*
木曜日のトレーニングコースは、活気に満ち溢れている。
特に放課後練習の時間はレースに出走するウマ娘たちの最終追い切りを取材しようと、たくさんのマスコミが駆けつけるからだ。
「レイナ、おつかれ! まずはこれを飲んでくれ」
ウッドチップコースを一杯で追い切ってスタート地点へ戻ってきた私に、トレーナーさんがスポーツドリンクを差し出してくれる。
「ありがとう。タイムはどうだった?」
「5ハロンの走破タイムが65秒。ラスト200Mが11.5。タイムもペースも言うことなしだね」
「そうね……その時計なら、悪くないわ」
トレーナーさんからタイムを聞いた私は、軽く相づちを打った。
いつもの話を交わす私たちに、マスコミの人たちが一斉にカメラやスマホを向けてくる。
冷たいドリンクを火照った身体に早く流し込みたかったけど、ゴクゴク一気に飲んでいる姿を撮られるのがなんとなく嫌で、仕方なく自重した。
今日まで私のトレーニングの様子は、SNSにアップするだけだった。
だけどマスコミ各社から、『せめて最終追い切りだけは、サイレンスレイナと担当トレーナーに直接取材させてほしい』との申し込みが何度もあったらしい。
幸いなことに記者の人たちは約束を守ってくれて、無茶な取材をしてくることは一度もなかった。
そのことも考慮してトレセン学園とトレーナーさんがマスコミと話し合い、結局【常識の範囲内で、通常の取材を行うこと】という条件で取材を許可したようだ。
「サイレンスレイナさん、ラストランに向けて絶好調のようですね!」
「なにか一言だけでも、お願いします!」
記者さんたちの要望を受けてトレーナーさんに目配せすると、彼はうん、と小さく頷いた。
「トレーナーさんの指導や友人たちの協力もあって、身体の方はいい感じに仕上げられたと思います。あとは本番で、精一杯頑張るだけですね」
『何を聞かれても一般論以外は言わなくていいし、答えたくない質問には答えなくてもいいよ』と前もってトレーナーさんに言われていた私は、あらかじめ考えていたテンプレートのような答えを返す。
「サイレンスレイナさん! お母様は残念なことに秋の天皇賞で競走能力を喪失し、引退を余儀なくされたわけですが、サイレンスレイナさんはどんな心境で、今度の天皇賞に臨まれるおつもりですか!?」
「……おい! その手の質問だけは絶対にするなと、前もって言いつけておいただろうが!」
私がなにか反応するより先に、トレーナーさんがその記者を怒鳴りつけた。
……正直、その記者からの質問は私にとってあまり気持ちの良いものではなかったけれど。
でも私はマスコミに、レースを見に来てくれる人たちに、伝えたいことがあった。
だから一歩前に出て、トレーナーさんに『大丈夫』という意思を伝える。
私の雰囲気を察してか、記者さんたちが一斉にスマホや録音機、カメラをこちらへ向けた。
「母は母、私は私です。でも私は秋の天皇賞で……母が追い求めた『自分だけの景色』というものを見られるのではないか、と期待しています。そのために私は、母と同じようにトレセン学園にやってきたのですから」
おお~っ……という感嘆の声が、記者さんたちの間から漏れた。
カシャカシャカシャ! というカメラのシャッターを切る音が、断続的にあたりに響き渡る。
トレーナーさんの方へ視線を向けると、彼は二度ほど頷いた。
もう十分だ、という合図だろう。
それを受けて私は軽く一礼し、マスコミ陣に背を向ける。
「サイレンスレイナさん! その耳のワタリ、お母様と同じものだとお見受けしますが……初めてのGⅠ出走、勝負服はどうなさるおつもりですか?」
その質問に私は振り返り、小さく微笑んで答えた。
「それは当日のお楽しみ、ということにしておいてください」
*
最終追い切りを良い形で終えた私は、ロッカールームでシャワーを浴びたあと、トレーナー室に来ていた。
「やっぱりちょっと、緊張するわね……」
部屋の中をウロウロしていた私は胸に手を当て、トレーナーさんのノートPCを覗き込む。
これをするのはもう3回目だ。
でもまだ、URAのホームページが更新されている様子はない。
「枠番の発表は18時だからね。もう4・5分ってところかな」
そんな私に、PCの前にいるトレーナーさんは苦笑する。
「落ち着かないようなら、紅茶でも入れようか?」
「いえ。それは枠番を確認してからいただくわ」
「そうか」
二人の間に、沈黙が流れる。
……5分あるのなら、やっぱり紅茶を入れてもらったほうが良かったかもしれない。
でも5分で紅茶を急いで入れるっていうのも、なにか違う気もするし……。
紅茶はやっぱり、ゆっくりと味わって飲みたい。
しかし5分という時間は待つには少し長いけど、なにかをするにはちょっと短いという、絶妙な時間だ。
「それにしても、レイナが枠番を気にするなんて珍しいね。なにか思うことでもあるのかい?」
トレーナーさんとは今さら沈黙を気にするような間柄でもないけれど、間を持たせるように彼がそんなことを聞いてくる。
「ん、別に大した理由じゃないんだけど。できれば、内枠がほしいなって。その……」
喉まで本音が出かけたけど、私は息を吸うふりをしてそれを押し留めた。
再び沈黙がトレーナー室を支配する。
今度の沈黙は、少し気まずい感じがした。
でもトレーナーさんは急かすことをせず、私の言葉を待ってくれているようだ。
このまま言葉を飲み込んでも、トレーナーさんはきっと何事もなかったかのように振る舞ってくれるだろう。
でも私は最後まで一緒に走ってくれようとしているパートナーに、心の内を話しておくことにした。
「正直、大外枠からのレースになったら、今のシェリルに勝てる自信がないの。それで……逃げに有利な内枠が欲しいなって、思っただけ」
「そうか」
彼は一言そういうと、難しい顔をして顎に手を当てて黙り込む。
……やっぱり、言わないほうが良かったかな。
トレーナーさんも、レースを目前にして担当ウマ娘の弱音なんて聞きたくなかったに違いない。
「……実は俺も、内枠が欲しいと考えていたんだ。もちろん大外枠からの発走になっても、君が負けるだなんて思っていない。思ってはいないが……」
トレーナーさんは腕を組むと、軽く笑った。
「君はスタートが得意なタイプだからね。できればその長所を活かしやすい内枠であってほしいというのが、トレーナーとしても本当のところだ」
「そうよね」
トレーナーさんの言葉に、私もつい笑みがこぼれる。
思っていたことは、一緒だった。
少しでも、有利に戦いたい。
……最後のレースに、悔いを残したくない。
PCに表示されている時計を見ると、18:01を表示している。
「トレーナーさん、もう発表されているんじゃない?」
「そうだね」
トレーナーさんが更新ボタンをクリックすると、URAのホームページのトップページに【今週の注目レース! 天皇賞・秋】の項目が追加されていた。
その特設ページが開かれると……天皇賞という最高の舞台に立つことを許された、18人のウマ娘の名前が目に飛び込んでくる。
そのウマ柱のどまんなかに、私の名前はなかった。
ということは、10・11枠ということではないということだ。
あってくれるな、と祈りながらモニターの右の方へ視線を移す。
「!」
よかった。
大きい番号に私の名前はない。
今度は、左の方へ視線を向ける。
あった。
私に与えられた枠番は……。
「1枠、みたいね」
「うん。1枠だね」
私とトレーナーさんはお互いに視線を合わせ、二人で少し口角を上げた。
少なくともこれで、スタート直後の距離ロスのことを難しく考えなくてもよくなった。
私はただ、いいスタートを切ることに全神経を集中させればいい。
「……お母さんと、同じ枠番になったわね。お母さんもトレーナーと一緒に、スタートのことを考えたりしたのかしら」
私が画面から視線を外してつぶやくと、トレーナーさんがなにかを思い出したかのように顎に手を当てた。
「そうか。確かスズカも、あの天皇賞で1枠発走だったな……」
彼の言葉に、以前一度だけ動画で見た、お母さんの天皇賞の光景がフラッシュバックする。
最内枠から飛び出したお母さん。
後ろをぐんぐんと引き離す。
誰も、お母さんに追いつけない。
その様子はまるで、走ることを覚えたばかりのウマ娘のように無邪気で、自由だった。
長い栗色の髪が、府中の風の中で舞っている。
1000Mを過ぎても、そのスピードはまるで衰えない。
お母さんの独走に、スタンドからは大歓声が上がる。
でもきっと、その声はお母さんに届いていなかった。
第三コーナーを過ぎて、お母さんはさらに加速する。
熱狂する東京レース場で……極限のスピードの中で、孤高にいたお母さんには見えていたのだろうか。
ずっとずっと追い求めてきた、自分だけの先頭の景色が。
「……レイナが記者たちに言ったとおり、スズカはスズカ、君は君、だ。」
急に黙り込み、息を止めていた私が何を想像していたか、トレーナーさんには分かったのだろう。
彼は柔らかく微笑むと、椅子から立ち上がった。
「紅茶を入れようか。確か、砂糖とミルクは入れなくてもいいんだよね」
「えっ、ええ……。お願いするわ」
トレーナーさんは小さくうなずくと、ポットとティーパックを常備している戸棚へ足を向ける。
前に一度手伝おうとしたけれど、『大丈夫だよ、座ってて』と言われてから、お茶の準備はトレーナーさんにお任せすることにしていた。
「トレーナーさん。ちょっと確認したいことがあるから、もう少しサイト見ててもいい?」
「ああ、構わないよ」
トレーナーさんの許可を得た私はカツン、とカップの重なる音と、そこにお湯が注がれる音を聞きながらマウスを握った。
改めてシェリルの枠番を確認すると、彼女は13番になったようだ。
シェリルの脚質は展開によって、逃げることも後ろから行くこともできる自在型。
あの天才はきっと、枠番なんてまったく気にしていないだろう。
「……」
つばを飲み込み、少し力が入ってしまった右手でマウスを操りながら、今度は【支持率を見る】のタグをクリックする。
「そうよね……」
表示されたパーセンテージを見た私は、あごを引きながらつぶやいた。
単勝支持率は私が35%、シェリルが33%を集めていて、私が一番人気に推されていた。
実績ではシェリルと比べるべくもない私だけど、毎日王冠ではBCマイルの覇者・シャトルジェシカと凱旋門賞ウマ娘・シュノンソーを破っている。
ラストランの私を応援してあげたいという人たちの投票も、たくさん入っていることだろう。
そしてなにより、みんな私が【サイレンススズカの娘】ということに、期待している。
あの先頭の景色の続きが見たい。
そんなファンたちの願いが、私を一番人気に押し上げた。
胸の奥底にあるなにかが、激しく躍動する。
「はい、どうぞ」
そう言ってトレーナーさんは湯気の立つ、明るいオレンジ色の紅茶が入ったカップを私の前に置いてくれた。
「ありがとう」
トレーナーさんが隣に腰掛け、彼もカップを手に取ったのを見て、私も熱を持つカップにゆっくりと口づけた。
熟した果実のような香りと、スッキリとした渋みが昂ぶっていた私の気持ちを落ち着かせてくれる。
「……こうしてここで君とお茶を飲み交わすのも、これが最後かもしれないね」
「そうね」
しみじみというトレーナーさんの声を聞きながら、私はもう一口、紅茶を口に含んだ。
「君が紅茶好きだってことをデビュー前から知っていれば、もっと早くから常備しておいたんだけど」
「そう言えば毎日王冠の記者会見の前まで、そういう個人的なお話はあまりしたことなかったわね」
「……うんまぁ、君の短い現役生活のことを考えるとね。時間が貴重だったから、雑談のような無駄話はできるだけしないようにしていた、ということはある」
「私は別に、そんな時間も無駄だとは思わないけどね」
苦笑して言う私に、トレーナーさんも自嘲めいた微笑を浮かべた。
「そうか……。俺は『あのサイレンススズカの娘を預かるんだ』ってことで、少し肩に力が入りすぎていたのかもしれないな」
トレーナーさんと私は決して、ビジネスライクな関係ではなかったと思う。
私はトレーナーさんのことを心から信頼していたし、トレーナーさんも全力で私と向き合い、私を一人前のウマ娘にしてくれた。
トレーナーとウマ娘として、私たち二人はきっといい関係だった。
でももっと、お互いのことや……バカバカしい話をしておいてもよかったのかもしれない。
「じゃあ少しなにか、お話しましょうか」
カップを机において私が言うと、トレーナーさんは静かに首肯してくれた。
「そうだね」
「早速質問。トレーナーさんって、どうやってお父さんと知り合ったの?」
「えっ? あ~……そうだな……」
当たり障りのない質問のはずなのに、どういうわけかトレーナーさんは奥歯に物が詰まったように言い淀む。
「? どうしたの?」
「まぁ、いいか。もう大昔のことだし。いやね、娘の君に言うのもなんだが、実を言うと君のお父さんの第一印象は、俺的にはあんまり良くなかったんだ」
「……うん。それは少し、分かる気がするわ」
うちの父親は悪い人ではないんだけど、ちょっと目つきが悪い上に(私のツリ目は父親似だ)、声に抑揚があまりないせいか、どこか他人に冷たい印象を与える。
しかも言っていることは妙に論理的で筋が通ってるものだから、人によっては一緒にいると息が詰まる、堅苦しいと感じさせてしまうこともあるだろう。
「でもそれなら、どうやって仲良くなったの? ハロー効果を突き崩すのって、大変だって聞くけれど」
「最初はちょっととっつきにくいヤツだと思っていたんだけどね。でも、言ってることは正しいし、何よりあいつは親切で、誠実だった。もうあいつとの付き合いは20年以上になるけど、約束を破られたことは一度もないし、嘘をつかれたこともない。……大学のレポートとか、困った時は必ず助けてくれたしな」
冗談めかして言う彼の表情からは、お父さんに対する信頼がにじみ出ている。
彼とお父さんは、本当にいい友人なのだろう。
そういう友人を持っているお父さんが、少し、羨ましかった。
*
いろいろな話で、私たちは寮の消灯時間直前まで盛り上がった。
レースのこと。
勉強のこと。
そして、将来のこと。
あまりに大きな声で話しすぎていたせいか、警備員さんが部屋まですっ飛んできて「GⅠ直前で気分が高揚しているのは分かりますがね。もう少し静かにしてください」と怒られてしまった。
トレーナーさんとお父さんの、興味深い学生時代の話もたくさん聞かせてもらった。
特に面白かったのがお父さんが大学生の時、彼女に振られてやけくそになって入ったキャバクラがぼったくりバーだったという話だ。
その時トレーナーさんがお金を持ってお父さんを助けに行ったらしく、トレーナーさんの話してくれた、店の強面店長vs大学生のトレーナーさんとお父さん二人のやり取りがまた面白くて、久しぶりにお腹がよじれるかと思うくらい笑った。
どうやら、この話はお母さんにもしていないらしい。
みんな、いろいろあったのだ。
夕食はトレーナーさんがウーマーイーツで注文してくれた、カロリー控えめの鶏ささみステーキ弁当を一緒に食べた。
多少羽目を外していても、レースに悪影響になりそうなことはしない。
それが彼のトレーナー哲学だった。
「とっても楽しかったわ。こんなに笑ったの、トレセン学園に来て初めてかも」
「それはよかった。俺も楽しかったよ」
「じゃあそろそろ、寮の方に戻るわね」
「……レイナ」
お暇しようと引き戸を開けようとした私を、トレーナーさんが呼び止める。
トレーナー室に入ってきた空気は、もうすっかり夜のものだった。
「どうしたの?」
「天皇賞、がんばろうな」
「もちろん」
私は短くそれだけ答えると、軽く手を振ってトレーナー室を後にした。
*
ふと目が覚めて時計を見ると、まだ夜中の2時だった。
「ふぅっ……」
私は浅く息をはき、備え付けの冷蔵庫から水を取り出す。
さっき目が覚めた時は、確か12時を少し回ったぐらいだった。
夜中に二回も目を覚ますなんてことは、今まで一度もなかったのに……。
「やっぱりちょっと、緊張してるのかしらね」
ベッドの上でひとりごち、よく冷えている水を喉に流し込む。
今日は、いよいよ天皇賞の本番当日。
金曜日と土曜日は軽くダートを走ったり、プールで少し泳いだりしてコンディションの維持に努めた。
手によく冷えたペットボトルを持ったまま、誰も眠っていない、綺麗に整えられた隣のベッドに目を向ける。
シェリルは今、どう過ごしているのだろう。
負けられない大一番を前に、何を考えているのだろう。
クラスメートの話を聞いていると、シェリルはどうやら自宅から学園に通っているらしかった。
トレーナーさんは私たちの状況に気を利かせてスケジュールを調整していてくれていたようで、練習中にシェリルとトレーニングコースやジムでばったり、なんてことはなかったし、校舎で顔を合わせることもなかった。
それは私が普通科で、彼女が特進クラスだったからだ。
意外にも、というとシェリルに怒られそうだが、彼女は勉強ができる方だった。
シェリルは夕食後にスマホを触っていることが多かったけど、どうやら遊んでいたわけではなかったらしく、ウマ娘トレーニングAIの【メロス】から勉強を教わっていたようだ。
私のトレーナーさんも『担当の勉強だけは、AIの力を借りるか……』と悩んでいたみたいだけれども、結局学業に関しては『競走生活に支障をきたさないよう、最低限のことはやっておきなさい』となにかの拍子に一度言われただけだった。
そんな私の学業成績はといえば、まぁ普通、といったところだ。
周囲の人に聞いたところ、お母さんもあまり勉強は好きではなかったらしい。
そう言えば算数ドリルの宿題とかで分からないところを聞きに行った時、お母さんは必ず『お父さんに聞いたほうがいいわ。お父さん、ああ見えて勉強は得意なのよ。特に算数とか数学はね』と言って、父に私の学業教育をパスしていた。
……私がなんとか人並みに勉強できるのは、元ウマ娘のトレーナーでもある父の教え方がそれなりに上手かったからなのかもしれない。
勉強のことは仕方なかったにせよ、もっとお母さんからレースや現役当時のことを聞いておけばよかったな、と今更ながらに思う。
もしかしたらシェリルは、母親――トーセンジョーダンさん――から天皇賞に向けてアドバイスを貰ったり……寝付けないから、と言って一緒の布団で寝たりしてるのかもしれない。
それが羨ましくなった私は、首を振ってペットボトルを冷蔵庫の中にしまうと、とりあえずベッドの中に潜り込んだ。
まだしばらく、眠気は襲ってきそうになかった。
*
寮から出ると、優しくもどこかうら寂しい秋の日差しが感じられた。
もう少し季節が進めば、寒さに強いウマ娘でもカーディガンが必要になるだろう。
金木犀が香る寮の敷地を抜け、中庭へ脚を向ける。
今日は三女神様をお祀りしている噴水前で、トレーナーさんと待ち合わせていた。
「おはよう、トレーナーさん」
「おはよう」
噴水の前で顔を合わせた私たちはそう挨拶を交わしたけれど、もう時刻は12時半を回っている。
トレセン学園では時刻に関係なく、その日最初に顔を合わせたタイミングで『おはようございます』と挨拶を交わすのが習慣になっていた。
「昨日は良く眠れたかい?」
「夜中の2時ぐらいまではあまり寝付けなかったんだけど……それからはなんとか、朝まで目を覚まさずに眠れたって感じね。体感的にも寝不足って感じはしないわ」
私はパン、と軽く自分の頬を叩いて、良好な体調をアピールする。
「それはよかった。大きなレースの前夜は眠れないって娘も多いからね」
トレーナーさんはふぅ、と息を吐き出すと、軽い笑みを浮かべた。
いつもと変わらない私の様子を見て、彼も安心したようだ。
「ところで今日はトレーナーさん、スーツなのね」
「まぁ一応ね。GⅠの時はスーツってのが、慣習になっているからなぁ」
「似合っているわよ。……特にネクタイが素敵ね」
「分かる? いやぁ、実はこれ、エアグルーヴが選んでくれてるんだよね」
私が褒めると、首元の結び目を触りながら彼は嬉しそうに口角を上げた。
……実は父のネクタイもお母さんが選んでいて、会社の人や取引先の人に褒められると『いや、実はこれは妻が選んでくれていてね……』と、あの堅物が珍しく相好を崩していたのを覚えていたのだ。
男性にとって大切な女性に選んでもらった一本というのは、ただの装飾品以上の意味を持っているらしい。
そんな軽めの雑談をしながら、私たちは正門へ向かう。
正門の前には、いつも乗っているものとは明らかにグレードの違う大きなバスが待機していた。
「……いつ見ても、やっぱりすごいバスね」
初めて近くで見る特別車両の偉容に、思わずため息が出る。
「ああ。なんてったって、GⅠに出走するウマ娘とトレーナーを送迎するためだけの専用バスだからね。このバスに乗ってGⅠに出たい! と思って日々のトレーニングを頑張っている娘もたくさんいる」
先に乗って、とトレーナーさんが手のひらを上にして入口を指し示してくれる。
私は小さくうなずくと、少し緊張しながら大型バスに脚を踏み入れた。
中に入ってみると、外から見た印象より車内はかなり広い。
「こんにちは。サイレンスレイナさんですね?」
乗車してすぐ、笑顔のバスガイドさんに声をかけられた。
かっちりとした紺色の制服に身を包んだ綺麗なウマ娘さんで、年齢は24、5歳だろうか。
「あ、はい……」
「本日東京レース場までご案内させていただきます、ネレイドランデブーと申します。どうぞよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
丁寧なお辞儀をしてもらい、こちらも反射的にぺこり、と頭を下げる。
あとから乗ってきたトレーナーさんも「やぁ、よろしくね」と彼女に声をかけた。
「サイレンスレイナさんとそのトレーナーさんのお席は、こちらになっております」
「……!」
案内された席は、私の知っているバスの座席ではなかった。
ゆったりと座れるソファーのような二人掛けシートに、正面にはどちらにも大きくて見やすいモニターが付いている。
おそらくTVや映画が見放題なのだろうし、もしかしたらウマチューブも見られるかもしれない。
目の前のシートは、それこそまるでウマチューブで見たことのある、飛行機のファーストクラスのようだった。
あまりあからさまにキョロキョロするのもみっともないと思った私は目だけ動かし、改めてバスの内観を確認してみる。
「……」
驚いた。
豪華な二人掛けの椅子が、この大きなバスの中にかなり広い間隔で、左右に一列ずつ9組だけ並んでいる。
どうりで車内が妙に広く感じるわけだ。
つまりこの大型バスはGⅠに出走する18人のウマ娘と、そのトレーナーを運ぶためだけに設計されているらしい。
「お飲み物はどうなさいますか?」
「あ、じゃあ冷たいストレートティを……」
「かしこまりました」
かなり年下であろう私に、バスガイドさんはこちらが恐縮してしまうぐらい丁寧に接してくださる。
「トレーナーさんはどうなさいますか?」
「俺はアイスコーヒーで」
「かしこまりました」
私たちの注文を聞き終えると、彼女はバス後部のカーテンで区切られている部屋へと入っていった。
「座るのは、窓側でいいかい?」
「えっ。ええ」
返事をして座る前に、もう一度だけ、ぐるりと車内を見渡してみる。
あそこにいるのは……GⅠを2勝しているシニア2年のウマ娘と、去年のリーディングトレーナー。
後ろの方の座席に座ってトレーナーと談笑してるのは去年の菊花賞ウマ娘であり、天皇賞春秋連覇を目指すシェリルの同期、リードエデルガルトさんだ。
どこを見てもGⅠや重賞を何勝もしている超一流のウマ娘と、彼女たちを支える腕利きのトレーナーさんたちばかり。
トレーナーさんの名声は負けていないと思うけど……今車内にいる中で、GⅠ初出走というウマ娘はどうやら私だけのようだ。
「なんだか、萎縮しちゃうわ」
その一言で私の気持ちを察してくれたのだろう。
トレーナーさんはひらひら手を振ると、なんてことないように軽く笑った。
「誰にだって初出走のGⅠというのはある。レイナの場合、それが今日ってだけだよ」
「それは……そうね」
トレーナーさんの励ましは平凡なものだったかもしれないけれど、それだけにストン、と素直に胸に落ちた。
少し気分が落ち着いた私は窓側のシートに座り、何気なく外の様子を伺う。
街路樹に目を向けると、気の早い葉っぱの何枚かがもう秋色に色づき始めていた。
「どうぞ。ストレートティとアイスコーヒーです」
バスガイドさんが、小さなお盆に乗せて持ってきたカップを私たちに差し出してくれる。
私たちはそれぞれにお礼を言って飲み物を受け取り、ストローに口をつけた。
「出発までまだ時間はあるけれど……空いている席も結構あるわね」
「ああ、このバスで行かないウマ娘もいるからね。関西の方で行われるGⅠに出走する場合はバスで一晩過ごすことになるわけだけど、座席じゃどうしても眠れないってウマ娘もいる。そういう娘は新幹線を使ったり、前日に現地入りしたりするんだ。今回みたいに東京や中山のGⅠに出走する場合でも、自分のペースで移動したい娘はタクシーを使ったりするしね」
「そうなのね」
軽く雑談をしているうちに出発の5分前になって、運転手さんが運転座席に乗り込んだ。
それと同時に何組かのウマ娘とトレーナーさんが、ちょっと駆け足でバスに乗り込んでくる。
彼女たちもやはり、名の知れ渡ったステークスウィナーばかりだった。
「13時になりました。当車はこれより東京レース場へ出発いたします。皆様、シートベルトの着用をお願いいたします」
運転手さんのアナウンスを受け、私とトレーナーさんはカチリとシートベルトをしっかり締めた。
それからすぐに、バスは驚くほど滑らかに発車する。
決戦の場に向かって走り出したこの車両の中に、シェリルの姿はなかった。
***
おびただしい数の人の群れが、広い入場門の中に次々と吸い込まれてゆく。
GⅠが開催される日の東京レース場の入口は、当時と何も変わっていなかった。
【彼】がここにくるのは、あの【沈黙の日曜日】以来のことだ。
第118回天皇賞・秋。
圧倒的一番人気を背負って出走していたサイレンススズカが、第四コーナー手前で突如失速。
そんな彼女の様子を、【彼】はまるで悪い夢の中の出来事のように、トレーナー待機所から呆然とながめていた。
あの日の出来事は、断片的にしか覚えていない。
話すことも辛そうだったスズカと救急車に乗ったこと。
もう彼女は走ることができないと、医師に告げられたこと。
そしてその日の夜、記憶がなくなるまで酒を飲んだことぐらいだ。
***
あの最悪の事故の中で救いがあったとすれば、スズカの脚にケガの後遺症は少々残ってしまったものの、普通の生活には支障をきたさない程度には回復したことだった。
走れなくなったスズカの残りの人生を、せめて幸せにしたい。
スズカが現役を引退してからすぐに交際を始めた【彼】はそう考え、収入の安定しないトレーナーという仕事を捨てて、大学時代に副専攻していたAI関連の会社を立ち上げる。
トレーナーをやめるとスズカに伝えた時、彼女はとても悲しそうな顔をしたが、『君というウマ娘に出会えただけでも、トレーナーになったことに意味はあった。それにもう、君にあんなつらい思いは二度とさせたくない。お金で幸せを買うことはできないかもしれないが、お金があれば避けられる不幸は山のようにある』と自分の考えを説明すると、スズカはそれ以上なにも言わなかった。
幸いにも事業は軌道に乗り、結婚して子どもをもうけても生活に不安はないぐらいには、稼げるようになった。
そうしてスズカが大学を卒業すると同時に【彼】はプロポーズし、1年後に誕生したのがレイナだった。
生まれてくる子どもが男の子ならスズカが、女の子なら【彼】が名付ける約束をしていたので、レイナの名前は彼が悩みに悩んで名付けた。
目元だけはツリ目気味の自分に似てしまったようだったが、レイナが成長するにつれ、艶のある栗色の髪や、輝くようなエメラルドグリーンの大きな瞳はスズカの生き写しのように似てきた。
レイナが母に似たのは、ビジュアルだけではない。
走りの才能にも、娘は相当なものがあった。
もし自分が、従業員を抱えた経営者という立場にいなかったら。
今ある仕事を投げ出して、トレーナーとしてこの子を育ててみたい。
あの先頭の景色の続きを、娘と一緒に見てみたい。
冷静沈着で現実主義者の【彼】が、時折そう願ってしまうほどの素質が、レイナにはあったのだ。
***
彼はジャケットの内ポケットから、少し色味のくすんだロケットブローチを取り出した。
蓋を開けると、控えめに微笑んでいるスズカがそこにいる。
古ぼけた写真は、あの天皇賞の直前に撮ったものだ。
スズカが亡くなってすぐ【彼】はロケットブローチを買い求め、この写真を中に収めてずっと持ち歩いている。
パーソナルデータをAIに学習させれば、スマホやモニターの中に故人を【蘇生】させられる時代に、ひどく感傷的で古典的なやりかただと自分でも思う。
でもその古臭さが、なぜか【彼】の喪失感をわずかに軽減してくれていた。
「……スズカ。今日俺たちの娘が、天皇賞を走るよ」
周囲の騒音に紛れて自分の耳にすら届かない声で、彼は写真に向かって語りかける。
「君がいなくなってからの俺は、本当にろくでもない父親だった。いや、もともとあまり良い父親ではなかった自覚はあるけどね。母親を亡くした娘に……君が命がけで守ってくれたおかげで生き残った娘に、どう接していいか分からなかった」
つまらない繰り言であることは彼も承知していたが、娘に対する罪悪感と、妻に対する申し訳なさが、彼に独白を強要する。
「今日だって本当は、俺は見に来るべきじゃなかったのかもしれない。でも……レイナがろくでなしの俺に、レースを見に来てほしいって言ってくれたんだ。君に似て、優しい子に育ってくれた」
【彼】が小さく微笑みながらブローチを少し高い位置に掲げると、写真を収めているガラスが秋の日差しを受けてキラリ、と光った。
「君の勝負服を着て、レイナが……俺たちの娘が、天皇賞に挑む。それを思うと、いても立ってもいられなくなってね」
【彼】はブローチの中の妻との会話を終えると、蓋をそっと閉じて胸元へとしまった。
「スズカ。一緒に見守っていてくれ」
胸に手を当て、ブローチの確かな存在を確かめる。
そして【彼】も、人波の中に紛れていった。
*
どこのレース場も、控室という場所はほとんど景色が変わらない。
質実剛健な作りになっていて、無駄な装飾品は一切置いていない。
そんな殺風景な控室だけど、ここに来るのも今日が最後なのだと思うと、なんだか無性に切なくなる。
そんな気持ちを抱えながら、私は制服から勝負服に着替えていた。
スカートの腰の位置を整え、緑色のアームカバーと黒色のリボンを身につける。
最後に衿ボタンの上に星飾りを装着して、着替え完了だ。
備え付けの鏡で、着付けを確認する。
「……うん」
おかしなところは見当たらない。
それでも一応、右耳に取り付けたワタリをちょっと触って位置を整えた。
あとはトレーナーさんにチェックしてもらえば大丈夫だろう。
鏡に映る自分を見ながら、大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
本番の直前にお母さんの勝負服に着替えたら、ひどいプレッシャーに襲われるのではないか、と心配していたけど……そんなことはまったくなかった。
むしろこれから、この勝負服を着てお母さんと一緒に走れるかのような喜びと高揚感が、胸の奥からせり上がってくる。
今日まで鍛え上げた身体が、軽い。
気合は乗ってるけど、入れ込むような感情はまったくない。
状態はパーフェクトだ。
うん、私は大丈夫。
見守っていてね、お母さん。
私は星飾りにそっと手を当て、天国にいるお母さんに祈った。
「トレーナーさん、着替え終えたわよ」
廊下で待ってくれているトレーナーさんに、私は声を掛けた。
コンコン、とノックが鳴ったあと、「入るよ」と言ってトレーナーさんが室内に戻ってくる。
「どうかしら。着崩れてるところとか、ない?」
私はスカートの裾を軽くつまむと、彼の前でゆっくりと一回転してみせた。
「……うん、大丈夫だよ」
一拍おいて、トレーナーさんも太鼓判を押してくれる。
エアグルーヴさんを始め、何人ものウマ娘をGⅠに送り込んだ彼が言うのだ。
間違いはないだろう。
「ありがとう。じゃあそろそろ、パドックに行くわね」
軽く笑ってそういう私の方を、トレーナーさんはじっと見ている。
なにか気になることでもあるのかしら……と思っていると、彼は自分の目に右手をこすりつけた。
「と、トレーナーさん?」
「……ごめん。笑って君をレースに送り出したいと思っていたんだけど……」
彼はそう言って机の上に置いてあったティッシュに手を伸ばすと、何枚か取って瞳に当てた。
「担当のラストランの時は、いつも、こうなんだ。エアグルーヴの時も『泣いて担当ウマ娘をレースに送り出すトレーナーがあるか』って笑われたんだけど、どうしてもこの癖だけは、治らなくてね」
「トレーナーさん」
声を震わせているトレーナーさんの姿が、みるみるうちに滲んでゆく。
トレーナーさんは、いつも私に対して真剣だった。
トレーニングは厳しかったけど、決して無茶はさせなかった。
そのトレーニングメニューを考案し、組み立てるためにどれだけ心血を注いでくれていたのか。
彼の目元にある深い隈が、それを物語っている。
マスコミから心無い取材を受けたときも、トレーナーさんは本気で私を守ってくれた。
トレーナーさんがいなければ、私はどこかでサイレンススズカの娘という重圧に押しつぶされていたかもしれない。
「情けないトレーナーで、すまない……」
「情けなくなんかないわ」
私はトレーナーさんの手を取って、笑顔を作る。
意識して笑っていないと、瞳から涙がこぼれてしまいそうだった。
「ここまで私を導いてくれて、本当にありがとう。あなたが私の担当トレーナーで、本当に良かったわ」
「……レイナ」
「じゃあ、行ってくるわね」
そう言ってトレーナーさんのゴツゴツした手から、そっと手を離す。
カサついた、あまり手入れされていない男の手。
思えば、小さい頃繋いでもらった父の手もこんな感じだった。
まだ少し熱の残っていた右手を小さく振り、私は控室を後にした。
*
パドックへ足を踏み入れた瞬間、地下通路まで聞こえていた喧騒が、静寂に落ちた。
観覧エリアにいたファンたちの目が、私に集中する。
それら無数の視線に誘導されるかのように、私は観客席へ顔を向ける。
そこには……私の方を見て、涙を流している壮年の男性がいた。
同じように嗚咽を漏らしている、私と変わらない歳の女の子も、いた。
きっと彼ら、彼女たちは勝負服姿の私を見て、母のことを思い出したのだろう。
第118回の、秋の天皇賞で。
彼らはサイレンススズカの競走能力の【死】によって、何を失ったのか。
彼らはサイレンススズカという一人のウマ娘に、何を見て、何を求めていたのか。
彼らは、サイレンススズカというウマ娘に、何を伝えたかったのだろうか。
周回しているウマ娘たちの列に私も加わると、また観覧エリアにざわめきが少しずつ戻ってきた。
パドックの舞台の上では、天皇賞に出走するウマ娘の一人が、今日のために鍛錬した体をファンたちに披露している。
きらめく髪。
水すら弾きそうな、綺麗な肌。
均整の取れた体躯に纏われた、きらびやかな勝負服。
【走る芸術品】と称される鍛え上げられたウマ娘は、美しい。
ファンたちはその刹那の美の競演に酔いしれ、応援しているウマ娘にエールを送る。
彼女が観客に手を振りながら、降壇する。
その次に舞台上へやってきたのは……去年の天皇賞・秋の覇者、シェリルジョーダンだった。
現役最強ウマ娘の登場に、観客席から盛大な拍手が起こった。
シェリルの勝負服は肉体美を誇示するかのような、露出度の高いものだ。
へそが見えるインナーとジャケットの組み合わせに、太ももを半分以上露出させたミニスカート。
その勝負服から覗く鍛え抜かれた腹筋と太ももが、秋の陽光を浴びて燦然と輝く。
ウマ娘の肉体は芸術品であるのと同時に、戦うために研ぎ澄まされた機能美の極地でもある。
シェリルはその暴力的な美しさを、まざまざとこの場にいる全員に見せつけた。
一分の隙もない完璧な仕上がりに、私は思わず息を呑む。
……このウマ娘を、私は打ち負かすことができるのだろうか。
ファンに笑顔を振りまいて舞台から立ち去ろうしているシェリルの背中が、その問いに答えてくれることはなかった。
*
ゲート前で軽いウォーミングアップを終えた私は、呼吸を整えて与えられた1枠へと脚を進めた。
これが私の最後のゲート入りだ。
私がゲートに収まると同時に、背後の鉄扉を閉める音がガチャリと鳴った。
気持ちは、不思議なほど落ち着いていた。
胸元の星飾りに手を当て、一度大きく深呼吸をする。
1枠の私は、18枠の娘がゲートインするまで少しばかり待つことになる。
秋の天皇賞は、第一コーナーの奥からスタートする。
ゲートの中から見える第二コーナー付近の木々をぼんやり眺めていると、過去のスタート前の記憶がふいに蘇ってきた。
いつだったか、隣の娘が不機嫌そうにゲートの枠を蹴飛ばしていたこと。
シニア3年目のウマ娘がゲートの中でなにかを押し殺すように、静かに泣いていたこと。
今まで思い出すこともなかったような些細な記憶が、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
脳内のアルバムをめくっているあいだに、18番の娘がゲートに収まったようだ。
全員、ゲートイン完了。
2秒の静寂。
秋の乾いた空気を切り裂いて、天皇賞のゲートが開いた。
爆発的な歓声が、東京レース場を包む。
大歓声の中、好スタートを切った私は第2コーナーへと突き進む。
脚が軽い。
まるでターフの上を飛んでいるかのようだ。
向こう正面に入る頃には、私は一人、先頭に立っていた。
もう後続の蹄音は聞こえない。
吹き付ける風が、心地いい。
ああ。
走るのって……走るのって、こんなにも楽しい!
この時間が、永遠に続くといいのに!!
***
身じろぎするのも大変なほどの人混みの中で、【彼】は娘のレースを見守っていた。
本当に似ている。
初めて娘の走りをレース場で見た【彼】は、そう思った。
他を置き去りにする圧倒的なスピード。
先頭をひた走る、美しいフォーム。
なによりも心から楽しそうに走る姿が、【彼】の最初で最後の担当ウマ娘であり、喪った妻のサイレンススズカに似ていた。
娘の……レイナの現役生活は、楽しいことばかりではなかっただろう。
辛いことや悲しいことも、きっと山のようにあったはずだ。
それに【彼】は、娘がトレセン学園に進学してトゥインクルシリーズを走ることに対して、ずっと消極的な態度を取ってきた。
そのこともレイナにとって精神的な負担になっていたのは、想像に難くない。
それでもレイナは、あんなに楽しそうに走っている。
ラストランを、あれだけ幸せそうに走っている。
そんな娘の姿を見ていると、少しだけ【彼】の罪悪感が和らいだ。
10と書かれたハロン棒のそばを、レイナは先頭で通過してゆく。
後続との差は、すでに10バ身以上も開いている。
知らず知らず、彼は腕時計に視線を落とした。
スタート直後にタイマーを起動させ、最初の1000mを通過した時に時計を確認してしまうのは、トレーナーだったころに染み付いてしまった癖のようなものだった。
「なに……」
時計が表示した数字に、彼は戦慄する。
57.4。
「レイナ……!」
【彼】の口からこぼれ出た焦燥に満ちた声は、耳をふさぎたくなるほどの大歓声にかき消された。
レイナ。
無理をしてくれるな。
負けたっていい。
勝てなくてもいい。
無事にこのレースを、ラストランを走りきってくれ。
スズカ。
レイナを、俺たちの娘を……無事にゴールへ導いてやってくれ。
【彼】は無意識のうちに取り出していたブローチを、強く強く握りしめた。
***
『1000mを57.4……先頭のサイレンスレイナ、57.4で通過していきました!』
『母と同じタ……』
『速い流れ、速い流れになりました!』
『今日の二番人気、シェリルジョーダンはまだ後方』
『先頭のサイレンスレイナ、残り600を通過した!』
『サイレンスレイナ、無事に向こう正面のケヤキを越えて、最後の直線へ向かいます!』
***
レイナが1000mを通過した際、シェリルは思わずほくそ笑んだ。
レイナの通過タイムは、おそらく57秒台の真ん中あたりだろう。
ずいぶんと先を急いだものだ。
ラストランということで気が急いたのか。
それともまさか、母であるサイレンススズカのレースを本気で再演するつもりなのか。
レース前に呆れるほど見聞きしたのが『サイレンスレイナに、夢の続きを見せてほしい』という文言だ。
ふざけるな、とシェリルは思った。
……夢を持って戦っているのは、レイナだけじゃない。
自分も秋の天皇賞でレコードを更新するという夢を叶えるために、ここへやってきた。
そのために、厳しい練習を積み重ねてきたのだ。
ファンも、そしてレイナも、もう十分に夢を見たはずだ。
その夢を抱いたまま敗れ去れ、サイレンスレイナ!
女王ブエナビスタを屠り、ダービーウマ娘ウオッカのレコードを塗り替えたトーセンジョーダン。
その血脈を受け継いだ脚に、シェリルジョーダンは力を込めた。
爆発的なエネルギーが、大臀筋を起点としてハムストリング筋からアキレス腱まで、余すことなく注ぎ込まれる。
脚だけでなく、体全体に熱がたぎる。
一瞬脳裏に浮かんだ親友の微笑も、そのエネルギーに焼かれて見えなくなる。
シェリルジョーダンは自らの夢を実現させるべく、乾いた府中のターフを思い切り蹴り込んだ。
*
残り400mのハロン棒を通過した。
大地を震わせるようなスタンドからの大歓声が、先頭の私を出迎える。
吹きつけてくる向かい風の中に、髪がはためく。
照りつける西日が、瞳に沁みる。
ただただ、私は楽しかった。
全力でターフを駆け抜けたこの時間が、楽しかった。
終わる。
この時間が、夢のようなこの時間が、あと少しで終わってしまう。
熱いものが、頬を伝ってゆくのを感じる。
残り、300m。
「!?」
突如外からやってきた殺気めいた蹄音が、私の感傷をすべて吹き飛ばした。
しっぽの付け根が震え、耳が後ろへ勝手に傾く。
ついに、来た。
それが誰であるかなど、確認するまでもなかった。
いや。
そのウマ娘が誰であるかなんて、私にとってもうどうでも良かった。
近づいてくる闘争心の塊が、私の本能に火をつける。
私が、勝つ。
先頭の景色は、絶対に譲らない!
「………はぁぁぁっっ!」
私は一瞬、息を吸い込み、最後のギアを解放する。
その瞬間、私は翔んだ。
残り200。
残り150。
蹄音が、ますます近づいてくる。
背中が、ひりつく。
時空が、無限に、引き伸ばされる。
残り50m。
「……っ!!」
急に、胸が苦しくなってきた。
酸素が、まったく、足りていない。
脚が、重い。
しかし私はそれを無視した。
思い切り鞭を振るい、体内に残っていたわずかな酸素を脚に叩き込む。
長い。
ゴールまでが、こんなにも遠い。
視界の端が、シェリルを捉えた。
スタンドからの歓声が爆発する。
私たちはほとんど同時に、ゴール板を駆け抜けた。
*
脚が、もつれた。
すべてを出し切り、もう体力の限界だった私は、重力に逆らうこともせずにその場に倒れ込む。
芝の匂いが、鼻をつく。
好きな匂いだった。
「レイナ!! 大丈夫かっ!?」
スタンドのざわめきを上書きするような大声が、耳朶を打った。
「……大丈夫。ちょっと、疲れただけ。脚はなんともないわ……」
ターフに顔を半分うずめたまま、自分でもびっくりするぐらい細い声でトレーナーさんの声に応える。
「……自力で立てそうか?」
「たぶん」
手を差し伸べてくれたトレーナーさんに私は軽く首を縦に振り、その手を取って腕を彼の肩に回す。
まだ脚元はおぼつかなかったけど、こうして肩を貸してもらっていれば、なんとか立っていられそうだ。
「結果は……写真判定、よね?」
「ああ」
トレーナーさんは短くそれだけ言うと、ターフビジョンの方を見やる。
1着と2着の表示が空白になっており、着差の枠は写真という文字が表示されていた。
そして、タイムの枠の上にはレコードの赤い文字。
このレースの走破タイムは……。
「1分55秒0……!」
文句なく芝2000Mのワールドレコードだ。
でも、まだどちらがこの世界新記録を手にしたのか分からない。
シェリルは、どうしてるのだろう。
ふと気になってあたりを見回すと、内ラチに左手を預けてじっとターフビジョンを睨みつけている彼女の姿が、目に映った。
……シェリルの脚元をよく見ると、シューズのつま先が赤く染まっているのが分かった。
出血している。
痛むのだろうか、彼女はときおり目を細め、前歯で唇を噛み締めている。
『あたしママに似たのか、ちょっと足の爪弱いんだよね~』
寝る前にそう言いながら、ベッドの上で足のケアをしていた彼女の姿を思い出す。
シェリルも、限界を超えて戦った。
「トレーナーさん」
「うん?」
「当たり前のことだけど、レースって勝ち負けを競うものなのよね……」
「……そうだな」
「お母さんは、自分だけの先頭の景色を追い求めていた。でも……勝つこと、負けること、同じレースの出走者を打ち負かすこと。それをどう考えていたのかしら」
あまりに場違いな私の疑問にトレーナーさんも驚いたのか、彼は少し目を大きくして息を呑み込んだ。
それでもトレーナーさんは、真剣な表情で黙考してくれる。
「……あくまで、外側からスズカのことを見ていた人間の所感、ということになってしまうんだが……」
「ええ」
「当然サイレンススズカもレースを戦うウマ娘として、勝ち負けにはこだわっていたと思う。ただ、結果そのものに最大の価値を置いていなかったんじゃないかな」
「と、いうと……?」
「ターフを全力で駆け抜けること。先頭を譲らないこと。自分らしく、どこまでも走り続けること。サイレンススズカはそういったことを、レースに求めていたんじゃないかと思う」
トレーナーさんの言葉に、私は深く頷く。
勝ち負けは大切だ。
でも、レースを走る理由は勝利を追い求めるだけでなくてもいい。
走るのが楽しいから。
自分の全力を試してみたいから。
自分らしく走りたいから。
私もきっと、そういうものを大切にしていた。
そんな自分が、けっこう好きだった。
私は短かった競走生活の中で、やれることは全部やりきったんだ。
そして最後に、本当の全力を出し切れた。
どんな結果が出ても、後悔はない。
胸の中に、穏やかな風が吹き抜けた。
トレーナーさんと一緒に、じっとターフビジョンを見守る。
写真判定の結果が出るのは、いつも唐突だ。
東京11R 確定
Ⅰ 1
Ⅱ 13 ハナ
Ⅲ 4 大差
Ⅳ 7 クビ レコード
Ⅴ 9 2 1.55.0
1着と2着に数字が表示された瞬間、大きな歓声が湧き上がった。
「レイナだ! サイレンスレイナが、勝ったぞ!!」
「おめでとう、レイナ!」
「ありがとう。最高の夢の続きを見せてくれて……本当にありがとう!」
祝福の声が、ライスシャワーのように観客席から降り注ぐ。
「……トレーナー、さん……」
私が、勝った。
うまく、声が出せない。
視界が、ぼやける。
胸の中が、いろんな思いで、はち切れそうだった。
「おめでとう。レイナ」
「……うん、ありがとう」
弧を描くまなじりの端を光らせながら祝福してくれるトレーナーさんから、私はそっと離れた。
応援してくれた人たちに、感謝の思いを伝えないと。
ファンの人たちにウイニングランを披露しようと、まだ気だるさの残る脚で走り出そうとした瞬間だった。
「……うそだっ!!」
スタンドを包んでいる歓喜の声を塗りつぶすかのような絶叫が、耳をつんざいた。
「うそだ、うそだ、うそだ! あたしが負けてるなんて、嘘だっ! だって、メロスが、今のあたしなら、負けないって……サイレンスレイナを差し切れるって、ワールドレコードをきっと出せるって、言ったんだ!」
ターフに倒れ込んだシェリルは慟哭し、何度も何度も、芝に拳を叩きつける。
「こんなの、絶対間違ってるっ!」
彼女は跳ね上がるように立ち上がると、顔をグシャグシャにして連絡口と反対の方へ駆け出してゆく。
あっちは確か、裁決委員がいる……。
「シェリル!」
思わずシェリルを追いかけようとした私の肩を、トレーナーさんが掴んで引き止めた。
「トレーナーさん」
「行かせてやれ。彼女だって頭の中じゃ、怒鳴り込んでも結果が変わらないなんてことは分かっている。それでも止められないときってのが、人にはあるんだ」
シェリルの駆け出した方へ顔を向けると、もう彼女の姿は見えなくなっていた。
『……イナ! レイナ! レイナ! レイナ!』
スタンドから、私を呼ぶ大歓声が聞こえる。
「さぁレイナ。ファンたちにウイニングランを見せておいで。みんな、君を待っている」
トレーナーさんはそう言って、ホームストレッチをまっすぐ指さす。
私は駆け去った友だちのことを気がかりに思いながらも、笑顔を作ってターフを蹴った。
*
ウイニングランを終え、ウィナーズサークルへ脚を運ぶと、予想もしていなかった人がそこにいた。
「お父さん……?」
「レイナ」
お父さんは私の名を呼ぶと、そのままじっと、私の顔をみつめる。
きっとお父さんは、何を言えばいいのか、迷っている。
「お父さん。今日の私の走り、どうだった?」
だから私は、こちらから先に、お父さんから一番聞きたかったことを聞いてみた。
私とよく似ているお父さんの切れ長の瞳が、少しばかり見開く。
「……素晴らしかった。立派なウマ娘になったな」
お父さんの言葉に、まぶたが震える。
ああ。
そうだ。
小さいときから、私はお父さんに自分の走りを褒めてもらうのが、嬉しかった。
お母さんの……あのサイレンススズカのトレーナーに自分の走りを褒めてもらうのが、なによりも嬉しかった。
ずっとずっと、お父さんに、私の走りを認めてほしかった。
「お父さん……!」
私は、無意識にお父さんの胸元に飛び込んでいた。
そんな私を、お父さんはしっかりと抱きとめてくれる。
「色々とすまなかった。スズカも今日のことを、喜んでくれてると思う」
お父さんの手のひらが添えられた肩に、熱いなにかを感じた。
きっとお父さんは泣いているのだろうな、と思った。
けど、泣き顔を見られるのが恥ずかしかった私は、なにも気づかないふりをしてお父さんのジャケットに顔をうずめていた。
*
ウイニングライブのお色直しのために、控室へ戻る途中。
「レイナ……」
通路の真ん中で声をかけてきたのは、シェリルだった。
気を使ってくれたのだろう、一緒にいたトレーナーさんは「俺は先に控室に戻ってるよ」とだけ言って、足早にこの場を後にした。
「……シェリル」
「なんだか、久しぶりだね。……って、『ライバルとは馴れ合えねーから』ってカッコつけて飛び出しておいて、結果出せなかったあたしの方から声かけるのも何なんだけどさ」
そう言ってシェリルは、いつものようにへらりと笑う。
いつも明るくきらめいている大きな瞳が、ひどく充血している。
こういう時、どんな言葉を返せばいいのか、私には分からなかった。
「観客もメチャ盛り上がってたし、ホントいいレースだった。……あたしが勝てなかったこと以外はね」
大げさに肩をすくめるシェリルに、今度こそ私は笑いをこらえきれなかった。
「ふふっ、ありがとう」
「次は絶対負けないから! って言いたいところだけど、もうレイナに次はないんだよね……」
しんみりしたシェリルの口調に、少し胸がチクリとする。
「そう、ね……」
「まぁそれはともかくとして。ウイニングライブは準センターとしてあたしがメッチャ盛り上げてあげるから、期待しててよね。あ、でも」
シェリルはなぜか芝居じみた動きで腕を組み、大げさにまゆを眉間に寄せる。
「よく考えたらあたし、GⅠじゃいつも圧勝か惨敗かだったから、準センターって経験ないんだよね~。歌詞とかダンスとか、ミスったらマジごめんね?」
「いや、そんな軽いノリで言われても。そこは私の最初で最後のGⅠウイニングライブなんだから、しっかりしてほしいわ……」
「にゃはははは~」
変な笑い声とともに、シェリルは軽く手を振って自分の控室に脚を向ける。
あまりにもいつも通りの友だちの後ろ姿を見ながら、私は小さく息を吐きだした。
*
私は2着のシェリルと3着に入ったリードエデルガルトさんに挟まれて、舞台の中央に立っていた。
「おめでとう、レイナ!」
「いい走りだったよ!」
お祝いの言葉が、ライブシアターのあちらこちらから聞こえてくる。
私は目を閉じ、心のなかで「ありがとう」とつぶやいて、曲が始まるのを待つ。
「おかえり、レイナ!」
前にも耳にした、ウイニングライブのものとしては少し場違いなコールが、聞こえてきた。
「おかえり。よく無事に、俺達のもとに帰ってきてくれた!!」
「おかえり!」
「おかえりなさい!!」
こだまのように広がるおかえりコールに、私は思わず目を開いた。
笑って私に手を振っている人。
涙目になりながら、ペンライトを大きく、何度も振っている人。
「……あ……」
あの天皇賞で。
お母さんは、ここに……ファンの人たちのもとに帰ってくることができなかった。
ファンの人たちは、伝えたかった。
自分たちは、待っていた。
ただ、サイレンススズカというウマ娘が無事にレースを走り切り、自分たちのもとへと帰ってきてほしかったのだと。
照明が、落ちる。
あれだけ騒がしかったライブシアターが、闇とともに静謐に満ちた。
次の瞬間、強烈な光が舞台へ降り注ぐ。
センターの私と。
準センターのふたりが、うなずく。
壮麗なピアノの音が、走り始めた。
『選ばれしこの道を ひたすらに駆け抜けて』
まっすぐに伸ばした腕で、私は天を指さす。
思い返せば……。
楽しかったときも。
辛かったときも。
私は自分で選んだレースという世界の道を、ずっと走り続けてきた。
『有言実行 言葉にしたら 世界が動き出した』
腕を振るたび、体をひねるたび、汗が飛び散る。
お母さんも追い求めた、自分だけの先頭の景色を見てみたい。
そう願って私はここへやってきた。
『譲れない願いの風 いつの日か追い越したら 新しい景色に会える 決して諦めないよ』
スポットライトが、ひたすらに眩しい。
敗戦にまみれた、灰色の日々があった。
たった一つの勝利を巡って、親友との不和があった。
でも私は、諦めなかった。
そしてその先に、私は見た。
最高峰での、勝利の歓喜を。
レースに敗れて慟哭するウマ娘を。
勝利の喜びを共に分かち合い、自分の帰りを待ってくれていたトレーナーさんを。
父を。
たくさんの人たちを。
きっとこれが、私だけの、先頭の景色……!
『力の限り 先へ!』
力強い音の流れが、唐突に終わる。
光が、私を、すべてを包み込んだ。
*
翌日の朝。
少し寝不足気味なのは、昨夜はずっとお父さんとお話していたからだ。
いろんなことを語り合って……少しは、お互いのことが分かった気がする。
秋の冷水で清められたお母さんのお墓が、朝日を反射してきらめいている。
隣にいるお父さんと一緒に手を合わせ、しばらくの間瞑目した。
「お母さん。私、天皇賞を勝って……自分だけの先頭の景色を見てきたわ」
目をゆっくりと開け、手に持っていた優勝レイを天国にいるお母さんに見えるよう、大きく広げて肩に掛ける。
紺色の生地に【優勝 天皇賞・秋】と金文字で刺繍されたレイが、朝の清冽な風の中で、はためいた。
「お母さん。トレセン学園に進学して、走ることに夢中になって努力して……夢を叶えられたことは幸せなことだった。でも、できることなら……」
できることならもっと長く、走り続けたかった。
先頭の景色を追い求める、悠久の旅人でありたかった。
ひょっとしたらお母さんも、そうだったのではないか。
先頭の景色を追い求め続け、ただ走り続けることこそが、お母さんの夢そのものであり、目標だったのではないか。
墓石はなにも答えず、ただ静かにそこで佇んでいる。
在りし日のお母さんが、そうだったように。
「行こうか」
私を見守っていてくれたお父さんが、いつものように平坦な声で言う。
私は、小さく頷いた。
「また来るね」
私はもう一度手を合わせると、お父さんと肩を並べてお母さんの眠る墓標をあとにした。
*
ラストランの天皇賞から、1週間が経った。
引退の手続き、転校届、退寮の準備などをしているうちに、時間はあっというまに過ぎていった。
「意外とあっさり終わっちゃったわね」
私物がなくなった部屋の左半分を眺めながら、私はつぶやく。
1年半ほどお世話になった部屋に置いていた荷物を詰め込むのに必要な段ボールは、80センチサイズのもの2つだけだった。
思わず出たため息に寂しさが入り混じったのは、仕方なかったと思う。
「レイナってあんまり、部屋に私物を持ち込むタイプじゃなかったもんねぇ」
荷造りを手伝ってくれていたシェリルが、しみじみと言う。
「そう言われれば、そうね」
あごに手を添えて少し昔を思い出してみると、小さい頃から物欲というものがそんなにない子どもだった。
両親に誕生日やクリスマスの時に、プレゼントはなにがいい? と聞かれたときも、新しいシューズや蹄鉄などのレース関係のものをお願いしていた。
「ミニマリストな生活もいいけどさ。レイナはもう少し着飾ることを覚えたほうがいいよ。素材はメッチャいいんだからさ、おしゃれしたら絶対モテるって」
「……善処するわ」
友だちからのありがたいアドバイスに、私は苦笑いしながら一応頷く。
「それにしても、レイナは指導者目指して転校かぁ。あたしは将来、どうするかな~」
うんしょ、と言って、シェリルは私の私物の入った2つの段ボールを軽々と持ち上げる。
「あ、いいわよ。私が持つから」
「いいから。変な遠慮は禁止って、初めて会った時に言ったじゃん?」
「……そうだったわね。確か2000マニーの罰金だったかしら」
「そうそう」
今まですっかり忘れていたその取り決めも、なんだか懐かしい。
結局私は手ぶらのまま、入寮当初からお世話になりっぱなしだった友だちの後をついて行く。
「あたしも将来は指導者になるか、AI関連のエンジニアになりたいと思ってるんだよね」
「AI関連のエンジニア?」
彼女が口にした意外な進路に、私は小首をかしげる。
そういえばシェリルと将来……レースから身を引いた後の話をするのは、これが初めてだ。
「うん。ほら、あたしみたいな変わりモンでも、メロス……AIのおかげでここまで来れたわけだし。まぁレイナに勝てるって予想外したときはスマホぶち投げてやろうか、と思ったけど」
冗談っぽく笑っているシェリルだけど、大きな瞳の中にほんの少しだけ、剣呑さが宿っているのを私は見逃さなかった。
「……AIの予想も絶対じゃないから」
「まぁね。AIの予想も指導も、絶対に正しいってわけじゃない。でも、AIがその人のやりたいことをサポートしてくれたり、未来を広げてくれたりすることは、あると思うんよ。それって、すげーいいことだと思わね?」
「そうね」
明るい声でAIの可能性を語るシェリルに、私は短く応える。
父の仕事を褒めてもらえたようで、ちょっと照れくさかった。
「で、あたしも人をサポートするAIの開発に携わってみたいなーって考えてるわけ。あと単純にAIに使われるより、AIを使う、管理する仕事のほうが給料良さそうだし」
「それは……その通りだと思うわ」
将来のことを語り合っている最中に、突然現実的なことを言い出した友人に対して私は苦笑を我慢できなかった。
この娘は遊んでるふうなビジュアルや口調とは裏腹に、意外と抜け目がないのだ。
そんな会話を交わしているうちに、寮の外へ出た。
「お、来たか」
「荷物はそれだけかい?」
車の前で私を待っていたお父さんとトレーナーさんが、声をかけてくれる。
「うん。シェリルも荷造り手伝ってくれたから、思ったより早く済んだわ」
「そうか。シェリルさん、うちの娘がお世話になったようだね」
頭を下げるお父さんに、シェリルはトランクに段ボールを積み込んでから、笑顔でパタパタと手を振った。
「いや~、そんなことないすよ。レイナとの寮生活、マジ楽しかったし。あと、パパさんの会社のメロスにはメッチャ世話になってます」
「ああ、それはこっちのセリフだよ。君の活躍のおかげでメロスの売上が大きく上がったからね。そうだ、もしよかったら我が社の公式アンバサダーとして今度……」
何やら、商談が始まってしまったようだ。
「こんな時まで仕事の話とは、困ったやつだ」
そんな父を見て、トレーナーさんが眉をひそめる。
「仕方ないわ。お父さん、『メロスをうまく使ってくれたシェリルジョーダンさんとは、一度お話してみたい』って言ってたし」
「そうか。しかし俺もこれからがんばらないとなぁ。シェリルにしっかり結果出させてやらないと、彼女からも世間様からも『トレーナーじゃなくてAIでいいじゃん!』って言われそうだし……」
「そうね。がんばって」
弱気なことを言うトレーナーさんの背中を、私はポンと気楽に叩いた。
私が引退することで担当のいなくなったトレーナーさんに、シェリルが『よかったら、あたしを担当してみない?』と声をかけたのだ。
今まであれだけ担当トレーナーをつけることを拒否していたシェリルが、どうして心変わりしたのか。
理由を聞いてみると、『なにかを変えないと、今の自分の限界を突破できないと思ったから』だそうだ。
あと『レイナを育てた名伯楽なら、天才のあたしのこともきっと成長させてくれるはず』と、いつもの自信をのぞかせることも、シェリルは忘れなかった。
「せっかく
「えっ?」
「えっ?」
「なにっ……?」
何気なくそう言った私、トレーナーさん、シェリル、お父さんの視線が集中する。
「えっ? 私なにか変なこと言ったかしら……?」
「いやいやいや! あたし別にNTRしてないじゃん! そんなことしたらエアグルーヴさんに蹴り殺されるよ! だいたいあたしオヤジ趣味ないし!」
あれ……なんかトレーナーさんが苦笑いしながらもちょっと傷ついてるわね。
「? エアグルーヴさんは関係ないわ。だってNTRって自分のトレーナーさんが、知ってるウマ娘に担当替えすることを言うんでしょ」
首をひねる私に、三人は『どう言ったものか……』みたいな視線をくれる。
なにか私は間違っているのだろうか。
そんな私に、シェリルはなぜか少し真剣な表情を浮かべながら、両肩に手を置いた。
「うん。レイナには、そのピュアな心のまま生きていってほしいと思う。……でもパパさん。もうちょっと、世間ってやつをレイナには学ばせたほうがいいかもしれないっすね」
「うむ……」
アンバサダー契約の話で意気投合したらしい二人は、何やら難しい顔をしてうなずき合っている。
訳知り顔の二人が、どうにも面白くない。
「まぁNTRのことは俺がおいおい、説明しよう。レイナ、そろそろ出発しようか」
「……そうね」
いつまでもこうしてみんなでワイワイしていたいけど、別れの先延ばしほど、悲しいことはない。
「じゃあ、私行くわね。シェリル、今までありがとう。あなたとの寮生活、楽しかったわ」
「うんにゃ、こっちこそありがとね。あたしも、メッチャ楽しかった」
「それから……最後に本気で競えたのが、あなたで本当に良かった」
言うべきか迷ったけれど、私は友だちに伝えておくべきことを、伝えておくことにした。
「……あたしは正直、メッチャ悔しかったけどね。でも相手がレイナじゃなかったら、あたしはあの世界レコードのハナ差まで迫れなかったと思う。もちろん、まだ夢を諦めたわけじゃない。来年の秋天、しっかり見てろし!」
力強くそう言って差し出してくれたシェリルの右手を、私はしっかりと握りしめた。
シェリルは、これからもレースを戦い続ける。
夢を、追い続ける。
私は指導者を目指して勉強に励むことになる。
戦う場所が変わっても、私たちは友だちだ。
きっと私たちは、長い付き合いになる。
私たちの別れに涙は必要なかった。
「トレーナーさんも。本当にお世話になりました」
ちょっと名残り惜しく思いつつシェリルから手を離し、今度は私の面倒をずっと見てくれたトレーナーさんに深々とお辞儀する。
トレーナーさんには言葉に言い尽くせないぐらい、お世話になった。
「……俺も君の競走人生に最後まで併走できたことを、君の杖でいられたことを、嬉しく思うよ。本当のお別れは引退式になるけど、今、ここで言わせてくれ。サイレンスレイナ、お疲れ様。本当に、よく頑張ってくれた。君は、俺の誇りだ」
「……トレーナーさん」
今日は笑顔で、トレセン学園を、あとにしようと思っていたのに……。
「私、トレーナーさんに担当してもらえて、幸せでした。お父さんと仲直りできたのも、あなたのおかげだと思う」
「そうか」
トレーナーさんはレースで私を送り出していたときのように、笑顔で軽く私の肩に手を置いた。
「これから先、君の人生には大変なこと、辛いこともたくさん起こると思う。でもきっとここでの経験が、その時の支えになってくれる。君の歩む道が幸多きことを、祈ってるよ」
言葉というのは、存外に不便だ。
伝えたい気持ちをすべて表す言葉が、なかなか見つからない。
だから私はあふれ出てくる涙を拭いながら、一番伝えたかった言葉だけを、トレーナーさんに伝えた。
「……ありがとう、トレーナーさん」
「ああ」
トレーナーさんはそれだけ言うと、そっと私の肩から手を離す。
別れのシーンで言葉が少ないところはお父さんに似ているな、とふと思った。
お父さんはもう、運転席に乗り込んでいる。
「じゃあ、そろそろ行くわね。……さようなら」
扉を開けてくれていた助手席の方へ、私は乗り込む。
お父さんが手元でスイッチを操作すると、ゆっくり車の扉は閉じていき……やがて私とトレセン学園を完全に切り離した。
後ろを振り向くと、二人が大きく手を振ってくれている。
「行くぞ」
お父さんはそういうと、静かに車を発進させた。
二人の姿が、どんどん小さくなってゆく。
「さようなら、シェリル。さようなら、トレーナーさん」
そして、さようなら、トレセン学園……!
私は滲む二人の姿が見えなくなるまで、一生懸命手を振り返していた。
*
12月に入ったばかりだというのに、吹きつけてくる風はとても冷たかった。
先週のジャパンカップをもって今年の東京レース場の全日程が終わった寂しさが、よけいに風の冷たさを感じさせるのかもしれない。
ただ、わずかに秋の気配を残す柔らかな日差しが、寒さを少しだけ和らげてくれている。
そんな東京レース場に、10万人もの人が詰めかけていた。
「本日は私のために、こんなにもたくさんの人たちにお集まりいただき、ありがとうございます」
勝負服姿の私が本バ場のホームストレッチに設えられた舞台の上からお辞儀をすると、大歓声が沸き上がった。
「ここ東京レース場は、私たちトレセン学園生のホームともいうべきレース場であり……私が初めての重賞、そしてGⅠレースを勝利した、思い入れの深い場所です。このようなところでたくさんの方に見送られながら引退式をしていただけることを、本当に嬉しく思っています」
ふたたび、スタンドから大きな声援が沸き起こる。
「1年半ほどの、短い現役生活でしたが……私の走りを、競走人生を見守って応援してくださり、本当にありがとうございました」
感謝の思いを込めて深く、お辞儀する。
『レイナ! レイナ! レイナ! レイナ!』
すると同時に、スタンドからは大きな拍手とコールが沸き起こった。
そのコールに
もう全力で走る必要はない。
もう私が、ターフを本気で駆け抜けることはない。
私はスタンドに向かって手を振りながら、一歩一歩踏みしめるように、ゆっくりと走る。
これが私の、正真正銘のラストランだ。
普通、こういったパフォーマンスは第一コーナーの手前までで終わるものなのだけれども。
私は第二コーナーを曲がり、向こう正面を目指して府中のターフを駆けてゆく。
木々の間から吹き抜けてくる風。
遠くから聞こえる歓声。
美しい緑色の絨毯。
この音を、この景色を、私は愛していた。
レースではいつも思案のしどころだった、第三コーナーを通過する。
先頭の私を追いかけてきた、たくさんのライバルたち。
セキシュウサイさん。
ウイッチオブターフさん。
ジェシカ。
シュノンソーさん。
そして、シェリル。
彼女たちの蹄音が、聞こえた気がした。
大欅を越え、第四コーナーを回って、最後の直線へ向かう。
ゴールまで死力を尽くして戦おうとするウマ娘たちを、ファンたちはスタンドから声を枯らして応援する。
いつだってその声はウマ娘たちに、私に、最後まで戦い抜く勇気をくれた。
大声援に出迎えられて私はゴール板の前を駆け抜け……そして、満員の観客席の前で立ち止まる。
私の先頭を追い求める旅は、終わった。
スタンドを見渡し、そして空を見上げる。
「ただいま」
万感の思いを込めてささやいたその言葉は、ターフを吹き抜ける風の中へと溶け込んでいった。