井芹仁菜の鏡像は何を見る?   作:鏡合わせ

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救済的センチリズム

 ──私の名前は椿。

 ──朱鷺乃椿(ときのつばき)、16歳。

 

 

 

 

 誰も居ない、薄暗い部屋の中を今日もまた書き記すことを始める。 

 今日のタイトルは『救済的センチリズム』

 

 川崎に来たときのことは今でも記憶に新しい。

 何度もメモした、今だって私はこうして進み出したペンが止まらない。早く、あのときのことを思い出したくて吐きそうになる。

 

 

 

 

 至って普通の女子高生になるはずだった。

 違う、「だった」なんてくだらない虚構に縋る弱虫が使う奴の言葉そのものだ。

 

 私には未練なんて存在しない。

 景色と自然だけは鮮やかで綺麗なのに、人の感情だけは雑巾から絞られたカスそのものだ。私はバケツに残った汚い部分に成り下がるつもりはない。私は望んであの街から出たんだ。

 

 未来を譲りたくなかったから、自分が正しいって信じたかったから。 

 この手は汚れていない、雑巾すら触れていない。だから、私は川崎に来た。川崎の治安は終わってる。終わってるからこそ、誰も私のことなんて気にしない。同調圧力すらかけて来るなんてこともない。

 

 

 

 

 掴み取った未来の先で、出会うことが出来た。

 あれはもう奇跡としか言いようがない。

 

 

 

 

 ──偶々、出会えた歌声。

 一瞬にしてこの心を掻き荒らしてくれた。

 

 

 

 人々の足音という社畜の喧騒が耳から消え去った。

 耳に入って来た声に意識を奪われて、心臓が喜ぶ。鼓膜が張り裂けそうだった。自分の心臓をがっちりと掴まれた。

 

 頭が覚醒する、目がはっきり開く……。

 鼓膜には電撃が流れたみたいにビリビリとした感覚がある。全てを支配するようなこの歌声という力を好きになりそうだった。

 

 

 ああ、これだ。

 この心臓を洗濯機みたいにぐちゃぐちゃにしてくれるものがずっと欲しかった。気になる、気になって頭を掻きたくなる。歌っている人はどんな人なんだろうって……。誰なんだろう?という好奇心が私の脳内を支配する。無意識に視線を向けようとしたときに、更に私を立ち止まらせる勇気を与えてしまう。

 

『嘘……』

 

 声を漏らしそうになってしまう。

 立っていたのは、私と年齢が変わらないぐらいの人だった。

 

 もし、彼女が単なるただの素人だったとしたら、紛れもなくオアシスの水を自分の手で掬い上げたようなものだった。

 

 

 

 

 心が歓喜の産声を上げてしょうがなかったんだ。

 

 

 

 

 何故なら、私が求めていたのはあの日以来欲していたものがあった。

 かつて、鼓膜に繋いでいたケーブルは切断されていたはずだったのに……。繋がろうとしていた見限ったオワコンバンドのケーブルが別のケーブルに繋がろうとしていたんだ。

 

 舞い戻って来たんだ。

 熱く蘇る心に私は瞳を奪われる。

 

 ライブという熱き会場を見続けてしまう。

 今度は二つ結びの女性以外に意識を向けようとしたとき、思わず二度見をしてしまう人がいた。

 

 

 

 

『え?』

 

 胸がぎゅっと苦しくなる。

 今にも腰を抜かしそうになっていた。なんで、誰も気づかないんだろう。

 

 

 人違いだから……?

 それとも、こんなところでこの人がまさかギターを弾いているなんて誰も想像していないから?違う、気のせいじゃない。私は言い聞かせる自分に今目の前に居るのは桃香さんで間違いないって……。

 

 二つ結びの女性の歌声に惹かれたのもきっと偶然じゃなかった。

 

 

 

 ああ、よかった。

 音楽を辞めた訳じゃなかったんだ。あの人は今でも続けていたんだ。

 

 泣き出しそうな足を私は走らせて、その場を立ち去ってしまう。

 自分が此処まで感情を動かされたのは久々過ぎて、個室トイレに籠る。

 

 壁に寄りかかって、どうしようもなく押し寄せて来る感情を抑え込むことができなかった。

 

 

 前にも一度だけこういうことがあった。

 昔のダイヤモンドダストの「空の箱」を聴いたとき、今聴きたかったこの曲はこの歌だってなれた。自分の脳のアドレナリンが、活性化されてこの歌のおかげで背中を押されていることが多かった。まさか、また背中を押されるときが来るなんて考えてもいなかった。

 

 白くて透明のものを抑え込もうとはせず、自分の感情に従って流し続ける。

 今日という忘れないために、自分のためにも。あの二人のことも……。

 

 

 耳にイヤホンを掛けて、あの曲を聴くことにする。

 自分の感傷に浸る為に、今日これから始まるバイトを最高の高揚感でやり遂げる。覚悟を決めて立ち上がって、私はトイレから出る。もう今日は此処に来ることはないと、外へと向かう。静まり返った街にじゃない、騒がしい街へと出ることにした。

 

 

 

 

 

 

 これが私と……。

 井芹さんの初めての出会いだった。

 

 教えてくれた。

 単なる一歩通行でしかないのに、私は井芹さんの歌声に救われていたんだ。私にとって井芹さんは……。

 

 

 

 

 救世主そのものだった。あれこそがロックそのものだったんだ。

 私の心臓を支配してくれて、背中を思いっきり押してくれた。

 

『ギター弾けません!!』

 

 弾けないのに、自信満々の姿で立っている。

 あの姿こそが、私に貴方は譲らなくていい、正しいことをしたと教えてくれていた。自分の運命という呪いを解呪して、楔を打ち消してくれた存在そのものだった。

 

 何度でも言う。

 私の選択が"間違ってなかった"って背中を押してくれている井芹さんの歌声が好きで好きで仕方なかった。

 

 

 

 

 

「いつもいつも馬鹿みたい……」

 

 終わった後に、ボールペンを勢いよく転がす。

 こんなものを書いたところで誰かに見せるわけでもない。見せられる相手も居ないのに、いつも同じものの更新と自問自答を繰り返している。

 

 まるで、私自身に後悔があるみたいでうんざりする。

 正座で座っていた私はチロルチョコを一つ食べてから、スマホに触れる。

 

「井芹さんのライブ、21時からだっけ……」

 

 もう時間は20時だ。

 そろそろ出かける準備をしよう。井芹さんのライブに遅れるようなことがあれば、それは死を意味する。手に取ったスマホで私は音楽アプリを開いて、井芹さんの「運命の華」を指で触れようとしているのに触れることが出来ない。

 

「チッ……」

 

 舌打ちをしてしまう。

 いつまで引き摺ってんだ、馬鹿。私が悪いだけだろ。過去の傷に触れないように自分を殺す。

 

 

 震えている指を無理矢理動かす。

 何処の知らない馬の骨の知らない曲をタップしそうになっていた。

 

 

 「運命の華」を聴くことで、集中力を高めてから……。

 

 

 

 

 

 騒がしくてどうしようもない川崎の街へと出ることにする。

 井芹さんのライブという最高の時間を楽しむために……。今日は話せるといいななんてくだらない期待を藻掻きながらも……。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 夜の静けさが広がっている。

 さっきまで路上ライブをしていたなんて嘘みたいな話だ。ルパさんが物販の販売を終えて今は背伸びをしている。智ちゃんはそそくさに片付けを済ませている。すばるちゃんはお客さん達と会話をしている、猫を被って……。桃香さんは次の日程を確認しながらも、今日のお客さんの出入りを確認していた。

 

「桃香さん、今日の路上ライブ大勢来ましたね!」

 

 事務所を抜けてからこうして路上ライブやライブハウスでライブをする日々がこれからも続いて行くことになるのかもしれない。不安が無かったわけじゃない。三浦さんや中田さん、事務所には迷惑を掛けたかもしれないけど、私たちは自分で選んだバンドの未来を……。

 

「ああ、みたいだな」

 

 腰に手を当てながらも、いつも通りにしている桃香さん。

 まるでこうなることは予想していたみたいで私はちょっとだけ面白くなくて口を尖がらせてしまう。

 

「みたいだなって嬉しくないですか?桃香さん?」

 

「そりゃあ、嬉しいに決まってるだろ?お客さんが、大勢いるってことはそれだけ私達のバンドに興味を示してくれる奴がいるってことだからな」

 

「仁菜は浮かれ過ぎよ」

 

「むぅ?智ちゃんは嬉しくないの?」

 

 首を傾げて「嬉しくないの?」って言う。

 一足先に路上ライブでの片づけを終えた智ちゃん。

 

「いい?今、私達のことを見に来ている奴らの中で本当にトゲトゲを応援したいって鳴っている奴らがどれだけ居ると思うの?」

 

 智ちゃんが指を私に付きつけて、浮かれすぎだから!まで言われて私は「うっ」と喉を締め付けられたみたいな声が出そうになる。

 

「そ、そりゃあまあ……」

 

「ちょっと考えれば当たり前じゃない、ダイヤモンドダストに挑んだ馬鹿なバンドの実力はどんなもんかって見物しに来た奴らばっかりってことよ」

 

「そ、それはそうなんだけど……」

 

 今にも膝から崩れ落ちそうになる。

 確かに言われてみれば、今日見に来てくれた人達は純粋にトゲナシトゲアリを応援しに来てくれたって感じはなかった。なんかこう珍しいものを見るって言うかそんな感じはあった。

 

「お芝居とかでも悪役とか変化球の方が目立つって奴か」

 

 お客さんとの会話を終えたすばるちゃんは納得を示している。

 

「私は好きですよ?そういうタイプ」

 

 ルパさんはそれに同調するようにして話を乗っかると、すばるちゃんは渇いた笑みを浮かべる。

 

「も、もしかして私だけぬか喜びしてたってこと?」

 

 考えてみたら、終わった後みんな平然としていたしなんとなく気付いていたのかも。

 確かに、運命の華の一件もあって、ダイダスの対バンもあった。

 結果だけ見ればどう見てもボロ負けで私達が私達である為にやったあのバンドを私は間違ってなかったと思っている。ヒナがダイヤモンドダストが好きだったことも思い出せたことも……そう。それが巡りに巡りにあって、最初の頃のくまモンみたいな扱いを受けるなんて聞いてないよ。

 

「そう落ち込むなって、さっき見に来てた観客の中にもトゲトゲいいなってなってくれた奴もいるかもしれないだろ?」

 

「それは……そうですけど」

 

 どうにも誤魔化されてる。

 見物客しか居なかったって言われた後に、励まされるようなことを言われても何も言えなくなってしまう。折角、爪跡残して頑張ろうってなれたのに……。

 

 

 

 

「あ、あの……!!」

 

 意気消沈していると、誰かが話しかけて来ていた。

 ファンの人かな……?それとも、事務所のスカウトとか?

 

「ん……?」

 

 銀髪の女の子が私達に話しかけてきている。

 綺麗な髪……。トリートメントとか使ってるのかな……。

 

「井芹……井芹仁菜さんですよね!?」

 

「え?」

 

「よかったじゃないか、早速お前のファンが出来たみたいだぞ」

 

 桃香さんが「ほら、見ろ」って背中を押してくれる。

 なのに、他の皆は……。

 

「え?仁菜の?」

 

 一番真っ先に半信半疑な顔をしているすばるちゃん、

 

「仁菜のファン?」

 

 目を細めている智ちゃん。

 

「なんだか面白そうなことになりそうですね」

 

 何処か面白そうにしているルパさん。

 何故か私のファンだと言い切ってくれたのに、全く信用されていない。わ、私だってファンぐらいはいるし、いや……いたことあったっけ。いなかったような……。

 

「私のファン……?」

 

「は、はい!!実は……そうなんです!!」

 

 銀髪の子は礼儀正しく頭を下げてくれる。

 いきなり話しかけられて私はファンという単語に驚きと動揺を隠せなかった。周りで広がる足音の喧騒なんて気にならないほどだった。

 

「そ、その……言いたかったことがあって……!」

 

「え?うん、いいよ」

 

「ありがとうございます!運命の華なんですけど、トゲトゲの界隈だと売れ線目指して逃げた、不義理だ。とかいつものトゲトゲじゃないって色々ボロクソ叩かれていますし、再生回数もそんなに回ってなくて……あっでも!私だけで多分もう1000回ぐらいは再生してて」

 

「1000回……」

 

 再生回数の話をされて昔、桃香さんに似たようなことを言ったのを思い出す。

 

『私だけで1000回ぐらいは再生していると思いますけど』

 

 初めて出会ったあのときのことを……。

 もう昔のことのようにも、最近のことのようにも思える。それと同時にこの子の言っていることがなんとなく善意で言ってくれているんだってことも分かっていた。こんなにも自分と似た言葉を言われることになるなんてまるで巡り巡って自分にそういう機会がやって来たのかもしれないなんてすら考えていた。ちょっぴりこう複雑な気分ではあるけど……。自分と似てるファンってのは……。

 

「それでも私にとってあの歌は一歩前に進んだって感じがする曲なんです!」

 

「だから、私は嫌いじゃないって伝えたかったんです!こんなことを言うと気持ち悪いかもしれないんですけど、私もあの曲を聴いて、前を向いて行こう。井芹さんをもっと応援したいってなれたんです!」

 

「あ、ありがとう……」

 

 運命の華……。

 全然気持ち悪くなんてなんかなく、寧ろ、嬉しかった。

 

 ちゃんと褒めてくれた。

 いつもエゴサをしてもネガティブな投稿ばっかり気になって仕方なくて、最近は桃香さんからエゴサをするなって禁止されていたけど、こうやってちゃんと応援してくれている子も居たんだって気づけて、肩の力が抜けていく……。

 

「お、お礼言われちゃった……!い、いや……こちらこそ全然ありがとうございます!!」

 

 顔を真っ赤にさせて、私に何度もお辞儀をしてくれている。

 何処か、桃香さんと初めて出会った頃の自分を思い出す。頬を掻いてなんとかこの恥ずかしさと懐かしさから逃れたくなる。

 

「あ、あの……もう一つ伝えたい事があって……」

 

「伝えたいこと……?」

 

 なんだろう……?

 これからも応援していますとか私の歌の何処かに感動してくれたとかそういうことを言ってくれるのかな。あんまりこういうのに慣れてなくて、ちょっぴり期待してしまう自分が居る。

 

「は、はい!!あ、あの……そのですね……!」

 

 ファンの子が人差し指と人差し指をくっつけている。

 顔はかなり赤くなってる。なにを言われるのかな?って待っていると……思わぬ返事がすぐに返って来て固まることになってしまう。

 

 

 

 

 

 

「これからもダイヤモンドダストなんて偽物ゴミバンドに絶対に負けないでください!!」

 

「…………え?ゴミ?」

 

「はい、ゴミです!」

 

 自信満々で言われて二度も言われて心のざわつきが木々の揺れみたいになる。

 違う、分かってる。この子はきっと私の純粋なファンだ。私個人のファンなんて珍しい。すばるちゃんとかルパさんみたいなのが人気が出るのなんて当たり前だから、私はちょっぴり期待していた。さっきの運命の華を1000回ぐらい聴いてくれたみたいな内容を……。

 

 なんて返せばいいのか分からなくなる。

 今此処で肯定をすればヒナを否定することになる。対バン以来、偶に連絡を寄越すようになったヒナ。和解はまだ出来てないけど、否定も肯定も此処では出来ない。だからこそ、私は困り果てて桃香さんの方へと視線を向けてしまう。

 

「あ、あの桃香さん……」

 

 助け船を出してくれるかもしれないそんな淡い期待を抱いて、視線を向けたものの……。

 桃香さんの表情が明らかに笑っている。嘘、このタイミングで!?信じられない……!

 

「な、なんで笑っているんですか桃香さん!!?」

 

 ちょっとイラっときて、口を大きく広げて声にする。

 

「よかったな、仁菜そのものじゃないか」

 

「どういう意味ですか!?」

 

「言葉通りだよ、昔の仁菜はこういう奴だったろ?」

 

 桃香さんの方は腕を組んで表情を変えることなく、口元は緩ませているだけだった。

 瞳には何処か私との出会いのことを懐かしんでいるように見えて違う意味で恥ずかしくなる。

 

「否定できないこと言わないでくださいよ!?」

 

 自分で思うのと、桃香さんから言われるのとじゃ全然違う。

 こうも他人事みたいに「よかったな」なんて言い方をされると、何も言えなくなってしまう。

 

「すばるちゃん!?」

 

 桃香さんから視線を変えて、すばるちゃんの方へと向けるとお腹を抱えて笑っている。

 すばるちゃんはすばるちゃんは全く信じられない。こっちは真面目にファンの子と向き合おうってなれていたのに……!

 

「いや、笑うなって方が無理でしょ!?仁菜が二人!?やばい、考えただけで笑いが止まらない……!!一人だけでも面倒くさいのに!」

 

「酷いよ、すばるちゃん!後で覚えておいてよね!」

 

 人がファンの子と話している隣で桃香さん達は笑っている。

 ルパさんも小さく笑っていて、唯一智ちゃんだけが溜め息を吐いている。やっぱり、智ちゃんだけが私のことを理解してくれてるなんて思っていたけど、なんか私に冷たい視線を向けていて違うかも……しれない。

 

 にしても……この子に関して真剣に悩んでいるの私だけなの!!?

 ヒナのこともあって私は素直にお礼を言うべきなのか、ちゃんと言ってあげるべきなのか悩んでいるのにみんな大体笑ってる。こんな状況、絶対おかしいよ!!私は真剣にファンの子のことで悩んでいるのに……!!人間っていつもそうだ!!自分のことじゃなくなると、知らないふりして!桃香さん達なんて知らない!!

 

 

 

 

「あ、あの井芹さん?」

 

 みんなで話をしていると、ファンの子が視線が泳ぎ始めていた。

 やばい、ファンへの応答が悪いとか思われるのもそれはそれでなんか凄く嫌だから。ちゃんと受け答えしないと……でもど、どうすれば……。あっ、そうだ。

 

 

 

「あ、あーえっと……そのこれからも……」

 

 

 

 

「トゲトゲをよろしく……ね?」

 

 ほとんど逃げに近い言葉になってしまった。

 ヒナのことを下げたくないし、かと言ってファンの子を下げたくなかった。結果的にこうなってしまったけど良かったんだろうか……。私は悩みに悩んでいると……。

 

 

 

 

「は、はい!!それは勿論!!」

 

 う~ん、どうなのかな。

 

 

 

 

 

 この子、昔の自分に似すぎていて辛くなるって言うか……。

 古い鏡ってこういうことを言うことを言うんだろうけど、今こうやって純粋な善意を突き付けられると私も桃香さんにこんなことしていたのかなんて頭を抱えそうになる。勿論、私は私なりの信念があって全部ぶちまけていたわけだけど、この子もそう……なのかな?憧れの人の前だから、声を掛けたかったとか一言言いたかったこととかそういうことなのかな……。

 

 

 だったら、これはやっぱり言った方がいいよね。

 

 

 

 

 

「えっと、名前聞いてもいい……かな?」

 

「あ、朱鷺乃椿です!!」

 

「椿ちゃんか……ちょっと待ってて」

 

 名前を聞かれたこと、『椿ちゃん』と呼ばれていたことで椿ちゃんは今にも身体を飛び跳ねそうなぐらいの笑みを浮かべてた。私はちょっとした紙にあるものを描き始めた。こういうものを描くことなんてほとんどなかったのに、私はほぼ初体験の行動にワクワクしている自分がいる。

 

「桃香さん、私間違ってないですよね?」

 

 描いていると、桃香さんが私の肩に手を置いてくれていた。

 まるでそれはお前のやっていることは間違ってない、一人のボーカリストとして立派な行動だって言ってくれている。自分の行動を肯定して貰えて、私は嬉しくなりながらも椿ちゃんにあるものを見せる。

 

「え?あ、あの……いいんですか!?」

 

 私が描いていたのはサインだった。

 小さな紙に描いたサインを私は椿ちゃんに渡そうとしていた。私のファンだって言ってくれたこと、ダイダスはゴミって言ってくれたことも全部複雑だった。

 

「うん、いいよ」

 

 複雑だったけど、井芹仁菜のファンだって言われたことが嬉しくなかったなんて嘘になる。

 だから、私はその一歩を噛み締めるために椿ちゃんにサインを渡そうとしていた。

 

「あ、ありがとうございます!これからも……ダイダスなんて腐ったゴミに負けないでください!」

 

 どう咀嚼すればいいのか、迷ってしまう。

 自分も桃香さんに此処までダイダスはゴミなんて口にしたことは……あったと思う。それは紛れもなく、事実で今こうして絡み合った糸みたいな感情になってるのはヒナとのこともあって、どう反応すればいいのか分からない。

 

 

 

 それでも、サインを渡してあげたことは間違ってなんかないと地面にしっかりと足をつける。桃香さんに背中を押されたからじゃない。何故なら、あの再生回数が数百回しか最初はされなかった曲を……。

 

 

 

 椿ちゃんは運命の華を誉めてくれた。

 事務所を抜け出した私たちの道をこれからも私たちは私たちを貫くと言う事実を直視できたって言う意味では……。

 

 

 

 

 充分だった。

 

 

 

 

 

 

 

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