埋火   作:Mk.Z


原作:Infinite Dendrogram
タグ:オリ主
偏屈な老魔術師の家に暮らす奴隷の少年は、ある日、主人の留守に鍵のかかった書斎へと忍び込んだ。そこには瓶詰めにされた、口を利く火がいて――

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埋火

 ■約XXXX年前 中央大陸

 

 窓を塞ぐスレート*1の間から差し込む光が、部屋の中をゆっくりと動く埃を浮かび上がらせていた。少年は呼吸を殺しながら雑多な道具の置かれた机を回り込み、なにやら面白いものがないかどうか、部屋の中を見渡した。

 芳しくはなかった。山程の本が戸棚や、机の上、椅子の上にまで詰め込まれるように置かれている。ガラスで造られたフラスコや抽出器がずらりと並び、怪しげなものがその中で浮いたり沈んだりしていた。

 壁際の飾り棚の中には、宝石や剣、燭台といったぴかぴかしているものがたくさんあったが、固く鍵がかけられていた。空気はほこりっぽく澱んでいて、変な匂いがする。

 少年はため息をつき、首を振った。主人の目を盗んで忍び込んでみたはいいが、よく分からないがらくたしかない。見つかる前に退散するとしよう。もし見咎められでもしたら、火あぶりにされるかもしれないのだ。

 

『おや、おや』

 

 だから突然聞こえたその声に、少年は身を固くして蹲った。

 手のひらで頭をかかえ、殴られても痛くないように縮こまる。だが、その声は敵意に燃えるでもなく、ただ閉口したように言った。

『君ねえ、私がまるで棒切かなにかで折檻でもするような身ぶりは止してくれよ。評判に関わる。尤も悲しい哉、この私の世間体などないに等しいがね。実に不愉快だ』

 その声音に怒りがないのをみて、少年はおずおずと立ち上がった。小鳥のようにたえず辺りを睥睨しながら。

 声の主は影も形も見えなかった。部屋の中にいるのは少年だけだ。 

『こっちだ』

 声は言った。

『も少し右……行き過ぎたよ。前に出るんだ、そこの蝋燭立てが邪魔になる。そう。顔をよく見せておくれ』

 少年はなにがなんだか分からずに従った。人の声に従うのは少年の習い性になっていた。そうしていれば、折檻を受けずに済む。

 分厚い木から削り出された作業机の端に、ひときわ片付けられた一角がある。近づいてきた声が、くすくすと笑った。

『やあ、なかなか精悍な顔立ちだ。なんだい、まだ分からないのかい。見下ろしてご覧』

 

 そこには、大きなガラス瓶が据えられていた。

 その透き通った内側で、オレンジ色の火があかあかと燃えている。あまりの美しさに、少年は思わず見つめた。

 ちろちろと動く炎の舌が、突然割れた。

『はじめまして、人間の少年』

 火が口を利いたのだ。

 

 少年は腰を抜かして後ずさった。炎は不満げにちらちら揺れた。瞳のような丸い光がお互いを追いかけ合ってくるくる回る。

『逃げないでほしいものだね。客人は初めてなんだ。代わり映えのしない書斎に閉じ込められて、瓶詰めにされているというのでは、どんなに陽気な性格でも気分が湿気ってくるというものだよ。そう思わないかい、少年』

 炎は少年を見つめた。

『違うのかい?君は人間の、子供というやつだろう。男の子だ。書物で学んだとおりだな。髭も無いし声も高い』

「君は、何?」

 少年はつぶやいた。炎は言った。

『私は“ジン”。あの魔術師が造ったしもべだ。魔法使いふうに言えば、火属性のエレメンタルということになるのかな……純粋な、煙のない火から造られたのだ。使い魔(ゴーレム)と言い換えてもいい。この手の術はむしろ黒土術(ランドマンシー)などの得意とするところだろうがね。自我と知識を持ち、こうも流暢に話せるのはそこいらのゴーレムとは比べ物にならん知性と自負しているよ』

 “ジン”は饒舌に言った。

『まあ、話し相手になっておくれよ。退屈だったのさ、来る日も来る日もあの老人の仏頂面ばかり眺めていてはね。このあたりの書物は大概内容を知っているし、代わり映えのしないこの景色』

 そこで、ジンは言葉を切った。

『ところで、君は何かな』

「名前はないよ」

 少年は答えた。

「あの人はたいてい、“おい”とか“そこの”って呼ぶんだ」

『なるほど』

 ジンはくるくる回った。

奴隷(ドレイ)、というやつだな』

「奴隷?」

『君は買われたんだ。だから奴隷だよ。意味わかるかい?』

 ジンの言葉に、少年は頷いた。

「殴ってもいい人間ってこと?」

『ふむ。本質かもしれんな』

 少年はボロを着ていた。汗じみた貫頭衣(トゥニカ)*2に、砂まみれのすり切れたサンダルだった。この時代の砂漠地方としてはありふれたものだ。

『彼のほかに一人、奴隷がいるというのは聞いていたよ。あの老人は13000リルで君を買ったのだそうだ、下働きのためにね。破格の買い物だな。奴隷ひとりとなれば大抵は羊や馬などよりも高いものだが、子供だったからかね。母親は?』

 少年は首を振った。

『じゃ、父親は?』

 少年はまたも首を振った。ジンは困ったように言った。

『君ねえ、それじゃまるでナツメヤシだよ。人間なんて放っといても土から生えてくるものじゃないだろうに』

「知らないんだよ」

 少年は悲しげに言った。

「僕はなんにも知らないんだ。親ってのが、いるんだとは思うけど」

『まあ、それならそれでいいさ。私も無理に聞きたいわけじゃない。世間話だよ。私だって親のいない身だ。なにせ火だからね。それに、あの老人を親だとは絶対に思いたくないねえ』

 ジンは言った。その炎の先がちろちろと大きく揺らいだ。

『ところで君に頼みがあるんだ』

 ジンは、内側の激情をあえて抑えたように、何でもない風を装っているような声で言った。

 

『私を、外に出してくれないか』

 

 ジンはそう言って、素早く付け加えた。

『なに、ちょっとでいいんだ。屋敷の外で蓋を開けてくれるだけでいい。ほんの少し扉を開けて、蓋を外すだけだ。かけがねを跳ね上げれば簡単に取れる』

「無理だよ」

 少年は言った。

「そんなのできない。見つかったらまたたたかれちゃうよ。こないだもエサを抜かれたんだ」

『やめなさい。エサだなどと自分で言うものじゃない。たとえ奴隷であることを蔑まれても、自らを貶めてやる必要はない』

 ジンは首を振るようにゆらゆら震えた。

『じゃ、外に置いてくれるだけでいいよ。蓋は外さなくていい。それだけならできるだろう?』

 少年は首を振った。ジンは業を煮やしたように言った。

『やれやれ。そんなにあの老人が怖いのか』

「怖いさ」

 少年は言った。

「ご主人様は僕に命令できるんだ。なんだって言うことを聞かせられる。逆らえるはずがないだろ」

『ああ、契約書の術だね?大丈夫、その手の力は大雑把な命令しかできない。“私を外へ出すな”とはっきり命令されでもしない限り、問題ないはずだ。どうせ“言うことを聞け”としか書いてないんだろう』

 少年はそれでも黙っていた。ジンは言った。

『……ならば、そうだな、せめて』

 ちょっと言葉を切って、ジンは続けた。

『せめてなにか気晴らしを持ってきてくれないか。新しい本とか、珍しいものとか。そうだ、外の話を聞かせておくれ。それがいい。それなら君にも害はないだろう』

「僕に何の得があるのさ」

 少年は言った。

「ここに入るのだって、ほんとはいけないはずなんだ。もう来ないよ。見つかったらすごく叩かれちゃう。面白いものがあるかと思ったのに、よく分からないものばかりだし」

『そうかね?』

 ジンはふるふる嗤った。

『君が無知だからだ。この屋敷の主はそれなりに経験のある魔術師だぞ。この部屋には様々な知識の粋があるというのに、それが……そうか』

 ジンが尋ねる。

『どうだろう。君、魔術師になりたくはないか?』

 少年はまばたきをした。そんなこと、考えたこともない。ご主人様が偉大な火の魔法使いだというのは屋敷に出入りする商売人から聞いていたが、だからって自分がそうなれるとは思わなかった。

「僕には無理だよ」

 少年は言った。ジンは瓶の中で揺らめいた。

『何故?』

「なぜって、できっこないよ。僕ドレイだもの」

『何故?』

 少年は言葉に支えた。ジンは静かに言った。

『出来るとか出来ないとかはね、君、結果だよ。物事が終わってから分かることだよ。未来の話はどうでもいいのさ。今、現在にできる話はねえ、やりたいかやりたくないか。それだけだ』  

 ジンは厳かに、少年に向かって語りかけた。

『教えてあげよう。文字の読み方を、論理の筋道を、魔力の使い方を。私は火の魔術で造られた。紅蓮術(パイロマンシー)のことなら誰より知っているとも。君が欲する知識を、私は与えてあげられる』

 少年はごくりとつばを飲み込んだ。ジンは優しく言った。

『想像してみたまえ。有力な魔術師は引く手あまただ。君は王宮や、貴族の屋敷や、豪商のキャラヴァン*3で力を見せびらかし、富を引っ張り込み、豊かな暮らしを送ることができる。もう……』

「……もう、誰かに叩かれたりしない?」

 誘惑された少年は、夢見がちな顔で言った。

「馬鹿とか、臭いとか言われたりしないよね。毎日お粥に(ミルク)だって入れられるよね!」

『君は本当はとても傷ついているんだ』

 ジンはぐるぐる回りながら言った。

『求めよ。さすれば与えられん。大事なのはね、自分で一歩踏み出すことだよ、君、ええと……』

 ジンはそう言って、考え込むように動きを止めた。

『……やはりどうにも“少年”だけでは都合が悪い。手付金がわりに、私が名前をつけてあげよう。立派な名がいいだろう、高貴な人間はみな名字を持っているものだ。偉大なる火の魔法使いになろうというのなら、それなりの名前がなくっちゃあなるまい』

 ジンのそばには、窓から差し込むかぼそい陽光が机の古木を照らして金色に輝いていた。それを見、ジンは言った。

 

『そうだな、それでは、太陽(サン)――』

 ジンの炎がにたりと真っ二つに裂けた。

 

『――『サン・ラズバーン』、というのはどうだろう?』

 

 ◆

 

 それから、少年サンの日々はがらりと変わった。

 館の主人の目を盗んでは、彼は足繁く書斎に通った。老魔術師が出かけていたり、昼寝をしたり、奴隷の少年に命令するのを忘れたりした時間に、彼はジンから様々なことを学んだ。

 手始めに覚えたのは読み書きだった。ジンは文字を教え、難しい言葉を覚えさせ、レトリックとメタファーとして知っているべき故事を叩き込んだ。簡単な幾何学(ジオメトリ)代数学(アルジブラ)を学ばせ、物理学の基礎を作った。

 やがて少年はジンから与えられた課題の通りに、書斎から盗み出した本を読み耽るようになった。自分のカビ臭い小部屋(アルコーブ)*4に一冊ずつ書物を隠しては、わずかな星の灯で夜通し目を通す。日中は掃除や洗濯をさせられながら、ひたすら頭の中でそれを反芻した。書を盗んではひっそりと返すのを何度も繰り返すうち、少年は次第に知識を身に着けていった。

『まずは知ることだ』

 ジンは言った。

『“器”の補助は強力だが、魔術の本質を見失う。偉大な術者は誰しも自分だけの技術で魔法が使えるものだ』

「生まれてこの方瓶詰めのくせに、どうしてそんなことを知ってるの?」

 少年の問いに、ジンは悲しげに答えた。

『あの老人が、私を造るときに焚書*5の火を使ったからさ』

 

 どのみち、屋敷にクリスタルは無かった。

 少年は生まれ持ったわずかな魔力だけで、術を磨いていった。館の主人に見つからないためにも大事なことだった。一日にろうそくほどの僅かな火を指先にともし、操り、練習する。ジンは洗練された術を好み、力任せの魔法を嫌っていた。

 少年は割のいい魔力の使い方を覚え、火の温度や形や燃え方を研究した。タマリスク*6とナツメヤシの木材ではどのように燃え方が異なるのか、風のある場所とない場所ではどのように揺らめき方が違ってくるのか、煙のある火とない火とではどのように色が変わるのか、じっくりと学んだ。

 少年はぐんぐんと背が伸びていった。子どもから男へと変わっていく僅かな移ろいの時期らしく、胴に比べて長い手足を持て余し、声がかすれ、そしてなにより飢えていた。厨房から干し肉を盗み取って散々に仕置されたりしながら、彼は大人に近づいていく。

 

 そして、いつの間にか三年の月日が流れた。

 

 ◆

 

「私は出かける」

 老魔術師は、いつもどおりのつまらなさ気な口調でそう言った。白いひげをボサボサに垂らし、鷲鼻にはいぼがある。鮮やかな正装だけはかしこまっているのでむしろちぐはぐだった。

「中庭の花には触れるなよ。掃除をしておけ。随分ほこりが溜まっている。まったく、ろくに仕事のできんやつだ……」

 老人はそう言うと、そそくさと出ていってしまった。少年はほうきを片手に、書斎の扉を開けた。

 この頃では、書斎に立ち入ることは許可されていた。老人にとってみれば、愚かな奴隷がまさかそこの品をどうこうできるなどとは考えもしなかったのである。文盲の奴隷にとって書物など無用の長物だし、魔法の品々はすべて飾り棚の中で封印されていた。

 少年はその飾り棚の埃を払ったり、雑巾をかけたりしながらジンと会話し、片手に書物を開いた。

『君は優秀な生徒だよ』

 ジンは言った。このエレメンタルは教え子の気分を盛り上げてやることにも余念がなかった。

『【スヌスムムリクの書】を読めるまでになるとは、私も鼻が高い』

「大したことじゃないよ」

 少年は掃除しながら言った。老人は“掃除をしておけ”とは言ったが、“掃除だけに専念しろ”とは言わなかった。少年が文字を読めることにすら気づかないほど興味がないのだ。

「でも、本当に面白い理論ばかりだ。この著者は火だけじゃない……風や光にも造詣が深いんだろう。炎を深く扱うためには、それらすべてと関わる要素を知っておかなくちゃならない。残念ながら、僕じゃまだ試せないけど」

 少年はため息をついた。

「魔力が足りない。“器”なしの人間範疇生物じゃ、リソースの量が少なすぎるよ。いいかげん、どうにかならないかな」

 少年の眼差しには鬱屈したものがあった。

 三年の月日は、彼の欲望を埋火(うずみび)のように弱めていた。年を経、賢くなるにつれ分かることがある。それは、きっとこの先も同じなのだろうということだ。

 館の主人が便利な奴隷を手放すことなどない。自分を買い戻すにしろ、少年には私有財産を得る手がない。そして、老人が死んだ暁には、奴隷を含めた財産は競売に掛けられる。

「あんな老人の下で、一生を過ごすなんて」

 少年は吐き捨てた。

 あるとき、老魔術師の魔法を観たことがある。恐ろしいほどの巨大な火の玉で、高出力な術式だったが、それだけだった。少年からすれば、それはジンのいうところの力押しで下品な魔法だった。有り余る魔力に物を言わせた、ぜいたくな魔法だ。

「あんな人がこの国いちばんの炎の魔法使いだと言うんだから、笑わせるよ」

 少年は言った。ジンは黙っていた。この国の名前すら知らぬ少年に、しかしその驕りを諌めることはせず、ただ黙っていた。

「だいたい、あの人は僕が怖いのさ。自分の思い通りにならないのが怖いんだ。だから何もさせない。他の家じゃ、奴隷にだって仕事を教えるのが普通らしいじゃないか」

 聞きかじりの欠けた常識で、少年は愚痴をこぼした。

 

『……そこまで言うのなら、いいかもしれない』

 ぽつりとジンは言った。

『まだ早いと思っていたが』

 少年ははっと顔を上げ、花のような笑みを浮かべた。ジンの言いたいことを理解したからだ。

「掃除は終わってるよ」

 

 玄関の扉を開けると、むうっとする外の風が舞い込んでくる。

 盗人の心配はいらなかった。高名な魔術師の館に泥棒に入るものはない。なぜなら、魔術の守りがいたるところに仕掛けられているからだ。それを怖がって、往来でさえ近づかないほどだった。

 少年はだから、誰にも見られずに外へ出ることができた。老人の忘れている古い頭巾を被り、顔を隠して、懐にはジンの瓶詰めを入れている。蓋を開けることは頑なに断った。ジンを逃がしたと知れればあとでこっぴどく折檻されるからだ。

『逃げ出せば?』

 ジンは言ったが、少年は首を振った。

「“逃げ出すな”って言われた」

 契約書は今でも有効だ。少年は老人の命令に逆らえない。

 

 砂まみれの通りを歩いて、ふたりは街の中心へ向かった。だんだんと広くなる道に従っていけば、巨大な水晶はすぐに見つかった。ジンは懐でぶつぶつ呟いていた。

『はじめは【魔術師】からだ。だが、君の“才能”がその先へ進めるかどうかはこの私にも分からない』

「いいさ」

 少年は軽く手を叩いた。触れるだけで、あっさりと“器”を得られたことに興奮しながら。

「ねえ、ジン」

 少年は尋ねた。

「これは一体どういう仕組みなの?誰がこんなものを造ったのさ」

『さあ。世界の始まりからあるのではないかね』

 ジンは要領を得ない答えを返した。

 外の風景に夢中だったのだ。なにせ、少年と老人以外に動くものを見るのは初めてだった。

『人がたくさんいるのだな。あれは犬という生き物か。実に面白い。面白い!ああ、見ろ、みな口々に話し、動き回り、それぞれの仕事をしている。まったく、あの家の中とはえらい違いだ』

「あの人はまだ君が口をきけることを知らないの」

 少年の言葉に、ジンは瓶の中でぐるぐる回った。

『あの老人に私の知性を明かしてもろくなことになるまい。私は自由になりたいのだ。そのためには余計な警戒心を招くようなことは避けるべきだよ。彼は私のことを失敗した実験作だと思って放っておいているのだから』

 ジンはため息をこぼした。瓶の中で炎が息を吹きかけられたみたいにごぼごぼ揺れた。

『嗚呼、自由。愛すべき自由!君は契約と命令に縛られ、私は硝子に囚われている。悲しいものだ。君がここで蓋を開けてくれれば、少なくとも私の側には自由が手に入るのだが』

「やらないぞ」

 少年は目をひそめた。

 

 大通りにはたくさんの人だかりがあった。

 その誰もが、なにかを待ちわびるように道の奥を覗いている。音楽が聞こえてきた。大勢の足音もだ。

 少年は目を剥いた。

 行進してくる高貴な人々に混じって、館の主人が歩いているのが見えたからである。慌てて顔を伏せ、頭巾を深くかぶる。この外套を買ったのは随分昔のことだろうから、柄を覚えていないことを祈った。そそくさと逃げ出せば逆に悪目立ちするだろうということくらいは察しがつく。

『なるほど、これは見ものだね』

 ジンが懐でのんきに言った。

『民衆と支配階層。少数の権力者と多数の被支配者により、人間社会というものは維持されているわけだ。いや、壮観だね。まるで窓辺に来る働きバチのようだ』

「あの人が出かけていったのはこのためか」

 少年は言った。

 館の主人は行列の先頭に立ち、なにやら《詠唱》らしきものを唱えていた。手に持っているのは飾り棚の中にあった杖だ。先端に大きな紅玉が嵌っている。老人がそれを一振りすると、火の玉が次々に空へと打ち上げられ、どおん、と音を立てて弾けた。人々がそれを見上げて浮かれ騒ぐ。

 ジンは懐で馬鹿にしたように言った。

『まったく、豪勢な花火だよ。誰か結婚でもするのかい?』

 少年は答えなかった。

 パレードのただ中にいる女性に、心を奪われていたからだ。たおやかな白のレースを身にまとい、まるで風をつかまえているようにゆらゆらと進んでいく。乗せられている輿には花の意匠が施されていた。厳しい顔の兵士たちがそれを取り囲んで、剣と槍を構えている。

 火の玉がまた弾けた。少年は我に返ると、まだ外を見て回りたいらしいジンの不満げな言葉をどうにか宥め、覚えておいた道筋をそそくさと辿って家路についた。

 

 ◆

 

 通行人や、出入りの商人にそれとなく確かめたところ、この前のあれはどうやらこの国の姫君らしかった。その話の中で、少年はようやくこの国の名前を知ったのだった。

 

 この都市の名はヴァレイラという。

 あの女の子は第一王女ペベレク・ヴァン=ヴァレイラ、この前のパレードはその成人の儀を祝う立志式*7で、彼女が15歳に達したことのお披露目だったのだそうだ。ヴァレイラは砂漠のただ中にある交易中継地で、他にもいくつかの都市国家を支配している。噂では、隣国ヘルマイネの王太子が歳も近い、政略結婚の相手になるかもしれないとのことだった。

「綺麗なひとだったなあ」

 少年はほうきをかけながら呟いた。ジンは呆れたように言った。

『君ねえ、ここのところ練習に身が入ってないのはそのせいかい?あの人間のことばかり考えているのかね。今日の術ときたら、酷いもんだったよ』

 ところがジンはジンで、生まれてはじめて目にした外の世界に夢中だった。どうにか少年を言いくるめてまた屋敷の外へ連れて行かせようと、ジンは猫なで声で言った。

『リソースを取り込むんだ。“器”があっても中身が空っぽじゃあ意味がない。この屋敷の中にいたんでは殺せる生き物がろくにいないね……やはり外に行かなくては』

 少年が“器”を手にした……レベル〇を脱したことは、それこそ簡単に見て取れる異変だったが、屋敷の老魔術師はちっとも気づいていなかった。どのみち、炎を究めている彼には《看破》が使えない。それに老人はおどろくほど他人に興味がなかった。彼の頭の中にあるのは魔法の知識と、それをいかにしてお偉い方々に評価していただくかという権力欲、そして庭の花の具合だけだったのだから。少年が明日から逆立ちして歩き始めたって気づかないだろう。

『生と死の循環こそこの世の原則、ルールだよ。君だって肉を食べるだろう。その肉はまた他の生き物を食している。草木は土から萌え出ずるが、その土を作るのは君たち生き物のむくろだ。いいかね、リソースも同じことだよ。“器”を満たすには、生き物の死を集める必要がある』

「無理だよ」

 少年は言った。ネズミ取りの鼠を見やりながら。

「あの人が次に出かけるまでにどれくらいかかると思う?日がな一日、あの離れの研究室に閉じこもってさ」

 少年は中庭越しにその離れを覗いた。なにやら怪しいことをやっているのだろう、色のついた煙がときおり窓からあふれてくる。昼食もろくに食べていない。少年が命令されたのは、果物を適当に切り分けて、扉の外に置いておくことだけだった。夕方になると無くなっているんだから、食べているのは確かなのだろうが。

『ま、我々にとっては好都合だがね。そら、次は【火属性高等魔術の一般構築式】だ』

 ジンに従って、少年はほこりまみれの本を入れ替えた。

 

 実際のところ、二人の望みは叶う見込みがなかった。

 屋敷にいる主人を放ったらかして外へ行くことは、いかに屋敷奴隷に無関心な老人といえど許さないだろうし、また砂丘都市ヴァレイラの姫君がいる王宮には奴隷身分(アブド)の少年が立ち入るなど不可能を通り越している。なんでも、このヴァレイラ国の自慢は歩兵剣士団なのだそうだ。

『【剣王】がいるのだからね』

 ジンは言った。

『いや、大したものだよ。そりゃあ自慢にもしたくなる』

 ジンは淡々と教えた。

『この世には様々な“器”がある。たいていのものは数限りないが、なかでもこの世に一つしかなく、強い力を持っているのは【王】や【将軍】と呼ばれるんだよ。リソース論でやっただろう……超級職(スペリオル)という奴さ』

 ジンは根気強い教師だった。少年が同じことを何度聞いても快く教えた。彼は書物に似ていた。人間の教師とは違って、本は何度読まれようと読者をバカにしたり、うんざりしたりしない。

『基底状態であるゼロからリソースが蓄えられていくと、力はどんどん高まっていく。だが、その遷移は非線形だ。すなわち相転移*8するのだよ。超級(スペリオル・クラス)というのはその最上位の相さ。あらゆるものが進化の果てにいずれはそこへ行き着く』

「……君もそうなれるわけ?」

 少年の問いに、ジンは笑った。

『理論上はね。だが、硝子瓶の中ではそれも望めまいね』

「なれるならなりたいの?」

 少年はいつになく真剣に尋ねた。ジンはひょうひょうと言った。

『ま、無論やぶさかではないがね、しかしそこまで唆られないな。君と違って私には権力欲もないし、同種と番って家族を作ろうとか、そういうのもつまらない』

 ジンは少し考え込んでから言った。

『この私は火だからね。ぱあっと派手なものでも燃せれば、冥利に尽きるかな』

 

 ◆

 

 また老人が出かけていった。

 今回のことはいつものとは違っていた。なにせ王宮から使いが来たのだ。若い兵士が剣と槍をぎらぎら見せびらかしながら言った。

「ブルート師はおられるか!至急御取次願いたい!」

 老魔術師の名はバルーベル・ブルートといったのだ。それ自体、少年にとっては耳慣れない名前だった。この家に訪ねてくる人間は、老人のことを『おんかた』とか『旦那様』あるいは『偉大なる閣下』などと呼ぶのが常だった。

 魔術師が支度をしている間、玄関先に辛抱強く立っている兵士に対して、少年は話しかけてみた。

「どういう用事なんですか?」

 その話しかけ方はいささか無作法だった。兵士はしかし、奴隷身分とでも口を利くくらいには鷹揚だったので、堅苦しく言った。

「そうだな。これはあまり大きな声で言い触らしてもらっては困るんだが、隣国のヘルマイネに妙な動きがある。【炎王】の字を持つ

ブルート師には、ぜひ御協力願いたいのだ」

「戦争なんですか?」

 少年は言った。兵士は顔をゆがめた。

「そうならないために来ていただくのだ」

 そこでちょうど老魔術師が顔を出した。兵士はおしゃべりをやめ、王宮へと案内するために頭を下げて道を開けた。少年は屋敷に引っ込み、この大騒ぎを伝えるためにジンのところへ走った。

 

『戦争か』

 ジンはどうにもそそられない様子で言った。

『戦の火は好かない。品がないからね』

「他のエレメンタルに会ったことがあるの?」

『会わなくても分かるさ。そういう連中なんだ』

 ジンはいささか非論理的に言った。こと戦争となれば、多少非論理的にもなるだろう。

『私は耳がいいからね。あの老人や、市井の人々の会話くらいは頑張れば聞こえるんだ。そのヘルマイネとかいう国は、同盟国だったんだろう?表立ってつんけんするわけには行かないんだよ。かと言って放っておけもするまい』

「あの人も魔法を使うのかな」

 ジンはぐるぐる回りながら言った。

『彼は超級職(スペリオル)だ。遊ばせておくのは無駄だろうね。火の魔法は確かに戦争に向いている。ヘルマイネがあたりの都市を味方に引き込む前に、先手でけりをつけるつもりかもしれん』

 ジンはしかし、それ以上戦争の話をしたがらなかった。代わりに、少年に課題を出した。

『そら、今日からは【幾何学原論】だ。うまく火の玉を飛ばすのには、放物線が計算できなくちゃ話にならんぞ』

 

 ジンの無関心さとは裏腹に、街はきな臭くなっていった。

 兵士の数は増えた。なによりキャラヴァンが火薬や武器、その他危なげなものを運び込んで来ていたので、市井の人々もまた張り詰めていった。

「魔術師を引き込んどる」

 老人は夕食の席でぶつぶつ言った。独り言だった。少年に話しかけているわけではないのだ。彼にとって、屋敷の奴隷など観葉植物と変わりないものだった。結婚できないのも無理はない。

「サリオンとやつの徒弟がおる。まったく。鏡のランヴォールに、メイヘムの【盾王】麾下重装歩兵戦団まで。けしからん。まったくもってけしからん」

 老人はくちゃくちゃと粥を飲み込んだ。少年は洗い物をしながら黙って聞いていた。

「おい、そこの!」

 いつもどおり、ぞんざいなやり方で老人は唸った。

「私はこれから王宮に泊まり込む。家の番をしておくのだ、いいな。庭の花には触れるな。食べるものは適当に使っていいが、葡萄酒とその他ぜいたく品には手を付けないように」

 目も合わせずにそう言うと、老人は支度を整えて出ていった。

「帰ってきて埃が溜まっていたら《フレアー・ペンデュラム》の罰だぞ」

 そう言い残して。少年は顔をしかめた。老人は拷問用の火属性魔法をごまんと独自開発して数冊の本にまとめていた。少年の背中にはまだ、火傷のあとが残っている。

 それでも、あの陰気な老人がいないというだけで凄まじい爽快さだった。

『外へ行くべきだな』

 ここぞとばかりにジンは言った。

『君の“器”はまだ完全には程遠い。【紅蓮術師】になるにはまだリソースが足りん。この家で殺せるのはせいぜい鼠くらいだ』

 確かに、この屋敷にはごまんと鼠がいた。ネズミ取りにかかったそれを水に沈めるのは少年の仕事の一つだった。

 

 次の日になると少年はひっそりと屋敷を抜け出した。戸締まりは必要なかった。みな空き巣どころではなかったからだ。

 少年は王宮へと行ってみたが、厳戒態勢だった。兵士たちは奴隷の少年を容赦なく追い払ったし、姫君に目通りなどかなうはずもなかった。

『無駄なことだよ』

 ジンは言った。

『恋多き年頃なのは理解するがね。しかし分不相応だよ』

「うるさい」

 少年は不貞腐れて言った。別に、姫君と結婚したいとかそういうことではなかった。ただ一目見たかったのだ。だが、目に入ってくるのはごつごつした男たちの怒り顔ばかり。

 

 王宮をあとにした少年は街を取り囲む城壁に登ってみた。

 そこからは砂漠が一望できるのだ。砂まみれの広大な大地に、彼は息を呑んだ。

「すごい」

『世界とはなんと巨大なことか』

 ジンでさえそう言った。

 少年は自分の故郷を知らない。奴隷にされるのは得てして敗戦国の民衆だったから、このヴァレイラに負けて隷属下のどこかなのだろうが、親の顔すら知らない彼にとってみれば思い出そうとすら思えないことがらだった。

 寂寞とした砂砂漠(エルグ)*9にはなかば枯れているような木々が散在していた。その寂しい景色は、しかし少年の郷愁を刺激する。生まれ故郷もきっと似たような場所なのだろう。

 だが、ジンは全く別のことを考えているようだった。

『あの向こうには何があるのだろう』

 ジンは言った。

『私は自我を持つエレメンタルの実験体として、あの老人に知識を与えられて造られた。だがその知識の中に、この目で見たものは何一つないのだ。なんでも砂の向こうには巨大な水の領域があるらしい。海とかなんとか名付けられているそうだが、しかしそんなものが本当にあるんだろうか?みんなして担がれているんじゃないか?世界は大きな竜に囲まれているそうだが、そんな生き物が実在するとはどうしても思えないのだ』

 少年は黙っていた。ジンは悲しげに言った。

『嗚呼、すべてをこの目で見たい。叶うなら、この硝子瓶から解き放たれたいものだ。君にはわからないだろうな、この苦しみが。二本の足で立って歩ける君には』

「そっちだって分かりやしないさ」

 少年は言った。

「できるのに、それを許してもらえない不自由さは」

 

 ◆

 

 何日か奮闘してわかったことだったが、街から出るには身分の証がいるのだった。奴隷階級者は主人の許しや同行が欠かせない。少年は結局その日も、なにひとつ得られないままに帰路についた。夕日が城壁にかかっている。

『リソースを得るのがこれほど難しいとは思わなかった』

 ジンは言った。

『考えてみれば、強くなる権利というのも一種の富だ。街の中には強い生き物がいない。これは難題だぞ』

「いいよ、鼠で」

 少年はそう言ったが、ジンはぶるぶる震えた。

『はじめのうちはいいよ。だが、それでは何十年もかかってしまうよ。強い魔法を使おうとするならね、力の量はどうしても必要になる。君の技は既にもうその段階に達しつつあるんだよ。なにか方策を考えなくっちゃあな』

 そう言って、ジンは黙り込んだ。方策とやらを考えているのだろう。ふと、少年は感慨深いものに襲われた。このジンだけが、少年のことを親身に考えてくれているのだ。この家の中で、あの老人も、出入りの商人も、少年のことをなんとも思っちゃいない。

 書斎の戸棚に置かれても、ジンはまだ黙り込んでいた。少年はネズミ取りにかかっていた鼠をいつも通り捕まえ、水の入った桶に放り込んだ。

 ふと、哀れになった。こいつらも彼自身と同じだ。

 老魔術師が奴隷を顧みないように、少年も鼠の心配なんかしない。リソースの糧にするだけだ。そう思うと、なんだか後味の悪いものが湧いてくる。

 歯向かってみたくなった。強いものが弱いものを平気に虐げるこの構造そのものに。少年は鼠の一匹を戯れに掬い上げると、庭に放してやった。鼠は戸惑ったようにきょろきょろと辺りを見舞わし、少年を恐れの目で見上げ、そしてさっと走り去っていった。

 少年は虚しくなった。何をしているんだろう。こんなことをしたって、誰が幸せになるわけでもない。あの鼠だって明日にはまたネズミ捕りにかかるだけだ。

 

「郵便でぇす」

 そのとき、家の外から間の抜けた声がした。

 少年はそのひょろっとした使いの者から、手紙を受け取った。老人あての郵便らしい。珍しいことだった。あの老人はなかば世間を捨てていて、手紙なんかめったに来ないのだ。

 少年は好奇心に任せて、なんとなくそれを開いてみた。封蝋は火で溶かせばまた付けられる。包から滑り出してきたのは、流麗な字体で綴られた一枚の便箋だった。

 

 ――色好い返事に感謝を。サリオン。

 

 少年は嫌な予感がして、それをしげしげと眺めた。符号化されているのだろうか、ところどころ何の話かわからない比喩のようなものがあったけれど、それでも差出人は確かだった。

 サリオン。その名前はどこかで聞いたことがあるような気がする。いい文脈ではなかった。少年が思い出そうと頑張って頭をひねっていたとき、扉の開く音がした。

 

 少年は氷漬けになったように立ちすくんだ。戸口には、あの老人が驚き顔で突っ立っていた。いつも通りのボサボサの髭を揺らしながら。

 

 ◆

 

「何をしとる」

 老人は言った。

「“答えろ”。何をしとる?」

 それは命令だった。少年はなすすべもなく口が動くのを感じた。

「……手紙を、読んでいます」

「馬鹿な。馬鹿なことを言うな!」

 老人は激昂すると、ズカズカと少年が使っている物置に入った。手紙をひったくる。その手はわなわなと震えていた。

「“来い”!」

 少年はすたすた歩き出した。自分の足が自分のものではなくなってしまったみたいだった。

「お前のような、無教養な奴隷が手紙だと?読めるはずがない。そんなはずがない。どうせ私宛のものだから食べ物か何かだと思って開けたのだろう。くだらん嘘には罰を……」

 “命令”には逆らえないということも忘れて、いつもの仕置をするために、老人は小部屋(アルコーブ)の前に立ち、そしてひゅっと息を呑んだ。少年もそうしたかった。毛布の中に隠しておけばよかったのに。

 

 そこには、書斎から盗み出した魔術書が開けっぴろげに置いてあったのだ。

 

 老魔術師は不気味なものを見る目でそれを睨み、そして少年をも睨んだ。

「なんだこれは」

 老人はぜえぜえ言った。

「ありえぬことだ。まったくもってありえぬことだ。いったい何がどうなっとるんだ」

 少年は思わず後ずさった。老人が怒鳴る。

「“動くな”!」

 少年は直立不動で立ち尽くした。一本の蝋燭みたいにぴったりと手足を合わせ、呼吸もままならぬほどに張り詰めて。

「“答えろ”。これは何だ」

「本です」

 少年は息も絶え絶えに言った。

「僕が、書斎から盗み出しました」

「そんなことは分かっとる。まったく、なんの冗談だ?【スヌスムムリクの書】だと?これは高度な天属性魔法の運用に関する古書だぞ。だいたい、お前なぞに理解できるはずがない。文字さえ読めんくせに。私の蔵書を枕代わりにするなどとは不届きな……待て」

 そこで、魔法使いブルートはなにかに気づいた。

 小部屋(アルコーブ)の隅に、なにやら焦げ跡がついていた。

 少年が火の練習にしくじったときのものだ。老人はそれを舐めると、顔を歪めた。

「魔術の味だ」

 老人はそのままずかずかと物置を出ていき、少しして小さな片眼鏡(モノクル)*10を携えて帰ってきた。《看破》の魔法を使えるようにするためのものだ。書斎の飾り棚の中にあったのだろう。

 歪んだ分厚いガラス越しに、老人の目が震えた。

「【魔術師(メイジ)】……【魔術師(メイジ)】だと!なんということだ、いつの間に?私がお前を購入した時、確かにお前にはなんの“器”も無かった。まさか飾り棚の中のクリスタルを使ったのか?ありえぬ。ありえぬことだ」

 老人は唸った。

「荷物を取りに帰ってみればこのざまか。どうしたことだ。おまえ、誰の差し金だ!誰の間諜なのだ?誰かしらがおまえを我が屋敷に送り込んだのか?“言え”!」

「僕は誰の密偵でもありません」

 少年は言った。この尋ねられ方なら、ジンのことを言わなくて済む。それだけは不幸中の幸いだった。老人は当然ながらまったく納得していなかった。

「そんなはずはない。愚かな奴隷がひとりでに文字を覚え、魔法を使い、あまつさえ【スヌスムムリクの書】を理解するだと?不可能だ。天地がひっくり返っても不可能だ。何が起こっとるというのだ!」

 老人は吠えた。

 少年は理解していた。この人は、傲慢で臆病なのだ。自分の理解の埒外のことが恐ろしくて仕方ないし、自分より愚かで手の内だと思っていた奴隷が知らぬ間に思いもよらぬものへと成長していたことが恐ろしいのだ。

「本来なら《責苦の業火(サファー・フレイアー)》で身体中の皮をこそげ取ってやるところだが、あいにく今は時間がない。私は王宮へ戻らねばならん」

 老人は憤懣やる方ないようすで言った。

「お前の始末は後ほど考える。ひとまず、“書物に触るな。他の魔法の品々にもだ”。掃除はせんでいい。せいぜいこのあとの罰に怯えておれ」

 

 研究室からなにやら持ち出すと、老人はせかせかとまた出ていってしまった。握りしめた手紙を抜け目なく燃やして。

 少年は打ちひしがれて座り込んでいた。これでもう終わりだ。書物に触れられなくなった。それどころか、“器”を得たこともばれた。あの老人は少年を教え導いたりなんかしないだろう。あの歳で弟子がいないのは、自分より若く優秀な魔法使いが恐ろしいからだ。きっと【魔術師】も剥奪され、また普通の奴隷に戻される。

 力のない、使われるだけの人間に。

 

 そして、少年は思い出していた。

 あの手紙にあったサリオンという名前は、ヘルマイネの魔法使いだ。老人の大きな独り言に幾度となく登場した。老人は嫌っているようだったが、力のある術者であることは疑いがない。

 あの老人は、ヴァレイラを裏切るつもりなのだ。

 敵方のサリオンと結び、ヘルマイネに通じているのだ。老人のような強い魔法使いが裏切ったなら、ヴァレイラは大きな痛手を受ける。それどころか、あの老人は味方のふりをして無防備な王宮に火の玉を撃ち込むことだってできるのだ。

 少年はふらふらと立ち上がった。あのお姫様の愛らしい顔が脳裡に浮かんだ。ひとことも言葉なんか交わしたことのない、こっちの顔も名前も知らない、雲の上の王女のことが。

「ジン」

 作業机の前で、少年は言った。

 本には触れられない。魔法の杖や剣にも。でも、ジンは違う。

「あの老人は、この街を裏切るつもりなんだ」

『ああ』

 ジンは言った。

『知っていたよ』

 少年は泣きそうな顔で言った。

「どうして?なんで言わなかった?」

『あの老人の独り言は病気だね』

 ジンは弱火になっていた。

『この街がなくなってしまったほうが都合が良いんだよ。考えても見なよ。敗戦のどさくさはなんだって隠してくれる。私が逃げ出しても、君が逃げ出してもいい。邪魔っけなあの人が我々を連れて行くにしろ、連れて行かないにしろ、逃げ出す機会は増える。そうだろう?』

「それじゃああのお姫様が死んじゃう」

 少年の言葉に、ジンはため息をついた。

『わからないな。一度きりの一目ぼれに、どうしてそこまで拘る?向こうは君のことなんかこれっぽちも気にかけていやしない。むしろ、奴隷を虐めている側の世界だよ?』

「僕は……偉大な魔法使いになりたかった」

 少年は言った。

「ここであの人を見捨てるのが偉大さへの道なのか?違うだろう。僕は認められたいんだ。称えられたいんだ。焼け野原になったこの街で生きてたって何の意味もない!」

『王侯貴族はどこにでもいるさ。奴隷と同じだ。珍しくも何ともない』

 少年は首を振った。彼にとって、世界はここだけだった。ジンが海を信じていないように、彼は他の都市を信じていない。

「逃げ出したくないんだ」

 ジンは諦めたように燃え上がった。

『仕方ない。知恵を貸してあげよう。君ひとりじゃ、どうにもならないだろうからね。それに……』

 ジンは最後に、聞こえないように付け加えた。

『……痛い目を見なきゃ分からんようだから』

 

 ◆

 

 “家にいろ”という命令を下さなかったのは、あの老人の隙だっただろう。習慣というのは本当に恐ろしいものだ。

 少年とジンは夜の街を抜け、王宮へとたどり着いた。やはりと言うべきか、兵士たちは奴隷の少年を中に入れてくれたりはしない様子だった。

『注意を引くことだ』

 ジンは言った。

『君にはその技がすでにある』

 ジンの言葉に従って、少年は手を動かした。ぱっと点った炎の玉は、大した熱でもなかったが、夜の黒にはよく映える。それをふらふらと浮かべ、少年はふうっと兵士たちの目の前へ送り込んだ。

 兵士たちは血相を変えてそれを見咎めた。当たり前だ。放っておけば町に燃え広がるかもしれない。全員の注意を集めてから、ジンは言った。

『そら、今だ』

 少年は炎の玉をはじけさせた。

 火は熱、光、音の複合体だ。魔法の火は輪郭を失うやいなや、目もくらむような光に変わって広がった。突然のそれに、兵士たちの夜に慣れた目が潰れる。数秒の隙をついて、少年は門扉の隙間に滑り込んだ。

 王宮の中はさすが、砂なんかなくって、緑の庭園に満ち満ちていた。オアシスを丸ごと宮殿に囲っているのだ。地面を流れる水をたどって、少年は王宮の中を彷徨い歩いた。

 ヴァレイラのペベレク王女は人工泉のほとりにいた。白亜の橋を渡りながら、物思いに耽っているようだ。きっと戦争のことを考えているのだろう。

 少年はそれに見惚れ、近づいていった。直訴するのだ。

(あの老人は裏切り者です)

 少年は頭の中で言った。

(僕はそれを伝えに来たんです。貴女を救うために)

 脳裡でさけぶ。

(この街を守るために!)

 

 そのとき、泉のほとりに影が差した。

 少年は息を呑んだ。

 そこにいたのは、あの老人だったからだ。

「殿下」

 老人は言った。

「なかに入られますよう。ここは冷えまする。それに、万に一つ、くせ者が入り込むやも」

「あら、そうね。お気遣いありがとう、ブルート師」

 玉を転がすような声が聞こえた。少年はうっとりと聞き惚れつつも、恐怖に震えていた。まるで誂えたかのような登場の仕方だ。

 姫君はしずしずと宮殿に戻っていった。老人はそれに頭を下げて見送ると、不意に振り返った。

 夜の闇の中を、まるで少年を見通しているかのような目つきで。

「さて」

 老人はつぶやいた。

「この私が」

 老人は言った。

「この私がまさか、“家にいろ”と命令するのを本当に忘れたと思っていたのか?」

 少年はおびえて立ちすくんだ。老人は杖を突きながら近寄ってきた。その手に光がともり、浮かび上がる。

「奴隷らしい浅知恵よ。やはり己を顧みることを知らん。こうなるだろうと思っていたのだ」

 火球の光に照らされて、老人と少年は向かい合った。

「お前はどうせ気づかなかっただろうが、あの屋敷には私の魔法を耳や目として仕込んである。気を配っていればお前の動向くらい知れる。まさかいつの間にか読み書きを覚えていたとは、そしてやつの名に感づくとは、なかなか大したものだが、その程度では無駄だ。どう足掻いてもな」

 老人は狂気的に嗤った。

「なぜなら、どこまでいってもお前は容易く縊り殺せる奴隷に過ぎないのだから」

 杖の先に火炎が生まれ、弾け、膨らみ始めた。老人は獣のごとく獰猛に囁いた。

「“燃えよ――」

 しゅうしゅうと、火のような音が唇から漏れ聞こえてくる。

「“爆ぜよ。明滅せよ。汝は我がしもべの星、ありうべからざる真昼の星。完全なる紅蓮の球体”」

 老人はちろちろと火のような舌で風をなめた。

 

「《クリムゾン・スフィア》」

 

 小さくて真っ赤な火の玉が、杖の先に生まれていた。見かけは小さいが、こうして眺めているだけで眼差しが焼けそうなほど熱く、息をするだけで喉が焦げそうなほどに暑い。

「どうした。後学のためにとくと見るがいい。これが火の魔術のなかでも随一の破壊力を誇る魔法だ。たっぷりと魔力を込めた。お前なら、そうさな、つま先が触れただけで体中が消し飛ぶだろう」

 それはきっと本当だった。こうして近くに立っているだけで黒焦げになりそうだ。

「殺してやる」

 老人は言った。

「もはや奴隷としてお前は役立たずだ。余計なことに鼻先を突っ込むネズミのようなやつなど、不必要を通り越して悪と言って良かろう。やや手間だが、古いものは処分して新しいのを買うとしよう。焼き殺してくれる。骨の髄までな」

 老人はそう言って笑った。

「さあ、怯えろ。恐怖せよ。私に楯突いたことを後悔しながら滅びるが良い。言っておくが、たとえアンデッドとして蘇ったとしても焼き尽くすぞ。その魂のかけらまで我が火にくべてやる」

 明らかに正気ではない。

 

 少年は後退りしようとした。けれど、足が動かなかった。命令には逆らえないのだ。“怯えろ”。“恐怖せよ”。少年は蛇に睨まれた蛙、まな板の上の魚だった。

 だが、抗うなとは言われていない。

 少年は手を掲げ、必死に魔法を組み上げた。あかあかと火が燃え盛り、とぐろを巻いて老人を睨む。

「《ファイア・バスター》か」  

 老人はせせら笑った。

「なるほど。下級術だが悪くはない。しかも術を弄ったな。熱量を増加させる代わりに範囲を絞っとるのか……術式の構成要件を調節できるのは基本に忠実ないい術者の証しだ。哀しいものだな」

 老人は言った。

「魔法の三大構成要素は力、方向、制御。しかし、くだらないお遊びに過ぎん。力の差があり過ぎる相手にはな、そんな小手先の技術など何の意味もないのだ!」

 そして、老人は杖を振りかざした。

 火球が突進した。少年のちっぽけな魔法は、老人の炎の前に容易く飲み込まれ、かき消されて吹き飛んでいく。老人はにやりと嗤った。

 そして、そんなことは少年にとっても織り込み済みだったのだ。

「ジン」

 少年は懐に入れていた硝子瓶を持ち上げると、近くの石に向かってたたきつけた。ガラスが砕け散り、その中の炎がめらめらと燃え盛る。庭園の生木が一瞬で黒焦げになり、蒸気を上げて折れた。

『いやはや、自由になったはいいがね』

 “ジン”が膨れ上がった。

 炎の巨人が老人の火球を受け止め、片手で押し留める。ぱちぱちと炎の爆ぜる音とともに、ジンは唸った。

『やあ、我が作り主よ。どうも』

「貴様は……実験体23号」

 老人は驚愕の表情で怒鳴った。ジンはいつになく上機嫌で叫んだ。

『解放された。やっと!あの狭っ苦しい硝子瓶の中から!やあ、実に爽快だよ、いくら言っても蓋を開けてくれやしなかったのに。ようやくこれで身体を伸ばせるというものだ』

 ジンは膨れ上がり続けていた。まるで大火事が空を飛んでいるみたいだ。老人は絶叫した。

「お前にはせいぜい上級止まりの力しか与えていないはずだ」

『少年よ、君は私と一緒にずっと魔法の練習をしていたがね。私が君の魔法を手伝うたび、少しずつその魔法を硝子越しに吸収していたんだよ。まさかその辺に漂って消えていくに任せるだなんて、そんなの勿体ないじゃないか』

 ジンは高らかに笑った。

『何年も何年も、毎日毎日!おかげで随分肥ったものだ。塵も積もれば山となるとはこのことだな。さあ、行き掛けの駄賃だ。このいけ好かない魔術師を、消し炭にして――』

 

 老人が手を叩く。

 ジンが消し飛んだ。膨らみすぎた革袋のように弾けたのだ。ぱちんと音がして、その炎はしゅるしゅると細くたなびく煙に変わった。

「愚かな」

 老人は言った。

「私の被造物だぞ。私の意思で簡単に消せる」

 少年は呆然と立っていた。老人はため息をつき、言った。

「興が失せた。もうよい。終りだ」

 そして、炎の玉が少年の身体を吹き飛ばした。

 小柄な彼は、火に煽られながら茂みのなかに突っ込んだ。それにまとわりつく真っ赤な炎が、あらゆるものを舐っては灰に変えていく。老人はしばらくそれを眺めていたが、つまらなさそうに踵を返し、王宮へと向かった。何があったのか、と尋ねてくる兵士たちの声が聞こえてきた。

 

 ◆◆◆

 

『やれやれ、まったくひどい目に遭ったものだね』

 

 誰かの声がした。

 全身が痛んでいた。体の内側まで、ずきずきと沁み込むような痛みだ。

『さっさと起きるんだよ。折角死んだふりが成功したんだから。どうにか歩けるだろう?』

 少年は目を開けた。

 ジンがいた。少年の鼻先で、地面に転がった枝がちろちろ燃えているのだ。少年は何がなんだか分からずに呻いた。

『まさか私があんな簡単に消されると思ったのか?』

 ジンは言った。

『言ったろう、君から力をもらったと。君は何年もの365日、私と一緒に魔法を使っていたんだぞ。あの老人から注がれたぶんの力が消えても、君から吸い取った力のほうがずっと多い』

 ジンはそう言うと、ふらふらと浮き上がった。

『ここまで育ててもらった誼だ。あの老人の火はどうにか私が散らして、誤魔化しておいた。君は死んだことになっている。だが、そのうち誰かが事態を片付けに来るはずだ。さっさと行くことだね』

「ジン」

 少年は呟いた。ジンは首を振った。

『私は君とは行かないよ。折角解き放たれたんだ。ここからはお互い、貸し借りなしでいこうじゃないか。ま、逃げ出すにはいい日だ。さっきも言ったがね、戦争というのはどさくさ紛れに何かするのに都合が良い』

「待ってよ」

 少年は這いつくばりながら、どうにか立ち上がった。

「置いてかないでよ。一人にしないで。僕は逃げられないんだ。契約書に縛られてるんだから」

『そうかね?だが向こうさんはもう君を始末したつもりでいるよ。“逃げ出すな”と言ったって、住む街がなくなったんでは意味があるまい。どうにでも逃げ出せるだろうに』

 ジンは冷たく言った。

『まだ分からないのかい?私は君を利用してただけだ。それだけなんだよ。友達でも何でもないんだ。硝子瓶から解放された今、私が君に何かしてやる義理も理由もない。魔法の練習も終わりだ。さよなら』

 少年は首を振った。

「なら……取引だ」

『それこそ無意味だ。君が私に何を差し出せる?何をくれる?』

 少年は躊躇いがちに口を開いた。ジンはゆらゆらと黙っていた。彼が話していることを、いつだってジンは我慢強く聞いてくれていた。

 

「……だ。どう?」

 ひとしきり話し終えたあとで、少年は問いかけた。

『自分が何言ってるのか分かってるのかね?』

 ジンは立木の一本を燃やしてバリバリ食べながら言った。

『君、それはね、自分がよほど天才だと思ってなきゃ出てこないセリフだよ。思い上がりというものだ』

「前、思いっきり派手に燃やしてみたいって言ってたじゃないか」

 少年は言った。ジンは驚いたように揺れた。

『なんだ、覚えてたのか。つまらない独り言さ』

 少年はジンの顔らしきところを正面から見つめた。今や解き放たれた、自由になった火を。埋火(うずみび)と同じだ。風を吹き込んでやれば、それはめらめらと驚くほどの勢いで燃え上がる。

「やれるよ」

 少年は呟いた。

 

「僕は君の弟子だ。やれるよ」

 そう言った少年を、ジンははっきりと見返した。炎のなかに、瞳のような丸い火がふたつ、かすかに灯っている。

『なら、この私も、師として務めを果たすべきかもしれないね』

 

 ◆

 

 老いたる【炎王】、あるいは“ヴァレイラの紅蓮”は、王宮の中心点にたどり着くと、そこで初めてほっと息をついた。手近な椅子を引きずってきて座り込む。

「歳は取りたくないものだ」

 老人は懐からなにやら籠手のような、鎧のようなものを取り出すと、かちゃかちゃと袖を通した。将軍を務めている大男が忌々しそうにそばへ寄ってきた。

「師よ。ここは大広間(アパダーナ)*11ですぞ。休まれるなら居室にしていただきたい」

「いや、ここが良いのだよ」

 ふた周りも年下の男に向かって、老人は臆面もなく言った。

「中心だからな。風も良く通る」

 その手に嵌められているのは、古くて邪悪な代物だった。男はそれを胡散臭そうに眺めた。老人はしかし、自慢げにそれをもたげた。

「【魔将軍の両腕(ヘル・ジェネラルズ・ハンズ)】といってな。手に入れるのには苦労した。武装としては役立たずだが、込められている魔法はそう悪くない」

 そう呟くと、老人は軽く手を打ち合わせて宣言した。

「《コール・デヴィル・ギーガナイト》」

 黒い煙が溢れ出した。

 それをかき分けて出てきたのは、悍ましい真っ黒な巨人だ。兜の隙間から虫のような、節のある足がうぞうぞと覗いている。【剣王】は何がなんだか分からずに呻いた。

 そして、次の瞬間には悪魔の剣で脳天をかち割られていた。

 青銅色の鎧がひしゃげ、ぐあんと音を立てて落ちる。

「消費がないのは素晴らしいが、この【両腕】は回数制限があるのでな。使いきりなのだ。かつての【魔将軍】が造ったものだそうだが、ま、召喚術は素人の私にも悪魔が呼べるのだから、贅沢は言うまい」

 死体に向かって老人はそう言った。黒曜石から削り出されたような、粘つく黒の籠手の右腕には白い星の模様が描いてあったが、彫り刻まれたその一つが今まさに、薄れて消えていくところだった。それに、この召喚は長持ちしない。

 悪魔は両手剣を片手持ちにしながら、急かすように唸った。老人は渋々立ち上がった。

「分かっている、まったく。せっかちな奴だ。前の妻そっくりだな、離婚して正解だった。君、結婚はしとるかな?あんなもの、するもんじゃない」

 死体に向かってそう吐き捨てると、老人はゆっくりと階段を登った。その上にはあの姫君が蒼白な顔で立ち尽くしていた。

「おや。いかがされましたかな、殿下」

「ブルート師、貴方の……貴方のそれは」

「悪魔ですよ、殿下。この私は悪魔召喚術(サタニズム)には門外漢ですがね」

 老人は陰険な笑みを浮かべた。

「先王陛下は残念でしたな。彼は聡明な我が友でした。とはいえ、ヘルマイネにはあの我慢ならないサリオンや、愚図のランヴォールめがおるのです。この私、バルーベル・ブルートを差し置いてあんな奴らが出世しているのはどうも神経に障る。ご存じですか、沈みゆく船からは鼠が真っ先に逃げ出すそうですよ」

 いわんや、と老人は続けた。

「魔法使いをや、ですな。そこで私もヘルマイネに移ることと決めたのです。あれは東方との交易でかなり潤っている。隊商都市群も残らずあちらにつくそうだ。ですから、ま、この砂丘都市ヴァレイラ、砂漠の白き花と称えられた白亜の街も亡ぶ。そうなると、貴女の首くらいは手土産にして有効活用したくなるわけです」

 老人と悪魔はゆっくり、ゆっくりと階段を登りながら告げた。

 

「血の巡りの悪い女め。お前はもう、王女でも何でも無くなるのだよ!」

 

 そのとき、王宮の大扉が音を立てて開いた。老人は舌打ちした。

「兵どもか」

 確かに、雑兵たちがどかどかと入り込んできたのだ。老人はさっと左腕を上げると、そこに刻まれた星々の文様を一つ消した。

「《コール・デヴィル・レジメンツ》」

 黒い雲とともに、雲霞のごとく悪魔が溢れ出した。

 痩せぎすで腹だけが膨れ、白痴の顔を浮かべた小さな悪魔たちだった。衆寡敵せずとはよく言ったものだ。兵たちが一体を刺し殺すうちに、何十体がその背を、腹を齧る。

「“質”の右腕と“量”の左腕ですよ。雑兵には数で上回る雑兵を当てる。その点、殿下、貴女は光栄に思うべきだ。伝説級の悪魔に殺してもらえるなど、めったにできることではない。ですが、しばらくは見物するとしましょうか?この悪趣味な舞踏会をね」

 悪魔の軍勢にすり潰されていく家来たちを見て、王女は悲鳴をあげた。恐怖の呪縛から解き放たれたように、慌てて逃げていく。老人はつまらなさそうに言った。

「やれやれだな。捕まえろ。ただし殺すでないぞ。私が始末をつける」

 老人は“質”のほうの悪魔に命じた。

「手ずから殺さなくてはリソースが無駄になるからな。そら、行くのだ」

 老人はそう悪魔を追いやってから、自分も階段を過ぎ越し、宮殿の回廊を渡った。

「どこへ行こうというのですかな?」

 古びた指輪を口元に当て、彼は言った。その声は不自然に拡大され、響き渡った。

「貴女を守る剣も、盾も、肉親も、そして魔法使いも。もういないというのに。誰一人貴女を守る者はいない。それでもなお逃げるというのは、些か頭の悪い行いではないかね?」

 美しい純白の空中回廊を、王女が走り抜け、悪魔が滑らかに歩き、そして足取りの遅い老人がそれを追う。

「さあ、逃げ場がなくなりますな、どんどんと」

 王女は叫びながら、やがて白亜の塔へと追い詰められていった。ヴァレイラの空中庭園と称えられた宮殿の上の庭が、悪魔に踏み荒らされて壊れていく。彼女は塔を登り、そして尖塔の切っ先にとうとう辿り着いてしまった。

「身投げはよしていただきたいですな」 

 老人は疲れたようすで、王女に向かって言った。

「人間というのはね、最上の糧なのですよ。けだものや悪魔などとは質が違う。桁が違う。さあ、我が力の一部となるがいい、哀れな女」

 老人は杖を掲げた。その先に赤い光が灯った。

「この程度の火で足るだろう?温室育ちの姫君など、簡単に仕留められる!」

 

 そして、庭園が崩壊した。

 老人はやっとのことで崩れ行く回廊にしがみつき、それをやったのが誰か、見てとった。

「まさか、そんな」

 老人はつぶやいた。

「何ということだ」

 少年と“ジン”は、老人と悪魔を見つめた。

 瓦礫の中から立ち上がった恐ろしげな悪魔がしかし、薄れて消えていく。召喚術の時間を過ぎたのだ。一人きりになった老人はもはや憎悪のまなざしで少年を見た。

「なぜ生きとる。お前が生きているはずがない。我が術で焼き尽くした、それは確かだ」

「貴方が愚かで助かりました」

 少年は挑発した。

「臆病者なら、あるいは賢人ならば、死体を確かめ、首を刎ねたはずです。だがあなたはただの愚か者、老いぼれた年寄りに過ぎない。だから僕が生きていることに気づかなかった。傲慢で、独り善がりだから」

「黙れ小僧」

 少年は黙り込んだ。命令だったからだ。老人はそれに気づいて、“取り消し”の仕草をした。

「そうだな、貴様をどうにかすることなど容易い。奴隷だ。命じればいいのだから……しかし、それは屈辱だ」

 老人は真っ赤な顔でそう唸った。

「それがわかっとるから貴様もここへのこのこ出てきたのだろう?癪に障ることだ。いいだろう、乗ってやろうではないか。我が最大火力の術で消し炭どころか、灰すら遺さず消してくれよう」

「貴方を倒さなければ、僕は本当の意味で自由になれない」

「戯れ言を」

 老人は絶叫して激昂した。

 杖をさしあげる。その先端の紅玉(ルビー)が粉々に割れた。

 

「“天象よ”」

 《詠唱》が始まった。

「“楕円形の真昼・方形の車輪・無人の宮殿に据えられし赤の玉座”」

 老人は壊れた杖の先と、刺し殺しそうなほど鋭い眼差しを、少年とジンとに向けた。

「“降臨せしは、汝の傷痕を負うもの”」

 炎が浮かび上がる。それは辺りを逆巻き、渦巻き、あっというまに呑み込んだ。

 

「《焦土(デストロイ)》」

 

 凄まじい熱が一帯を包みこんだ。白いはずの石が赤熱して煙を上げている。少年と、ジンと、王女のほうへ、焔の波が打ち寄せてくる。【炎王】の奥義魔法だ。少年はごくりとつばを呑み込んだ。その強力さは、今まで読んだ色々な書物に記してあった。

 けれどもジンは涼しい顔で言った。

『大したことはない。あれは“器”の術式を使っているだけだよ』

 老人に聞こえるように、ジンは大声で喚いた。

『しかし明らかに広域殲滅用の術を、こともあろうに我々二人に使うというのはね、些か無造作が過ぎる。無駄が多いどころの騒ぎじゃあないな』

 老人は仏頂面で立っていた。怒り心頭は通り越して、もはや見かけは冷静ですらあったのだ。

「ならば打ち破ってみせろ」

 老人は吐き捨てた。その唾は即座に蒸発した。

「碌なリソースもない【魔術師】のお前が、なにをどうするのか見せてみるがいい。さあ!」

 

 少年は息を吸い込んだ。呼吸するだけで喉が焼けそうなほどの熱気だった。炎の余波だけでそれなのだ。あれがここまで来たなら、勝ち目はあるまい。 

「……僕は、ずっとあなたの奴隷だった」

 少年は言った。

「買われたからじゃない。幼い頃はあなたに怯えていたんだ、ご主人様。恐ろしくてしょうがなかった。心に鎖をつけられていた」

 あえて昔の呼び方で少年はそう告げた。そう呼ばなくなったのはいつからだったか、老人は気づきもしなかったのだろう。

「でも違う。たとえ命令に縛られていても、僕の心はずっと自由だった。ジンが教えてくれたからだ。そうだろ?君は知識をくれた。奴隷の僕が所有できて誰にも奪えない財産をくれた。立ち上がることの強さを教わった。君は僕を僕にしてくれたんだ。名前をつけてくれた」

 少年は叫んだ。

 

「僕はサン・ラズバーン。偉大なる火の魔法使いだ!」

 

「ほざけ、愚か者めが」

 老人もほえ立てた。少年はなおも咆哮した。

「僕は太陽(サン)だ。夜を昼にする空の火だ。君に出会うまで、僕はずっと無知の暗闇のなかにいた。そこに太陽を灯してくれたのは、君だ。僕の中には太陽がある。たとえ誰が僕を支配していても、僕の中の太陽は決して消えることがない!」

 

 少年の手のなかに火が生まれた。

『いやはや、中々いい《詠唱》だったよ』

 ジンがぐるぐると回転しながら、そのなかに入っていく。膨れ上がった火炎がぎらぎらと輝き、鮮やかな色とりどりの火がぶつかり合っては弾けた。

「まさか」

 老人は瞬きをした。

「実験体のリソースを用いて……我が“器”の出力に対抗しようというのか。理論上は確かに……しかしそれには深い同調が必要なはずだ。従魔師系統でもない、精霊術師系統でもないお前に、そんな高度な技が使えるはずが」

 老人はわめいた。

「エレメンタルを“器”の代用にしようだなどと」

『できるさ。他ならぬこの私が許しているのだから』

 ジンは天に浮かび上がりながら言った。

『この私の構成要素は彼の魔力だ。なにより技術のほどは折り紙付きだよ。私が保証しよう。ま、人間などあなたと彼しか知らないがね』

 炎はもはや、そこだけが真昼になったかのように眩い。

『天才だよ、彼は。実に教え甲斐があった』

 少年の手が動く。その火は……小さな太陽は、焦土を蹴散らしながら老人めがけて天を奔った。少年が太陽の名前をさけぶ。

 

「《恒星(フィックスド・スター)》」

 

 老獪な魔術師はそれに込められたリソースのほど、なによりその熱量を即座に理解した。これに比べれば自分の奥義はまるで、火をその辺に散らかして捨てているのと同じだ。だが、太陽は圧縮されている。天の星と同じになるほどに、火は燃え盛っている。

「くそっ、おい、“やめろ”!」

 老人はプライドをかなぐり捨てて怒鳴った。

「“術を解除しろ”、このくだらない奴隷め!お前なぞ、お前の手わざなど、この私が命令すれば簡単に止められる程度の――」

『だめだな』

 太陽になったジンが言った。

『どうせそれをやるだろうと思ったよ。だが彼に命令を下すことはできても、私にはできまい。もはや私は()()ジン、彼の太陽なのだから』

 老人は怒りの感情に任せ、魔法をぐいっと引っ張り込んだ。辺りからかき集められた炎が太陽に抗ってぶつかり合う。

 

「ジン」

 少年は焼けた石の上によろめきながら呼んだ。

「だめだ、そんなのはだめだ!」

 ジンが何をしようとしているのか、術式を組み上げた自分だからこそよく分かった。少年はジンの中のリソースを使って魔法を組み上げた。だがその制御が少年の手を離れた今、崩壊するはずのそれを保ち続けるというのは――

『君こそ考えが甘い。あれが素直に真っ向勝負を続けてくれるはずがないだろう』

 ジンは太陽の中心で叫んだ。

『それにさっき言ったろう。君、なんだかんだ正解だったよ』

 

 ――僕が最高の魔法を作る。それを見てみたくはない?

 

 少年はさっき、王宮の庭でそう言ったのだ。

『君の魔法は最高だ。あらゆる火属性魔法の知識があるこの私が言うんだから間違いない。君はこの世界で最高の、最強の火を生み出したのだ』

 ジンはくつくつ笑った。

『満足だ。ああ、満足だとも。狭っ苦しい硝子瓶から解き放たれ、こうして至高の魔法が生まれる瞬間にも立ち会えたのだから。なに、君の話に乗ったとき、はじめからこうするつもりだった。まったく君は人をたらしこむのがうまいよ、ラズバーン!』

 ジンはぐるりと老人に向き直った。

『聞こえたかね【炎王】バルーベル・ブルート。貴様は終わりだ。“私”のリソースのすべてを熱量に変換して魔法に上乗せする。そのかろうじて相殺している防御もいよいよ吹き飛ぶぞ。さあお互い、派手に燃え上がろうじゃないか』

 老人は絶望の叫びをあげ、少年に向かって自害の命令を叫んだ。けれど、それは届かなかった。膨れ上がった真っ赤な太陽が、老人とジンと宮殿を呑み込んだからだ。だから少年の声も、もうそれを聞くべき誰かには、永遠に届かなかった。

 

 ◆

 

 夜明けだ。

 少年はすっかり冷めた白亜の石から腰を上げ、砕け散ったその道を歩いた。瞳は乾いていた。魔法を放ってからどうしていたのか、あまり覚えていない。

「ジン」

 呼んでみたが、誰も答えなかった。老人の骸は灰すら残らずに消えていた。自分は勝ったのだ。薄く広がっていた老人の魔法に対して、自分とジンの太陽は一点を貫いた。だが、そんな勝利の歓びもなぜだかあまり感じられなかった。

 

 少年は砂漠の地平線を見、そこから昇り始めた“太陽(サン)”に目をやった。

 ジンの声が聞こえた気がした。何をやってる?ぐずぐずしてる場合か?英雄になりたいんだろう?

 

 白亜の尖塔はすでに崩れかけていたが、もう一人が足をかけても耐えられるくらいには頑丈に作られていた。少年は螺旋のような階段を登り、一歩一歩塔を上がっていった。

 懐にはあのガラスの破片が残っていた。少年はそれを見つめ、塔の中腹からおもむろに投げ棄てた。ガラス片は放物線を描いて落ちていく。その計算方法も、すでに教わっている。

 

 ヴァレイラの姫は、どこにも焼け焦げひとつなく、ただ自分の身を掻き抱いて縮こまっていた。

「来ないで」

 彼女は叫んだ。

「来ないでったら」

 少年は塔の上でまだおびえている王女に近づくと、そっと跪き、右手を差し出した。礼儀作法は、ジンが教えてくれていた。

「殿下、参りましょう。ここは危険です」

 王女は首を振って拒否した。少年は辛抱強く、言葉を続けた。

「大丈夫。私は味方です。あの悪しき魔術師も、私が斃したのですから」

 それは王女にもなんとなく解っていたらしい。躊躇いながらも、ペベレク王女は戸惑ったように小さく尋ねた。もたげた顔のまなじりには、涙が溜まっている。

「あの……あなたは一体、何者なのです?」

 そうか。そう問うのも無理はない。少年は咳払いをした。

「失礼いたしました。まず名乗るべきでしたね。私は――」

 

 太陽が昇った。鋭い曙光が夜の闇を吹き飛ばし、朝の緋色を空へとぶちまける。まるで、灰のなかの埋火(うずみび)が風を得て燃え盛るように。

 

「――私は、偉大なる火の魔法使い。サン・ラズバーンと申します」

 

 ◆

 

 それからラズバーンは六十数年生きた。諸国に名を挙げ、二人の妻を娶り、恐ろしい怪物を何匹も退治し、数々の偉大な業績を打ち立てた。その子らもまた代々、偉大なるラズバーンの名を継いで偉大なる火の魔法使いとなった。けれどもこれは別の物語、いつかまた、別の時に話すことにしよう。

 

 End

*1
板状の粘板岩。

*2
布に孔を開けた服。古代ローマのものが有名。

*3
隊商。隊列を組んだ商人の一団。

*4
壁をくぼませて空間を作ったもの。

*5
本を燃やすこと。

*6
ギョリュウ科の樹種。よく乾燥に耐える。材は硬い。

*7
日本ではいわゆる元服に相当する。

*8
フェイズシフト。熱力学では物質の三態の変化を指す。

*9
砂の砂漠。対して石礫でできた砂漠をレグという。

*10
レンズが一つしかない眼鏡。

*11
柱のある謁見のための広間。


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