『1918年1月13日
この日、海軍艦政本部で新型の戦艦の建造が決定されました。
しかし、その戦艦の採用はその後の艦隊計画の根幹を揺るがすものだったと言われています。
ーこの日をもって日本海軍は根本から変わりましたー
海軍史を研究するバーナード教授はこう言います。
ーこの艦から日本海軍は軍艦の高速化に注力した、というのが現在の定説です。ー
ところが近年、この戦艦の初期設計図、そして設計主任である真田技師の手記が発見されたのです。
ーこれらの資料は今までの研究に大きな影響を与えました。ー
我々は今回、最新の研究と新発見された資料を元に、日本海軍の真実に迫ります。』
〜1996年8月25日 とあるドキュメンタリー番組より〜
『50口径14inch三連装砲』
その戦艦に搭載された主砲です。しかし、その主砲の採用が異質であると軍事史を研究するヤン博士は言います。
ー軍隊は保守的な思考が強く、当時の最新技術で信頼性に難がある三連装砲ではなく、技術的に余裕のある連装砲を採用するのが当然でした。ー
当時、日本では2種類の戦艦が存在しました。重装甲高火力だが低速である扶桑・伊勢型、高速で航続距離が長いが火力・装甲共に劣る金剛型です。しかし第一次世界大戦が終結し、日本が南洋諸島を領有すると、航続距離の短い扶桑・伊勢型は扱いにくくなっていきました。ですがその事を重大に考えている人は少なかったとバーナード教授は言います。
ー当時の仮想敵は中華民国、そしてソビエト連邦でした。どちらもすぐ近くにあり、海軍が弱体であったことから航続距離は問題になりませんでした。ー
また、装甲についても異質だと造船史の研究家ラインハルト氏は言います。
ー当時、戦艦は自らの主砲に対応する、すなわち自らの主砲に耐えられる装甲を有するのが基本でした。それに従えばこの艦も耐14inch砲である280〜300ミリの装甲を有しているはずでした。しかしこの艦は最大350ミリもの装甲を有していたのです。ー
これは16inch砲の直撃に耐えられる装甲だったと言います。今までは、第二次世界大戦の直前に装甲が強化されたと考えられてきました。しかし、今回の発見によってそれが覆ったというのです。
1921年10月一隻の戦艦が竣工しました。「蔵王」と名付けられたその艦は排水量33000トン、30ノットを記録する高速戦艦でした。続けだって「筑波」「吾妻」「御嶽」が就役しました。
そして1922年2月、ワシントン海軍軍縮条約が署名されます。この会議のひと月前、「御嶽」においては数日前に就役したばかりの蔵王型の処遇はどうなるか、と各国が注目していました。ただ一ヶ国、当事国の日本以外は。
ーもし蔵王型の詳細を知っていれば日本の提案には猛反対したでしょう。しかし我々は知らなかったが故に日本の提案を受け入れたのです。ー
そう言うのは当時、弱冠25歳ながらも副使として出席していたアルバート氏です。
ー日本の提案はこうでした。「我々は新たに16inch砲搭載艦を建造しない。その代わりに保有上限を対米8割、40万トンに引き上げてくれ。」と言うものです。我々はたとえ14inch砲搭載艦を多数所有していたとしても16inch砲搭載艦に勝つことはできないと思っていました。だからその提案を受け入れたのです。ー
その当時、日本海軍には二つの派閥があったとバーナード教授は言います。
ー高速戦艦を重視し、扶桑・伊勢型を退役させて蔵王型を追加で4隻の建造を推し進める派閥。そしてそれに反対し、扶桑・伊勢型の現役続行を望む派閥でした。
追加建造派閥は山本五十六提督や山口多聞提督、南雲忠一提督などの空母運用の重要性を認識していた一派が多くいました。彼等は高速戦艦を空母の護衛として使おうとしたのです。それに対する派閥には大艦巨砲主義を信奉する諸将がいました。彼等は幾度も議論を交わしましたがとある会議の後にほとんどの提督が追加建造派閥に鞍替えしたのです。
この会議で何かがあったことは確実ですが、その何かがわからない。研究はそういった状況で停滞していたのです。しかし、今回発見された資料はこの停滞を打ち破るものでした。ー
『この議論は、扶桑・伊勢型を廃艦にし、新たに蔵王型を4隻建造するほどの労力に見合う価値が蔵王型にあるのかどうか、と言うものでしょう。』と真田技師が切り出しました。
『蔵王型にはその労力に見合う価値があります。なぜならば、蔵王型はバーベット径、砲塔転輪強度、弾薬庫の大きさ、装甲厚に至るまで、16inch連装砲への換装を前提として設計しているからですよ。』
これは驚くべき事実です。蔵王型が設計された1920年代中盤は16inch連装砲の開発が始まったばかりだったからです。そして、扶桑・伊勢型は全幅が狭く、改装を行うにしても、時間も資金も大量に必要でした。しかし、蔵王型の主砲換装ならば、必要なのは16inch連装砲の現物と数ヶ月程度のドック入りです。蔵王型の追加建造はかなりの魅力を持っていたことでしょう。蔵王型の追加建造は賛成多数を持って決定されました。
しかしながら、蔵王型の主砲換装は1943年頃まで延期されます。計画では、対米開戦後に迅速に換装されるはずでした。しかし、蔵王型は各戦域で引っ張りだこであり、換装のために後方へ下げることは前線の将兵が許しませんでした。また、空母と航空機の発展によって戦艦同士の砲撃戦が起きないことがわかると、換装不要論が出てきました。しかし、換装を強硬に主張する者も一定数いたことがわかっています。この確執の妥協案として「蔵王」と「筑波」の2隻のみ主砲の換装が行われました。この換装を米軍は察知していたとヤン博士は言います。
ー呉海軍工廠で蔵王型の2隻がドック入りしている事を米海軍は、航空偵察で知っていました。また、多くの物資、人員が集まっていることも把握していました。しかし、日本はドックに蓋をし、通信は非常に強力な暗号で行っており、修理か改修かわからない状態でした。米海軍が正確な事実を知るのは、戦後に資料を接収した時でした。ー
ー当時、確かに私は絶叫しました。ー
そう語るのは接収した資料の解析を行ったビュコック氏です。
ー「蔵王」と「筑波」の主砲が換装されていただと!と、2隻の入渠は3ヶ月にも満たない期間でした。我々の常識に照らし合わせれば、到底不可能なことですから。しかし、今回の資料を見せていただいて納得したものです。最初から換装を予定していたなら、あの短期間で換装できるはずだと。ー
そして、蔵王型は各地で暴れ回ることになります。
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