登場するふたりは紫苑と明音ですが、他のお話とはつながっていません。
※pixivにも同じ作品を投稿しています
「お昼ご飯奢るからさ。」
いま思えばずいぶんと安い報酬につられてやってきたものだと、わたしは書類に生徒会の判をおしながらため息をついた。
夏休みに入った校舎はひどくがらんとしていて、それこそ校門をくぐるころからすでに普段とは異なる空気が漂っていた。
いつもの朝なら賑やかな昇降口も、走って行く男子やおしゃべりする女子であふれる廊下も静まりかえり、時折思い出したかのように遠くから声が聞こえるだけ。
だから生徒会室にもう来ていた会長の姿を見たときは、不覚にもほっとしてしまった。
これだけの仕事をため込んだ元凶も、そして前日急に呼び出してきたのも、この腐れ縁の会長だというのに。
「はぁ、サンドイッチに釣られてこの作業量、ですか。」
「まーだ言ってる。この明音さんの手作りだよ。早起きしたんだから。」
「その情熱をこっちにもむけなさいよ。」
会長はショートの髪やスカートを翻してなにやらガラクタの類いを片付けているものの、一向に捗る気配はない。
対してわたしは書類の束から一枚を引っ張り出しては一読してあるいは判を押し、あるいはファイルに綴じ、あるいは処分用の段ボールに放ってを繰り返していた。
「だから力仕事はあたしがやってるじゃん。」
そういうと会長はまたスカートを翻して並べた段ボールの中をがさがさと漁り始めた。
ただ、勢い余って別の箱にスカートの端が引っかかり、ひょいっと捲れ上がってしまう。
「もう、見えてるよ。」
「紫苑しか見てないからだいじょーぶ。」
普段から明音はこんな感じだった。
よく言えばあけっぴろげ、元気で明るい。悪く言えばがさつで多少無神経。
ただ、少し違っていたのは、普段ならボクサー、あるいは白やグレーの下着を好む明音にしては珍しくピンクの水玉だったことくらい。
もっともそれも今日が夏休みだからかもしれないし、あるいは少しは気持ちの変化があったからなのかもしれない。
男子の目がなければ、いや、たとえあってもあぶなっかしいのはいつものことで、そのことにわたしがため息をつくのもまた、いつものことだった。
「そういう問題かい。」
「そういう問題だよ。」
「はあ、つかれた。」
わたしはベンチのような長椅子のうえでぐーっと伸びると目を閉じた。
相変わらず夏休みの校舎はがらんと静かだった。
明音も手を休めているのだろう。
聞こえてくるのは吹奏楽部ののどかな音階練習と、はるか彼方の運動部の声。そして蝉の鳴き声くらい。
と、隣に明音の気配を感じるのと同時に、椅子の上のわたしの指に明音の指先が触れてきた。
「紫苑。」
「なに?」
「今日呼び出したのはね。仕事を片付けるためだけじゃないんだ。」
「まだなにかあるの?もう疲れたんだけど。」
明音から返事はなかった。
少しだけ触れていた指が離れて、そして触れてはまた離れる。
その様子から、明音が珍しく躊躇っていることだけは目を閉じていてもわかった。
これは厄介事だ。
直感的にそう感じたから、わたしは明音の答えを待つことにした。
返答によっては帰っちゃうぞ。サンドイッチとジュースでできることなんてたかがしれているのだ。
しかし明音はなかなか口を開かない。
その間に音階は整ったパート練習の音色に変わり、運動部と蝉は相変わらずなにやら叫んでいる。
そしてさすがに何事?と思ったそのとき、ようやく明音は口を開いた。
「今日、わたしこと明音は一生で一度のことをします。」
最初、なにを言っているのかわからなかった。
「一生のお願い!」なんて耳にたこができるほど聞いたし、わたしも乱発している。
そもそも一生がまだどのくらい残っているのかほとんど自覚していないわたしたちにとって、一生に一度の重みなんて理解しろというほうが無茶なことだ。
「紫苑、こっちを見て。」
言われるがままに目を開くと、近づいてくるのは明音の指先。そして瞳。
なぜ瞳がこんなに近い?
なぜ睫が触れそうなほどに近い?
ただ、そのことを正しく理解するより早くわたしの頬に手が添えられて、そして唇に明音の唇が重なっていた。
なんだろう。甘い味がする。
明音って、こんなに甘いんだ。
混乱に混乱を重ねたわたしは明音の柔らかな唇と熱い吐息を感じている間、情けないことに指ひとつ動かすこともできずにそんなことを考えていたのだった。
「いちごミルクの味がする。」
まだ触れた唇の感触が残っているというのに、なんと風情のないことを言うものか。
感謝するとすればその一言で、ずっと気まずかった空気がすこしばかりほぐれたことくらいか。
「さっき一緒に飲んだ。」
「そうだったね。」
「確かに一生に一度だよ。わたしもはじめてだもの。」
机の上にはストローのささったパックがまだ置かれたまま。
そしてついいましがた交わした行為について触れることもなく、明音はそのいちごミルクのパックを手に取った。
そんなことよりも言うことがあるでしょ。
と目で訴えるも、明音はそれを無視してわたしにひとつを握らせる。
「ねえ、紫苑。」
「なによ。」
「あたしは嬉しいんだ。」
「紫苑はいちごミルクを見るたびに、このことを思い出すんだもの。」
わたしは明音をずっと見ているし、それこそどんな表情も知っているつもりだった。
でもこのときの明音の表情は、いままでのどんな表情よりも嬉しそうで、そしてわたしの心を絡め取っていくのだった。