川面の境目にしゃがみ込んだ。
誰にも見えないような角度で、
石と石の隙間に、細い線を一本だけ描く。
チョークではない。
小さな金属のペン先から、透明なインクが染み出していく。
細い枝がいくつも分かれ、
星のような輪郭を作る。
けれど、さっき尾辻が滝の基礎に描いたものとは、
配置も、線の流れも、少し違う。
「ここは、“押さえ”でいい」
英は、小さく呟いた。
「上流の“水門”がちゃんと締まり直すまで、
ここで余分な圧を受け止めて、流れを散らす役」
描き終えた瞬間――
川面が、ほんの一瞬だけ、静かになった気がした。
水音が、半拍遅れて戻ってくる。
透明なインクは、すぐに石に染み込み、
目には見えなくなった。
「よし」
英は立ち上がり、祠の屋根を見上げた。
新しい木の匂い。
軒に吊された、まだ白い紙のしめ飾り。
その向こうを、阿武隈川の空が流れていく。
「氷室くーん!」
川岸から、惣一郎が手を振る。
「記念撮影だってよ! “復旧作業ありがとうございましたー”ってやつ!」
「はーい、今行きます」
軽く返事をしてから、英は祠に向かって小さく頭を下げた。
「――しばらくの間、よろしくお願いします」
それは、誰に向けた言葉か、本人にも分からなかった。
祠に宿る何かか。
この川の流れそのものか。
あるいは、ここに通ってきた人たちの記憶か。
ただ一つだけ言えるのは。
流されて失われた“形”が、
もう一度この場所に立ったことで――
尾辻が滝のあたりを漂っていた、
目に見えない“のりしろ”のいくつかが、
少しだけ元の位置に戻ってきた、ということだった。
/*/ 小さな安定 /*/
「どうです? 先生方の前では“ちゃんと真面目にやってました感”出ました?」
川岸での記念撮影のあと、
学校のマイクロバスに乗り込む前に、惣一郎が英に小声で聞いた。
「はい。“地域貢献ポイント”は稼げたと思います」
英は苦笑する。
「これで、“社の復旧工事を早めに”って言い出したときの理事長の顔も、
少しは立つでしょうし」
「お前も大概、大人を転がすのうまくなったよな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
英は、ふと阿武隈川の方を振り返った。
中州の上の、小さな祠。
その足元を撫でるように、川面がきらきらと光っている。
あの日のような、黒い渦は見えない。
水の音は、ただの水の音として、耳に届いていた。
(“一旦、落ち着いた”)
それが、今日の作業の結論だ。
完全に終わったわけじゃない。
上流の“水門”は、まだ傷んだまま。
新しい社が立つまで、補強した仮封と、下流の祠の押さえで持たせるしかない。
それでも――
「前より、だいぶマシにはなりましたよ」
「川の機嫌の話か?」
「それもあります」
英は、ほんの少しだけ、眼鏡の奥で目を細めた。
「人の機嫌も、ね」
地元の人たちが「元通りになって良かった」と笑っていたこと。
自治会長が「やっぱり、あそこに祠がないと落ち着かねぇな」とこぼしていたこと。
そういう“気配”もまた、
この川の“縁”を、静かに落ち着かせる力になる。
「じゃ、あとは?」
惣一郎が、片眉を上げる。
「阿武隈ライン沿いで、まだ“変なスポット”残ってるとこ、
いくつかあるんだろ?」
「……そうですね」
英は、マイクロバスに乗り込みながら、
阿武隈川の地図を頭の中で思い浮かべた。
「少しずつ、“縁”から整えていきましょう。
どうせまた、東くんたちが首を突っ込む前に」
「それ、フラグって言うんだよ」
惣一郎のツッコミと、
小さな祠のある中州をかすめる風の音が、
同じくらい軽く聞こえた。
阿武隈川の流れは――
その日だけは、終始おだやかに見えた。
/*/ エピローグ 阿武隈は、こちら側でも流れている /*/
逢瀬学園の世界では――
尾辻が滝の“水門”は仮とはいえ締め直され、
流された祠は中州に戻され、
阿武隈川に沿ってぽつぽつと増えつつあった小さな異変も、
やがては川の底に沈んで、静かに薄れていくだろう。
東 青見や安達 彩女や、氷室 英たちが、
「今日は平和だったな」と笑って下校できるくらいには。
――けれど、読者であるあなたの世界では。
現実の阿武隈川を流れた台風の雨は、
ニュースの中で「護岸の損壊」として数行で語られ、
尾辻ヶ滝のほとりにあった、小さな祠は
いまもなお「流されたまま」かもしれない。
かつて誰かが手を合わせ、
旅人が通りすがりに一礼した小さな屋根が、
いま、その場所に“戻っている”のかどうか。
それは、この物語の登場人物たちにも、
そして作者にも、確かなことは言えない。
阿武隈川は、あなたがこのページを閉じたあとも、
変わらず流れ続けている。
もし、いつか気が向いたなら――
本や地図や、インターネットの写真でもいいし、
もちろん、実際に足を運ぶことがあればなおさらだけれど、
どうか安全に気をつけたうえで、そっと確かめてみてほしい。
尾辻が滝の水音のそばに、祠は戻っているのか。
それとも、まだ、どこかで流されたままなのか。
逢瀬学園の世界では、阿武隈川の怪異は、
きっと少しずつ鎮まっていく。
しかし、あなたの世界の阿武隈川で、
何が起きているのか――それを知るのは、
画面の向こう側にいる、あなただけなのだから。
ちなみにネタ元の祠は2019年の台風で流されて復旧されておりません。