またしても何も知らない桐藤ナギサさん(17)と愛が重い侍従長の話

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ナギサと侍従長

 既に日が落ち、学園は昼の騒がしさが嘘のように静まり返っている。

 夜の校舎は既に照明を落とされており、廊下や教室は暗くある。だが、その暗い廊下を手ランタンを頼りに歩く生徒が二人存在した。

 

 一人は細長い白い杖を持ちながら、片方の手にアンティークなランタンを持ち先導する。腰には鍵の束を携え、歩くたびにシャラシャラと音をたてた。

 その少し後ろを歩くもう一人は、白い制服に身を包み、大きなファイルを持ちながら粛々とその後ろを歩いていた。しかし、その目は疲れが滲んでおり、目の下には薄っすらと隈が出来ていた。

 

 杖を持った少女が、とある部屋の前で立ち止まり、腰の鍵をその扉に差し込んだ。

 鍵を回し、かちりと静かに音がした扉を、杖を持った少女がそっと開けた。

 大きな扉は良く整備されており、軋む音もなく開いた。少女が杖とランタンを置いて電灯のスイッチを操作すると、暗い部屋が明るく照らし出された。

 

 そこは大きな書斎だった。ライブラリルーム、とでも呼ぶその部屋は、蔵書のほとんどがトリニティ関連の歴史書や法律書、議事録や記録、様々な分野の抄録で埋まっていた。

 

 トリニティ総合学園の、さらにティーパーティーの庁舎の一室。

 歴代首長が代々使用してきた執務室はすべてが古く、そして重厚な雰囲気を漂わせる。調度品一つとっても、新しいもので四半世紀前というものが当たり前に存在するくらいには、ここは古く歴史のある場所だった。

 

 二人はそんな部屋に入り、一人は周りの準備を行い、一人は部屋の窓際に置かれた大きな執務机と重厚な椅子に腰かけた。

 

「……お疲れ様でした、チカさん」

 

 そう言って、頭に花飾りを付けた生徒―――桐藤ナギサは椅子に深く腰掛けながら、その言葉に強い疲労を滲ませつつも、もう一人の少女――――侍従長、赤城チカを労った。

 

「いえ、ナギサ様もお疲れ様です。お疲れでしょう、すぐに紅茶を淹れますね」

 

 チカさん、と呼ばれた少女は、ナギサの言葉に返事をしながら、併設されたパントリーへ行き、慣れた手つきでティーポットでお湯を沸かし始めた。

 

 火にかけた薬缶に水銀温度計を差し込み、茶葉の良さを最大限に引き出すように丁寧に、かつ練達された手つきで火を調整する。鼻歌を歌いながら紅茶を用意する彼女は、まるで長年仕えた使用人のようにも――実際そう勘違いされることもあるが――見えるだろう。

 だが、ティーパーティー幹部にしか着用を許されない白制服を纏い、そしてティーパーティーのバッチを胸に戴くその姿を見れば、トリニティの生徒なら誰しも彼女を使用人やメイド、ましてや執事(バトラー)などと思うことは無いだろう。

 

 

 「侍従長」

 それはトリニティ総合学園設立時から存在する役職であり、古くは首長の身の回りの世話から秘書の役割、果ては参謀として政治まで動かしていたという歴史ある役職。今は名前だけが残っているものの、ティーパーティーホストの補佐官という役割と、首長の傍で仕えるという使命は今もなお受け継がれている。

 

「ナギサ様、紅茶をお入れしました」

 

 執務机の椅子に座るナギサの顔には、疲れが滲み出ている。

 だがそれでも、その目は鋭く手元の資料を見つめている。集中しているのか、ナギサはチカの声に反応を示さない。

 

「ナギサ様」

 

 少女が少し大きめに声をかけた。

 

「……あ、ごめんなさい、少し集中が」

「休憩にしましょう、ナギサ様。……少し根を詰めすぎですよ」

 

 カップをナギサの執務机に置いて、チカはナギサの机から少し離れたとこにある秘書用の席に座った。

 しばらくの無言の時間。二人は何も言わずに紅茶を口にした。

 

「おいしいですね」ナギサは紅茶を一口飲んで言う。

 

「いつもありがとうございます」

「いきなりどうしたのですか? これくらいなんとも」

「それでも……紅茶を淹れるのは貴方の仕事ではないのに」

 

 ナギサは心配そうにチカを見つめた。だがチカは静かに首を横に振る。

 

「いいえ、確かに私の仕事ではありませんが……ですがナギサ様の方がもっと大変で、重要な仕事をされていると思います。この程度なんとも思いません」

「そうでしょうか」

「そうですよ。それに今日だって、朝からずっと働きっぱなしです。会議に調整の為の顔合わせに各部署へのネゴに……偶にはこんな時間があってもいいではないですか」

 

 チカはそう言いながらほっとしたように背もたれに体を預けた。

 

「それに、最近の業務の多さは流石に身に応えるでしょうに」

「そうでしょうか……私にとっては、判断することよりも、そのための情報を整理し、そして調整を行う貴方の方が遥かに大変だと思いますよ。私はただ、やれと命じているに過ぎない」

「……そう言えるのはキヴォトス中でもナギサ様だけですって」

「いいえ」

 

 ナギサはティーカップを置いて、チカの方へ向き合う。

 

「貴方の献身は私が一番良く知っています。私がこうして仕事が出来ているのも、貴方のおかげなのです。誰より準備し、誰よりも努力している貴方を知っている」

 

 だから、私よりもえらいんです。そう微笑むナギサに、チカもやれやれといった様子で肩を竦めた。

 

「その言葉、そっくりそのままナギサ様にお返ししますよ」

「ふふふ」

 

 心底愉快だという風に笑う少女は、しかし何処か寂しげでもあった。

 

「そうやって冗談を言ってくれるのも、もう侍従長のチカさんとミカさんぐらいです」

「……肩書は、嫌でもそういうしがらみをもたらしますよ」

 

 ティーパーティー。

 それは、かつて派閥が乱立して荒れていたトリニティで、各派閥の代表者が集まり、統一への道を開いたとされるお茶会を発端とする由緒ある組織。

 嘗ては本当にティーパーティーを開き、様々な物事を決めていたというが、いつしか話し合いの場は庭園ではなく会議室、交友を深めていた雑談は、派閥同士のトラッシュトークじみた言葉の応報となって久しい。

 

「えぇ、わかっていますよ。ですがそれでも……いえ、辞めておきましょう」

 

 そんなことは、年端もいかぬ少女たちが身に染みてわかること、わからされることだ。

 沈黙は品性。それを体現するかの如く、ナギサは静かに言葉を飲み込む。

 

 

 ナギサにも友達や、幼馴染がいた。だけどその友人も、幼馴染でさえ、ティーパーティーホストという役職故に今は疎遠になっている。

 それは畏怖だったり、あるいは嫉妬だったり、もしかしたら敵意も混ざっているのかもしれない。

 

「ナギサ様」

 

 だから、ナギサにとって侍従長とは唯一、心のよりどころとなる存在なのだ。

 

「抱え込んでいては余計に疲れます」

「それでもやらなければならないことは待ってはくれません……感傷や孤独は、不要です」

 

 朝から夜まで仕事に追われる二人は、文字通り生徒が登校する時間には既に準備を整え会議に望み、生徒たちが帰り着く時間には、二人は明日の準備(時間外労働)を行うという、文字通り激務をこなしている。

 でも、ナギサはまだ齢17の少女である。遊んだり、趣味に打ち込むことだって必要だろう。

 

「でも」それを知っているからこそ、侍従であるチカは語り掛ける。

 

「その生き方は危ういですよ。この生活を続ければ、いずれ体を壊します。ご自愛ください」

 

 ナギサは優秀ではあるが、その優秀さの裏には文字通り血の滲む準備と努力をしていることを、生徒のほとんどは知らない。 

 唯一、侍従長として、最側近でナギサを見ているチカだけが、その少女の本当の姿を知っている。

 

「ありがとうございます、チカさん」

 

 しかし、とナギサは言葉を続ける。

 

「それを承知で、このティーパーティー・ホストという座を引き受けたのです……自らの意思で背負った以上、私はそれを身をもって完遂しなければならない」

「……はぁ、貴方はそういう人でしたね」

 

 チカはその返答を予想していたのか、ナギサの声に諦めたように溜息を付いた。

 

「ならば、私は侍従長の職責と伝統に従い、その道を共に行くのみです。我が主よ(ユア・マジェスティ)

「随分と古風ですね」

 

 ナギサは苦笑しつつも、チカから目を逸らさない。

 

「……ついてきてくれるのですね」

「もちろん。そうでなければここにはいません」

 

 真剣な声で訪ねるナギサに、チカはその目をまっすぐ見つめて答える。その言葉は、重い意味を持っている。

 何があってもついていく。侍従はそういう者であるのだから。

 

「では、仕事をしましょう」

「えぇ」

 

 ナギサの言葉にチカは短く答えた。

 

 ティーパーティー。

 そのホストと侍従長。その関係は何百年もの間受け継がれてきた関係。

 

 決断し、全てを背負う学園首班たるティーパーティー・ホスト「桐藤ナギサ」。

 その人を命を守り、その傍で支え続ける従者、ロード・チェンバレン「赤城チカ」。

 

 二人は未だ眠らず、そして学園の未来をどこまでも見据えている。 

 トリニティはまだ眠らない。

 

 

 

 ****

 

 

 

 

 常に優雅であれ。

 

 

 貴族や高貴な身分が社会を構成していた時代、トリニティが誇りとして掲げていたその言葉は、規範として長く語り継がれていた。

 それは所作一つとっても、優雅で美しく、そして人々を率いる淑女としての誇りを端的に示す言葉で”あった”。

 

 それは生徒会組織であるティーパーティーも同じだ。

 嘗て戦乱の絶えなかったトリニティで、各派閥の代表者たちがティーパーティーを開くことで、血を流すことなく、話し合いで統一を果たしたという歴史。「名誉ある統一」とまで呼ばれた学園の興りは、今やティーパーティーという名前がその事実を静かに語るのみとなった。

 

 貴族の血筋と伝統を色濃く残すトリニティは、しかし今の時代の流れに逆らうことは出来なかったのだ。

 

 今のティーパーティーは、一日の大半を仕事や事務処理に追われ、そして生徒たちが放課後に遊びに出かけ、ぼちぼちと家路に帰り着く頃、早い生徒であれば既に家か寮で自由な時間を過ごしているそのころに、ようやく一日の仕事が終わる。

 そこにティーパーティーを開く余裕はなく、最早名前だけが残るだけの生徒会組織となった。

 

 今のトリニティでは「ティーパーティー」や「常に優雅であれ」という言葉は形骸化し、その言葉を残すだけとなって久しい。

 

 

 

 

 夜も半ば、深夜と差し支えない時間に差し掛かろうとしている中、校舎の一室はまだ明かりがついていた。

 その明かりがついた部屋で、カリカリとペンを走らせ、また書類を見て箱へ放り込んでいく生徒がいた。

 言葉のない部屋は、防音、防弾、その他さまざまな機能を仕込まれているそこは、ティーパーティーの首長の為の執務室。

 

 そこで二人、純白の制服に身を包んだ生徒が机に向かいながら、未だ終わらぬ書類と格闘していた。

 

「うんッ……! ふぅ、疲れた……」

 

 その部屋にある執務机で、赤城チカは背を伸ばした。

 疲労と眠気を感じながら、執務机の上に溜まった書類を捌いていた。

 

 机の上に置かれた書類の山は、学園の運営に必要な申請や嘆願、或いは報告書や議事録の類も含まれる。

 それはうずたかく積まれていたが、チカの手により、この数刻で三つの山に分けられていた。

 一つは内容に不備もなく、ナギサ様の決裁を待つばかりの書類。これは通常の業務で処理が出来るもの。

 もう一つは不備――誤字脱字や数量間違い、或いは申請先がそもそもここじゃない――といった差し戻し書類。

 そして最後にくだらない嘆願書やら派閥の有力者のどうでもいい申請書、お気持ち表明の手紙とかの類。

 ―――いわば、ごみ。

 分量としては前者から順に2対3対5ぐらいとなる。

 

 本来であれば、ナギサの元に来る前に選別されるべきだけど、しかしナギサは優しすぎたのだ。

 慈愛に満ちて、全てを受け入れる。ナギサは助けを求めてきた生徒を誰一人見捨てはしない。

 そして、それをこなせる程度には、ナギサは優秀であり、皆の信頼を勝ち取っていたから。

 

「これで、全部片付いたし……明日に回そう」

 

 チカは捌き切った書類を、自分の斜め前に位置する我が主――桐藤ナギサの机に持っていく。これで片付けなければならない書類の山は最後である。

 

「ナギサ様、これで最後の書類ですので、本日は切り上げて……ナギサ様?」

 

 静かな部屋での仕事は、その静けさと疲労も相まってお互いの存在でさえ忘れてしまいそうになる。

 故に、チカは気づくことが出来なかった。

 椅子に深く腰掛け、そして微動だにしない姿。体は完全に脱力し、背凭れに埋もれるようにもたれかかっている。

 そして生徒の象徴たるヘイローは、消えていた。

 

「ナギサ様!」

 

 一気に疲労が吹き飛んだ。チカは素早く駆け寄るも、一瞬で様々な想像が頭をよぎる。

 

 チカの頭に浮かび上がったのは、エコノミークラス症候群という病名。

 同じ姿勢を続けることで、足に血栓ができ、それが肺静脈を塞ぐことで起きる疾患。初期症状では呼吸困難や失神を生じ、最悪――死に至る。

 

「そんな、ナギサ、さま」

 

 ナギサの隣で、しかしチカは努めて冷静に呼吸と脈を確認する。ナギサの細い手首に触れる。

 

 弱弱しいながらも、トク、トクと脈があるのを認めた。

 ナギサの顔に耳を近づける。小さな呼吸音が聞こえ、胸をよく観察すれば僅かに動いている。

 

 

 あぁ、大丈夫。

 

 生きている。

 

 

「……はぁ」

 

 

 溜息と共に、安堵の感情と、ひどい疲れを自覚した。チカはその場にもたれかかるように座り込んだ。

 そう呟くも、目の前の主はそんなことを知らぬとばかりに眠りについている。

 よく見れば、化粧の裏に少し濃くなった隈があり、普段一緒に仕事をしているチカは、その心労やストレスも容易に想像できた。

 

「……だから、無理をしすぎなんですよ、ナギサ様」

 

 それでも、この主は、優しすぎるから。

 こうして毎日仕事を片付けてしまう。夜遅くまで、自らの命を削ってでも。

 

「失礼しますよ」

 

 チカは腰から手を回し、ナギサの細い体を持ち上げる。

 眠りから目覚めないお姫様は、すやすやと寝息をたてたままだ。

 

「うぅ……うん」

「ナギサ様、少し、動かしますね」

「う……ん?」

 

 驚くほどに軽い体。こうしてみれば本当に17歳の少女なのだということを嫌でも感じ取れる。

 それが意味するのは、年齢に似つかわしくない責任を背負ってしまった人。

 

 それでも、そうあり続けようとした強さを持った人だということ。

 

 チカはナギサをお姫様抱っこしながら移動する。

 この公邸は、執務以外にもここで生活できるような設備がほぼすべて揃っている。それもそのはず、基本的にティーパーティーに限らず、何処の学校でも生徒会というのは激務なのものである。

 例にも漏れず、ここにも執務室の隣の部屋に当たり前のように寝室が設けられていた。

 器用に抱きかかえながら、その寝室の扉を開け、暗い部屋の中を進む。

 部屋にある少し大きめのベットの上に、ナギサをそっと寝かせる。

 

 乱れた髪と、無防備な体がそこに横たわる。

 

「……」

 

 それは深い信頼が無ければ晒すことなどできない姿だろう。ここはそういう場所だ。居眠りなどしようものなら、この様々な思惑と金が入り乱れる政治の世界を生き抜くことなど到底できない。

 

「ナギサ様、聞こえてないと思いますけど……少し触りますね」

 

 制服というのは、自らの所属を表すと同時に生徒を飾り、誇りや権威を示すものでもある。特に、ティーパーティーの生徒ともなれば、一般生徒のそれとは比べ物にならないくらいに高級かつ丁寧に仕上げられた特別な制服を与えられる。

 そこに在るのは伝統と誇り。決して粗雑に扱っていいものではない。

 

 制服には、その人がどんな人であるか、アイデンティティや役割でさえ刻まれるのだ。

 

 制服は銃と同じくらい、この学生都市では重要なもの。だからチカはナギサの制服を皺が付かないように丁寧にそれを脱がせた。

 

 基本的に、ティーパーティーの生徒は専用の白制服を纏うのだが、これがまた、首元まで詰襟のシャツがあるため大変息苦しい。

 さらにナギサの場合、ホルスターをつけている為、体の締め付けはかなりしんどいモノだろう。

 

 ナギサが時折苦しそうにしていることを知って居るチカは、眠る主の邪魔をしないように、それを取り除く。

 

「うぅ……う、んッ……」

 

 苦しいのか、或いはうなされているのか。ナギサが小さな声で呻きを上げる。

 

「……ごめんなさい、もう少しです」

 

 ベルトを丁寧に外し、そしてナギサの愛銃を丁寧にサイドのテーブルに置いた。

 明らかに体を締め付けているそれを取っただけでも、かなり呼吸は楽になると思うが、如何せんティーパーティーの制服はそのほかの装飾やら締め付けが多い。

 チカはさらにナギサの胸元のスカーフに手を掛ける。

 

 丈夫な生地がすれるシュルシュルという音を聞きながら、しかし、その手でゆっくりと制服を脱がしていく。

 露わになった胸元のスナップボタンをぷつりぷつりと取れば、やがて制服は前から開くようになる。それをゆっくりと開ければ、中のシャツがあらわになる。

 そのシャツは校則でのど元まで閉めることが決められているから、余計に呼吸が苦しそうだ。チカはそれを苦しくないように慎重に外していく。

 伝統的、とは言うものの、一般生徒のセーラー服のような緩めの服でもいいと思うが、それを言い出せばまたいろんな派閥から文句や抗議が殺到することは目に見えている。

 

 それでも。この場所だけは、一息つけるのを許してほしい。

 

 胸元までボタンを取れば、聖園ミカほどではないが、豊かな胸元が下着越しにはっきりとその形を主張していた。

 

 胸や喉、そして腰回りを含め、体の締め付けるようなものはあらかたとってしまった。

 

「……ナギサ様」

 

 その姿に、ドキリとしなかったと言えば嘘になる。

 

 はだけた胸、深く眠りについて無防備な姿。チカの手で外したとは言え、淑女にはあるまじき姿がそこに在った。

 普段は清楚に、そして高潔な淑女であるナギサと、今の姿のギャップは本当に扇動的で、そして言いようのない劣情を思い起こさせる。

 

「……あぁ、疲れていますね」

 

 言い訳のようにそう口から言葉が零れ落ちた。だけど。

 ベッドに腰掛けながら、その白磁のような白い肌と、そのふくらみをみてしまう。そうしてはいけないと思えば思うほど、感情は相反するように暴れだしていく。

 

「ナギサ、さま」

 

 荒く息が、自分の中の感情が高まっていることを自覚させた。

 手が、体が、心臓が。痛いほどに胸を締め付け、そして己の感情をこれでもかと主張する。理性で抑え続けていたその箍が、今はもう取れてしまいそうだ。

 そっと、ベッドの上に力なく置かれたその手を握り、そして自分の体を、その細く美しい躰の上に重ねる。

 

 花のような、頭のくらくらするほど甘い香りが鼻奥から理性へ直接伝えてくる。とても現実的で、それでいてありえないと思えるようなその感覚が、チカを突き動かす。

 

「ナギサッ、様ッ……!」

 

 今なら。

 今、ナギサの手を押さえつけ、そしてこの手で滅茶苦茶にしてしまうことも出来る。無防備で、無警戒で、それで居てナギサはチカを信頼しているから。

 沸騰した感情が、目の前のナギサという存在を意識して離さない。

 震える手が、その握り締める手が、荒い息すべてがチカを突き動かさんとする。

 

 だが。

 

『命に代えてでも、主を守りなさい』

 

 だが、その唯一残った約束が、彼女の手を止める。

 それはかつて、侍従長という立場を受け継いだ時、先輩から託された掟であり、覚悟。

 

「私は……」 

 

 赤城チカの高ぶる感情は、唯の劣情や欲望だけじゃない。

 

「私は侍従長で、貴方を守護する者、ですから」

 

 誓約。赤城チカは侍従長である理由。

 フィリウス分派代表、桐藤ナギサの実質的な補佐官であり、ティーパーティーの行政官。

 彼女にはもう一つ、何よりも重要な役職がある。

 

 

 それは「侍従長」――またの名を、ロード・チェンバレン。

 

 

 それは、かつて首長の側近として、傍の世話から秘書のような役割まで担っていた伝統のある役職。初期のころは、会計管理者やホストの宰相として実質的にトリニティの内政を担当していたというが、今は他と同じく、名前とかつての権威を象徴する白杖、そして腰につける鍵の束が残るだけとなっている。

 しかし、常に首長の傍に侍り、その職務を助けるという職務は昔から変わることなく受け継がれている。

 だが、侍従長と呼ばれた彼女たちは、言葉しか残らなかった他の伝統や歴史とは異なり、ある一つの約束をずっと受け継ぎ続けていた。

 

『命に代えてでも、主を守りなさい』

 

 それは、常に自らの主である首長の傍に居て、有事の際には最前線で戦い――――そして、自らの命を犠牲にしてでも主を護り続けること。

 歴史と伝統が、最早時代の流れに押し流されるこの世界においても、その主従関係は残り続けていて、そして伝統が形骸化した今でも、侍従長となった彼女たちだけはその職務と精神を連綿と受け継ぎ続けていた。

 

 それは(ナギサ)には言えない秘密。

 

 チカの明かすことのない感情は、侍従長達だけに伝わるたった一つの約束から始まる。

 約束は隠され、そして静かなその言葉が誓約となり、彼女たちを強くする。

 かつてチカの手を引いたナギサは、今やトリニティ全てを率いるリーダーとしてここに立っている。

 

 もっとも輝かしいその人の光に照らされて、チカはここで生きてきた。

 歴史の渦に隠れた侍従たちが受け継いだ、護り続けるという自己犠牲が、チカをここまで連れてきた。

 

 守るべき存在を前にして、決してその信頼を疎かにしてはいけない。その背負った職責だけがチカの心を引き留める。

 そして、チカは静かに頭を近づけ、ナギサの躰に自らの躰を重ねた。

 

「……ナギサ、さま」

 

 小さなその呟きが、静かな部屋でやけに響いた気がした。

 ナギサの匂い、ナギサの肌。そのすべてが今、チカの思い通りになる全能感。だけどそこから進むことは無い。そうであってはならないと、わかっていたから。

 

 体を起こして、名残惜しいその体温の感覚を引きづりながら、再び同じ作業を続ける。

 そのはだけた制服を、チカはゆっくりとナギサから脱がしていく。そしてシャツのボタンを最後まで開けてから、それも眠りを妨げぬようにゆっくりと下着があらわになる。

 少女から、女性へと変化を遂げるその体のライン。

 

「……チカさん」

 

 寝言のように自身の名前を呼ぶ主人。

 

「……ッ! ナギサ、さま」

 

 嬉しい気持ち。夢の中でも私の事を想ってくれるという事実に。

 貴女の中の、私は一体何をしているのでしょう。

 貴女の中に居る私が、とても羨ましくて、そして嫉妬しそうで。

 

 だから、チカは再び、覆いかぶさるように、眠りにつくナギサの胸に顔をうずめた。

 高ぶる感情が、体の火照りはいまだ引かないけれども。

 その温もりだけは本物だった。

 

「……何があっても、貴方の味方ですから」

 

 小さく呟いて、ナギサの頬にチークキスを一つ。

 そしてチカは肌が見えぬようにブランケットを掛けた。

 

 その眠る顔は、最初よりはずっと安らかに見えた。

 どうか、この優しい人が幸せに、今だけでも安らぎの中に居れるように。

 その愛とも呼べないような、複雑でいて熱いその想いを胸に押し込んで。

 

「おやすみなさい、ナギサ様」

 

 少女は内に秘めた言葉を隠したままにそう呟いて、再び立ち上がった。

 

 

 

 ****

 

 

 

 夢を見ていた。

 

『ナギサ様、もしよろしければこちらを』

『ナギサ様!』

『ナギサさんにもこれを見ていただきたく……えぇ、必ずやフィリウスの利益になると思いますわ』

 

 ナギサほどの地位になれば、その甘い蜜だけを吸おうと群がってくる人が必ず出てくる。

 それは、自分たちの利益だったり、もしくは他の派閥を蹴落とす為だったり、影響力を高める為だったり、その理由は様々だ。

 

 だけど、ナギサにとってはそれはただ苦しかった。

 闇のようなその場所で、私は只管に藻掻いていた。苦しい、動けない、それは藻掻くほどに強まり、そして次第に動きが鈍くなっていく。

 

 無意味ゆえに。

 

『桐藤さん』

『ナギサ様!』

『ナギサ様、この案件ですが……』

 

 孤独は辛く、そして目に見えない。

 

『ナギサ様の政治の手腕はとりわけ抜群だと伺いまして、ぜひ我々も……』

『ナギサ様、我々もその翼の末席に加えていただきたく……』

『私も、ナギサ様と同じ気持ちですわ! これからもどうぞよしなに……』

 

 誰も信じることができないわけでもない。でも、誰もかれも信じることはできない。

 政治と、媚と、そして建前が飛び交う世界で仮面を被ることはむしろ常識を超えて必須条件ですらある。

 トリニティ総合学園、そして派閥と、その生徒会たるティーパーティーとはそういう場所だ。

 その暗く濁った感情や、人を思い通りに操ろうと言葉を重ねる人ことは、もはや淑女の嗜み、とでも言えるのだろう。むしろトリニティはそういう言葉でここまで発展してきたようなものだからだ。

 

 経典や教えを解釈し、それを伝え、あるいは押し付け、言い負かして銃弾よりはるかに効率的で、多くの人間を動かすこと。それが出来る者が政治を支配し、そしてティーパーティーという魔境を上り詰めていく。

 

 「ティーパーティー」の本来の意味は、お茶会を通じて親交を深めるなんて表向きの理由じゃない。

 

 お茶会が始まればもう終わっているのだ。その場はただの答え合わせの場、処刑場や法廷に過ぎない。

 どれだけ事前に手を打てたか、どれだけ根回しが出来ていたか。どれだけ相手を分析し、的確な手を打てたか。

 その地味な積み重ねと、詰め将棋のようなネゴ。もはや一人で背負えるものではない。その政治の為には誰かを信じ、報告を信じることが必要だ。そして信頼できる誰かがいなければ、やがてその人は一人で潰れていくだけなのだ。

 だからこそ派閥を作り、グループを作る。女の園はある意味残酷で、過酷な生存競争が繰り広げられる場所だ。

 

 

『ナギサさん』

 

 

 赤城チカ。

 侍従長という歴史ある職に就き、ナギサを支えてくれる彼女。

 

 元は、ナギサが一年の時の元同僚だった。

 その時―――その時はただ政治闘争に明け暮れ、舌が何枚あっても足りないような日々だったのだが―――彼女はそんな損得や利害を考えずに接してくれたただ一人だった。

 

 幼馴染のミカさんとは違う、天才でも、秀才でもない。むしろその本質は普通だ。

 だけど、その普通がありがたかった。

 

『ナギサ様! 私も、もっと頑張りますから!』

 

 だから私は、侍従長に彼女を抜擢した。当然反対もあった。だけどそれも全て政治で黙らせた。

 確かに彼女は普通だ。家の格式も無ければ、成績も抜群に良いわけでもない。だけどそれが全て霞むくらいの普通の感性。

 

 この息苦しい世界は、人がまともに生きるには余りにも暗く、苦しい場所だ。

 

『ナギサ様、休憩しましょう! 仕事は何とでもなりますけど休みは待ってくれないのですよ!』

 

 だけど、チカさんといると息が楽になった。

 チカさんがいたから、一人が寂しくなくなった。

 政治では、お金では、そしてホストという名誉だけでは得られない温かい何かを。

 

 

 

 寒い。これは夢だ。

 トリニティという寂しい場所。いくら名誉や地位を手に入れても、そこには何もなくて。

 だから。

 

『ナギサ様』

 

 ふと、そんな彼女の匂いを感じた。

 彼女の笑顔を、声を感じた。

 その暖かい何かが触れた。

 

 

 ずっとあった苦しさが、急に解放され、暖かさが体を覆った気がした。

 それは何処か懐かしいような、安心するような温もりを感じた。

 

 あぁ、そうだ。

 

 

 

 これはチカさんだ。

 

 

 

 チカさんの持つ献身。己の事など顧みない、そんな深い敬意と忠誠。

 だけどそれだけじゃない、それ以上の温もり。それが寒い夢を温めてくれる。

 

 「チカさん」

 

 そう呟いて、そして微睡の中に落ちていく。

 

 

 

 

 ****

 

 

 

 

 

「……チカさん」 

 

 明るい。

 

 そう自覚して、自身が柔らかいベッドの上に寝ていることに気づいた。

 そしてすぐに感じる、普段と異なる違和感。それは自分が纏っていたはずの制服がないということは直ぐにわかった。

 

 ナギサは体を起こして周りをみれば、テーブルに綺麗に畳まれた自身の制服と、自身の愛銃(ロイヤルブレンド)が置かれていた。

 だがナギサは昨晩からの記憶があいまいだ。肌着のみでベッドに入る事も、そしてブランケットを優しく掛けられていたことも全く覚えてはいない。

 

 だがもし、それを誰かがしてくれたとするのなら。

 このトリニティでそのような事が出来るのはただ一人だけ。それを想えば、不思議と鼓動が早くなることを感覚した。

 

 その答えは思いのほか直ぐに見つけることができた。

 

 部屋の中にはベットのほかに、簡単に話したり、お茶が出来るテーブルとソファがおいてある。

 そこに一人、制服すら脱がずに眠りにつく生徒が一人。

 ナギサはブランケットを羽織りながら、静かに床へ足を下した。

 

 近づいてみれば、彼女のテーブルには書類が積まれており、そのすべてが綺麗に整理されていた。恐らく自分が寝ている間に片付けてくれたのだろう。

 

 静かに寝息をたてながら眠る姿。きめ細かい肌と、若干付いた目元の隈。ここ最近は髪の毛の手入れでさえ満足に出来ない状況が続いていたからか、その髪の毛は少し傷んでいるようにも見える。

 ナギサはその姿を見て、自分の体にかかっていたブランケットを掛けた。

 

「……ナギサ、さま」

 

 不意に。

 その寝言が自分の名前を呼んだ。ナギサはそれを見て、自分の中に暖かい何かがあふれ出るのを感じた。

 

「チカさん……貴方は、なぜ」

 

 桐藤という名前と家は、この歴史あるトリニティでは重要な意味を持つ。

 それは貴族社会であったトリニティで受け継がれた伝統や格がそこに在ったから。

 

 色眼鏡といってもいいそれは、ナギサの名前と共にはがれない。だからこそ、ナギサはずっと孤独を心の奥底に抱えていた。

 

 ずっと一人だった。同じ境遇の幼馴染は居ても、だけど心を通わせることは終ぞできず。

 

 孤独はナギサを追いやってしまう。それは、孤独のせいにも出来ない何か。蝕むその冷たさは何処までも人を追い込んでいくから。

 それでも、信じることができるのは、救いなのだ。

 

「これも、貴方の配慮……ですね」

 

 だから、彼女のことが何よりも尊い。自分の傍に侍ることを許したその人は、とても愛おしくて。

 

「かぜ、ひいちゃいますよぉ……」

「……貴方の方こそ、風邪をひいてしまいますよ」

 

 寝言の中の私は、きっと今の彼女のように眠りについてしまったのだろう。

 そう言って、ブランケットを彼女に掛けた。そして香る、濃厚な彼女の匂い。

 ナギサの中に、なにか暖かいような気持ちが溢れた。

 

「チカさんの方が、私よりももっと」

 

 ふと、その手に握られたままのペンを見る。

 いつぞやか、彼女に渡したその黒く、少しだけ高くて、でもナギサにとっては普通に買うことができるレベルのそれを。

 

 

 

 だから彼女のその額にキスを落とした。

 なぜかはわからない。でもそうするべきだと感じたから。でも、それですやすやと眠るその顔が、少しだけ緩んだ気がした。

 

「……ゆっくり休んで下さいね」

 

 その羽が彼女を包んだ。ナギサは愛おしいその人を包み込む。

 優しい抱擁が包み込む。

 

 ナギサはその体をそっと持ち上げた。

 驚くほど軽いその体を、自身の先ほどまで眠っていたベッドへ運んだ。

 

「うぅ、あぁ、朝……」

「大丈夫ですよ」

 

 だが、その姿勢の変化でチカは目を覚ます。

 それをナギサがさらに包み込むように、まるで赤子をあやすように静かに抱擁する。先ほどまで眠っていたベッドは、まだ暖かい。

 

「まだ、休んでてもいいのですよ」

「……さ、さま?」

 

 薄く目を開けながら、しかし寝ぼけたままの彼女が呟く。

 

「いいんです。頑張っているあなたなら」

「……うん」

 

 そして再び、規則正しい寝息が小さく聞こえてきた。

 

 ナギサはその小さな少女の手を握る。そして羽で包み込む。

 安らぎの中に眠れるように。そして誰にも取られないように。

 

 その軽いようで、重い気持ちを、しっかりと味わうように。

 

「そばに居てくれて、ありがとう、チカさん」

 

 そうして再び、ナギサはその体を包み込んだ。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 光を感じた。

 

 そして温もりを感じた。柔らかな、羽毛のような何かが全身を包んでいたように感じる。

 でもそこに、愛しい主、ナギサ様の香りを感じた。

 

 何故だかはわからない。でも、とても幸せな気持ちだったことだけは覚えている。

 

 

 

「……ふぇ?」

 

 ぼんやりする頭が、しかしそのベッドの柔らかさに微睡はとても魅力的だ。

 出来ることなら、このまま再び眠りにつきたいくらいに。

 

 あぁ、これで仕事が無い日だったらよかったのに。寝ぼけた頭で、そういえば今は何時だったかと周りを手探りでスマホを探す。

 だけどその手は空振り、なぜかいつもよりベットが広く感じられた。

 

「……ん?」

 

 微かな違和感。だがそれは確かにおかしいと、頭のどこかで感じた。

 そしてベットからするはずのない、自分以外の匂い。

 

「……は?!」

 

 意識が一気に覚醒する。

 周りを見渡す。そこは自分の寮ではなく、ティーパーティー庁舎の仮眠室。そして自分がナギサ様を運んだ部屋その物に見える。

 

「…………え、は、え??」

 

 なぜ私はベッドで寝ている?

 だってさっきまで仕事をしていたはずなのに――――

 慌てて引き寄せたブランケットの上に、ふと白い羽根が落ちているのを見つけた。

 

「…………………あ、もしかして」

 

 もしかしたら、もしかすると。

 チカはやけに重い頭と体を起こした。

 

 何もしていない、とは言い切れない。

 だけど()()()()()()()()()()()()

 

「~~~~~!!!」

 

 チカはそれでも、鈍く痛む心を抱えながら支度を始める。

 何故か端や胸元が少し乱れている皺くちゃな制服を脱ぎ捨てて、ストックしてある制服をカラーボックスから取り出した。

 

 

 ***

 

 

「ナギサ様!」

「おはようございます、チカさん」

「遅れてしまいました! 直ぐに支度をしますので……!」

 

 チカにとって従者とは主人より先に用意を行い、そしてすべての準備を終えているものだ。そう教育されてきたし、そう自分を律して行動してきた。

 間違っても主人より後に起きることや、あまつさえ寝ていたベットで惰眠を貪るわけにはいかない。

 だから今回は大失態だ。もしかしなくても、信頼を失うことだってあり得るだろう。

 

 その焦りと義務感からか、チカはナギサの表情に気づくことも、その後ろにゆっくりと近づいていたことも分からなかった。

 

「チカさん」

「ひゃ、ひゃいッ……!」

「ダメ」

 

 気づけばナギサはチカの真後ろに立っていて、驚いて振り向いたチカの唇に人差し指を当ててた。

 

「少しお休みにしましょう」

 

 ソファに座って待っていてくださいね。そう言ってナギサはパントリーへ足を向ける。余りに突然のことに、チカはそれを茫然と見つめるしかなかった。

 やばいどうしよう、これって本当に怒ってるのかなやばいと、チカの内心は大荒れだったが、それを知ってか知らずか、ふと立ち止まったナギサはそれはいい笑顔でチカを見つめて、そしてさらに言葉を続けた。

 

「ナギサ」

「え?」

 

 ナギサはいたずらが成功した子供のように微笑む。

 

「ナギサ、と呼ぶまでダメですよ」

「えッ……とぉ、それはどういう?」

「チカさんは座って待っていてください。今日のあなたは『侍従長』ではなく、唯の『赤城チカ』ですよ」

 

 ナギサはそう言ってパントリーへと入っていく。

 それをチカは茫然と見るしかできなかった。

 

「え、……すわ、え?」

 

 だが、主人が座れと言っているのに座らないのは逆に失礼だろう。どうにも落ち着かないがチカは言われた通りにそのソファに座る。

 

「……」

 

 そわそわと、居心地の悪さがどうにも消えない。それは心配というより、不安の方が大きかった。

 そもそもナギサも生粋のお嬢様である。紅茶や礼儀作法に関してはトリニティで一番といっても過言ではない腕前なのは周囲の人間は知って居ることだし、それは自身で淹れる紅茶の腕前からもうかがえる。普段はチカが用意することが多いが、大事な客人相手にはナギサ自ら紅茶を振る舞うこともある。

 だとしても、こうして自分が紅茶を振る舞われる立場になった覚えなどない。

 

「……やっぱり昨日」

 

 何をやらかしたのか記憶にはない。

 だってずっと書類を整理し、明日の――――もう今日だけど、その準備を終わらせようとしていただけなのに。

 いつもと違う日常、いつもと違うナギサ様の態度。

 

 いつもと違う何かがあったなんて、想像に難くない。

 

「……やばい、お腹切るとかしないと許されない?もしかして……」

 

 沸騰寸前の不安になる頭は、チカをますます思考の渦に巻き込んでいく。ナギサが紅茶を持ってきていたのも気づかぬほどに。

 

「お待たせしました、チカさん」

「……はっ、あ、ありがとうございます! ……その、いただきます」

 

 気づけばティーカップがローテーブルに置かれていた。

 二人の間に、静かなひと時が流れる。

 

 チカは、ここまできたらもうどうにでもなれ、とパニックから一周回って冷静になった思考で「いただきます」と一口、紅茶に口をつけた。

 

 暖かい。

 朝、早い時間帯に人の気配はない。だが夜の静寂とは異なり、そこには閉塞感もなく、そしてさっきの混乱した思考が落ち着いていくような感覚があった。

 

「……こうしてゆっくりとするのも、随分と久しぶりな気がします」

「……えぇ、そうですね」

 

 静かな言葉が空間に落ちた。相手を探るような、少し間の開いた沈黙。

 普段なら、雑談でもしながら楽しむ小さなティータイムは、今は何処か重苦しい。

 

「昨晩は、ごめんなさい。貴方にお手数を」

 

 それ故に、沈黙を切ったのはナギサだった。

 

「いえ、私こそ! ナギサ様に……その、何をしたのかと言われますと」

 

 覚えているのは、ナギサの制服に皺が付かぬように脱がしてベッドに寝かせたことだが、場合によっては不敬罪……なのか分からないが、冷静に考えるとちょっと嫌だったかもしれないと思い始めた。 

 そんなしどろもどろになるチカに、ナギサは顔を近づける。

 

「な、ナギサ様?」

「まだ隈が酷いです」

「……いえ、このくらいなら軽い化粧で」

「いいえ」

 

 そっと、ナギサが手を伸ばす。完全に固まったチカの頬に、その手が触れた。

 

「やっぱり、貴方は誰よりも優しい人」

「……あの、どうしたんです?」

「ふふ」

「えっと、もしかして昨日の夜、何か」

 

 ナギサがチカから手を引いて、ソファから立ち上がる。

 

「それは秘密ですよ、チカさん」

 

 ナギサがそう言って、チカの隣に座る。

 チカは最早何がなんだかわからない。

 

「あなたにはお世話になってばっかりですから」

「え、ちょっとナギサさま」

「ナギサって呼んでください」

「あ、手が、まって私」

 

 ナギサの手が、チカの手を握り締める。そしてナギサの羽がチカを逃がすまいと緩くその体を包み、ナギサはその距離を縮める。

 

「ナギサ様……!あの、ちょッ!」

 

 どうも、ナギサと呼ばなければ本当にこのまま続けるみたいだ。ただ、何か自分の中にある何かが零れ落ちたのを自覚した。

 

 だけど、その温もりが、昨日の夜をフラッシュバックさせてくる。

 あの温もりも、そして白く透き通った肌も。

 チカはナギサの手を取って、そして敢えて体をナギサの方へ傾ける。

 

「チカさんがナギサと呼んでっ―――!」

 

 チカは自分でも驚くくらいに素早く、ナギサを衝動のままに抑えつける。

 驚いたように見つめる瞳。亜麻色の髪がソファに広がり、その瞳の色も相まってか、まるで視界一杯にナギサが広がっているようにも見えて。

 

「私の気持ちも知らないで、そんな事」

 

  チカはその感情を抑えるすべを知らない。

 己の衝動の赴くままに、理性が何も抑えぬその過程を知りえてなお、チカはナギサを愛しているのに。

 

 今朝からおかしい。ナギサの香り、ナギサの声、ナギサの言葉、そのすべてがチカの中身をひっかきまわす。

 食べてしまえるのなら食べてしまいたい。己の醜い何かがナギサの手首を掴む。

 

 だから、こうしたのも、こうなったのも、全部全部。

 

「ナギサの、せいだから」

 

 二人の間の沈黙が、だけどナギサはチカのその言葉にゆっくりと、その肌をほんのり桜色に染め上げていく。

 

「……やっと言ってくれましたね」

「……だって!」

 

 あぁ、どうしてこんなにも体が火照ってしまうのだろう。

 こんなにもあなたの事を想っているのに。こんなにもあなたを自分のモノにしたいのに。

 

「あなたが……どうしても」

 

 羽が優しく包み込む。

 

「あなたなら、何をされてもいいのですよ」

「~~~~~!」

 

 感情の奔流が一気に体に流れ込んだ。

 掴んだ手はより力を増してその細い手首を押さえつける。

 

「いいんです? そんなことを言って」

「あなただから言うのです」

「……もう、知りませんよ」

 

 力を込めて、その細い躰を抱きしめる。

 既に理性の箍も何もかもが吹き飛んでしまった。もう、止まれない。

 

 護るべきその主人を。

 

 愛しい貴女を。

 

「チカさん、その、少し」

「いや、です」

「でも、お風呂に」

「チカ」

 

 チカはナギサを抱きしめる。

 己の中にある何かをそっと抱きしめるように、それはナギサと重ね合わせてしまうには余りにも不自然でも。

 

「私も、チカって呼んでください」

 

 ナギサの匂い。それがとても愛おしくて。ここからなくなるのが嫌で仕方なくて。

 

「……チカ」

「はい」

 

 侍従長。

 時代と共に、名前だけしか残らなくとも。

 主人を想い、そして守る意思は潰えない。

 

「これからも、ずっと一緒ですよ」

 

 冷たく、息苦しい世界でも。

 たった一人でいい。信頼できる誰かがいればいい。それだけで、人は生きていけるのだ。

 

 寒さを紛らわすように、声を呼び合うように。

 

 

 そうして二人の想いは、重なっていく。

 

 

 




 事後の余談

――執務室
モブ1「ナギサ様、朝の定期報告です……って、あれ、いない。チカさんも居ないし……」
ナギサ「ごきげんよう。申し訳ありません、朝の支度に手間取りまして……」
モブ1「ごきげんよう、ナギサ様(珍しく朝からフローラルな香りだなぁ)」

――廊下
チカ「おはようございます! すみません、遅刻してしまって!!」
モブ1「ごきげんよう、チカさん。そんなに慌てて珍しいですね(あれ、チカさんからもナギサ様と同じ匂い……)」



何かに気づいたモブ1「……は!」



――会議中
ナギサ「~であるからして……」

行政官A(今日のナギサ様と侍従長、同じ匂いがしますわ……!)
行政官B(つまりそういうことですわね!!!)
行政官C(大事なのはどちらが、どっちですか?!)

ナギサ「なんだか今日は皆さん上の空ですね(完全に惚けてる&気づいていない)」
チカ「~~~~~そうですね!(めちゃ恥ずかしい)」

 暫く学園のお茶会のネタは二人の関係性についてだったという。

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