王女として生まれながら「男子のみ継承権あり」の国法により見捨てられた少女が、魔術で性別を変え、やがて祖国を捨てるまでの物語。エステリア王国の王女ファリスは王宮の日陰に追いやられ、両親からの愛を知らずに育った。唯一の心の支えは没落貴族の娘である従者ケイシー。十歳の誕生日、両親はファリスに告げる──「お前を男に変える魔術がある」と。だがそれは愛情ではなく、世継ぎへの執念だった。十五歳で男性となったファリスは王太子として認められるが、両親が不妊治療の霊薬を手に入れたことで状況は一変する。「本物の」男児が生まれれば用済み──そう囁かれていることを知ったファリスは、従者と共に敵国への亡命を決意する。

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FarisとCaissie

 ◇

 

 王宮の東棟には陽光が届きにくい。

 

 設計上の欠陥ではなく、意図的なものだった。

 

 かつてこの棟には王族の遠縁にあたる者たちが住まい、彼らに「自分たちは傍流である」と無言のうちに知らしめるため、あえて日当たりの悪い位置に建てられたのだという。

 

 時が流れ、遠縁の者たちは絶え、今では使用人たちの居室や物置として使われている。

 

 そして──王女ファリスの私室も、そこにあった。

 

「姫様、お食事をお持ちしました」

 

 扉を叩く音とともに澄んだ声が廊下から聞こえてくる。

 

 ファリスは窓辺から振り返り、小さく頷いた。

 

「入って、ケイシー」

 

 扉が開き、銀の盆を捧げ持った少女が姿を見せる。

 

 ケイシーはファリスより三つ年上の十三歳。

 

 栗色の髪を後ろで一つに結び、従者の証である青い飾り紐を肩から斜めにかけている。

 

 ファリスはケイシーの、どこか憂いを帯びている様にみえる深い翠色の瞳が好きだった。

 

「今日は鶏肉のクリーム煮ですわ。厨房のマーサが姫様のためにと特別に作ってくれたんです」

 

 ケイシーは盆をテーブルに置きながら、努めて明るく言った。

 

 しかしファリスの表情は晴れない。

 

「マーサが? 本当に?」

 

「ええ、もちろんです」

 

 ケイシーは嘘をついていた。

 

 実際にはケイシー自身が厨房に頼み込み、余り物の食材で作ってもらったものだ。王女のためにわざわざ料理を作る者など、今の宮廷にはいない。

 

 ファリスは十歳になっていた。

 

 この国──エステリア王国においては王位継承権は男子にのみ認められる。ファリスが生まれたとき、国王夫妻は落胆を隠さなかった。しかし次の子が男児であればよいのだと彼らは気を取り直した。

 

 ところがそれから十年。

 

 王妃の腹に新たな命が宿ることはなかった。

 

「食べないとお体に障りますわ」

 

 ケイシーが優しく促すと、ファリスは椅子に腰を下ろし、銀のフォークを手に取った。

 

 一口、二口と料理を口に運ぶ。

 

 温かく、味付けも丁寧で、本来なら美味しいと感じるはずだった。

 

 だが喉を通っていくそれはどこか味気ない。

 

「今日も、お呼びはなかったのね」

 

 ファリスがぽつりと呟く。

 

 お呼び──それは国王夫妻からの召喚を意味していた。

 

 両親に会えるのは公式の場でのみ。私的に顔を合わせる機会など、もう何年もなかった。

 

「陛下方はお忙しいのです。きっと姫様のことも気にかけておられますわ」

 

 ケイシーはそう言ったがその言葉はどこか精彩を欠いている。

 

「……そうね、ケイシーをつけてくれたのだから、不満を言ってはいけないわね……」

 

 従者制度というものがこの国にはある。

 

 王族や高位貴族の子女には、幼少期から同性の従者が付けられるのだ。年齢は主人より二つから五つほど年長で、身の回りの世話だけでなく、礼儀作法や学問の手ほどきも行う。

 

 主人と従者は多くの時間を共に過ごすため、やがて深い信頼関係で結ばれていく。

 

 それこそがこの制度の真の目的だった。

 

 将来、王族や貴族となる者が孤独に苛まれぬよう、生涯を通じて支えとなる存在を与える──そういう仕組みなのである。

 

 ただし、従者には厳格な規則がある。

 

 必ず同性の者を選ぶこと。

 

 これは主従関係が恋愛に発展することを防ぐためだ。

 

 王族の婚姻は政治的なものでなければならず、従者との間に情が生まれては都合が悪い。

 

 また、従者は主人より年長でなければならない。

 

 幼い主人を導き、守る役割を果たすためにはある程度の成熟が必要とされるからだ。

 

 ケイシーがファリスの従者に任命されたのはファリスが五歳のときだった。

 

 当時八歳だったケイシーは没落した子爵家の娘。

 

 家が没落したとはいえ貴族の血を引いており、教育も行き届いていた。

 

 何より、誰も望まない役職──期待されていない王女の従者という地位を引き受けてくれる者が他にいなかったのである。

 

「ねえ、ケイシー」

 

 ファリスがフォークを置いた。

 

「私がもっと頑張れば、お父様とお母様は振り向いてくれるかしら」

 

「姫様……」

 

「この間、歴代の王について全部暗記したの。初代ティベリウス一世から現在のアレクシス三世まで、即位年と主な業績も含めて。それを披露すれば、少しは……」

 

 ケイシーは胸が締め付けられる思いだった。

 

 ファリスは懸命だった。勉学に励み、礼儀作法を完璧に身につけ、王族として恥ずかしくない振る舞いを心がけている。だがそのすべてが両親の目には映っていない。

 

「きっと喜んでくださいますわ」

 

 ケイシーはそう答えるしかなかった。

 

 嘘だと分かっていても、この少女の希望を打ち砕く言葉を口にすることはできない。

 

 数日後、ファリスは謁見の間に呼び出された。

 

 珍しいことだった。

 

 期待に胸を膨らませながら、最善の装いで両親の前に進み出る。

 

 国王アレクシス三世と王妃エレノアは玉座に並んで座していた。

 

「お呼びいただきありがとうございます、父上、母上」

 

 ファリスは完璧な礼をした。

 

 背筋を伸ばし、視線の角度も、手の位置も、すべて作法通りである。

 

「うむ」

 

 国王は生返事をした。

 

 その視線はファリスを見ているようで、どこか虚空を見つめている。

 

 王妃に至っては最初から目を合わせようともしなかった。

 

「実はな、ファリス」

 

 国王が重々しく口を開いた。

 

「宮廷魔術師長のガルバロスがある魔術の研究を進めておる」

 

 ファリスは首を傾げた。

 

 魔術の話など、今まで一度も聞かされたことがない。

 

「その魔術が完成すれば……」

 

 国王は言葉を切り、王妃と目配せをした。

 

 王妃がかすかに頷く。

 

「お前を男に変えることができる」

 

 ファリスは自分の耳を疑った。

 

 男に変える──それは一体、どういう意味なのか。

 

「分かるか、ファリス。お前が男になれば、王位を継ぐことができる。我が国の法は男子にのみ継承権を認めておる。つまり……」

 

「私が王に?」

 

 ファリスの声が震えた。

 

 それは喜びではなく、困惑による震えだった。

 

「そうだ。研究にはまだ時間がかかるが、必ず完成させると魔術師長は約束しておる。それまでお前はより一層精進せよ。将来の王として恥ずかしくないようにな」

 

 国王はそれだけ言うともう用は済んだとばかりに手を振った。

 

 下がってよいという合図である。

 

 ファリスは呆然としたまま、謁見の間を後にした。

 

 廊下で待っていたケイシーがその表情を見て駆け寄る。

 

「姫様、いかがなさいました。お顔の色が……」

 

「ケイシー、私……」

 

 ファリスは言葉を継ぐことができなかった。

 

 両親が自分に期待している──その事実は嬉しかった。

 

 しかしその期待の内容があまりにも予想外だったのである。

 

 ◇

 

 その夜、ケイシーはファリスの話を聞いた。

 

 性別を変える魔術。

 

 王位継承。

 

 すべてが荒唐無稽に思えたが国王が直接告げたのだから事実なのだろう。

 

「姫様はどうなさりたいのですか」

 

 ケイシーは慎重に尋ねた。

 

「分からないわ」

 

 ファリスは両手で顔を覆った。

 

「でも……お父様とお母様が望んでいるなら……」

 

 その言葉にケイシーは何も言えなかった。

 

 この少女は親の愛情に飢えている。

 

 ようやく向けられた関心を失いたくないのだ。

 

 たとえそれが自分という存在を根本から変えることを意味していても。

 

 それから五年の月日が流れた。

 

 ◇

 

 宮廷魔術師長ガルバロスの研究室は王宮の地下深くにある。

 

 薄暗い石造りの部屋には奇妙な器具や古びた書物が所狭しと並んでいた。

 

 蝋燭の炎が揺れるたび、壁に映る影が不気味に踊る。

 

「ふむ……あと少しだな」

 

 ガルバロスは羊皮紙に何事かを書き込みながら呟いた。

 

 白髪を後ろに撫でつけ、鷲鼻に細い眼鏡をかけた老魔術師は何年もこの研究に費やしてきた。

 

 性別転換の魔術──かつてないほど複雑で繊細な術式である。

 

 人間の肉体を根本から作り変えるのだから当然だ。

 

 理論上は完成しているが、実践にはまだ問題があった。

 

「被験者がおらん」

 

 ガルバロスは苛立たしげに机を叩いた。

 

 魔術を完成させるには人体での実験が不可欠だ。

 

 しかし誰が好き好んで性別を変えたいと思うだろうか。

 

 この魔術は不可逆ではないにせよ、一度変えてしまえば元に戻すには同等の労力がかかる。

 

 軽々しく試せるものではない。

 

 その時、研究室の扉を叩く音がした。

 

「誰だ」

 

「ケイシーと申します。王女殿下の従者を務めております」

 

 ガルバロスは眉をひそめた。

 

 あの不遇の王女の従者が何の用だというのか。

 

「入れ」

 

 扉が開き、栗色の髪の少女が入ってきた。

 

 十八歳になったケイシーは少女というよりは若い女性の風格を備えつつあった。

 

 その瞳には強い決意の光が宿っている。

 

「魔術師長様、お願いがございます」

 

「ほう」

 

「私を性別転換の魔術の被験者にしてください」

 

 ガルバロスは目を見開いた。

 

 まさか被験者の方から現れるとは思わなかった。

 

「正気か、小娘」

 

「正気でございます」

 

 ケイシーは一歩も引かなかった。

 

「その代わり、お願いがあります」

 

「代わり、だと?」

 

「魔術が完成した暁には私を再び姫様──いえ、殿下の従者に任命していただけるよう、陛下に推薦していただきたいのです」

 

 ガルバロスは顎髭を撫でながら考え込んだ。

 

 従者は同性でなければならない。

 

 ファリスが男になれば、女のケイシーは従者でいられなくなる。

 

 しかしケイシー自身も男になれば──話は別だ。

 

「なるほど、そういうことか」

 

 ガルバロスは薄く笑った。

 

「よかろう。お前の申し出、受けてやる。ただし、実験は一度では済まぬぞ。何度も繰り返し、魔術を調整する必要がある。それなりに苦痛を味わう事になると思うが良いのか?」

 

「覚悟の上です」

 

 ケイシーの声に迷いはなかった。

 

 ◇

 

 秘密の実験は週に一度、もしくは二度ほど行われる。

 

 ケイシーは幾度となく性別を変えられ、その都度、魔術の精度が上げられていった。

 

 苦痛もあった。

 

 体が作り変わるたび、骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる感覚に襲われるのだ。

 

 だが彼女は──いや、時には彼は耐え抜いた。

 

 ──すべてはファリス様のそばにいるために。

 

 そうして五年の歳月が過ぎ──

 

 ・

 ・

 ・

 

「これで完成だ」

 

 ガルバロスは満足げに宣言した。

 

「王女に施しても、何の問題もあるまい。まあファリス王女は()()()()()()()()()()()だろうが」

 

 ケイシーは安堵の息を漏らした。

 

 これでファリスのそばにいられる。

 

 男の姿になってしまうがそれでも──。

 

「約束は守ってもらえますね」

 

「もちろんだ。お前がいなければ、この魔術は完成しなかった。王にはそう進言する」

 

 ファリスの十五歳の誕生日。

 

 それは祝いの日であると同時に別れの日でもあった。

 

 ◇

 

「姫様、お誕生日おめでとうございます」

 

 ケイシーは精一杯の笑顔で言った。しかしその目には隠しきれない悲しみがあった。

 

「ケイシー……本当に今日で最後なの?」

 

 ファリスの声が震えている。

 

「はい。姫様が男性になられれば、私は従者ではいられなくなります。規則ですから」

 

 ファリスは俯いた。

 

 この五年間、両親からの関心は確かに増えた。

 

 将来の王として、様々な教育を受けさせてもらえるようになった。

 

 だがそれと引き換えに唯一の心の支えを失うことになる。

 

「私、父上と母上にお願いしてみるわ。規則を変えてもらえないかって」

 

「それは……難しいかと」

 

 ケイシーは首を振った。

 

「従者制度は何百年も続いてきたものです。一人の従者のために変えられるとは思えません」

 

 ファリスは唇を噛んだ。

 

 分かっている。

 

 分かっているのだ。

 

 それでも──。

 

 その日の夕刻、ファリスは魔術師長の研究室に呼び出された。

 

 広い部屋の中央には複雑な魔法陣が描かれている。

 

 蝋燭の炎が円を囲むように並び、不思議な香が焚かれていた。

 

 国王夫妻も立ち会っていた。

 

 珍しく、二人とも真剣な表情をしている。

 

「では始めるぞ」

 

 ガルバロスが杖を構えた。

 

 ファリスは魔法陣の中央に立った。

 

 心臓が激しく鳴っている。

 

 怖い──そう思った。

 

 だが後には引けない。

 

 これが両親の望みなのだから。

 

 詠唱が始まった。

 

 古代語の呪文が低く響き渡る。

 

 魔法陣が光を放ち、ファリスの体を包み込んでいく。

 

 熱い。

 

 痛い。

 

 体の奥深くで、何かが変わっていく感覚。

 

 骨が軋み、肉が蠢き、全身が作り変えられていく。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。

 

 おそらくは数分。

 

 だがファリスにとっては永遠にも思えた。

 

「……完了だ」

 

 ガルバロスの声が聞こえた。

 

 ファリスはゆっくりと目を開けた。

 

 体が軽い──いや、違う。

 

 バランスが変わったのだ。

 

 重心の位置が以前とは異なっている。

 

 視線を落とすと細かった手が少し骨太になっていた。

 

 胸は平らになり、肩幅が広がっている。

 

「素晴らしい」

 

 国王が感嘆の声を上げた。

 

「これで、王位継承者ができたというわけだ」

 

 王妃も満足げに頷いている。

 

 その目には初めて見る種類の光があった。

 

 期待──いや、打算と言った方が正確かもしれない。

 

「ファリス、いや、これからは王子と呼ばねばならんな」

 

 国王がファリスに歩み寄った。

 

「明日から、お前の教育はさらに本格的なものになる。心して励め」

 

「はい、父上」

 

 ファリスの声も変わっていた。

 

 少女の澄んだソプラノではなく、少年の若々しいテノールに。

 

 翌日から、すべてが変わった。

 

 ファリスは東棟の日陰の部屋を出て、王子としてふさわしい広々とした居室を与えられた。

 

 食事も豪華になり、衣服も上等なものが用意される。

 

 これまでの十五年間がまるで嘘のような変わりようだった。

 

 そして──ケイシーの姿はもうなかった。

 

 ◇

 

 ファリスに付けられた新しい従者は、mカシェルという名の青年であった。

 

「殿下、本日の予定をお伝えいたします」

 

 カシェルは礼儀正しく頭を下げた。栗色の髪を短く刈り込み、青い飾り紐を肩にかけている。

 

 その瞳は深い翠色で、ケイシーによく似ている。最初は兄かと思ったファリスだが、全くの別人であるらしい。

 

 そのカシェルだが、一言で言えば完璧な従者だった。

 

 身の回りの世話は行き届き、礼儀作法の指導も的確だ。

 

 何より、常にファリスの心情を慮り、押し付けがましくなく寄り添ってくれる。

 

 だがファリスにはどこか違和感があった。

 

 カシェルの立ち居振る舞いには初対面の者とは思えない馴染み深さがある。

 

 ファリスの好みや癖を最初から知っているかのように。

 

「カシェル」

 

 ある夜、ファリスは尋ねた。

 

「お前は本当に以前私と会った事はないのか」

 

「はい、殿下。私が殿下についてよく知っているのは、以前の従者──ケイシー殿から申し送りを受けたからです」

 

「そうか……すまない、変なことを聞いた」

 

「いえ、お気になさらず」

 

 カシェルは微笑んだ。

 

 その笑顔もどこかケイシーに似ており、ファリスは胸の奥に痛みを覚えた。

 

 ◇

 

 十七歳になったファリスに婚約者が決まった。

 

 相手はリヴァイン公爵家の令嬢、セレスティア。

 

 十六歳で、王国一の美貌と聡明さを誇ると言われている。

 

「リヴァイン公爵は王国最大の軍事力を持つ。その娘を王太子妃に迎えれば、お前の立場は盤石となる」

 

 国王はファリスに告げた。

 

「分かりました、父上」

 

 ファリスは頭を下げた。

 

 拒否権などないことは分かっていた。

 

 そして婚約発表の日、ファリスは初めてセレスティアと顔を合わせた。

 

 噂に違わぬ美しさである。蜂蜜色の髪を優雅に結い上げ、青い瞳は知性に輝いている。

 

 礼儀作法も完璧で、誰が見ても理想的な王太子妃候補だった。

 

 だが、その目の奥にかすかな冷たさがあった。そして──

 

 ──あの冷たさは私の目の奥にもあるのだろうな。

 

 そんな事を思うファリスであった。ファリスは、そしてセレスティアは互いに一目で気付いたのだ。

 

 互いの間に愛が生まれる事はないだろうと。

 

 ◇

 

 婚約の儀式が終わり、二人きりになった時。

 

 セレスティアから先に仮面を外した。

 

「殿下、お互い正直に話しませんか」

 

「正直に?」

 

「ええ、率直に」

 

「そうか、では率直に聞こう。お前は私を軽蔑しているか? 私が“作られた王子”であることを」

 

「軽蔑? いいえ」

 

 セレスティアは首を振った。

 

「同情はしますが軽蔑はしません。殿下が選んだことではないのでしょう?」

 

「そうだ。私は……」

 

「お気持ちは分かります。ですが私も正直に申し上げます」

 

 セレスティアは深い息をついた。

 

「私は殿下を愛することができません。元が女性であった方をそのような目で見ることは……」

 

「分かっている」

 

 ファリスは静かに言った。

 

「私も同じだ。女性を愛することは私にはできない」

 

 二人は見つめ合った。そこには恋情の欠片もない。だが連帯があった。

 

「白い結婚という選択肢もあるのでしょうが」

 

 セレスティアが口を開いた。

 

「私たちにはそれすら許されません。私は世継ぎを産まねばならない。それが使命なのです」

 

「ああ」

 

「道具のようですね、私たちは」

 

「まったくだ」

 

 二人は苦笑を交わした。

 

 愛をはぐくむ事はできなくても、せめて、この歪んだ状況を共に耐え抜く同志でいよう──そんな暗黙の了解が生まれた瞬間である。

 

「私はできる限り殿下を支えます」

 

 セレスティアは言った。

 

「王太子妃としての務めは果たします。ただ……」

 

「愛は求めない。分かっている」

 

「ありがとうございます、殿下」

 

 こうして、奇妙な婚約関係が始まった。

 

 表向きは仲睦まじい王太子と婚約者。しかしその実態は、政略の駒として互いを認め合う同盟者に過ぎなかった。

 

 カシェルはファリスとセレスティアの関係を黙って見守っていた。

 

 ◇

 

 ある夜、ファリスがぽつりと漏らした。

 

「カシェル、私はこれでよかったのだろうか」

 

「何がでございますか、殿下」

 

「すべてだ。男になったこと。婚約者を得たこと。王太子として生きることを受け入れたこと」

 

 カシェルは答えに窮した。

 

 本当のことを言えば──ファリスには別の道があったかもしれない。

 

 王位など捨てて、自分らしく生きる道が。

 

 だが今更そんなことを言っても仕方がない。

 

「殿下はご自身の選択を責める必要はありません」

 

 カシェルは慎重に言葉を選んだ。

 

「どのような道を選んでも殿下は殿下です。それは変わりません」

 

「そうだろうか」

 

 ファリスは窓の外を見つめた。

 

 月明かりが彼の横顔を青白く照らしている。

 

「私は時々、自分が誰なのか分からなくなる。男なのか、女なのか。王子なのか、それとも……」

 

「殿下」

 

 カシェルは思わず一歩踏み出した。

 

「私は殿下がどのような姿であっても、変わらずお仕えいたします。それだけはどうかお信じください」

 

 ファリスはカシェルを見た。

 

「カシェル……お前は本当に不思議な男だな」

 

「不思議、でございますか」

 

「ああ。まるで、ずっと前から私を知っているかのようだ」

 

 カシェルは表情は変えず、穏やかに微笑んでみせる。

 

「気のせいでございましょう、殿下。私はただ、殿下にお仕えできることを光栄に思っているだけです」

 

 ファリスは何か言いかけて、やめた。

 

 ◇

 

 そうして再び時が流れ──ファリスが十九歳になった年、王宮に激震が走った。

 

 宮廷魔術師長ガルバロスが新たな発明を成し遂げたのである。

 

「不妊を治す霊薬でございます」

 

 ガルバロスは得意げに国王夫妻の前に薬瓶を差し出した。

 

「これを服用すれば、かならずや御子が授かるでしょう。年齢の問題もあるとご懸念かもしれませんが、むろんそこを解決してこその霊薬でございます。王妃様におかれましては、この霊薬を服用していただければ何も問題なく出産に至りましょう」

 

 国王夫妻は顔を見合わせた。

 

 まさしく福音だ──しかし、問題があった。

 

「もし男児が生まれたら」

 

 王妃が小声で言った。

 

「ファリスはどうなるの?」

 

「うむ……」

 

 国王は考え込んだ。

 

 現在、ファリスは王太子として認められている。

 

 だがそれは他に継承者がいないからに過ぎない。

 

 もし正統な男児が生まれれば──魔術で性別を変えた「偽りの」王子など、誰も必要としなくなる。

 

「正直に申せば」

 

 国王は低い声で言った。

 

「あの子は……中途半端だ。体は男になったとはいえ、心は女のまま。女性を愛することもできず、世継ぎを儲ける見込みも薄い」

 

「セレスティア嬢との婚姻は?」

 

「形ばかりのものになるだろう。リヴァイン公爵も、そのうち不満を持つはずだ。その時に婚約を破棄させればよい」

 

 王妃は頷いた。

 

 二人の間で、暗黙の了解が成立しつつあった。

 

 もし霊薬が効いて男児が生まれたら──ファリスを廃嫡しよう。

 

 どのような名目をつけるかは後から考えればよい。いや、あるいは。

 

「“北の塔”におしこめておく、という手もあるな」

 

 北の塔とは簡単に言えば、表の世界にいてもらっては困るが、かといって軽々しく命を奪う事も出来ない訳あり貴人を幽閉する場所を言う。

 

 そこに閉じ込められた者は次第に心と体を弱らせていき、緩やかに死に至る。そんな場所に実の娘──あるいは息子を送り込む手もアリだというのだから、貴族社会とは実に残酷だ。

 

 だがそんな国王の残酷な言葉に、王妃は顔色一つ変える事がなかった。

 

 この密談は表向きは秘密とされていた。

 

 だが宮廷とは秘密が秘密のままであることなど稀有な場所である。

 

 誰かの口から漏れた話はやがて廷臣たちの間で囁かれるようになり──そしてカシェルの耳にも入った。

 

 ◇

 

「殿下の廃嫡だと……?」

 

 カシェルは顔色を変えた。

 

 情報源は厨房で働く下女だった。

 

 王妃付きの侍女と親しく、そこから漏れ聞いた話だという。

 

「どうやら本当らしいですよ」

 

 下女は声を潜めて言った。

 

「国王陛下も王妃様も、王子殿下のことを『中途半端』だと……」

 

 カシェルは拳を握りしめた。

 

 中途半端──なんという言いぐさだろうか。

 

 ファリスは両親のために自分の体を作り変えたのだ。

 

 それを「中途半端」と切り捨てるのか。

 

 問題はこの話をファリスに伝えるべきかどうかだった。

 

 知らせれば、ファリスは深く傷つくだろう。

 

 だが知らせなければ、不意を突かれることになる。

 

 迷った末、カシェルは真実を告げる決心をした。

 

 しかし──

 

 ──この国は、殿下を裏切った。しかし殿下は私が守る。そして、それだけでは終わらせない。……準備が必要だな

 

 そして一か月後。

 

 ・

 ・

 ・

 

「殿下、お耳に入れたいことがございます」

 

 その夜、ファリスの私室でカシェルは事のあらましを説明した。

 

 ファリスは最初、信じられないという顔をした。

 

 だが話が進むにつれ、その表情は絶望へと変わっていく。

 

「廃嫡……そうか、そういうことか」

 

 ファリスの声は驚くほど落ち着いていたが、カシェルは縁ぎりぎりまで水が注がれたグラスを幻視した。

 

「私は父上と母上のためにすべてを捧げてきたつもりだった。生まれ持った性別を変え、望まない婚約を受け入れ、王になるための教育に励んできた。それなのに……」

 

「殿下……」

 

 カシェルは何と言えばいいか分からなかった。

 

「結局、私は道具だったのだな」

 

 ファリスは乾いた笑いを漏らした。

 

「世継ぎが得られなかったから、仕方なく使われた代用品。本物ができれば、もう用済みというわけだ」

 

「殿下、お気を確かに」

 

「気は確かだ、カシェル。むしろ、これでようやく目が覚めた」

 

 ファリスは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

 

 夜空には星がまたたいている。

 

 同じ星を十年前の自分も見ていただろう。

 

 あの頃はまだ、両親の愛を信じていた。

 

「私は愚かだった。愛されていないと分かっていたのにそれでも愛されたいと願い続けた。どんな犠牲を払っても、振り向いてもらえれば報われると思っていた」

 

「殿下……」

 

「だが違ったのだ」

 

 ファリスは振り返った。

 

 瞳は爛と輝き、しかし瞳に宿る光は健全なモノではない。

 

 一種の妖気とも言えるなにかをその目に宿し、ファリスは口を開いた。

 

「カシェル、私はこの宮廷を出ようと思う」

 

「え……?」

 

「ここにいても、私の未来はない。廃嫡されるか、生涯、道具として使われ続けるか。どちらも御免だ」

 

 カシェルは息を呑んだ。

 

 まさかファリスの口から、そのような言葉が出るとは。

 

 だが──これは好機かもしれない。

 

 カシェルの心にある考えが浮かんだ。

 

「殿下、一つ提案がございます」

 

「なんだ」

 

「亡命なさいませ」

 

 ファリスは目を見開いた。

 

 ◇

 

「亡命? どこへ」

 

「ネファリアン帝国へ」

 

 ネファリアン帝国──王国の東方に位置する大国だ。

 

 古くから王国とは小競り合いを続けており、決して友好的な関係とは言えない。

 

「なぜ帝国なのだ。あそこは我が国の敵ではないか」

 

「だからこそです、殿下」

 

 カシェルは一歩踏み出した。

 

「帝国は王国の王太子を保護することで大きな外交上の優位を得ます。殿下を粗末に扱う理由がありません」

 

「しかし……」

 

「お考えください、殿下。このまま王国に留まれば、殿下の運命は両親の手の中です。しかし帝国へ渡れば、殿下はご自身の人生を取り戻すことができます」

 

 ファリスは黙り込んだ。

 

 ファリスは宮廷を出るとは言ったが、それは国を出るという事ではない。あくまでも王太子という立場を捨てて市井の民として生きよう、そんな意味だった。

 

 虎視眈々と王国を狙うネファリアン帝国に渡ろうというつもりなどはさらさらなかった。

 

 帝国への亡命──それは裏切りではないのか。

 

 祖国を捨てることではないのか。

 

 だがその祖国は自分を何と見なしていた? 

 

 道具だ。

 

 都合のいい道具として作り替え、不要になれば捨てようとしている。

 

 そのような国に忠誠を尽くす義理があるだろうか。

 

「……私についてきてくれるか」

 

 ファリスは静かに尋ねた。

 

「もちろんです」

 

 カシェルは即答した。

 

「私はどこまでも殿下にお仕えいたします」

 

 ファリスはカシェルを見つめた。

 

 この従者との出会いはわずか四年前。

 

 だが今ではこの男なしの人生など考えられない。

 

「カシェル、お前には感謝している」

 

「勿体ないお言葉です」

 

「いや、本心だ。お前がいなければ、私はとうに壊れていただろう。お前は……ケイシーに似ている」

 

 カシェルの表情が一瞬だけ揺れた。

 

「そうか。似ているのだ、お前とあの子は。いや、似ているどころか……時々、同じ人間ではないかとさえ思う」

 

「以前も──その様に仰っておりました」

 

「まあいい、今はそんなことはどうでもいい」

 

 ファリスは首を振った。

 

「亡命の準備を進めよう。いつ出発できる」

 

「三日後の夜が好機かと。護衛の交代時間を狙えば、城を抜け出すことができます」

 

「分かった。任せる」

 

 カシェルは頭を下げた。

 

 そして部屋を出ようとしたとき──ファリスが呼び止めた。

 

「カシェル」

 

「はい」

 

「……ありがとう」

 

 その言葉にカシェルは微笑んだ。

 

 ◇

 

 月影昏い、三日後の深夜。

 

 ファリスとカシェルは王宮の裏門から静かに抜け出した。

 

 二人とも質素な旅装に身を包み、顔を隠す頭巾を被っている。

 

「こちらです、殿下」

 

 カシェルが先導した。

 

 裏道を通り、下町を抜け、東門へと向かう。

 

 途中、何度か夜警の姿を見かけたがうまく隠れて難を逃れた。

 

 カシェルは城の構造と警備の配置を熟知していた。

 

 まるで長年ここで暮らしてきたかのように。

 

 東門の脇に一台の馬車が待っていた。

 

 御者台にはフードを被った人物が座っている。

 

「予定通りだ」

 

 カシェルは低く言った。

 

 馬車に乗り込み、二人は王都を後にした。

 

 振り返ると王宮の塔が遠ざかっていくのが見えた。

 

 ファリスは複雑な思いでそれを見つめた。

 

「後悔はございませんか」

 

 カシェルが尋ねた。

 

「……分からない」

 

 ファリスは正直に答えた。

 

「だがもう後には引けない。引く気もない」

 

 ◇

 

 夜通し馬車は走り続け、夜明けとともに国境近くの村に到着した。

 

 ここで馬を替え、帝国領へと入る手筈になっている。

 

「少し休みましょう、殿下。帝国領に入れば、もう追手の心配はありません」

 

「そうだな……」

 

 小さな宿に部屋を取り、ファリスはベッドに横たわった。

 

 疲れていたはずだがなかなか眠れない。

 

 頭の中で、様々な思いが渦巻いている。

 

 両親のこと。

 

 セレスティアのこと。

 

 そして──ケイシーのこと。

 

「ケイシー……今、どこにいるのだろう」

 

 ファリスは天井を見つめながら呟いた。

 

 隣の部屋から、カシェルの気配がした。

 

 壁一枚を隔てて、二人は眠れぬ夜を過ごしていた。

 

 翌日の昼過ぎ、一行は帝国領に入った。

 

 国境では何の問題もなかった。

 

 カシェルがあらかじめ手を回していたのだ。

 

「帝国には私の知人がおります」

 

 カシェルは説明した。

 

「宮廷に繋がりのある者で、殿下の亡命を受け入れるよう働きかけてくれています」

 

「お前はずいぶんと手回しがいいな」

 

 ファリスは半ば感心し、半ば呆れて言った。

 

「まるで、この事態を予見していたかのようだ」

 

「……可能性の一つとして、準備は進めておりました」

 

 カシェルは曖昧に答えた。

 

 ◇

 

 帝都ネファリアまで、さらに数日の旅程だった。

 

 その間、ファリスとカシェルは多くの時間を共に過ごした。

 

 馬車の中で語り合い、宿では隣り合って食事をし、時には夜更けまで話し込んだ。

 

「カシェル」

 

 ある夜、ファリスが言った。

 

「お前のことをもっと知りたい。お前は私のことを何でも知っているが私はお前のことをほとんど知らない」

 

 カシェルは困ったような顔をした。

 

「私のことなど、取るに足りませぬ」

 

「そんなことはない。お前は私にとって、唯一信頼できる人間だ。もっとお前を知りたいと思うのは当然だろう」

 

 カシェルは黙り込んだ。

 

「では……少しだけ」

 

 カシェルは言葉を選びながら話し始めた。

 

「私は没落した貴族の出身です。家が傾いた後、宮廷に仕えるようになりました」

 

「それはケイシーと同じだな」

 

 ファリスが呟いた。

 

「そうですね……似た境遇かもしれません」

 

「やはりお前はケイシーと何か関係があるのではないか」

 

「殿下……」

 

「いや、いい。答えられないなら、答えなくてもいい。ただ……」

 

 ファリスは言葉を切った。

 

 何かを言いかけて、やめたのだ。

 

「ただ?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 その夜、ファリスは夢を見た。

 

 ・

 ・

 ・

 

 幼い頃の夢だ。

 

 ケイシーと一緒に庭園を散歩している。

 

「姫様、あのお花はなんという名前でしょうか」

 

「えっと……忘れちゃった」

 

「アマリリスですわ。『おしゃべり』という花言葉があるんですよ」

 

「おしゃべり? じゃあ、ケイシーにぴったりね」

 

「まあ、姫様ったら」

 

 二人で笑い合う。

 

 温かく、穏やかな時間。

 

 目を覚ますと涙が頬を伝っていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 帝都ネファリアは王都とは全く異なる雰囲気だった。

 

 赤い煉瓦造りの建物が並び、大通りには異国の香辛料の匂いが漂っている。

 

 人々の服装も華やかで、活気に満ちていた。

 

「なるほど……これが帝国か」

 

 ファリスは興味深げに周囲を見回した。

 

 カシェルの手引きで、二人は帝国宮廷に謁見を許された。

 

 帝国皇帝ヴァレリウス三世は壮年の威厳ある人物だった。

 

 玉座に座り、二人の来訪者を冷静な目で見つめている。

 

「エステリア王国の王太子ファリス殿か」

 

 皇帝は低い声で言った。

 

「まさか貴殿がこの地を訪れるとは予想もしなかった」

 

「陛下、私は亡命を願い出ます」

 

 ファリスは膝をついて言った。

 

「祖国の王宮では私の居場所がなくなりました。どうか保護をお与えください」

 

 皇帝はしばらく沈黙した。

 

 それから、かすかに口角を上げる。

 

「事情は聞いている。貴殿の従者が事前に知らせてくれた」

 

 ファリスはカシェルを見た。

 

 カシェルは静かに頷く。

 

「帝国は貴殿を歓迎しよう。亡命者としてではなく、賓客として」

 

「ありがたき幸せです、陛下」

 

「ただし、一つ条件がある」

 

 皇帝は身を乗り出した。

 

「貴殿には王国の話を聞きたい。貴殿本人の事だけではない。王国の貴族、軍用、民草の暮らし。経済もだ。ありとあらゆるすべてを、包み隠さずに」

 

 ファリスは一瞬躊躇した。

 

 王国の内情を明かすことは祖国への裏切りになるかもしれない。

 

無論、ファリスが躊躇する理由はなかった。王国は彼を裏切ったのだ。しかしそれでも皇帝の瞳に浮かぶ剣呑な光の前に臆した。もしファリスが話せば、王国がタダで済むとは思えなかった。

だが──

「ファリス様、私はそれらを皇帝陛下に話すという条件の元、亡命を受け入れてもらったのです。事後報告になり、申し訳ありません……。ですが……」

 

カシェルがそこまで言うと、ファリスもようやく腹を括る。

 

「承知いたしました」

 

 ファリスは頭を下げた。

 

 それからの数日間、ファリスは皇帝の前で王国の内情を語った。

 

 性別転換の魔術のこと。

 

 自分が道具として扱われてきたこと。

 

 廃嫡の計画があったこと。

 

 皇帝は黙って聞いていたが、その目に宿る剣呑な光が強まっていく。

 

「なるほど……これは実に興味深い」

 

 最後に皇帝は言った。

 

「エステリア王国は貴殿にずいぶんと非道な仕打ちをしたものだ」

 

「陛下……」

 

「我が帝国は人道を重んじる。王族の一員をそのように扱うとは許しがたい蛮行である」

 

 ファリスは皇帝の意図を悟った。

 

 これは侵略の口実になる。

 

 帝国は長年、王国との戦争を望んでいたが大義名分がなかった。

 

 今、それが手に入ったのだ。

 

「陛下、一つお願いがございます」

 

 ファリスは言った。

 

「もし王国との戦になるならば……民にはできる限り被害が及ばぬようにしていただきたい」

 

 皇帝は意外そうな顔をした。

 

「貴殿を苦しめた国の民のことを気にかけるのか」

 

「民に罪はありません。私を道具として扱ったのは王家と貴族たちです。庶民はただ日々の暮らしを営んでいるだけです」

 

 皇帝はしばらくファリスを見つめ、それから深く頷いた。

 

「よかろう。貴殿の願い、聞き届けよう。帝国軍は可能な限り、民への被害を抑える」

 

「感謝いたします、陛下」

 

 ◇

 

 こうして、帝国はエステリア王国への侵攻を決定した。

 

「人道に反する行為への制裁」という大義名分を掲げて。

 

 周辺諸国もこれに同調し、連合軍が結成された。

 

 王国は四方から攻め込まれ、あっという間に劣勢に陥った。

 

 戦況は帝国の圧倒的優勢で進んだ。

 

 王国軍は各地で敗退し、領土は次々と蚕食されていく。

 

 そして戦争が始まってから半年後。

 

 エステリア王国は降伏した。

 

 国王アレクシス三世は退位を余儀なくされ、王位は空位となった。

 

 帝国は王国を直接統治するのではなく、傀儡政権を立てる方針を取った。

 

 その方が長期的には都合がいいからだ。

 

 ファリスは帝都に留まり、戦況を見守っていた。

 

 複雑な思いだった。

 

 両親が退位に追い込まれたことに心のどこかで痛みを感じる。

 

 だがそれ以上にようやく終わったという安堵があった。

 

「殿下」

 

 カシェルが声をかけてきた。

 

「お疲れでしょう。少しお休みください」

 

「ああ……そうだな」

 

 ファリスは与えられた屋敷の自室に戻った。

 

 窓から外を見ると帝都の街並みが広がっている。

 

 ここで新しい生活が始まる。

 

 これからどうなるのか、まだ分からない。

 

 だが少なくとも、もう道具として扱われることはないだろう。

 

「カシェル」

 

「はい」

 

「お前には本当に世話になった」

 

 カシェルは微笑むが、何かを含んだような笑みだった。

 

「殿下、実は……お話ししたいことがございます」

 

「なんだ」

 

「今夜、改めてお時間をいただけますか。その時にすべてをお話しします」

 

 ファリスは怪訝な顔をしたが頷いた。

 

「分かった。待っている」

 

 ◇

 

 その夜。

 

 ファリスは自室でカシェルを待っていた。

 

 蝋燭の明かりが揺らめいている。

 

 扉を叩く音がした。

 

「入れ」

 

 扉が開いた。

 

 そして、ファリスは言葉を失った。

 

 そこに立っていたのはカシェルではなかった。

 

 栗色の髪を長く伸ばし、青い飾り紐を肩にかけた若い女性。

 

 深い翠色の瞳の──

 

「ケイシー……?」

 

 ファリスは信じられない思いで呟いた。

 

「お久しぶりです、殿下」

 

 ケイシーは静かに言った。

 

「いえ……姫様とお呼びした方がよろしいでしょうか」

 

 ファリスは立ち上がった。

 

 足が震えている。

 

「ケイシー……本当にケイシーなのか。でもどうして……カシェルは……」

 

「カシェルは私です」

 

 ケイシーは一歩踏み出した。

 

「私も、性別転換の魔術を受けていたのです」

 

「なんだって……?」

 

 ケイシーはすべてを話した。

 

 ガルバロスとの取引のこと。

 

 実験台となり、何度も性別を変えられたこと。

 

 そしてファリスのそばにいるために男の姿でカシェルとして仕えていたこと。

 

「不幸中の幸いと申しますか……数多の実験をこの身に受ける事で、私は自身の意思で性別を変えられるようになったのです」

 

 ファリスは呆然と聞いていた。

 

 すべてが腑に落ちていく。

 

 カシェルがケイシーに似ていると感じた理由。

 

 最初から自分のことを知っているような振る舞い。

 

 それらすべてが今ようやく説明がついた。

 

「なぜ……なぜ黙っていた」

 

 ファリスの声が震えた。

 

「禁じられていたのです」

 

 ケイシーは俯いた。

 

「王家から、殿下には決して明かすなと。もし明かせば、二度と従者として仕えることは許さぬと」

 

「そんな……」

 

「でももう王国の命令に従う必要はありません。だから今夜、すべてをお話しすることにしました」

 

 ファリスはケイシーを見つめた。

 

 四年間、すぐそばにいた。

 

 同じ空間で時を過ごし、同じ食事を取り、同じ困難を乗り越えてきた。

 

 それなのに真実を知らなかった。

 

「馬鹿だな、私は」

 

 ファリスは苦笑した。

 

「ずっとお前のそばにいて、気づかなかった」

 

「気づかないのは当然です。私の体は完全に男のものでしたから」

 

「でも瞳の色は同じだった。声の調子も、仕草も……」

 

「殿下……」

 

「いや、もう殿下と呼ぶな」

 

 ファリスはケイシーの手を取った。

 

「私たちはもう、主従ではない。同じ立場の、二人の人間だ」

 

 ケイシーの目から涙がこぼれた。

 

「ファリス様……」

 

「様もいらない。ただファリスと呼んでくれ」

 

 二人は見つめ合った。

 

 長い、長い沈黙の後。

 

 ファリスは静かに言った。

 

「ケイシー、ありがとう」

 

「え……」

 

「お前は私のために体を差し出した。何度も苦しい思いをして、それでも私のそばにいてくれた。その恩を私は一生忘れない」

 

 ケイシーは首を振った。

 

「私は自分がそうしたかっただけです。ファリス……あなたのそばにいたかった。それだけなのです」

 

 その言葉には単なる従者の忠誠を超えた何かがあった。

 

 ファリスはそれに気づいた。

 

 気づいて、胸が熱くなった。

 

「ケイシー……」

 

「ファリス……」

 

 二人は静かに抱き合った。

 

 言葉は必要なかった。

 

 長い年月を経て、ようやく本当の姿で向き合うことができた。

 

 それだけで、十分だった。

 

 ◇

 

 それから数か月が過ぎた。

 

 ファリスとケイシーは帝都の郊外に小さな屋敷を与えられ、穏やかな日々を送っていた。

 

 もはや王太子でもなく、従者でもない。

 

 ただの二人の人間として、新しい生活を始めていた。

 

 ある日、帝国の宮廷魔術師長から呼び出しがあった。

 

 帝国の魔術師長はガルバロスよりもさらに優れた術者だった。

 

 彼は性別転換の魔術を研究し、ある発見をしたのだという。

 

「ファリス殿、朗報です」

 

 魔術師長はにこやかに言った。

 

「性別転換を解除する魔術を編み出しました。もしご希望であれば、元の女性の姿に戻ることができます」

 

 ファリスは驚いた。

 

 元に戻れる──それは考えてもみなかったことだった。

 

「……考えさせてください」

 

 ファリスは答えた。

 

 屋敷に帰り、ケイシーにこの話を伝えた。

 

 ケイシーは静かに聞いていたがその表情は複雑だった。

 

「どうすべきだと思う?」

 

 ファリスは尋ねた。

 

「それは……ファリスが決めることです」

 

 ケイシーは慎重に答えた。

 

「私がどうこう言うことではありません」

 

「でもお前の意見が聞きたい」

 

「私は……」

 

 ケイシーは言葉を探した。

 

「私はどちらのファリスでも構いません。男でも女でも。ファリスはファリスです」

 

「本当にそう思うか」

 

「はい」

 

 ファリスは黙り込んだ。

 

 女に戻れば──かつての自分を取り戻せる。

 

 十五年間生きてきた、本来の自分の体を。

 

 だが同時に不安もあった。

 

「ケイシー、正直に言ってくれ」

 

 ファリスは真剣な目でケイシーを見つめた。

 

「私が女に戻ったら、お前との関係は変わるのか」

 

 ケイシーは息を呑んだ。

 

「どういう……意味ですか」

 

「私たちは今、どういう関係なのだろう。主従ではない。友人以上の何かだと私は感じている。それは……」

 

「ファリス……」

 

「私が女に戻れば、お前と私は二人の女になる。それはお前にとって……」

 

 ケイシーの頬が赤くなった。

 

 ファリスも同様だ。

 

「私は……」

 

 ケイシーは小さな声で言った。

 

「私はファリスがどのような姿であっても、この気持ちは変わりません。それが許されるものかどうかは分かりませんが……」

 

「許されるとか、許されないとか」

 

 ファリスは苦笑した。

 

「私たちはもう、そういうことを気にする立場ではないだろう。王国の規則も、世間の目も、ここでは関係ない」

 

「でも……」

 

「ケイシー」

 

 ファリスはケイシーの手を取った。

 

「私はまだ決められない。女に戻るべきか、このままでいるべきか。でも一つだけ確かなことがある」

 

「なんですか」

 

「お前と一緒にいたい。それだけは変わらない」

 

 ケイシーの目から涙があふれた。

 

 今度は悲しみの涙ではなかった。

 

「ファリス……私も、あなたとずっと一緒にいたい」

 

「なら、それでいいじゃないか」

 

 ファリスは微笑んだ。

 

「体がどうなろうと心がどうなろうと。二人でいれば、きっとなんとかなる」

 

「楽観的すぎますわ、それは」

 

 ケイシーは涙を拭いながら笑った。

 

「楽観的でいいじゃないか。今まで十分、辛い思いをしてきたんだ。これからは楽しいことだけ考えよう」

 

「まったく……ファリスらしいですわね」

 

「お前はそういうところが好きなんだろう?」

 

「自意識過剰ですわ」

 

 二人は笑い合った。

 

 窓からは帝都の夕暮れが見える。

 

 赤く染まった空が二人を包み込んでいた。

 

「そうだ、ケイシー」

 

「はい?」

 

「さっき言いかけて、やめた言葉がある」

 

「なんですか」

 

「私は……お前のことが好きだ」

 

 ケイシーは目を見開いた。

 

 そしてゆっくりと満面の笑みを浮かべた。

 

「私もです、ファリス。ずっとずっと前から」

 

「ずっと前?」

 

「あなたがまだ姫様だった頃から。庭園で一緒に花を見た日から」

 

 ファリスは驚いた表情をしたがすぐに笑顔になった。

 

「そんなに長く……」

 

「長いですわね。十年以上です」

 

「よく待ってくれたな」

 

「待つのは得意ですから。あなたのためなら、いくらでも」

 

 二人は再び抱き合った。

 

 今度は離れたくなかった。

 

 ずっとこのままでいたいと思った。

 

「ねえ、ファリス」

 

「なんだ」

 

「性別転換のことゆっくり考えればいいと思います」

 

「ああ」

 

「どちらを選んでも私は隣にいます。それだけは覚えておいてください」

 

「分かっている」

 

 ファリスはケイシーの髪を撫でた。栗色の髪は昔と同じように柔らかい。

 

「私も、お前の隣にいる。いつまでも」

 

「約束ですよ」

 

「ああ、約束だ」

 

 帝都の夜が更けていく。

 

 二人の前にはまだ決めなければならないことが山積みだった。

 

 性別のこと。

 

 これからの生活のこと。

 

 二人の関係のこと。

 

 だが今夜はそれらを考える必要はなかった。

 

 今夜だけはただ二人でいることを楽しめばいい。

 

 長い旅路の果てにようやく辿り着いた平穏を噛みしめればいい。

 

「今夜は──」

 

 ファリスが口を開くが、あとが続かない。だが──

 

「一緒に寝ますか?」

 

 ケイシーが悪戯っぽくあとを引き取った。それに対する答えは、まあ、言うまでもないだろう。

 

 帝都の夜が更けていく。

 

(了)

 

 


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