「勝つわよ」
遅れてやってきた華琳の一言で官渡城の玉座は静まり返った。華琳がやってくるまでは、どうやって華琳を逃すかを将達は話し合っていたのだから。
「何を黙っている! 華琳様が勝つと言われている!」
その話には混ざらず黙っていた春蘭が場を一喝した。
勝つ為の献策をせよ、と告げる。
故に誰も声を発することが出来ない。
戦力差百倍以上。絶望的な数字である。
百万を超える敵兵。
人がそれだけいれば当然排泄物も大量に出る。袁紹はその排泄物を投石機にて石と共に官渡城内に投げた。石と共に飛んでくるそれは容易に片付けることも出来ず。下手に片付け怪我でもすれば病に罹るというわけで。
病。悪臭。
いくら曹操軍が精強と言えど城内の兵士の士気は最悪である。
袁紹のちょっとした嫌がらせ程度のつもりの思いつきは最悪の結果を生んでいた。
「春蘭。私を逃す為に真桜に地下通路を作らせていたわね?」
「……申し訳ありません」
曹操の指摘に夏侯惇がバツの悪そうに謝罪した。もし曹操が嫌がっても、夏侯惇は自らの命に代えてでも逃すつもりであったからだ。
「華琳様。それは姉者だけではなく私が」
夏侯惇に相談されその案を出したのは夏侯淵だった。夏侯姉妹、共に命を投げ捨ててでもその案を通すつもりだった。
「ええ。秋蘭も。けれど私を思ってのことだもの。不問にするわ」
「……はっ」
「さて。敵兵は百万を超えるわ。それだけの数。長期間維持出来るはずがないわ。狙うはただ一つ。兵糧よ」
「……兵糧庫があると思われる陣は敵陣深く。更に十二の陣に分けられておりどの陣が正か未だ分からず……。全てが正、もしくは全てが誤であるかも知れません」
秋蘭が今持つ情報を希望的観察を抜きに率直に伝える。それは華琳の案を無茶だと諌める為。現状、この場で華琳を諌めることが出来るとすれば夏侯姉妹か曹家に連なる者しかいなかった。
「そう。なら全て燃やすわ」
「であれば私がやります」
春蘭が即答する。百万を超える敵陣深く。いくら夏侯惇元譲が武に名高き猛将とは言え、誰がどう考えても無茶だった。だが夏侯惇は曹操がやれと言えば迷わずやる。それが正しいかなんて関係ない。大事なのは曹操が命じた。ただそれだけなのだ。
「私も共にします。虎豹騎も共に」
虎豹騎は曹操の虎の子だ。精鋭中の精鋭である虎豹騎を指揮する曹操の従姉である曹純子和こと柳琳は、夏侯惇と共にする覚悟を決めた。
「柳琳、私も行くっす!」
曹純の姉、曹仁子孝こと華侖も続く。華侖は妹一人で死なせる気はなかった。続いて私も、私もと声が上がる。全員、曹操の為ならば命を捨てる覚悟は出来ていた。
「貴女達ねえ……。私は死ねと命じているつもりはないのだけれど」
曹操は呆れながら、少し口元を緩ませた。曹操の意図が読めない夏侯淵が曹操に問う。
「ですが華琳様、一体どうするつもりで?」
「真桜の地下通路。あれ敵陣の後に出るように変更させてるわ。背後から奇襲を掛け兵糧を燃やすの」
「なるほど! 流石華琳様!」
「待て姉者。……華琳様。恐れながら真桜の地下通路はそれほど広くなく、馬一頭がなんとか通れる程度。敵背後に陣を整え襲う前に、敵に気付かれればこちらの兵がやられ、逆に地下通路を敵に利用され内部に攻め込まれる危険まであります」
「そうね。尤もだわ秋蘭。だから百万の敵兵の前に、相手が背後なんか気にならなくなるくらい夢中になる餌を用意するわ」
「……待ってください。その餌とは」
「もちろん私よ」
「いけません華琳様! 餌なら私が!」
流石に、春蘭が、将全員が華琳の策を否定した。否定するしかない策だ。だが曹操はそのまま続ける。
「駄目よ春蘭。貴女でも百万を釘付けにするには足りないわ」
「華琳様なら百万どころか大陸中の人間全員を釘付けにすることなど容易に出来ますが、しかし御身を危険に晒すわけには!」
夏侯惇の叫びは悲鳴にも似ていた。だが曹操は聞かない。夏侯淵も曹操がこうなっては意見を曲げないことは分かっている。だが。
「あら。危なくなる前に貴女達が助けてくれるのではなくて?」
「華琳様。どうかお考え直し下さい。危険過ぎます」
「秋蘭。貴女も春蘭と共に出てもらうわ」
「華琳様!」
「華侖。柳琳もね。栄華、城は任せるわ」
「お姉様……」
栄華、こと曹洪子廉は文官畑の人間である。その曹洪に城を任せるということは武官は全て敵背後に回すということ。
つまり曹操は一人で敵百万を引き付けるということ。
曹操は完璧超人である。恋姫世界でいえば呂布と長時間切り結べるという、武の頂上に近しい人間でもある。呂布が取っていたような、一度単騎で出撃し数十から数百の人間を狩って戻るを繰り返すというような化け物染みた戦法を取ることすら可能だろう。曹操は将ではなく王であるが故にそんな行ないはしないのだが。
しかし、武官ではない。常日頃、鍛えている訳でもない。
居並ぶ将と比べ、体力面は勝るのか、というのは疑問符が残る。
「勝つわよ」
曹操がもう一度、声を張り上げる。
全員、覚悟が決まった。
既に五時間。
曹操が単騎で正門から現れて敵兵を斬り殺し続けた時間である。
足元は敵兵の死骸で埋め尽くされており、故に脚を取られまともに戦うことすらままならない。
曹操の美しい顔は、すでにいくつもの剣筋が走り自らの滴り落ちる血で染まっていた。陶磁器のようであった美しい肌にはいくつもの矢が刺さり、トレードマークである髪型は髪留めがとっくの昔に吹き飛んで垂れ下がり、髪も服も、自らの血か返り血かも最早分からぬほど染まり、もはや虫の息といった状態にまで追い込まれていた。
袁紹でさえ曹操の様子を眺めて眉をひそめ、「早く殺してあげなさい」と声をあげた。
曹操の得物「絶影」はとっくに折れ、それでも敵兵の剣を奪いながら曹操は戦い続けた。もはやいつもの可憐さ、凛々しさはどこにもない。
肩で息をし、まともに立てる状態ですらないが、それでも曹操は泥臭く足掻き、敵の動きに反応し斬り続けた。
誰が曹操にトドメを刺すか。袁紹軍はもはや曹操にしか目がいっていなかった。
夏侯姉妹が、曹家に連なる者が背後からついに袁紹軍を奇襲した。陣の整うここまで夏侯惇が我慢をしたのは奇跡といえる。曹操が命懸けで作った隙を、曹操軍は裂帛の気合いで敵陣を容易に切り裂いた。だがそれも兵糧があると思われる陣、八つまで。そこからは流石に袁紹軍も立て直し押し返す。
引き返し華琳様をお救いするべき。と夏侯淵は考えたが、夏侯惇が唯一勢いを維持したまま敵陣を切り裂く。ならばと夏侯淵は夏侯惇の軍に合流しその勢いが加速した。
流れ矢だった。
殺意もない。狙ったものでもない、適当に放たれた流れ矢。故に夏侯惇の反応が遅れた。
「姉者!」
矢が夏侯惇の左目に突き刺さり落馬。夏侯惇が敵兵に瞬時に囲まれた。
「ぐっ……」
夏侯惇将軍が倒れた。曹操軍に動揺が走る。夏侯惇は曹操軍の武の象徴であった。それだけに、その動揺は曹操軍にとって致命的なもの。
ゆらり、と亡霊のように立ち上がった夏侯惇が吼えた。
「我が身、我が心、髪の毛一本まで全て華琳様のもの! 貴様らなんぞにくれてやるものなど何一つないわ!」
そう言って夏侯惇は眼球ごと矢を引き抜き、左目を食べた。
「何をしている貴様ら、私に続けえええ!」
そう味方を怒鳴りつけた夏侯惇が馬に飛び乗り、再び戦場を駆け始めた。呆気に取られた戦場に夏侯惇が曹操軍に異常な熱気を、袁紹軍に恐怖をもたらした。夏侯淵が夏侯惇に何も言わず、自らの馬を夏侯惇の左に合わせる。
「勝つぞ秋蘭!」
「ああ、姉者!」
姉は勝ちしか見ていない。夏侯淵は姉を誇りに思った。
袁紹軍を切り裂く夏侯姉妹に、その時無数の矢が降り注いだ。
「……本当に可愛いわね、あの娘」
夏侯惇の声は曹操の耳にも届いた。気を失い斬られる直前であったが夏侯惇の叫びで意識が覚醒した。なんとか敵兵の剣を避け、剣を敵兵の胸に突き刺した。
だが。
ここが限界か。
曹操の脳裏にその一言が過ぎる。もう頭も回らない。
「お姉様!」
城から堪らず曹洪が兵を率いて飛び出してきた。その様子を一目見た曹操は、ついに意識を失った。
兵糧のある陣を十まで焼かれた。兵を維持するにはもはや数日が限界であろう。撤退するしかない。だからこそ、曹操をついに殺せず城内に運ばれたことを袁紹は悔やんだ。ここまでやっても曹操を倒せなかった。いやあの様子では生きているかは分からないが、ともかく自身の手で勝つことは叶わなかった、と袁紹は手を握りしめた。
不意に銅羅の音が鳴り響いた。
「何事ですの!?」
「本陣、奇襲! 麗羽様、お逃げ下さい!」
「なんですってえ!?」
袁紹の元へ飛び込んできた田豊の叫びに、袁紹の血の気が引いた。
曹操という大きな餌。派手に後方で暴れる夏侯姉妹。大きな混乱の中、袁紹軍は気付かなかった。
袁紹軍の鎧に身を包んだ虎豹騎が、本陣を奇襲した。
「私達はここで死ぬわ! 狙うは袁紹の首のみ!」
全方位、敵しかいない。目的を達しても死ぬだろう。
だがそれでも。
曹純率いる虎豹騎が袁紹軍の首元に噛み付いた。
「姫をやらせはしないよ!」
「麗羽様! ここは任せて!」
「猪々子さん! 斗司さん! 任せましたわ!」
「逃しては駄目!」
「「「「「おおおおおおおおお!!!」」」」」
曹操、半月程意識戻らず昏睡状態に。
曹操軍、精兵の半数を失う。
虎豹騎は袁紹撤退後、曹純を生かす為にほぼ討ち死に。
夏侯惇、夏侯淵両将軍も城に戻ると同時に倒れ一週間昏睡状態に。
しかし結果だけ見れば籠城戦の末、官渡城を攻略出来なかった袁紹軍が撤退。曹操軍の勝利となった。
泣きながら曹洪は曹操に謝罪する。もっと早く助ければと。しかし曹操はよくやってくれたと返す。よくギリギリまで我慢してくれたと。あのタイミング以外勝利はなかったと。
曹純は謝罪し自死をしようとした。曹純は虎の子を失いながら自身だけが生き延びたのを恥じた。虎豹騎が命懸けの特攻を仕掛けなければ、袁紹軍の即時撤退はありえなかったと功績を讃え、虎豹騎が生きながらえさせた命を大切にして欲しいと説いた。
意識を取り戻した曹操から夏侯惇が逃げ回る。醜い姿を見られたくないと。曹操から抱きしめられた夏侯惇は、貴女の全ては私のものなのでしょう? と曹操に可愛がられる。
勝利の代償は安くはない。
だが勝利である。
しかし百に一つを拾っただけ。曹操はすぐに次の手を打たねばならなかった。でなければ袁紹に次は間違いなく潰されるだけである。
「諸葛亮に取り次ぎなさい」
曹操が考え得る最善手だった。
「麗羽様、どうするんです? 曹操はあきらめます?」
「ありえませんわ。……孔明に取り次ぎなさい。諸葛茶家なら兵糧の準備も出来るでしょう」
そして袁紹も曹操と同様に諸葛亮に連絡を取ることにした。
全てを見ていた孔明は空を見上げる。
史実補正はない、と外史の管理者は言った。
結果はどうだ。
関係ない。
自らの手で勝利を掴み取った。覇王曹孟徳は、やはり覇王曹孟徳であった。
この世界で生きている人間が文字通り、薄氷の上で死に物狂いで掴んだ勝利を孔明は見た。
「ははっ……」
乾いた笑いが孔明から漏れた。いつしか笑いが止まらなくなった。
「そっか。皆、生きてるんだ」
外史ということを認識して以降、人が生きているという実感が消えていた。孔明はそんなことに今更気が付いた。
「ふふっ。まずは雛里ちゃんに謝らないとね」
孔明は上機嫌になった。急に世界が明るくなった気がした。