登場するふたりは紫苑と明音ですが、他のお話とはつながっていません。
※pixivにも同じ作品を投稿しています
「練習のキスだから。大丈夫だよ。」
いったいなにがどう大丈夫なのか。一ヶ月経った今から振り返ればむしろそう思う。
でもあのときはそう、まだ幼かった。
だから、他人と交わす口づけという未知の行為への興味に抗うことは難しかったのだ。そういうことにして欲しい。
やはりファーストキスは噂に聞くように、檸檬のように甘酸っぱいのだろうか。
いや、恋人と交わすファーストキスではないのだから、もしかしたらしょっぱいのかもしれない。
考えれば考えるほど、なるほど興味が湧いてくる。
それに今後きっと体験することになるであろう本命とのファーストキスのまえに慣れておくのも悪くはない。
いま思えば、親友からの突然の提案に混乱していたのだろう。
だから「練習だから大丈夫。」という胡散臭い言葉にすら背中を押されるように、頷いたのだ。
練習であろうとなかろうと、身内以外と交わした初めてのキスに変わりはないというのに。
それが異性ではなくて同性同士だからといって「練習」と片付けて良いのかはまったく意味が違うというのに。
とにもかくにも、明音と口づけを交わすことにした。
きっと明音も興味津々なのだろう。
善は急げ、いまからやるよ、すぐやるよと、やけに乗り気の明音は前髪やリップをやけに丁寧に直しながら急かしてくる。
交わした約束だ。そんなに急がなくても逃げはしないのに。
そういえば自分もかさついたりしていないだろうか。髪は跳ねていないだろうか。
いや、明音を相手の練習なんだし、そこまで気にしなくても。
などとのんきなことを考えながらも、初めての行為になんだかわくわくしていたのも事実だ。
それからも、ようやく向き合ってみればぷっと噴き出してみたり。
互いに肩を抱き合っては「やっぱりむり~」と払いのけてみたり。
そこまではいつもの雰囲気と変わらない。
ただ、なぜだろう。
明音の顔が近づくにつれて、目を合わせられなくなってしまい。
明音の気配が間近にせまるにつれて、胸が高鳴ってしまい。
情けなくもぎゅっと目を閉じて息をするのも忘れて黙っていると、不意に唇になにかが触れた。
微かに目を開けると明音もぎゅうっと目を閉じて必死に唇を寄せてくる。
そして再び目を閉じた瞬間、互いに身体を引き寄せてようやくしっかりと唇が重なったのだった。
さて、肝心のキスの味はと言うと。
味どころか意識そのものがぼうっと霞んで、なんだか頭がふわふわして、いつ終わったのかすらぼんやりしてしまった。
明音もまた唇を両手で抑えたまま黙り込んでしまい、目がうつろに泳いでいる。
ただ、わかったこともある。
それは、ずいぶん昔に経験した初恋とおなじ気持ちを、やはり頬を紅く染めた明音に対してなぜか感じるのだということだった。
あとはあのときのキスが結果として「恋人と初めて交わすファーストキスになった」ということ。
だから、永遠にファーストキスの味は、わからない。