井芹仁菜の鏡像は何を見る? 作:鏡合わせ
命をくれよ……。
この楽曲の作詞は、椿ちゃんがきっかけそのものだった。椿ちゃんとの出会いが作ってくれたもので、彼女というファンと出会った結果、私はこの楽曲を作り上げることが出来た。
改めて、これまでの自分を整理した。
此処までやって来た私を再認識することが出来た。椿ちゃんと私は違うけど、目を瞑っても同じだって言える部分はある。私が桃香さんから背中を押して貰ったと感じている。椿ちゃんの背中を押したのは私だった。
違いはあると思う。
どういう感情だったとか、どういう背中の押され方をされたとか……。人それぞれ、抱える背景は違うから。でも、同じことには変わりない。私達は誰かの支えがあるから、胸を張ってあり続けられる。
私が桃香さんとバンドをしていること。
椿ちゃんが立ち向かう為の勇気と決意をもって、此処に来てくれたことは何も変わり無い、結果として残り続ける。
事実だから。
そうだよね、椿ちゃん。
「井芹さん……!」
居ても立っても居られなかった。
ライブを終えて、すぐに井芹さんの下へと飛び出してしまった。後片付けとかあるだろうに、私はそんなの無視して声を掛けてしまったんだ。
「椿ちゃん、どうだった?」
井芹さんが反応を示してくれる。今にも泣きそうなのを堪える。
ぐしゃっとした顔で精一杯な気持ちを伝えるために頭を下げる。
「ありがとうございました……」
ああ、ダメだ。
本人の前では泣かないと決めていたはずだった。観客として見ている分には泣いているのはいいこと。ライブに感動したということになるから。でも、今こうして本人の目の前で泣くことは恥ずかしい、惨めとすら感じていた。抑えることはできない、貴方に救われたから、此処まで決断と本人に見せてしまう。
出ることは一生ないと信じていた。蕎麦屋という一生出ることが出来ないと確信していた。
その私の居場所から、一歩出る為の行動を示してくれたのは井芹さん自身だった。助けてくれた訳じゃない、私が勝手に導いてくれていたと信じているだけに過ぎないはずだった。
それでも……。
「ありがとうございました……!」
足を後ろへと下げる。
二度目の感謝の言葉を言い切る。
「それでは……!!」
一歩ずつ、背を向けて走り出す。
私が言えることなんてのは、今はこれだけでいい。井芹さんへの想いは後で幾らでも言える、私が今最もすべきなのは──。
蕎麦屋『朱鷺乃』へ戻ることだった。
「はぁ……はぁ……」
また呼吸が荒くなる。
ライブへ行くときも、店に戻って来るときも同じようなことばかりをしている。まるで自分の人生そのものだと自虐をしながらも、私自身の未来を笑えるものだと変換するため。
「お父さん、戻って来たよ」
入るまでの重さなんてなかった。
店裏のドアノブに触れることへの恐怖心なんてない。勿論、他の店員から何かを言われるかもしれないなんて不安はなかった訳じゃない。なかった訳じゃないけど、私は容赦なく入った。
「もう終わったのか?」
「路上ライブだからさ、そんな長い時間やれないんだよね」
今回は急ということもあって、二、三曲だった。
それでも、井芹さんらしい最高のライブを見せてくれていた。
「って……そっちじゃないよね、話をしなくてよかったのか?ってことでしょ?今は……いい」
「今は……お父さんと話をしたい」
井芹さんとの会話も勿論、大事。
私を支えてくれているのは井芹さんという存在。もっと話しておきたかったことがあるのは事実。けれども、此処に真っ先に此処に戻って来たのは私という人間がお父さんからしたら、どういう存在だったのか知りたいから。
「そうか……」
お父さんは包丁を置いて、語り始めようとする。
語ろうとする姿勢の中でお父さんを止めようとする者はいない。寧ろ、誰もが息を呑んで待っていたかもしれない。
「最初に言っておく……」
「お前は店を継がなくていい」
私の表情がまるで動かない、店の中で店員たちが「え?」という反応をしていたのに気づけなかった。いつもの私なら、これ以上お店のことを考えなくて済む。あんな店を継ぐなんて最初から誰がするかよと中指を突き付けて清々していたはず。
「どうして?」
資格がないから?蕎麦屋としての心構えを何も持っていないから?
それとも、無理に引き継いでほしくないから?どちらとも取れる、両方の発言の中で私は言葉の鎌をかけてしまって、反応を待ち続けていると……。
「母さんに言われたことを思い出したんだ。あいつは、いつだってお前のことを心配していた。小さい頃から、お前はこの店を絶対に継がなくちゃいけないと考えていた。固定された概念の中で生き続けていた」
「あいつは、何れお前が反発するときがくる。そのときが来れば、否定せず受け入れてやれと言っていた」
「そっか……」
溜め息すら出そうなほど消え入りそうな声、捻くれてる。
お母さんがいつも私のことを心配してくれていた。将来、お店を継ぐんだという話をいつもしていると「貴方は貴方の将来を考えなさい」と言ってくれたのは母だった。
「お母さんに言われたからなんだね」
お父さんがどんな話をしてくれるのか、どんなことを語ってくれるのか期待していた私が馬鹿みたいだった。期待という足枷を自分にして、失望をするなんてアホみたいな話だけど話をしようとようやく言われたのに、期待するなというのが無理がある。
「半分はそうだ、だが此処からは俺の言葉だ」
「椿、お前は神奈川に居る間どうだった?自分が全く知らない世界の中で生き続けるというのは溺れそうだったか?都会という世界の中で生き続けるのは大変だったか?」
「快適だったよ」
軽井沢と言う場所を真っ二つに否定することになる。
隠し通すことすらせず、真っ直ぐに伝えながらも私はもう一つ伝える。
「不満もあった、慣れ親しんだ場所じゃないからね。慌ただしい毎日だったけど、悪い毎日じゃなかった。少なくともより、此処よりは……。私の背中を押してくれた人もいた、井芹さんが医者になって助けてくれた訳じゃないけどさ……私は」
「何かから得て、何かを学ぶのは凄い大事なことだと思う」
随分歩いて来た感想だからこそ私は言える。
突発的な行動で、大家さんに迷惑を掛けて毎日騒がしい中で生き続けていた。毎日、日記を付けることで私という人間を暗示することでこれが正しいと信じ続けさせた。バッグの中に入っているノートはさっきまでの私には開けることが出来ない過去だけど、今の私にはきっと開くことができる。
「得て、学ぶか……」
「井芹さん、私にとって処方箋をくれた人だった。勝手にくれたと思っているだけに過ぎないけど、私はこれでいいと信じさせてくれた。また此処に引き戻されたけど、今は後悔していない」
「私の未来はまだ確約されてない、譲らなくていいから」
「信じれるから」
思うとか、気がするとかじゃない。
断言できる。私はこれでいいと渇いた泉はもうない。存在しているのは、渇きを癒すための生温い泉。私の喉に癒すにはこれぐらいがちょうどよかった。
「だから、お父さん私から言いたいこともある」
「此処に戻って来ることはないかもしれない、私にとっての未来が分かれたとき戻って来るかもしれない。今の私にとって、軽井沢は窮屈の居場所じゃない。自然が溢れていて、ゴミ溜めみたいな人の多さだけどさ嫌いじゃなかったんだよね」
「この街は」
自然が好きだ。
変わらないで残り続けているこの街の空気感が好きだ。嫌いだったのは人なだけで私はこの街が嫌いだった訳じゃない。最初からそうだった。
なによりも、私にとってこの場所は──。
「行ってきます!お父さん!!」
「ああ、行ってこい……」
「椿……」
居場所の一つになれていた。
何も変わらない、私を跡取りとして見て来る視線は変わることはない。それでいい、重要なのはお父さんが最後の最後には私を支える言葉を投げてくれたこと。一番重要なことだった。飾らない言葉で伝えてくれていたからこそ、私は周りの声なんてもう聞こえていなかった。
未来なんて分からない。
でも、確約されていない。
「乗ってく?」
軽井沢駅。
荷物を持って、私は川崎に帰ろうとしたときだった。
井芹さんは待っていてくれていた。
クラクションを鳴らしたのは桃香さんだった。私は大きな声でこう返事をする。
「はい!!」
未来は閉ざされてなんていなかった。
だから、言わせてほしい。
また会えたね未来。